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質疑応答109

【質問】


 平等心をうるときを 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし
(真宗聖典P.230)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 真実報土に往生すると、一切衆生を平等に哀れむ心が起こってくる。この時を、一子地というが、これはあらゆる衆生を一人子のように、愛する位に名づけたもので、これがそのまま仏性でもあり、それはまた安養浄土に至って、初めてさとられるものである。


【質問】

 如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて證すべし
(真宗聖典P.230)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 如来は、そのまま涅槃、ということが出来る。涅槃は真如法性の理にかなった境界であるから、これをまた仏性ともいう。如来といい、涅槃といい、仏性といって、その名は別々になっているが、もともと、その体は一つのものである。しかし、これも凡夫の世界ではさとれないもので、安養浄土に至って、初めてさとられるものである。


【質問】

 信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまう
 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
(真宗聖典P.230)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 真実の信心を獲て、喜ぶ人は、やがて必ず仏のさとりを開くのだから、如来と等しいものだと説かれている。その他力の信心は、やがて仏性を開く正因でもあるから、信心をそのまま仏性といい、仏性をそのまま如来ともいうのである。

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質疑応答108

【質問】


 親鸞会では、他人の行為によって自分が苦しむことはないと教えられますが、現実には他人の行為によって苦しむことが多いと思います。
「他因自果」というのは、絶対に無いのでしょうか?



【回答】


 親鸞会で使っている言葉の定義から言えば、「他因自果」もありうると思います。しかし、これは仏教の教えに反するものではありません。

 まず、仏教では一般的に「自因自果」とか「他因自果」とは言いません。「自業自得」と言います。その人の禍福は、その人の業によって決まるということです。

 この業というものを、唯識学では香りに譬えています。

 花屋さんには、花の匂いがつくように、魚屋さんには、魚の匂いがつくように、善業に満ちた人達の中にいれば善業に染まるし、悪業に満ちた人の中にいれば悪業に染まると教えられています。

 いつも優しい人ばかりの環境にいれば、貴方も優しくなってゆきますし、いつもイライラしている人ばかりの環境にいれば、貴方もイライラしてゆきます。

 このように、業は、お互いに影響しあっているのです。

 親鸞会で教えられている「自因」とか「他因」というのは、その人の行為、そのものを限定して指す言葉として使われていますので、仏教で言う「自業」とは、意味が異なります。

 たとえ自分が行為をしていなくても、他人の業の影響を受けて、その業に染まってしまえば、それは「自業」になります。

 ですから、親鸞会で言うところの「他因」によって、自分が幸せになったり、不幸になることは、仏教では有りうる、と教えられていますが、それも「自業自得」なのです。



 ところで、因果の道理について、考えさせられるサイトがありました。

http://www2.atword.jp/inga/

 細かいことをいえば、気になる点もありますが、仏教をよく勉強していると思いますし、非常に鋭い指摘だと思います。

 参考に読んでみては如何でしょうか。

質疑応答107

【質問】


 仏教の基礎学と言われる唯識ですが、唯識学は天親菩薩が体系化されましたよね。

 天親菩薩も、親鸞聖人・高森先生と同じく、「人生の目的」を明らかにされた方だと思うのですが、「人生の目的」を明らかにすることと「唯識学」と、どういう関係があるのですか?

 天親菩薩も、もし人生の目的達成に無関係なことなら、唯識学を体系的にまとめられる事はなかったと思うので、関係があると思うのです。

 いったい「人生の目的達成」と「唯識」は、どういう関係があるのでしょうか?



【回答】


 本来、人生の目的とは魂の目的、多生の目的であり、それは、生死生死の苦しみの連鎖から離れ、苦しみの無い世界へ解脱することです。これが人生の目的です。

 苦しみのない世界へ解脱すると、物事がどのように見えるのか、それを体系的に教えられたのが唯識です。また真実の自己について、実に詳しく論理的に教えているのが唯識ですので、昔から真宗の学者には唯識を学ぶ人が多くありました。

 唯識学は煩悩に対する説明などは、他宗派に比べ、非常に整理され、分かりやすく教えられています。

質疑応答106

【質問】


 信前の者が「信心求めるために進むべき道」は「信後の報謝行」を実践すべきとお考えになりますか?
 恩徳讃の心と、その実践を心がけることが、信前の求道に適切かどうかという意味です。



【回答】


 まず、色々な疑問な起きると思いますが、結論から言いますと、
『信前の者が「信心求めるために進むべき道」は「信後の報謝行」を実践すること』
ではありません。

 これは直接会って、お話することが一番なのですが、一言でいうならば、報謝とは、阿弥陀仏のお力によって、幸せにさせて頂いた喜びから、せずにおれないものであって、それを、まだ幸せになっていない人が、喜びもないのに、しようとすること自体、おかしなことになってしまいます。

 ですから、救われるまでの求め方は、貴方が思っておられるような求め方ではありません。文章なので、納得できないこともあると思いますが、説明が長くなると、余計に分からなくなると思い、簡単にさせて頂きました。

投稿

最近退会された方から、以下の投稿を頂きました。

        *         *         *

ご報謝に対する不信感が、退会を決めた理由の一つです。
親鸞会に、退会したら納骨壇の納金分の返金を要求しましたが、かないませんでした。予測していた通りでした。
10年程前から建て前と裏では、まったく違う事をしていると、忠告されていましたが、信じられませんでした。

ご本人の判断で入会される方だけを富山にご案内していました。
入会を勧めず何人にもご案内をさせて頂きましたが、会場で会員さんがお連れした方々が、いくらご報謝したと言っていたけど、そんなにお金がかかるのと質問されて、いくらその方々のお気持ちですとお話をさせて頂いても、一度耳にした事は消えませからね。

納骨壇に関しては、娘が会にいるため 名義変更は可能との事でした。
10数年前にも働いたお金を分割で納金した際にも、ご報謝として納金させられました。
50万円完納金しても領収証を要求しましたが頂けず、値上がりとの連絡も文章でほしいと要求しても、証拠の残らぬよう口頭で連絡され、講師にも不信感を伝えても、これ以上支払えないと伝えても、宇宙貯金と思い、いつまでかかっても支払うように言われました。

幹部の方から赤のボールペンで書かれ192000円としるされたメモ書きを渡されました。
何と非常識な会なのかと、せっかく善の実践をするために努力してきましたが、一度は怒りで富山にも行けず苦しみました。
介護をしながら、命を削る思いで必死に支払いましたが、やはり完納しても納付書が領収書代わりといわれました。ご報謝と書かされ、おかしいとの不信感は、つのるばかり。いくら真実の教えと言われても、親鸞会の代表者は高森顕徹先生です。

先生がこの様なことを許されるのでしょうかの不信感は広がり、退会を決意するまで悩み苦しみましたが、かえって今は気持ちは、晴れ晴れと介護させて頂いています。
今はご報謝の苦しみから解放されました。人にはつくろえても、我が心には嘘はつけません。
嘘は嘘の上塗りになり、体まで蝕み、原因不明の腰痛や奇病の原因になります。 気づいていない方のおられること悲しく思います。

親鸞会で教えて頂いた事には感謝しておりますが、間違いも色々知らされ真宗聖典に基づき知らされると、親鸞聖人の仰せと違っている事も教えて頂きました。
視野を広げる事の大切さを学びました。 とかく片方だけを見て批判しがちですが、両方を見て、どちらが、より光に向かうには、求めやすいかを考えて決めましたので、例え、娘と違う求め方でも、後生は一人ですので、今は納骨壇にも執着心無く楽に成りました。色々の、み心をかけて頂き感謝いたします。

お知らせ

「私の白道」のサイトができました。

http://byakudo.exblog.jp/

質疑応答105

【質問】


 清森さんや、一部の講師部の方々は、華光会について先生が語られたことは無いにも関わらず、なぜ華光会という存在を、知っていたのですか?



【回答】


 親鸞会は、昔は徹信会と言い、華光会の一部でした。華光会から分離独立した際に、名前が親鸞会に変わりました。

 ですから、古くからの会員さんは元華光会会員ですし、先生のお母様、東岸さん、西堀さんなど、親鸞会で妙好人と言われる方の多くは、華光会で救われておられます。

 当然ながら、長く講師部員をやっていれば、古い会員さんから華光会の情報も入ってきます。中には、高森先生初の御著書である「獲信の記録(華光会出版)」を、高森先生から直接いただいた方も知っています。

「獲信の記録」は、高森先生が、獲信された方の体験談をまとめたり、伊藤康善氏の座談会を記録し、編集したものなどを出版されたものです。「仏敵(伊藤康善著)」の宣伝も掲載されています。

「獲信の記録」には、獲信者の以下のような言葉が掲載されています。

●おらが獲信とも知らずに、自然に獲信致しまして…

●今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?


 また「仏敵」に、伊藤氏は以下のように書いています。(現在は2冊に分かれましたので、以下の文章は「我らの求道時代」という本に収録されています)。

●若しや自分の戴いたと思った信仰は嘘では無かったか知ら……あの同行達のやうな熱誠な態度や歓喜に溢れた落着いた念仏を思ふとき……信仰界に立つ先覚者が一度内心の革命あるや其後は旺盛な獅子奮迅の活動に入るのを見るとき……チラッと心をかすめた疑惑は再び私の信仰に対して鋭利なメスを振い始めた。


 高森先生は、獲信しても「本当に救われたのだろうか」という疑いを起こすと、理解されていたと思われます。そうでなければ、こんな本を出版したり、他人に勧めたりされるはずがありません。

 いくら体験が正しくても、教学力がなければ、自分の体験が「信心決定と言われている体験」と同じかどうか、判断できません。上記のような疑いが起きたとしても、異安心とは言えないと思います。

 しかし、このような体験談を、あえて読ませることは、疑心往生の異安心に陥らせる危険があると思います。疑情が晴れなければ、絶対に往生は出来ません。そこを間違えると大変なことになります。

 それが理由かどうか分かりませんが、高森先生は、ある時期から、過去の経歴、御著書や投稿文などを、隠すようになられたのではないでしょうか。

 私は、華光会におられたことも、「獲信の記録」を書かれたことも、隠すのではなく、納得のいく説明をされてこそ、私たちの求道の勝縁にもなったと思うのですが、逆に隠されたことによって、不審を招く結果となってしまったと思います。

 現代はインターネットの時代ですから、隠しようがありません。今からでも遅くありませんから、高森先生御自身が、過去について総括される必要があるのではないかと思います。

 そうしなければ、ますます不審が広がって、親鸞会で教えを聞かれる方が、ますます減ってしまうと思います。

私の白道・11(最終回)

「私の白道」・11(最終回)

元親鸞会講師部



◎高森先生への大きな疑問

 局長の不倫疑惑を誤魔化す為なら1日の講師部会議を2日間も勝手に延ばし、各支部長が予定していたご法話、文化講座、会合を急きょ変更、中止した。絶対有ってはならないと指導していたことでないですか。

 私が講師部に飛び込んだのは、講師部は後生の一大事の解決の為の一番の近道であり、その為に厳しく指導があるだろうと期待してのことだった。
 しかし厳しいのは、規則と活動目標ばかりでした。

  なぜ信心決定できないのだろうか。
  その理由は何だと思うか。
  生起本末をどう聞いているのか言ってみなさい。
  どんな罪悪を感じているか、無常をどう感じているか、
  墜ちる地獄を何と思っているか。本当に解決しようと求めているか。
  阿弥陀仏のご苦労はどんなご苦労か。どう感じているのか。
  本願、名号と何か。どの様にして出来たのか。
  南无阿弥陀仏とはどんなことか、南無廻向の心とはどんな心か。
  疑情とはどんな心か、現在感じる疑いはどんな心か。
  疑いほど恐ろしい罪はないが、なぜか分かるか。
  信心決定するとはどんなことと思っているのか。
  ただで救う、そのまま救うとはどんなことか。
  なぜおまかせ出来ないのか、なぜだと思うかか。
  黒い心、暗い心、白い心、違いが分かるか。
  無条件の救いと、宿善まかせとはどう違うか。等など

 こんな大事なことが講師部間で真剣に沙汰、論議されたことがあっただろうか。
 50回以上の合宿に参加したが、求道姿勢や活動上の問題が主だった。
 上記の沙汰を2日も3日もお互いに向き合って沙汰したことは記憶にない。

 もし、毎月の講師部会議に、このような内容を常に厳しく問われていたら、講師部は我が身の獲信を強く意識して、真剣にならざるを得ない。
 信心決定を意した聞法、布教活動になったと思う。

 講師部さえ信心の沙汰がないから、支部長が会員さんと信心の沙汰が出来る訳がないのです。何を聞いたら、話したら、答えたら良いか分から無いのです。
 続けて聴聞しましょう。続けて聞けば分かります、としか言ってない。

 続けて聞いている支部長が分かってないのだ、会員さんは分からないままです。
 教学を覚え、説明ができたら善知識、三界の大導師と言われているだけで、魂のぶつかりあいが出来ないのです。

 私は華光会へ行って、違いをつくづくと思い知らされました。
 知識だけで分からない、魂、本音のぶつかり合いで泣き泣き聞かされました。



○10講制度が始まった。講が上がるよう競争せよ

 不倫疑惑会議が終わって二つのことが実施された。
 その一つが10講制度で、講師部は10講の階級に分けられた。
 講師長が、「今回このような講別にして下された高森先生のみ心をよく考えて、我々は活動にもっと全力を尽くし、1講でも上に上がって先生に喜んでいただかねばならない」と何度も言った。
 高森先生に認めてもらうような活動成果をもっと上げよ、競争せよという制度なのだ。

 高森先生は言われた。

 ・やがてここが「真宗の総本山」になるのだ。世界の小杉になる日が来る。
 ・40年前の教学講義に講師部30名程度だったが、「将来、大導師500名以上で本願寺と法論をやる時が来る」
 ・100の高森、200の高森となって伝えてくれ。
 ・どの支部が早く、200名、300名の支部になるかな。
 ・私には時間がない、あせっているのだ。


 ご法話の前に「あわれあわれ存命のうちに皆々信心決定あらかしと朝夕思いはんべり」と言われるが、私には親鸞会を大きくしなければならないと、いつも思っていた。



○10分間説法とビデオご法話。権力集中型に戻る。

 支部長制度が始まる時、「布教の仕方は自由、どこへ行って話してもいい。お互い競争して布教力をつけよ、報告も最低限にしてパソコンは15分位で済むように、布教に全力を尽くせ」と言われ、希望が出た。
 支部長制度は勝手に決められ、会員さんにウソの説明をされ、法領(給与)も無くなったが、布教が自由、活動目標も無い、上下関係も無いならこっちのほうがいいと喜んだ。

 しかし、事件後は、元の権力集中型の指導体制に戻っていった。
 10講制度で上下関係が厳しくなり、布教方法も与えられた10分間説法とビデオご法話が中心になった。
 私は、これでは親鸞会は発展しないと光選隊の顕正活動の体験から思った。


 ・講師の布教力がつかず、10分間説法では初めての人の理解は不十分である。
 ・1日講師が真剣に話してこそ感動され信用され、尋ねていっても歓迎されて話し込める。10分間では人間関係も薄い。
 ・ビデオご法話は1日分の話。根拠も多く、初めての人は難しく思う時が多い。自分で話せば、反応を見て話を考えて出来る。ビデオはそう出来ない。
 ・書いて覚え、何十回と話した原稿全てが机の中に入れたまま。10分間説法とビデオご法話ならどこも同じ。他支部からの参詣も無くなり支部長の布教力など問題にならなくなる。


 報告内容も多くなり、活動日報の内容も詳しく求められ、パソコンの時間が苦痛だという支部長が増えてきた。字のミスも細かく言われ神経を使う。
 何かと言えば「会員さんの問題は支部長の責任、法施が足りないから」で済まされる。
 前より束縛、監視が厳しくなってきて、約束は反故にされてしまったが、誰も文句を言わない。誓約書に縛られていることに今更気がつく。



○母の言葉に頭が下がる

 講師部を退部してから、母と話す機会があった。
 母は大変厳しく私を叱った。

「なぜそのときお前は講師部を辞めんかったのか。アホか。
 皆がそうでも、おかしいと思ったら、なんで辞めなかった。
 高森さんは昔の話しを聞いた時の高森さんと人間が違っている。
 息子のそんな問題を親が尻ぬぐいして、それで息子の為になると思っているのか。 何をしてもいいと自惚れるだけだ。
 なんで謝らせない。バカなことをしたもんだ。後でひどい事になってゆくぞ。
 息子の為にそんなことする善知識がおるか。親鸞さまはどうされたか知っておろうが。
 皆がそうでも流されたらあかん。自分で考えな、あかん。自分で。
 遅くなったが、そんなところ辞めてきて良かったな。
 前に、親鸞会にもう一度入れとお前が言ったけど、入らなかった理由はな、蓮如上人の500回忌のことと、会計報告しなかったことや。
 500回忌が延期されて中国から来た人や、他の人にも大変な迷惑かかっている。勝手に延期させられてひどいことや。どんな苦労して来たと思ってるのか。中国は1年働いても日本の1ケ月にもならんから、お金のことだけでも大変なことや。
 それなのに参詣を誘う幹部は、「延期は本会の都合です」と言うだけで何も理由知らん。バカな話だ。
 高森さんも当日、理由も言わんし、全く謝りもせん。余程、高森さんの部屋へ「何の気になっとるのか」と言いに行ってやろうと思った。
 それと、苦労して財施しても会計報告せんとは何事か。預かったお金を誰の物と思っているのか。
 仏法に使うと言うから出すのやぞ。
 そんなら報告が出来るはずでないか。なぜ隠す。しないのでない、出来んのだ。それほど親鸞会の会計がおかしな事になってると思う。
 もう信用出来ん、1円も出さんぞ、あれでは続かんな、親鸞会は」

と鋭く言った。

 若い頃、当時の「満州は日本の生命線、行け日本の若人よ」の国家宣伝に乗せられて、愛する夫と子供2人を失った人生経験からくる洞察力は今も生きている。両親は○百万円を財施していた。



○やはり元に戻った布教局長

 講師部会議で除名処分を宣告された後、私は3日後本部へ行った。
 高森布教局長の部屋へ入って行くと、一人だった。

「この度は申し訳ありませんでした」と深く頭を下げ、「始末書」を差し出した。
「わざわざ持って来たのか」と言ったので、「いえ、ビデオテープの交換もありましたので」とあえて言った。なぜなら人間として、常識人として、私は一言でも「今回のことで迷惑をかけて申し訳なかった」と言って欲しかった。

 30年以上の知己ではないか、今、他に私以外誰も聞いていないのだ。
 なぜ、自分の不徳を認め、不倫疑惑の事実の有無を言わなくても言いから、詫びる言葉位、100日の反省があれば用意できたはずだ。
 それさえないのかと思うと情けなかった。
 これでは、時間が経てばまた信用を失うことになるだろうと思った。

 やはり1年、2年目になると、そんなことがあったのかという位自信をつけ、講師部の指摘も厳しくなった。


 H16年になると、講師部員の問題を次々と指摘して、顕真学院へ再研修という処罰で何人も任務解任され送られた。
 再研修とは自分のやった問題を反省し、高森先生、上司に無条件で従える人間になることである。その確認が出来るまで何ヶ月でも出てこれない。
 反省の見込みのない人、自信なくした人は退部してゆく講師部の更生施設、である。
 20年30年の経験講師でも例外でなかった。
 元10講講師で、不倫疑惑で除名執行猶予の長い講師への指摘も厳しく始まった。
 私も、7月まで3回も前に出て指摘を受けた。
「まだまだ氷山の一角だと会長先生はおっしゃている。まだまだいる筈だと」と言いながら、全講師部を見回した。
 高森先生のご指示でやっている事を強調し、裁判官、検事のような言葉遣いになっていった。
「君は再研修だな」と言われた者は確実にそうなった。
 講師部全体に緊張感が走り、自分だけはそうなるまいと必死になってゆく心理が伝わってくる。

 私は2度目の指摘の時、講師部退部の覚悟を決めた。
 余りにも、理不尽な内容だった。(自分のことだから書きます)

 前の年の11月、ある支部長(T支部長)が解任になり、その支部が分割され、私の支部に23名移籍されることになった。「通達で知り、見ました」と局長に報告に行った。
 誰が来るのかT支部長に夜聞いて驚いた。女性の副支部長を私の支部でお願いしますという。よく知っている人だが、事情を聞いてそうかと思った。

 ところが3日後、そのT支部長が、「まだ氏名を発表しないで下さい、実は支部分割と、氏名を会合で言ったところ、その副支部長が大変反発して、『高森布教局長に言って変えてもらう』と言ってきかない。O代表支部長も、それはしてはいけない事だと言われたが、言うことをきかないのでしばらく発表しないで下さい」と言ってきた。3ヶ月経って嫌なら自由に移籍すればいい決まりだから、いくら何でも変更は無いだろうと思っていた。

 決定されたのだから企画室から会費、財施の資料も全部送られてきている。妻は支部の会計係でもあり、移籍会員の会費、財施を把握する必要があるので、まだ発表できない理由を話しておいた。これが後に守秘義務違反の罪となった。

 何と1週間後、移籍は白紙になってしまった。
 その通達を見て、局長に「ご縁がないということが分かりました」とだけ言って下がった。何も言わず横目で聞いていた。



○仕組まれた責任逃れと退部の決心

 ところが翌年3月、学友部招待の局長御法話に、会員さんと一緒に参詣した私に、高森恭子補佐から局長の控室へ呼ばれた。

「○○副支部長が大変苦しんでいる。それは貴方の奥さんが昨年の移籍を、○○副支部長が局長に頼んで変えてもらったと言ってるからよ。どうしてそんな根も葉もないことを言うのか、貴方が言ったからでしょ」
と追求して来た。横に座っている局長は黙っている。

「その事なら、T支部長から私が直接聞きましたから事実です」と、初めて知っていたことを話した。
 すると即、「T支部長はそんなこと、言ってないと言っているわよ」ときた。
 私の作り話にして、移籍白紙の原因を妻に話したという、問題すり替えで誤魔化そうとしたとしか思えない。

 ご法話会場で○○副支部長を見たが、真っ青の顔をしていた。声をかけても無言だった。
 その夜のご法話が終わってすぐ、元のT支部長に電話したら「僕はそんな話は一切していません」というばかり。完全に口封じされている。
 O代表支部長に電話すると、「○○副支部長が布教局長に電話して、その通りになったので、それを自慢していたのが分かって問題にされたのかと思った」と言った。彼は覚えていた。

 結果的に守秘義務違反の罪状で降格され、輪袈裟も返却させられ、全講師部の前で土下座の謝罪をさせられた。○○副支部長には詫び状を書かされた。
 しかし総長は具体的に何をしたのか講師部総会では話さなかった。ただ講師部には守秘義務があり、親兄弟、妻にも明かすなと注意した。
 こんな講師部では求められない、退部しようと決意した。

 問題は妻だった。妻はビデオ講師を4年近くしていた。しかし講師部の内部問題は話してこなかったので講師部とは清らかな所と信じ切っていた。
 夫が講師部であることを誇りに思い、辛いことがあっても私が講師部だから耐えねばと思って来たと何度も言ったことがあった。不憫だ。

「講師部やめようかと思う」とぽつりと言ったとたん、形相が変わり、「何言ってるのー、絶対許さない、そんな事二度と言わないで」と怒り心頭、すごい顔で言ってきた。無理もない、高森先生を信頼し切っているのだ、世界が全部ウソでも高森先生だけが真と信じている。そこを離れると言い出したのだから、完全な裏切り行為であり、許せる事ではないのだ。
 2、3日、口もきかなかった。これは長期戦になると覚悟した。



○アンケートと講師部員の反応

 7月の講師部会合で、全講師部に2枚のアンケート用紙が配られた。
 1枚は積極的な発言をしているか。2枚目は挨拶がいいかどうか。
 年に3,4回調べられた。全講師の名前が書いてあり、悪い人には印を書く。前回より悪いと指摘がある。

 集められて、布教局長が「ワシのに一人書いた者があった」と言った。
 次の言葉は普通なら、「書きにくいところをよく教えてくれた、これから気をつけてゆこう。皆も少なくなるようにお互い気をつけよう」となるところだが、違った。
「これ、どう思う」と聞いた。

 これに反応して講師部の一斉指摘の手が上がった。無記名だから誰か分からないアンケートだ。誰か分からぬ相手に「許せない」「上司批判だ、五逆罪だー」「アンケートを皆に戻して、誰か調べて下さい」とエスカレートしてゆく。
 このアンケートは、講師部の和が大事、お互いに挨拶が大事だから、自分では気付かないし、他人の事は言いにくいから、無記名で教え合おうという趣旨でいいことだと思った。
 しかし皆、手を上げて大声を上げて指摘し、書いた人の気持ちも無視していることにはならいか。

 もう駄目だ、こんなところにおれない。1日も早く辞めたいと思い、妻に限界だと話したとき分かってくれた。
 しかし、こんな理由を言えば、上司批判、組織批判で除名、除籍処分になるに決まっている。参詣が難しくなる。
 そのときはまだ高森先生の教えに疑問を持っていなかったので、退部になる理由を考えた。
 経済的にやってゆけないことを理由にすることにした。
 これはウソではない深刻な問題でもあった。
 支部長制度が始まって2年7ケ月、一度も黒字の月は無く、毎月赤字で蓄えも底が見えて来ていた。



○講師部退部までの経緯

 8月、布教局長に「相談があるのですが」と言って、本部ご法話の後、話をした。
 経済的にやってゆけないことを、支部長制度が始まってからの2年7ケ月の収支の用紙をみせて説明した。
 「どうしたいのか」と聞くので、「やってゆけないので辞めたい」と言うと止めなかった。明日、退部願いを書いて提出せよと言うことになった。わずか30分余りの話し合いで、20年の講師部生活は終わろうとしている。
 翌日、布教局長の部屋へ「退部願い」を持って行くと、総長が来られて初めて退部のことを知られた。
 講師長も初めて知られて、「君だけは最後まで残ると思っていた」と言われた。
 40年の間柄だ。「大変なら育英資金がある、借りたらどうか」と必死で説得にかかられた。
「返すあてがあるなら借りますが、返せないから、このままでは借金地獄になるだけですから、それはしません」とハッキリと言った。
 講師部だから、講師長にも相談すべきだが、そうなれば講師長は必死になってあっち、こっちと相談してなんとかしようとするだろう。
 それを断るのが辛い。

 翌日、講師長から「今から先生に退部願いを持っていくが、もう一度考え直す気持ちはないのか」と電話があった。ありませんからお願いしますと言った。
 数日後、私の講師部退部が通達で流れた。
 一番辛かったのは支部会員さんに講師部を退部して支部の解散を話することでした。昼、夜と自宅でビデオ御法話が終わってから、頭を下げてお詫びの挨拶をしました。理由は申し上げられませんというのが本当に辛かった。
 泣かれる方もあり、突然で呆然とする方もあり、裏切られた気持ちになった方もあったと思います。心から会員さんには申し訳ないと謝らずにおれませんでした。

 本部ご法話の前日、講師部会合があり退部の挨拶をした。
 経済的理由だと言うと、一斉に指摘が起きた。
 前代未聞の退部理由に驚いたと思います。
「家を売って支部長を続けろ」
「恩しらず、腹切って死ね」
「生きてここから出られると思っているのか」
 昨日までの法友が口を極めて非難してきた。
「本当の理由を言え、正直に言え、他にあるだろう」と元10講の先輩講師が言ってきた。分かる人には分かるのだ。何か理由があると。
 だけどここでは言えない。「それしかありません」と言った。
 30分あまり指摘が続いた。

 翌日、ご法話の舞台袖で高森先生に退部の挨拶、お詫びを短く言った。
「残念だったね、頑張なさい」の一言で終わった。
 これで、私は講師部を完全に離れた。
 仕事をこれから探し、働きながら聞いて行くのだ、後生の一大事は依然としてあり、解決まで聞き抜こうと新たな決意を持った。



○煩悩具足は私達の本性。治らない

 講師部をやめ、仕事しながら、H支部に所属して夜の会合にも参加して、近づく11月の報恩講の誘いに毎日仕事終わって回った。
 参詣の難しい未会員、会員さんの誘いを頼まれ手伝った。
 当日は弁当係りをして、講師部やめても会員の自覚を持って活動する気持ち一杯だった。
 ところが12月になってH支部長が突然尋ねてきた。顔が暗い。深刻そうな雰囲気で話し始めた。
「教学受講の規定を知ってますよね。問題の人は受講出来ないんですが、聞きたいことがあります」と言う。
 何を言い出すのかと思った。
 私が数日前、支部のビデオご法話の昼休みに、支部長が「今回の報恩講で気付いた事はありませんか」と言ったので3つほど言った。
 設備、案内の提案、そして高森先生の2日目の根拠の用紙が上すぎて、あれなら電子ボードで表示されたら良かったと言った。
 それが問題と言うのだ。高森先生のされるご法話を非難した、という受け止め方だった。

 あれは、私の連れて行った親戚の叔母さんが初めての参詣で、「上に張られた蓮如上人の根拠を高森先生が指示棒でさされて話されるが届かず、どこの話やら分からんかった。あんないいボードがあるから、あれなら分かりやすかったのに」と言うことで、私が言ったことでない。叔母さんと言わなかった為の誤解ですと説明した。すると支部長はそうですかと顔色が戻った。言葉足らずで済みませんと謝って帰ってもらい、教学受講のカードを預かった。
 そして教学講義の前日、会員さんを乗せて本部の掃除に参加した。

 会員として掃除し昼休みしていると、O代表支部長が近づいてきて、「高森布教局長さんが呼んでおられますから、来てもらえますか」と言った。
 何の用かと考えた。丁度H支部長が通ったので、心当りはありますかと聞くと、分からないと言う。おかしい。担当支部長が知らないのに会員に直接、布教局長が用事があるとは何か、私と局長の個人のことだなと思い、言われた時間に行った。

 ドアを空けるとそこは講師部総会の会場だった。一段高い所に高森布教局長がイスに座っていて、私に前の指摘用イスに座れと言った。
 座って何を言うのかと聞いていると「高森先生がお疲れの中、急に根拠の用紙を張り出すよう指示されご説法下された。それなのに君は、あれでは良く分からんと批判した」と、H支部長のメールを読んだ。
 私の発言を送られていた。講師部退部後も監視されいた。
「他にも実行委員会を切って切って切りまくっている」ともつけ加えたから、一斉に講師部の指摘が始まった。

 あれは私の発言でないと言っても、私の思いだと押し切ってくる。
 30分位して「君は明日の教学受講の資格はない、それどこれろか会長先生を批判したから会員除籍だ。H支部長、会員粛清委員会に資料を提出してくれ」と言い放った。
 報恩講の誘い活動も、当日2日間弁当係りで任務していたことも全く触れず、設備、案内の提案を具体的に言わず、実行委員会を批判したことにして講師部の反感をあおる言い方をした。、

 全講師部の前に会員が呼び出され、指摘を受け、除籍の宣告をするなど、講師部の時には見たことがない。

 何を言われても誤解であり、支部長が調査に来て判明していると安心して聞いていたが、この布教局長の言葉に、H支部長は「待って下ださい」とは言わず、「はい」と従う返事をしてしまった。私を擁護する言葉は全く無かった。
 部屋を出るよう言われ、後で教学受講証を取りに来たH支部長に、「あれは私の言葉でないことを言ったはずですが、局長に報告してあるんですか」と聞きた。「報告してある、知っておられる筈だ」と答えた。

「支部の会合はこれから遠慮して下さい」とも言われた。
 自宅のビデオご法話も3ヶ月とめられた。
 これで聴聞以外の一切の活動を私はしなくなった。

 数日後、法友から布教局長にお詫び状を書いたかと電話があった。
 書かないと本当に除籍になるのでないかと心配してくれた。
 私は書く気は全く無いことを伝えた。
 若しこんなことで除籍にするなら、除籍理由を詳しく書いて会員さんに配る気持ちでいた。

 次の本部ご法話に参詣するとH支部長から呼ばれてある部屋へ行った。
 そこに講師長とOビデオ講師長がいた。
 何の用かと思ったら、講師長から「君の影響は大きいから、誓約書と先生へ詫び状を書いてくれ」と言われた。

 講師長が哀れに思え、妻のビデオ講師の立場もあり、希望通り書いて講師長に送った。
 これで安心するのだろうが、こんな紙切れが頼りとは情けない。
 講師部は、信仰と人徳ではないか。詫び状、誓約書がなぜこれほど必要なのだろうか。



○まだ終わらぬ圧力

 妻にも上司からの理不尽な圧力があり、ビデオ講師を辞める決意をした。

 M支部長から「本会があなたに聞きたいことがあるから、本部に来るように」と妻に電話があった。聞きたいことがあるとは何か。
 妻は支部長に、「本会とは誰のことですか、何の用事ですか」と尋ねたが、「知らんでいい」と局長に言われたそうだ。
 会員のことを担当支部長が知らなくていいことは無い。

「行く理由を言われない限り行きません」と返答すると、今度は「上司の指示に従わない者は教学受講させない。」と言ってきた。
 しかし妻は行かず、高森先生に教学受講参加の嘆願と私の未会員さん発言事件を書いて投函した。
 高森先生ならきっとわかって下さるに違いないと望みを託し返事を待った。
 2日後、返事が支部長を通じて来た。

 教学受講は許可されたが、後の事は「水に流しなさい」の一言だった。
 しかも、問題を起こしている布教局長を通して伝えられたのである。

 これまで布教局長がおかしいと思いこみ、なんで治らないのかと思っていたが無理もない息子のことは一切問題にしない事が分かった。
 もう高森先生に何を訴えても無駄だと思った

 高森先生に対する尊敬、信頼は音を建てて崩れていった。
 親鸞会が世間の会社のように利益追求の組織で、勤める人も生活の為なら、理不尽があっても我慢するといわれるなら私は何も言わない。門外漢でいい。

 しかしこの体質は仏法、信仰に大きく影響している。
 講師部自身、また会員さんの後生がかかってくるから、ここに詳しく書かずにおれなかったのです。
 日常的にこんな歪んだ人間関係でどうしてお互いの信心を真剣に問えますか。
 我が心中を偽わらずに話しできますか。



○善知識の任務は何か。これでいいのか。

「善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし、と人を勧むべきばかりなり」蓮如上人

 阿弥陀仏に帰命ですよ。高森先生御自身ではありませんよ。


親鸞会講師部聖則(1)ーー高森先生が作られた。

「会長先生のご指示に無条件に従い、信心獲得を本と致します。」


 私に無条件で従えと言うほど、失敗のない完全な人、責任の取れる方でしょうか。
 親鸞聖人でさえ、「われ過てり」「さるべき強縁のもよおせば如何なる振る舞いもする」「煩悩具足の凡夫なり」
 関東へ長男善鸞を派遣し、惑乱させたことに苦しまれ勘当された。
「愚禿親鸞」とおっしゃておられます。


「さらに念仏者が、厳しく反省しなけらばならないことは、「私はすでに信心を頂いている」「私は教えを正しく領解している」という自負心に陥りやすいことです。
 聴聞に熱心な人ほど、深く聞いた人ほど、自信を固め、誰が何と言おうと、私は絶対間違いないと、強く執着し傲慢になりやすいのです。
 我執をといてくれる法を聞きながら、法に対して一層我執を固める、これほど恐ろしいことはありません」華光会の西光先生はこう自戒して教えて下さいました。私は深く胸に刻まずにおれません。



 形ばかりを大事に言われます。
 阿弥陀仏に対する深いお礼の仕方。。
 仏前で座布団敷いて勤行するな、仏間で寝るな、冷暖房を勤行中使うな、お仏飯は正三角形にせよ。等など。
 見聞知の阿弥陀仏は何もかもご存知です。
 疑いながら格好ばかり良くして頭下げている人に何と言っておられるか、知っておられますね。
 お前の腹底は皆見抜いておるぞー
 死ぬぞー、墜ちるぞー、危ないぞー、早く来い、まかせよー。

「井戸のぞく子を呼ぶ親は命がけ」

 その命がけの仏心を伝える人が善知識ではありませんか。



◎御同朋、御同行の精神はどうなのか、

 本当に講師部を獲信まで導く自覚あるなら、講師部員に問題が起きた時、なぜその講師に面談せず、除名するのですか。
 間違っているなら直接会って命がけでなぜ正さないのですか。
 瓜生、清森、上田、齊尾君など、なぜ講師部に対処をまかすのですか。
 息子の不倫疑惑なら3日かけてするのに、彼らの後生はそれより軽いのですか。
「人の信なきことを思召せば、身を切り裂くように悲しきよ」と仰せされ候由に候。(御一代記聞書112)
 これで蓮如上人と同じですか。

 批判者、除籍者に対する怒りは何ですか。
「私の指導不足だ」と反省する余地は無いのでしょうか。
 一方的罪状を並べて罵るだけで、どうしてそうなったか言わない。
 瓜生元講師のときもそうでした。



○恩知らずと言う人へ

 何という恩知らずか、へどが出るとよく講師部の人は言います。
 私もその中に入るのでしょう。講師部始まって以来の極悪人とも言われるでしょう。
 それは、こうも、教えと、高森先生、組織の実態を問題にした講師はいないからと思います。

 子供の時は親のすることの善悪は分かりません。
 大人になり、知恵、常識が身につくと親の言動の善悪が見えてくるのです。
 間違っていること、人に迷惑かけていることは、例え親でも言うべきです。親が気分を害するから黙っていては親に罪を重ね、人にも嫌われる親にしてしまいます。
親がいくら酒が好きでも親の健康を思えば、深酒するなと注意しませんか、塩の濃い物が好きでも、塩分ひかえるように言うではないですか。

「善知識の悪き、と仰せらるるは、信の無きことを僻事と仰せられ候事に候」(御一代記聞書89)

 仏法者にとって何が最も悪い事なのか、一番の恩知らずか。
 阿弥陀仏の本願を疑い、自力の心を捨てず、阿弥陀様を泣かせていながら、まだまだ死なないと長綱をはき、形だけの求道をして、権力にへつらい、常に保身を考え、自分は間違いない者と他を見下げている心こそ悪であり、恩知らずと私は思います。



○なぜこうまで、高森先生、布教局長夫婦の問題を書くのか

 これは私憤を晴らす為に書いているのではありません。

 この世に私は善人だと威張れる人があるでしょうか。
 阿弥陀仏からごらんになればみな地獄行きの泥凡夫にすぎないのです。
 私も縁がくれば同じような事をするでしょう。否、これ以上のことをするでしょう。誰か一人でも「私は絶対こんなことはしません」と言い切れる人があるでしょうか。
 皆自分が一番可愛いのです。自分を守る為にはどんな悪でも造っていく、人殺しもする。それが悲しいかな私のどうしょうもない実態なのです。
 高森家の人々はそのまま私の姿でもあり全ての人の腹底です。
 仏願の生起本末の生起であり、そんな私だからこそ阿弥陀仏は憐れみたもうのです。
「王舎城の悲劇」はアニメでよく知られていますが、韋提希、ビンバシャラ王、阿闍世は国民から見れば尊敬すべき人々に見えましたが、皆、煩悩具足の欲と怒り、愚痴一杯の凡夫でした。
 釈尊は弥陀の本願はこんな人々こそお目当てである、今こそそれを説く時節が到来したとお喜びになられました。

 いま迄、高森先生は特別仏縁深く徳のあるお方、親鸞聖人の生れ変わりだ、大善知識だ、我々とは住む世界が違う、そんなお方のご長男だから素晴らしいお方に違いないと思っておられたでしょう。
 ですからこんな事実を突きつけられても「そんなはずは無い、作り話だ、信じないぞ、被害妄想が書いた者だ、なんと恐ろしい奴だ、恩知らずな元講師だ。絶対うそだ。」と反発心一杯で読まれた方もあると思います。
 無理もありませんが事実なのです。

 高森先生は「底なしのお慈悲のお方です」と言って来た講師もありますが、これほど甚だしい誤解はありません。
「底なしのお慈悲」は阿弥陀仏一仏だけであり人間に使う言葉ではありません。
 しかしそんな事を何のためらいもなく、当たり前のように言える感覚こそが問題だと思います。
 高森先生を阿弥陀様と同じだと思わなければ言えない事だからです。



 親鸞聖人も「愚禿親鸞」「極重の悪人」「一生造悪の者」「地獄は一定住か」と懴悔しておられるではありませんか。例外などあろうはずがありません。

「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、瞋り腹だち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで止まらず、消えず、絶えず」(一念多念証文)

 私も皆さんも高森家の人達も、阿弥陀仏よりご覧になれば、情けない、愚かな、恥ずかしい、悪を悪とも思わず、己可愛い、欲しい、惜しい、人に言われても反省するどころか恨み返す、我慢根性で人に頭を下げぬ、誤魔化し上手で、騙し上手、オレほど偉い者は無いと自惚れ一杯のどうにもならぬ悪性なのです。後生は間違いなく地獄です。
 三世の諸仏があきれて逃げた、嫌われ者なのです。
 だからこそ本師本仏の阿弥陀仏一仏が、憐れみ給い、必ず救うぞ、われを信じよ、まかせよと呼びたもうのです。
 誰の為の、何の為に建てられた本願か、生起を忘れては聞けません、救われません。



○ここを正しく知って頂きたくて、あえて失礼を省みず、体質をここまで書かせて頂きました。

 特別な人は無い、皆極重の悪人であり、無条件で従うべきは阿弥陀仏だけでなのです。
 ここを誤解なく読んで頂きたいと思います。



 お目当て、生起がいくら分かっても、次に本末が聞けねば救われません。
 捜していたら増井悟朗先生、華光会の先生方にお遇いする事が出来ました。
 親鸞会以外に本末を説かれる先生は居られます。
 華光会以外にもおられます。捜して下さい。
 他の話を聞くな、本読むな、親鸞会を離れては絶対に救われないと言うのは間違いです。
 高森先生からしか聞けないのでは決してありません。


 うちは日本一のソバだと言いながら、他のソバを一切食べさせないのはおかしいと思いませんか。
 日本一と分かるのは他所で食べ比べてのことではないですか。
 自信があったら、どうぞ他所と食べ比べて下さいと言えるものです。
 もっと美味しいソバが他にあるとお客が流れるから、困るのではありませんか。



○なぜ氏名を明かさない

 私が名前を明かさないことを一言言います。
 退会してから私へ非常識な言動があったからです。
 何度言っても止まず親鸞会へ連絡しようと考えましたが、急に何があったのか、その人から謝罪の電話があり、止まりました。
「私の白道」も氏名を明かせば熱心な人から又同じ事があり、これを最後まで書けないのではと危惧したからです。



○親鸞会があったなればこそ

 高森先生より仏教のイロハから教えられ、親鸞聖人のみ教えこそ私の救われる道、これ以外絶対ないと思うところまで聞かせて頂きました。
 そのご恩は大変有難いと思っています。忘れません。
 もし高森先生とのご縁がなかったら、私は親鸞聖人と関係ない好き放題の人生を歩いていたと思います。そんな心しかない自分です。
 40年余り聞かせて頂きましたが、しかし、このままで救われるのか、疑問は大きくなり、遂に退会して生起本末を聞かずにおれませんでした。
 また親鸞会の体質のことを書きましたが、これもずっと疑問でした。
 もし講師部として優遇され、生活も心配なく、疑問も無く活動していたら今の私はありません。
 理不尽さを知り、教え、組織に不審を持ち、健康、経済的問題でも怒り腹立ち、泥凡夫の自性をいやと言うほど見せられました。
 こんな私に19願の諸善を勧められても、とても助からない。
 こんな私はとてもやってゆけないと心底思いました。
 ご恩あるところなのに、失望させられた複雑な思いです。

 今、阿弥陀仏に救われて、この身になれたのは南无阿弥陀仏のお力の不思義であり、すべての関わった方々がご縁となったと思わずにおれません。

 だから高森先生、親鸞会の存在は、私達夫婦にとっては権化の仁だと、いつも妻と話します。仏智によって知らされることです。


 本当に長い間、お読み頂きまして有難うございました。
 世界中、無常の世であるぞと知らせる事ばかり起きています。
 どうか一日も早い後生の一大事の解決を念じ申し上げます。


●煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します。


南無阿弥陀仏

私の白道・10

「私の白道」10

(続き)


○高森布教局長の不人気と高森家の危機


 4月の末に高森布教局長の不倫疑惑の噂が流れた。
 私の耳にも入り、すぐ関東担当部長(布教部長)に電話すると、関東では会員さんも知っているという。疑惑は事実だった。大変なことになった。会員さんの耳に入ればどうなるのか。
 すぐ講師長に対処のメールを送り、指示を待った。が何もない。
 高森先生にも手紙を書いた。
 不倫疑惑の事実確認、原因、対処の三つをお願いした。しかし指示は無い。
 同じ県に知らない支部長がいて、時間の問題と思い、3名に聞いたところを伝えた。これが後に除名行為になるとも知らずに。

 5月に高森先生の定例講師部会議が開かれた。
 この時、皆、不倫疑惑について説明があると思っていた。
 しかし何も言われない。4名の部長(布教部長)の問題を話題にされ、必要かどうか聞かれ、わずか6、7名の支部長が部長の存続を望んだが、100名以上の支部長は手を上げなかった。5%しか支持がなかったのだ。
 部長の支持率5%、不必要の意思表示は高森先生にとってショックだったと思う。
 わずか5ヶ月で、高森布教局長ーー4名部長ーー支部長体制の拒否は、そのまま高森布教局長拒否でもあるのだ。
 いかに高森布教局長が全支部長に不人気か、嫌われているか、再自覚させることになった。

 この意思表示に、遂に高森先生は部長は4名とも解任、支部長に降格と言われた。
 しかし会議が終わる15分前になっても不倫疑惑について話題を出されない。
 司会の講師長も避けて通すつもりと分かったので、大きな声で私は手を上げた。不倫疑惑でなく、支部長会合の指導の内容が今の我々の問題と違う事ばかりで、やる気が起きないと爆弾発言をした。
 高森先生、全講師部の前で高森布教局長の批判をした。他の支部長もこれに続き、批判の発言をした。

 講師部除名になった瓜生支部長も、「自分に対するお礼状があるかどうか、そんなことに会合時間をつかっている」と批判した。

 高森恭子部長が、北陸支部長全員の名前を黒板に書き、○△×を書き、「これは何だと思うか」と聞いた。やがて、あることに対する高森布教局長へのお礼状のことで、○は出して内容が良い、△は出したが内容が良くない、×は出してない人。×の者に反省を求められた。

 しかも、全員のお礼状メールが読み上げられた。まだその上に会合記録として、お礼状のメール全員分が会合記録にアップされ、全支部長に送信されてきた。この異常さには驚き、呆れた。自己顕示欲の塊だ。
「支部長制度で上下関係が無くなったと思うな、ワシはあくまでもお前達の上司だ、ワシを無視したらこうだぞ」、という意思表示と皆思った。

 嫌われて当り前だ。

 時間が無いのに、月2回も支部長会合で集められ、何をやるかと思ったら、自分の言いたいことばかり中心に話している。こんな布教局長は要らない。新しい酒は新しい器に入れるべきだ。前の器ではせっかくの新酒も同じ味になってしまう。

 とどめに2年前亡くなった斎藤支部長が「高森布教局長はそのままですか?」と念を押して聞いた。
 高森先生はムーッとした表情になり、あわてて講師長は、「変わりない」と言って解散となった。
 不倫疑惑もあり、長男への批判がこうも強いとは、高森家の最大の危機と受け取られたと思った。



○支部長制度のウソ

 支部長制度は清森さんも「清森問答」に発言があったように、高森先生が講師部に一言の相談も無く勝手に決めて突然発表し、しかも講師部員の自発的希望であると会員さんに偽りの説明をされた。
 非常にショックだった。会員さんまで騙していることになる。
 こんなウソが平気で言える人だったのかと、驚いた。

 しかも、本部長制度から支部長制度の変更原因も、今年の報恩講の参詣人数が昨年と変わりないと聞かれ、激怒して、本部長制度では親鸞会は発展しないからと後で聞かされた。支部長制度の方が会員が増えると思われたからからだ。
 今の支部長の中から、誰が早く200名、300名それ以上の支部になるか、楽しみだと言われた。目的はあくまで親鸞会を大きくする事だった。

 法領(給与)も無くなった。私の歩んだ道を歩みなさい、私の時は何も無かった、君達は恵まれている。ご法話テープもある、アニメもある、なぜ生きるもあるからと言われ、経済的不安はそんな心配ない、やがて困るくらい財施に恵まれる時がくるとも言われたのだ。盲信は恐ろしいと後で思い知らされる。



○高森先生の不倫疑惑もみ消しの指示

 講師部会議が終わって、突然、関東担当支部長から不倫疑惑に関するメールが来た。「これは講師部2名と会員が布教局長を失脚させるためと、講師部を攪乱させるため計画された事だ」とあった。
 メールを送って来た支部長に内容の説明を求め、なぜ私に送ってきたのか電話で聞くが、言えませんというばかり。20年近い仲なのに口封じされている。
 しかし高森恭子部長が指示していることが分かり、高森部長になぜそんなことをするのか聞くと、言ってないと白を切る。メールを送ってきた支部長から聞いたと言っても白を切る。では電話して確認しますよ、と言うとどうぞというので電話して代わって話しさせたら、認めた。

 しかし「会長先生のご指示ですから」とケロッとして、今、ウソを言ったことを詫びない。
 これが親鸞会講師部の価値観なのだ。「高森先生のご指示」なら、法友を騙しウソを言っても問題にならない。
 水戸黄門の印籠と同じで、ははーと平伏するのが講師部員なのだ。
 顕真学院でもこればかり教えている、と言って過言でない。
「高森先生のご指示」ーーー親鸞会で最高の権威なのだ。誰人も文句は言えない。
 世界で唯一の善知識なのだから。間違いない指導者なのだから。
 これを高森布教局長が悪用している事実を、インターネットで暴露した講師も過去にいた。

 このことで、高森布教局長の不倫疑惑は、高森家では親子、夫婦協力体制で全力で取り組んでいることを感じた。
 もし事実となれば、講師部除名処分に相当する。


講師部規定5

「私は親鸞会の講師として絶対に不倫な男女関係は致しません。
 上記の誓約を厳守出来ぬ場合は講師部を退きます。」


 その県で、この問題に熱心な講師の切り崩しが始まっていた。
 私の県は2名だった。もう一人の支部長からは、密会を隠し撮りしたビデオを見せてもらった。羽田空港ロビーから二人が出てきて、バスに乗りホテルへ入り、二人でホテルの朝食の場面が写っていた。写真も出回っていた。


○降誕会に参詣しない布教局長の理由

 関東の別の支部長からメールが届き、支部長の首かけてこの疑惑を追及する、降誕会に局長に会ったら本人に詰問すると送ってきた。これを局長にも送ったとあった。
 男らしく答えるのかと思ったら、実行委員長であるのに1週間ほど前に腰痛を理由に実行委員長を辞退して、1日も参詣しなかった。
 入院も手術もしない腰痛、車で20分ほどの高岡市に居ながら参詣しないとは、こんな講師部の欠席は聞いたことが無い。

 広島県から私のよく知っている癌末期の会員さんは、身内の運転する車に酸素ボンベを持ち込んで本部まで来られたが、体調悪く参詣出来ず帰られた。そして亡くなられた。命がけて参詣されていた。
 高森局長は海外へ行くと「万難を排して参詣しましょう、如来聖人、高森先生が待っておられます」と堂々と誘っていながら、自分のことは、別らしい。
 宿善は聞法心にも現われる。こんな程度なのか



○講師部総会で不倫疑惑事件の総括。除名者、続出、そして誓約書

H14年8月27日(28、29日と追加になる)

 高森先生の講師部会議が朝から行われた。
 講師長から早く席に付けと、いつに無い厳しい叱責が飛んだ。
 高森先生の表情も厳しく、遂に3ヶ月目にして不倫疑惑の真相が解明されると思った。しかし高森布教局長の姿が無い。

●詳細はインターネットで「M晴をあまりいじめないでくれ事件」を検索すれば分かります。この内容は事実です。清森さんも同席して事実と認めています。

 不倫疑惑に関係したり、聞きながら上司に報告しなかったり、他の人に話した講師が30名以上前に出され指摘の嵐を3日間受けた。
 私も、まだ知らなかった支部長3名に話した罪で前に出た。
 罪状は「五逆罪」と言われた。講師部の和を乱した、和合僧を破った恐ろしい無間業、地獄行きの大罪と弾劾された。

 しかし不審が幾つもあった。

1 不倫の事実が有ったか、無かったかハッキリ言わない。
  無かったに決まっているを前提に進めていた。
  問題の女性講師も参加していたが、3日間、一切の発言は無かった。
  事実の確認は全くせず進めたのである。
  3月、4月と東京に行きながら、活動日報には地元にいたように
  ウソの報告がしてあった。このことさえ聞かない。

2 なぜこんなスキャンダルを、講師部2名と関東青年部員が見つけ広めたのか。
  失脚させたいほど嫌われている原因は何か言わせない。
  最も大事でないか。裁判でも動機がまず問題になる。
  明らかになると別の問題にも発展して困るからだ。
  私はすでに聞いて知っていた。嫌われても無理は無い。

3 高森布教局長は大人であり、本人が不倫疑惑について何も言ってないのに
  なぜ親の高森先生が仕切るのか。かばっていい問題か。
  これは仕組まれたもの、ビデオも写真も捏造と言いながら、
  映した講師や青年部員の動きを細かく詰問するのか。
  無いことなら追求する必要がない。
  矛盾したことを聞いているなと思った。

4 高森布教局長は日頃、「李下に冠を正さず」の格言を出して
  誤解されるような言動をするな、と何度も講師部に注意しながら、これは何だ。
  会員さん、講師部に不審で迷惑かけたのは事実だ。
  謝罪、釈明をなぜしない。させない。しなくていい問題なのか。
  こんな事、世間でも常識でないだろうか。(今だに無い)

5 問題を関東担当部長が高森恭子部長に報告した時、
 「彼女が東京へ行ったのは知っています、相談があったからです」と言いながら、
  私が聞くと、そこまで関東部長から聞いて知っていると思わないから
 「彼女が行ったのは、親戚に出産祝いを持って行っただけだから」と
  違った理由を言った。
  なぜ聞く人で理由が変わるのか。
  やはりウソ、誤魔化しが平気な人だ。高森家の家風なのか。
  相談なら、電話もメールもある。高岡まで40分の所に居るでないか。
  なせ忙しい関東地区支部長会合の前の夜に
  3月、4月と高い交通費を使って、相談ごとに一緒に行かねばならないのか。
  不自然すぎる。

6 なぜ五逆罪なのか。問題起こした本人が、無罪で、
  話題にした者がなぜ除名の重罪になるのか。
  理不尽すぎる。明らかにおかしい。

7 講師部もバカではない。私でもこれだけの事を感じている。
  こんな強引な、理不尽なことをすれば、
  皆の尊敬、信頼はどうなるのか分からないはずはない。
  しかし背に腹は代えられないところまで、高森家は追い詰められ、
  100日考え、こんな余りにも愚かしい結論を出した。


 高森先生は顔を引きつらせ、私にも「○○、そんなに面白かったか、楽しかったかー」と言われた。日頃の善知識ではなく、完全に怒り一杯の親の顔だった。会員さんには見せたことの無い顔だ。
 読んでいる方は、なぜ講師部はこんな理不尽なことに従うのか、反発しないのだろうかと思われるのではないでしょうか。
 これこそ親鸞会講師部の問題の体質なのです。
 重大な問題です。


1 後生の一大事がある
2 解決の道である「阿弥陀仏の本願」を正しく説かれる善知識は、高森先生しかおられない。先生から離れたら絶対に後生の一大事は解決出来ない、後生は地獄だ。
 除名になったら、助からない、地獄へ堕ちろと言われたのと同じだ。
 だから、何があっても、何を言われても、どう思おうと、しがみついてゆかねばならない。無条件に服従するしかない。


 講師部は骨の髄までこれが徹底しているから、高森先生はこんなやり方でも、この難局を解決出来る、乗り切れると読まれたのだ。長年教えてきた自信があったのだ。
 私は自惚れの極みと思う。これは「善知識だのみの異安心」と同じ心と言って間違いだろうか。



 私は決して、個人のスキャンダルを暴いて、困らせて追求しようと思って、これを書いているのではありません。
 なぜなら、悪縁がくれば何をするか分からぬ煩悩具足の自分であることは、阿弥陀仏に救い摂られてからは、余計に毎日知らされるからです。
 仏教では身体より心の罪が重いのですから、人のことを言う資格は全く無いのが私です。浅ましい、恥ずかしい、人に見せられない根性しかないくせに、名誉欲で口と身体を何とか慎み善人顔しているだけなのです。
 時間とお金があって、見つからぬとなれば、何でもしてしまうのが私の本性なのです。

 不倫疑惑の事実を白黒つけようと思って書いているのでありません。
 この問題を本人、高森先生、恭子さんはどう対処したかです。
 この3名は親鸞会の最高指導者です。会員全員が影響うける人達です。
 その体質こそ仏法者にとって大事な問題だから詳しく書きました。

「過ちを犯さないことを誇りとするよりも、過ちを直ちに改めることを誇りとしよう」

 一日一訓カレンダーにありますが、その通りにされただろうか。

 仏法の五逆罪を持ち出し、前に出された講師部を3日間、他の講師に徹底的に指摘させた。
 又、高森布教局長への不倫疑惑以外の批判的言動まで暴露するように言い、その講師も前に出させ、過去に何を言ったのか、これも徹底的に指摘した。
 信じて言った相手に暴露され指摘されたら、もう二度とその人間を信じられなくなるのが人情だ。
 息子の批判は今後一切させない、出来ないことを見せつける為だが、これこそ自ら、和合僧を破る行為ではないか。3日間前に座らされていたが、私はそう思った。講師部の人間関係が一気に崩れた。

 3日目に判決が出た。前に出された者は除名、地獄へ堕とされた。
 声を上げて泣いた。
 やがて、「世間にも執行猶予ということがある。どうだろうか、皆んながそれでよいなら、そうしてもいいが」と助け船を出した。

 3日間指摘した側の講師も、除名させようなどと誰も思っていないから、すぐこの提案に乗った。ボードに一人一人名前と執行猶予の年数が書かれていった。
 私は5年だった。長い講師は20年、30年があった。
 インターネットにバカ息子と書き込んだ講師は20年だった。
 これでは終身刑と変わらない。
 高森先生が亡くなっても、息子を非難したことを、ずーっと反省していろということになる。
 これは将来に亘って、息子の批判をさせない、次期会長へ安定移行させたい不安の現れと思った。
 しかし、それだけで済まなかった。


(講師部総会での規約)平成14年8月29日

1 講師部間の悪口、非難は一切厳禁する。
2 講師部の和を乱す情報を得た者は、その提供者と、情報と、その日時を直ちに報告すること。
3 講師部員の言葉遣いや行動で、おかしいと思うことは、どんな些細なことでも直ちに報告すること。


 この誓約書を、その場で署名して提出するように配られた。
 今後このような非難をさせない為の準備が出来ていたのだ。
 完全に講師部の心は読まれ、北朝鮮と同じ密告奨励の組織に変わった瞬間だった。腐敗の始まりだ。
 全員、何も言わず提出した。
 これで完全に口を封じたつまりかもしれないが、息子可愛さ、自分達の保の為に、愚かな判断をしたものだとつくづく思う。
 法友を信じるな、本音を言えば大変なことになる事を身を以って教えたのだ。
 それにしても除名のところを、特別のお慈悲で執行猶予で助けて頂いたなどと当時は思ったが、時間と共に馬鹿げたことだと段々思えてきたものだ。


 私が感じた講師部の裏の規約はこうだ

1 本音で言う者は下の下
2 建て前で言う者は普通
3 建て前を本音のように言える者は上
4 何も言わず、聞いて密告する者は上の上

 これが今後、講師部で生きていく為の規約になった。



 親鸞聖人の「御同朋、御同行」精神から完全に外れている。
 高森先生、局長は絶対批判されない特別の人だから、私がこの「私の白道」で親鸞会の会員さんを「親鸞学徒」と初めから書かないのはこれが理由です。

 高森会の会員さんです。

(続く)

私の白道・9

「私の白道」・9

元親鸞会講師部


○親鸞会の活動していたら助かるのか


 私がこの県、この市へ来て36年が経ち、その間に親鸞会に入会された人は1000人を越えるでしょう。また同じ程の方が退会され現在○百人の方が求めておられます。
 仕事で16年、講師部で20年、この県の地理は隅々まで知り、幹部、会員さんの顔は忘れてはいません、
「宿善まかせ」ーーー宿善さえ厚くなれば助かる、と信じ、会員さんに活動を勧め(参詣、顕正、財施、アニメ販売、教学、その他)、その結果「私は救われました」と言う人は、私の親鸞会在籍中はありませでした。
 私が退会してからあったでしょうか?


 極難信の法ではありますが、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の御心を聞けば一人居て、一人救われる法であります。
 私は講師部の時、この事が分からず、話しすることが出来ませんでした。
 本当に申し訳ありませんでした。心よりお詫びせずにおれません。



○18願を聞くと、三願転入の心を知らされる

 増井悟朗先生より聞かせて頂き、18願を聞く、仏願の生起本末を聴聞するままが、三願転入させられる心の道であったと知らされました。

 生起で私の相、値打ち聞かされても、自分ではそんな悪い人間とは思っていない。まだましな方だと自惚れていたが、食べて生きることが既に殺生罪の一生だ。よく自分を見れば、十悪五逆謗法は毎日犯しているではないか。
 心から親切が出来ない、名利の心で、損得で動いているだけと知れてくる。
 善はやっても「おれが、あいつに、してやった」では泥足で雑巾がけをしているようなもの。拭いた後に汚い足跡がペタペタと残っている。仏教では真実の善とは言わない。雑毒の善と言う。

「一切凡小、一切時の中に貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼くーー虚仮雑毒の善を以って無量光明土へ生ぜんと欲す、これ必ず不可なり」(化土巻)

 雑毒の善では助からないと、19願の人を親鸞聖人はこう教えられた。

 お浄土どころか、このままでは因果の道理で後生は一大事。しかも無常はいつやって来るか知れない。今晩かも。どうすればいいのかと、心は自力の諸善から阿弥陀仏の本願力に救いを求めるようになってきた。

 本末を聞かされて、こんな私目掛けて命がけの阿弥陀仏の五劫兆載永劫の願行のご苦労があり、名号六字を成就して呼びずくめを知らされ、申し訳ない、称えずにおれなくなる。
 しかしこの諸善万行の収まった念仏の大功徳で、何とかしようの心で称えているから、称えている時は助かるように思うが、称えられなくなり、続かないと不安になる。

「大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以って己が善根とするが故に、信を生ずること能わず、仏智を了らず、彼の因を建立すること了知すること能はず、故に報土に入ること無し」(化土巻)

 20願の念仏の人を親鸞聖人は厳しく戒めておられる。



 称えても後生は暗い。ハッキリしない。不安になる。
 おまかせ出来ない疑いの心、どう聞いたら、どう思ったら、どうしたら、どうしたら、ハッキリしたい、判りたい、助かりたい、何とかなりたい、墜ちると思えぬ、まかせられない自力の心にあせリ出す。

 私は真の善も出来ぬ、念仏も続かぬ、そして頑とある自力の心、疑う心に苦しみました。この心が最後に大問題になって来た。
 毎日このことばかり思うようになりました。どうしたらこの疑いがなくなるのか、無くそう、捨てようと努力しました。
 しかし、どうやっても無くなりません。それでまた苦しむの連続でした。

 ・「仏智疑う罪深し      この心おもい知るならば
   くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」

 ・「八つ 益にもたたぬ雑行や 雑修自力をすてもせで
   弥陀仏泣かせていたことは ほんに今まで知らなんだ」

 ・「富士の白雪朝日で溶ける  凡夫の疑い思案じゃとけぬ
                晴れたお慈悲を聞きゃ晴れる」

 増井先生、華光会の先生より仏願の生起本末を聞き、阿弥陀仏にここへ照育せられ、導かれていったのです。

 それが南無廻向の心、「まかせよー」の一声、聞こえたまま、疑いの無い信楽の心になってしまいました。
 不思議としか言い様の無い、南无阿弥陀仏の本願力でありました。


「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず」


 何と楽な世界か。願船に乗せられると往生の当てができて楽になってしまった。こんなことやったのかー。知らなんだー。

 「九つ ここに居ながら正定聚 光明摂取の網の中
  逃げても逃がさぬお慈悲とは ほんに今まで知らなんだ」

 南无阿弥陀仏を聞信する一念に往生は決定し、そのご恩に念仏を称えずにおれない身とさせて頂きました。

・阿弥陀仏の18願「至心信楽欲生我国」の誓願を、
・釈尊は「聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国」と説かれ、
・親鸞聖人は「聞と曰うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とお示しにならました。

「仏法は聴聞に極まる」本当に聞くひとつでした。
「18願を聞け、生起本末を聞け」
 聞けば「三願転入」の心も知らされるのです。



真宗宗歌

 1 深きみ法にあいまつるーーー18願、仏願の生起本末、南无阿弥陀仏
   身の幸何にたとうべき
   ひたすら道を聞きひらき
   真の御胸いただかん

 2 永久の闇より救くわれし
   身の幸何にくらぶべき
   六字の御名を称えつつ
   世の生業(なりわい)にいそしまん


 そうとも知らず、19願の自力の諸善を積み上げて、20願、18願と進んでゆくぞー。「光に向って」頑張ってゆく道だと聞き間違って、30年、40年と求め、やがて歳や病や、お金が尽きて泣いて後生へ出かけて行く会員さんを、余りにも多く見てきました。
 講師部の時、これが求道だ、国に一人、郡に一人の厳しい道だ、宿善浅ければ助からなくても仕方が無い、どうにも出来ぬと見ているしかありませんでした。

 阿弥陀仏は泣いておられます。
 ようやく人間界に生を受け、聞きがたい仏法、しかも阿弥陀仏の本願を聞きながら、聞き間違いをして、またも流転してゆく相に、血の涙を流しておられます。
 お前はもう私の心が判ったからには、早く伝えてくれ、懈怠な心、非難を嫌う心しかないことは判っている、しかし伝えてくれ、の阿弥陀仏の御心に押し出されて、私は、「私の白道」を書かせて頂いています。
 阿弥陀様に書かされているなと感じます。
 早く南無阿弥陀仏に遇って頂きたい、救われて頂きたいの心を忘れず、これからも書かせて頂きます。


真宗宗歌

 3 海の内外のへだてなく
   御親の徳の尊さを
   わがはらからに伝えつつ
   御国の旅を共にせん


 懈怠な私への阿弥陀如来のお勧めです。



○聴聞と信心の沙汰の大切さ

「仏法は聴聞に極まる」は最も大事です。次に「信心の沙汰」ご示談、談合、座談も大事であることを、蓮如上人は何度も教えておられます。


蓮如上人仰られ候、「物を言え、物を言え」と仰られ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰せられ候。「信、不信ともにただ物を言え」と仰せられ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人も直さるるなり。ただ物を申せ」と仰せられ由候。
(御一代記聞書87)


 一方的に話をしていても、どう聞かれたのか、何が分からないのか、聞き心、受け心を無視していては南无阿弥陀仏は届きません。
 聞き間違い、思い違い、疑問は必ず起きるのです。
 だから蓮如上人は、そこが大事だから「物を言え」、信心の沙汰、談合、ご示談、仏法讃嘆をせよと厳しく教えられたのです。
 此れは廃立の精神でもあると思います。



○なぜ信心の沙汰が無いのか。

 親鸞会で長く求めていても信心決定が難しいと思われる原因の一つが、この信心の沙汰が余りにもなされていないからと思います。
 では、なぜ信心の沙汰が無いのでしょうか。
 今回、問題にしたいのがここなのです。
 信心の沙汰が無い。なぜしない。なぜ出来ない。ここを知って頂きたいと思います。



◎親鸞会の体質を問うーーー自由に物が言えない。これでは沙汰は出来ない

 親鸞会は明るく元気に、上司に素直にハイと従って聴聞、活動することを求められます。何か、疑問、質問、本音を言うと注意されたことはありませんか。そんな発言は周りに悪を撒き散らせ影響を与えるから決して言ってはならないと・・・。
 たとえ教えに関する疑問でも、こんな事を言ったらまた注意されるのではないか、指摘されるのではないかと恐れ、建て前しか言わなくなるのです。立場のある人程それは強いのです。
 教え、活動、言動にまで、じっと上司の指示に無批判で従うだけの人間になってしまい、本音、疑問は胸の奥深くに押し込んでしまう。これが求道だと思って、孤独地獄に落ちて悶々とした日となってゆくのです。違いますか。なぜこんな雰囲気なのでしょうか。
 私の体験をお話してその原因を知って頂きたいと思います。
 少し長くなりますが、親鸞会の真実の姿を知る為に読んで下さい。



○高森先生に初めて上司指摘の手紙を書く

 平成14年4月に高森先生へ手紙を出しました。
 出すのに1週間悩み、覚悟して書きました。
 それは長男の高森布教局長に対する内容であり、講師部となって17年目で初めての上司の指摘を書いたのです。

 親鸞会講師部を知らない方には、そんな手紙位と思われるでしょうが、これは講師部の首を掛けないと書けない内容です。
 なぜなら、

講師部聖則(学院生も同じです)

一、親鸞会講師部は、会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。

一、親鸞会講師部は、上司の指示は会長先生の指示と心得ます。

一、親鸞会講師部は、いかなる場合も仏法最優先とし、破邪顕正に命をかけます。

一、親鸞会講師部は、常に求道の姿勢を正し、会員の模範となります。


 この聖則が講師部の求道の規範になっているからであり、これに反する言動は、講師部不適格者であり、除名、顕真学院再研修、任務解任、役職解除、降格等の処罰が課せられます。
 まして、高森先生、又は身内への批判は厳罰であり、許されない行為として、徹底しています。
 しかし、書かずにおれない事態が起き、決意しました。



 平成14年に支部長制度が始まり、これまでの本部制度は廃止となり、東総本部長であった高森総本部長は、布教局長となりました。

 高森布教局長ー4名の部長(布教部長)ー○百○十名の支部長 の組織となった。

 しかし、布教局長、部長は、支部長とは上下関係が無く、支部長がやってゆけるように補佐する立場と高森先生が言われた。
 これまでの様に、高森布教局長は上司ではない、公共の会場では御法話をしない、組織を使ってご法話に誘うことはしない、月に2日しかご法話ができないと規定が発表され、支部長は自分の支部会員への法施、活動に専念せよ、と言われて自由な活動が約束され、皆喜んだものです。

 しかし、私の県で高森布教局長をそれまで招待していた会員さんは、続けて招待ご法話を続けられることになりました。それは自由ですから、問題はありませんでした。
 参詣は自由。その日、支部長は自分の布教活動に専念していいはずなのに、同じ県の他の支部長7名は、本部制度の時と同じように高森布教局長のご法話に参詣しました。参詣しなかったのは私、一人です。
 4月の北陸支部長会合の朝、用事で高森布教局長の部屋へ入ると、頭から
「ワシのご法話に参詣しないのは君一人だ、遅れるのが分からんのかー」
と大声をあげてきた。私は内心、「遅れとるのは、そっちだー」と叫んでいました。
 大分、興奮しているのが分かる、この4ケ月間頭に来ていたのだ。
「組織が変わった途端に勝手なことしやがって、先生がどう言われようと、ワシを無視したらどうなるか分かっているのか」、という強い憤りを感じた。

 私と高森布教局長は30年近くの長い付き合いです。
 高森青年部長時代、私は上隊長で局長は私の上司だった。
 36歳の時、電話で講師部に入らないかと誘ってきたのは高森青年部長だった。
 青年部担当時代が最も親密な間であり、青年部員の結婚式も、司婚が高森青年部長、私が準備兼司会で相当の数をした。
 副青年部長、青年部参謀に任命され、本願寺への批判本を配布する「イナズマ作戦」の担当、「全国青年部ご法話」の会場係も担当し、信頼を受けていた。
 しかし、いつも感じていたのは、その強い「自己顕示欲」だった。
 約束、時間、整理整頓に厳しく、尊敬する点は多々あったが、「ワシがー」だけは、何年たってもなじめなかった。謙虚さなんか無縁の人だ。

 また人の指導方法にも嫌な思いを何度もした。
 人のミスを細かくメモし、よく覚えていて、人の集まる所で指摘を始める。
 始末書、詫び状の提出も確認して、遅れると又指摘だ。
 段々と人の弱点、引け目を握って服従させてゆく。そのやり方は本当に嫌でたまらなかった。皆、嫌っていた。

 大好きなのはお礼状だった。
 ブラジル布教に行くとき、日頃読めないから、トランク一杯のお礼状をつめて飛行機の中で読むのだと言ったとき、これでは大きな男になれないと思った。若い時から、自分への称讃、感謝の言葉に埋まっていたら、自惚れてしまい、自分は特別な人間と錯覚するだけだ。
 他人は叱り、自分は称讃が欲しい、我執丸出しの性格が出来てゆくだけだ。

 最も絶望したのはご法話への姿勢、仏法への姿勢だった。
 青年部、婦人部、一般部、学生部の活動組織が本部制度に変わった時だった。
 それまで関東の青年部が高森青年部長を招待してご法話をしていたが、制度が変わったので、他の10講講師(当時7名)にも来てもらおうという話が出て、それが高森青年部長の耳に入った。
 すぐ副青年部長が集められ、関東青年部担当講師に、「他の者を招待するそうやな。それなら今月のご法話、ワシは行かんぞ」と言い捨てた。
 本当に驚いた。講師部にとってご法話は命のかける所、釈迦如来の代官として務める聖使命でないか。それを、自分以外の者を招待するなら、約束してあるご法話まで行かぬとは何ごとか。こんな程度か、この男にとってご法話は。心底怒りが出てきた。
 担当講師はひたすら詫びていた。その後、変わりなく関東ご法話は続いていった。私はこの時から評価が変わってしまった。

 もう一つ、ご法話に「遅れ」があってはならない、もしあったら厳罰が講師部の決まりだ。その場の会員さんに土下座して謝罪し、参詣者全員にお詫び状を書くことになっている。処罰は勿論ある。
 私が光教育担当としてアニメ販売で九州熊本市へ行った時、高森総本部長のご法話があった。10時からの日程なので、会員さんも九州中から担当講師が誘い集まっておられた。
 しかし10時になっても10時30分になっても来ない。
 会場では10時から、アニメ上映が始まっていた。
 10時40分過ぎ、タクシーから下りて来て、11時過ぎから法話が始まった。
 担当講師に聞くと、本部長は事前に了解だからと言う。
 遅れることが分かっているから、アニメで時間稼ぎして法話をさせる。なぜそうまでして高森総本部長に来てもらわねばなならいのか。
 九州本部長は自分で法話をせよ。九州の責任者でないか。
 それで、ご法話に絶対遅れるなと日頃、担当講師へ指導していて何になる。
 あってはならぬ事でも、高森総本部長は特別な方、仕方ない、皆、目つむれと教えているようなものでないか。馬鹿なことをしている。
「はらからよ、姿にかけた法を説け」の当時の高森先生の指導を、活動部門最高責任者自らが無視していることになる。何をやっとるのか。
 特権を見せ付けてるのか、そんな根性なら来るな。

 次に北海道へ光クラブ員19名とアニメ販売で移動した。そこでも北海道の本部長が高森総本部長を招待してご法話をした。
 今度は昼から1時間ほど話して飛行機の時間に間に合わせるため、後はアニメ上映にして本部長が総本部長を乗せ運転し、会員さんを会場に残して飛行場へ行ってしまった。会員さんをほっといて何をしてるのか。
 どこも、ここも、皆、高森総本部長の都合に合わせて、やってならないことを、担当講師に見せている。こうして腐っていくのだ。
「遅れとるのは、そっちだー」と内心叫んだのは、こんな怒りからです。

 今後も参詣しないと、「まだ懲りないか」と言うに決まっているので、そんな気持ちで説法している話は聞きたくないから、高森先生に九州、北海道のあったことを書いた。
 これで、上司批判と判断されて除名されるなら、それも仕方ないと腹をくくった。何も連絡は無かった。

 次の北陸会合の時、終わり際に高森布教局長は、「ワシのご法話に参詣しろとワシは言っとらんからな」と強く念を押して退場した。他の講師には何のことか分からなかったろうが、私は高森先生から叱責があったなと分かった。本人からは一言もなかった。
 必死で書いた手紙も、親子の間だけの話で終わり、表には出ず、しかも高森布教局長の言動を見る限り、反省など無く、こんな姿勢では何か問題が起きると予感された。

 そして、全講師部を揺るがす、前代見聞の不倫疑惑事件が起きた。

(続く)

質疑応答104

【質問】


 いま後生と踏み出したとき、暴れ出すものがいます。
 そしてこの暴れだす心を持ったままでは、この世を幸せにしてゆこう、と努力すること自体が、ものすごく苦しくなります。波が来るのがわかっていながら、砂の城を(もっと大きく、もっと豪華にと)建てている気分になるからです。

 うまく言えないのですが、この湧き上がる苦しみがおさまらないと、もう善に励むどころでなく、前に進めない心持になります。この苦しみは、どうしたら癒されるのでしょうか。

 この苦しみを阿弥陀仏が救ってくださるんだ、と言い聞かせて、しばらく待つと、どうにか、おさまるのですが。教えて頂けたら嬉しいです。



【回答】


 この苦しみは、一時的にも解決する方法は、阿弥陀仏は必ず助けて下さると、信じることしかないと思います。

 大無量寿経には、阿弥陀仏の智慧は、深くすべての人を救おうと全力を尽くしておられる、その阿弥陀仏の智慧を、私たちのような凡夫の智慧で、計ることはできない、と教えられています。

 私たちが助からない、と思ったら、助からないのでしょうか?

 私たちが救われるのは、阿弥陀仏が必ず助ける、と誓われているから、救われるのです。

 阿弥陀仏を信じてください。南無阿弥陀仏。

質疑応答103

【質問】


 例えば好意からお年寄りに席を譲ったら、相手が「年寄り扱いするな」と怒られた、という場合、相手は受け取っておられませんよね。
 この場合、「席を譲る」という行為の結果は、どこにいくのでしょうか。
 また、かえって相手に怒りをおこすきっかけを与えたということで、この行為は悪い行為だったのでしょうか。



【回答】


 このことを理解するためには、本来、仏教で説かれている因果の道理を、正しく理解しなければならないので、現時点で納得して頂くのは難しいかと思います。

 行為の結果は、どこにいくのか、という質問ですが、仏教は一つの「行為」によって、一つの結果が生じるのではなく、「業」によって結果が生じると教えています。

 一つの行為、そのものから、一つの結果が生じる、という一因一果という教えが、仏教ではありません。

 この場合、相手が怒ったことによって、さらに自分が腹を立てて苦しんだら、自分の怒りの業によって苦しんだのですから、「自業自得」です。

 自分に怒りの業がなければ、お年寄りから、どんな罵詈雑言を浴びせられたとしても、苦しむことはありません。

 この人が、慈悲深い業の持ち主だとすれば、縁が悪かったために、目に見える善い結果として現れなかった、と理解したら良いと思います。

 このような人は、いずれ善い縁に触れた時に、必ず善い結果を受けることができます。

 厳密にいうと、上記の説明では不十分なのですが、今のところは、このように理解しておいて頂けたら、と思います。

質疑応答102

【質問】


 以下のような情報がネットに流れていました。
 次期会長と目されるM氏が不倫をしていたという事実は、私達会員にとって衝撃的なショックです。決してM氏個人の問題と片付けられる問題ではありません。
 本来ならM氏が処罰されて然るべきところ、M氏を問題にした講師が処罰されたという判決も、納得いきません。
 このようなことが実際にあったのでしょうか?
 事実なら、このことについて清森先生はどのようにお考えでしょうか?
 疑問に思っている会員は私の周りにも沢山いますので、必ず清森問答に掲載して、お答えを頂きたく思います。


※管理人注 以下、インターネットの引用文がありましたが、省略します。



【回答】


 インターネットの情報については、否定するつもりはありませんが、お互い煩悩具足の身ですし、私も縁があれば、何をするか分かりません。M氏のことを責めることは出来ないと思います。

 しかし、講師部には不倫したら退部という規則がありますし、証拠のビデオというものは私も見ました。

 一晩中、仏法の話をしていたのかも知れませんが、これだけ疑わしい行為があった以上は、やはり皆さんの前で懺悔して、顕真学院からやり直すというのが筋だったと思います。

 そうすれば、逆に、多くの講師部員や、学徒の方々からの尊敬と信頼を得ることが出来たのではないかと思います。

 ところが当の本人は、合宿に参加もせず、一言の弁明もありませんでした。そのことの方が、よほど問題だと思います。

 この事件で、高森先生に不審を持ち、退部していった講師部員も何人かあるようです。

 私自身も、高森先生を信じ切っておりましたが、この件については、疑問を抱かずにおれませんでした。高森先生は、大変な判断ミスをされたと思います。


 繰り返しますが、私は、M氏のプライベートな問題を、あれこれ言うつもりはありません。

 講師部の規約に違反したならば、規定通りの処罰を受けるべきであり、一部の人間だけ特別扱いされることがあってはならない、というのは常識から考えても当然だと思います。

 自らの保身のために、誤魔化したり、体裁を取り繕っていては求道になりませんし、そのような人に、本当に法を説くことができるのだろうかと、心配です。

親鸞会教義の相対化・37

清森義行様


 今日は、清森問答をご覧に皆様や親鸞会関係者の皆様に、ぜひとも読んだ頂きたい一冊を紹介させていただきます。

渡辺一夫著『狂気について』(岩波文庫)

 暴力に対する嫌悪,人間の機械化に対する嫌悪,そして人間に対する愛を心に抱いて生きること・・―ユマニスムを生涯の思想とした著者(1901-75)の静かな祈願のことばは,読む者の胸に深い感動を呼び覚ます.真の知性の眼をもって人間性の根源を洞察するエッセイ・評論二十三篇を収録.
(本書の紹介文より)

 渡辺一夫先生は、フランスのルネサンス文化、特にフランソワ・ラブレーの研究で知られ、ノーベル文学書作家の大江健三郎先生の師匠であり、本書は、その渡辺先生の評論を集めた評論集です。

 本書のタイトルにもなっている評論「狂気について」において、渡辺先生は以下のように述べておられます。

>>>>
 我々は、「天使になろうとして豚になりかねない」存在であることを悟り、「狂気」なくしては生活できぬ存在であることを悟るべきかもしれません。

 このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気」を唯一の倫理にせよとかいう結論に達するべきものでは決してありますまい。

 むしろ逆で、豚になるかもしれないから、豚にならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、誰しもが持っている「狂気」を常に監視して生きねばならぬ、という結論は出てきてもよいと思います。

(中略)

「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。

「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。
真に偉大な事業は、「狂気」に捕らわれやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。

 やかましく言われるヒューマニズムというものの心核には、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。

 容易に陥りやすい「狂気」を避けねばなりませんし、他人を「狂気」に導くようなことも避けねばなりませぬ。

 平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが、行動の準則とならねばならぬわけです。

 そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。

 ただし、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に「病患」を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。
>>>>

 確かに、無関心は何も生み出しません。よく言われることですし、全くその通りだと思います。

しかし同時に、

 熱心になるあまり「狂気」に陥ってしまってないだろうか?
 自分の歩んでいる道は本当に間違っていないか?
 厳しい批判は、他者だけでなく、自分自身にもちゃんとなされているか?
 他を排斥するだけで、自分自身を省みていないのではないか?
 他者に対する配慮はなされているか?寛容の精神はそこにあるのか?

こういったことも、常に考えていかなければならないと思います。


 それから同じく本書に収録されている「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」で、渡辺先生は以下のように述べておられます。

>>>>
 過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開された現実を眺めてみても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。

 割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざる得ないようなことがあるであろう。これは認める。しかし、このような場合は、実に悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持ちは僕にはないのである。

 その上、不寛容に報いるに不寛容を以ってした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱し、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深いひだを残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は考えまいとしても考えざるを得ない。
>>>>

 そして、寛容さを保ちながら秩序を維持するために、渡辺先生は以下のように提言されています。

>>>>
 秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

 更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

 即ち、秩序を守ることを他人に強要する人々は、自分にとってもありがたい秩序であればこそ、正に、その改善と進展とを志さねばならぬはずである。寛容が、暴力らしいものを用いるかに見えるのは、右のような条件内においてのみであろう。

 しかし、この暴力らしいもの、即ち、自己修正を伴う他者への制裁は、果たして暴力と言えるであろうか?十字路の通行を円滑ならしめるための青信号赤信号は暴力ではないし、戸籍簿も配給も暴力ではない。人間の恣意を制限して、社会全体の調和と進行とを求めるものは、契約的正確を持つが故に、暴力らしい面が仮にあるとしても、暴力とは言えない。

 そして、我々がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずるのは、この契約の遵守を要求する個々の人間の無反省、傲慢あるいは機械性のためである。例えば、無闇やたらに法律を盾にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的なものを付加する人々と言ってもよい。

 こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あらゆる人々によって、日常茶飯事のうちに考えられていなければならぬことであろう。
>>>>

 そしてキリスト教の歴史において、神の名の下に不寛容な暴力が行使され、沢山の犠牲が出たこと、そしてその中にあって、寛容を貫き通した人々もいたことを述べ、

>>>>
「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」

「反対意見を強制的に抹殺しようとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を画一化することは、墓場における意見一致を勝ち取ることでしかない。しかも異なった意見をもつことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異なった意見を持ち得るかいなかにかかっている。」
>>>>

という二人のアメリカ人判事の言葉を引用し、以下のように結論付けておられます。

>>>>
 僕は、この二人のアメリカ人の名前を一度も聞いたことがなく、特に著書をたくさん残して、思想界に寄与している人物かどうかも知らない。僕にとって、この二人は、いわば「無名の人」の大群に属する。そして、このことは極めて僕を慰撫激励してくれる。即ち、寛容は数人の英雄や有名人よりも、多くの平凡で温良な市民の味方であることを再び感じるからである。

 そして、寛容は寛容によって護らるべきであり、決して不寛容によって護らるべきでないという気持ちを強められる。よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いと思わねばなるまい。

 その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。不寛容によって寛容を守る態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生き甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。

 だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。


 初めから結論がきまっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。

 歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機会にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少ない犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてもよいはずである。
>>>>

 人生に関して真面目で熱心で、日々を真剣に生きている人が、自分の枠組みを脅かす存在に対して、不寛容な姿勢を取った場合、その真面目さ、熱心さ、真剣さ故に大きな犠牲を生んでしまったというのは、宗教戦争や十字軍、近年では9.11のアメリカ同時多発テロ等、人類の歴史上、何度も繰り返された悲劇です。

 私達は、往々にして、春風のように自分に甘く、秋風のように他人に厳しくなりがちですが、こうした悲劇を二度と繰り返さないためにも、渡辺先生のこの精神から、大いに学んでいかなければならないと思います。

親鸞会教義の相対化・36

清森義行様



 今日は少し視点を変えて、文献学の話を書かせて頂きたいと思います。

 私は、この方法論を用いて親鸞会教義を相対化しております。清森さんや清森問答をご覧になっている皆様も、文献学を押さえていただくと、正しく親鸞聖人の教えを学ぶのにも有効なのではないかと思います。


【参考文献】湯山明「仏教文献学の方法試論」(『水野弘元博士米寿記念論集パーリ文化学の世界』)(1990)



§1.文献学とは

 歴史学とか、仏教学とか、あるいは哲学という個別のジャンルには、それを総括する学問体系があります。その学問体系の一つが「文献学」という学問です。

 文献学というのは、フィロロギー(philology)の訳です。
 フィロロギーというのは、ラテン語のフィロロギアという言葉からきており、学問体系としては「古典のより良き理解と保存を趣旨として、原典に基づいて民族ないし文化の特徴ならびに発展を研究する学問」です。

 この文献学は、それぞれの研究に客観性を与える一つの方法論です。ある文献を読んで、勝手に「こう思う」という「感想」では客観性がありません。きちんとした文献学という方法論を用いて、はじめてその客観性が認められます。

 法然上人も親鸞聖人も、この方法論を用いて「経典にこう書いてある」という「教証」の形で、自説に客観性を持たせて論証責任を果たしてこられました。だからその言葉が、単なる「我見」ではなく、仏の言葉という「事実」として受け取られるのであり、私達はその言葉を信じることができるのです。


§2.文献学の課題

 この文献学は「原典批判」と「原典解釈」の二つの性質をもっており、この二つが相互に関わりながら進められていきます。


§2.1.原典批判

 印刷技術の発達しなかった時代には、文献は写本によって伝承・流布されていました。したがって特定のテキストを研究するのには、まずその写本が集められます。諸写本の比較校合、それらの間の出入異同の確認の後に、原典批判の操作を行い、もっとも純度の高い形で伝承されたと思われるテキストの復元が行われます。その間に原典の破損、脱落が確認され、またその可能なかぎりの修復などの作業が営まれます。
 このような作業を行った結果得られたテキストが、いわゆる「高次批判」に委ねられ、はたして純度がなおどれほど高いか、後世の改変や増広の跡がないか、またそれは全体としての統一がとれているか否かなどの問題が問われ、さらに分析されることになります。
 こうした文献の文献の分析によって、原典がどのように成立したのかを明らかになり、また異本校合の結果とともに原典伝承の経緯、系統が明らかになります。


§2.2.原典解釈

 以上の原典批判と関わりながら、原典解釈が行われます。
 原典解釈には特定言語の文法の理解が必須となり、語義の明確な把握のために語源学が要請されます。ただし一語の意味は歴史的に変化するから、その歴史的・地理的変化を考慮した信憑性の高い辞書の編纂が必要となります。
 語のみならず文体も時代により、分野により、また個人によって異なってくるから、その諸特徴の研究は文体論となり、さらに文芸学が必要となります。さらに特定のテキストの研究にはそれが成立した歴史的・社会的環境の理解が必要となります。
 そして、神話、宗教、習俗、法制、歴史、哲学など、それを取り巻く文化の背景が考慮されなくてはなりません。文献学は原典解釈を通して古代文化の研究一般と近接することになります。


§3.思想先行型文献学

 湯山先生は、「文献学の落とし穴と」して、「宗学と訓詁註釈の学」「思想先行型文献学」「文献引用に終始する論文」「潔癖性型文献学」を挙げられていますが、特に親鸞会教義に密接に関係する「思想先行型文献学」について特に述べておきます。

 文献学の方法として、もっとも深刻な誤用例は、研究者自身の思想あるいは構想ともいうべきものが、予めか、あるいは作業の途中で出来上がってしまい、それに都合の良い文献だけを資料としてしまうことです。
 非常に多くの場合、彼らの思想(構想)は、論理的に堅固であり、さらに新鮮な原資料の助けに威を借りて説得力に富みます。
 従って、読者は騙されないまでも、彼らの理論を反証する資料が故意ではないにしても無視されているために、気づかずに迷路に連れ込まれ誤信してしまう事になります。
 あるすぐれた論があるとします。面白く同学の研究者をひきつけずはおきません。着眼点が素晴らしく洞察力に富んでいます。難解な原典が、豊富に引用されています。複雑な内容が、図式的に(あるいは図式を以て)明解に提示されています。他の学者の気が付かなかった蒙を啓いてくれます。
 しかし、よくよく考察してみると、著者が自己の思想を優れた表現力で示した論文ではあっても、何ら文献学的な実証をしていない。原典の批判的考究、精密な解釈的研究のように見えて、実は著者の哲学的試論、時には随筆とさえいえる「論文」と呼ぶほかないであったりします。注意深く読まないと、これを読者は「文献学」的な労作と思い込まされてしまいます。
 更に悪い例は、何ら論拠とする資料を挙げずに、あるいは何ら論拠とする資料の裏付けもないのに、「文献学」的方法を採って成ったごとき「論文」です。このような論文は、随筆的試論か試論風随筆というべきもので、文献学的所産とは言えません。


§4.高森先生にみられる「思想先行型文献学」

 私見ですが、高森先生の教学には、この「思想先行型文献学」に基づくものが多数存在します。今回は一つだけ例をあげてみたいと思います。


§4.1,蓮如上人『御文章』

 蓮如上人の『御文章』を読むと、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒めています。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)


 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)


 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)


 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)


 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)


 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
 ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)


§4.2,高森先生の解釈

 しかし、親鸞会教義では、そのことを蓮如上人の時代における方便と見て、それらの戒めに現代は拘束されるべきではないと主張されているようです。


『会報』vol.4「善知識」(22)

故に蓮如上人も、彼らの暴力を誘発することを防止し、門信徒の安全を守る為に、「当流安心の義(諸仏、菩薩、諸神を捨てて一向に弥陀一仏をたのむという教義)は内心に深くたくわえて、他宗他門の人に対しては沙汰すべからず」と掟まで定められ、神仏混淆の邪説に対して逆らわないで、「一切の諸神なんどをも我が信ぜぬまでなり。疎にすべからず」(二帖一通)とか「とりわき神を崇めねども、ただ弥陀一仏をたのむうちに皆こもれるが故に、別してたのまざれども信ずる謂のあるが故なり」(二帖三通)とか、「自餘の一切の仏、菩薩ならびに諸神等をも、わが信ぜぬばかりなり。あながちに是を軽しむべからず」(二帖二通)と『御文章』に仰せになっているが、これは断じて仏法の本義を述べられたものではなく、一時の方便として仰有ったものである。


『会報』vol.4「善知識」(23)

蓮如上人の教えられた掟というのは、時の政治権力による弾圧を防止して、真実の教をより効果的に宣布する為の方便として、また信者の人々の生活の安全を案じなされて、出来得る限り無用の争いをさける為に、国家制度を犯さず、人倫を破らないようにせよという、いわば真宗教徒の生活信条のようなものであるから、絶対不変の信心や安心とは全く性質を異にするものであることをよくよく知らねばならない。
(乃至)
 以上のような時代により人によって種々に作られ変更されてきたものが日本の神というものであるから、それに対する我々真宗教徒の考え方や態度も、またそれに応じて変更してゆかねばならない。故に、蓮如上人時代の神に対する掟は今日は通用しないばかりでなく、その真意を発揮しなければ顕正の障害にもなることを牢記しなければならない。




 しかし『御文章』には、そのような主張の根拠は見出すことはできません。したがって『御文章』を読む限り、蓮如上人はその時代における方便としてではなくて、どの時代にも通じる念仏者のあるべき態度として、お説きになっているとしか解釈することはできません。


§4.3,法然上人『七箇条起請文』、親鸞聖人『御消息』

 以上のように、蓮如上人が他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒めていることは明かであると思いますが、この解釈は法然上人や親鸞聖人の言葉からも裏付けることが可能です。

1)法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

 しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しません。


2)親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。


§5.終わりに

 以上、文献学と思想先行型文献学、さらに思想先行型文献学に基づく親鸞会教義の問題点について述べさせていただきました。

 最後に高森先生があらかじめ思想哲学を先に持っていて、その結論に都合のよい資料だけを取り出して出した構築した教義は、高森先生の思想哲学であって親鸞聖人の教義でも蓮如上人の教義でもありません。たとえ高森先生が親鸞聖人や蓮如上人の言葉を引用されていても、高森先生の思想が先行して構築された教義は、どこまでも高森先生の思想哲学です。

 親鸞聖人の教えを生き方の指針とされるのであれば、高森先生を通してではなく、あくまでも親鸞聖人の言葉に直參すべきだと思います。

質疑応答101

【質問】


質問です。

知人は「親鸞会が今日のように脱線したのは善導大師の
 
  『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』

を読み間違ったのが大きい」言っていました。

すなわち、善導大師は、

  「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」

と教えられたのが、親鸞会では、

(1)外には賢善精進の相を現じなさい
   (外面は猛烈な善をしなさい)

(2)そして内は虚仮を懐いてはいけません
   (内面はキチンとしなさい)

になってしまった、と言うのです。

たしかに漢文では、「得ざれ」は文全体にかかっていますので、

(1)、(2)に分けることは不可能だと思いますが、この知人

の言うことは正しいのでしょうか。

一般的な解釈はどのようになっているのか教えて下さい。

また、清森様はこのことについてどのようにお考えでしょうか。


以上よろしくお願いします。



【回答】


『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。

質疑応答100

【質問】

(1)「顔容端政タグヒナシ 精微妙ク非人天
   虚无之身无極タイ 平等力ヲ帰命セヨ」(真宗聖典P.222)
   の意味を教えて頂けないでしょうか。

【回答】

 阿弥陀仏の極楽にいる人は、その顔かたちは、端整で美しく比べることは、とてもできない。それは、完成された彫刻のように細部まで素晴らしく、この世の人にはいない。
 その身体も素晴らしく、阿弥陀仏に救われた人を、平等の素晴らしい身体にして下される阿弥陀仏を信じなさい。



【質問】

(2)「安楽国ヲネガフヒト 正定聚ニコソ住スナレ
   邪定不定聚クニニナシ 諸佛讃嘆シタマヘリ」(真宗聖典P.222)
   の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 阿弥陀仏に救われた人は、皆、正定聚の身になる。邪定聚のものや、不定聚のものは、阿弥陀仏の御国にはいない。そのような身にして下される阿弥陀仏を諸仏方は褒め称えておられますよ。



【質問】

(3)「十方諸有ノ衆生ハ 阿彌陀至ノ御名ヲキキ
   真実信心イタリナバ オホキニ所聞ヲ慶喜セン」(真宗聖典P.222)
   の意味を教えて頂けないでしょうか。

【回答】

 大宇宙の苦しみ悩む人は、阿弥陀仏に救われて、真実の信心を頂いたならば、大宇宙に轟く阿弥陀仏のみ声を聞き、喜ばずにおれませんよ。

親鸞会教義の相対化・35

清森義行様


更に別の友人からアニメの感想を頂きましたので、送らせていただきます。


======以下感想======

私は、★★さん(※親鸞会教義の相対化の23・25で投稿してくれた友人)みたいに、浄土真宗・親鸞聖人に関する著書をたくさん読んでいるわけではありません。
御絵伝くらいはわかるけど、御伝鈔は自分で読んだことない・・って程度です。
まぁ、『浄土真宗についてぜんぜん知らない人よりは、ちょっとマシ』ぐらいのポジションだと思っています。
そんな私の感想です。
自分の記憶にある御絵伝と照らしながら、ビデオを見ました。


★1巻
【出家学道】の場面
「得度式は明日にしましょう」と薦められるところで、トコトコと叔父君のところへ歩いていって『明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは』の歌をお渡しになる場面ですが、これって史実かなぁ、史実ならめっちゃ生意気かもぉと思いました。
歌自体は史実と思っていますが、普通、あの場面でいくら子供といえトコトコと歌を渡しに行くのだろうかと思いました。
ツッコミ細かいですかね(笑)。

あと、これも史実なんだろうか・・と思ったのは、青蓮院から叡山への帰り道、女人に呼び止められての問答のような会話の場面です。
私が無知なだけなのだと思いますが、これって史実(というか、書物に残っているのか)なのかなと思いました。
その後、僧とは名ばかりで、戒からかけ離れ街に繰り出し花街で遊ぶ叡山の僧たちに対する考えが変化するあたりは、聖人の苦悩をよく表しているなぁと感じました。

親鸞聖人がなされた叡山での苦行の様子は、以前NHKスペシャルで見た千日回峰行と同じに思えましたので、苦行としては理解できるのですが、経文をどうやって学ばれたのかというのも加えてあればもう少しわかりやすいかなと思います。

御絵伝を知っている私でも、「ストーリー展開が唐突過ぎないかな・・」と思えるところがあちこちありましたので、浄土真宗の知識のまったくない人には「何がなにやら・・」ということになっても仕方ないかなという気がしました。


★2~3巻
2巻の内容は、半分くらい以前にうちのお寺で観たことがありました。
そのとき観たビデオで玉日姫のことを知り、親鸞聖人の生涯について不勉強だった私は、玉日姫が恵信尼様と思い込んでいました。
(今でも不勉強ですけれども・・)
そののち、玉日姫が実在の人物だということを記した古文書はないということを随分経ってから知り、思い込んでいた自分を振り返って、映像の力って怖いなぁと感じました。
布教にあたり、印刷物や映像を駆使されるのは当然とは思うのですが、史実でないことを映像や印刷物にして残してしまうと、出所が出所なだけに民放などでドラマを放送する以上に影響が出てしまうのではないかと思います。
一つ間違えば、カルト教団と同じになってしまう気がします。

玉日姫のことに限らず、ビデオや映画など動画の媒体は、ストーリーは御絵伝や御伝鈔、その他残された古文書などから作り上げることはできますが、細かいところは演出になると思いますのでかなり注意が必要と思います。

あと、3巻までで感じたのはBGMの選曲のセンスのなさですかね(笑)。
法難の場面とか、「もう少しどーにかならんかな」って何度も思いました(笑)。


★4巻
不勉強を更に晒してお恥ずかしいのですが、越後流罪から以降は、実はよく知りません。
なので、御絵伝の範疇くらいしかわかりません。

全体としては3巻までに感じたような違和感はなく、わりとすんなり見ることができました。
ただ、4巻では善鸞様は善鸞様とスーパーが出ましたが、恵信尼様にあたる方は『御内室』とだけスーパーが入りお名前が出ていませんでした。
それは、上記で挙げていた玉日姫の件と関わりがあるのでしょうか。
ちょっと気になりました。


★5~6巻
アニメとしての出来栄えはいいのかもしれませんが、やはり恵信尼様がどうなられたのかが気になりました。
『恵信尼消息』があったとしても、きちんと描くには資料が足りないのでしょうか・・。
といいますか、私自身が恵信尼消息を読んだことはないので、恐らく、恵信尼様ご自身のことや恵信尼様と親鸞聖人のお二人の歴史については書かれていないのかもしれませんね。
でも、親鸞聖人の生涯について、肉食妻帯を断行されたと明言するならば、やはり恵信尼様の存在についてきちんと描いていただきたい気がします。
そこもまた、「煩悩具足の凡夫も救われる」という教義の大事な要素のような気がしますので。

あと、御伝承とは微妙にエピソードが違うところもあるようなのですが、許容範囲なのでしょうか。
平太郎さんの場面とか、蓮位坊夢想とか・・。

一番最後の場面、親鸞聖人のご遺言『ご臨末の御書』で、ちょっとグッと来てしまいました。
本願寺派では『報恩講の歌』として、報恩講の際、今風のメロディ(ちょっと演歌調かな)をつけて唄っているものですから。

が、恩徳讃が演歌調で歌われているのにガッカリしました(笑)。
歌っている人も上手とはいえないと思いましたし(笑)。
音が取れていないし、滑舌悪いし(笑)。
私には幼稚園の頃から本願寺派のメロディが染み付いておりまして、これは仕方ないですね。
仕方ないといいつつ、違和感ありありです(笑)。


★王舎城の悲劇
随分前に、うちのお寺でご法話の代わりに観たことあったんです。
お寺で観たビデオは、前のことですし出所がどこかはわかりませんが、うちのお寺は本願寺派なのでまぁ本願寺出版社かなと思います。

ストーリーについては観無量寿経の内容なので、本願寺派と親鸞会とはいっても激しく違うということはありませんで、特に思うことはありません。
気になったのは、韋提希夫人の描き方が激しすぎるトコくらいですかねぇ。
韋提希夫人の苦悩の場面なんですけど・・。
岩波文庫の観無量寿経漢文和訳には
『そのとき、ヴァイデーヒーは師の姿を見て、自ら胸飾を断ちきり、大地に身を投げ、号泣して師に向かって言う・・』
とあるので、それをそのまま映像化すればあのまんまかなとは思うのですけど・・。

うーん、個人的にはもう少し苦悩の姿の演出を工夫してもらったがいいかなと思いました。


★最後に
最後に全般通して思ったのは、『映像の影響力は恐ろしい』ということです。
史実をよく知らぬまま、こういったもので『すりこまれる』のは、なんと危険なことだろうと思いました。
美化したり、神格化したり(この場合、神を使うのは適切ではないと思いますが)ではなく、事実ありのままを正確に伝えるのは大変なことなのかもしれませんね。
いちがいにビデオが悪いということではなく、ビデオという媒体の有りようについてよくよく考えていただきたいと思いました。

質疑応答99

【質問】


「遠く他所に到れば能く見るものなし、善悪自然にして行を追いて生ずる所、窈々冥々(遠く、くらくしてたよる道なし)として別離久しく長し、道路同じからずして合ひ見ること期なし、甚だ難く甚だ難し、復相値ふことを得んや」【大無量寿経】

 後生の一大事について書かれている、とのことですが、この文章は、現代語に訳すと、どういう意味なのでしょうか。



【回答】


 これは怒りの業について教えられたものであり、怒りを起こすことが、如何に虚しいことであるかを、私たちに教えるために、特に後生の寂しさを強調して教えられたものです。

ですから、この意味は

 いよいよ後生を迎えたら、どこへ行ったか分からない。死後どこへ行くかは、一人一人生きている時に、蒔いた種まきの結果であり、一人一人がその結果を受けねばならないし、どこへ行ったかは分からない。今、どんなにいがみあっていても、今だけで、死んだら、もう会うことは出来ないのですよ。憎しみあっているものと行く道は違っており、もう会うことはないでしょう。

この後に

 どうして、生きている時に、くだらない怒りに振り回されて、元気なときに努力して善をしようとしないのでしょうか。そして、頑張って苦しみのない世界に出ようとしないのだろうか。
 そうやって、相手を憎しみ、愚痴をいっていて、何か安心できるところがあるのだろうか。何か幸せがあるのでしょうか

という意味です。

 ですから、ここでは怒りを起こすことが、如何に空しいことであり、そんなことをしないで、善を修めなさい、と勧めておられるところです。

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・3

(続き)

4.反論できない真宗本尊論


> 親鸞聖人も蓮如上人も名号しか御本尊として礼拝しておられず、私たちにも名号を御本尊とせよと教え勧められました。
>
>
>
> 【高森顕徹著 親鸞会と本願寺の主張どちらがウソか p5】





宿善論争とは全く異なる展開を見せたのが、真宗本尊論です。



高森会長は「親鸞聖人も蓮如上人も名号のみを本尊とされた」とし、本願寺が木像を本尊としているのは誤りだと指摘したのですが、それに対して山田行雄氏が「現代の教学問題・真宗の本尊について」で高森会長の主張に反論しています。



その反論内容は多岐にわたっており、全てをここで取り上げることは出来ませんが、親鸞会にとってもっとも驚くべき内容は、蓮如上人が山科本願寺の阿弥陀堂にご安置した御本尊は、木像本尊であったという事実でしょう。





> 蓮如上人の本尊は、具体的には、蓮如上人が発願建立された山科本願寺の阿弥陀堂の本尊であろう。
>
>
>
> 文明十五年八月二十八日のご文に、
>
>
>
> 阿弥陀堂の仏壇(中略)いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を六月十五日にすえ奉りけり。
>
>
>
> と述べられ、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は文明十四年六月十五日に「すえ奉」られたとある。平尾興栄氏も注意されたごとく、このすえ奉られた本尊が、形像本尊であったか名号本尊であったかは、「据える」とある表現からも推察されるが、実悟師の『山科御坊之事並其時代事』に阿弥陀堂の荘厳を記するに、
>
>
>
> 木像本尊 安阿作 如今。左方北太子絵像 讃如常蓮如御筆・六高僧御影。右南法然聖人一尊御影 讃如常蓮如御筆 両方共に三具足、燈台あり。
>
>
>
> とあり、ここに木像本尊(安阿作)とある。明らかに蓮如聖人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実である。
>
>
>
> 【山田行雄著 現代の教学問題・真宗の本尊について p100】





その他にも蓮如上人が形像本尊を下付されていた等の歴史的事実が述べられていますが、山科本願寺の阿弥陀堂に木像本尊を安置されていたという歴史的事実の持つ意味は比較にならないほどの大きな意味があります。



なぜなら、山科本願寺とは蓮如上人が晩年を過ごされたところであり、親鸞会で言えば現在の本部会館に匹敵するものだからです。





> 本願寺には親鸞聖人や蓮如上人よりも、信心も教学も深い人がいられるとみえて、何かとこざかしい自分の思考を入れて、最も重要な御本尊のことまで親鸞聖人や蓮如上人のなされたようにしようとはしていませんが、これが親鸞聖人に還れと教える者の態度でありましょうか。
>
>
>
> 【高森顕徹著 こんなことが知りたい】
>
>
>
> あなたは、なぜ蓮如上人が、「絵像より名号」と言われたのか、その理由が納得できねば実行しないぞというお気持ちかもしれませんが、そんな理由はどうでもよろしいではありませんか。なぜなら、私たち、親鸞会会員は、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は、すべて、如来の金言として頂いております。そして、身命を賭して教えに順ずる者です。
>
> いちいち、親鸞聖人や蓮如上人のご教導に対して、その理由をききただし、自分が合点できなければ順わないという態度は、まことに愚かな、回り道でありましょう。
>
>
>
> 【同著】





親鸞会では自らの下付する名号本尊こそが、「正御本尊」であり、木像本尊や絵像本尊は「正しい真宗の本尊ではない」としています。しかし、もし親鸞会の主張が正しいのならば、蓮如上人のされたことは間違ったことになってしまいます。そして、親鸞会が何事も蓮如上人のなされたように行う団体であるならば、本部会館の御本尊もまた蓮如上人がなされたように「木像本尊」にすることを検討すべきでしょう。



すくなくとも、「親鸞聖人も蓮如上人も名号のみを本尊とされた」という自説は撤回しなければなりません。しかし高森会長はこの山科本願寺本尊の件には、未だ沈黙を守ったままです。本願寺に「責任のある回答を望む」と再三にわたって要求するならば、自分もまた責任のある回答をするべきではないでしょうか。



私は決して、親鸞会の主張が間違っていると言っているのではありません。真宗の本尊は名号本尊とすべきだという同会の教義は、一つの教義解釈として充分に受け入れられるものです。



だた、例えば紅楳氏が親鸞会の質問に対して回答を出しても「満足の行く回答とは言えない」と再三再四回答を要求するならば、自らも同じ態度を持って応ずるべきです。そして、間違ったところは間違っていたとして、素直に訂正するくらいの度量はないのかと思うのです。



5.論議する者の姿勢


> あなたのお近くのあるグループで、時折りそういう法論・論争をこととする方々のうわさを、私なども見聞しております。ひたむきで情熱的で向学心一途のお姿には打たれますし、時に鋭く、的を射た教団寺院の現況への歯に衣着せぬ批判論議は、一在家人として共感を覚えるのでありますが、ただ一点、我のみを是とし、他を非として、対立的攻撃的に論争し論破せずばやまじの、偏執的なあり方に、学的信仰的論議以前の、原人間の姿勢として、抵抗を覚えずにいられないのは、私一人の印象ではないのでないかと存じますが、あなたの場合にもその高姿勢を、私の如き一在家人ですら、ふっと感じるのです。これは念仏の基本的な実践の問題でございましょう。
>
>
>
> その念仏の教えという、原一点に帰りますとき、答えの得られぬ不満を相手方に責める前に、答えを得られぬ自らの問い方を、まずもって静かに、綿密に、深く、脚下照顧すべきではないだろうかと、私がそうした立場に立たされました場合、自らに言い聞かせてまいりたいと思います。あなたはいかがでしょうか。
>
>
>
> 念仏の一道は、他を責め、他を言い負かして自らを主張し、自らが高らかに勝ち誇る路ではなく、他のあり様を機縁に、自らを深く見据えて、常に低く敗北していく道でないかと存じますがいかがでしょうか。
>
>
>
> 【親鸞会発行 法戦第5集 p88】





これはNHK『こころの時代』に親鸞会が質問状を出した際、同番組の司会者から寄せられた手紙の一部です。



同書には個人の私信を無断でコピーして他の人に送付したことが書かれてあったり、ある浄土宗僧侶が「親鸞聖人映画製作委員会」に出した私信が、本人に無断で掲載されていたりします。



前述の「歪曲問題」にしてもそうですが、自らの満足する回答でなければ回答とは認めず、自らが絶対に正しく他は邪であり、邪を破るには何をしてもいい、何を言ってもいい、という姿勢が、高森会長をはじめ親鸞会に染みついているのではないでしょうか。





> いよいよ坊主どもも頭へきたか。
>
> 入院はどこの精神病院にされるのかなァ。
>
> お気の毒に。
>
>
>
> 【親鸞会発行 顕正一口メモA】





高森会長や親鸞会が本願寺を語るとき、そこにはこれでもかといった罵詈雑言に満ちあふれます。本願寺頭脳の浅知恵。無責任本願寺。批判のための批判、読むだけ時間のムダ。手間のかかる、やんちゃぶり…



親鸞会発行の書籍や機関誌は、いまだに執拗な本願寺批判と、対照的な高森会長への賛美の言葉で溢れかえっています。こうした親鸞会の姿を見て、日蓮正宗系のとある新宗教団体を想起する人は少なくありません。



親鸞会の人から見れば、高森顕徹氏は親鸞、蓮如両聖人以来の善知識であり、親鸞会は唯一絶対の真実を説く幸せな団体なのでしょう。しかしこうして高森氏の著書を読み込んでみると、高森氏に宗教者としての誇りや、気高さ、余裕といったものを少しも感じる事が出来ないのです。



残念ながらこれは決して私一人の個人的な思いではなく、私の知る多くの人が抱く共通の感情です。



そして、そういう指導者を戴く団体が、人々に本当の幸せの道を説けるとは、私にはどうしても思えないのです。

(終)

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・2

(続き)


3.「善のすすめはない」の正体

更に高森会長は、紅楳英顕氏の『派外からの異説について』にも、容赦ない非難を浴びせます。





> 「善さえ励めば獲信できる。これが親鸞会の主張だ」
>
> は、本願寺の悪辣な、中傷であることを証明し、「仏法は聴聞に極まる」のに、〝なぜ、諸善もすすめるか〟にも、答えてきた。
>
>
>
> それでも、必死の本願寺サン、大胆にも、こう、強弁なさる。
>
> 「真宗には、諸善を積まねばならないという説示はない」
>
> 真宗には善のすすめはない。善をすすめる親鸞会は間違い、と言い張るのだ。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p134】





その後に、紅楳氏の論文が引用され、本願寺の主張の根拠とされています。





> 「私が再三、もとめたところの『破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ』とある文証は、未だに何等示されていない。
>
> 私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである」(回答書(B) P・11)
>
>
>
> また、こうも、毒づく。
>
>
>
> 「逆に私の方から『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたいと求めたのが一昨年の六月二十一日であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである」(回答書(B) P・16)
>
>
>
> 破邪顕正も財施も、諸善だから、〝善をすすめた文証を示せ〟というわけだ。最後には、〝そんな文証などあろうはずがない〟と、断言までする始末。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p135】





回答書(B)とは、紅楳英顕著『派外からの異説について』のことです。



ここまで読まれた方なら、既におわかりでしょうが、紅楳氏の「『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい」が、高森会長によって、「破邪顕正も財施も、諸善だから、〝善をすすめた文証を示せ〟というわけだ」と、全く別の主張にすり替えられてしまっているのです。



たとえて言えば、「テニスや水泳をすることが大学合格のための勉強になる、という文証があれば、示してもらいたい」と言っているのを、「テニスも水泳もスポーツだから、スポーツをすすめた文証を示せ、というわけだ」と言っているようなものです。



紅楳氏はあくまでも、「獲信のための宿善」と再三明記しているのに、もっとも大事なその部分を完全に抜き取っているのです。高森会長ほどの人物が紅楳氏の意図するところを分からなかった筈はありません。紅楳氏の主張は高森会長にとって余程痛いところを突かれたのでしょう。



事実、高森会長は、





> 最後に、勧学寮頭監修による『現代の教学問題』の「宿善について」の、コピー全文を転載したのは、ほかでもない。
>
> 『回答書』に、こんなことを、いっているからだ。
>
>
>
> 「私が発表した論文も、全文のせてもらった方が、よく解って、よかったのではなかろうか。論文を部分的に引いて反論されたのでは、私の主張の内容が、読者に解りにくく、誤解を生ずる点もあろうと、思われるからである」
>
>
>
> 〝こんな苦情で、また、真実開顕に、背を向けられてはたまらない〟と、思ったからである。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p6】





と書いています。「私の発表した論文も、全文のせてもらった方が…」と言っているのは紅楳英顕氏です。ならば当然引用する「コピー全文」というのは紅楳氏の論文ということになるのでしょうが、巻末に転載された論文はなぜか灘本氏のものなのです。紅楳氏の論文をのせられない事情でもあったのでしょうか。



そのあせりは、このあとの高森会長の文章をみても明かです。





> 文証に、いかにご執心か、よく分かる。文証で、なんとか防ぎとめねば……の危機感も、ヒシヒシ感じとれる。
>
>
>
> かくて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。
>
>
>
> しかも、ここだけは、〝どうだ〟と言わんばかりに、自信に漲っている、かに見える。 どんなに、強そうにみえても、自力の自信は、所詮はもろいもの、証拠の一端を示しておこう。
>
>
>
> もし仮りに、イジワルがいて、〝修善を排斥された文証をあげよ〟とでも、反問したら、本願寺サン、どんな、文証をあげられる、とでもいうのだろうか。
>
>
>
> またしても、一撃でダウン。みっともないことに、なりはしないか。そんな文証こそ、絶対、ありっこないのだから。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p137】





自分の主張に自信があるのなら、どうして紅楳氏の主張をわざわざ歪曲した上で、まるで読者に刷り込むように幾度も繰り返さなければならなかったのでしょうか。またなぜ、「アッと驚くタメゴロー」「外道よりもあさましい放言」と、常識ある人ならまず使わないような非礼な言葉を浴びせる必要があったのでしょうか。



さらに「修繕を排斥された文証をあげよ」に至っては、論点のすり替えも良いところで、もはや言葉も出ません。私はこうした主張や論点のすり替え、非礼な言葉を見る度に、「強い危機感」を抱いているのは本願寺ではなく、かえって高森会長ではないかと感じるのです。



その後も高森会長は、





> 「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
>
> 修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p149】
>
>
>
> 「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、本願寺は胸張らるるけれども、
>
>
>
> 【同書 p158】
>
>
>
> 「善をすすめた文証などあろうはずがない」と、仏意をじゅうりんして、はばからないから、おそろしい。
>
>
>
> 【同書 p159】





と、徹底的に紅楳氏が、「善をすすめた文証などあろうはずがない」と主張したように繰り返しています。



ここまで巧妙に主張が歪曲され、繰り返されると、本当に紅楳氏がそのように言ったかのように思ってしまう人も少なくないでしょう。しかし何度も申し上げますが、紅楳氏は「善をすすめた文証などあろうはずがない」などと一言も主張してはいないのです。



そして「『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい」に高森会長は以下の根拠を持って回答としています。





> 仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。
>
> すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。
>
>
>
> 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
>
>
>
> 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟
>
> というのである。
>
>
>
> 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。
>
>
>
> 【本願寺なぜこたえぬ p138】





これが紅楳氏の質問の答えになっているのかいないのか。ここまで読まれた読者なら説明の必要はないでしょう。しかし『本願寺なぜ答えぬ』だけを読んでいると、本当にこれが答えになっているかのように錯覚してしまうのですから、恐ろしいものです。



筆者は親鸞会とも本願寺とも関係のないある識者に、『本願寺なぜ答えぬ』を見せたことがあります。その感想は一言、「恥ずかしい本ですね」というものでした。私はそこまで言う事はないだろう、と思ったものです。



今こうして読み直してみると、ここまで露骨に相手の主張を歪曲し、終始本願寺への悪口を書き連ねていれば、「恥ずかしい本」と言われても仕方がないのではないでしょうか。





> その後、昨年、高森親鸞会は『本願寺の体質を問う』という本を出版し、大々的に宣伝し、また地方にも持ち歩いて頒布した。その書は、私も一読したが、失礼ながら、的確な文証を示しての反論ではなく、私の主張を歪曲したり、悪口雑言を並べたりしているものである。
>
>
>
> 【紅楳英顕著 派外からの異説について p3】
>
>
>
> 聞法を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明かである。
>
>
>
> 【同書 p18】
>
>
>
> 「死なねば助からぬ」とか「念仏さえ称えておればよい」とか「念仏はみな同じものだ」などと、本願寺の誰が説き、どこに書いているのだろうか。書物や話の一部分だけとらえて、悪意に解釈するのならば、あるいはそのようにとれるところがあるかも知れないが、それは、あまりに片寄った見方であって、故意に曲解して本願寺を非難しているとしかいいようがない。
>
>
>
> 【同書 p21】





高森会長が『本願寺なぜ答えぬ』の前に出した本が、『本願寺の体質を問う』です。ここでは取り上げませんでしたが、虚心坦懐になって熟読すれば、高森会長の論議の仕方が一貫して変わらないことに読者は気づかれることでしょう。もし本当に自説に自信があるのなら、高森会長ほどの人物なら、こんな浅ましい事をしなくても十二分に反論はできるはずです。



現在紅楳氏をはじめとする本願寺派の僧侶は、「親鸞会は教義解釈の異なる別団体」として、『本願寺なぜ答えぬ』以降の反論はしていません。これを親鸞会は「これで本願寺を完膚無きまでに論破した」としていますが、これだけ相手の主張を曲解して「論破」したつもりになっていれば、「呆れて見放されただけ」と言われても、仕方がないのではないでしょうか。



そして、いくらうまく言葉を置き換えて「善のすすめ」と言ったところで、会内ではひたすら破邪顕正と財施ばかりが推進され、いま思うと親鸞会の「善のすすめ」とは、人集めと金集めにすぎなかったのではないかと思う人すら、少なくはないのです。


(続く)

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・1

投稿を紹介させて頂きます。この内容は、以下のサイトで既に公開されているものです。

http://shinrankai.jugem.jp/

        *         *         *

【親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか】


かつて親鸞会と本願寺は激しい教義論争を繰り広げました。



何度かの書簡のやり取りや書籍の発行、また本願寺への直接の抗議行動を経て、最終的には本願寺は親鸞会を事実上「無視」し、この教義論争は終焉を迎えました。



その後親鸞会は「本願寺を完膚無きまでに論破した」と主張。この教義論争の経緯は会員に広く伝えられ、親鸞会の教義的正統性を説明する根拠となっています。



私自身は、本願寺が途中で論争を放棄した以上、親鸞会がこのように主張するのは仕方がない思っています。



ただ、その論争の経緯を双方の資料を元に客観的に検証して見ると、「本当に親鸞会は本願寺に勝ったと言えるのだろうか?」という疑問が沸いて来ました。



何事もどちらか一方の情報や主張だけ聞いていると、公平な判断が出来なくなります。ぜひ私は親鸞会の方に虚心坦懐になってこのブログをごらん頂き、高森会長や親鸞会のあり方について再考して頂きたいし、本願寺派の関係者の方は「論議を放棄する」事の結果と影響について、考えて頂ければと思っています。





1.宿善論争とは何か


> 法論の発端は、本願寺の学者紅楳英顕氏が、『伝道院紀要』第24号(昭和54年12月20日)に、「現代における異義の研究――高森親鸞会の主張とその問題点」と題し、「親鸞聖人の教えに反する、全くの謬見であり異義である」と、親鸞会非難の論文を掲載したことに始まる。20周年大会からちょうど1年が過ぎたころだった。
>
>
>
> 本会は即座に質問状を送付。かくて親鸞会と本願寺との法戦の火蓋が切って落とされた。
>
>
>
> その後の法論の経過は、後で詳述するが、これは「宿善論争」と呼ばれ、争点は、「親鸞聖人のみ教えに善のすすめは、あるか(親鸞会)ないか(本願寺)」にあった。
>
>
>
> 「善を勧める親鸞会は間違いだ」と主張する本願寺に、高森先生は、反論文を『顕正新聞』紙上に連載された。
>
>
>
> 25周年大会直前の本紙(昭和58年10月15日号)には、「修善をすすめた文証など、あろうはずがない」とタンカを切る本願寺に、高森先生は弥陀の十九願文や、釈尊の『観経』の教説を明示し、本願寺を完膚なきまで論破なされている。
>
>
>
> 【顕正新聞 平成16年1月15日号】





浄土真宗親鸞会の歴史を語る上で、本願寺との教義論争は避けて通れません。



「教義論争で本願寺を完膚無きまでに論破した」との記述は、親鸞会発行の書籍や機関誌『顕正新聞』の随所に見られ、親鸞会の栄光の歴史として語られ、親鸞会教義の正当性の根拠としても大きな意味を持っています。



しかし、本当に親鸞会は「本願寺を完膚無きまでに論破した」のでしょうか。



筆者はこの件について公正な判断を得るために、本願寺側が発行した『伝道院紀要』『現代の教学問題』『派外からの異説について』を入手して読んでみました。



親鸞会の主張では、争点は「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはあるか、ないか」であり、本願寺は「親鸞聖人に善のすすめはない」「善を進める親鸞会は間違いだ」「修善をすすめた文証など、あろうはずがない」と非難したと言われています。



しかし、不思議なことにこれら「本願寺の非難」は、筆者が入手した「本願寺側の論文」のどこにも見つけることはできないのです。



では一体この「親鸞聖人に善のすすめはない」という「本願寺の非難」は、どこから来たものなのでしょうか。



2.歪曲された「本願寺の非難」


この宿善論争の経緯を親鸞会側から著したのが、高森顕徹著『本願寺なぜ答えぬ』です。この中で高森会長は本願寺側の論文を「本願寺頭脳の浅知恵」「無責任本願寺」「批判のための批判、読むだけ時間のムダ」「手間のかかる、やんちゃぶり」と評しています。



なぜそこまでの非難を浴びせる必要があったのでしょうか。同書から引用します。





> 次に、本願寺が、親鸞会を非難する、第二条は、こうである。
>
>
>
> 「親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」(回答書(A)P・142)
>
>
>
> 先述の、一条にも、
>
> 「高森親鸞会では、未信の者は、信心決定をめざして、今生において、善根を積み、宿善を厚くせよ、と勧める」
>
> と、いやに、力説なさる。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p80】





『回答書(A)』とは、灘本愛慈氏『現代の教学問題・宿善について』のことです。これらの灘本氏の指摘は、高森会長がその著書で、





> 過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。
>
>
>
> 【高森顕徹著 白道燃ゆ】
>
>
>
> 宿善というものも待っていて来るものではなく、努力精進して求めてゆくものである。かかる人にこそ宿善到来ということがあるのである。
>
>
>
> 【高森顕徹著 会報3集】
>
>
>
> 布施は実に尊い宿善になることは判っていても欲深い我々には仲々出来難いことなのである。
>
>
>
> 【同書】
>
>
>
> 仏法を知らないものに対して当然法施は出来るし、またしなければならない。それは大きな宿善となるからである。
>
>
>
> 【同書】






と書いているように、極めて真っ当なものと言えるでしょう。(「宿善到来」「宿善開発」というのは、「他力の信心を獲る」「信心決定」と同じこと)



ところが高森会長は、この灘本氏の指摘を、





> 「諸善さえやれば、信心決定できる。まず、自力で善を励め」
>
> 〝これが親鸞会の主張だ〟と、印象づけたい思惑が、みえみえである。
>
> しかし、真実の歪曲は、許すわけにはゆかない。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p80】





ここで、いつの間にか本願寺側の主張がすり替わっているのに、読者は気づかれたでしょうか。



「他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならない」という文章と、「諸善さえやれば、信心決定できる。まず、自力で善を励め」という文章は明らかに意味も主張も異なるものです。



ですから高森会長は「印象づけたい思惑が、みえみえである」とあえて曖昧な表現を用いています。さすがに灘本氏が「諸善さえやれば、信心決定できる。まず、自力で善を励め」と主張しているとは言えないことを、分かっているからでしょう。



しかし、この表現はこのあと徐々に変わって行きます。同書には、





> これら善知識方の仰せを、そっくりそのまま、説き続けている親鸞会を、
>
> 「まず諸善をつめ、諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」
>
> と、非難なさる、のである。
>
>
>
> 親鸞会を少しでも、知っている者は驚き、かつは呆れるのも、無理はなかろう。
>
> もっともらしく、書きつらねてある、回答書のすべてが、こんな調子で、事実を知るものからすれば、噴飯ものなのだ。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p103】
>
>
>
>「親鸞会は、諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」
>
> という、本願寺の非難が、いかに、デタラメな中傷か、ということを。
>
> あまりにもひどいウソを、とりあえず指摘し、本願寺の注意と責任を、喚起しておく。
>
>
>
> 【同書 p105】
>
>
>
> 「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
>
> こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る、獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを、力説してきた。
>
>
>
> 【同書 p105】
>
>
>
> 「親鸞会は、善さえつめば獲信できるとすすめる邪義」と非難なさる。
>
>  保身の為とあらば、シロを、平気でクロと断言して、はばからない、したたかさに、溢れている。
>
>
>
> 【同書 p110】





いつの間にか「印象づけたい思惑が、みえみえである」という文章は消え。あくまで「親鸞会は、諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」と本願寺が非難したと断言されています。



しかしいつそんな非難を本願寺がしたのでしょうか。灘本愛慈氏の『現代の教学問題』を熟読しても、その他の本願寺側の論文のどこをみても、「諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」との指摘どころか、似た文章すら見つけることはできません。



しかしこれほど露骨な歪曲をしていても、何度も繰り返し「善さえ励めば獲信できる」と書かれては、読者は本願寺が本当にそうした非難をしていると、錯覚してしまうのも無理はありませんし、それが高森会長の意図したところだと言われても、仕方がないのではないでしょうか。


(続く)

質疑応答98

【質問】


【ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる」と言いました。人生に、本当に求めるに値するものがあるのか、考えれば考えるほど、一切は無意味に思えてくるからでしょう。】(なぜ生きるP.96)

の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】

 これは多分、本来の「ツァラトゥストラ」の意味として、使われていないように感じます。ですから、ここでは、まず、「なぜ生きる」の趣旨にあった訳し方と、本来の「ツァラトゥストラ」の内容に即した書き方を示します。


「なぜ生きる」

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「人間は本当に幸せになりたいと、満足できる幸せを求めれば求めるほど、死という高い壁に阻まれ、絶望してしまうものだ」と言いました。
 人生に、本当にこれ一つかけて、後悔はないという幸せは、ないだろうかと、考えれば考えるほど、結局、どんな人生も最期は、死んでゆかなければならない。何もなくなるのなら、すべてのことには、意味がないのではないか、と思えるからでしょう。


「ツァラトゥストラ」

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「人間は自分の人生を振り返って見つめた時、幸せなことよりも、さまざまな苦しみによって悩まされ、醜い心によって、相手を傷つけ、だまし、それでも、自分をよく見せようと必死になっている、自分の醜い姿を知らされるものだ」と言いました。
 私たちは、本当に生きるに値する存在なのかと、考えれば考えるほど、悪しかやっていない実態に、すべてのことは無意味に思えてくるでしょう。

質疑応答97

【質問】


 親鸞会では、私たちが人間界に生まれられるのは、光炎王光の働きと教えられます。根拠はあるのでしょうか。



【回答】

 経典上に根拠があるかどうかは、浄土宗僧侶の意見を紹介させて頂きます


        *         *         *


 ないと思います。あっても、ごくごく限られた範囲の文化にしか通容しないものではないかと思います。

 高森先生の場合、「不信=謗法=必墮無間」という思想が先行してますから、輪廻を繰り返す中で人間界に生まれる特別な根拠を、設定しないといけなくなるんです。

 たまため前世で善根を積んできたから、それが宿善になって人間界に生まれ、更に仏法に出会うことができた。
 だから、それを無駄にしないように仏道を求めていく。それだけのことです。


1)ある時には、人身の受け難き理を思いて、この度空しく止まん事を悲しめ。六道を巡るに、人身をうることは、梵天より糸を下して大海の底なる針の穴を通さんが如しといえり。

2)ある時は、会い難き仏法に会えり。この度、出離の業を得ずば、いつをか期すべきと思うべきなり。一度、悪道に出しぬれば、阿僧祇園劫をふれども、三宝の御名を聞かず。如何に、況や深く信ずる事をえんや。

3)ある時には、我が身の宿善を喜ぶべし。賢き卑しきも、人多しと言えども、仏法を信じ、浄土を願う者は希なり。信ずるまでこそかたからめ、謗り憎みて、悪道の因をのみ作る。しかるにこれを信じこれを貴びて、仏を頼み往生を志す。これ偏に宿善のしからしむるなり。ただ今生の励みに有らず、往生すべき期の至れるなりと、頼もしく喜ぶべし。
(「十二箇条問答」)

>>>>
天に仰ぎ地に臥(ふ)して悦ぶべし、この度彌陀の本願に、あうことを。行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩得を。

頼みても頼むべきは、乃至十念の詞(ことば)。信じても猶(なお)信ずべきは、必得往生の文なり。

『勅伝』巻二十一、「黒田の聖人へつかはす御文」(昭法全四九九頁)

(訳)
 天を仰いで地に伏して悦ぶべきである。幸いにしてこの度、阿弥陀仏の本願に巡り会えたことを。
 動いていても止まっていても座っていても寢ていても報いるべきである、かの阿弥陀仏から頂いた恩徳を。

 頼みにする中にもなお頼みにするのは、「すくなくとも十回の念仏で往生できる」という(第十八願の)言葉であり、信じる中にもなお信じるべきは、「念仏すれば必ず往生できる」という善導大師の一文である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いよいよ『一紙小消息』の結論部分です。

 ここでは、1)悦ぶべし2)報ずべし3)頼むべし4)信ずべし
の四つの「べし」が説かれています。


1)悦ぶべし

 本願を信じ念仏申した人は必ず救われるという阿弥陀仏の本願。これに出会えたことを悦ばなければなりません。

 この教えを説くために釈尊がこの世に現れたのであり、六方諸仏もまた、このことを証明するために存在しているのです。

 阿弥陀仏・釈尊・六方諸仏、全ての仏の慈悲に出会えたことを、悦ばなければなりません。


2)報ずべし

 仏の慈悲そのものである阿弥陀仏の本願に出会えたのですから、仏様に頂いた恩徳に報いなければなりません。

 ところで、この私逹が仏様に恩返しすることができることは何でしょう?
 自らの力で苦しみを乗り越えることができない私逹が、私達を救ってくださる仏様に何で恩返ししたらいいのでしょうか?

 私達にできることは、阿弥陀仏の本願、全ての仏様の慈悲を無駄にしないように、阿弥陀仏の本願によって救われることを信じ、日々怠ることなく念仏申して、極楽浄土に往生して、救われることしかないのです。

 私達を救ってくださる仏様の恩徳に、報いることができるのは、それだけなのです。


3)頼むべし

 もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじ」と。
『無量寿経』巻上

(訳)
 それは『無量寿経』の上巻に、以下のように書かれている。
「もし私が仏になった時に、十方の衆生が、心から信じて願い、私の国に生まれたいと望んで、わずか十回でも念仏して、もしも往生できなかったのならば、私は仏にならない。

「本願を信じ少なくとも十回念仏したものを、必ず救う」という阿弥陀仏の十八願の言葉を、心から頼むべきなのです。


4)信ずべし

 彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得と。

(訳)
 そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
(『往生礼讃』)

 そして、その阿弥陀仏の十八願と、本願成就文を根拠に、「阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人は、必ず往生を得られる」と説かれた善導大師の言葉を、疑うことなく心の底から信ずるべきなのです。



1)悦ぶこと2)報いること3)頼むこと4)信じること

 これをしなさい!

 これこそが、『一紙小消息』の結論なのです。
>>>>


 人間に生まれるのに、阿弥陀仏の光明が必要だというなら、釈尊が阿弥陀仏の本願をお説きになる以前に人間はいなかったことになりますし、もともと人間だった阿弥陀仏が、どうやって生まれてきたのか説明できなくなります。


        *         *         *

 以下、清森の意見です。

 私が、親鸞会で炎王光の働きで人間に生まれると教えている根拠は、以下の御文だと理解しておりました。


●「炎王光仏」というは、(乃至)三途黒闇の衆生も光照をこうぶり解脱をうるは、このひかりの益なり。(正信偈大意)


 しかし、改めて読んでみますと、人間に生まれることを「解脱」とは言いませんので、根拠としては不適当だと思います。

 他に何か根拠があるのかも知れませんが、私には分かりません。

親鸞会教義の相対化・34

清森義行様

以下の質問者の方のメールがヒントになり、『般舟三昧経』におけ
る「善知識」の用例がわかりました!

> Subject: ありがとうございました。

> ご多忙のところ、多大なお手間と貴重なお時間を費やしていただ
> きすみませんでした。
>
> 私の質問に対して連続してご回答くださり、深く感謝申し上げま
> す。謝意は貴ブログ「清森問答」でのコメント欄においても述べ
> させていただきました。
>
> お知り合いの浄土宗の僧侶先生にもなにとぞよろしくお伝えいた
> だければ幸いです。
>
> なお、浄土宗の僧侶先生のコメントから、ネット上で「般舟三昧
> 経」の検索ができることを教えていただき、「 身肉 供養 般
> 舟」で検索しましたら、下記がひっかかってきました。
>
> T13n0417_p0902b18(06):佛告比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。我故
> 語汝等。
> T13n0417_p0902b19(05):疾取是三昧無得忘失。善承事其師持是三昧。
> T13n0417_p0902b20(04):至一劫若百劫若百千劫。莫得有懈倦。守
> 善師不離。
> T13n0417_p0902b21(01):若飮食資用。衣被床臥珍寶以上勿有愛惜。
> T13n0417_p0902b22(01):設無者當行乞食給師。趣當得是三昧莫厭。
> T13n0417_p0902b23(01):常當自割身肉供養於善師。
> T13n0417_p0902b24(07):何況寶物此不足言耳。承事善師當如奴事
> 大家。
> T13n0417_p0902b25(05):求是三昧者當如是。得三昧已。當堅持常
> 念師恩。
> T13n0417_p0902b26(03):是三昧難得値。正使求是三昧至百千劫。
> T13n0417_p0902b27(04):但欲得聞其名不可得。何況學而不精進。
> T13n0417_p0902b28(05):得是三昧精進學轉教人者。
> T13n0417_p0902b29(11):正使如恒河沙佛刹滿中珍寶。用布施甚
> 多。不如學是三昧者。
> T13n0417_p0902c01(04):佛告[颱-台+(?C9A5-乂
> +又)]陀和。若有人欲學者。當助歡喜。欲學而得。
> T13n0417_p0902c02(01):學者持佛威神使學。當好書是三昧著素上。
> T13n0417_p0902c03(01):當得佛印印之。當善供養。何謂佛印。
>
> http://209.85.175.104/search?q=cache:NRiw3J2qHngJ:chohoji.dip.jp/TAIWAN-T1-T32/Cbeta%E5%8F%B0%E6%B9%BEjis/%E5%A4%A7%E9%9B%86%E9%83%A8/T13n0417.txt+%E3%80%80%E8%BA%AB%E8%82%89%E3%80%80%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E3%80%80%E8%88%AC%E8%88%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=1
>
> 善知識=善師という扱いのようです。
>
> 「常當自割身肉供養於善師。」や、「若飮食資用。衣被床臥珍寶
> 以上勿有愛惜。」の部分がひょっとして、「善知識があったら十
> 里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く
> 敬って、身肉手足をも供養すべきである」に相当するのかもしれ
> ませんが私にはよくわかりません。


 バドラパーラよ、菩薩・大士は四種の事柄を備えるならば、この
現在諸佛の面前に立つ三昧を得ることができる。四つとは何かとい
うと、すなわち、(1)奪うことのできない信仰、(2)退転しな
い努力、(3)他人によって導かれることのない智恵、(4)善友
(kalyAn,a-mitra=善知識)に使えることとである。バドラ
パーラよ、これらの四亊を備えるならば、菩薩・大士はこの現在諸
仏の面前に立つ菩薩の三昧を得るのである。
(中略)
 バドラパーラよ、さらに、この三昧を欲する菩薩・大士は教えを
説く比丘(法師比丘)に対して尊敬と崇敬の念をもたなければなら
ない。その過失を見つける意図なしに、経師であるとの思いを生じ
て、この三昧に力を注がねばならない。バドラパーラよ、もしかの
菩薩がその教えを説く比丘にたいして悪意を出したり、無情な心を
抱いたり、不信の心を抱くならば、バドラパーラよ、その菩薩はこ
の三昧を得る可能性もなく、機会もないのである。もしその教えを
説く比丘に対して教師としての思いを起こさないならば、その可能
性はないのである。バドラパーラよ、それは何故かというと、尊敬
がなければ、妙法は消滅するであろうから。

チベット文『般舟三昧経』「四亊品第三」和訳(『浄土仏教の思想』2
pp.280-289)

 ※サンスクリット『般舟三昧経』は、現在一部の断片した見つ
かっておりませんので、本来の意味を確定するのに、チベット文が
有効です。


高森先生が教えられていたのは、「現在諸佛の面前に立つ三昧」
(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスだったのです。
「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至りたいならば、
高森先生の教えられるようにしなければなりません。

ただし、阿弥陀仏の本願力にすがり極楽浄土に往生するためには、
高森先生の教えられるようにする必要はありません。
法然上人が所依の経典とする浄土三部経に基づき、阿弥陀仏の本願
を信じお念仏を申してください。

私はそうさせていただきます。清森問答をご覧になっている皆様に
も、それをお勧めいたします。

 南無阿弥陀仏

質疑応答96

 ある会員の方のお宅に、差出人不明の手紙が郵送されてきました。ワープロ打ちのもので、かなりの長文です。


>突然のお手紙にて、失礼申し上げます。
>
>私は、名もなき念仏者でございます。
>
>遠く弥陀のお育てにあずかり、
>何の間違いか、高森顕徹先生にお値いし、
>多生にもあいがたき弘願の一法に遇わせて頂き、
>億劫にも獲難き真実の浄信を獲得させて頂きました。
>恩知らずの私ですので、弥陀と師教の大恩をかみしめながら
>聞法精進の毎日であります。

 このような出だしで始まる文章ですが、この方は信心獲得された方のようです。
 だとすれば何を恐れて、氏名も明かさず、筆跡さえも隠して手紙を書いてこられたのでしょうか?


>上田祥広先生については、直接の御縁はありませんが、
>信頼できる色々な方からお聞きしたり、
>インターネット等で、ある程度は存じております。

 この方は、上田君と一度も会ったことがないようです。にも関わらず、この後、上田君についての批判を何ページにも渡って書かれています。

 当然ながら、事実無根の噂話や、この方の憶測に基づいた、的外れな批判ばかりであることは言うまでもありません。

 一例を挙げますと、

>上田先生は、御自分なりに一所懸命なのはわかりますが、
>親鸞会に対する愚痴がついついエスカレートして
>発言されるときなどには特に、精神病の症状が感じられます。
>おそらく統合失調症(精神分裂病)だと思われます。

 この方は、精神科のお医者さんなのでしょうか?
 会ったこともない人を精神病呼ばわりする無神経さが、私には信じられません。


 これが、親鸞会の一会員の方が書かれた文章ならば、まだ仕方ないかも知れませんが、以下のような文章もあります。


>小堀先生や親鸞会が不利な状況にあるというようなことも、
>本気で信じていらっしゃる人があるようですが、もう哀れというほかはありません。
>
>縁あって小堀先生とも話しを致しますが、実際は不利どころではありません。
>始まってさえいないのです。
>訴えには、相手にされるものと、相手にされないものがあります。

 この方は、親鸞会の抱えている訴訟の問題まで、情報を得ることが出来る人間であることが、この文章から推察されます。会員の住所まで知っているということは、講師の方でしょうか?


 このような匿名の手紙が、他の会員の皆さんにも送付されているのでしょうか?
 こんなコソコソと正体を隠して批判しなくても、堂々と批判されたら良いと思います。憶測に基づく批判ばかりだから、正体を明かせないのです。

 受け取られた会員の方は、この手紙を読まれて、親鸞会に対して大変不審に思われたそうです。

 親鸞会が組織的にやっていることかどうかは分かりませんが、もしそうだとすれば、会の信用を失墜させるだけの行為ですので、直ちにやめて頂きたいと思わずにおれません。

質問、投稿について

 管理人宛のコメントがありましたので、お知らせ致します。

 今回は教えて下さる方がありましたので読ませて頂きましたが、コメント欄まで一つ一つ目を通す時間が中々取れないのが現状ですので、質問や投稿依頼は必ずメールにてお願い致します。

 メールアドレスは、

QWN01215@nifty.ne.jp

です。

 なお、既にお知らせしてありますが、投稿につきましては、匿名では受け付けておりません。お名前と連絡先(電話又は住所)をお知らせ頂けますよう、お願い致します。

質疑応答95

【質問】


 除名の真相を見直していて思ったのですが、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(渡部弘宣部長)
「自然の理にあひかなわば、仏恩をも知り、
        また師の恩をも知るべきなり」 である。
 このお言葉が、アニメではどう描かれているだろうか。
「弥陀の大慈悲に救い摂られれば、広大なご恩を知らされ、信楽房も、
やがて、己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」
  というセリフがそれである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 この翻訳、以前から違和感がありました。

 聖人の、「自然の理にあひかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなり」 

 「自然の理にあひかなわば」は、願力自然、弥陀の本願にすくい取られたならばということで違和感はありません。

 「仏恩も知り、また師の恩をも知るべきなり」なのですが、この「知るべき」の「べし」は、受け身・自発・可能・尊敬のうち、訳せる可能性があるのは、「自発」と「可能」ですが、「自発」が自然だと思います。

 すなわち、最初この原文を拝読したときは、「弥陀のご恩も知らされ、師匠の恩も知らされるであろう」、すなわち、「だから、今は追わなくてよい。本尊も取り返さなくてよい。いずれ分かる日が来るからいいのだ。」という慈悲の御心だと思ったのですが、高森先生の訳では、「信楽房も、やがて、己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」という聖人の怒りが全面に出ているお言葉になっています。

 つまり、高森先生の翻訳ですと、聖人は、信楽房に対する温情のお言葉を述べられていながら、最後に怒りのお言葉で締めらているということになり、最初は「信楽房の仏縁を念じる」と仰りながら、最後は「あの野郎め。こんちくしょうが。」というお言葉で終わっているというように思います。
 ですので、いまだに違和感があります。

 「己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」という翻訳は一般的なのでしょうか。

 それとも慈悲と智恵は表裏一体ということで、高森先生が作られたオリジナルの翻訳なのでしょうか。



【回答】


 結論から言いますと、このような翻訳は、他にはありません。

 これは歎異抄第6章の内容ですが、要約すれば、阿弥陀仏のお導きで救われるのだから、私が導いているのではない、というお言葉です。

 師匠から離れるのも、阿弥陀仏のお導きであり、救われるのに必要な御方便だということです。

 師匠から離れるのが大罪だ、という表現からは、「自分が導いている」という匂いを感じてしまいます。

 高森先生が、どういう御心で変えられたのかは、分かりませんが、もし、そのような驕りのような気持ちがあったとしても、お互い煩悩に迷惑している身ですから、仕方のないことだと思います。

質疑応答94

【質問】


「親鸞聖人と高森先生の信心は一味だと思っている。今でも高森先生を尊敬している」と言われている、と聞きしますが、今でも、そう思っておられますか?
 最近の清森問答の内容を見ると、そう思えなく、悲しくなります。



【回答】


 以前、講師部講義で、「高森先生を批判することがあってはならない」という内容の発言した講師がいました。

 それを聞かれた高森先生は激怒されて「なぜ批判を恐れるのか!なぜ批判を封じるのか!批判されなければ、分からないではないか!」と、厳しく注意されたのを、印象深く覚えております。

 また、「光に向かって」の中にも、君主に対して痛烈な批判をしたエピソードを載せられ、名君とは、批判を受け入れるものだ、と教えられています。

 批判こそ喜んで聞かねばならないということを、ご教導いただいたことは、一度や二度ではありません。

 私自身、親鸞会から離れて、世間や元学徒の人たちが、親鸞会を批判する声を、多く聞くようになりました。

 親鸞会が発展するには、このような声にこそ、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

 高森先生も、そのような声を聞き、改めるべき点は改め、より多くの方が親鸞会に御縁を結ばれるよう、望んでおられるはずです。

 しかし、実際に、高森先生のお耳に、このような声は届いているでしょうか?
 もし届いていれば、今の現状には、ならないと思います。

 投稿文の中には、学徒の方が読まれたら、読むに堪えない、と思われる文章もあるかも知れません。しかし、このように思われている、というのが現実なのです。

 的外れな指摘だと思われるかも知れませんが、もし誤解ならば、なぜ誤解されるのか、反省し、誤解されないよう、改善しなければ、学徒の方は御縁を遠ざけるばかりです。

 長い間、講師部をやってきましたから、親鸞会の会員数は大体分かりますが、この十数年で、かなり会員数が減っています。

 なぜ、会員数が減るのか、どうすれば多くの人が聞かれるようになるのか、それは、特に元学徒の方々の批判の声の中に答えがあると思います。

 ですから、批判の声というのは、大変な宝であって、高森先生は、それを喜んで受け取られる方だと、私は信じております。

 前にも話をした通り、今でも高森先生を尊敬しております。

 27年、お世話になり、親鸞聖人のみ教えこそが、真実の教えであり、本当の幸福になる教えであると、知らされたのは、親鸞会でご縁を結ばせて頂いたからこそと、感謝せずにおれません。

 先生から教えて頂かねば、真実の宗教が親鸞聖人のみ教えであることは、絶対にわかりませんでしたので、何とか高森先生が残されたい、と思っておられる親鸞聖人のみ教えを、後世にもお伝えしたい気持ちは、今でも全く変わっておりません。

 また多くの会員の方の浄財で生かされた御恩も、決して忘れてはおりませんし、なればこそ、親鸞聖人のみ教えを、間違えて理解しておられる方に、何とか本当の親鸞聖人のみ教えを知って頂きたいことのみを願って、このような清森問答というブログを立ち上げました。

私の白道・8

「私の白道」8
元親鸞会講師部



○高森先生、親鸞会ではどうせよと教えるのか。


 私達は、欲、怒り、愚痴で毎日、心で、口で、身体で悪を造り続けている。また五逆罪、謗法罪という無間地獄へ墜ちる恐ろしい悪業を犯している。だから因果の道理、悪因悪果の報いは免れない。
 後生の一大事(必堕無間地獄)は必ずある。
 救われるには阿弥陀仏の本願以外にない。
 では、どうしたら救われるのか。

 蓮如上人は「五重の義、成就せずば往生かなうべからず」と教えておられる。

  1宿善、2善知識、3光明、4信心、5名号(念仏)

 まず、何より宿善であり、宿善まかせと聞かされた。
 船に乗ったら船頭まかせ、病気になったら医者まかせ。
 宿善は善が宿るともいい、過去世を含む、今までの善行をいう。
 また阿弥陀仏とのご縁、仏縁でもある。
 宿善ある人は、後生が気になる、仏法を尊く思い、聞きたい心のある人と言われる。

  1聴聞、2勤行、3諸善、が宿善厚くなると聞いた。

 諸善は六度万行、色々あるが、例えば布施(親切)の法施は人間出来る最高善である。顕正、ご法話の誘いがこれに当る。
 次に財施、親鸞会にお金を出すのも、すごい善、宿善と教えられた。
 だから親鸞会の人は救われたいと、人集め、金集めに必死になるのは、ここから来ている。
 しかし、これをして助かるのではない、これらは自力の善だから、自力の善では助からない。間に合わぬ。資助にならぬと言う。
 助かるのはあくまで他力、阿弥陀仏のお力によるのだと説く。
 じゃこの宿善、自力の善は何の為にするのかと言うと、獲信の因縁になると言う。
 獲信の因縁?それは何ですかと問えば、獲信しないと頭で考えても分からない、本願寺の勧学でも分からない。
 信心決定なされた高森先生でなければ分からない。
 本願寺との「宿善論争」で本願寺が答えられなかったのが、何よりの証拠でないか、となる。
 間に合わないけど、因縁になる、分からずとも、とにかく助かるには、それをせよ、といわれるのだから、頑張るしかない。
 こう理解しているのだ。長い人ほど強く。

・また、親鸞聖人はどうして阿弥陀仏に救われたのか、二ケ所だけ教えておられる。「雑行を棄てて本願に帰す」と「三願転入文」
 それである。
 蓮如上人はそれを「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と教えられている。18願真実の世界に入るには雑行、雑修を捨てねばならない。
 捨てるには雑行、雑修は、どんなものか知らねば、捨てようがない。
 雑行とは19願の諸善、雑修は20願の念仏、自力の心は二願に共通した心、これで助かろうとする心を言う。
 18願を疑う心、計らい心である。
 19願の心を知るには、本願の通りやってみないと分からない。
 やらずにどうして分かるか。やらねば捨てられない、と教えられた。
 自力一杯求めたことの無い者に、自力無功と知られる筈はないと。

・次に、我々親鸞会会員は、その五重の義の2番目の遇い難い、善知識、高森先生より直接、ご指導賜る世界最高の幸福者。
 文句言わず、宿善が厚くなるよう、世界の果てまで高森先生の御法話に参詣し、顕正に驀進し、家売ってもかまわんから財施に捧げるのだ、惜しむな、時間と金と身体をーーーーハイ頑張ります、
こうなってゆくのです。

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○宿善まかせ--毎月正本堂に参詣、財施、して活動せよ


○宿善を40年求めて知らされたことは

・朝、6時30分に起きてから、夜、12時近くに寝るまでこれだけ活動、自力の善をしていても、善の出来ない自己、助からない自己が見えてくるのか、私には見えなかった。
 やっても、やってもまだ足りない、自力一杯やってないから私にはまだ、自力無功が分からないのだ、まだまだ努力が足りないのだと反省するばかり。自分の影を踏むようなもので、キリがない。
 馬の鼻の先にニンジンをぶら下げて走っている状態です。
 その内、ニンジンが食べられる、自力の善の出来ない地獄一定の自己が知らされて弥陀の救いにあずかるはずだとーーーー予定を立ててやっている。
 しかしそれは違っていた。自力の善には卒業はない、一生求道の道なのだ。
 自力で自力の限界が分かる、と思うことこそ自惚れだ。そんな殊勝なものではないのだ、腹底は。買いかぶるな。
 血で血を洗うことは出来ない。

・「自力一杯求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈はない」
 では、高森先生は仏法聞いて3ケ月で獲信したと聞いたが、いつ19願の善を命がけでやられたのか。聞いたことはない。
 過去世にやって来られた、と書いてきた人があった。都合のいい話だ。先生はそうだと言われていない。

・回りの○百人の講師部員を見て分かる。
 私以上に皆さん努力しているのだ。誰も楽している者はない。
 しかし、20年、30年、40年そうやっていて、「私は自力一杯やって助からない、間に合わないと知らされて20願の念仏へ進み、それも駄目だと知らされて救われましたー」と言った人が無いではないか。
 聞いたことは無い。誰か聞いたか、ゼロなのだ。これが現実だ。


・「19願の入り口にも入っていない」と言われたそうだが、当り前なのだ。出来ないことをしているのだ。

「会報」第5集59Pに書いてある。
「本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはいないといってよいのだ。」「真宗の道俗の中にそのような者は見当たらないから化土往生どころか、必堕無間こそ、間違いのない後生である」
そう書いてある。(「会報」は廃刊になっている。)
 これでは、高森先生は出来ぬと分かっていてやれと言われているのだ。これでは、一生やっても助からない筈だ。努力が足りないから分からないのだと反省しても意味がない。
 目をさませ。
 親鸞会は大きくなっても、一生このままで終わることになる。
 私はハッキリと目がさめた。


・「18願は五つ目のぼたもち、一つ、二つ、三つ、四つ食べてこそ五つ目で満腹するのです。五つ目だけ食べたら、それは一つ食べただけだから満腹しない」と三願転入を手紙に書いてきた人があった。
 うまい例えのように思うが、19願の一つ目のぼたもちさえ食べていない(19願の入り口に入っていない)ではないか。
 その例えを使えば、五つ目のぼたもちは浄土往生、しかしこれは多生かかると諦めて、一つ目のぼたもちを食べることに命をかけてはいないか。
 大講師の人でさえ、観音菩薩の臨終説法の話に感動したのだから。
 後生、地獄さえ免れるなら化土でもどこでもいいという思いになる。
 大沼氏はここを説いていたのだ。
 以前の高森先生はこれを「会報」に厳しく破邪していたが、今は変わってしまった。
 あなたもそれでいいですか。安心して死ねますか。

・皆、矛盾したことを言っている。

 19願の通り、極楽へ生まれたいと思って諸善を心から必死にがんばれと勧めながら、しかし「大無量寿経の「心常念悪口常言悪身常行悪曽無一善」「雑毒の善」「心口各異言念無実」「十悪五逆謗法」が私達の真実の姿です。真の善などかけらも出来ない凡夫なのです」と説法している。
 どっちが本当か、これで、真の心で善が出来るか。絶対出来ないことを知る為に、本気でやれ、など言われて出来ますか。
 迷路にはまって、どこが出口か分からず、善をやってるつもりになったり、出来ない私と思ってみたり、何をやってるのか、分からないのだ。

・M副支部長の疑問

 私が本部長の時「話がありますのでいいですか」と電話があった。
 建立御報謝の財施を募る忙しい時期だった。
「御報謝させて頂いていますが、これで助かるのですか」短刀直入に聞いてこられた。
 私は「これで助かるのでありません。聞いておられる通り宿善となります。獲信の因縁になるのです。」と答えると
「いつもそこが分かりません。お金で頂ける信心とは思いませんが、助かる為に役立つのでしょう、違いますか」
「役立つというのは資助ということですが、そうではないのです。獲信の因縁になるのです」
「何にもならんのなら財施は出来ません。信心決定の役に立つと思いますのでさせて頂きます」と言われた。本部でも財施は常に上位の方でした。

財施=宿善=厚くなれば宿善開発=信心決定

と思うから、惜しまず出来る、と言われるのです。
 会員さんは因縁と資助の違いなど、どうでもいいのです。
 このMさんも急病で亡くなられました。
 当時、ハッキリと答えられなかった自分を本当に申し訳なく思うばかりです。

・Tさんの本音

 30年求めて亡くなられたTさんは生前、「聴聞、財施、顕正、お誘い、活動のすべては宿善と勧められますが、これで助かりたいの心がけが悪いから捨てよと言われますけれど、ではどんな心でやればいいんですか。
 私には分かりません。その心無くなったら求められません。どうしたらこの心、捨てられますか。
「助かりたいと思うから、出来るのでありませんか。宿善厚くなったら助かると思うから、頑張るのでないですか。100万出すか、200万出すか、どっちにするか、この心が決めているんですよ。実際は。」とも言われた。
「私はずっーと(30年)これが気になってきました。悪い心がけを捨てるなんて出来るんですか、そんなこと。私には出来ないですが。支部長はどんな心でしておられるですか」と真剣に聞かれた。
「私も同じです。これを自力の心というのですが、Tさん、この心どうしたらなくなるのか、実は私も困っているのです」と本音を話したら「支部長もそうでしたかー」と言われた事を忘れられない。
 誤魔化して通るところではない。だからこそ、癌末期で私の腕にすがって教えて欲しいと泣かれ、言えなくて申し訳なくで私も泣いたのだ。
 聞いたのも、財施したのも、何の明かりにも、力にもならない、宿善と言われてやってきたことが無力と知らされたTさんの落胆はひどかった。
 自力一杯求めたら、自力無功と知らされると言うが、臨終が先なのです。
 講師の皆さんは、こんな時、どう答えますか。
 会員さんばかりか、自分にも同じことが、やがてやって来るです。

・「消防署の方から来ました」と言って消火器を売りつけた者が詐欺で問題になった。「消防署から来た」とは言ってない、と言い張っても、聞いた人が「消防署から来た」と認識すれば、詐欺なのだ。
「財施は宿善だ、獲信の因縁になる」とは言ったが「これで宿善厚くなる、助かる」とは言っていないと開き直っても「宿善が厚くなれば、助かる、財施は獲信に役立つだろう」と会員さんが思えば、これと同じことでないか。そのように聞く者が悪いと言っていいのか。
「心がけが悪いから捨てよ」どころか、これで何とかしようと思っておられるのだ。あなたも、そうではないですか。

◎「宿善まかせ」の活動を取ったら、親鸞会の発展は無いのが現実であり、会員さんが誤解していようと、どう思われようと活動を勧めているのだ。

 頑張る人には、表彰状を出し、顕真に写真で紹介して褒め上げて、顕正新聞には、高森先生の選ばれた、お礼状が紹介される。
 目標達成出来た講師は講が上がり、講師の見本だ、もっと活動せよと誉める。高森先生、有難うございます、もっと頑張ります、とお礼状を出し、認められたことを喜び、誇りで一杯になる、これで自力無功と知らされますか。

○会員さんの認識、現状

・先日、会員さんと電話する機会があった。

私   「Kさん、美味しい物や本まで送って頂きまして有難うございました。お元気でしたか。」
Kさん  「ハイ、しかし私も歳ですから、いつどうなるやら分かりません。でも今年は親鸞会50周年ですから、頑張りますよ。」
私   「何を頑張るんですか」
Tさん  「高森先生のご恩ですよ、50年も大変なことですよ。歎異鈔の本も出して下さったし、だから聴聞、教学も中々覚えられませんが、頑張りますよ」
私   「高森先生のご恩は大事ですが、阿弥陀様のご恩はどうですか」
Tさん  「あー、阿弥陀様ですか、私みたいな者には分かりませんよ」
私   「お歳でいつどうなるか分からんのなら、阿弥陀様にどうしたら救って頂けるか、そこを真剣に聞かねばならんのじゃないですか。」
Tさん 「そうですけど、私みたいな宿善浅い者、まだまだ無理です、私みたいな者」
私   「じゃあ、どうなったら助けて頂けると思っているんですか」
Tさん 「そりゃあ、もっと聴聞も多く行って、お誘いも、教学もして宿善厚くなって、ちゃんとしないとね。私は出来てませんから、まだまだですよ、私みたいな者は」
私   「阿弥陀様は立派になって、善人になって、ちゃんとせにゃ助けんぞと言われておられるかね。いつになったら、そんな立派な人になれますか。欲は深いし、腹は立つし、愚痴は治らんし、どうしますか」
Tさん 「そりゃそうですが」
私   「Tさん、大変な聞き間違いをしていますよ。いいですかーーー」

 私はそれから30分ほど仏願の生起本末を話した。
 ほとんどの会員さんはTさんのような理解をして求めている方が多いのだ。ウソだと思ったら周りの会員さんに聞いてみれば分かります。


・昨年、30年以上も求めている知人から、私が親鸞会を辞めたと聞いて電話してくれた。話の中で

私   「なぜ阿弥陀仏にこれだけ聞いていても救われないと思う?」
知人  「宿善が薄いから、宿善まかせだから」と即答した。
私   「では正信偈に助からないのは、還来生死輪転家決以疑情為所止とあって疑情、本願疑う心一つとあるけど、どうなの」
知人  「んー、分からん」

 彼は学階は講師なのだが、分からないと言った。
 知識として疑情があるから救われない、信疑決判も知っていました。
 しかし関係は分からないまま、30年近くたっています。
 教えの沙汰、議論がされていないから、気にならないのです。
 ただの知識で止まっています。
 教学は求道の定規と言われていますが、実際はこんなことです。

・30年以上求め、大講師の学階を持つ知人から手紙が来た。
「宿善が厚くなる、信仰が進むとは、善のかけらも無い醜い自己の姿が見えてくるということです。自惚れ強い我々は、微塵の善もできない者、と聞かされてもそんなはずはない、少しくらいの善ができるよ、と弥陀の本願を疑っています。そんな者に真実の自分の姿を知らせるには、善を徹底してやりぬかせるしかない、と弥陀は思われ、19願を建てられたのです」

「唯信抄文意のお言葉を拝読すれば、信心獲得は100年や200年求めて得られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく得られもの、ということが明らかです」

「私には親鸞聖人のみ教えについて話したいことが山ほどある、1対1で法論しませんか」と書いてきた。

 大講師の彼は、善の出来ぬ自己を知るため、自惚れた自己が知らされるから、19願の諸善、活動をするのだといいます。
 では、30年以上やって、どんな自己が知らされたのか、彼の手紙にはそれは書いてありません。
 阿弥陀様の頭の上に登って、19願の願意を解釈して分かったつもりになっているのではないでしょうか。
 今生の獲信などあせらず、華光会に迷ったりせず、どっしりと、三願転入の道、まず19願の善が出来ぬ自分を求めていけばよいのだ、それを根拠を挙げて教えてあげましょう、と自信一杯なのだ。
 親鸞会の真宗聖典に載っている信心数え歌の心が分からないのだ。

「一つ必定地獄と聞きながら  うぬぼれ心にだまされて
 墜つる此の機ということは  ほんに今まで知らなんだ」

「二つ不定の命を持ちながら  よもやよもやで日を送り
 今宵も知れぬ命とは     ほんに今までしらなんだ」

「三つ皆さん後生は大事じゃと 人には云うて勧むれど
 我が身の大事と云うことは  ほんに今まで知らなんだ」

○本願寺からの追求と宿善論争と現実

 本願寺がここを「高森親鸞会では、未信の者は信心決定をめざして今生において善根を積み、宿善を厚くせよと勧める。これは宿善の語義そのものから逸脱しており、当流相承の上には無い所談である」と批判した。
 高森先生は「自力一杯求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません」と反論して「宿善論争」が始まったのだ。
 本願寺は「親鸞会は宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るためにはまず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」と追撃した。

 なるほど、親鸞学徒の手鏡と高森先生の言われる蓮如上人のご文章のどこを読んでも、そのように教えておられない。
 信心獲得章、聖人一流章、当流安心章を読めばハッキリする。
 自力一杯求めよ、の記述はどこにも無い。

 高森先生は「自力の善が資助になるどころか自力無功、捨自帰他ーー
 自力が廃らない限り、絶対に弥陀の本願は判らず、報土往生できないこと開顕し続けて来たのが親鸞会の歴史である」と反論された。
 そして、三願転入のご文を証拠として、19願に善の勧めはある、と言われた。

 しかし現状はどうか。
 正しく理解されているなら、それでは、専門の講師部に獲信者はいるのか。自称獲信者が少し有ると聞くが、なぜ、顕正新聞、体験発表、弁論大会、仏法讃嘆のご縁があるのに、堂々とその喜びを発表しないのだろうか。私は一度も聞いたことがない。
 抑えておれるのか。何時も言ってることと違いませんか。言わずにおれないのが真実の信心だと。
 私は今回のご縁があって有難い限りです。思いっきり書かせて頂きます。



○昔は廃立こそ大事と教えられた。

「会報」4集32P
「古来「教行信証」は三重廃立を開顕せられたものだと言われている。
 事実、三重廃立以外に「教行信証」の教えはないのである。
 まさに聖人が一生の心血を注いで開顕し給うた三重廃立の教えこそ釈迦、諸仏、菩薩、の出世本懐である。「一向専念無量寿仏」を鮮明に徹底させ、濁流滔滔たる現代人を救う最高の指針である。これこそ聖人の精神であり、源流遠く大聖釈尊の真意を伝うるものである」「我々が信心決定して絶対の幸福を獲得するには必ず、この「捨てもの」と「拾いもの」とを明らかに理解して、捨てるべきものは速やかにこれを捨て、拾うべきものは速やかにこれをとらなければ、絶対に救われることはないということである」と書かれている。

1内外廃立-一切の宗教をすてて仏教を信じよ
2聖浄廃立-聖道門をすてて浄土門に入れ
3真仮廃立-浄土他流をすてて真宗に入れ

 特に親鸞聖人が厳しくなされたのが真仮廃立である。
 自力他力廃立とも言い、信疑決判が真宗の命ではないか。
 微塵の疑い、自力の心があっても浄土往生が出来ませんよと教えられた。
「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と蓮如上人も厳しいのだ。

 それが行動に現れたのが親鸞聖人の三大諍論である。

            自力信心    他力信心
1体失不体失の諍論--死んで助かる  この世から助かる
2信心同意の諍論 --皆違う     皆同じ 
3信行両座の諍論 --念仏で助かる  信心一つで助かる


・「笠あげて道連れ招く清水かな」
 18願真実に救い摂られた人は、まだ分からず、迷い苦しむ人を見てじっとしておれないのだ。
 美味しい清水を飲むと「おーい、ここに清水があるぞー、早く来いよー」と叫ばずにおれなくなる。
 オレは一日中、山を歩き回って、やっとこの清水をみつけたのだ、あいつらもオレと同じように、探し回って見つければいいのだ。その内オレと同じように見つけるだろう、など思っておれない。


◎疑惑和讃が23首あり、そこに19願20願の人々の信心について教えておられる。高森先生がいつも根拠に出されるところだ。

そして最後に

真宗聖典258P
「仏智疑う罪深しこの心おもい知るならばくゆる心をむねとして仏智の不思議をたのむべし」
「23首仏智不思議の弥陀の御誓いを疑う罪咎を知らせんとあらわせるなり」
 これが、御和讃をつくられた親鸞聖人の御心、本心なのだ。
 恐ろしい疑情の罪咎を知らせる、三大諍論であったのだ。
 ここまで心を砕かれているのだ。そのように教えられているだろうか。
 宿善の根拠にだけ、していないだろうか。

・阿弥陀仏に救い取られた人は、五劫の願、兆載永劫の修行によって南无阿弥陀仏を成就して、十劫の昔から、聞いてくれ、受け取ってくれと待って待って、待ち尽くしておられた阿弥陀仏の御心が知らされたから、それを疑い、自力の善根功徳を差し向けたり、続かぬ、不安な心で念仏を称えている人を見ると、ほっておけぬのだ。

・「待ちわびて うらむと告げよみな人の
  今日も今日とて 急がざるらん」
 やるせない阿弥陀様の御心だ。


・「八つとて益にもたたぬ雑行や 雑修自力は捨てもせで
  弥陀仏泣かせていたことは  ほんに今まで知らなんだ」

・「弥陀の本願信ずべし本願信ずる人はみな摂取不捨の利益にて無上覚をばさとるなり」親鸞聖人の叫びだ。


「顕正」133P
「我々の先徳は、この信行の戦いの為に流血の惨事の法難をくぐっている。自力の念仏を破って他力真実の信心を示すのは我々に命ぜられた無上の使命である。
--幾度も廃立を先として、唯信独建の仏意を教えても信に惑い、行に迷い易き衆生は、信楽開発することを忘れて、またしても自己の称える念仏をアテ力にしようとするのだ。ただに法然門下に於いて信行の戦いがなされたのみならず、親鸞門下に於いても信行両座の戦いは、現在も絶えず繰り返されているのだ」
と書かれている。

「獲信の記録」これも、廃立で教えてある。

しかし、

◎今は「教行信証化身土巻」に三願転入、19願20願を通って18願へ転入したと親鸞聖人は教えておられる。その通りの道を歩むのだと、教えておられる。多生の目的だと言われる。
 宿善は、諸善のすすめ、これこそ19願の教え、三願転入の教えなのだから、これでいいと、皆思っている。

◎19願、20願は18願への道程なら、19願の諸善、念仏、20願の念仏を称えている法然門下の人の信仰をなぜ問題にされたのか。
 必ず通る道を進んでおられるのだから、励まし、見守っておられていいのではないだろうか。憎まれてまで、なぜ諍論されたのだろうか。
 不思議に思うのは私一人でしょうか。


○三願転入、19願の諸善さえやればいい、が起こす間違い


・財施が宿善になるから

 高森先生のご法話が終わり、高森青年部長(現布教局長)の座談会が毎月行われた。
 財施の話の中で「ワシは自分の車を○○万キロメートル走ってあったが、メータを戻して高く売った」と自慢げに話した。
 これは犯罪行為だ、大変なことを言ってしまったのが分からないのかと呆れてしまった。誰か注意したのか、次回の座談会で最初に「先回の車のことは、自動車屋が車の程度が良いからと言ったからだ」と言い訳した。いつも車はピカピカにしていた。
 それでも自動車屋と共犯に変りない。
 ご法話では因果の道理、善を勧め、宿善が大事と言いながら分かってない、「がめつく儲けて、綺麗に使え」といつも先生が言われている言葉を自分勝手に解釈している。
 親鸞会への財施なら法を犯してもいいと、ご法礼を集めている座談会で言ったことになる。時効であっても責任は重い。


・高額財施の勧め

 母がいつに無く実家へ帰ると、怒っていた時があった。
 聞くと、100万円以上すると高額財施者として高森先生と一泊会食会に温泉に行けるからどうかと支部幹部会員から勧められたと言う。あんな言い方があるか。仏法の為です、と言えばいいのになんで、高森さんの会食が売りものになるのか、親鸞会はおかしな集め方しとるなと言った。お前も講師だけど、そんなこと言ってないだろうな、と釘を刺してきた。


・顕正、入会者のお金の立替

 幹部の人から「うちの支部長はおかしいことをされる。顕正者に今月中に入会して欲しいからと、入会金、会費まで自分で立替えて出すと言われ、却って相手の方から不審がられてしまった。どうして、あせられるのですかね」と言われた。
 目標達成が目的の顕正しているからだ。
 達成こそ大事になってしまうのだ。


・聴聞の目的違い

 本部の教学講義の昼休みに、県の受講者の集合があった。
 各支部の参詣表が出て来て、「今回の降誕会はこの成果でしたが、報恩講にこの目標が達成出来ねば失敗です」と言ったのに驚いた。
 失敗の報恩講になる。
「報恩講に信を獲れ」とスローガンにあるが、実際、講師、幹部はこんな感覚で、人集めの活動していることになる。
 目的忘れた聴聞をしていることになりませんか。
 正本堂、2000畳に座れば、宿善が厚くなると思っているだけなら、とんでもないことになる。

○三願転入の御文は親鸞聖人の歩まれた道です。


・18願を説き切れ、虎の説法をせよ、と書いてある。

「顕正」124P
「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
喩えば、虎の手本を見て虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎でなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵が書けるようになるように手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因ともなるものもあろうが、たゆまずアキラメず、信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に、教家は常に虎の説法をしなければならないのである」

・「本願寺なぜ答えぬ」156P
「誰もが、意識すると、しないに、かかわらず、方便の道程を通らなければ、真実の絶対界には出れないのだ。」とも書いてある。


・私は「私の白道6」に述べたように、阿弥陀仏に救われて親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を改めて読み味わっています。

 三願転入は親鸞聖人の歩まれた道であり、聖人が獲信後、振り返られた心の道でもあります。
 誰でも通らされる心の道だと私は思います。
 ここが19願、これが20願と、自覚なくても、意識すること無く通らされる心の道です。
 高森先生も教学講義の時、言われて、えっと思ったものです。
 てっきり、実行する道とばかり思っていたからです。
 どうしてそれが分かるか、救われて、それまでの心がどうであったかハッキリするからです。
 19願の諸善は、心から出来ません。落第です。
 やっても常に「私が、誰々に、何々をしてやった」の恩着せがましい、毒を含んでいます。
 20願の念仏、阿弥陀仏を念ずる心も、続きません。悩み苦しみ、嬉しい事があれば念仏を忘れます。20分の勤行中も阿弥陀仏のことを思い続けることは出来ません。仕事、身体、人のことばかりです。
 18願の六字の心を聞きながらも、そのまま、まかせと言われるが、心では常に、こんな私でも助かるのだろうか、本当だろうか、どうしたら、どう聞いたらの疑い心が動きづくめです。信じる心が無いのです。それしか無い奴です。
 宿善が厚くなるとは、仏願の生起本末を聞いて、自分の値打ちが知らされ、こんな者が今死んだらどうなるのか、と後生が苦になった人のことをいいます。熟して落ちそうな柿です。
 宿善まかせだから、諸善、活動をしてゆけば何とかなるだろうと、後生を遠くに思い、そのうち、何とかなるだろうと思っている間は、宿善が熟していないのだ。青柿なのだ。
 自分で求めているつもりが、皆阿弥陀仏のお計らいだったと知らされる道だからです。それを親鸞聖人は

○「噫、弘誓の強縁は、多生にも値がたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし、遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」、宿縁とおしゃっている。

 親鸞会会員は19願の諸善をしっかりやって、20願の念仏やらねば18願に入れないと思っている人がほとんどです。
 しかし、18願、南无阿弥陀仏の謂れを聞く、仏願の生起本末を聞けば、南无阿弥陀仏の一人働きによって救われるのです。不思議です。

○「いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。只、仏法は聴聞に極まることなり」
 蓮如上人も、ただ聞けと勧めておられる。

 雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある。
 私は40年諸善やっても救われなかったが、阿弥陀仏のみ心、六字の心を増井先生よりお聞きして、阿弥陀仏に救い摂られました。
 本当に聴聞に極まるでした。
 その間、活動は一切せず、ただ聞くことだけでした。

 考えてもみて下さい。80歳で初めて仏法のご縁があった人は、どうしますか。病気で動けない人はどうしますか。貧乏で動けない人は駄目ですか。急病な人は20年30年で獲られるような真実信心なら、間にあいません。
 元気で活動できる人だけが宿善を求め救われる弥陀の本願ですか。

 高森先生は華光会に10年余り関わりがあり、その影響が「会報」「顕正」に濃く出ています。
 知っておられるのです。何を話すべきか。

 これからも数千の人々が、Tさん、Mさんのように亡くなっていかれるかと思うとやり切れません。六字の心を説かれることを心から念ぜずにおれません。

◎18願の説法もされる、何を言うかと言う人もある思いますが、あれで18願の願意を説き切っておられると思いますか。
「若不生者の念力」によって「信楽」の身になれるのだ、と説かれる高森先生に疑問を感じます。救われたら、明らかなことなのです。
 チュ―リップ企画と田中氏の法論は大変な意義があるのです。
「私の白道1」に書いた通り、重大問題なのです。
 未だに、その親鸞聖人のお言葉の根拠が示されておりません。
 どうされるのか、毎回、注意深く見ています。


 最初に紹介した高森先生への年賀状はここを分かってもらいたくて出したのです。私の心は通じたでしょうか。


 今回は前回からの間が長くなってしまい、待っておられた方もあると聞き、申し訳なく思います。
 自分の救われた体験までなら、一気に書けますが、何しろ内容が内容だけに、どう書いたら分かって頂けるだろうかと日々悩んでおりました。



 今回、二つの問題を書こうと思いましたが、長くなりますので、もう一つは、次回にさせて頂きます。
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