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質疑応答213

【質問】


 親鸞会講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」では、二河白道を以下のように解説しています。

 以前の清森問答で、親鸞会の二河白道の解釈はおかしいと書いてありましたが、どのように思われますでしょうか?


> それを善導大師は二河白道の譬えで、
> 白道を進む旅人が、
> 両側から押し寄せる水火の波に
> 畏れると教えられている。
>
> 旅人に西へ向かえと勧める
> 釈迦の教えに従い、
> 真摯に進めば進むほど、
> 欲や怒りの水火の難はいよいよ逆巻く。
> 水火の大河に堕ちはせぬかと畏れる旅人が、
> 三定死に立って、
> 堕ちるに間違いなしと知らされた時、
> 西岸上から「畏れるな」の
> 弥陀の呼び声を聞くのである。




【回答】


 善導大師が教えられた「二河白道の譬」では、親鸞聖人が教行信証に引用されているように、弥陀の呼び声を聞いてから白道を進み始めます。

 親鸞会で説かれる「二河白道の譬」では、白道を進んでいった後に、弥陀の呼び声を聞きます。

 順番が、まったく違います。
 なぜ、このような違いが生じたのでしょうか。

 私の推測ですが、「信心決定するために善をしなければならない」という親鸞会の教えを正当化するためだと思います。



●白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。(愚禿鈔)


 これは愚禿鈔のお言葉ですが、ここに書かれているように、白道とは六度万行だから、信心決定するまで六度万行に励まなければならないのだ、ということを親鸞会で聞いたことがあります。

 しかし、この解釈には問題があります。
 このお言葉は、「白道」を「白」と「道」に分けて解説されています。

「白」とは「黒」に対する言葉であり、
「白」=六度万行・定散善、「黒」=六趣等の悪道

「道」とは「路」に対する言葉であり、
「路」=自力小善、(書かれていませんが、当然「道」=他力)



 つまり、白道が自力ということは有りえません。
「19願の善」に励むことが白道を進むことになる、などという解釈は成り立たないのです。



 当然、善導大師の譬えも、呼び声を聞いてから白道を進み始めるわけなのですが、親鸞会にとっては、大変都合の悪い話です。

 ですから、親鸞会に都合の良いように、教行信証の内容を改竄(かいざん)して説法で話しているのです。



 最近、大阪地検の検事が、証拠を改竄したとして大変な問題になっています。普通は、検事が証拠を改竄しているなどとは思いませんから、騙されてしまうと思います。

 親鸞会の会員も、まさかお聖教の根拠が改竄されて説法されているなどどは、夢にも思わないでしょう。私も、会員のときは騙されてしまっていました。


 親鸞会で教えていることは、基本的に「改竄かもしれない」と疑って、原典や仏教書を調べ直す必要があると思います。

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質疑応答210

【質問】


 ブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」では、親鸞会を批判するサイトの首謀者は東本願寺と決めつけ、本願寺の木像本尊を批判しています。
 しかし、文献によれば蓮如上人は山科本願寺に木像本尊を据えられたと記録されていますし、覚如上人も形像本尊を下付されたとされています。
 このようなことを考えると、絵像・木像を礼拝しているからといって、必ずしも間違いではないように思いますが、いかがでしょうか。



【回答】


 浄土真宗において最も尊ぶべきもの(本尊)は、阿弥陀如来あるいは名号であることは常識だと思いますが、私たちを救う力があるのは金ピカの仏像でもなければ、紙に描かれた文字でもありません。これらのものは、マッチ1本で灰になってしまうものです。

 本当の阿弥陀如来や名号は、形のあるものではありませんし目にも見えません。ですから本来の「本尊」には形など無い(永遠普遍的なものである)と思いますが、ここでは「礼拝対象としての本尊」について説明していきます。

 もともとお釈迦様の教えには仏像や、紙に描いた本尊という発想はありませんでした。仏像が作られるようになったのは、お釈迦様が亡くなられて500年以上たってからであり、他宗教の文化の影響を受けて作られるようになったといわれています。つまり、本尊への礼拝は、古来の仏教の教えではありません。



 浄土真宗における本尊の意義について考えてみますと、親鸞聖人ご真筆の名号本尊の裏書には「方便法身尊号」と書かれてありますから、これは方便法身としての本尊ということになります。

 方便といいますのは、真実の分からない私たちを導くための手段として、相手に合わせて説かれる教えのことです。
 相手の考え方や習慣、仏教の理解の度合いによって方便の教えは変わりますので、「必ずこうでなければならない」というものではありません。

 ところが上記のサイトでは、

> 言うまでもなく仏教で本尊とは、
> 本来最も尊重さるべきものであり、
> 根本に尊ぶべきものであるから、
> 信奉者にとっては
> 唯一、絶対、永遠、普遍、不可分の
> ものでなければならない。


と主張し、親鸞会発行の「法戦4集」では、

> 教えに狂った絵像、木像を本尊としているようではその教えも狂ってしまうことは当然でしょう。そのような教えを求めていても絶対助からないのは当り前です。

と東西本願寺を攻撃しています。



 まず、名号本尊が「唯一・絶対」であり、木像・絵像では救われないのか、ということについて考えてみましょう。

 もし名号本尊を礼拝しなければ救われないのであれば、親鸞聖人は救われておられませんし、お釈迦様時代は本尊さえ無いのですから、誰も救われなかったことになります。



 なお、親鸞会発行の「こんなことが知りたい2」には、

> 親鸞聖人御自身、生涯御名号のみを本尊として仰がれただけでなく、弟子や同朋達にもお勧めになったという事実は、種々の記録によって極めて明らかです。(こんなことが知りたい2)

と書かれてありますが、実際は、親鸞聖人が名号本尊とされたのは晩年になってからと言われています。

 少なくとも、法然上人のお弟子であった時代に、師匠が木像本尊を礼拝しているのに反して、一人だけ名号本尊を礼拝していたとは考えられません。(まして比叡山ではありえません。)

 このように、親鸞聖人のなされたことにまで平気で嘘を書き、自分の都合の良いように歴史的事実をネジ曲げるというやり方は、親鸞聖人を尊敬する気持ちが少しでもあったならば出来ないことだと思います。



 また、親鸞聖人の書かれたものをどれだけ探しても、礼拝対象をどうすべきかということは、一切書かれていません。

 親鸞会が主張するように、本尊が「唯一、絶対、永遠、普遍、不可分」であり、「本尊が狂っていたら絶対に助からない」というほど重要なことであれば、なぜ一言も書かれなかったのでしょうか。

 覚如上人も、親鸞聖人が名号本尊を礼拝されていたという事実は記されていますが、だから名号本尊にしなさいとは教えられていません。

 親鸞会でやたらと重要視される御一代記聞書の「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」のお言葉も、「(前々住上人)仰せられ候」と書かれていませんから、弟子の言葉であると考えられます。

(百歩譲って、仮に蓮如上人のお言葉だとしても、名号本尊が唯一絶対であるならば、「木像も絵像もダメ、名号のみが正しい」と説かねばならないはずであり、「木像よりは絵像…」と教えられた蓮如上人は嘘つきということになってしまいます。)



 つまり、善知識方の書かれた聖教のどこにも、礼拝対象をどうすべきかという教えは存在しないのです。

 もちろん、親鸞聖人が晩年に名号本尊を礼拝されていたのは事実ですし、あえて木像や絵像を本尊にする理由もありませんので、東西本願寺のやっていることが良いとは思いません。

 しかし、親鸞聖人が重視されたのは、「礼拝対象」ではなく「教えの内容」ですから、お聖教に書かれていないことを殊更に重視し、本願寺を攻撃するやり方には違和感を覚えます。

 要するに、名号本尊でなければ救われないという教えを捏造し、本尊を「本願寺を攻撃するための道具」として悪用しているだけではないでしょうか?



 もし、本尊について問題にするのであれば、お聖教に書かれてあるのは「本尊を取り返してはならない」ということと「本尊に知識の名を記してはならない」ということの2つだけです。(改邪抄)

 この両方に親鸞会は違反しています。

 ある講師が、「親鸞会の本尊は貸与なのだから、返すのが当然だ」と言っていたそうですが、親鸞聖人が本尊のレンタルなどをされたでしょうか?

 まして、退会しようとしている人の家に多人数で押しかけ、夜中の3時まで居座って返却を迫るというやり方は、明らかに改邪抄の教えに反するものです。

 また、親鸞聖人の御真筆の名号本尊に「親鸞」の2字を貼り合わせ、知識の名を記した本尊を捏造しています。

 さらに、低額で作成した本尊に対し、高額の御報謝を要求し、金儲けの道具として使っているとしか思えません。



 お聖教には無い「木像・絵像本尊」は異常なまでに問題にするのに、お聖教に明らかに反する「本尊とり返し、貼り合わせ本尊」を平気で行うということは、最初から教えに従おうという気が無いのだと思います。

 親鸞会にとっての「本尊」とは、「本願寺を攻撃するために」「やめようとする会員を引きとめるために」「金を儲けるために」最も重宝なものだという意味なのでしょうか?

 もしそうだとすれば、「本尊が狂っているから助からない」というのも当たっていると思います。

質疑応答195

【質問】


 最近、コメント欄に以下のような投稿がありました。念のため、お知らせいたします。


> さて、今回は教えて頂きたいことがあり、コメントさせて頂きました。
> ご存知のように、親鸞会の本尊は南無阿弥陀仏の左に「親鸞」と合成複写してあります。これは改邪鈔本の【七・本尊聖教に知識と号する者の名を記すまじき事】に反するように思います。しかし、親鸞会では
> ・改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの(親鸞会には当てはまらないと言いたいのでしょう)
> ・親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけだ
> といいます。
>
> そこで上の改邪鈔の意味と、この件に関する清森さんの見解を教えて頂ければと思います。既に示されている所がありましたらリンク先を教えて下さい。よろしくお願いします。




【回答】


 最初にお願いですが、ご質問はなるべくメールで頂ければ有難く思います。

 まず、最初の「改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの」というのは、ある意味では当たっていると思います。

 改邪鈔の最後のお言葉を読むと、以下のように締めくくっておられます。

●これを案ずるに、知識の所存に、同行あい背かん時、「わが名字をのせたれば」とて、せめ返さん料のはかりごとか。世間の財宝を沙汰するに似たり。もっとも停止すべし。

 つまり、善知識を名乗る者に背く者から、本尊を取り返そうとすることが問題だと教えられています。

 親鸞会では、夜中の1時過ぎに講師部員が会員を10人近く連れて、本尊を取り返しに行くということが平気で行なわれています。また、深夜にアパートの前で講師部員に待ち伏せされ、本尊を返すように強要され、その場で他の人に連絡を取ったら携帯電話を取り上げられるという非常識なこともありました。

 こういうことをするのは悪知識ですよ、と教えられているわけですが、まさに親鸞会のことではないでしょうか。


 次に、親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけという主張ですが、それだと名号に知識の名を記しても良いということになりますね。
 覚如上人の教えは間違いだと、親鸞会では教えていることになります。

 そもそも、親鸞聖人があえて何も書かれなかったところに、わざわざ他から切り取ったものを貼り付けなければならない意義がどこにあるのでしょうか?

 ご名号だけだと有難く思えないので、親鸞聖人のお名前を貼り合わせることによって箔を付けなければならないと思っているようです。

投稿:「辛口!真宗時評」管理人様

 ある方から、投稿を頂きました。

 以下のサイトの管理人はmakino hiroshi氏だと聞いていますが、もしこれが親鸞会の牧野講師であったら、非常に残念なことだと思います。

 他人のコメントを勝手に改変して、都合の悪いところを削除して掲載するなどということは、管理人としてやってはならないことです。

 親鸞会では、お聖教の言葉の一部を改変したり、削除するということがよく行われていましたから、それを真似てしまったのかも知れません。

 もし、makino氏がこのサイトを読んでおられるなら、コメントを改変したり、隠したりせずに、正々堂々と議論することを、強くお勧めします。


        *        *        *

 辛口!真宗時評(10月5日)
 http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/577/
 
 
 [こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか]
 ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
 登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
 
 (中略)
 
 上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
 はなれたと、言わざるを得ません。


        *        *        *

 この記事に対して10月7日、淀川コナンのHNで以下のコメントをしました。


私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。
 


 それに対して管理人(M氏)は以下の返信がありました。


コメント有り難うございます。
お尋ねしますが、
A「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心になれる時が必ず来るんだ
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
B「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
AとBとは、どこが違うのでしょうか。
誰が聞いても分かるような、決定的な違いを、聞かせてください。

 

 それに対して私は10月9日夜に、


管理人様。返信遅くなりました。
聡明な管理人様ならばお解りだと思ったのですが…。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。
Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。
また、その布教師は「一切衆生必堕無間と経典に書かれています」と言っていますが私はそんな経典を知りません。
管理人様はご存知ですか?



 というコメントを「管理人様」というタイトルでしました。
 しかし、タイトルは「無題」に変えられ内容は削られました。
 以下が、実際にブログに掲載されたコメントです。


管理人様。返信遅くなりました。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。

Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。



 そして、その改変されたコメントに対する管理人のコメントが以下の通りです。


>「Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に生ま
>れさせる、という解釈です。」
では、信楽に生まれさせるのは何の力ですか?


 そのコメントに対して10月10日の夜に以下のコメントをしました。(ネットカフェでコメントしたのでテキストが残っていないので正確ではありませんが内容はこんな内容です)


タイトル「断章しないで下さい」

管理人様へ
私のコメントを断章しないで下さい。
承認制なので不掲載は仕方ないですが、断章されたら私の意見が読む人に伝わりません。
あなたの行為は仏法者としてというよりも人間として恥ずべき行為です。
私の知っている布教師も断章が得意ですが。
また勝手にタイトルを無題にしないで下さい。
お尋ねの件ですが、私が問題にしているのは若不生者の生が何をどう生まれさせるか、その事を親鸞聖人はどう仰っているか、です。
何の力で信楽に生まれさせるか、は別の問題です。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ者として、誠意ある回答をお願いします。



 その私のコメントを掲載せずに、管理人が10月11日夜中に以下のコメントがありました。


> Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に
>生まれさせる、という解釈です。
「往生かならずさだまりぬ」にも係っていて、
これは「報土往生が定まる」ことですが、では、
「報土往生定まる」のは、平生ですか。死後ですか。
「報土往生する(極楽に生まれる)」のは、平生ですか。死後ですか。
(先の「信楽に生まれさせるのは何の力ですか」にもまだお答えを頂いていません)



 ここまでが、現時点での経緯です。

投稿

投稿です。


「こんなことが知りたい④」の、「(25)念仏誹謗の日蓮は偉大な男か」の中で、

「日本国の人、みな無間大城に堕ちむ事よ、悦ばしきかなや、楽しいかなや」と言うに至っては悪魔の言もここに極まれりと言うべきでありましょう。

と書かれています。


 いくら日蓮でもこんなことを言うだろうか、と疑問でしたが、この言葉には前後がありました。

「あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむことよ、悦ばしきかなや・楽しいかなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(撰時抄)


 ご存知かもしれませんが、御参考までに。

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