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質疑応答136

【質問】


利他の信楽うる人は
願に相応するゆえに
教と仏語にしたがえば
外の雑縁さらになし

のご和讃を聞かせて頂くと、

「願に相応した」=「利他の信楽をえた」
「教にしたがった」=「利他の信楽をえた」
「仏語にしたがった」=「利他の信楽をえた」
と理解できます。

「願」とは「弥陀の十八願」だと思いますが、
親鸞聖人がこのご和讃で、弥陀の十八願に誓われて
いる通りになったことを『利他の信楽をえた』と
表現しておられます。

つまり、

"十八願は「信楽の身にしてみせる」という誓いだからこそ、
「願に相応」したことを「利他の信楽うる」と仰った"

と理解できると思うのです。

言葉をかえて言うと、

"「願に相応」したことを「利他の信楽うる」と仰ったのは、
十八願は「信楽の身にしてみせる」という誓いだからである"

と理解できるということです。

ということは、十八願のメインは、「極楽に生まれさせること」
ではなく、「信楽をえさせること」と理解して宜しいのでしょうか?

十八願を「至心信楽の願」ということからも、十八願のメインは
『信楽の身に、心を生まれさせること』だと思うのですが
如何でしょうか?



【回答】


 親鸞聖人は、18願を以下のように解説されています。

●「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)


 親鸞聖人が、18願の解説をされた御文は幾つもありますが、ずべて「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と仰っています。「信楽にさせる誓い」と仰っている所は一箇所もありません。

 つまり、浄土に生まれる条件は、「信楽をえる」ということです。


●利他の信楽うる人は
 願に相応するゆえに

 ですから、上記の文章は、「利他の信楽をえた人は、18願の浄土に生まれる条件に相応しているゆえに、(浄土往生に障りは無い)」という意味になります。

※「雑縁が無い」とは、「雑縁が浄土往生の障りとならない」という意味です。



 逆に言いますと、

●利他の信楽をえていない人は
 願に相応しないゆえに

 これは、「信楽をえていない人は、18願の浄土に生まれる条件に相応しないので、(雑縁が障りで浄土往生できない)」という意味になります。


 19願「至心発願の願」
   =至心発願した人を、浄土往生させるという誓い

 20願「至心回向の願」
   =至心回向した人を、浄土往生させるという誓い

ということを考えても、

 18願「至心信楽の願」
   =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い

であることは明白であり、『至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ』と、親鸞聖人が仰った通りです。

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COMMENTS

失礼ながら・・・

もし、清森さんの説が正しいのなら、親鸞聖人は、どうして教行信証の証巻に、11願の開説をされたのでしょうか。

11願は、正定聚の位に住する人を、必ず浄土往生させてみせる、という正覚をかけた弥陀の誓いです。

清森説が正しいのなら、「至心信楽を獲た人」について、18願で浄土往生を誓われ、11願でも浄土往生を誓うという、重複するようなことをされたことになりますが、これは弥陀のミスか?

教行信証には、浄土往生のことは、証巻のみに開説され、信巻においては開説されていませんが、これは親鸞聖人のミスか?

信巻は、18願、至心信楽の願の開説です。

信巻において、浄土往生のことを開説されずに、浄土往生を11願の受け持ちとされた親鸞聖人の真意は何か?

清森さんの説明で、果たして、親鸞聖人のみ教えが正しく明らかにされているのでしょうか。

失礼ながら、清森さんには、教行信証のご教示が判っておられないのではないかと思います。

大変失礼ですが

●「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)



・ もし、尊号真像銘文が正しいのなら、親鸞聖人は、どうして教行信証の証巻に、11願の開説をされたのでしょうか。

11願は、正定聚の位に住する人を、必ず浄土往生させてみせる、という正覚をかけた弥陀の誓いです。

尊号真像銘文が正しいのなら、「至心信楽を獲た人」について、18願で浄土往生を誓われ、11願でも浄土往生を誓うという、重複するようなことをされたことになりますが、これは弥陀のミスか?

教行信証には、浄土往生のことは、証巻のみに開説され、信巻においては開説されていませんが、これは親鸞聖人のミスか?

信巻は、18願、至心信楽の願の開説です。

信巻において、浄土往生のことを開説されずに、浄土往生を11願の受け持ちとされた親鸞聖人の真意は何か?

尊号真像銘文の説明で、果たして、親鸞聖人のみ教えが正しく明らかにされているのでしょうか。

失礼ながら、尊号真像銘文の著者には、教行信証のご教示が判っておられないのではないかと思います。

追伸

>失礼ながら、尊号真像銘文の著者には、教行信証のご教示が判っておられないのではないかと思います。

尊号真像銘文の著者は、親鸞聖人です。

老婆心ながら・・・

ひらめさんへ

要するに、尊号真像銘文は、親鸞聖人のが、ご自身の教えのすべてを書き残されたお聖教ではない、ということです。

親鸞聖人に限らず、古今東西を通じて言えることだと思いますが、著書を書くには、書く目的があるのです。

まして、お聖教です。

教行信証には、教行信証を書かれた目的があり、尊号真像銘文には、尊号真像銘文を書かれた目的が、親鸞聖人には、あられたのです。

目的が異なれば、同じ人でも、書く内容が異なることはあり得ます。

教行信証と尊号真像銘文の場合は、そのケースであるということです。

親鸞聖人のみ教えを知るには、まず、教行信証をしっかりと学ばなければなりません。その上で、他のお聖教を拝読しなければ、結局、何も判らないでしょう。

ご自分で学ぶ力がないならば、教行信証を土台にして教えてくださる方から、教えて頂くことです。教行信証を無視して、聖人の教えを語る人からは聞かない方がよいでしょう。

歎異抄は親鸞聖人の書かれたものではありませんが、教行信証のご教示を踏まえて拝読すれば、浄土真宗のお聖教になりますが、教行信証の教えを知らずに歎異抄を拝読すると、カミソリに切られて親鸞聖人の教えを誤解させることになるのに例えられるかもしれません。

老婆心ながら申し上げます。

訂正

>要するに、尊号真像銘文は、親鸞聖人のが、

「要するに、尊号真像銘文は、親鸞聖人が、」に訂正します。

つまり

親●会ドグマ>親鸞聖人著『尊号真像銘文』

こういうことなんですね。

結論出てるやん!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-6.html

* * * * *

「若不生者」の解釈は、『尊号真像銘文』読んだら一発でわかりますやんね~(笑)。

<以下引用>
『尊号真像銘文』の冒頭に、親鸞聖人が本願文36字全部を解釈された文章があります。田中氏が引用したのは一部分ですが、全部を読めば一層鮮明に本願文の意味が分かります。七高僧・覚如上人・蓮如上人の御聖教も含め、36字全部を解釈された文章というのはこれしか見当たりません。(実際、検索してみました。)

「親鸞学徒」ならば、この親鸞聖人のお言葉を完全無欠な解釈と受け止めるべきであり、もしここに書かれていない内容を勝手に導くなら、その時点でその人は「親鸞学徒」でないことを肝に銘じるべきでしょう。
--------------------------------------------------
  『大無量寿経』に言わく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」文

  「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときという御ことばなり。「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切のみなもれず往生すべし、としらせんとなり。
投稿 Z | 2008年7月 7日 (月) 10時05分


某所で、ポンコツロボコンが脊髄反射してたけど、
ドグマに抵触するからって、親鸞聖人の言葉を批判するとは、
冷静な僕ちゃんもビックラこきましたで(苦笑)。

ヤ●さんの発言に注目!晒し者です(笑)
 ↓
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/2008_76_2340_1fbf.html


親切に解説してくださった方がいたんで、それを以下に掲載しときまっせ~。
さて、件のロボコンは、次はこれにどんな脊髄反射をするんでしょうかね~(笑)。

<以下引用>
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!


おっと

ヤ●さんご本人でしたか!

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