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質疑応答221

【質問】


 最近の清森問答では、因果の道理や善悪についての説明が多いように思いますが、これと浄土真宗の教えは、どのような関係があるのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人の教えを正しく理解するために、大切なことだと思うので取り上げさせて頂いています。

 もちろん、親鸞聖人の書かれたものだけを勉強すれば良いという考え方もあると思います。

 それを否定するつもりはありませんが、そのためには仏教の言葉の意味を知らねばなりません。



 例えば、親鸞聖人の書かれたものには、「善」とか「悪」という言葉が非常にたくさん出てきます。ここでいう善や悪の意味は、私たちが一般的に使う善悪とは全く意味が違います。

 もし、善とか悪という言葉の意味を誤解したまま、親鸞聖人の御著書を読んだならば、何百回読んだとしても、親鸞聖人の教えを誤解するだけになってしまいます。

 また、浄土真宗は、「浄土」に生まれることが目的ですが、仏教で「浄らか」とはどういう意味かを正しく知らなければ、目的さえ間違っていることになります。ところが、仏教でいう「浄らか」の意味は、一般的な意味とは全く異なります。



 善悪の意味を知るためには、因果の道理の理解は不可欠ですし、浄土の意味を知るためには、煩悩について理解しなければなりません。

 こういった基本的なことを学ばずに、一般常識的な言葉の理解で、「善もほしからず、悪もおそれず」とか、「浄土に生まれたい」と言っているとすれば、非常に危険です。



 普通、浄土真宗を学んでいる人は、このような仏教の知識は、知った上で勉強しておられると思うので、必要ないことかも知れませんが、特に親鸞会では、仏教の基礎の部分から間違って教えられています。

 親鸞会で学んだような「因果の道理」や「善悪」の理解では、親鸞聖人の書かれたものを読んでも誤解するだけですので、そういう人のためには、仏教の基本的な言葉の意味から説明する必要があると思っています。

 ですから、仏教学については十分知っているという方は、親鸞聖人の書かれたものだけ読まれても良いと思いますし、私の書いた記事などは、読み飛ばして頂いても結構です。
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質疑応答220

【質問】


 親鸞会公式サイトのマンガのところに、本太郎を主人公にしたマンガが出ています。
 内容の低俗さにあきれますが、感想をきかせていただきたいです。
 清森様の回答は、すっきりしていて分かりやすいのでぜひ聞いてみたいのです。
 K.K.Kの一人は清森様のつもりだと思います。(華光、清森、近藤)
 別の質問に答えられている最中の質問で失礼とは思いますが、よろしくお願いします。

http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic35.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic37.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic39.htm



【回答】


 最近の親鸞会では、このようなものを公開しているのですか。元講師として恥ずかしいですね。

 K.K.Kの一人が私を指しているのかは分かりませんが、もちろんこのようなことは教えたことがありませんし、華光会や近藤さんも、こんなことは教えていないと思います。
 おそらく、有りもしない批判をデッチ上げ、親鸞会を批判する者たちは、こんなおかしなことを教えているのだと印象づけたいのでしょう。



 仏教は善を勧められた宗教ですが、善を勧められている理由は信心決定のためではありません。信心決定するために善に励んでいるとすれば、それは阿弥陀仏の御心に反する善ですので、雑行と言われます。

 では、親鸞会の人は、何のために善をしているのでしょうか?
 親鸞会で勧められている善といえば、具体的には、「破邪顕正」や「御報謝(御布施)」ということになると思いますが、ほとんどの会員は「後生の一大事の解決のために」という気持ちで励んでいます。
 そもそも、講師部員が「後生の一大事の解決のための御縁」と言って勧めているのですから、そうなって当然です。

 親鸞会では、「信心決定」=「後生の一大事の解決」と教えているのですから、信心決定するために善に励んでいる人ばかりということになります。
 建前上は「善で助かるとは言っていない」「聞く一つで救われると教えている」と主張したところで、講師部員や会員の現状がこうなのですから、説得力がありません。



 さて、マンガの中に、親鸞会の勧める善は19願の善だから、18願の救いに遇うために必要だという内容が書いてありました。
 前にも書いたように、19願は、臨終の救いを願って善をすることが勧められていますから、18願の救いに遇いたいと思って励む善を「19願の善」とは言いません。ですから、方便にさえならないということです。

 親鸞会では18願と19願を、意図的にゴチャマゼにして、結果的に地獄の恐怖を利用して、金集めや人集めをさせているだけのように思われます。



 本来、善というものは、それが善だと分かったら、せずにおれないものです。「絶対の幸福」というエサをぶらさげたり、「必堕無間」で脅さなければやる気の起きないようなものを、善とは言いません。そういう動機でやっていること自体、善ではない証拠です。

 親鸞会が批判されているのは、善を勧めているからではなく、仏教でいう悪ばかりをやっているからだということに、早く気付いていただきたいものです。

質疑応答219

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】

 今回は、「布施」を行うときの心がけについて説明します。
 布施とは、広く周りの人に施しをしていくことです。ですから、特定の人に施しをする供養とは異なります。

 布施をする目的は、執着の心から離れることです。
 私たちは、自分の持っているお金や物などに執着しています。分かりやすく言えば、「これは私のもの」と思いこんでいるのです。

 しかし真理から言えば、この世のすべての物は、一時的に自分のそばにあるだけであって、やがて必ず離れていくものです。決して「私のもの」ではありません。
 私たちは、この真理が分からないために、お金や財産を求めて争ったり、失っては悲しんだりして、苦しみが絶えないのだと教えられています。



 では、どのようにすれば、この執着から離れることができるのでしょうか。無理やりお金や財産を失わせれば、この真理が理解できるのでしょうか。
 そうではありません。お金や財産が離れていったという事実を受け入れられず、ますます執着を起こして掻き集めようとするだけです。

 ですから仏教では、自発的にお金や物を周りの人に分け与えることによって、これが「自分のもの」ではないことを、少しずつ悟らせていくのです。



 この布施を行うときには、次の3つを忘れなければならないと教えられています。これを三輪空と言います。

①施者(私が)
②受者(誰に)
③施物(何を)

 私が、誰に、何を与えたかを覚えているということは、いつまでも「自分のもの」だと思っている証拠です。これでは執着を離れていませんから、布施になりません。
 それどころか、相手がお礼を言ってくれなかったり、喜んでくれなかったりすると、とたんに腹が立ち、煩悩を起こしてしまいます。つまり悪になってしまうのです。

 この三輪空を実践するためのポイントは、一度に多くの布施をしない、ということです。一度にする布施の額(量)が多いほど、「これだけ施した」という気持ちを強くなりますので、三輪空の実践が難しくなります。

 また、いつでも、どんな人にでも施すのが布施ですので、一度に多くの布施をしていたら、あっという間に破産してしまいます。習慣として、常に心がけて実践していくのが布施ですから、一回一回の布施は少なくて良いのです。



 布施を実践することは、常に周りの人にも心を掛けるということであり、自分のことしか考えない我利我利亡者から脱却することにもなります。施す金品は、その心配りを形に表したものですから、額(量)の大小は問題ではありません。お金や物が無い場合は、温かい言葉を掛ける、手伝いをするなどの行動でも布施になります。

 逆に、布施を受ける人は、たとえそれが少なかったとしても、心配りに感謝して、有難く受け取らなければなりません。そうやって、お互いに良い人間関係を築いていくことができるのです。


 また、布施に心掛けていくと、わずかな施しでも、なかなか三輪空の実践のできない自分であると知らされます。それだけ執着の強い、苦しみの深い自分だからこそ、より真剣に仏法を聞かずにおれないのです。

質疑応答218

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】

 今回は、「有漏善」を行うときの心がけについて説明します。

「有漏善」といっても、「有漏善」という名前の善があるわけではありません。仏教で教えられる善を、煩悩具足の私たちが行うと、有漏善になってしまうということです。

 仏教で教えられる善には、いろいろありますが、特にその中でも重要な「供養」と「布施」について説明します。



「供養」とは、「供えて養う」と書きますが、狭い意味では仏や仏弟子に食物などを捧げて、その生活を支えることを言います。
「布施」は、広く他人に対して金品や仏法を施すことです。
 供養は相手を特定するのに対し、布施は相手を選ばないことが大きな違いです。



 まず「供養」ですが、仏や仏弟子は、一般の職業に就いていませんから、食物などの施しを受けなければ生活することはできず、当然布教もできません。
 ですから、仏の教えを受けたい人は、その生活を支えるために供養をしていました。

 仏や菩薩は、供養して下さった方に心が掛かりますので、当時の人たちは競って供養をしたのです。
 供養した人に心が掛かるというと不公平に思う人もあるかも知れませんが、仏教は「恩」の宗教です。生活を支えてもらい、恩のある人が苦しんでいるときに、その人を放って他人のところへ行くような恩知らずではいけません。

 例えば、韋提希夫人が王舎城で苦しんでいるときに、釈尊が説法に行かれていますが、苦しんでいる人は世界中にいくらでもいるのに、なぜ韋提希夫人一人のために王舎城に行かれたのでしょうか?
 これは、韋提希夫人が仏弟子に供養していたため、釈尊や仏弟子との関係が強かったためだと考えられます。



 このように、「供養」の性質としては、「他人のため」というより「自分のため」です。ですから、「恩知らず」には供養してはいけません。供養に値する人でなければ供養したつもりでも、善にはならないのです。

 仏教では、供養するに相応しい人を「応供」と言います。仏や菩薩である必要はありませんが、非常に高い徳を備えた人です。供養を受けたからには、その人の御恩に応える必要がありますから、誰でも彼でも供養を受けるわけにはいきません。たとえ仏様であっても、相手を平等に扱うことは出来ないのです。

 すべての人から供養を受け、すべての人を平等に救うことができる人のことを「大応供」と言います。ご存じの通り、阿弥陀仏の別名です。

 世間では「平等思想」というのがあり、どんな人でも平等に扱わなければならないと言われますが、それが実行できるのは阿弥陀仏だけです。私たちには、相手に対して平等に心を掛けることは出来ませんので、御恩のある人に心を掛けていくことが大切なのです。



 さて、仏や仏弟子のいない環境にある人は、供養はできないのでしょうか。広い意味では、徳のある人に施しをすることは、供養になります。徳のある人とは、恩を感じる心のある人です。

 人間の徳には個人差がありますから、徳の少ない人に、たくさんの供養をしてしまうと、期待したほど心を掛けてもらえず、怒りに変わってしまう可能性があります。相手に応じた、適度な供養に心がけることが大切です。



「布施」については次回説明させて頂きます。

質疑応答217

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】


 今回は、「有漏善」と「無漏善」の違いについて説明します。

 仏教で「漏」とは煩悩を表しますので、煩悩の雑じる善を「有漏善」、煩悩の雑じらない善を「無漏善」と言います。
 私たちは「有漏善」を行うことはできますが、「無漏善」を行うことは出来ません。

「有漏善」は、私たちの我が付いていますので、相手から認めてもらえないと怒りや執着心といった煩悩を起こしてしまい、悪になってしまいます。ですから、五濁悪世の世の中では、この有漏善によって仏になることは非常に難しいと説かれています。


●菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。(教行信証行巻)


 親鸞聖人は、五濁無仏の世の中において、自らの善によって仏を目指すことを「難行道」と仰っています。逆に言いますと、仏や菩薩に囲まれたような環境であれば、怒りを起こすような縁もありませんので、有漏善でも仏になることは理論上は可能です。

 一方、無漏善はどんな環境でも煩悩に染まりませんから、無漏善を行うことができれば、やがて必ず仏になることができます。具体的には、阿弥陀仏の本願力によってなさしめられる善、いわゆる他力念仏は無漏善ですので、阿弥陀仏に救われた人はやがて仏になることができると説かれているのです。



 浄土真宗で、一般的に「私たちには善が出来ない」と言われるのは、「無漏善は出来ない」という意味です。有漏善が出来ないという意味ではありません。
 私たちが思っているような善は、すべて有漏善ですから、そういう意味では「善はできる」というのが正しいです。

 親鸞会では、「善に励んだ者にしか、善の出来ないことは知らされない」と言って善を勧めています。もし、この理屈が正しいならば、「無漏善」を勧めなければなりません。
「無漏善」とは煩悩に染まらない善ですから、目標を与えたり、財施額や成果によって評価したり表彰するというのは論外です。

 繰り返しになりますが、「有漏善」は実行可能な善なのですから、私たちの生活において心がけていくのは大切なことです。具体的な心がけについては、次回説明させて頂きます。

質疑応答216

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】


 今回は「出世間善」について説明します。

「出世間善」は、「大乗善」と「小乗善」に分けられます。
 これは、大乗仏教から見た言い方ですが、浄土真宗は大乗仏教ですので、大乗仏教の立場から説明いたします。



 この2つは、一言で言えば、目的が違います。「小乗善」は苦しみから離れるために、「大乗善」は仏になるために必要です。

 仏にならなければ苦しみは無くならないのだから、同じではないかと思う方もあるかも知れませんが、そうではありません。

 確かに、苦しみから完全に離れ切るには、仏になる必要がありますが、少なくとも私たちが現在感じているような苦しみは、仏にならなくても解決することが出来ます。そういう苦しみから離れるための善が「小乗善」だと理解したら良いでしょう。



 以前にも書きましたが、仏様とは医者のようなものです。医者は、その知識によって、病気の苦しみを取り除いてあげることができます。

 仏様は、智恵によって私たちの苦しみを取り除いて下さいます。その苦しみを取り除くための方法として勧められるのが小乗善です。ですから、小乗善を実践することによって、今の苦しみから逃れることができます。

 しかし、病気が治ったからといって、医者になれるわけではありません。同じように、小乗善をいくら実践しても仏にはなれないのです。



 さて、野口英世は医者に左手を治してもらったことに感激し、医者を目指すようになったと言われていますが、仏様によって苦しみを取り除いてもらった人が、「私も仏様のように人々を助けてあげたい」という心を起こすことを菩提心と言います。

 そのためには、医者が医学を身に付けるように、仏の智恵を身に付けなければなりません。私たちは煩悩によって真理が見えなくなりますので、煩悩を滅するための行として「大乗善」が必要になってくるのです。

 ですから、今の苦しみから逃れたいだけであれば、「大乗善」をやる必要はありません。「小乗善」だけで十分であり、実践も可能です。



 菩提心を起こした人は、仏になるまで「大乗善」を実践していかねばなりませんが、私たちは途中で投げ出してしまうため、自力では仏になれないと言われます。

 しかし、阿弥陀仏のお力によって菩提心が起きた人は、途中で脱落することなく仏になるまで進ませて頂くことができると説かれています。それが二河白道の譬えなのです。

「大乗善」の中の「有漏善」と「無漏善」の違いについては、後日説明いたします。

質疑応答215

【質問】

 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 2通りといった場合、いくつかの分け方が考えられます。
 まず、仏教では、善を大きく「世間善」と「出世間善」の2つに分類しています。
「出世間善」の中に「大乗善」と「小乗善」があります。
 さらに「大乗善」は、「有漏善」と「無漏善」に分けられます。

 今回は、「世間善」と「出世間善」の違いから説明いたします。
「世間善」とは、世の中をうまく渡っていくための善という意味で、世福とも言われます。
 私たちは普段、色々な人と接していますが、その間には一般的な「礼儀」や「常識」というものが存在します。これを守っていかなければ、まともな社会生活を送ることはできません。
 そのような世間的に善と言われるものを実践していきなさい、という教えです。

 これは、仏教でいうところの真理ではありませんので、時代や場所によっても変わります。その時、その場所に応じた善悪を弁えていかねばなりません。
 しかし、このような善悪の基準は、人によっても違いますので、何かとトラブルになりがちです。

 このような時は、お釈迦様は世福として「父母孝養、師長奉事」と説かれていますので、親や年長者を立てることが大事です。
 仏教から見れば、年長者の言うことが、必ずしも正しいという訳ではありません。しかし、人間関係を円滑に進めるには、どちらかが譲歩しなければなりませんし、年長者が譲歩するのは難しいことですので、年少者が譲ることを勧められています。

 親鸞会では、世の中の常識というものを余りにも軽視しすぎでした。その結果、周りの人たちから白い目で見られ、相手にされず、教えも伝えられないという悪循環に陥っていたと思います。(教えが間違っていたので、結果的には良かったですが)

 お釈迦様は、世間善も大事だと教えていかれましたので、心がけて実践していきましょう。
「出世間善」については、後日説明させて頂きます。

質疑応答214

【質問】


 学友部時代の友人が退会を迷っている人がいるのですが、今までの人間関係が切れるのが不安なようです。どのように話せば良いでしょうか。



【回答】


 同じような悩みを持っている会員は、非常に多いと思います。
 私自身、振り返っても、親鸞会にいたときは、親鸞会以外に友人がほとんどいない、という状態でした。
 特に学友部では、親鸞会サークル以外に友人を作らせないように指導していましたから、親鸞会をやめると友人がいなくなってしまうと不安になるのも理解できます。

 しかし、考えてみてください。
 親鸞会をやめただけで、関係が切れてしまうような人を、果たして友人と呼べるのでしょうか?
 お釈迦様は、本当に困っているときに助けてくれるのが友人であると説かれています。親鸞会をやめたくらいで人間関係が切れてしまうような人は、最初から友人では無かったのです。

 そういう意味では、親鸞会をやめたからといって友人が減るわけではありません。友人だと思っていた人が、実は友人では無かったと分かるだけです。
 ですから、早く本当の友人を増やせるよう、努めるべきだと思います。

 親鸞会でも、特に幹部をやっているような人は、非会員の知人を、入会ノルマ達成のための数字でしか見れなくなる傾向があると思います。そして、成果に結び付かないような人付き合いを、時間の無駄と考えるようになります。

 このような利害打算の環境では、友人を作ることはできません。
 早く親鸞会を離れたほうが、人間関係が広がることを教えてあげてください。

質疑応答213

【質問】


 親鸞会講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」では、二河白道を以下のように解説しています。

 以前の清森問答で、親鸞会の二河白道の解釈はおかしいと書いてありましたが、どのように思われますでしょうか?


> それを善導大師は二河白道の譬えで、
> 白道を進む旅人が、
> 両側から押し寄せる水火の波に
> 畏れると教えられている。
>
> 旅人に西へ向かえと勧める
> 釈迦の教えに従い、
> 真摯に進めば進むほど、
> 欲や怒りの水火の難はいよいよ逆巻く。
> 水火の大河に堕ちはせぬかと畏れる旅人が、
> 三定死に立って、
> 堕ちるに間違いなしと知らされた時、
> 西岸上から「畏れるな」の
> 弥陀の呼び声を聞くのである。




【回答】


 善導大師が教えられた「二河白道の譬」では、親鸞聖人が教行信証に引用されているように、弥陀の呼び声を聞いてから白道を進み始めます。

 親鸞会で説かれる「二河白道の譬」では、白道を進んでいった後に、弥陀の呼び声を聞きます。

 順番が、まったく違います。
 なぜ、このような違いが生じたのでしょうか。

 私の推測ですが、「信心決定するために善をしなければならない」という親鸞会の教えを正当化するためだと思います。



●白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。(愚禿鈔)


 これは愚禿鈔のお言葉ですが、ここに書かれているように、白道とは六度万行だから、信心決定するまで六度万行に励まなければならないのだ、ということを親鸞会で聞いたことがあります。

 しかし、この解釈には問題があります。
 このお言葉は、「白道」を「白」と「道」に分けて解説されています。

「白」とは「黒」に対する言葉であり、
「白」=六度万行・定散善、「黒」=六趣等の悪道

「道」とは「路」に対する言葉であり、
「路」=自力小善、(書かれていませんが、当然「道」=他力)



 つまり、白道が自力ということは有りえません。
「19願の善」に励むことが白道を進むことになる、などという解釈は成り立たないのです。



 当然、善導大師の譬えも、呼び声を聞いてから白道を進み始めるわけなのですが、親鸞会にとっては、大変都合の悪い話です。

 ですから、親鸞会に都合の良いように、教行信証の内容を改竄(かいざん)して説法で話しているのです。



 最近、大阪地検の検事が、証拠を改竄したとして大変な問題になっています。普通は、検事が証拠を改竄しているなどとは思いませんから、騙されてしまうと思います。

 親鸞会の会員も、まさかお聖教の根拠が改竄されて説法されているなどどは、夢にも思わないでしょう。私も、会員のときは騙されてしまっていました。


 親鸞会で教えていることは、基本的に「改竄かもしれない」と疑って、原典や仏教書を調べ直す必要があると思います。

質疑応答212

【質問】


 親鸞会の学友部長の立場にある講師に、「死んだら必堕無間ではなく、六道輪廻するのでは?」と質問したところ、「六道輪廻するうちに、必ず無間地獄にも堕ちる。だから長いスパンで見れば、必堕無間なのだ」と答えました。
 このような言い方は今まで聞いたことが無かったのですが、正しいのでしょうか。



【回答】


 そのような教え方は、親鸞会に20年以上いましたが、一度も聞いたことがありません。もし、そのように教えているとすれば、親鸞会の教義が変更されたということになります。

 例えば、「こんなことが知りたい1」には、

> 生死の一大事とは、どんなことかといゝますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。

と書かれてあります。



 もし学友部の責任者の講師の言うことが正しいのであれば、「一息切れると同時に」と説いてきたことは間違いだったということですから、訂正しなければなりません。

 親鸞会の教義において、最も重要な教えである「後生の一大事」の意味が間違っていたのですから、大変なことです。
 高森先生は「一言でも間違えたら、腹を切ってお詫びする」と言っていたのですから、腹を切らなくても良いですけど、せめてお詫びくらいすべきです。

 しかし、そのようなお詫びがあったという話は、聞いたことがありませんから、こっそり修正したのかも知れません。



 それとも、学友部長が勝手に言っているのでしょうか?

 だとすれば、親鸞会の教義を曲げて教えているのですから、発覚したら除名ものですね。



 いずれにしましても、仏教は、六道輪廻すれば必ず無間地獄にも堕ちるという教えではありません。

 唯識では、その人の業によって世界が生み出されると説かれていますから、どんな世界に生まれるかは業次第ということになります。

 ここでいう「世界」とは、この世のどこかに、そのような場所があるという意味ではなく、業相と言われて、心の状態を譬えたものです。

 ですから、地面を掘っていったら地獄が用意してあり、そこに生まれるということではありません。



 つまり、肉体は人間でも、苦しみのドン底にいる人は、すでに地獄に堕ちていると言っても良いでしょう。

 芸能界などを見れば、一時の天上界で楽しそうに見える人もありますが、天上界の寿命が尽きるときは悲惨なもので、仏説まことの知らされます。

 この世が地獄の人は、地獄の業なのですから、死んで生まれ変わっても地獄に生まれます。ただし、先程も書きましたように、地獄という場所が用意されているわけではありませんので、自分の心が生み出す世界です。

 もしかしたら、肉体はまた人間に生まれるのかも知れません。仮にそうだとしても、地獄の業の人は、また地獄の苦しみを味わわなければならない、ということになります。

 五逆謗法の業の人は、死ぬのを待つまでもなく、現在から無間地獄の苦しみを味わっているはずです。死ぬまで苦しみの発生が猶予される、ということはないのです。


 私たちの煩悩というのは、この業を変えないように働きますので、阿弥陀仏のお力に依らない限り、大きく変化することはありません。(阿弥陀仏のお力には悪業を善業に転じ変える働きがありますので、六道から出離することができます。)

 ですから、五逆謗法の人でない限り、輪廻していけば必ず無間地獄に堕ちるとは言えないのです。



 ここまで読んで、「なんだ、今は苦しくないから、仏教なんて聞く必要はないや」と思った方もあるかも知れません。

 しかし、仏教では、このように考えているから、苦しみから抜け出せないのだと説かれています。

 私たちが、親鸞会の会員を見ると、「なんて可哀そうなんだ、不毛な活動をさせられ、財産をしぼり取られ、早く助けてあげたい。」と思います。しかし、当の本人たちは、自分たちが悲惨な状態にあることを全く自覚していません。だからこそ、抜け出すことができないのです。

 実は、仏様から私たちを見ると、まったく同じ状況なのです。苦しみの程度に差はありますが、皆、六道という世界で苦しんでいます。ところが苦しみの世界であると思わずに、もっと六道におりたいと思っています。

 このように思わせる働きを煩悩と言いますので、煩悩具足の私たちは六道を出離することができないと言われるのです。
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