スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答220

【質問】


 親鸞会公式サイトのマンガのところに、本太郎を主人公にしたマンガが出ています。
 内容の低俗さにあきれますが、感想をきかせていただきたいです。
 清森様の回答は、すっきりしていて分かりやすいのでぜひ聞いてみたいのです。
 K.K.Kの一人は清森様のつもりだと思います。(華光、清森、近藤)
 別の質問に答えられている最中の質問で失礼とは思いますが、よろしくお願いします。

http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic35.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic37.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic39.htm



【回答】


 最近の親鸞会では、このようなものを公開しているのですか。元講師として恥ずかしいですね。

 K.K.Kの一人が私を指しているのかは分かりませんが、もちろんこのようなことは教えたことがありませんし、華光会や近藤さんも、こんなことは教えていないと思います。
 おそらく、有りもしない批判をデッチ上げ、親鸞会を批判する者たちは、こんなおかしなことを教えているのだと印象づけたいのでしょう。



 仏教は善を勧められた宗教ですが、善を勧められている理由は信心決定のためではありません。信心決定するために善に励んでいるとすれば、それは阿弥陀仏の御心に反する善ですので、雑行と言われます。

 では、親鸞会の人は、何のために善をしているのでしょうか?
 親鸞会で勧められている善といえば、具体的には、「破邪顕正」や「御報謝(御布施)」ということになると思いますが、ほとんどの会員は「後生の一大事の解決のために」という気持ちで励んでいます。
 そもそも、講師部員が「後生の一大事の解決のための御縁」と言って勧めているのですから、そうなって当然です。

 親鸞会では、「信心決定」=「後生の一大事の解決」と教えているのですから、信心決定するために善に励んでいる人ばかりということになります。
 建前上は「善で助かるとは言っていない」「聞く一つで救われると教えている」と主張したところで、講師部員や会員の現状がこうなのですから、説得力がありません。



 さて、マンガの中に、親鸞会の勧める善は19願の善だから、18願の救いに遇うために必要だという内容が書いてありました。
 前にも書いたように、19願は、臨終の救いを願って善をすることが勧められていますから、18願の救いに遇いたいと思って励む善を「19願の善」とは言いません。ですから、方便にさえならないということです。

 親鸞会では18願と19願を、意図的にゴチャマゼにして、結果的に地獄の恐怖を利用して、金集めや人集めをさせているだけのように思われます。



 本来、善というものは、それが善だと分かったら、せずにおれないものです。「絶対の幸福」というエサをぶらさげたり、「必堕無間」で脅さなければやる気の起きないようなものを、善とは言いません。そういう動機でやっていること自体、善ではない証拠です。

 親鸞会が批判されているのは、善を勧めているからではなく、仏教でいう悪ばかりをやっているからだということに、早く気付いていただきたいものです。
スポンサーサイト

質疑応答209

【質問】


 親鸞会では、よく縦の線と横の線をひき、左端に「人生の目的」=18願=信心決定=無碍の一道 と書いて、ここを進んでいって、この世界にでるのだと説明されます。
 あの、横の線を進んでいくという表現自体は、親鸞聖人の教えに照らし合わせて、正しいのでしょうか?
 また、「真剣に信心決定を求める」ことは良いことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?



【回答】


 まず、最初にお願いですが、当サイトでは質問はメール(タイトルに記載)にて受け付けておりますので、次回からはそのようにして頂けますでしょうか。



「横の線」と「縦の線」ということにつきましては、親鸞会独自の「二河白道の譬え」の解釈が元になっていると思われます。

「二河白道の譬え」の詳細な説明は省きますが、この譬えでは、火の河、水の河に行く手を阻まれて一歩も進めなかった行者が、弥陀の呼び声を聞いてから、白道を一歩、二歩と進んで、やがて浄土に到達すると説かれています。

 この譬えを「横の線」と「縦の線」に当てはめるなら、「横の線」は弥陀の呼び声を聞いてから浄土往生するまでの道程、「縦の線」は浄土往生した時ということになります。



 ところが、親鸞会で説かれる「二河白道の譬え」は、親鸞聖人の教えと全く違います。弥陀の呼び声を聞いていない行者が、火の河、水の河をかき分けて白道を進んでいき、進んでいった先で呼び声を聞くというオリジナルの譬えです。

 親鸞会で説かれている「横の線」と「縦の線」の話は、このオリジナル二河白道に基づいて作られていると考えられます。

 ですから、親鸞聖人の教えを示したものとは言えないと思いますが、これは別のことを示した図なのだと反論されるかも知れませんので、断定は避けておきます。



 ついでに申しますと、親鸞会では19願の善の実践が「白道」を進むことになると教えていますが、19願の行者は化土に向かっていますので、浄土への道のりである「白道」に乗っかっているはずがありません。

 親鸞会の人たちは、18願と19願を足して2で割った「18.5願」というのを求めているのではないかと思います。



 次に、「真剣に信心決定を求める」ということについてですが、質問者の方が、どのような意味で、この言葉を使っているのか分かりませんので、何ともお答えしようがありません。

 親鸞会の活動のようなものを指して尋ねておられるなら、今まで何回も述べてきた通りで、当然、間違っているとお答えいたします。

質疑応答206

【質問】


 親鸞会の公認ブログである「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」に、書いてある記事について質問します。

(本来は管理人に尋ねるべきでしょうが、受付先も不明で、コメント欄は都合の悪い質問は一切表示されませんので、清森さんにお尋ねします。)


 このサイトでは、親鸞聖人は、

>「まことの善ができると思って
> 一生懸命にやってみたが、
> 善をやっても雑毒の善しかできない。
> まことの善などできる私ではなかった。
> 出離の縁がかりの全くない私だった」

と知らされた方だと主張しているようです。


 一方で、次のようなことも書いてあります。

> 二千畳で聴聞した人ならば、
>
>「我々のやる善はたとえ
> 雑毒の善であっても善は善であり,
> 善は大いにしなければならない。
> しかし,私達の善で
> 出離は絶対できない。
> 迷いの世界から出て離れることが
> できるような真実の善はできない」
>
> と常に説かれいることは
> 周知の通りだ。


 結局のところ、親鸞会が会員に勧めている善は、「まことの善」なのでしょうか、「雑毒の善」なのでしょうか?



【回答】


 親鸞会が主張するように、「まことの善」ができると思って一生懸命やった人にしか、「まことの善ができない自分」と知らされないのであれば、当然「まことの善」を勧めなければなりません。

「雑毒の善でもいいからやりなさい」と勧めているのであれば、「善は出来る」ということが知らされるはずです。(雑毒の善なら出来る)

 親鸞会で勧める善を、いくらやっても、「まことの善が出来ない自分」と知らされるはずがありません。「まことの善」を勧めていないのですから。


 こんな自己矛盾した記事を、平気で載せてしまうということは、よほど仏教が分かっていないのだと思います。



 さて、私達にできる善と、私達にできない善の違いについてですが、親鸞会の教えと、仏教とはまったく違います。


 仏教では、善には「無漏善」と「有漏善」があると教えられています。

「無漏善」とは、煩悩の混じらない善ということで、これが出来ないと仏になれません。凡夫の私たちには出来ない善です。

「有漏善」とは、煩悩の混じっている善ということで、私たちにも出来る善です。


「有漏善」は、善をしても認められなかったり、喜んでもらえなかったりすると、怒りの心が起きてきます。この怒りを「毒」と言い、このような善を「雑毒の善」と言います。

 十分に認めてもらっていたり、心に余裕があれば、必ずしも怒りを起こすわけではありませんので、「有漏善」=「雑毒の善」とイコールの関係ではありません。



 仏教では、「雑毒の善」でも良いからやりなさい、と説かれることはありません。毒で苦しむわけですから、当然、「雑毒の善」にならないように教えられます。そのために「三輪空」の実践を勧められるのです。

 しかし私たちは、有漏善しかできませんから、結果的に「雑毒の善」になってしまいます。これは仕方のないことです。

 あくまで、「仕方ない」ということであって、「雑毒の善」を奨励されているわけではありません。最初から「雑毒の善」でいいと思って善をしているとすれば、そんなものは有漏善ではなく、「悪」になります。



 では、親鸞会で勧められている善は、「無漏善」でしょうか、「有漏善」でしょうか?

 もうお分かりだと思いますが、「無漏善」でも「有漏善」でも、ありません。「悪」になります。


 参詣目標、顕正目標に追われての「法施」、御報謝目標の達成や、真実開顕賞などの名誉欲をエサにぶらさげての「財施」などは論外です。

 目標や賞があったほうが頑張れる、と言い訳するかも知れませんが、目標や賞を無くしたら頑張れなくなるようなものは、布施とは言いません。

 こんなものを設定している時点で、親鸞会の活動は布施ではありませんと宣言しているようなものです。


 また、自身の信心決定のための「宿善」になるから、という理由での善の実践も、仏教の趣旨から大きく外れるものです。

 相手を、自分が助かるために利用しているだけです。


 結局のところ、親鸞会の人集め、金集めに利用されてしまっていることに、早く気付いていただきたいと思います。

質疑応答203

【質問】


 親鸞会では化土について教わった記憶がほとんどありませんが、親鸞聖人は、なぜ化土について説かれたのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人が化土について教えられているのは、教行信証の化土巻です。化土巻は、文字数でいえば教行信証の3割以上を占めており、非常に重要な教えであることに間違いありません。

 ここで親鸞聖人は、化土往生を、19願・20願の往生として説かれています。話が複雑になりますので、今回は19願の往生に絞って説明したいと思います。親鸞聖人は19願の位置づけについて、以下のように書かれています。


●しかるに濁世の群萠・穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なる者は甚だもって難く、実なる者は甚だもって希なり。偽なる者は甚だもって多く、虚なる者は甚だもって滋し。ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく所有海を化したまふ。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引摂の願」と名づく、また「至心発願の願」と名づくべきなり。(化土巻)

 このように親鸞聖人は、外道を離れ、仏門に入った人の中に「真なる者」「実なる者」は非常に少なく、「偽なる者」「虚なる者」が非常に多いと説かれています。
 そこで、「偽なる者」「虚なる者」を真実に導くために誓われたのが19願であると教えられています。

「偽なる者」「虚なる者」は、口では「浄土に生まれたい」と言っていても、心では「真実の浄土」に生まれたいとは思っていません。本当の浄土とは、私達の煩悩が喜ぶような世界ではないからです。


●大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。(真仏土巻)

 私達は楽しい世界を浄土だと思っていますが、楽しいことがあれば、楽しみが終わったときに苦しみを感じます。苦しみを感じる世界は浄土ではありません。だから、浄土は楽しみを断じた世界だと説かれています。

 ここでいう楽しみとは、煩悩の楽しみです。浄土は「浄らかな世界」という意味であり、仏教で「浄らか」というのは、「煩悩の穢れがない状態」を指しますから、浄土に煩悩の楽しみがないのは当然のことです。

 このような「真実の浄土」に生まれたいという心が起きない人に対しては、方便として、私達が生まれたいと思うような世界としての浄土が説かれています。これが化土に当たります。



 親鸞聖人は、化土のことを「辺地懈慢」とも仰っています。
「辺地」とは、境界線のある世界という意味で、誰でも自由に入ることのできない世界です。
「懈慢」の「懈」は懈怠ということで、怠惰な世界。「救われるまでの辛抱だ」と思って頑張り、「救われたら楽をしよう」と思っている人の行く世界です。
「慢」は「キョウ慢」ということで、自分たちの世界以外の人を見下す心があるので、このように言われます。

 以前、親鸞会館のことを「この世の浄土だ」と言っている人がありましたが、「この世の化土」と言ったほうが正しいと思います。
 また、親鸞会の殆どの人が想像している浄土は、「化土」であると考えられます。

 もちろん、こんな世界に生まれさせることが仏教の目的ではないのですが、「偽なる者」「虚なる者」には、煩悩を離れた世界に生まれたいという心がありませんので、方便として説かれているのです。



 では、化土に生まれるには、どうしたら良いと説かれているでしょうか?
 19願では、「発菩提心 修諸功徳」と誓われています。これは、他人を幸せにしたいという心を起こして、善を修めることです。

 他人を幸せにしようとすると、問題になるのが煩悩です。我欲や怒りに振り回されていては他人を傷つけるばかりで、幸せにすることはできません。そこで初めて「煩悩から離れたい」「浄らかな心になりたい」という願いが起きるのです。



 このことを、親鸞聖人は、次のように仰っています。

●しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。(化土巻)

 このように、19願の善は、「欣慕浄土」つまり、真実の浄土を願わせるための方便の善であると説明されています。

 当然ながら、いつまでも化土往生のままで良いという教えではありませんので、真実の浄土である報土往生を願う身になりなさいと説かれているのです。



 ですから、真実の浄土に生まれたいと願っている人には、19願の教えを説く必要はありません。親鸞会では、「すべての人に19願から説かねばならない」と教えているようですが、どこに根拠があるのか疑問です。

 しかし、「早く救われて楽になりたい」とか、「浄土に往生したら八功徳水の温泉でゆっくりしたい」とか、「煩悩から離れたいと思わない」というような人には、19願の教えが方便になると親鸞聖人が教えられていますので、19願の教えが全く不要だと考えるのも誤りということになります。

質疑応答194

【質問】


清森問答に質問します。

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。
と言う「高森会」の主張に対して、清森元講師は

「『若不生者』の『生』は、当益の意味しかない」

と、断言されました。ビックリしました。



私なりに、研究しました。

阿弥陀様は3つのお約束をしておられます。

信楽(しんぎょう)現益

若不生者(にゃくふしょうじゃ)当益

乃至十念(ないしじゅうねん)念仏をとなえる身にしましょう



ですから、現益(この世で救う、不体失往生)のお約束は、信楽である。

当益(あの世で救う、極楽往生)のお約束は、若不生者である。



私は、往生と言う言葉に、子供の頃から関心があり

「死んだとか困ったという意味に使われていましが、はたして本当だろうか?もっと重要な意味があるのではないか?知りたい、知りたい。法然上人やお釈迦さまはどのように教えられたのだろうか。その本当の意味は、10年や20年という短い期間ではなく、私の全人生に影響を及ぼすだろう」と考えました。

 ですから、往生と言う言葉には、強い思い入れがあります。だまって見ておれません。


法然上人は往生とは「彼(極楽)に往き蓮華化生する」ことだと教えられました。

『若不生者』の『生』は、化生でない、と言う「高森会」に対し、

「死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の主張は、真逆です。

大問題だと思います。

文中に間違いがあればお叱り下さい。



【回答】


 質問の意図を確認させて頂きますが、「約束」というのは、どういう意味で使っておられるでしょうか?

「約束」=「もし○○せずば、正覚を取らじ」という意味で仰っているのであれば、この中で該当するのは「若不生者」だけです。弥陀の48願の中に、「もし信楽にせずば、正覚を取らじ」という願はありません。


 あと、現益と当益の意味を勘違いしておられるようですが、「現益=信楽」ではありませんし、「当益=往生」ではありません。

 信楽の身になった人が、この世で頂ける利益を現益と言い、浄土で頂ける利益を当益と言います。信楽になれば、二つの利益が得られるので「二益」と教えられます。

 具体的には「現益=正定聚」であり、「当益=滅度」です。親鸞会には、「信楽=正定聚」「往生=滅度」と誤解している人が多いように思いますが、それぞれ違う意味の言葉です。

 例えば、教行信証にはこのように書かれています。

●金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。(乃至)十には入正定聚の益なり。

 もし、「信楽=正定聚」だとすれば、「信楽になった者には、信楽になれるという利益がありますよ」という、意味不明の文章になってしまいます。

 また、弥陀の四十八願を読まれれば分かるように、浄土には声聞も菩薩も多数おられます。「浄土=滅度(仏)」とは言えません。浄土に往生した者を、必ず滅度に至らしめると誓われているから、仏になれるのです。

●たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ。(十一願)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。