スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親鸞会教義の相対化・50

清森義行様


 久しぶりに、私宛に書かれたコメントにお答えしておきたいと思います。
 沢山のコメントを頂いておりますが、誤った認識に基づく明かな虚偽に対する訂正や、不当な批判に対する反論を中心に書かせて頂きます。


★親鸞会教義の相対化・27
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-89.html#comment_area

>ヲタむけじゃないわけでさん

 この感想を書いてくださった友人は、花の中三トリオと同世代の女性であり、最近の「アニヲタ」などより遥かに長く深いキャリアを持つ「アニメファン」です。不十分な情報で人にレッテルを貼るのはやめてください。

 友人は、貴方のコメントを読んで非常に呆れていました。


★親鸞会教義の相対化・37
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-130.html#comment_area

>ななしさん
>暴想続さん

 渡辺先生は、例えば、

「真珠湾を攻撃するような態勢に追いこまれたから攻撃した!だから悪くない!」

というような、飛躍した論理展開を徹底して否定し、暴力などで自らの行動が制されそうになった時にも、決して逆上して自らも不寛容に陥るのではなく、平和的に解決する道を常に模索するべきである、という「寛容」の精神に貫かれた方です。

 清森問答をご覧いただいている方にも、そうした「寛容」というものについて考えて頂きたいと思ったのですが、少々場違いだったようですね。


★親鸞会教義の相対化・44
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-163.html#comment_area

>?さん

>>>
講師になるのは、自分が阿弥陀仏に救われるためなんですか?
講師になるのは、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの人に伝えるためだと聞いた事があります。
自分が助かりたいだけなら、進むのは間違っているとも。
その点から考えれば、御文章を後ろの人にしっかり聞こえるように読むのは間違いではないと思います。

相対化を書いてる人答えて下さい。
>>>

 既に他の方が答えてくださっているので、私が更に言うことはないのですが、ご指名ですのでお答えしておきたいと思います。

 私は「一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように」読むことは否定しません。それはもちろんよいことです。

 しかし「後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめる」のは、明かな誤りです。

「聞法の縁のない時も、つとめて仏に親近し、親鸞・蓮如両聖人の
直のご説法を聴聞するよう、朝夕の勤行は欠かさぬようにしましょう。」
『Booklet2家庭の仏法』p.15

 親鸞会で出された一般向けに書かれた冊子に書かれたこの記述は、大変素晴らしものであると思います。一方、講師部の皆さんは、一般の方でもされていることをされないということでしょうか?

 そうであるならば、一般の会員さんよりも講師部の方の方が、阿弥陀仏に心を向けていないということになります。


★親鸞会教義の相対化・45
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-164.html#comment_area

>親子?さん

>>>
相対化は興味深く読んでますが、今回のはちょっと時代背景無視ではないでしょうか?
善導大師の時代の親子関係は、現代よりも余程厳格でした。
一つの家の中では、最上級のお客様以上に父親を大事にもてなしていました。
この内容については、合わないと思いますが、どうでしょうか?
>>>

 まず、私が紹介した言葉は、善導大師の言葉である「三縁の中の親縁」を解釈した法然上人の言葉です。

善導大師・・613年~681年
法然上人・・1133年~1212年

 次に、家長として父を大事に扱うことを私は全く否定しておりませんし、阿弥陀仏を粗末に扱っていいとは全く思っておりません。

 私が問題としているのは「お客様」のように、よそよそしく阿弥陀仏を扱う態度であり、その態度が阿弥陀仏との距離を遠ざけ、その結果、信仰からも遠ざかることになることを批判しております。

 興味深く読んでくださるのは結構ですが、今後は書かれていることを正確に、自分の中にあらかじめ存在している思想を先行させて読まれることのないよう、忠告させていただきます。



 以上、簡単ではありますが私宛に書かれたコメントにお答えさせて頂きました。

 今回『生活要領』を読ませて頂いて、親鸞会の講師部の皆様が、実践の「意味」「意義」よりも「形式」を徹底されていることが大変よくわかりました。

 そして何よりも大きな問題となるのは、その「形式」の中に「阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す」というのが見事に抜けていることであると思います。


>>>>
1)それ速やかに生死を離れんと思わば、
二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、
淨土門に入(い)れ。

(訳)
速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、二種の優れた法門の中で、しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)浄土門に入(い)らんと思わば、正雑二行の中に、しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
浄土門に入ろうと思うのであれば、正行と雑行の二行の中で、しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)正行を修せんと思わば、
正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
正行を行おうと思うならば、
正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
それは、阿弥陀仏の本願によるからである。
>>>>

 これは、法然上人の唯一の著書である『選択集』最後の十六章に書かれた言葉であり、この文はその中でも実践的結論と言える部分です。

 この文は親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

>>>>
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(浄土真宗聖典pp.185-186)
>>>>

とコメントされております。

 阿弥陀仏が何を本願にされ、法然上人や親鸞聖人が実践として勧めておられる行を中心に据えているならば、親鸞会の『生活要領』のような記述には、絶対にならないのです。

 最後に、高森先生の説法でもよく使われる法然上人の言葉を紹介させて頂きます。

>>>>
現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。

一所にて申されずば、修行して申すべし。
修行して申されずば、一所に住して申すべし。

ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
在家にて申されされずば、遁世して申すべし。

ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。

衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。

妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。

所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」(昭法全六四〇頁)

(訳)
この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
他の人に助けてもらいながら申しなさい。
他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
自分で生計を立てて申しなさい。

妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはい
けない。

領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。
>>>>

 この言葉は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものです。

>>>>
諸行の中に念仏を用ふるは、彼の仏の本願なる故なり。
『一紙小消息』

(訳)
様々な行がある中で、特に念仏を極楽浄土に往生するための行として用いるのは、
念仏が彼の阿弥陀仏が本願に誓われた行だからである。
>>>>

 阿弥陀仏に帰依し、極楽浄土に生まれることを求めたものは、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を申すしかありません。

 なぜならば、

>>>>
念仏の他の一切の行は、これ彌陀の本願にあらざるがゆえに、
たとひ目出(めで)たき行なりといへども、念仏には
及ばざるなり。

大方、その国に生まれんと思はんものは、
その仏の誓いに従うべきなり。
されば弥陀の浄土に生まれんと思はんものは、
彌陀の誓願に、従うべきなり。

『勅伝』巻二十五、
「太胡太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」(昭法全五〇七頁)

(訳)
お念仏以外の全ての行は、阿弥陀仏が本願で願われたものでないので、
どんなに素晴らしい修行であっても、念仏には及ばないのである。

大体の所、仏の国に生まれたいと思うものは、
その国の仏の誓っておられることに従うべきなのである。
だから、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思うの者は、
阿弥陀仏の誓願に従うべきなのである。
>>>>

 阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことは、阿弥陀仏御自身が私達に願われたことだからです。

 だから、私達がこの世で生きている間は、阿弥陀仏が私逹に願われた通りに、お念仏が申せるように生きていくべきであり、お念仏を申すことの妨げになることは、徹底して避けていくべきです。


 そしてその生き方は、阿弥陀仏に限らず、釈尊が教え六方諸仏が証明された教えに従うということでもあります。

>>>>
阿弥陀仏は不取正覚の言葉を成就して、現に彼の国にましませば、
定めて命終の時は来迎し給はん。

釈尊は善哉(よきかな)、
我が教えに従いて、生死を離れると知見し給ひ、

六方の諸佛は悦ばしき哉、
我が證誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給ふらんと。
『一紙小消息』

(訳)
阿弥陀仏は、
「この全ての誓願が実現しなければ私は仏にならない」とまで誓った誓願を実現して、
いま現に、かの極楽浄土に仏として在(ましま)しているので、
(誓願はすべて実現しているので阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すならば、)
この世で命を終えようとする時には、阿弥陀仏が必ず迎えに来てくださるであろう。

釈尊は、
「私の『阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申しさい』という教えにしたがって、
人々が生死を繰り返す輪廻を離れることは、なんと素晴らしいことであろうか!」
と阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人をご覧になっておられるであろう。

六方の諸仏は、
「私達が『阿弥陀仏の本願を信じて専らに阿弥陀仏の名号を称えるものが、
極楽浄土に往生するということは、全く間違いない真実である』
と証明したことを信じて、
一度往生したならば、決して迷いの世界に戻ることのない極楽浄土に、
人々が生まれることは、なんと喜ばしいことであろうか!」
と喜んでおられることであろう。
>>>>

 法然上人がお示しになられた、どこまでもお念仏が申せるように生きていく生き方は、私達凡夫の勝手な計らいでもって作り出された価値観ではなく、私達をとりまく全ての仏が示してくださった、絶対的な価値観に従う生き方です。

 高森先生は、この「念仏」を「高森先生の話を聴聞すること」に置き換えてお話になっておられるようですが、私逹を救ってくださるのは高森先生ではなく阿弥陀仏なのですから、「高森先生が願ったように生きる」のではなく、「阿弥陀仏が願ったように生きる」べきであると思います。

 いろいろ申し上げて来ましたが、結局はこれに尽きると思います。
スポンサーサイト

質疑応答119

【質問】

 はじめまして。この世に真実があるのか、知りたくて色々なサイトを訪問している者です。ぶしつけな質問で申し訳ないですが、仏教は、浄土真宗でなければならないのでしょうか?

【回答】

 私は、一般的に「仏教」と呼ばれているものの多くは、真実ではない、と思っています。

 お釈迦様が説かれた真実とは、言い換えれば、世の中の道理であって、道理に合わないものは、仏教と名がついていても、仏教とは言えません。

 特に、大乗経典は、お釈迦様が亡くなられて、何百年も後に成立したものが多く、経典の全てが、必ずしも仏意に適っている、とは言えないと思います。

 ですから、本当の仏教か、どうかは、道理に適っているか、どうかで判断すべきであります。これを仏教では「理証」といいます。逆に、道理に適った教えならば、「仏教」という看板を出していなくでも、それは仏教の教えである、と私は認識しています。

 私が求めているのも「真実」であって、「真実」であれば、仏教という名前がついていなくても構いません。貴方の考え方には、共感いたします。


 仏教は、浄土真宗でなければならないのでしょうか?という点ですが、どの宗派であっても、正しく仏意を伝えたものなら、真実だと思います。

 浄土真宗の看板は出していても、実態は仏教とは、言えない団体もあります。

 私は、浄土真宗の教え方が、現代の私たちの生活に、最も適した教えだと思います。

親鸞会教義の相対化・49

つづき


以上、本書に対する感想を述べさせて頂きました。

本書は、高森先生の著書のような親鸞会の教義面を語るものより
も、むしろ端的に親鸞会らしさが表れていたのではないかと思います。

法然上人は、

>>>
『往生大要抄』
・至誠心というは、真実の心なり。その真実というは、内外相応の
心なり。身にふるまい、口にいい、意におもはん事、みな人めをか
ざる事なく、まことを現すなり。
(p.305、以下は、全て浄土宗聖典巻4のページ数)
・外相の善悪をばかへりみず、世間の謗誉をわきまへず、内心に穢
土をもいとい浄土をも願い、悪をもとどめ、善をも修して、まめや
かに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申すなり。
(p.306)
・ただ外相の賢愚善悪をば選ばす、内心の邪正迷悟によるべきなり。
(pp.307-8)

『御消息』
・至誠心というは、真実心なり。その真実というは、身にふるま
ひ、口にいひ、心におもはん事、みなまことの心を具すべきなり。
すなわち内はむなしくして、外をかざる心のなきをいうなり。
(p.535)
・されば詮ずるところは、ただ内心にまことの心をおこして、外相
はよくもあれ、あしくもあれ、とてもかくてもあるべきにやと、お
ぼえ候なり。おほかた此世をいとはん事も、極楽を願はん事も、人
目ばかりを思はで、まことの心をおこすべきにて候なり。これを至
誠心と申し候なり。
(p.536)

『浄土宗略抄』
・至誠心ととかれたるは、すなはち真実の心を云うなり。真実とい
うは、身にふるまい口にいい心に思わん事も、内むなしくして外を
かざる心なきをいうなり。詮じてはまことに穢土をいとひ浄土をね
がいて、外相と内心と相応すべきなり。
(p.355)
>>>

●外面にとらわれるな・・内は虚しいのに、外を飾ってはいけない。
●内を真実にせよ・・内が真であるか否かが問題である。

という主張をされています。「信は荘厳より生ず」という言葉があ
ります。書物に向かえば読む心になり、筆を持てば書きたい心にな
るように、形から心が導びかれることが確かにあります。

だから「形を正す」ことは決して悪いことではありません。しかし
何のためにそれを行うのかということを常に確認していく必要があ
ります。

「形を正す」ことから導かれるべき心が誤ったものに設定されてい
るのであれば、非常に深刻な問題が発生します。

その問題が、現にこうして親鸞会に起こっていることは間違いない
と思います。


以上


親鸞会教義の相対化・48

つづき


<お勤めの礼儀>
☆仏間は、どんなに暑い時でも、人がいない時は、冷房は入れてあ
りません。
どんなに寒い時でも、暖房は入れてありません。
そんなところに、最上級のお客様が座って見えるのです。
なのに私達がお勤めをする時、暑いからといって冷房を入れたり
寒いからといって暖房を入れたりすることは、もっての他。
非礼極まりなきもの。無上仏を尊ぶ気持ちがないからです。
昔の妙好人は、体を清めてからお勤めをしたと聞いています。
割り木の上でお勤めをしたとも聞いています。
汗くさい体でお勤めしては、申し訳なく非礼にあたるという心。
割り木の上でお勤めするのも同じ心です。

☆聴聞の時は、熱さ、寒さのために、真剣に聞けないことがあって
はならないので、それはまた別です。
風邪を引いて咳が止まれないという時は、許可を得てそっとつけさ
せて頂く。
★ ★ ★ ★ ★

信前の念仏がほとんど(全く?)勧められていない親鸞会では、
「お勤め」の時以外に念仏を申す機会がないのではないかと思います。

しかし、五種正行における「正定の業」と「助業」の関係を見れ
ば、「お勤め」で最も大切なのは「念仏」であることは言うまでも
ありません。

その「お勤め」で最も大切な念仏に関して、法然上人は以下のよう
に述べておられます。

>>>
念仏の行は、もとより行住座臥、時所諸縁を嫌わず、身口の不浄を
嫌わぬ行にて、易行往生と申し候ふなり。
『勅伝』巻二十五、「鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事」(昭
法全五三〇頁)

(訳)
念仏の行は、もともと、歩いていても止まっていても、座っていて
も横になっていても、時と場所、様々な条件を問題にすることがな
く、身体や口が汚れていることを問題にしない行であるから、やさ
しい行で往生できる(易行往生)と言うのである。
>>>

また、法然上人が、当時の方の様々な質問に答えた記録とされる
『百四十五箇条問答』には、以下のような問答が残されています。

>>>
※訳のみ掲載
Q.にら・ねぎ・にんにく・肉などを食べた後、口から臭いが
消えないうちでも、常にお念仏を称えるべきでしょうか?
A.お念仏を称えることには、いかなるさしさわりもありません。

Q.床に就く時も起きた時も、口をすすがずにお念仏を申すの
はいかがでしょうか?
A.差し支えありません。


Q.臨終の場に不浄な人がいると、仏が迎えに来られても引き
返すと言われていますが、それは本当なのでしょうか??
A.仏が迎えに来てくださっているのであるから、不浄な人が
いても引き返すことはありません。
仏はきれいとかきたいということなど問題にされないのです。
ところが、私達の目にはきたないものもきれいに、きれいなものも
きたなく映ってしまうのです。
ただお念仏を称えることこそがよいことなのです。
たとえきれいにしていても、お念仏を称えなければ、仏の迎えを頂
くという利益がありません。
すべてをなげうって念仏申しなさい。このことの実例は沢山あります。
>>>

キレイとか汚いとか、浄らかとか穢れているというのは、我々人間
が勝手に作り上げた基準であり、それに対して阿弥陀様の本願は、
そのような人間の価値観を遥かに超えたものであり、お念仏は、身
体や口が穢れていることを問題にしていないことが明かにされています。

また法然上人は、

>>>
「不浄にて 申す念仏の とがあらば 召し籠めよかし 弥陀の浄土へ」

(訳)
 トイレでお念仏を申すことに、何か罪があるというならば、
 どうぞ私を召し取って、阿弥陀様の極楽浄土浄土へ閉じ込めてください
(『法然聖人絵』弘願本巻二 )
>>>

という和歌も詠んでおられます。

このように、お念仏は時と場所、様々な条件を問題にすることがあ
りませんし、身体や口が汚れていることも問題にしません。
だからこそ、どのような人でも行うことができる行であり、それ故
に、念仏は「易行往生」「やさしい行で往生できる」と言うことが
できます。

阿弥陀仏との仏縁を深め、信心を頂くための人格を形成していく信
前の念仏の重要性に関しては、繰り返し述べてきました。

※親鸞会教義の相対化・29他
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-96.html

「お勤め」の形式を云々する前に、どのような所でもお念仏を申
し、阿弥陀仏とのご縁を深めることができることの有り難さを実感
すべきであり、そのことは顕真学院であっても例外ではありません。


つづく

親鸞会教義の相対化・47

つづき


<『除名処分』の対象となる言葉遣い>

×善に向かいます
×善に向かって進みます
×善に励みます
×善に向かって励みます

これは「親鸞聖人のみ教え」に反する言葉遣いです。
親鸞学徒は絶対に使わないよう気を張りましょう。

<正しくない言葉遣い>

×光に向かいます
×光に向かって進みます
×光に向かって進みたいと思います
×光に向かいたいと思います
×光に向かって頑張ります
×光に向かって頑張りたいと思います。

親鸞学徒は【光に向かって進ませて頂きます】でなければならない。
★ ★ ★ ★ ★

>>>
本願の念仏には、一人立ちをせさせて、助をささぬなり。
助というは、智恵をも助にさし、持戒をも助にさし、道心をも助に
さし、慈悲をも助にさすなり。
善人は、善人ながら念仏し、悪人は、悪人ながら念仏して、
ただ生まれつきのままにて、念仏する人を、念仏に助ささぬと云うなり。

(訳)
阿弥陀仏の本願の行であるお念仏は、それだけで価値のあるものであり、
他の「助け」を必要としないものである。
「助け」というのは、智恵を念仏の助けにするとか、持戒を念仏の
助けにするとか、
覚りを求めることを念仏の助けにするとか、慈悲の心を念仏の助け
にすることなどをいう。
『勅伝』巻二十一、「つねに仰せられける御詞」(昭法全四九三頁)

善人は善人のままでお念仏申し、悪人は悪人のままでお念仏申して、
ただ生まれつきのままでお念仏申す人を、念仏に「助け」を必要と
しないというのである。
>>>

法然上人の言葉です。

念仏は、阿弥陀仏自身が願われた「本願」の行であり、 私達
が選んだのではなく、阿弥陀仏自身が選ばれた「選択」の行で
す。 だから阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すならば、間違い
なく極楽浄土に往生することができます。

したがって、念仏はそれだけで間違いなく極楽浄土に往生すること
ができる行なので、それだけで十分な行であり、何か他の行を行っ
て、お念仏を助ける必要はありません。

だから、善人でなければお念仏申せないわけではなく、悪人でなけ
ればお念仏申せないわけでもありません。
善人にならなければお念仏申してはいけないということもなく、悪
人になれなければお念仏申してはいけないということでもありません。

善人は善人のままでお念仏申し、悪人は悪人のままでお念仏申す。
それがそのまま、阿弥陀仏の「本願」の行となり、阿弥陀仏が「選
択」した行となり、極楽浄土に往生することが間違いない、「正定
の業」となります。それが「助け」を必要としてない、お念仏の行です。

しかし、法然上人はその言葉に続いて、

>>>
さりながら、悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に
叶うべし。

(訳)
そうは言っても、悪を改めて善人になってお念仏申す人は、仏の御
心に適うのである。
>>>

と仰っておられます。

 すべての悪をなさないこと、善きことを具えること、
 自らの心を清めること、これが仏陀たちの教えである。
(諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教)
(『ダンマパダ』183、『法句経』大正蔵経 vol.4, p.
567b)

とあるように、仏様が悪いことを勧めることはありません。「罪を
犯せ」と勧めるような仏様はどこにもおりません。

私達が悪を改め善人になってお念仏申したならば、仏様がお喜びに
なるに決まっており、できるだけ善人になろうと努力することが、
私達が仏様の御心に適うことです。

本願寺に不当な枠組みを当てはめて「善の勧めを否定した」と紅楳
先生を批判をされた高森先生であれば、このことは良くご存じであ
ると思います。

「悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし」
と仰っておられるのは、親鸞聖人の師匠である法然上人の言葉です。

「善に励みます」という言葉を使うと除名(=破門)されるような
団体の方が、はるかに「親鸞聖人のみ教えに反する」と思います。

つづく

親鸞会教義の相対化・46

つづき


<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
 ※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。
★ ★ ★ ★ ★

>>>
問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇
猛ならず。
また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら、疎かにして明かし
暮らしそうらえば、かかる身なれば、いかにもこの三心具したりと
申すべきもなく。
されば、この度(たび)の往生をば思い絶えそうろうべ
きにや。

答えていわく、浄土を欣(ねが)えどもはげしからず、
念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきに
はあらず。
こころざしのなき者はゆるなるを嘆かず、はげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めば、おのずから発心すと申す事もあれば、漸漸(ぜんぜん)
に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する
事あり。
いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん
人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べ
きなり。
『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.p.444.
>>>

これは以前紹介したことがある法然上人の言葉です。

願生心や信心が弱いことを嘆くのは、信心を強く持たなければとい
う思いがあるからこそであって、その思いがなければ、嘆くことさ
えないのであるから、急がないときは、足の遅いことを全く気にな
らないようなものである。
だからこそ、信心が弱いと嘆いているのは、そこに信心を持とうと
いう気持ち、つまり信心の芽生えがあるからである。

法然上人はそう仰って、「念仏すれども心のゆるなる(弱
い)」自分自身を嘆いている方に、自分自身の信心の弱さを嘆
き、自分が往生できるかどうかを不安に思い、精一杯お念仏に励
み、信心決定のために精一杯努力するならば、必ず往生することは
できるので、往生を諦める必要がないと仰っています。

一方、「後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章」を禁止され、
自らの信心の弱さを嘆くを許されない人物が、阿弥陀仏の本願をた
のむことができるのでしょうか?私はそうは思えません。

私が下手な解説をするかわりに、浄土宗のお寺の生まれであり非常
に優れた仏教学者である、増谷文雄先生の『業と宿業』(講談
社現代新書)の結論部分を紹介したいと思います。

増谷先生は、

>>>
いくら湯や茶を注ごうとしても、椀を覆(ふ)せて受け
ると注ぐべき道はない。湯や茶を充分に注ぎ入れようと欲せば、椀
を仰向けに受けねばならぬ。

たとい、いくど説法座下に列なるとも、心の椀をうつぶせたままな
らば、法水の入り充ちたまうときはない。
心の椀をうつぶせるとは、邪見・驕慢の心これである。心の椀を仰
向けるとは、わが身はわろき徒(いたず)らものとおも
いて、法の御手許を仰信するのじゃ。
>>>

という、明治時代の浄土真宗の説法者である七里恒順上人の言葉を
引用され、以下のように結論づけておられます。

>>>
 かの他力なるものは、まさに凡夫のはからいの外にある。
 それは仏智不思議、他力不思議として受けるのほかはない。
 だが、その他力がその不思議な力を発揮するためには、
 やはり、主体のがわにその姿勢がなくてはならない。
 心の椀を仰向けるのでなくては、法水を注ぎ入れることはできない。
 そして、ただ信心を要とすとは、その姿勢のなることにほかならない。

 たが、茶碗を仰向けることはいと易いことだが、
 心の椀を仰向けることはけっして容易ではない。
 そのためには、主体のがわに痛々しいほどの省察がなくてはならない。
 他人の愚かさに気づくことは容易であるが、
 自己の愚かさに気づくことは難しい。
 他人の罪ふかきことをいうはたやすくとも、
 自分こそ罪ふかい凡夫だと思い知ることは容易ではない。
 自己にはいつも甘いのが人間の弱さである。

 その弱さをおし切ってほんとうに心の椀を仰向けるためには、
 そこに峻厳な良心が物いい、仮借ない自己反省が果たされねばな
らない。
 「はづべし、はづべし、かなしむべし、かなしむべし」
 と語った法然の洪歎が、おそるべき真実さをもって迫ってくるの
はその時であり、
 「とても地獄は一定すみかぞかし」
 といい切った親鸞の言葉のおそろしさが、
 しみじみと味わえてくるのはその時である。
 すこしばかりの知識を重たげに担って、迷いさまよう自己のおろ
かさが、
 心の底から憤られてくるのもその時である。

 そして、その瞬間、かの他力は、あたかも真空を充填する空気の
ように、
 横ざまにいたってその不思議な力を行使するのである。
 親鸞がいうところの「横超」ということばは、
 そのようなきらめかしい内容を秘めているものと理解される。

 その時、その主体のうえにはどのような変化がもたらされるのか。
 それもすでに言ったように、彼のこの世における生活は、
 かならずしも、がらりと一変するわけではない。
 彼にはいぜんとして、思いのままならぬこの地上の生活が続くで
あろう。
 それにもかかわらず、彼のこの世に生きる生き方は、
 けっして以前のままではない。
 彼のこの世界をみる目はがらりと新しくなり、
 彼のこの世にいきる生活の意味もまたまったく新しいものとなる。
 けだし、これまでは地獄ゆきにきまっていた彼が、いまや一転して、
 いわゆる正定聚の位におかれ、
 やがて彼土にいたって仏の境地にいたる者となるからである。

 古きはすでに過ぎ去って、
「視よ、新しくなりたり」といいうる者となるからである。
 かくして新しく生まれ変わった彼は、
 もはや、いまわしい「業報を感ずること」もない者となる。
「宿業の切断」は、かくしてそこに実現されるのである。
>>>


つづく

投稿

投稿


 高森先生、僕は学生から求め、今某支部に所属する現役会員です。
 いま親鸞会は危機的状況にあるようです。

 このままでは会員、職員、講師皆が先生の元を離れていきますよ。
 現状がこの先続くようでしたら、残念ですが僕も親鸞会を辞めようと思います。 回りにもすでにやめた人、迷っている人が大勢います。

 昨日のアニメでも、参加者が少なくなっている事、壇上からご覧になってわかっていらっしゃるでしょう。
 もう手遅れかもしれませんが、以下の事を提案します。


1 先生が会員の心からの要望に耳を傾けて下さい。(以前のように手紙を読んでください。面会を希望する会員には会ってください。手を上げる座談会をして下さい。) 

2 講師に最低限の生活を保障する慰労金を与えて下さい。
 (その代わり講師並びにその家族は行事日等会館宿泊を義務付けたり、無駄を徹底的に省くこと)

3 せっかく皆の財施で建てたので、もったいないので、1円でも出された方には教学講義無条件で参加できるようにして下さい。

4 領収書は千円以下も1円単位で出すこと その際、福とか、坪とか親鸞会でしか通用しない単位でなく円で表示して下さい。

5 会計報告を希望する会員すべてにして下さい。

6 御著書の引用を認めて,出典を明らかにして下さい。

7 会員、講師皆が自由にものが言える、うそをつく必要のない会にして下さい。

8 真生会の経営から素人の娘さんをはずして、プロに任せてもっと効率のよいものにして下さい。

9 大学での勧誘は学生に聞かれたら浄土真宗親鸞会の教えを聞いているものの集まりと告げてください。

10 学生からは多額の御法礼や御報謝を受け付けないで下さい。

11 今後は身内であっても、違反があればもみ消さず、厳しく処分して下さい。


 最低限挙げましたが、出来ることからどうかしていって下さい。
 もう皆の我慢も限界に来ています。

親鸞会教義の相対化・45

つづき


<お仏前の礼儀>
☆ステージの上では、絶対に作業をしたり、物を置いたりしないこと。
掃除も制服着用でする。
作業服、体操服でステージに上がるのは、非常識。
静かに歩き、常に気を張ること。

<仏間の礼儀>
☆仏間は、無上仏をご安置していあるお部屋です。
☆そこには、最上級のお客様が、座っておられると心得なければな
らない。
その前を通る時は、どうしたらいいか判る筈。
★ ★ ★ ★ ★

阿弥陀仏を大切の思うことは良いことだと思います。ただし阿弥陀
仏は「お客様」のようなよそよそしい存在ではありません。

>>>
善導の、三縁の中の親縁を釈し給に、
衆生佛を礼ずれば、佛これを見たまふ。
衆生ほとけをとなふれば、佛これをきゝ給ふ。
衆生佛を念ずれば、佛も衆生を念じたまふ。

かるがゆへに阿彌陀佛の三業と、行者の三業と、かれこれひとつに
なりて、
佛も衆生も、おや子のごとくなるゆへに、親縁となづくと候ぬれば、
御手にずゝをもたせたまひて候はば、佛これを御らん候べし。
御心ち念佛申すぞかしと思食候はゞ、佛も行者を念じ給べし。
されば佛に見えまいらせ、念ぜられまいらする、
御身にてわたらせたまひ候はんずるなり。
(「往生浄土用心」昭法全p.559、勅伝23)
>>>

私達のことを常に見守ってくださっている存在であり、「おや子の
ごとく」「親縁」関係を結ばせて頂いているのが阿弥陀仏です。し
たがって、制服着用でなければ近づくことも許されず、「最上級の
お客様」としてただただ畏敬する存在ではありません。

テストで百点をとったら仏壇の前にお供えして報告し、悪いことを
してしまったら仏壇の前で「ごめんなさい」を言うような、日々の
生活で嬉しいことがあれば一緒に喜んでいただき、辛いことがあれ
ば一緒に悲しんでくださる存在が阿弥陀仏であり、そのような関係
が阿弥陀仏との「おや子のごとく」「親縁」関係です。

>>>
弥陀の本願を決定成就して、極楽世界を荘厳したてて、
御目を見まわして、わが名をとなうる人やあるとご覧じ、
御耳をかたぶけて、わが名を称する者やると、夜昼きこしめさるるなり。
されば一称も一念も阿弥陀仏に知られまいらせずという事なし。
されば摂取の光明はわが身をすて給う事なく、臨終の来迎はむなし
き事なきなり。
(「示或人詞」昭法全p.588)
>>>

まして、極楽世界から夜も昼もなく二十四時間、常に私達を見守っ
ていてくださる阿弥陀仏を、たまにしか来ない「お客様」のように
扱うのは、とんでもない誤りです。


つづく

親鸞会教義の相対化・44

清森義行様


『生活要領』<浄土真宗親鸞会顕真学院>(平成14年7月改訂版)を読み終えましたので、感想を送らせていただきます。

 今回も分量があるので、何回かに分けて送らせて頂きます。

※顕真学院について

顕真学院(浄土真宗親鸞会被害家族の会)
http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/school1.html
本当に顕真学院でいいんですか?(さよなら親鸞会)
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/02/post_06ac.html



<無上仏への礼拝>
○無上仏への礼拝と人への挨拶とのけじめをきちんとつけること。
○角度を見ただけで、無上仏か、人か分かるようにしなければならない。
○無上仏(絵像、木像も同じ)→深く、長く。
○人→浅く、短く。
○心の中で、無上仏と人との区別をハッキリ立てておくこと。
○けじめが大切。

無上仏・・70度ぐらい?
  人・・30度ぐらい?
★★★★★

>>>
初めに往生の行相を明すとは、善導和尚の意に依るに往生の行多しといえども、大に分ちて二と為す。一には正行、二には雑行なり。
初めに正行とは、これに付いて開合の二義有り。初めには開して五種とし、後には合して二種とす。初めの開して五種とすとは、一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
(中略)
第三に礼拝正行とは、専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」と言えるこれなり。
『選択集』二章
>>>

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏に対する礼拝は五種正行の中の一つの「礼拝正行」であり、人に対する礼拝は「礼拝正行」ではありませんから、阿弥陀仏に対する礼拝と、人に対する礼拝を「区別」するのは当然のことです。

 しかしそれ以上に、

>>>
次に合して二種とすとは、一には正業、二には助業なり。初めに正業とは、上の五種の中の第四の称名を以て正定の業とす。(中略)
次に助業とは、第四の口称を除いて外、読誦等の四種を以て助業とす。すなわち文に、「もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて助業とす」と云えるこれなり。
『選択集』二章
>>>

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏に対する礼拝が「助業」であり、あくまでも「称名念仏」に対する「助業」として重要であるということの区別を「ハッキリ立てておく」ことが大切です。

「称名念仏」は、阿弥陀仏の本願の行であり、「正定の業」ですから何かでもって「助」する必要はありません。

 しかし、法然上人が所謂「五番相対」で以下のようにまとめておられるように、

1)親疎対・・正行の者は阿弥陀仏に親しいが雑行の者は疎い
2)近遠対・・正行の者は阿弥陀仏に近いが雑行の者は遠い
3)有間・無間対・・正行の者は阿弥陀仏を常に憶念するが雑行の者はそうでない
4)廻向・不廻向対・・正行は廻向せずとも往生業となるが雑行はそうでない
5)純雑対・・正行は純粋に極楽往生のための行であるが雑行はそうでない

 阿弥陀仏に向かって礼拝することによって、阿弥陀仏に対して親しむことができ、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す環境作りになりますから、礼拝は「助業」として「正行」の一つに位置づけられるのです。

 言い換えるならば、念仏申すことの「助業」となってはじめて阿弥陀仏に対する礼拝が「礼拝正行」となるのであり、「正定の業」である念仏抜きの「無上仏への礼拝」は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土門の教えではありえません。

 角度云々のような「人から見て」ということを言うのも結構です。
 しかしその前に、阿弥陀仏に礼拝することを縁にして、阿弥陀仏に対してどれだけ親しみ、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことの環境作りである「助業」とすること。

 むしろそのことの方が、顕真学院で未来の親鸞会講師となる方に教えるべきことなのではないかと思います。



<御文章の拝読>

 御文章は、一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめること大切。
★★★★★

 これも上記に関係すると思います。『御文章』は阿弥陀仏の本願が説かれた浄土三部経を解釈した書物ですから、それを読むことは「読誦正行」に当たると思います。

「後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめる」ことより、遥かに「大切」なことがあることは言うまでもありません。

つづく

質疑応答118

【質問】
 
 
 どんな善いことでも師の許可を得なければ悪になるという教えは正しいのでしょうか。
 
 
 
【回答】
 
 
 親鸞会では、世自在王仏と法蔵菩薩のやり取りを通して、どんな善いことでも師の許可を得なければ悪になる。師に無条件服従しなければならないと教えられます。
 
 では、実際に大無量寿経には、どのように書かれているでしょうか。
「会報2集」に、現代語訳が載っていますので、読ませて頂きたいと思います。
 
 
 
●この法蔵比丘が世自在王仏のみもとに至り仏のみ足を頂き三度右にめぐって地にひざまずき、うやうやしく合掌礼拝して師佛の徳を褒められてから世自在王仏に対して
「師の佛よ、私は尊い無上菩提を求める心を起しました。
 どうぞ、わたくしの為に広く教えをお説き下さいませ。
 私は、それによって修行して最もすぐれた浄土を荘厳し、この世で、はやく正覚となって迷いの衆生の悩みのもとを除きたいと念願しています。」と申されると世自在王仏は法蔵比丘に対して
「おん身が、どのような修行をして浄土を荘厳するかということは御自らで知るべきであろう」といわれた。
 すると法蔵比丘は「いいえ、そのいわれは広く深く、とても私如きものの知られるところではありません。
 師の佛よ、どうか私の為に、ひろく諸仏浄土の成り立ちをお説きくださいませ。
 私はそれを承った上でお説の通りに修行して自分の願いを満たしたいと思います」と申し上げた。
(会報2集)
 
 
 
 法蔵菩薩は、自分で無上菩提を求める(=衆生を救う)ということを決めてから、どんな修行をすればよいかという方法を、師に尋ねています。
 
 許可を得てから善いことをせよとは、どこにも書かれていません。
 
 さらに、師から「御自らで知るべきであろう」と指示されたにも関らず、無条件服従せずに、親鸞会で言えば「反発」しています。
 
 法蔵菩薩でさえ、無条件服従していませんので、仏教は「無条件服従」という教えではないことが分かります。
 
 

投稿

清森義行様


投稿です。よろしくお願いします。



●「こんなことが知りたい・4」に以下のような文章がありました。


28 天理教とはどんなものか


 私の近所に天理教の信者があって、よく誘われますが天理教とはどんな宗教なのでしょうか。お尋ね致します。(その三)


 さて次に、この因縁を断ち切る方法はとなる。それには、おつくし(献金)をするより外に助かる道がないと言って、金や物や、労働力の提供を強要するのです。
 金がある間は金、金、金、金がなくなれば物を出せといいます。
 そして遂には家屋敷、田畑の不動産までしぼりあげるのです。
 ところが、これだけしぼってもなおあきたらず、
「金も物もなければ身体でつくせ」
といって、有名な
「ひのきしん」
の名で老婆までも労働に引っぱり出すという残酷さです。
 だから信者は、陽気ぐらしどころか段々と深刻な暗黒ぐらしになり、貧乏のドン底におちてゆく人が多いのは、世間周知の事実です。
 昔から
「悪しきを払って、助けたまえ天理王ノ命」
という彼らの祈りの言葉をもじって、
「屋敷を払うて田うりたまえ、天秤棒のみこと」
と世間からひやかされているのは、大衆はこの邪教の正体をみぬいているからです。
 それでも悩みや苦しみが解決しないと
「心づかいが悪い」
と、信者の心に責任を負わせるのです。
 即ち、八つの心のチリを払わねば幸福にならぬといい出す。
八つの心のホコリとは、
「ほしい」
「おしい」
「かわいい」
「にくい」
「うらみ」
「腹立ち」
「こうまん」
「よく」
をいいます。
 これはつまりは、仏教の貪欲、瞋恚、キョウ慢の煩悩の教えを盗んだものですが、このような煩悩が断ち切られる筈が毛頭ないから、やがてニッチもサッチもいかぬ泥沼に突きおとされた信者は、最後に
「たんのうの理」
ということを教えられる。
 これは、
「どんなに苦しくとも親神さまの御心だから、文句を言わずにガマンしろ」
というのですから、まさにアリ地獄ではありませんか。
 このような邪教共通のやり方には、我々は深い憤りを感ぜずにはおれません。
 よく世間には、宗教は何でも同じだ位に考えている人が多いのですが、とんでもないことです。
 全く宗教に対する無知ほどおそろしいものはありません。
 ところが彼ら幹部は、これらの悲惨な現状をごまかす為に、社会的には種々な手段を講じています。
 それがあの有名な
「おやさとやかた」
なんかという、豪壮な建築物をやたらにつくって、
「さすがは天理教だ、たいしたものだ」
と、人々の目を奪ったり、大学を造って水泳や野球、柔道の選手を養成して、
「悪い宗教ではないわい」
と、思わせようとしてヤッキになっていますが、やり口は極めて悪質といわねばなりません。
 いずれをみても邪教たることは明らかですから、釈尊が経典に
「一たびも神を拝んだものは五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す」
と、説かれ、わが親鸞聖人また
「九十五種(邪教)世をけがす」
と教えられ、蓮如上人は
「これあさましき外道(邪教)の法なり、これを信ずるもの永く無間地獄に堕在すべし」
と、徹底的に破邪なさったように、これら邪教に迷える気の毒な人々に、一日も早く真実の仏法を伝えねばならぬ重大な使命をもつものが、われら親鸞会会員なのです。
 大いに破邪顕正、如来聖人のみあとを進ませて頂きましょう。




●親鸞会に当てはめれば、こうなると思います。


 私の近所に親鸞会の信者があって、よく誘われますが親鸞会とはどんな宗教なのでしょうか。お尋ね致します。(その三)



 さて次に、この一大事を断ち切る方法はとなる。それには、御報謝(献金)をするより外に助かる道がないと言って、金や物や、労働力の提供を強要するのです。
 金がある間は金、金、金、金がなくなれば友人を誘えといいます。
 そして遂には家屋敷、田畑の不動産までしぼりあげるのです。
 ところが、これだけしぼってもなおあきたらず、
「金も物もなければ身体でつくせ」
といって、有名な
「ひかりせん」
の名で老婆までも労働に引っぱり出すという残酷さです。
 だから信者は、絶対の幸福どころか段々と深刻な暗黒ぐらしになり、貧乏のドン底におちてゆく人が多いのは、世間周知の事実です。
 昔から
「われら親鸞学徒は、信心獲得を本と致します」
という彼らの祈りの言葉をもじって、
「われら親鸞学徒は、信者獲得を本と致します」
と世間からひやかされているのは、大衆はこの邪教の正体をみぬいているからです。
 それでも悩みや苦しみが解決しないと
「求道姿勢が悪い」
と、信者の心に責任を負わせるのです。
 即ち、八つの雑縁を離さねば求道にならぬといい出す。
 八つの雑縁とは、
「家族」
「友人」
「恋人」
「趣味」
「コンパ」
「他サークル」
「うわさ」
「インターネット」
をいいます。
 これはつまりは、大学生活に欠かせない楽しみを言いますが、このような煩悩が断ち切られる筈が毛頭ないから、やがてニッチもサッチもいかぬ泥沼に突きおとされた信者は、最後に
「無条件服従」
ということを教えられる。
 これは、
「どんなに苦しくとも高森先生の御心だから、文句を言わずにガマンしろ」
というのですから、まさにアリ地獄ではありませんか。
 このような邪教共通のやり方には、我々は深い憤りを感ぜずにはおれません。
 よく世間には、宗教は何でも同じだ位に考えている人が多いのですが、とんでもないことです。
 全く宗教に対する無知ほどおそろしいものはありません。
 ところが彼ら幹部は、これらの悲惨な現状をごまかす為に、社会的には種々な手段を講じています。
 それがあの有名な
「聞法ドメイン」
なんかという、豪壮な建築物をやたらにつくって、
「さすがは親鸞会だ、たいしたものだ」
と、人々の目を奪ったり、一流大学で勧誘し医師や弁護士、会計士などを養成して、
「悪い宗教ではないわい」
と、思わせようとしてヤッキになっていますが、やり口は極めて悪質といわねばなりません。
 いずれをみても邪教たることは明らかですから、釈尊が経典に
「一たびも神を拝んだものは五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す」
と、説かれ、わが親鸞聖人また
「九十五種(邪教)世をけがす」
と教えられ、蓮如上人は
「これあさましき外道(邪教)の法なり、これを信ずるもの永く無間地獄に堕在すべし」
と、徹底的に破邪なさったように、これら邪教に迷える気の毒な人々に、一日も早く世間の常識を伝えねばならぬ重大な使命をもつものが、われら一般人なのです。
 大いに破邪顕正、如来聖人のみあとを進ませて頂きましょう。


※親鸞会の方が読まれたら腹を立てられるかも知れませんが、天理教の方が読んだら同じように感じられるでしょう。


質疑応答117

【質問】


「こんなことが知りたい1」に、「死後の世界は実在します。このことは仏教が三千年前から説き続けてきたことですが、今日幽霊が撮影されるようになって、その実在性が科学によっても証明されました。」と書かれています。
仏教では、死後は幽霊になると説かれているのでしょうか?
幽霊になるということは、必堕無間ではないと理解して宜しいでしょうか?



【回答】


 仏教では幽霊という言葉は使いませんのが、死んで消えるのは前五識と意識だけで、末那識と阿頼耶識は残ると説かれています。

 それを幽霊と呼ぶのであれば、幽霊は存在すると思いますが、撮影できるようなものなのかは私には分かりません。

「こんなことが知りたい」の中には、幽霊の研究をした多数の科学者が紹介されていますが、その研究について分かりやすくまとめてあるサイトがありました。


弁護士の論じる死後の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~QR7S-TMYM/ITC/Lawyer.htm


 高森先生は、これらの研究を踏まえられて紹介されたのだと思いますが、この内容が事実だとすれば、死後に地獄に堕ちるということは無いようです。

 仏教でも、死後は流転輪廻すると教えられていますし、中有界という世界も説かれていますので、決して矛盾するものではないと思いますが、少々信じ難い内容もありますので、何とも言えません。

質疑応答116

【質問】


 親鸞会では、「方便」ということで、嘘をつくことも許容されてきたように思いますが、仏教的に「嘘も方便」という言葉は通用するのでしょうか。



【回答】


 仏教で、方便とはどういう意味か、正しく知らねばならないと思います。

●正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を
憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。(浄土論註)


 正直でなければ方便にならないと書かれていますが、嘘をついて良いとはどこにも教えられていません。



●知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。(釈尊)


 このように仏教では、嘘を厳しく戒めています。
 嘘を平気で言える人は、求道が全く進んでいない人です。仏教で、そのようなことを勧めるということはありえません。

「嘘も方便」というのは、世間で言われる言葉ですが、これを仏教に持ち込んではならないと思います。

親鸞会教義の相対化・43

【下巻p.266~】法然上人の遺跡


 最後になりましたが、本書の「あとがき」に以下のように書かれています。

>>>
ご臨終の法然上人に、弟子が尋ねている。
「先徳には遺跡があります。上人には一つの寺もありません。どこを旧跡といたしましょうか」
「私の一生は、念仏の教えを伝えるためにあった。真実の仏法が説かれる所は、野でも山でも、みな私の遺跡である。日本中に、遺跡は充滿するだろう」
と法然上人は答えられている。
>>>

 実際に法然上人の言葉を見てみると、以下のようになっています。

>>>
法蓮房申さく、古来の先徳、皆その遺跡有り。然るに、今精舎一宇も、建立無し。御入滅の後、いずくも、もてか、御遺跡とすべきやと。

上人答え給はく、後を、一廟にしむれば、遺法普ねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。
故如何となれば、念仏の興業は、愚老一期の勧化成り。されば念仏を、修せん所は、貴賤を論ぜず、海人魚人が、とまや(わらぶきの家)までも、皆これ、予が遺跡なるべしとぞ、おおせられける。
『勅伝』巻三十七、「御遺跡の事につき法蓮房に示されける御詞」
(昭法全七二二頁)
>>>

 この法語は、法然上人亡き後、どこを遺跡と定めたらよいかと尋ねられた法蓮房信空上人に授けられたもので、お念仏を申す人のいる所は全てが遺跡であると、法然上人はお答えになっておられます。
 法然上人を御遺徳を偲ばせていただく、「思い出の場所」「遺跡」は、高森先生の教えを聞くことのできる親鸞会の正本堂ではなく、日本各地に点在する親鸞会の支部でもなく、社会問題となっているダミーサークルのある場所でもありません。 法然上人の教えのままに阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人がいる場所こそが、法然上人の「遺跡」です。

 富山に行き高森先生の教えを聞かなければ救われない教えであれば、三世十方の衆生を救うことはできません。
 法然上人の言葉を捏造した形で引用し、自分逹のドグマに権威付けをしようとする親鸞会のやり方は、できる限り法然上人の言葉を忠実に解釈しようと努力している私には許し難いものです。
 このような親鸞会のやり方に一番胸を痛めておられるのは、法然上人を誰よりも尊敬された親鸞聖人であることを肝に銘じるべきでしょう。

 本書はとても良くできた本であるとは思いますが、本書の所々に点在する親鸞会限定のドグマを排除して読まなければ、法然上人や親鸞聖人の教えから遠ざかってしまうことになると思います。


以上

親鸞会教義の相対化・42

清森義行様

つづきです。

【下巻p.149~】他力

>>>
「他力」というと、「他人のふんどしで相撲をとる」ことのように考え、力のない人間が力のある人間に助けを求める依存心だと思っている人が多い。新聞なども堂々と「他力本願ではいけない。自力更生でなければならぬ」と書きたてている。
では、他力とは一体どんな意味なのか。親鸞聖人が『教行信証』に明示されているように、阿弥陀仏の本願力のみを他力というのである。他力の語源は仏教なのだから、仏教の意味にしたがわなければならない。他力の他は阿弥陀仏のことに限るのである。
>>>

ここまでの解説は素晴らしいと思います。全くその通りです。

>>>
では阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。親鸞聖人は『和讚』に、「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を滿てたまう」力であると鮮明に教えられている。
阿弥陀仏の本願力とは、我我の暗い心(苦悩のたえない心)を打ち破って日本晴れの大安心にするお力であり、衆生の一切の志願を滿たして大満足心で生きぬけるようにしてくださるお力である。
>>>

ただし、この部分には賛成できません。

無礙光如来の名号とかの光明智相とは
無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ
『高祖和讚』曇鸞讚

とあるように、「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ」
働きがあるのは、「無礙光如来の名号」と「かの光明智相」です。

『高祖和讚』から引用するのであれば、むしろ、

本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし
『高祖和讚』天親讚

天親論主は一心に無礙光に帰命す
本願力に乘ずれば報土にいたるとのべたまう
『高祖和讚』天親讚

煩惱具足と信知して本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて法性常楽証せしむ
『高祖和讚』善導讚

などを引用すべきだと思います。「本願力」と書かれているのですから当然ですね。


その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。
(『無量寿経』巻下東方偈)

と釈尊が述べ、

我が力にて生死を離れ亊励み難くして、偏に他力の弥陀の本願を憑(たの)むなり。
『要義問答』(昭法全六一九頁)

(訳)
自分の力で輪廻を離れようとすることが難しいから、ひとえに他力である阿弥陀仏の本願を頼りにするのである。

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏の本願を信じるものを極楽浄土に往生させ、輪廻を離れさせるのが、「他力」(=阿弥陀仏の本願力)の「仏教の意味」です。

>>>
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われる方と場外乱闘をしていたCさんが仰った言葉ですが、非常に的を得ていると思います。
 本書の「他力」の解釈は、チューリップ企画の山田さんと同じ誤りを犯しています。



つづく

親鸞会教義の相対化・41

清森義行様


続きです。


【上巻p.107~】建永の法難

 住蓮・安楽がきっかけとして起こった所謂「建永の法難」に関して、本書では以下のように述べられています。

>>>
喜んだのは比叡山や興福寺である。この事件を口実に、ますます吉水門下への弾圧を強化してきた。怒り狂った上皇は、これら旧仏教と結託し「念仏停止」を命じたのである。
吉水の僧庵は、役人の土足で踏みにじられた。一切の布教活動が禁じられてのである。たった一声、「南無」とつぶやいただけで、牢獄にぶちこまれたり、鞭打ちの刑にあう民衆が続出したという。
>>>

 ここで、この「建永の法難」や後におこる「嘉禄の法難」は、

★「專修念仏の弾圧」であって「念仏への弾圧」ではない。

ということを、押さえておかなければなりません。



 詳しくは平雅行著『日本中世の社会と仏教』ならびに同『親鸞とその時代』をご覧いただきたいと思うのですが、簡単にまとめると、

1)1224年の延暦寺で念仏は「諸宗之通規」とされ、念仏禁止が求められていない。

2)專修念仏禁止を求めた興福寺奏上でも「諸宗は念仏を信ず」と語っていて、念仏そのものを禁止するつもりがないことを明言している。

3)真言宗の資料である『覚禅鈔』に「阿弥陀」が記載され、善導大師の言葉が引用されている。

4)明恵は「我れまったく称名の義を非とせず。善導の釈を破せず」と述べており、批判の対象は法然上人と專修念仏である。

5)律宗の資料である『沙石集』では、專修念仏に対する批判、善導に対する肯定が行われている。


ということが挙げられ、『たった一声、「南無」とつぶやいただけで、牢獄にぶちこまれたり、鞭打ちの刑にあう民衆』は恐らく続出しなかったのではないかと思われます。


【上巻p.113~】西阿の破門

 高森先生の『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていないにも関わらず、アニメでは西阿が破門されたことになっていることは、既に述べた通りです。

※「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」「親鸞会教義の相対化32」参照

 本書では、本文中には西阿が破門されたことを裏付けるような記述はありませんが、なぜか「◆西阿の破門◆」という見出しが書かれております。非常に不自然です。



【上巻p.120~】大原問答

「この法然は幸せ者じゃ。今日一日の問答で、天下の学者逹を弟子にできるとは。阿弥陀仏の本願を明かにするまたとない好機だ」と仰有ったという。
(中略)
「釈尊は、大無量寿経に、『一向専念無量寿仏』と説かれている。これは、あらゆる諸仏、菩薩、諸神を捨てて、一向に專ら、阿弥陀仏を念ぜよ、ということである」

★これが大原問答における法然上人の言葉であるということですが、法然上人ご自身が大原問答に関して述べられた言葉に、以下のような言葉があります。

>>>
大原にして、聖道浄土の論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根くらべには、源空かちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、いまの機に適わず。
浄土門は浅きに似たれども、當根にかないやすしと、いひし時、「末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増」の道理に折れて、人みな信伏しきとぞ、仰せられける。
『勅伝』巻六、「信寂房に示されける御詞」(昭法全七二〇頁)
>>>

 つまり聖道門と浄土門が「法門」としては「牛角(=互角)」でありながら、時代背景や修行を修める衆生の能力の問題で、浄土門が優れているという内容であり、これは、聖道門も浄土門も、両方とも「勝法」として、決して聖道門を貶めたり否定はせず、あくまでも難易の点から、易行道である浄土門を勧めているという論理構成を持つ『選択集』に共通しています。

 本書で述べられたような傲慢で排他的な言葉は、法然上人自身の言葉や信憑性のある伝記資料からは決して導き出されません。


つづく

親鸞会教義の相対化・40

清森義行様


続きです。


上巻p.93~】「救いは死後か、現在か」

>>>
「善恵房殿、それは、『若不生者不取正覚』の御文で明かです」
「親鸞殿、何か勘違いされておられぬか。その御文は、『若し生まれずば正覚を取らじ』と弥陀が誓われたお言葉です。一度死なねば生まれることはできませんから、それこそ、『死んだら助ける』の証ではありませんか」
勝ち誇ったように叫ぶ善恵房。
 しかしその時、すかさず聖人の言葉が四方を圧した。
「善恵房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。『若不生者』の生まれさせると誓われたのは、この肉体ではないのです。魂なのです。心なのです。暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く心を歓喜の泉に生まれさせると誓っておられるのです。人間でさえ、腹痛で苦しんでいる人に、『この世では止められるが死んだら治してやろう』という医者はありません。濁流に溺れて苦しんでいる人に、『今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやる』という人がありましょうか。まして況や、大慈大悲の阿弥陀仏が、『この世の苦悩はどうにもできぬ。苦しくても我慢しなさい。死んだら助けてやる』と誓われる道理がないじゃありませんか」
鋭い聖人の追求に善恵房すでに顔色なく、一言の返答もできなかった。これを、「体失不体失往生の諍論」という。
>>>

 チューリップ企画と田中さんの法論で話題の「体失不体失往生の諍論」の話題です。本書も、チューリップ企画のビデオと同内容であり、いずれも高森先生の『こんなことが知りたい』(2)pp.74-78「(21)親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか」から受け継いだ内容であると思われます。

>>>>
*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。
>>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われるAさんと場外乱闘をしていたBさんがまとめておられたことですが、高森先生の『こんなことが知りたい』、アニメ、そして本書は、共通して上記三点の批判を避けることはできません。

 ところで高森先生は、『会報』の時点では「不体失往生」の根拠として本願成就文をあげておられるようですね。

===苦笑さんが引用されたものを転載===

阿弥陀仏の本願(二)

本願のみでは、ハッキリしない点を本願成就の文の指南によって、順次、明らかにして来たが、本願成就の文とは何か、とよく聞かれるので、成就文のことについて、少し述べておこう。
阿弥陀佛の建立せられた四十八の願は、法蔵菩薩が未だ佛にならぬ因位(佛果を得る因種を造りつつある位)の時に発された願であるから、みなこれを因願と名づけるのである。しかるに、その後、法蔵菩薩がこの願によりて修行なされて佛果(阿弥陀佛)を諦得せられて、因願の結果を成就せられたのである。
この成就せられた事は、大無量寿経の下巻に説かれている通りである。それ故に、これらの文を因願に対して、成就の文と呼んでいるわけである。
だから四十八願の真意は、因願と成就とを互に照応して、始めてその深意を探り得るのである。
さて、本願だけでは不明であった第三の点、若不生者と誓われてある意味が、死ななければ助からんということか、今生で救われるのか判然としない。
若し生まれずんば……とあるところから、死後浄土へ行かねば、助からないようにもとれるが、佛願の実意は果してそうなのか、成就文ではこの点も極めて鮮明に「即得往生、住不退転」と的示し、「その名号をきいて信心歓喜の一念に、即ち往生を得て不退転に住する」と平生業成、現生不退転、不体失往生が明示せられてある。
死んだらお助けではないぞ、苦悩渦巻く現実を救わねば、正覚を取らんぞと誓いたまえる佛意を明らかにしている。
建仁元年二十九才のとき、信心歓喜の一念のたちどころに攝取不捨の大益を体感せられた親鸞聖人は現生正定聚の風光を「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かにして衆禍の波転ず」と嘆じ、ふたたび迷界に流転出来ない不退転の位に定まり、佛地を嗣ぐ等覚の弥勒と等しき身に救われた大自覚を『正信偈』には「成等覚」と述べられている。
弥勒とは、佛位を嗣ぐべき聖道の理想的人格である。しかも、若しその理想的人格に到達するとも、なお、佛果を開くには永遠の隔たりがある。しかるに、今や金剛の真心を獲得する者は、そのまま弥勒と同じ位に入るばかりでなく、弥勒に先立って、佛果にのぼるのだ。
これを『正像末和讃』には、
「五十六億七千萬、弥勒菩薩はとしをへん、まことの信心うる人は、この度さとりを開くべし」
「念佛往生の願により、等正覚に至る人、即ち弥勒に同じくて、大般涅槃をさとるべし」「真実信心うる故に、即ち定聚に入りぬれば、補処の弥勒に同じくて、無上覚をさとるなり」と説き、
「教行信証」信巻には、
「真に知んぬ弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし、念佛の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。故に便同というなり」と喝破なされている。
かくて法華経の便同弥勒の理想も、華厳経の諸仏同等の法悦も、この獲信の一念に諦得させ、ウラミと呪いの人生を光明の天地と転じさせずば、正覚を取らじと誓われているのが弥陀の若不生者の真意である。
にもかかわらず、この深妙の佛心を知らざる輩は、死後の華ふる浄土のみを夢みて、現実の救済の妙味を知らず、弥陀の本願を水泡にさせているのだ。
七百年以前に於いて、我が親鸞聖人が、小坂の善慧坊証空を向うにまわして、体失往生か、不体失往生かで、しのぎをけずられたのも、この願意が善慧坊には判らなかったからである。
この間の浄論は『口伝鈔』に述べられているが、或る時、親鸞聖人が「念佛往生の機は体失せずして往生を遂ぐ」といわれた。
これは「弥陀の本願はこの世で救うて下されるのだ」ということだ。
これを聞いた小坂の善慧坊証空という人が、
「体失してこそ往生は遂ぐれ」と真向から反対した。
いわゆる「いくら弥陀の本願が尊いといっても、此の世では救われない。死なねば助からんのだ」と聖人を攻撃したのだ。
その時、法然上人は次のように判定を下され、親鸞聖人に軍配をあげていられる。「善慧坊の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり、善信坊の体失せずして往生するよし申さるるは、念佛往生の機なればなり。如来の教法、元、無二なれども、正為衆生機不同なれば、我が根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念佛往生は佛の本願なり。諸行往生は本願に非ず。
念佛往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生、住不退転の道理を善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといえども、業事成辯すれば、体失せずして往生すといはるるか、本願の文明らかなり。かれを見るべし。
諸行往生の機は臨終を期し、来迎を待ち得ずしては、胎生辺地までも生まるべからず。
この故に穢体亡失する時ならでは、その期するところなきによりて、その旨を述ぶるか、第十九の願に見えたり。
勝劣の一段に於いては、念佛往生は本願なるについて偏く十方衆生にわたる。
諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。
本願念佛の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と殿最懸隔にあらずや」
身命終のみを知って、心命終を知らなかった小坂の善慧坊は、また身体の往生のみを知って、心の往生を知らなかったのだ。
死後の華ふる極楽のみを夢みて、現実の救いの妙味を諦得していなかったのだ。
聖人は如実の体験の心眼で経典を味賞しておられたから、若不生者も生き返ってくるのだ。
このように、成就文に立って本願をよめば、佛願の玄妙なることが明白に知らされ、我々の求道は、加速されるであろう。
故に覚如上人は『改邪鈔』の中に
「かの心行を獲得せんこと、念佛往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等の文をもって依憑とす。この外まだ聞かず」とまで言い切られ、第十八願は根本であるが、至極ではない。
願成就に立って、本願の真実を諦得せよと勧めていられる。

高森顕徹著『会報』巻2,28頁

===苦笑さんが引用されたものを転載===


 これでしたら、Bさんが挙げた三点の批判を受ける必要はなくなると思います。

「不体失往生」の根拠として本願成就文を挙げた上で、上記のような高森先生の本願文に対する「味わい」を述べるのであれば、非常に味わい深いものであり、納得のいくものとなったと思います。
 しかしその高森先生の「味わい」をドグマ化し、それがあたかも客観的事実であるかのように徹底してしまったことが、親鸞会の問題だったのではないかと思います。
「味わい」がドグマ化してしまうのは、典型的な硬直化現象であり、更に親鸞会は、その問題を指摘されても改めない「自己無謬視」にまで陷っておりますので、非常に問題は根深いのではないかと思います。

 これは友人が言っていたことですが、田中さんから指摘があった最初の段階で、山田さんが

「本願成就文を根拠にすべきでした、すみません。ただ、本願成就文の上から、十八願をこのように味わうこともできたと思います。けれども、これは明文上にない、個人の味わいに過ぎぬことですね。ご指摘いただいたことをしっかり受けとめ、本願成就文を根拠に、ますます現生からの救いの道に邁進したいと思います。」

というように対応しておられたら、田中さんもこれほど大きな問題にはしなかったでしょうし、私のような他宗の人間をあきれさせるようなことにもならなかったと思います。

 誠意のない対応や自浄作用の欠如から倒産に至った某高級料亭を反面教師にして、親鸞会がこれ以上の醜態を晒さないことを願います。


つづく

質疑応答115

【質問】


私は親鸞会にいたときは、親鸞聖人の教えのみが真実で、
他のものは全て邪教だと思っていました。
しかし、親鸞会を脱会して、他宗教、他宗派の方と交流するうちに、
そうした考えがかなり変わってきました。
もちろん、おかしな新宗教やカルトは論外ですが、
長い歴史の中で多くの人に信仰されて来た宗教は、
それぞれに深い教えや救いの道があり、
表面だけを見て邪教と決め付けることは出来ないと、思うようになりました。

清森先生は、今でも親鸞聖人の教え以外は「邪教」であるとお考えなのでしょうか。
お考えをお聞かせ頂ければと思います。、
宜しく御願いします。



【回答】


 私は、正しい宗教とは、真理を教えたものだと思います。

 ですから、真理を指して「神」と呼んでいるのであれば、その神を信じる宗教を邪教だとは思いません。

 しかし、その「神」を信じない者を見下したり、人間の手で罰したりするのを正当化するような教えであれば、やはり邪教だと思います。

 この「神」を「仏」に置き換えても同じです。

 つまり、「キリスト教」を信じているのか、「仏教」を信じているのか、ということではなく、その人がどんな信念に基づいて行動しているかで判断すべきだと思います。

 何か苦しいことがあった時に、他人を恨み、呪って、自らを反省できないような人は、仏教徒を自称していても邪教徒だと思います。

 逆に、この世の道理をよく知り、自利利他の道を歩んでいるのであれば、どんな宗教に属していたとしても、邪教徒ではないと思います。

 真理というものは、三世十方を貫くのですから、どこかの宗教が独占しているものではありません。

「○○○のみが真実で、他のものは全て邪教だ」という考え方は、真理の本質が判っていない、邪教の発想だと思います。

質問・投稿について

 すでにお知らせしてありますが、再度、掲載させて頂きます。

 コメント欄まで一つ一つ目を通す時間が中々取れないのが現状ですので、質問や投稿依頼は必ずメールにてお願い致します。

 メールアドレスは、

QWN01215@nifty.ne.jp

です。

 投稿につきましては、匿名では受け付けておりません。お名前と連絡先(電話又は住所)をお知らせ頂けますよう、お願い致します。

親鸞会教義の相対化・39

清森義行様


続きです。

【上巻p.91~】往生について

「往生」には二通りの読み方がある。

(1)「生かされて往く」

 阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものもさわりとならぬ幸福に救われる体験を「往生」というのだ。「困る」という意味は微盡もない。

(2)「往って生まれる」

 この世で絶対の幸福に救われた人は、一息切れたら、必ず、浄土に往って仏に生まれられること。「極楽往生」である。

 しかし、いまだ阿弥陀仏の本願に救い摂られていない人の後生には、一大事があるから、死ぬことを「往生」というのは、大変な間違いである。

 まして、動物や機械にまで使うとは、笑止千万。仏語は語源にまでさかのぼって、正しく使わなければならいない。


★「仏語は語源にまでさかのぼって、正しく使わなければならいない」というのはその通りですが、そこまで言うならば、「往生」という言葉が本来どのような意味で使われていたのか、サンスクリット原典まで「さかのぼって」意味内容を確定すべきだと思います。

 残念ながら本書ではそれが行われていないので、代わりに私が「往生」という言葉を「語源にまでさかのぼって」みたいと思います。

 既に述べましたが、サンスクリット文の本願文は以下のようになっております。

>>>
 世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。

 ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。
>>>

 本来、「その仏国土(極楽)」に「生まれる」(upa-√pad)ことを、「往生」と言います。浄土教における術語を「語源にまでさかのぼって」考察するためには、かなり昔に出た本ですが、

1)藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店)

が今でも最適な名著だと思います。極楽・阿弥陀仏・本願・念仏・往生・信・来迎等が、どんな経典にどのような用例で使われているかを、詳細に分析されていて、しかも、先行研究を海外の学者も含めて殆ど網羅しているので、とても勉強になります。

「往生」のサンスクリット及びその原義に関しては、
1)第6章実践に関する諸問題第1節往生思想とその源流pp.519-536
に述べられています。

藤田先生によると、極楽浄土への「往生」を表す言語は、

(1)ud-√pad・・起こる、生まれる
(2)upa-√pad・・達する、生まれる
(3)praty-A-√jan・・再生する、生まれる

の三つで、若干ニュアンスが違うんですが、どれも「生まれる」という意味です。

 また、極楽に「往生する」ときの「生まれる」というのは、人間や動物などが生まれる生まれ方とは全く異なったもので、「化生」(aupapAduka,upapAduka)と言うもので、これは、上の(2)に由来する言葉ですが、「四生」のうちの「胎生」(人・獣)「卵生」(鳥・魚)「湿生」(虫)の生まれ方とはまったく異なって、本来他に依存することなく忽然として生まれることで、初期経典では、天界の神々や地獄に属するものたちの生まれ方です。

 そして『無量寿経』にある所謂「疑心胎生」っていうのは、蓮華の「内奥(=胎)の住所」(garbhAvAsa)に生まれることを訳したもので、浄土に生まれたけれど、その身が蓮華の内部に閉じ込められている状態を表したもので、「四生」のうちの「胎生」とは、本来意味が違うそうです。

 これらから見ますと、江戸後期の浄土宗の僧侶の徳本上人が、

>>>
必ず必ず死ぬのじゃないぞよ。仏法は死ぬる法は教えはせぬ。
死なぬ法を教えるのじゃ。

「往生」という字は死ぬるという字には書きはせぬ。
「往(い)き生(う)まる」と書くぞよ。

この通りに心得て、精出して御念仏申さっしゃるがよい。
さっぱりと死ぬのじゃないぞよ。
極楽へ生まれるのじゃ。
(『勧誡聞書』)
>>>

と仰っている言葉の方が、「語源にまでさかのぼって」考えるのであれば、「往生」の解釈として適切だと思います。

 蛇足ですが、最新の高森先生の本では、

>*往生
>浄土へ往くこと。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.87

となっているようです。親鸞会の皆様は、「語源にまでさかのぼって」この解釈で統一すべきですね。

親鸞会教義の相対化・38

清森義行様


山崎豊著『親鸞聖人の旅』(上巻)(下巻)(とどろき出版社)を読み終えましたので、感想を送らせて頂きます。

今回も分量が多いので数回に分けさせて頂きます。

最初にこの本はとても良い本だと思います。親鸞聖人の生涯に沿った形で親鸞聖人の遺跡が紹介されており、非常に興味深く読み進めることができますし、実際に現地調査を行って、はじめてわかるような貴重な資料も紹介されており、とても面白かったです。
また、現地に伝わる一見突拍子もない伝説に関しても、単なる迷心として切り捨てるのではなく、当時の文化背景や親鸞聖人の思想を背景に、積極的に意味づけを行い、親鸞聖人の持つ魅力を、より一層引き出しているところにも非常に好感が持てました。
山崎氏の文章も丁寧で読みやすく、写真も豊富で、教義面に関してもかなり踏み込んで解説されており、とても良い本だと思います。

ただし、以下の二点があるために、本書を読む際には注意が必要だと思います。

一、せっかくこれだけの地道なフィールドワークを行い、沢山の資料を集めて作成したにも関わらず、資料よりも親鸞会独自の教義を優先して、資料を教義にあわせて読み替えている部分があること。

二、本書においても、「現在の仏教教団は腐敗している!」という親鸞会のプロパガンダを主張するため、取材に訪れた寺院に対する批判をいちいち掲載しており、そのために記事の格調高さや、学術的な客観性がかえって損なわれて感じられること。

この二点にだけ気をつけて読めば、本書は親鸞聖人に関する入門書・親鸞聖人の遺跡のガイドブックとして、最良のものの一つになると思います。

それでは以下に、親鸞会独自の教義が流入されている部分を指摘したいと思います。


【上巻p.66~】「後生の一大事」=「必墮無間」
親鸞聖人が、六角堂に百日間もこもられた目的は、「後世を祈る」ためであったと記されている。「後世を祈る」とは、「後生の一大事の解決の道を求めて」ということである。
「後生の一大事」とは、死後、無間地獄へ墮ちて、八万劫という長期間、苦しみ続けなければならぬ大事件をいう。釈尊は経典に「必墮無間」、すべての人間は、一息切れたら必ず無間地獄に墮つる、と説かれている。

★改めて「後生の一大事」=「必墮無間」というのは、高森先生に限らず、高森先生の影響を受けている方に共通する文化なんだと思いました。これが親鸞会という特殊な組織でしか通容しない「文化」であることは、既に私や清森さんによって証明済みです。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-91.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-92.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-93.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

一点追記しておくと、最新の高森先生の本では「後生の一大亊」の定義が異なっていますね。

>*生死の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.53、P.163、P.225

>*後生の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>同書、P.221

この定義であれば、問題はないと思います。誰かに誤りを指摘されることによって、正式に高森先生が自らの誤りを訂正されたのであれば、自浄作用が働いているということで、とても良いことであると思います。
そうではなく、「後生の一大亊」という重要な術語の意味が、一般向けの出版物と会員向けの出版物で異なるというのであれば、非常に悪質な二枚舌であり、卑劣なダブルスタンダードであると思います。


【上巻p.73~】法然上人の獲信
「釈尊が、この世におでましになったのは、阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。この法然も、弥陀の本願によって、救われたのです。
十三歳で出家してより二十七年間、比叡での難行・苦行も京都・奈良で学んだ華厳・法相の学問も、この法然の後生の一大事の解決にはなりませんでした。
泣く泣く山を下りました。黒谷で、七千余巻の、釈尊の説かれた経典を、ひもとくこと五回。法然のような者でも、助かる道がなかろうかと探し求めました。
そしてついに、私一人を助けんがための阿弥陀仏のご念力が屆いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い取られたのです。
その不思議、その驚き尊さは、心も言葉もたえはてて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く阿弥陀仏の本願を聞き開いて下さい。いかなる智者も愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるのです。よくよく聞いてください。」

★本書では、これが法然上人の説法で、これを聴聞された親鸞聖人が「このお方こそ、真実の菩薩、善知識だ」と「確信されたに違いない」そうです。

しかし、法然上人の伝記には以下のようにあります。

>>>
上人聖道諸宗の教門にあきらかなりしかば、法相三論の碩徳、面々にその義解を感じ、天台華厳の明匠、一々にかの宏才をほむ。しかれどもなほ出離の道にわづらひて、身心やすからず、順次解脱の要路をしらんために、一切経を、ひらき見たまふこと五返なり。一代の教迹につきて、つらつら思惟したまふに、かれもかたく、これもかたし。しかるに惠心の往生要集、もはら善導和尚の釈義をもて指南とせり。これにつきてひらき見給に、かの釈には、乱想の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に、生ずべきむねを判じて、凡夫の出離を、たやすくすゝめられたり。蔵経披覧のたびに、これをうかゞふといへども、とりわき見給こと三返、つゐに一心専念彌陀名号行住坐臥不問時節久近念々不捨者是名正定之業順彼佛願故の文にいたりて、末世の凡夫、彌陀の名号を称せば、かの仏の願に乗じて、たしかに往生を、うべかりけりといふ、ことはりを、おもひさだめ給ぬ。これによりて、承安五年の春、生年四十三、たちどころに餘行をすてゝ、一向に念佛に帰し給ひにけり。
『四十八巻伝』巻6
>>>

「私一人を助けんがための阿弥陀仏のご念力が屆いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い取られたのです。」という、いかにも親鸞会で語られそうな体験ではなく、善導大師の『観経疏』の「一心専念」の文によって、法然上人は「たちどころに餘行をすてゝ、一向に念佛に帰し給ひにけり」です。

なお、脊髄反射のようなコメントが予想されますので、あらかじめお断りしておきますが、この記述は『四十八巻伝』という鎮西派の系統の伝記のみならず、源智上人系の『醍醐本』、更には覚如上人が著した『古徳伝』にも一致しており、特定の文化に限定されておらず客観性があると言えます。

本書に書かれた法然上人のエピソードだけが、親鸞会文化にのみ限定されたものです。



つづく

投稿

 清森問答で話題になっている「本願寺なぜ答えぬ」を久しぶりに読んでみました。
 親鸞会の時に1回読んだきりで内容もよく覚えていなかったのですが、御指摘の部分を注意深く読んでみますと、本当にやり方が汚いですね。高森氏の実態を改めて知らされた思いであります。

「本願寺なぜ答えぬ」の中に、このような件がありました。
------------------------------------------------------------
     なりふりかまわぬ金集め

 それでも苦しい本願寺サン。
 今度は、年間十万円をしぼりとる、参与会員とやらを作って、金集めに余念がない。
 本願寺の資金集めの手段で、悪名高いものに、僧班制がある。
 本願寺が、上納金の多少で末寺に等級をつけ、住職の着衣の色を認定する、というもの。
 本願寺への上納金をふやすのが目的であることは、いうまでもない。
貴やかな、色衣を競って、末寺の住職は、ついつい門徒に多額の献金を懇請する。
“本願寺さまへの金だから、後生悪い処へは、ゆかないだろう”
と、一途に信ずる、門徒衆は、シブシブながらも、財布を開く。
 金品さえ、さしだせば、助かるがごとき感を懐かせている、のは、外ならぬ本願寺の実態なのである。
 本願寺の内情に、多少でも通じていれば、これは、常識といってよい。
------------------------------------------------------------



★親鸞会に当てはめれば、このようになるでしょう。
------------------------------------------------------------
     なりふりかまわぬ金集め

 それでも苦しい親鸞会サン。
 今度は、月間十万円をしぼりとる、福徳会員とやらを作って、金集めに余念がない。
 親鸞会の資金集めの手段で、悪名高いものに、会費制がある。
 親鸞会が、会費の多少で会員に等級をつけ、法話会場での席順を認定する、というもの。
 親鸞会への上納金をふやすのが目的であることは、いうまでもない。
目標達成や、成果を競って、支部の講師は、ついつい会員に多額の献金を懇請する。
“親鸞会さまへの金だから、後生悪い処へは、ゆかないだろう”
と、一途に信ずる、会員衆は、シブシブながらも、財布を開く。
 金品さえ、さしだせば、助かるがごとき感を懐かせている、のは、外ならぬ親鸞会の実態なのである。
 親鸞会の内情に、多少でも通じていれば、これは、常識といってよい。
------------------------------------------------------------


 私は、金を出せば救いに近づくかのような考え方は、仏教の教えに反し、厳しく排してゆかねばならないと思っております。
 本願寺も間違っていますが、親鸞会も同じではないかといつも感じておりました。
 講師がお金を集めるときは、後生の一大事、後生の一大事と強調し、これでは後生助かるために金を出せというようなものではないか。本願寺のことを非難できるのか。
 このような疑問を持っている会員は、私だけでは無かったことを付記しておきます。

質疑応答114

【質問】


清森問答に質問があるのですが、

宿善論争で紅楳英顕氏が主張した、
「親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」
という主張は正しいと考えてよろしいのでしょうか。

もしよろしければご回答頂けませんでしょうか。
宜しく御願いいたします。



【回答】


「他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならない」

この文章を言い換えますと、

「自力諸善を積まねば、他力信心を獲ることはできない」

となります。


 親鸞聖人は、「自力諸善を積まねば獲信できない」とは、どこにも書かれていません。紅楳氏の主張は、お聖教に適っていると思います。

 高森先生も、「自力諸善を積まねば獲信できない」と仰ったことは無いと思います。「善に向かって進みます」と言ったら除名だとも仰いました。

 ですから、本来であれば、「親鸞会では、他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないとは教えていません、貴方の誤解です。」と返答すべきだったと思います。



●かくて、大上段に“修善をすすめた文証など、あろうはずがない”と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。(本願寺なぜ答えぬ)

●“善根を積む、必要はない、修善をすすめるのは、間違いだ”と、いっているから、無宗教の家庭よりも、外道の者よりも、不幸は続くし、貧乏はする、病気にはなる、災難は重なる。(本願寺なぜ答えぬ)



 ところが、上記のように、紅楳氏の主張を、「善の勧めを否定した」と摩り替えて、教えをネジ曲げたかのように印象操作し、外道呼ばわりするのは卑怯だと思います。

 紅楳氏にも確認しましたが、「善を勧めるのを否定したのではない」とハッキリ言われていました。

 紅楳氏の主張が間違っているというのであれば、親鸞会では、「自力諸善を積まねば、他力信心を獲ることはできない」と教えているのでしょうか?


 親鸞聖人の教えは仏教ですから、善を勧めるのは当然のことです。

 紅楳氏の主張を摩り替えるのは「妄語」ではないでしょうか?

「アッと驚く、タメゴロー」、「外道よりも、あさましい放言」、「外道の者よりも、不幸は続くし、貧乏はする、病気にはなる、災難は重なる」というのは、「悪口」ではないでしょうか?

 浄土真宗の人が、他宗より貧乏で、病気になり、災難が重なっているとは聞いたことがありませんが、何を根拠に書いているのでしょう。親鸞会の人は、金持ちで、病気にもならず、災難が来ないのでしょうか?


 善を勧めていると主張しながら、文章で悪を造っていては説得力がありません。
「嘘をつかない」「悪口を言わない」というのは、仏教で教えられる大切な善ですので、お互いに反省して、戒めてゆかねばならないと思います。

質疑応答113

【質問】


「他人の業」も「縁」の一つだと思っていたのですが、
他人の業も「自業」になるなら、では「縁」とは何なのか分からなくなってしまいました。
「縁」とはどういうものをいうのでしょうか?



【回答】


 他人の業に、自分が染まらなければ、自業にはなりません。お釈迦様のような方は、どんな悪業に満ちた人と縁があっても、染まることがありませんから、悪業の人を済度することができるのです。

 一般的には、悪業の人と接すると、自分も悪業に染まって苦しむことになりますので、謹んで遠ざかれ、近づくべからず、と教えられます。

「因」と「縁」の区別が曖昧になると、思われるかも知れませんが、唯識学では、六因四縁の乱れ髪、と古来、言われておりますように、「因」を縁で教えられるところ、「縁」を因で教えられるところがありますから、明確に区別して使ってはおりません。

 唯識学を学べば分かりますが、「因」と「縁」は別個のものではない、と理解して下さい。

質疑応答112

【質問】


===============================
仏教では一般的に「自因自果」とか「他因自果」とは言いません。
「自業自得」と言います。その人の禍福は、
その人の業によって決まるということです。
===============================

と清森さんは書かれていますが、

そうすると、

善業善果ではなく「善因善果」、
悪業悪果ではなく「悪因悪果」、
と、「業」ではなく「因」と説かれることにも、意味があるのでしょうか?
「善因善果・悪因悪果」に関しては「業」ではなく「因」という文字が使われているので、それはなぜなのか教えて頂きたく思います。



【回答】


 まず、一般的には「善因楽果」「悪因苦果」という言葉を使います。ここで「善因」「悪因」とは、「善業」「悪業」のことと考えてよいと思います。

 つまり仏教では、1つの行為によって何かの結果が生み出されるのではなく、行為が積み重なって業力となり、その業力が原因となって「楽果」「苦果」が生み出されると教えられます。

 親鸞会では、何か1つの行為があれば、それに応じた結果が必ず現れるように教えられますが、このような説き方は誤解を招くので不適当だと思います。

 なぜ「善業楽果」「悪業苦果」と言わないかは、私にも分かりません。本質的には「業」で理解した方が良いと思います。

質疑応答111

【質問】


「親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか」の投稿を読ませて頂きました。
 あらためて"なぜ答えぬ"を読んでみますと、親鸞会のやり方は酷いと思います。
 清森先生はこの議論をどう思われますでしょうか?



【回答】


「本願寺なぜ答えぬ」では、紅楳英顕氏の論文をあえて掲載せず、他の人の論文を掲載していました。

 その紅楳氏の論文を入手して読んでみましたが、私の読む限り、非常に的を射た指摘だと思いました。

 だからこそ、紅楳氏の論文をあえて掲載せず、議論のすり替えをせざるを得なかったのでしょう。

 紅楳氏の書籍やホームページ(http://www12.ocn.ne.jp/%7Ekobai/)も目を通しましたが、親鸞聖人のお言葉に忠実に解釈されており、非常に優れた学者だと思います。

 親鸞会との論争について、直接、ご本人に確認してみましたが、当時、紅楳氏は30歳過ぎで、本願寺の中では下っ端だったと言われていました。

 紅楳氏は、親鸞会との議論を続けるつもりだったそうなのですが、上司の命令で、中断せざるを得なかったそうです。もし、議論が続いていたら、どちらが勝っていたか分かりません。

 私は今まで、親鸞会は本願寺の代表者と大法論の末、完膚無きまでに叩きのめしたものと思っていましたが、実態を知ると勘違いだったようです。

 やはり何事も、一方的な情報のみを鵜呑みにするのでなく、心を虚心坦懐にされて、両方の意見を聞かれて、判断すべきであることを知って頂きたいと思います。

投稿

投稿を紹介いたします。

        *         *         *

新聞にこのような記事がありました。親鸞会も同じではないかと思いました。



『社長より 現場をよく知る アルバイト』
 第一生命の今年度サラリーマン川柳コンクールでベスト10入りした一句は、経営状態の悪い管内企業のトップを端的に表す。
「環境変化に敏感な現場の意見を吸い上げられない。過去の成功体験を引きずり、状況分析もお粗末。イエスマンだけを周囲に置き、悪い情報は入らない。裸の王様だ」。地元金融機関関係者は、生き残れない企業の特徴について口をそろえる。……

質疑応答110

【質問】


除名の問題で思い出すのが、U氏の除名です。
どんな暴言をはき、どんな非難を言ったのかは知りませんが
『高森先生に暴言を吐き、本会を非難して、除名になった』、
と聞かされています。
この話は、上田氏の件のような捏造ではなく、『事実』と理解してよろしいでしょ
うか?



【回答】


 以前、この質問に対して、「分からない」と回答しましたが、直接、本人に確認する機会がありましたので、改めて回答いたします。

 結論から言えば、U君の除名についての発表も、捏造だと思います。

 U君が除名になったあと、その発表内容を他の人から知り、事実無根の内容に驚いて、渡部弘宣部長に確認したようです。

 その時の、弘宣部長とのメールのやり取りも、見せてもらいましたが、発表された内容が事実かどうか尋ねても答えず、除名の理由を尋ねても答えないという不誠実極まりない対応でした。

 除名の理由が発表された時は、原稿を読みながら発表されたのですから、文章が残っているはずです。

 学徒の皆さんには発表できても、本人には読ませることが出来ないのは何故でしょうか?

 事実なら、本人に反省を求めるためにも、伝えるべきだと思います。

 私は、除名の発表を聞いて、U君が大変な極悪人に変わってしまったと、憎み嫌っていました。実際は、気さくで温厚な昔の彼と、全く変わっていません。印象操作とは恐ろしいものです。

 U君は、親鸞会の余りに不誠実な対応に呆れて、今では除名になったことを感謝しているそうです。

 今年も既に何人か除名になっているようですが、やはり本人には理由が伝えられていないそうです。私たちの時と同じです。

 本人にも言えないような理由で、次から次へと除名していくという体質は、果たして親鸞聖人の御心に適っていると言えるのでしょうか?
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。