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親鸞会教義の相対化・83

清森義行様



 ご無沙汰しております。

 以前、親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものが、何れも根拠になっていないことを解説しましたが、(*1)
最近、別のサイトでも親鸞会のこの教義への批判がなされています。(*2)

 よい機会ですので、法然上人が師弟関係をどのように捉えておられていたか、法然上人の言葉に基づいて解説しておきたいと思います。

 法然上人には師である叡空上人と教義論争を行い一歩も譲らず、最終的には叡空上人が誤りを認めたというエピソードがあり、(*3)

 また、この論争は口論にとどまらず、叡空上人による暴力沙汰にまで発展しましたが、法然上人は一歩も讓っておりません。(*4)

 ここで、法然上人が叡空上人と論争された際に、阿弥陀仏の化身であり、釈尊の言葉と同じ価値のある、(*5)「善導大師の言葉」という「聖教」に基づいて経典解釈を行い、
たとえ師匠であっても「さきにこそむまれ給たれ」だけであり、「師匠が仰せになっていたから」ということが、経典解釈の上で全く根拠にならないということを、
法然上人が明確にされていることを、きちんと押さえておく必要があるでしょう。

 ご存じのように、『大乗涅槃経』において釈尊は、
「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」と仰になりました。

 仏教徒は、釈尊のお説きになられた「法(教え)」に基づいて仏教を学ぶべきであり、
法然上人の教えに従う者は、更に善導大師の言葉を仏説と同じように尊び、(*5)
そこに個人的な見解を勝手に混入することは避けなければなりません。

 ところで、親鸞会では以下の『歎異抄』における言葉を拡大解釈することにより、高森先生に対する無条件服従が強要されているようです。(*6)


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
(『歎異抄』二章)


しかし、この親鸞聖人の言葉は、

★親鸞聖人の法然上人に対する姿勢

を表明したものあって、先に述べたように、

★法然上人に親鸞聖人が強要された

ものではありません。

親鸞聖人が法然上人に絶対の信頼を置かれたのは、
あくまで、法然上人が釈尊や善導大師の言葉という「聖教」に基づいて、
教えを説かれた方だからこそであり、絶対の信頼を置く根拠が存在します。

しかし、高森先生の教えが、釈尊や善導大師の「聖教」や、
それらに基づくことによって根拠を持つ法然上人や親鸞聖人の「教え」に抵触した場合は、高森先生の教えを信頼することの根拠は全くありません。(*7)

講師の方や熱心な会員さんが、
「高森先生にならだまされて地獄に堕ちてもかまわない!」
という姿勢を貫かれるであれば、
その方に対して、私から申し上げることは何もありませんが、
このことは、はっきりさせておく必要があるでしょう。

以上


*1 以下の記事参照

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html

2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html

3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html

4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html

*2 以下の記事参照

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

同 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

*3
ある時上人往生の業には、称名にすぎたる行、あるべからずと申さるるを、
慈眼房は、観佛すぐれたるよしをの給ければ、
称名は、本願の行なるゆへに、まさるべきよしをたて申たまふに、
慈眼房又先師良忍上人も、観佛すぐれたりとこそおほせられしか、
との給けるに、
上人、良忍上人も、さきにこそむまれ給たれ、と申されけるとき、
慈眼房腹立したまひければ、
善導和尚も、上来雖説定散両門之益望佛本願意在衆生一向専称彌陀佛名、と釈したまへり、
称名すぐれたりといふこと、あきらかなり。
聖教をば、よくよく御覧じ給はでとぞ申されける。
(『四十八巻伝』巻6)

*4
弥陀如来、称名を本願とたて給へる上には、往生の業におきては、
称名にすぐるる行あるべからずと、上人たて給う時、
師範叡空上人、観仏はすぐれ称名はおとれる也との給ふを、
上人、なほ念仏勝たる義をたて給うに、
叡空上人立腹して、こぶしをにぎりて上人のせなかをうちて、
先師良忍上人もさきにこそ生まれ給ひたれと、上人申されける時、
叡空上人いよいよ腹をたてて沓ぬぎにおりて、あしだを取りて又うち給へば、
聖教をよくよく御覧候はでとぞ申されける哀れなりし亊なり。
(『九巻伝』巻第一下)

*5
静かにおもんみれば、善導の観経の疏は、是れ西方の指南、行者の目足なり。
しかればすなはち、西方の行人、かならず、すべからく珍敬すべし。
就中(なかんづく)毎夜(まいや)の夢の中(うち)に、僧ありて玄義を指授せり。
僧といふは、おそらくはこれ彌陀の応現なり。
しからばいふべし、この疏は彌陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐に相伝していはく、善導はこれ彌陀の化身なりと。
しからばいふべし、この文はこれ彌陀の直説(ぢきせつ)なりと。
すでに、写さんとおもはんものは、もはら経法のごとくせよといへり。
此のことば、まことなるかな。
仰ぎて本地(ほんぢ)をたづぬれば、四十八願の法王なり。
十劫正覚のとなへ、念佛にたのみあり。
ふして垂迹(すいじゃく)をと訪(とぶら)へば、専修念佛の導師なり。
三昧正受のことば、往生に疑いなし。
本迹(ほんじゃく)ことなりといへども化導これ一(いつ)なり。
(『選択集』第十六章)

*6
 親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。
 このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。
 自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。
 理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、
 それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。
 仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。
 蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。
 我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。
 この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
(「顕正新聞」昭和54年8月)

*7 親鸞会の教義上の誤りを指摘しているサイトには、以下のもの等がある。

清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

高森先生の親鸞会教学を検証する
http://atamagaokasiku.blog34.fc2.com/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

親鸞会教義の誤り
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/
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親鸞会教義の相対化・82

清森義行様


 ご無沙汰しております。先日ネットで以下のサイトを見つけました。


●驚愕講義H21.3.15
http://kyougaku.at.webry.info/200903/article_1.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私たち。
えー!どうして!
おかしいじゃないのそれは。

お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?
頭、変になられたんじゃないですか?

という心が、グーッと出てくるでしょ。
これが出てこなかったら、始まらんのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このサイトの音声は、以下のサイトから高森先生の教学講議のものであると思われます。

※苦笑の独り言ツッコミ番外編!2009.03.15.教学講議より
(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-238.html



 ところで、最古の仏教経典と言われている『スッタニパータ』において、釈尊は以下のように述べておられます。

●悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、地獄に堕ちる。(Sn.660)

※「ニラッブダ」「アッブッダ」とは何れも巨大な時間の単位であり、途方もなく長い期間地獄にいなければならないことを表しています。


 「一切衆生必墮無間」という言葉は釈尊の教えにはありませんが、釈尊の悪口を言い謗ったものが地獄に堕ちることは、『スッタニパータ』の記述から明かです。
 高森先生がどのような意図で上記のような発言をされたのかは、この録音だけではわかりませんが、もしも釈尊の悪口を言い、聖者である釈尊を謗ったのであれば、間違いなく地獄に堕ちてしまうことになります。

 以下、改めて申し上げるまでもありませんが、一応念のために申し上げておきます。


 清森問答をご覧の皆様は、釈尊の教えを信じ「地獄に堕ちたくない」と思っているならば、高森先生の言葉を鵜呑みにして「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなことは絶対に思わないでください。ましてそのように思ったことを口に出して言うなど言語道断です。


 また親鸞聖人は以下のように仰っておられます。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』


 この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森さんがご指摘のことでありますが、

※清森問答質疑応答143
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-225.html

 もしも親鸞会で高森先生の仰ったように、「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなこと他の方にも説くことを強制されるのであれば、それは「謗法」に当たる行為ですので、親鸞聖人の教えに従い一刻も早くそのような団体から遠ざかり、「地獄に堕ちる」リスクを回避してください。


 以上、老婆心ながら、清森問答をご覧の皆様(特に現在も親鸞会に留まっている方)に忠告させて頂きました。

親鸞会教義の相対化・81

清森義行様



 友人が以下の書籍を読んで感想を述べてくれたので、紹介させて頂きます。

★高森顕徹『光に向かって100の花束』(一万年堂出版)

※この友人は、親鸞会教義の相対化・27でアニメの感想を述べてくれた方です。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-89.html

※改行・スペースなど、感想のまま送らせて頂きますので、基本的にこのまま投稿頂きたいと思います。


【友人感想】

う~む・・・。

半分ほど読んだんですけど、全部読まんといけんですかね、これ。

むむぅ~。

え~っと。
オビの文言、紹介してみますね。

「100以上の,おとぎ話や有益な話を知らなければ、親の資格がない」と、ある教育者は道破する。歴史上の人物の成功談や失敗談、心あたたまる話題の中から、おもしろい話を100選び,小さい魂に奮発心を喚起させ,不屈の精神を培うための小話集。」

・・まあ,著者が「おもしろい」と思った話を紹介して、そこから導かれる教訓を最後に示して訓話としてまとめた小文が100編、おさめられています。

しかし、なんですね。「面白い話」とそこから導かれている教訓の間にえらいズレ感があるような気がするのは私だけなんだろうか。(笑)
「100の花束」中、第2話目で、いきなり私は「な、なんじゃこりゃ・・」と爆笑寸前の苦笑をしたんですが。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

第2話
「約束は,必ず、はたさなければならない」

さる有名にして貧しき歴史学者が,ある日、人からの借り物を壊してしまって泣いている貧しい少女に出会い助けてやりたく思ったが、その時貧しさ故に自分も持ち合わせがなかった。そこで明日、ここへ来たらなんとか工面してお金をあげようと約束した。
ところが翌日、彼のスポンサーになろうという富豪が現れたので今すぐにその富豪に会いに行くようにと友人からの伝言を受けた。
しかし彼は、「大切な用事があるのでまたにしてほしい。」と富豪との面会をことわり、少女との約束を果たした。
富豪は一時は激怒したものの、のちほど事情を知り,感心して信用を深め,くだんの歴史学者のスポンサーとなった。

・・ここまでが教訓を読み取るべき、ちょっといいお話である。
そして後半が、これ。全文引用してみましょう。↓

金持ちほど怒りっぽく、あつかいにくいものはない。いつも金で、何事も自由にできる,と思っている。
また金で,約束を破り節をかえる金銭奴隷が、いかに多いことか。

(次の一文は『』の中の文字と「」の中の文字が、地の文章の文字よりも二まわりほど大きい字で書かれている)

『儲け』は「信用のある者へ」と書いてある。

たとえ自分に不利益なことでも、誓ったことは,必ずはたすのが信用のもとである。
はたせぬ約束は、はじめからしないこと。相手に迷惑をかけるだけでなく、己をも傷つける。

(そしてふたたびでかでかと)

四角い枠で囲まれた「儲」という字が印章を押したかのようにうすめのインクで印刷され、その上から「信用のある者へ」という言葉がで~んとかかれてあるのだった・・・。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

この第2話のズレ感は、逸品中の逸品ではないかと思います・・・。
ほかにも「・・・?」という奇妙なズレ感を抱かせられる文章があるように思うが、なぜなんでしょう。
たぶん・・・その「ちょっといい話」自体が、良い行いの結果,世俗的な意味での良い結果を生んだ(笑顔で接客したウエートレスがその笑顔を気に入られ,玉の輿に乗った、とか。笑)式のパターンに染まっていることも原因の一つかもしれません。

あと、著者の持っている女性観というか・・「男の人生を支えるために、女性はかくあるべし。」みたいなの・・・まあ・・おじいさんだからこんなもんかもしれませんけど、女性の視点に立ってみようという発想はまったくありませんので、この本を読んで感心した男性を恋人にするのはお勧めできないなあ・・・と、思っちゃったりしました。

その他のはなしにしても、自分の人生経験の深い洞察から精製された貴重な人生訓、といった感じではなくて、だれでも言えそうなありきたりなことをもったいぶって話しているじいさんの趣味のお説教、という印象ですかね~。




つまるところの感想を一言申しますと、

センス悪い。じじくさい。浅い。安い。


の、4点でございました。

(まだ半分しか読んでませんけど。笑)

こんな感想ですみません・・・。


【私】

お疲れ様でした。
若干の補足をしておきますと、高森先生は、近年、大沼法龍
先生のパクリが指摘され、
いろいろ厳しい批判を受けております。


高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作の
パクリです
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/100_80e4.html
大沼法龍師の言葉
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu/
大沼法竜師に学ぶ
http://blog.goo.ne.jp/onuma_horyu/

以下参考までに・・。

大沼法龍師の言葉より
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu/s/%CE%F2%BB%CB

45約束の貴さ
2007-08-2500:05:58|Weblog
 有名な歴史家のナピールがある日散歩していると、路傍に貧しい姿の少女が陶器のかけらを持って泣いていた。ナピールが優しく仔細を訊くと、少女の家は親一人子一人で老父が大病なので家主から五合入りの壜を借りて牛乳を買いに行こうとしたところ、落として壊してしまった。家主にどんなに叱られるか知れないと泣いていた。
 ナピールは憫れに感じてポケットからがま口を出してみたが生憎この貧乏学者は一文も持合せがなかった。「明日の今頃ここへおいで私がその牛乳壜のお金をあげるから」
 しかしその翌日、五六里離れた町の友人から手紙が来た。それは君の研究の為に保護者となろうという貴族がきたが、午後には帰ってしまうから直に来いと書いてある。しかし貴族に逢いに行けば少女に逢う時間がない。ナピールは友人に返事を書いた「私には今日大事な用件がある失礼だが又の日に頼む」と、そして少女との約束を果した。
 貴族は一時ナピールは傲慢な奴だと謗ったが、後にそれを知って彼の人格の高潔なのに深く尊敬して後援した。一概には言えない人格者もあるけれども金持ほど怒りっぽい扱いにくい者はない、直に金で人を自由にできると思っている。また金銭の奴隷となって約束を違え節を変ずる者が多いから困るのだ。たとえ自分に不利益なことがあろうとも一旦約束したならば実行しなければならない。
(「教訓」p55~p57)

ところで、このコメントも含めて、この感想を清森問答に投稿してよろしいでしょうか?



【友人】

正直すぎてスミマセン。

まず、オビの文言からして、「むぅっ。」としたんですけど,私。(笑

「100以上の,おとぎ話や有益な話を知らなければ、親の資格がない」

これだけ見て、すでに「そ、そんなこと、あらへんて。」って、思っちゃいましたもん。
100のお話を知っていようと知っていまいと、センスのいい人はいいし、悪い人は悪いと思います。
そして,センスのいい人はいい人なりに親として脱皮していかなくちゃらならない時がくるし、センスの悪い人は悪い人で、おたおたしながらでも一生懸命子育てして責任を果たそうと努力して行くのだと思います。

ま。ええけど。(笑)

んで、これもパクリやったのですか~。
私は小心者なので,とてもこんな大胆なことはできないわ。^^;
高森先生、そういう意味では大物ですね。(笑)

あぁ・・・なるほどなるほど。

いらんことを付け足すので,ズレ感がでちゃうのね・・・。
へんなこと書き足さなきゃあ、まだ読めるのに。

ははあ・・これがオリジナルですか。
ほんと、ここまでならよかったのに。
やっぱ、【儲け】が出てくる余地はなさげですよね。(笑)

「儲け」は信頼できる者【へ】って・・・「ワシは信頼できる善知識じゃけに、ワシに財施しなさい。」って、言っとるんかい、と思えてすんごくおかしかったんですよ~。

投稿の件は、いいようにされてください~。

親鸞会教義の相対化・80(投稿)

清森義行様



 前回、私が書いた文章を読まれた自称デカ丸(ご本人も認められているように、実際はちび丸)氏が、以下の記事をお書きになっておりました。


※前回の私の文章
親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html

※自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事
法然上人の善のすすめ(これが断章主義?)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23340202.html



====以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====
「法然上人の善のすすめ」を書きましたところ
『善にもすすむべき事』というお言葉だけでは断章主義であるとのお叱りを受けました。
理由はわかりませんが、一緒にあげた御文はあえて無視されたようですので再掲しておきます。
どのお言葉も全文をアップはできませんので御不審な方は原書をお読みください。
====以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====

 とのことですので、以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章にコメントを加えさせて頂きます。


※自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章は、読みにくい改行を消去した以外は原則そのまま掲載しております。


【1】

「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」
とこそは釈し給ひたれ。
又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)


★コメント★

 この引用では、この文章がいかなるコンテキスト(文脈)で語られたものであるかがわからないために、この文章の持つ意味を誤って受け取る可能性があります。
 既に述べたことなので繰り返しませんが、前回の私の文章をもう一度読んで頂きたいものです。

親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html



【2】
「持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、たへたらんにしたがいてたもち候べく候。孝養の行も仏の本願にあらず。たへんにしたがいて、つとめさせおはしますべく候。」
(熊谷直実入道蓮生へつかわすお返事)


★コメント★

●また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

(訳)
 女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

・持戒の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り守るべき
・孝養の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り勤めるべき

という意味ですね。

それはそれでいいのですが、この文章の直前に書かれている部分がもっと重要です。


●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。


「持戒の行」「孝養の行」が、「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、極楽浄土へ往生することを欣求する人にとって「念仏」が最優先に行わなければならないことであることは明かです。

 法然上人が極楽浄土へ往生することを欣求する人に最優先で「念仏」を勧められたことが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏にとって都合が悪いのかどうかは不明ですが、この引用でもコンテキスト(文脈)を無視した「断章主義」が行われていると私は思います。

 ちなみにこのお手紙は、嵯峨清涼寺に法然上人の真筆が残されております。文献学的な見地からもこの資料の持つ意義は非常に高いものとなっております。



【3】

念仏の行者四修の法を行用すべき文。
善導の『往生礼讃』にいはく、「また四修の法を勧行す。何者をか四となす。
一には恭敬修。乃至。
教とは『弥陀経』等を五色の袋に盛れて、みづから読み他を教へよ。(選択集)


★コメント★

これに関しては、以下の記事を読んで頂けば十分だと思います。

ツッコミ番外編(3)名義詐称野郎にツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-169.html

~~上記から引用~~
四修の解釈は第一に善導大師の『往生礼讚』に従うべきだと思うけど、

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける
~~上記から引用~~

これも『選択集』のコンテキストを無視した「断章取義」であると言わざるを得ませんね。



【4】

いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、
ただ韋提および仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、
証して〈生ずることを得〉とのたまふ。(観経疏)


★コメント★

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っています。


 そして、善導大師『観経疏』において、この言葉を以下のように解釈され、その解釈を法然上人は『選択集』(第12章)に引用され継承されています。


●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


 素朴な疑問ですが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は、本当に『観経疏』読んでいるのでしょうか?
 もしも読んだ上で、『観経疏』のこの箇所を意図的に挙げないというのであれば、やはりこれも『観経疏』が伝えようとしている内容を故意に歪曲している「断章取義」と言わざるを得ません。



 以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事に若干のコメントを加えさせて頂きました。

 自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた資料の「原典」が、皆一様に最も強調して勧めているのが「念仏」であることは明かです。
 それを、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は「断章取義」し「原典」のコンテキストから離れた意味を導き出そうとしました。

 私見ですが、今回のように、親鸞会関係者の挙げる「論拠」は露骨な「断章取義」が行われている危険があります。
 自称デカ丸(実際はちび丸)氏自身も「御不審な方は原書をお読みください」と仰っておられますので、親鸞会関係者の言葉は安易に信用しないで、各自が必ず「原典」に当たって再確認していく必要があるでしょう。


以上

親鸞会教義の相対化・79(投稿)

清森義行様


 今日は『無量寿経』の第十八願に説かれる「唯除五逆誹謗正法」について、まとめておきたいと思います。



§1問題の所在

1-1『無量寿経』第十八願

『無量寿経』の第十八願の対象は「十方衆生」であり、この願は、阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人を全て救い取る願ですが、

ただ、五逆罪を犯す者と正法(仏教の教え)を誹謗する者を浄土往生から除く。

とあります。


「五逆罪」とは、

1,父を殺すこと
2,母を殺すこと
3,阿羅漢(覚った仏弟子)を殺すこと
4,仏教教団を乱すこと
5,仏の身を傷つけて血を流すこと


の五つの罪で、この正法を誹謗することと五逆罪を犯すことは、八大地獄でも一番ハードな阿鼻地獄(あびじごく)・無間地獄に堕ちるぐらいの、仏教では最も重い罪であるとされます。



1-2『観無量寿経』

一方で『観無量寿経』には、

衆生のうちには、あるいは不善な行為である五逆や十悪を行い、
その他多くの不善をすべてそなえてるものがあろう。
このような愚人は、その悪い行いが原因となり、
地獄・餓鬼・畜生などの悪道に落ちて、永遠の時をすごし、
苦をうけることができまりないであろう。

このような愚人は、その命が終わろうとするときにあたって、
善道に導く高徳の人にめぐりあい、
その高徳の人はいろいろとなぐさめて心安らかにさせ、
そのためにすぐれた教法を説いて聞かせ、仏を念ずるように教える。

だが、この愚人は苦しみに責めたてられて、仏を念ずる余裕がない。
そこで、その高徳の友人は告げて言った。
「もしお前が仏を念ずることができなければ、無量寿仏と称えるがよい」

その言葉とおりに、まごころをこめて、その称える声を途切れさせることなく、
十念の全てをそのうちにこめて、「南無阿弥陀仏」と称えた。

仏の名を称えるのであるから、一念一念と重ねるあいだに、八十億劫にわたる生死輪廻を続けなければならないほどの罪悪を消し去ることになる。

とあって、五逆という重い罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申すことによって救われることができる。と釈尊は仰っておられます。



1-3『無量寿経』と『観無量寿経』の矛盾

●「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」
by.『無量寿経』

●「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
by.『観無量寿経』

という二つの経典の記述は矛盾しますので、浄土教の祖師方の間で、大きな問題となったのです。



§2曇鸞大師と善導大師の解釈

※親鸞会教義の相対化・28で述べてことを再掲します。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

2-1曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、

「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」

と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?

また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。

もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、
このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、
その誤った見解に、心が定まってしまうことを、
「正法を謗る」というのである。

というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。


つまり、

・釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。

・阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

そのように曇鸞大師は解釈されているのです。



2-2善導大師の解釈

善導大師は『観経疏』散善義において、

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、
「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、
これらの者の往生を許さないが、
いまこの『観経』の下品下生のところでは、
正法を誹謗するものをえらび除いて、
五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、
いったいどういう意図があるのか?

答える。
このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、
抑えとどめる教えの上で解釈する。
四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、
実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、
衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、
途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、
ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、
たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、
これもまた、おさめとらぬというのではない。

また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、
正法を誹謗するものを除いているのは、
五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、
迷いの世界に流転させることはできないから、
かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、
法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、
もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、
もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。

というように、

★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、

まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、
「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」
と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)

であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
(『観経』)という記述は、

すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、
阿弥陀仏は見捨てることなく、
大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)

であると解釈されます。

つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。



§3法然上人の解釈


法然上人は善導大師の解釈を受けていますので、未だ罪を犯していないものには、罪を犯さないように戒めつつ、罪を既に犯してしまっているものに対しては、浄土門の教えは、十悪や五逆という重い罪を犯したものでさえ、救われるとお説きになっておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
罪は十悪五逆の者も生まると信じて、
小罪をも犯すさじと思うべし。
罪人なお生る、況(いはん)や善人をや。
『一紙小消息』

(訳)
罪に関して言うならば、「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じて、
「どんな小さな罪も犯すまい」と思うべきである。
罪人でも往生できる。まして善人は言うまでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じる・・
信仰の立場
2)「どんな小さな罪も犯すまい」と思う・・実践の立場

と、まとめることができるのではないかと思います。


1)は、いかなる人でも救うという阿弥陀仏の本願に対する、信仰の立場だと思います。

どんなに罪を犯してしまった人であっても、その罪を懺悔し、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができます。

そのことを疑ってはいけません。ひたすら信じてお念仏申すことが大切です。

2)は、阿弥陀仏に救って頂く私たちが、最低限守っていくべき道徳的な実践の立場であると思います。

どんな人でも救ってくださる阿弥陀仏ですが、阿弥陀仏が救ってくださるからと言って、好んで悪いことをしていいはずがありません。

悪いことは悪いこと。罪は罪。

仏様が悪いことを勧めるはずがありません。「罪を犯せ」と勧めるような仏様はどこにもおりません。

いかなる人をも救ってくださる阿弥陀仏を前にして、自らの至らなさを恥じつつ、そういう自分でも救ってくださる阿弥陀仏の本願を有難く仰いで、「どんな小さな罪も犯すまい」と可能な限りの努力し実践していくべきである。

法然上人はそのように教えられています。



§4『浄土宗略抄』

最近、「デカ丸」(※実際は「ちび丸」という方の名義詐称のようです)を名乗る方が、『浄土宗略抄』における法然上人の言葉を引用し、「法然上人が善をすすめている」ことの根拠とされていました。

しかし、苦笑氏が指摘されているように、前後の文章を読むならば、上記の『一紙小消息』と全く同じことが述べられていることは明かであり、『浄土宗略抄』の文章の一部を取り出して「法然上人が善をすすめている」ことを強調するのは所謂「断章取義」であると思います。

~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-170.html

心の善悪をも顧みず罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば仏の誓によりて必ず往生するぞと決定の心を起こすべきなり。
その決定の心によりて往生の業は定まるなり。往生は不定に思えば不定なり、一定と思えば一定する亊なり。
せんじては仏の誓を憑みていかなるところをも嫌わず、一定迎えたまうぞと信じて疑う心のなきを深心とは申しそうろうなり。

いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、
善の三業をば真実心の中になすべし」とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、
心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。

ただ弥陀の本誓の善悪をも嫌わず名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、
名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、
深く信じて疑う心一念もなかれという意なり。『浄土宗略抄』

(苦笑ちゃん訳)
心の善悪を問題とせず罪の軽重いも問題にせず、「ただ口で南無阿弥陀仏と申したならば仏の誓によって必ず往生するのだ」という「決定の心」を起こすべきである。
その「決定の心」によって往生することができる行為(往生の業)が定まるのである。往生が定まっていない(不定)と思うならば往生は定まっていない。間違いなく確定している(一定)と思うならば間違いなく確定している。
結局は、仏の誓を憑んで、阿弥陀仏はどのような場所であっても嫌わずに間違いなく迎えてくださると信じて、疑う心がないことを「深心」と言うのである。

阿弥陀仏がどんな過ちを犯した人をも嫌わないからと言って、その教え(法)を自分の都合に合わせて受け取り勝手気ままに振る舞うべきではない。
それ故に善導大師も「善くない三業が起きた時は、真実心を持ちながらそれを捨てるべきである。善い三業は、真実心を持ちながらそれをなしていくべきである」と解釈されているのである。
また、「善い行い(善業)でなければ、敬ってこれから遠ざかるべきであり、それに随喜してはいけない」と解釈されているのだから、心の及ぶ限りは罪を犯すことを恐れ、善にすすむべきであると心得なさい。

ただ、阿弥陀仏の本来の誓願が人が善であろうと悪であろうと嫌わず、名号を称えれば必ず迎え取ってくださると信じ、
名号の功徳があらゆる過ちをも除き滅ぼして、一念でも十念でも必ず往生することができることの素晴らしいことを深く信じて、疑う心は一瞬もあってもならない、という意味である。
~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~



§5所謂「悪人正機」について


最後に、上記の法然上人の教えは『歎異抄』の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と全く矛盾しません。

『歎異抄』では、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」に続いて、

自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。

と述べられているわけですが、

『歎異抄』においては、

1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、自力作善の人という意味の「善人」のことで、
2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のことであり、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されていて、罪を犯したかどうかという道徳的基準では定義されてはいません。

そして、
1)「阿弥陀仏の本願をたのんでいない人=善人」でも往生できる。
2)まして「阿弥陀仏の本願をたのんでいる人=悪人」が往生できることは言うまでもない。

ということが述べられております。

つまり、ここでは世間的な倫理道徳として扱われる「悪=毒」とは違う意味で、「善人」「悪人」が定義されており、上記の法然上人の教えとも、

●『親鸞聖人御消息』37、『末灯抄』16
●『親鸞聖人御消息』4、『末灯抄』19
●『親鸞聖人御消息』2、『末灯抄』20

これらにおける親鸞聖人の教えとも、全く矛盾しないものであると思います。


以上
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