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質疑応答134

【質問】


「十方三世ノ无量慧 オナジク一如ニ乗ジテゾ

 二智円満道平等 摂化随縁不思議ナリ」(真宗聖典P.225)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】

 大宇宙の諸仏方も、同じ阿弥陀仏の智慧を頂いて、大宇宙を貫く真理をさとり、そして、それが、どのように形となって現れているのか、という智慧を体得し、衆生済度は思うままにできるのは、不思議なことである。



【質問】


「彌陀ノ浄土ニ帰シヌレバ スナハチ諸佛ニ帰スルナリ

 一心ヲモチテ一佛ヲ ホムルハ無碍人ヲホムルナリ」(真宗聖典P.225)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】


 阿弥陀仏に救われたならば、即ち諸仏方の御心にもかなうことになる。阿弥陀仏から頂いた信心をもって、阿弥陀仏のことを念じ、讃嘆すれば、諸仏方を誉めることになる。



【質問】

「信心歓喜慶所聞 乃カイ?一念至心者

 南无不可思議光佛 頭面ニ礼シタテマツレ」(真宗聖典P.225)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 阿弥陀仏に救われた世界の不思議さは、とても心も言葉も及ばれません。
 そんな身にしてして下された阿弥陀仏に、心から頭を下げずにはおれません。

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投稿

 親鸞会会員の方からの投稿です。


         *         *         *


 親鸞会の教えとはどんなものなのか、徹底的に教えていただきました。

 そのなかで一番心に残ったのは「大切なのはどんなことを教えているかということではなく、教義とかそういうものを取っ払って、その人やその団体がどんな言行をしているかということ。それがその人や団体の思想であり本質だ」ということでした。

 親鸞会の核になっているのは親鸞聖人の教えではなく、軍隊思想でした。

 高森先生の御心には無条件服従だと教えている、また口に出さなくても無言の圧力で強制してくるのは、上官に対する反抗は許されない軍隊そのものです。

『外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり』のお言葉がこれほどピッタリくるなんてとてもショックでした。

 親鸞会の悪いところをみて嫌な気持ちになるのは執着しているからと教えていただきました。

 その執着を減らしていくことが今後の課題となりました。

 これから大変になっていくと思います。

 ご迷惑をおかけしてしまうこともあると思いますが、今後ともよろしくお願いします。

親鸞会教義の相対化・56

つづき

まず、私が親しくさせて頂いているキリスト者の方が教えてくださった詩を紹介させていただきます。

===以下引用===
「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために、
おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずじていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何も出来なくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何も出来ない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よわが友よわれなんじを見捨てじ」と。

(ヘルマン・ホイヴェルス「人生の秋に」より)
===以上引用===

 その方は、亡くなった教会の友人の葬儀で、以前送ったこの詩を、弔辞に読み上げたそうです。

 友人の方は、筋萎縮性硬化症で、医者から余命を宣告されて、毎日カウントダウンしながら、ベッドと車椅子の生活で一日一日を大切に生きておられたそうです。
 動く腕は片方のみで、PC入力も指一本で一つ一つ行わなければならず、たった三行の文章も、キーを120回も打たなければならなかったそうです。

 その友人の方に、「元気になって、草花の咲く草原を、いつか自分の足で歩いてみたいですか?」と牧使が語り掛けたそうですが、その友人の方は、

「いいえ。あの小さな私の部屋の空間が、私の信仰の場所であり、神の祝福で満たされており、満足であります。」

と答えられたそうです。

 私は、仏教者であり、キリスト教を信仰しているわけではありませんので、実際に体験してもいないキリスト教の信仰体験を論ずる資格はありません。

 したがって、浄土門における「信心決定」と、キリスト教における所謂「回心」とを、安易に同一視するつもりもありません。

 しかし、キリスト教を信じることによって、こうして生きている時に、絶対的な存在に身をゆだね揺るぎない境地に達することができることを身を持って示している人がいる以上、

「西洋哲学をはるかに凌駕する真実の体験、信心決定こそが、死もさわりとならぬ世界に雄飛し、絶対の幸福を獲得する唯一無二の体験なのである。」

ということを、キリスト教に関して深く知りもせず、実際にキリスト教を信じてもいない人物が、軽はずみに言うべきではない。

 少なくともこれだけは言えるのではないかと思っております。


つづく
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