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質疑応答207

【質問】


ブログ「奥越親鸞学徒の集い」に、東本願寺(真宗大谷派のことだと思いますが)の教義を、

「こんな呆れた教義を
 体験至上の異安心の輩は
 真実と宣伝し、
 親鸞会を非難攻撃して
 いるのだから、
 おそまつ至極である。」


とあります。私は親鸞会を批判しているのは脱会した人だと思っていましたが、
ここまで読んできて一体何のことだか分からなくなってきました。

・「体験至上主義の異安心の輩」というのは誰のことなのでしょうか。
・その首謀者は東本願寺の教義を「真実」といって宣伝しているのでしょうか。
・このブログは一体誰を批判しているのでしょうか。

分かる範囲で教えていただければと思います。
よろしくお願いします。



【回答】


 最初に、確実なことは、上記ブログの管理人にしか分かりませんので、あくまで私の親鸞会での経験から予想した回答となることを御了承ください。



 まず、親鸞会という団体は、「レッテル貼り」というのが大好きな団体だと、私は感じています。

 戦時中の日本では、「鬼畜米英」と教え込み、英米人には角が生えていると本気で信じている国民も少なくなかったと聞いたことがありますが、似たような状況だと思います。

 例えば、私が親鸞会にいた時でも、「本願寺では、(信心が無くても)念仏さえ称えていれば浄土往生できると説いている」と、何回も聞きました。

 何万人という東西本願寺の僧侶の中には、そのように説いている人もあったかも知れませんが、まともに勉強している僧侶ならば、そんな教え方はしませんし、当然、東西本願寺の公式見解でもありません。

 しかし、親鸞会の会員の多くは、自分の目で確かめるということしませんので、上司から言われたことを、そのまま信じてしまうのです。



 さて、上記ブログには、「体験至上主義の異安心の輩」が、親鸞会を批判していると書いてありますが、親鸞会を批判しているサイトを検索すると、その殆どが、親鸞会の元会員によって運営されています。

 そして、上記ブログの内容も、それら批判サイトの反論という形で書かれていますので、元会員の批判者に対して「体験至上主義の異安心の輩」と表現していることは明らかです。

「体験至上主義」の意味も不明瞭ですが、最近の顕正新聞などを読むと、「信心決定の体験談ばかりを話し、そのような体験談を聞くだけで救われる」という教えのようです。

 実際には、どの批判サイトを読んでも、信心決定の体験談など載っていませんし、そのような説法をしているという話も、聞いたことがありません。(清森問答に、かつてS講師の体験談を投稿として掲載したくらいです。)

 ですから、これも「レッテル貼り」ではないかと思われます。



 そもそも、昔は、高森先生は説法で「信心決定の体験談」を度々話していましたし、高森先生の初の著書である「獲信の記録」は、信心決定の体験談ばかりが収録されています。

 親鸞会の言い方だと、高森先生も「体験至上主義の異安心の輩」だったということになりますが、この程度のことも隠蔽されていて知らないのです。



 次に、東本願寺の教義云々の件ですが、これも批判内容の「すり替え」を行っているだけで、批判サイトと東本願寺とは、特に関係ないと思われます。

 例えば、かつて親鸞会では、高森先生の出身団体である華光会を批判するために「これが獲信か」というパンフレットを作っていましたが、その中には、華光会と全く関係ない土蔵秘事についての内容を書き、それを批判することによって、華光会が土蔵秘事であるかのような印象操作を行っていました。

 ですから、親鸞会としては、批判に対してまともに答えられないので、「批判サイト」=「東本願寺」とレッテルを貼り、東本願寺を攻撃することによって、会員には批判サイトが間違っていると印象づけようとしているのだと思います。



 いずれにしても、親鸞会の教義に対する批判に、まったく答えられないことが、原因であると思います。もし、批判に答えられるのであれば、サイト名や、アドレスを明示し、内容を引用するはずです。

 数年前までは、親鸞会に対する批判は、どんな些細な内容でも「法戦」に掲載し、会員に徹底していました。相手によりますが、相手の氏名や寺院名も公開していました。

 もちろん、相手からの批判の文章も、そのまま引用しており、その内容を歪曲するようなことは、余りしませんでした。論破する自信があったので、そんな汚い手段に出る必要がなかったのです。

(「本願寺なぜ答えぬ」だけは勝ち目がないと思ったようで、相手の主張を引用せず、歪曲して会員に伝えています。)



 ところが最近は、相手の名前やサイト名を特定せず、批判の内容を歪曲して掲載しています。

 批判内容を歪曲するのは、批判に答えられない証拠です。そのことが会員に発覚しないように、相手が誰かということも隠さざるを得ないのでしょう。



 批判サイト側から見れば、「そんなことは主張していない」と反論しても、「あなたのサイトのことではありません」と言われれば、それまでです。

 それに、「体験至上の異安心の輩は…」と書いてある文章に反論すれば、「あなた達は、やっぱり体験至上主義の異安心なのですね」と言われてしまいます。



 そういうわけで、このような書き方は、親鸞会の教義の誤りを隠し、批判から身をかわすために、非常に効果的な方法だと思います。

 その狡猾さには感心しますが、こんな下らないことを研究する時間があるのであれば、少しでも正しい教学を勉強してほしいと思わずにおれません。
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質疑応答205

【質問】


 親鸞会OBネット(http://www.shinrankai-ob.net/)というサイトが、親鸞会の圧力によって潰されてしまいました。
 特専部長と思われる人物から、以下のような内容の内容証明郵便が送られてきたということです。
 このような親鸞会のやり方について、どのように思われますでしょうか?


> 当職は、浄土真宗親鸞会(以下,単に「親鸞会」といいます)の代理人として,以下の通り通知いたします。
>  貴殿は、「shinrankai-ob.net」というドメイン名を使用して,「親鸞会OBネット」というサイトを運営しています。
>  同ドメイン名には,「shinrankai」という文字が含まれているため、閲覧者は親鸞会が運営しているものと誤認混同します。また、その名称にも「親鸞会」の文字が含まれているため,この点からも,閲覧者は同サイトを親鸞会が運営しているものと誤認混同します。貴殿の行為は氏名冒用による人格権の侵害に当たり,違法です。従って,直ちに上記サイトを閉鎖し、ドメイン名の使用も停止することを要求します。
>  もし,本書到達後2週間以内に何らかの措置もとられない場合,当職としては,法的手段を執る所存ですので,その旨ご了承ください。
>  尚,本件については,一切を当職が受任しておりますので,今後の連絡は,親鸞会に直接することなく,必ず当職宛にお願いいたします。




【回答】


「氏名冒用による人格権の侵害」云々と書いてありますが、本当の理由は、親鸞会にとって都合の悪い事実が書かれているため、会員に見られたくないということでしょうね。
 最初から、知られたら困るようなことをしなければ良いだけのことですが、このような方法で隠蔽しようという体質は、仏法者とは思えません。

 そもそも、「親鸞会」という名称は、親鸞聖人に対する「氏名冒用による人格権の侵害」ではないでしょうか?
「親鸞会」という団体名には、「親鸞」という文字が含まれているため、親鸞聖人の御教えが説かれているものと誤認混同します。

 教義的な誤りを改める気がないのであれば、「高森会」など、適切な団体名に改めるべきだと思います。

質疑応答200

【質問】


元会員の者です。
こちらの記事を拝見し、手元にあった改邪鈔をひもといてみましたが

「今の新義の如くならば、最も聖人の御名を載せらるべきか。
然るにその義なき上は、是れまた非義たるべし」

という一節があり、ん?となってしまいました。
(親鸞聖人のお名前を載せるべきだ、と私にはみえてしまったので)

清森さんはこの部分について、どのように解釈されていらっしゃるのか、
お教え頂ければ幸いです。



【回答】


 以前からお願いしておりますが、質問はコメント欄ではなく、メールにてお願い致します。


「今の新義の如くならば、最も聖人の御名を載せらるべきか。然るにその義なき上は、是れまた非義たるべし」

 この部分について説明します。


「今の新義」とは、ここまでに書かれている新しい教え、つまり、善知識が本尊に名前を書くという教えのことです。


「今の新義の如くならば、」→「善知識が本尊に名前を書くという教えの如くするのが正しいのであれば、」

「最も聖人の御名を載せらるべきか。」→「親鸞聖人も御名前を書かれたはずだ。」

「然るにその義なき上は」→「しかし、親鸞聖人がそのようにされなかったのであるから」

「是れまた非義たるべし」→「これは、非義(教えに反している)ということである」


 分かりやすく書きますと、

 本尊に善知識の名前を書くのが正しいのであれば、親鸞聖人も書かれたはずだ。しかし親鸞聖人が書かれていないのだから、これは間違いなのである。


 という意味になります。


※読者の方からご指摘があり「非義なるべし」→「非義たるべし」と修正しました。失礼いたしました。

質疑応答176

【質問】


以下のような、親鸞会のブログがあります。


そらごと。たわごと。
http://blogs.yahoo.co.jp/soratawa/7463749.html


当該記事のコメント欄で、元会員と、管理人のやりとりがありました。
以下、引用いたします。



>「高森先生の著作は盗作ではない、それをもし盗作というのなら
>親鸞聖人の教行信証も盗作だ」との主張を読ませて頂きました。
>親鸞聖人も高森先生も、他者の言葉を自著に数多く記載している
>という点では同じです。

>それを「盗作だ」と批判する人もいれば、
>「盗作ではない」と弁護する人もいます。

>このブログの内容について、以下のような反論もあるようです。
>「親鸞聖人の引用のされ方と高森氏のやり方は異なるので、高森氏は
>盗作を行なっている」との主張のようです。

>是非、以下のサイトへの反論をお聞かせ頂きたいです。
>よろしくお願いします。

>高森顕徹氏の盗作問題
>http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/04/post-39ce.html#comments



>2009/4/11(土) 午後 5:23 [ 元会員A ]



>それを言うなら高森先生の「盗作」の「オリジナル」であるとしている大沼何某・伊藤何某の著作の該当箇所が彼らのオリジナルである証拠を教えて下さい。
>そもそも「創作」を善しとすること自体「更に親鸞珍しき法をも弘めず」の御心をよく理解していないとしか思えません。
>本当に元会員なのでしたら、今一度初心に帰って「珍しく初めたるように」聴聞し直されることをお勧めします。



>2009/4/12(日) 午前 0:50 [ soratawa ]


この、親鸞会サイドの主張について、清森先生はどのように思われますでしょうか?
清森問答で取り上げて頂ければと思います。



【回答】

 一通り、読ませて頂きました。


 つまり、大沼法竜氏や伊藤康善氏の著作も、盗作である可能性があるから、それを盗作しても構わない、という主張ですね。

 こんなことを認めるならば、盗品である可能性のあるものは、盗んでも良い、ということになってしまいます。


 だいたい、私達の持っているものは、領収証でも保管していない限り、盗品でないことを証明することは難しいでしょう。

 そうなりますと、どこに泥棒に入ってもOKということになってしまいます。


 こんな低レベルな反論をしていることに、ますます失望いたしました。


 ちなみに、盗品であっても、それを盗めば犯罪ですし、盗作であっても、それを盗作すれば犯罪になります。

 百歩ゆずって、仮に大沼法竜氏や伊藤康善氏の著作が盗作だったとしても、それを盗作して良い理由にはなりません。



 あと、誰も「創作」を善しとするなんて主張していないと思います。

 問題になっているのは、「引用元を隠している」という点のみであって、オリジナリティの無いことを批判しているのではありません。

 こういうのを、「問題点のすり替え」と言います。


 親鸞聖人は、珍しき法を弘められなかったからこそ、どの書物からの引用かを一つ一つ明らかにされています。

 高森先生は、引用元を隠して、さも自分で書かれたかのように装っていることが問題となっているのです。


 蛇足ですが、高森先生の教えについては、「創作」も多いと思います。

「清森問答」でも度々取り上げていますが、釈尊や親鸞聖人の教えと違うところが、多数見つかっています。

 誰もオリジナリティは求めていませんから、まず間違った教えを正して頂きたいと思います。

質疑応答168

【質問】


 すでにご存知かとは思いますが、山中君という学生さんが、児玉氏を相手に法論をしているようです。


若不生者の「生」は、なぜ「信楽に生まれる」なのか
http://nyakufushouja.blog115.fc2.com/


 この中で、児玉氏は、

>仏法の質問に答えるのには

>信心沙汰といって

>蓮如上人も直接ひざをつきあわせて

>面とむかって話しをなされました。


このように言って、メールでの返答を拒否しているようですが、このような児玉氏の態度について、清森先生は、どのように思われますでしょうか?



【回答】


 この点につきましては、高森先生が、以下のように書かれています。


(以下、引用)

 最後に「お互い書面では一方通行になると思いますから、今後は面接の上、口頭でお問い願います」と仰有っていられますが、貴殿の御意の理解に苦しみます。
 言葉で話せることが文章に出来ない道理がないからです。言葉で話したことは「言うた」「言わない」という水かけ論になったり、「そんな風に言った覚えはありません」などと逃口上を作るのには重宝ですが、文書だとそのような無責任なことは許されないばかりでなく、何時何時までも、多くの人々に真実を知って頂ける勝縁になりますから、仏意を開顕する為には文書交換が最良の方法だと考えます。逃げることだけに懸命な人を相手に諍論する時などは、特に大切なことだと思いますが如何なものでありましょうか。
 故に、「返事をこれで打ち切らせて頂きます」などと仰有らずに貴殿と私との見解に相異があればある程、仏の正意を開闡する為にお互い微力を捧げようではありせんか。貴殿の奮起を期待して止みません。
 御自愛を念じ上げます。
合掌

昭和四十七年二月九日
高森顕徹
J・A殿

(法戦②、p123~p124)


 この高森先生の教えを基準に考えるならば、児玉さんは、「逃げることだけに懸命な人」ということになるでしょう。
 上記のサイトは、私も読ませて頂きましたが、肝心な質問には一切答えず、返答をはぐらかしてばかりという印象を受けました。

 児玉さん自らが、ブログを作って仏意を開顕しなければならないのに、それもせず、学生がせっかくお膳立てをしてくれたのに、そこからも逃げ出す。
 正直なところ、児玉さんに失望しました。非常に残念です。
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