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質疑応答212

【質問】


 親鸞会の学友部長の立場にある講師に、「死んだら必堕無間ではなく、六道輪廻するのでは?」と質問したところ、「六道輪廻するうちに、必ず無間地獄にも堕ちる。だから長いスパンで見れば、必堕無間なのだ」と答えました。
 このような言い方は今まで聞いたことが無かったのですが、正しいのでしょうか。



【回答】


 そのような教え方は、親鸞会に20年以上いましたが、一度も聞いたことがありません。もし、そのように教えているとすれば、親鸞会の教義が変更されたということになります。

 例えば、「こんなことが知りたい1」には、

> 生死の一大事とは、どんなことかといゝますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。

と書かれてあります。



 もし学友部の責任者の講師の言うことが正しいのであれば、「一息切れると同時に」と説いてきたことは間違いだったということですから、訂正しなければなりません。

 親鸞会の教義において、最も重要な教えである「後生の一大事」の意味が間違っていたのですから、大変なことです。
 高森先生は「一言でも間違えたら、腹を切ってお詫びする」と言っていたのですから、腹を切らなくても良いですけど、せめてお詫びくらいすべきです。

 しかし、そのようなお詫びがあったという話は、聞いたことがありませんから、こっそり修正したのかも知れません。



 それとも、学友部長が勝手に言っているのでしょうか?

 だとすれば、親鸞会の教義を曲げて教えているのですから、発覚したら除名ものですね。



 いずれにしましても、仏教は、六道輪廻すれば必ず無間地獄にも堕ちるという教えではありません。

 唯識では、その人の業によって世界が生み出されると説かれていますから、どんな世界に生まれるかは業次第ということになります。

 ここでいう「世界」とは、この世のどこかに、そのような場所があるという意味ではなく、業相と言われて、心の状態を譬えたものです。

 ですから、地面を掘っていったら地獄が用意してあり、そこに生まれるということではありません。



 つまり、肉体は人間でも、苦しみのドン底にいる人は、すでに地獄に堕ちていると言っても良いでしょう。

 芸能界などを見れば、一時の天上界で楽しそうに見える人もありますが、天上界の寿命が尽きるときは悲惨なもので、仏説まことの知らされます。

 この世が地獄の人は、地獄の業なのですから、死んで生まれ変わっても地獄に生まれます。ただし、先程も書きましたように、地獄という場所が用意されているわけではありませんので、自分の心が生み出す世界です。

 もしかしたら、肉体はまた人間に生まれるのかも知れません。仮にそうだとしても、地獄の業の人は、また地獄の苦しみを味わわなければならない、ということになります。

 五逆謗法の業の人は、死ぬのを待つまでもなく、現在から無間地獄の苦しみを味わっているはずです。死ぬまで苦しみの発生が猶予される、ということはないのです。


 私たちの煩悩というのは、この業を変えないように働きますので、阿弥陀仏のお力に依らない限り、大きく変化することはありません。(阿弥陀仏のお力には悪業を善業に転じ変える働きがありますので、六道から出離することができます。)

 ですから、五逆謗法の人でない限り、輪廻していけば必ず無間地獄に堕ちるとは言えないのです。



 ここまで読んで、「なんだ、今は苦しくないから、仏教なんて聞く必要はないや」と思った方もあるかも知れません。

 しかし、仏教では、このように考えているから、苦しみから抜け出せないのだと説かれています。

 私たちが、親鸞会の会員を見ると、「なんて可哀そうなんだ、不毛な活動をさせられ、財産をしぼり取られ、早く助けてあげたい。」と思います。しかし、当の本人たちは、自分たちが悲惨な状態にあることを全く自覚していません。だからこそ、抜け出すことができないのです。

 実は、仏様から私たちを見ると、まったく同じ状況なのです。苦しみの程度に差はありますが、皆、六道という世界で苦しんでいます。ところが苦しみの世界であると思わずに、もっと六道におりたいと思っています。

 このように思わせる働きを煩悩と言いますので、煩悩具足の私たちは六道を出離することができないと言われるのです。
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質疑応答204

【質問】


 今回の清森問答を読ませて頂いて、親鸞会の会員が「偽なる者」「虚なる者」ばかりであるならば、19願の善を勧めている親鸞会のやり方は正しいようにも思うのですが、どうなんでしょうか。



【回答】


 結論から言えば間違っています。

 まず、19願の教えは、少なくとも外道から離れた人に勧められています。親鸞会で教えられている「因果の道理」は、仏教で説かれている「因果の道理」と全く違いますので、親鸞会は基本的に外道です。

 ですから、19願の教えを説く対象とは言えません。



 また、親鸞会では、「必堕無間の一大事を解決するために」「信心決定するために」、善をしなさい、と教えています。

 このような善は、19願の善とは言いません。

 19願では、「発菩提心」と誓われていますが、菩提心とは、「仏になりたい」「他人を幸せにしたい」という心です。仏様の仕事は、他人を幸せにすることですので、この2つは本質的に同じ心です。(「医者になりたい」というのと、「他人の病気を治したい」というのは同じ心ですよね。)

 仏様は、苦しんでいる人を助けるために、喜んで地獄に行かれる方です。自分が地獄へ堕ちたくないから善をする、というのは方向が正反対です。

 龍樹菩薩も、十住論に『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。



「信心決定するために」善をするというのも、おかしな話です。19願の善を修する目的は化土往生するためです。親鸞会では、化土往生を否定しているのですから、19願の善など勧める理由がありません。

 親鸞会の人は、「化土往生できないことが知らされるため(善が出来ないことが知らされるため)に、19願の善に励むのだ」と主張するかも知れませんが、お釈迦さまも親鸞聖人も、そのような説き方はされていないのです。



 そもそも、「善が出来ないことが知らされるために、善をやる」という教えは仏教にはありません。善をやろうとした結果、善が出来ないと知らされることはあるかも知れませんが、最初から出来ないと知っているなら、やらないでしょう。

 お釈迦様は、キサーゴータミーという女性に、「死人を出したことのない家から、ケシの実をもらってきたら、死んだ子供を生き返らせてあげよう」と仰いました。
 最初から、子供が死んだと納得できる女性であれば、このように言う必要はなかったのですが、キサーゴータミーは子供の死を認めることができなかったのです。

 この時に、お釈迦さまが「子供は生き返らないということが知らされるまで、死人を出したことのない家を探してこい」と仰ったら、キサーゴータミーは従ったでしょうか?これでは方便になりませんね。

 もし、親鸞会が、19願の善を勧めていると主張するのであれば、「善を修めていけば、阿弥陀仏が往生させて下さいますよ」と説かねばなりません。「化土往生はできない」とか「善が出来ないと知らされるために」などと言っていては、19願にならないのです。

 親鸞聖人は三願転入されたと仰っていますが、親鸞聖人は「善が出来ないと知らされよう」と思って善を修めておられたのでしょうか?
 親鸞聖人が善を修められた心と、親鸞会の人が善をする心が、まったく違うのです。



 最後に、親鸞会で教えられている「善」は、実態は親鸞会に都合のよい「人集め」「金集め」であって、仏教で教えられる善ではありません。悪になります。

 これについては、今まで何回も書いてきたことですので、詳しくは説明しませんが、親鸞会には、まずは悪をやめることから始めていただきたいものです。

質疑応答202

【質問】


 親鸞会の講師が、以下のようなブログを作っています。

「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」(http://blog.goo.ne.jp/oonokatu21

 その中で、化土往生できる人は1人もいないと断定し、「『化土往生できる人も
 一杯いる』などと言う人がおったなら、真実の自己の相を知らされた人の発言とはとても思えない。」と書いてあります。

 そこで、清森問答に書いてあった根拠を、以下のようにコメントしました。


> 体験至上の異安心の者は、以下の御文を挙げて化土往生する者もいると主張しているようですが、どのように破ればよいでしょうか?
>
>
> 報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
> 自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)
>
> 報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
> 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)
>
>
> 宜しくお願い致します。


 ところが、コメントは承認されず、新しい記事にも、ご和讃のことは全く触れられず、無視されたままです。

 このブログの内容について、清森さんはどのようにお考えでしょうか?



【回答】


 私の過去の記事を読んて頂ければ分かると思いますが、私は化土往生している人がいるとも、いないとも書いていません。私の意見や、考えではないのです。


清森問答 質疑応答152
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-252.html


 私は仏様ではありませんし、具体的に化土往生している人の氏名を挙げろと言われても困ります。
 しかし、親鸞聖人が「化土に生まるる衆生をば少なからず」と教えられていますので、そのお言葉を紹介しただけです。

 親鸞会講師の人が、「親鸞聖人は間違いだ」を主張したいならば、それは信教の自由ですから、強要するつもりはありません。
 親鸞聖人は「真実の自己の相を知らされた人」とは思えないというのですから、仕方ないでしょう。

 しかし、このような親鸞聖人のお言葉があることを知っておりながら隠蔽して、親鸞聖人が、「化土に生まれる人なんて1人もいない」と説かれたかのように嘘を付くのは、仏法者として感心できませんね。

 このブログの内容については、2、3ページしか目を通していませんが、こんな人が書いたブログに読む価値があるかどうか疑問です。

質疑応答167

【質問】


ところで質問があるのですが2ちゃんで今日書き込みがあったので他の人が質問されているかもしれませんが、古語の『べし』についてです。古語のべしはたくさんの意味があると私はまったく知らなかったのですが、○○というかなりあたまのおかしそうな人が書きこんでいたのでどうかなとは思うのですが

以下、そのかきこみ



 この問題は、2ちゃんねるの親鸞会スレッドに登場してきたのは、今回が最初ではない。過去幾度も出てきて、その都度僕は回答してきた。またかという感じがする。
 高森仏教は間違いであると主張している人は少なくない。しかし、間違いであるという思いを共通にして2ちゃんねるに常駐している人が、僕のカキコをきちんと読んでくれていない。もし、きちんと読んで伝承してくれていれば、高森仏教の間違いは、もっと早く、多くの人に正しく理解してもらえると思っている。

 「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」。これは、御文二帳目に出てくる。一部の人に言わせると、この言葉が、一切衆生必堕無間を主張している言葉だという。僕には驚天動地の理解である。どうしてここから「一切衆生必堕無間」などという主張が生まれてくるのか、僕には全く理解できない。


 国語辞典を引用しよう。広辞苑である。べし【可し】について。

助動詞  

A 当然の意。 …するのがよい。  …するはずだ。  …しなければならない。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、当然のことながら、絶対に無間地獄に堕在するに違いありません。

B 確実な推量の意。 きっと…するだろう。…するに違いない。 …するらしい。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、きっと、無間地獄に堕在するでしょう。

C 話し手の動作に付いて、意志・決意を表す。必ず…しよう。…するつもりだ。
 この信心を獲得できなければ、私は、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在するつもりです。

D 可能の意。 …することができそうだ。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在する可能性もありますよ。

E 命令の意。…せねばならない。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在しなさい。


 助動詞「べし」は意味が多様だ。意味が多様であるということは、当たり前のことではないか。意味が多様であれば、どの意味で使っているか、総合的に判断するのは当然ではないのか。選択肢はAだけなのか?。どれが正しいのか。選択判断に迷えば、その人が主張している外の言葉を参考にしながら考える。

 蓮如上人の他の書き物を読めば、Aを選択する余地はないと思う。D以外の意味を選択する余地は絶対にない。当たり前だろう。僕のこの考えに反対の人がいるなら、申し出て欲しい。

 もしこの信心を獲得できなければ、来世では天に生まれるかも知れません。再び人に生まれるかもしれない。阿修羅・畜生・餓鬼・地獄に生まれるかもしれません。最悪の場合には、無間地獄に堕ちる可能性も否定できないんですよ。人は六道を輪廻していますからね。
 天に生まれれば幸いかも知れないが、無間地獄に堕ちるようなことになれば、大きな不幸です。信心がなければ、極楽に生まれることは決してありません。さあ、一緒に信心を求めようではないですか。これが蓮如の意思です。

 「べし」の意味を誤読しているのは、高森さんの故意か無知か知らない。誤読の源流が大沼法龍にあれば、大沼法龍の嘘か勘違いを、高森さんが勘違いのまま継承しているんだろう。
 無知・勘違い・誤解に基づく攻撃によって、火だるまになった勧学が本願寺にもいたというからノータリンの底深さにはあきれかえるばかりだ。
 僕は直接聞いたことはないから知らんが、大沼・高森の毒気は相当のものらしい。この毒に一度かかるとなかなか治癒しない。蓮如上人まで秘事法門の元祖になって、話が脱線していく人などは、今でも大沼・高森さんが仕掛けたマインドコントロールのど真ん中にいるんだろうと思う。



この事について清森さんはどのようにお考えでしょうか。学問的に成立するのでしょうか?ご文章2帖のお言葉は『この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在する可能性もありますよ。』という意味だというのがこの人の主張のようです。

以上、よろしくお願いいたします。



【回答】


 このような観点で考えたことがありませんでしたので、目からウロコが落ちる思いがしました。

 私の手元にある「古語辞典(旺文社)」には、以下のように書いてあります。


●べし

①推量の意を表す。
 ア、ある事の起こることを予想する
 イ、ある程度確実な推測を表す
②予定の意を表す。
③当然の意を表す。
④適当の意を表す。
⑤可能、または可能性を推定する意を表す。
⑥強い勧誘・押しつけの意を表す。
⑦意思を表す。
⑧必要、義務の意を表す。


 私は、古文法については専門に勉強したことがありませんので、文法的にどれが正しいということは分かりません。

 しかし、釈尊・七高僧・親鸞聖人は、必堕無間とは教えられず、信心決定せずに死ねば、六道輪廻すると教えられています。

 例えば、善導大師は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と深信す、と説かれています。

 常に流転とは、六道輪廻のことです。

 また、親鸞聖人は「もしまた、この度、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また曠劫を径歴せん。」と仰っています。

 曠劫を径歴するとは、六道輪廻のことです。


 蓮如上人のお言葉は、文法的には色々と解釈できるようですが、やはり、釈尊・七高僧・親鸞聖人の教えに沿って解釈をするのが筋だと思います。

質疑応答152

【質問】


 蓮如上人の「この信心獲得せずば無間地獄に堕在すべきものなり」というお言葉は、うそだということでしょうか?



【回答】


 なぜ、蓮如上人がこのように説かれたのか、私にはハッキリしないのですが、以下の4通りの可能性があると思います。

(1)釈尊、七高僧、親鸞聖人が、「一切衆生必堕無間」という内容を説かれなかったのは、不適切であった。

(2)蓮如上人の上記のお言葉は、特定の対象に説かれた対機説法であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(3)蓮如上人の上記のお言葉は、蓮如上人の懺悔のお言葉であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(4)蓮如上人が間違われた。


 この中で、どれが一番妥当か、考えてみたいと思います。



 仮に、全人類が無間地獄に堕ちるのが真実だとします。

 釈尊は、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 七高僧方や、親鸞聖人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 そこには、何か深い理由があると思われませんか?



 蓮如上人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」と書かれたのは、ごくわずかな一部分です。

 その御文章を読まれた人のみに、真実を伝えられ、他の人には説かれなかったことになります。



 また、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、みな「信心決定できなければ、化土に生まれる」と説かれています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。



 つまり、「一切衆生必堕無間」が真実なのかも知れませんが、釈尊も、七高僧も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人の「正信偈大意」も、そのような説き方はされていないのです。だから、方向性が違うと申し上げたのです。

 蓮如上人が、「この信心獲得せずば…」と書かれたのは、対機説法で、その時は、そのような説き方をされる必要があったのであろうと、私は拝察しているのですが、どのように思われますでしょうか?

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