スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答201

【質問】


 親鸞会では、苦しくなければ求道にならない、と教えられましたが、これは経済的な苦しみに耐えながら、聴聞してゆくことなのでしょうか。



【回答】


 仏法を求める苦しみは、経済的な苦しみではありません。仏法の求道の基本は中道ですので、仏法を求めるために極端にお金がかかるのならば、まずはそのお金を減らし、余裕を作ってゆくことが大切です。

 その上で、求道の苦しみとは、自分の心と向き合ってゆく苦しみです。それは今まで味わってきた苦しみとは、種類の違う苦しみになります。

 自分と向き合うためには、心に余裕が必要です。心に余裕がなければ、自分のやったことを客観的に見ることが出来ず、どんどんと自己中心的な盲目状態になっていきます。

 ですから、まずは本当の求道をする為にも、心に余裕を作って下さい。
スポンサーサイト

質疑応答192

【質問】


阿弥陀仏の成仏は、十劫の昔とも、久遠劫とも教えていただきます。

どのように受け止めればよいでしょうか。

仏の悟を開かれたのが久遠劫の昔で、その後、仏の位をおりて法蔵菩薩となってくださり、五劫思惟・兆載永劫の修行をされたのちに

南無阿弥陀仏の仏となってくだされたのが十劫の昔、ということでしょうか?


【回答】


 本来の阿弥陀仏は「真理」ですから、始まりも、終わりもありません。そのことを「久遠の成仏」と表現されることもあります。

 しかし、私たちには「真理」そのものを理解することは出来ません。そこで、分かるように形として説かれたのが、経典などに書かれている阿弥陀仏です。形のあるものには、始まりが必要ですから、仮に「十劫の昔」と説かれているのです。


 このことを親鸞聖人は、以下のように仰っています。

●しかれば、仏について二種の法身まします。一つには法性法身と申す。二つには方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし、形もましまさず、然れば、心も及ばず、語もたえたり。この一如より形をあらわして、方便法身と申す、その御相に、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八願を発しあらわし給うなり。(唯信抄文意)

 ですから、法性法身と方便法身の違いと理解されたら良いと思います。



【質問】


また、十劫の昔とは、どのくらいの時間をいうのでしょうか?

たとえば地獄の寿命と教えていただく八万劫は、単純計算でその8千倍の長さということなのでしょうか。



【回答】

 仏教で劫というのは梵語カルパの音略で、極めて長い時間を表しています。具体的に何年というのではなく、非常に長い時間だと理解されたら良いと思います。

質疑応答191

【質問】


 親鸞聖人が、煩悩を慎むように仰ってると教えて頂きましたが、煩悩具足の私たちに、煩悩を慎むことが出来るのでしょうか?
 親鸞聖人に反論するつもりはありませんが、親鸞会では「煩悩は減りもしなければ無くなりもしない」と教えていただいてきましたので、疑問に思いました。



【回答】


 親鸞会では教えられませんが、唯識学では煩悩に2通りあると教えられます。


現行の煩悩…いわゆる三業に現れている煩悩
種子の煩悩…現行の元となる煩悩


 現行の煩悩とは、腹を立てるとか、人を恨むとか、金に執着するとか、そういう三業に現れているものを言います。これは三業ですから、人それぞれ違いますし、この煩悩が強い人もいますし、弱い人もいます。
 また、よく腹を立てていた人が腹を立てなくなるというように、煩悩が弱くなるということもあります。一時的ならば、無くすこともできます。

 しかし、どんなに煩悩が無くなったように見える人でも、縁がくると、また煩悩が吹き上がります。これは、その元となる種子の煩悩があるからです。この種子の煩悩は自覚できません。
 私達が煩悩具足と言われるのは種子の煩悩があるからです。これが無くならないと仏にはなれません。信心決定した人は、この種子の煩悩を、阿弥陀仏のお力によって滅していただき、仏になることができるのです。(信心決定した時に滅して頂くのではありませんので、信心決定と成仏は違います)

 ちなみに親鸞会では、煩悩を三業で教えていますので、それは「現行の煩悩」です。それを、「減りもしなければ、無くなりもしない」というのは間違いです。

 親鸞聖人が慎むようにと仰った煩悩は、この「現行の煩悩」であると考えられます。この「現行の煩悩」さえ、「どうせ無くならないのだから、無くす必要はないのだ!」と言っている人がいたら、それは単なる怠慢であって、仏教の全然わかっていない人です。

 覚如上人や蓮如上人も、煩悩が薄くなるという言い方で教えられています。


●かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。(執持鈔・正信偈大意)

 ちなみに、該当部分の現代語訳を読むと、「この光の縁に会う衆生にあっては、それまで自分が沈んでいた無明の闇がようやく薄らいでゆくのである。」(「親鸞全集5・現代語訳」真継信彦著・法蔵館)となっています。


 衆生の煩悩悪業が、阿弥陀仏の光明に照らされて、無明の昏闇うすくなり、本願の名号をきくと説かれていますが、ここで薄くなると言われている無明は、名号を聞く前のことですから、一念で晴れる疑情のことではありません。
 無明とは煩悩のことを指しますが、「種子の煩悩」が薄くなるとは考えられませんので、「現行の煩悩」の意味だということになります。

 いずれにしましても、親鸞聖人は、煩悩を慎むように教えられているのですから、「現行の煩悩」と「種子の煩悩」をゴッチャにして、「煩悩はどうせ無くならないのだから、慎む必要はないのだ!」ということがあってはなりません。親鸞聖人は、そういう人に近づいてはならないとも仰っています。

質疑応答178

【質問】


 親鸞会では「教と仏語にしたがえば」の部分を「19願と20願を通って」と教えています。
 顕真平成13年5月号18ページには、
「教と仏語にしたがえば」とは、釈尊の『観無量寿経』の教え(第十九の願意)と、『阿弥陀経』の諸仏のお言葉(第二十の願意)に従うて
と書かれています。
 そこで質問があるのですが、このご和讃の「教と仏語にしたがえば」とは、三願転入を親鸞聖人が教えられたお言葉なのでしょうか?



【回答】


 ここで「教」、「仏語」と書かれているのは、それぞれ、観無量寿経、阿弥陀経のことです。しかし、観無量寿経、阿弥陀経だからといって、自力の信心を教えられたものとは限りません。

 浄土真宗の教えには、顕彰と隠密があり、略して隠顕と言います。
 顕彰とは、顕著に説かれている教えということであり、観無量寿経、阿弥陀経ともに自力と解釈します。
 隠密と目立たないように表されている真実のことで、観無量寿経、阿弥陀経ともに他力信心が説かれていると、親鸞聖人は教えられています。


●三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆえに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。(教行信証化土巻)


 さて、この和讃で教えられている意味ですが、これは善導大師の教えが元になっています。
 善導大師は、往生できる人と、往生できない人の違いを、以下のように教えられています。


●ただ信心をして求念せしむ れば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもって往生を得易し。(乃至)なにをもってのゆえに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆえに、仏の本願と相応することを得たるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえなり、と。(教行信証行巻)


●もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百は時に 希に一二を得、千は時に希に五三を得。なにをもってのゆえに、いまし雑縁乱動す、正念を失するによるがゆえに、仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違せるがゆえに、 仏語に順ぜざるがゆえに…(教行信証化土巻)


 行巻では、信心決定している人は、雑縁が無くなるから往生できると説かれています。
 雑縁が無くなる理由として、「本願と相応する」「教に違せざる」「仏語に随順する」の3つを挙げておられます。

 化土巻では、信心決定していない人は、雑縁乱動するから往生できないと説かれています。
 雑縁乱動する理由として、「本願と相応せざる」「教と相違せる」「仏語に順ぜざる」の3つを挙げておられます。


「利他の信楽うる人は…」の御和讃は、信心決定した人が、なぜ雑縁が無くなるのか教えられたお言葉です。
 つまり、行巻の上記の内容を要約されたものです。

 ここで、「教と仏語にしたがえば」と仰っているのは、当然ながら信心決定した人のことですので、他力です。
 ですから、信前の求道の道程を教えられた御和讃でありません。

質疑応答177

【質問】

「闘諍堅固なるゆえに

 白法隠滞したまえり」

の意味がよく分かりません。

闘諍堅固…自説が他説より優れているとして、弟子たち言い争いが盛んになること。

白法隠滞…仏の教え(白法)がこの世から姿を消し去ること。

上記の意味をふまえると、

「どの説が本当か分からなくなり、最終的に教え(聖道門の教え)は無くなってし
まう」

という意味になるのでしょうか。

※付随して、仏の教えがなぜ「白法」になるのでしょうか。
白というのは、どういう意味があるのでしょうか。
蓮の華でしょうか。黒法などもあるのでしょうか。


【回答】

 仏教で「白」とは、清らかという意味があります。仏教は、心が清らかになってゆく教えなので「白法」と言われます。
 闘諍堅固とは、自分の説が正しいと争い、自説に固執するようになることです。
 親鸞会の法論を読まれれば分かると思いますが、相手と議論すればするほど、心が穢れ、自分の間違いを認められなくなり、誤魔化すようになります。
 このように穢れてゆき、清らかな教えである仏教が隠れてゆくと教えられたお言葉です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。