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質疑応答221

【質問】


 最近の清森問答では、因果の道理や善悪についての説明が多いように思いますが、これと浄土真宗の教えは、どのような関係があるのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人の教えを正しく理解するために、大切なことだと思うので取り上げさせて頂いています。

 もちろん、親鸞聖人の書かれたものだけを勉強すれば良いという考え方もあると思います。

 それを否定するつもりはありませんが、そのためには仏教の言葉の意味を知らねばなりません。



 例えば、親鸞聖人の書かれたものには、「善」とか「悪」という言葉が非常にたくさん出てきます。ここでいう善や悪の意味は、私たちが一般的に使う善悪とは全く意味が違います。

 もし、善とか悪という言葉の意味を誤解したまま、親鸞聖人の御著書を読んだならば、何百回読んだとしても、親鸞聖人の教えを誤解するだけになってしまいます。

 また、浄土真宗は、「浄土」に生まれることが目的ですが、仏教で「浄らか」とはどういう意味かを正しく知らなければ、目的さえ間違っていることになります。ところが、仏教でいう「浄らか」の意味は、一般的な意味とは全く異なります。



 善悪の意味を知るためには、因果の道理の理解は不可欠ですし、浄土の意味を知るためには、煩悩について理解しなければなりません。

 こういった基本的なことを学ばずに、一般常識的な言葉の理解で、「善もほしからず、悪もおそれず」とか、「浄土に生まれたい」と言っているとすれば、非常に危険です。



 普通、浄土真宗を学んでいる人は、このような仏教の知識は、知った上で勉強しておられると思うので、必要ないことかも知れませんが、特に親鸞会では、仏教の基礎の部分から間違って教えられています。

 親鸞会で学んだような「因果の道理」や「善悪」の理解では、親鸞聖人の書かれたものを読んでも誤解するだけですので、そういう人のためには、仏教の基本的な言葉の意味から説明する必要があると思っています。

 ですから、仏教学については十分知っているという方は、親鸞聖人の書かれたものだけ読まれても良いと思いますし、私の書いた記事などは、読み飛ばして頂いても結構です。
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質疑応答219

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】

 今回は、「布施」を行うときの心がけについて説明します。
 布施とは、広く周りの人に施しをしていくことです。ですから、特定の人に施しをする供養とは異なります。

 布施をする目的は、執着の心から離れることです。
 私たちは、自分の持っているお金や物などに執着しています。分かりやすく言えば、「これは私のもの」と思いこんでいるのです。

 しかし真理から言えば、この世のすべての物は、一時的に自分のそばにあるだけであって、やがて必ず離れていくものです。決して「私のもの」ではありません。
 私たちは、この真理が分からないために、お金や財産を求めて争ったり、失っては悲しんだりして、苦しみが絶えないのだと教えられています。



 では、どのようにすれば、この執着から離れることができるのでしょうか。無理やりお金や財産を失わせれば、この真理が理解できるのでしょうか。
 そうではありません。お金や財産が離れていったという事実を受け入れられず、ますます執着を起こして掻き集めようとするだけです。

 ですから仏教では、自発的にお金や物を周りの人に分け与えることによって、これが「自分のもの」ではないことを、少しずつ悟らせていくのです。



 この布施を行うときには、次の3つを忘れなければならないと教えられています。これを三輪空と言います。

①施者(私が)
②受者(誰に)
③施物(何を)

 私が、誰に、何を与えたかを覚えているということは、いつまでも「自分のもの」だと思っている証拠です。これでは執着を離れていませんから、布施になりません。
 それどころか、相手がお礼を言ってくれなかったり、喜んでくれなかったりすると、とたんに腹が立ち、煩悩を起こしてしまいます。つまり悪になってしまうのです。

 この三輪空を実践するためのポイントは、一度に多くの布施をしない、ということです。一度にする布施の額(量)が多いほど、「これだけ施した」という気持ちを強くなりますので、三輪空の実践が難しくなります。

 また、いつでも、どんな人にでも施すのが布施ですので、一度に多くの布施をしていたら、あっという間に破産してしまいます。習慣として、常に心がけて実践していくのが布施ですから、一回一回の布施は少なくて良いのです。



 布施を実践することは、常に周りの人にも心を掛けるということであり、自分のことしか考えない我利我利亡者から脱却することにもなります。施す金品は、その心配りを形に表したものですから、額(量)の大小は問題ではありません。お金や物が無い場合は、温かい言葉を掛ける、手伝いをするなどの行動でも布施になります。

 逆に、布施を受ける人は、たとえそれが少なかったとしても、心配りに感謝して、有難く受け取らなければなりません。そうやって、お互いに良い人間関係を築いていくことができるのです。


 また、布施に心掛けていくと、わずかな施しでも、なかなか三輪空の実践のできない自分であると知らされます。それだけ執着の強い、苦しみの深い自分だからこそ、より真剣に仏法を聞かずにおれないのです。

質疑応答218

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】

 今回は、「有漏善」を行うときの心がけについて説明します。

「有漏善」といっても、「有漏善」という名前の善があるわけではありません。仏教で教えられる善を、煩悩具足の私たちが行うと、有漏善になってしまうということです。

 仏教で教えられる善には、いろいろありますが、特にその中でも重要な「供養」と「布施」について説明します。



「供養」とは、「供えて養う」と書きますが、狭い意味では仏や仏弟子に食物などを捧げて、その生活を支えることを言います。
「布施」は、広く他人に対して金品や仏法を施すことです。
 供養は相手を特定するのに対し、布施は相手を選ばないことが大きな違いです。



 まず「供養」ですが、仏や仏弟子は、一般の職業に就いていませんから、食物などの施しを受けなければ生活することはできず、当然布教もできません。
 ですから、仏の教えを受けたい人は、その生活を支えるために供養をしていました。

 仏や菩薩は、供養して下さった方に心が掛かりますので、当時の人たちは競って供養をしたのです。
 供養した人に心が掛かるというと不公平に思う人もあるかも知れませんが、仏教は「恩」の宗教です。生活を支えてもらい、恩のある人が苦しんでいるときに、その人を放って他人のところへ行くような恩知らずではいけません。

 例えば、韋提希夫人が王舎城で苦しんでいるときに、釈尊が説法に行かれていますが、苦しんでいる人は世界中にいくらでもいるのに、なぜ韋提希夫人一人のために王舎城に行かれたのでしょうか?
 これは、韋提希夫人が仏弟子に供養していたため、釈尊や仏弟子との関係が強かったためだと考えられます。



 このように、「供養」の性質としては、「他人のため」というより「自分のため」です。ですから、「恩知らず」には供養してはいけません。供養に値する人でなければ供養したつもりでも、善にはならないのです。

 仏教では、供養するに相応しい人を「応供」と言います。仏や菩薩である必要はありませんが、非常に高い徳を備えた人です。供養を受けたからには、その人の御恩に応える必要がありますから、誰でも彼でも供養を受けるわけにはいきません。たとえ仏様であっても、相手を平等に扱うことは出来ないのです。

 すべての人から供養を受け、すべての人を平等に救うことができる人のことを「大応供」と言います。ご存じの通り、阿弥陀仏の別名です。

 世間では「平等思想」というのがあり、どんな人でも平等に扱わなければならないと言われますが、それが実行できるのは阿弥陀仏だけです。私たちには、相手に対して平等に心を掛けることは出来ませんので、御恩のある人に心を掛けていくことが大切なのです。



 さて、仏や仏弟子のいない環境にある人は、供養はできないのでしょうか。広い意味では、徳のある人に施しをすることは、供養になります。徳のある人とは、恩を感じる心のある人です。

 人間の徳には個人差がありますから、徳の少ない人に、たくさんの供養をしてしまうと、期待したほど心を掛けてもらえず、怒りに変わってしまう可能性があります。相手に応じた、適度な供養に心がけることが大切です。



「布施」については次回説明させて頂きます。

質疑応答217

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】


 今回は、「有漏善」と「無漏善」の違いについて説明します。

 仏教で「漏」とは煩悩を表しますので、煩悩の雑じる善を「有漏善」、煩悩の雑じらない善を「無漏善」と言います。
 私たちは「有漏善」を行うことはできますが、「無漏善」を行うことは出来ません。

「有漏善」は、私たちの我が付いていますので、相手から認めてもらえないと怒りや執着心といった煩悩を起こしてしまい、悪になってしまいます。ですから、五濁悪世の世の中では、この有漏善によって仏になることは非常に難しいと説かれています。


●菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。(教行信証行巻)


 親鸞聖人は、五濁無仏の世の中において、自らの善によって仏を目指すことを「難行道」と仰っています。逆に言いますと、仏や菩薩に囲まれたような環境であれば、怒りを起こすような縁もありませんので、有漏善でも仏になることは理論上は可能です。

 一方、無漏善はどんな環境でも煩悩に染まりませんから、無漏善を行うことができれば、やがて必ず仏になることができます。具体的には、阿弥陀仏の本願力によってなさしめられる善、いわゆる他力念仏は無漏善ですので、阿弥陀仏に救われた人はやがて仏になることができると説かれているのです。



 浄土真宗で、一般的に「私たちには善が出来ない」と言われるのは、「無漏善は出来ない」という意味です。有漏善が出来ないという意味ではありません。
 私たちが思っているような善は、すべて有漏善ですから、そういう意味では「善はできる」というのが正しいです。

 親鸞会では、「善に励んだ者にしか、善の出来ないことは知らされない」と言って善を勧めています。もし、この理屈が正しいならば、「無漏善」を勧めなければなりません。
「無漏善」とは煩悩に染まらない善ですから、目標を与えたり、財施額や成果によって評価したり表彰するというのは論外です。

 繰り返しになりますが、「有漏善」は実行可能な善なのですから、私たちの生活において心がけていくのは大切なことです。具体的な心がけについては、次回説明させて頂きます。

質疑応答216

【質問】


 仏教では、善にも2通りあると教えていただいたように思いますが、違いを教えて頂けないでしょうか。(前回の続き)



【回答】


 今回は「出世間善」について説明します。

「出世間善」は、「大乗善」と「小乗善」に分けられます。
 これは、大乗仏教から見た言い方ですが、浄土真宗は大乗仏教ですので、大乗仏教の立場から説明いたします。



 この2つは、一言で言えば、目的が違います。「小乗善」は苦しみから離れるために、「大乗善」は仏になるために必要です。

 仏にならなければ苦しみは無くならないのだから、同じではないかと思う方もあるかも知れませんが、そうではありません。

 確かに、苦しみから完全に離れ切るには、仏になる必要がありますが、少なくとも私たちが現在感じているような苦しみは、仏にならなくても解決することが出来ます。そういう苦しみから離れるための善が「小乗善」だと理解したら良いでしょう。



 以前にも書きましたが、仏様とは医者のようなものです。医者は、その知識によって、病気の苦しみを取り除いてあげることができます。

 仏様は、智恵によって私たちの苦しみを取り除いて下さいます。その苦しみを取り除くための方法として勧められるのが小乗善です。ですから、小乗善を実践することによって、今の苦しみから逃れることができます。

 しかし、病気が治ったからといって、医者になれるわけではありません。同じように、小乗善をいくら実践しても仏にはなれないのです。



 さて、野口英世は医者に左手を治してもらったことに感激し、医者を目指すようになったと言われていますが、仏様によって苦しみを取り除いてもらった人が、「私も仏様のように人々を助けてあげたい」という心を起こすことを菩提心と言います。

 そのためには、医者が医学を身に付けるように、仏の智恵を身に付けなければなりません。私たちは煩悩によって真理が見えなくなりますので、煩悩を滅するための行として「大乗善」が必要になってくるのです。

 ですから、今の苦しみから逃れたいだけであれば、「大乗善」をやる必要はありません。「小乗善」だけで十分であり、実践も可能です。



 菩提心を起こした人は、仏になるまで「大乗善」を実践していかねばなりませんが、私たちは途中で投げ出してしまうため、自力では仏になれないと言われます。

 しかし、阿弥陀仏のお力によって菩提心が起きた人は、途中で脱落することなく仏になるまで進ませて頂くことができると説かれています。それが二河白道の譬えなのです。

「大乗善」の中の「有漏善」と「無漏善」の違いについては、後日説明いたします。
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