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親鸞会教義の相対化・63

清森義行様


 いい機会ですので、面白い本を一冊紹介させて頂きます。


===以下引用===
第三章人生の目的と幸福論
一、人生の目的とは何か

(中略)

 幸福になりたいという願望は、われわれの共通した願いであるけれども、幸福というと、また、人々によっていろいろ考えられている。
 あるいは、満足できれば幸福だという人もあり、または、上を見ればきりはないし、下を見てもきりがないから、まあまま幸福のうちだなどと、半分はあきらめきった幸福感をもっているものもある。健康だから、家庭が円満だから、物質的に恵まれているからとかの理由で幸福だと思っている人もある。
 戦前には恩給生活ものは死ぬまで生活を保障されたと思い、また、貸し家をたくさんもっていたものは、老後まで生活の保障と安定がついたと思いこみ、地主も、大資本家も、それぞれそのように思っていたにちがいない。
 しかし、それが、一度大戦争の惨禍をこうむり、まして、敗戦になり、政治的・経済的・社会的な大変動がきた時に、その幸福を持続できたかというと、その反証は、あまりにも明瞭である。
 また列車事故や盗難事故や、さまざまの交通事故の寸前まで、その生命の危険も知らず、幸福だと思っていたものもあるにちがいない。好条件が備わったから幸福だなどと思っている人々は、いつ崩れていくかもしれず、未来は保証されないのである。また人の不幸を運命と思い込んでいる人も、一度それがわが身の上となれば、知らないから、わからないからといって、すまされることではないのである。
 真の幸福とは、そのように、いついかなることが起きようと、外部からの働きによって絶対に崩れるものでなく、自己の生命の内部より、逞しく涌現したものでなくてはならないのである。

(中略)

二、不幸の原因と絶対の幸福

(中略)

 結論していうならば、人生の目的は、絶対かつ永遠の幸福を求めるにある。

===以上引用===

「外部からの働き」によって「崩れる」ことのない「絶対かつ永遠の幸福」・・。どこかで聞いたことのあるフレーズですが、この本は、創価学会教学部編『折伏教典』(昭和26年11月18日初版発行)の一節です。

『折伏教典』は上記の記述に続いて、「その幸福は成仏という境涯であり、この成仏は、末法の御本仏日蓮大聖人の三大秘法の仏法によってのみ得られることを強く強調するものである。」としています。
 それに対して、親鸞会では「成仏」ではなく、「正定聚に入る」「不退転に住す」「無碍の一道なり」を「絶対の幸福」と位置づけ、「この絶対の幸福は、弥陀の本願を聞信するという一筋道をたどって到達できる」としているので、もちろん教義上の違いはあります(※)。

※以下参照
高森顕徹『こんなことが知りたい2』(3)絶対の幸福とは、どんなことか(昭和53年3月1日初版発行)
絶対の幸福とは、どんなことか(親鸞会公式HP)
http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0104.htm

しかし、

1)親鸞聖人が『七箇条起請文』に署名され(※)、『教行信証』で『末法灯明記』を引用され、その直前に「しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗おのれが分を思量せよ」と述べておられるにも関わらず、以下のように他宗や他宗教を批判することを推奨していること。

※以下参照
親鸞会教義の相対化・17(質疑応答71)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-72.html

===以下引用===
釈尊は、この世の最後の説法である『涅槃経』の中に、

「破邪顕正しないものは仏弟子に非ず、仏法中の怨なり」

とまで言われています。真実の仏弟子の任務は邪を破り、正しい仏法を顕らかにすることなのです。これをやらないものは、仏弟子でないばかりか、仏の敵であるといわれています。破邪顕正は、仏教徒に課せられた使命なのです。

【「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで~本願寺と類するものの批難に答える~(15)善知識ってどんな人?(親鸞会への大きな誤解2)(4/6)】
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/naze15d.html
===以上引用===

2)「十方衆生」=「唯除逆謗の者」→「一切衆生必墮無間」という、正統な浄土門の教えからも、『法華経』のような他宗の所依の経典からも導き出されない、『法華経』の経文を極端に拡大解釈した日蓮聖人の教えのような、特殊な解釈から導き出された論理をドクマ化していること。

※以下参照
親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

 これらの要素をあわせて考えると、親鸞会教義には、法然上人や親鸞聖人の流れにある浄土門だけではなく、以下の日蓮上人の言葉に基づき、他宗や他宗教に対する排斥を積極的に推奨しドグマ化している団体の影響が、何らかの形であったのではないか思われます。

===以下引用===
涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云。
此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。
南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし。
何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり。
『曾谷殿御返事』
===以上引用===

 それと同様に「絶対の幸福」という言葉に関しても、先行する『折伏教典』に何らかの影響を受けた可能性があったのではないかと私は思っております。

 ただし、「相対的な幸福ではない絶対の幸福」という言い回しを使っているものは、探したら他にあるかもしれませんし、『折伏教典』自体が先行する何らかの文献の影響を受けている可能性もあります。

 したがって、『折伏教典』が直接の元ネタであるかどうかに関しては慎重な検討を要しますので、断言は保留しておきたいと思います。

つづく
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質疑応答132

【質問】


「耆婆大臣オサヘテゾ

 却行而退セシメツツ

 闍王ツルギヲステシメテ

 韋提ヲミヤニ禁ジケル」(真宗聖典P.228)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 太子を諌めた耆婆大臣は、剣の柄に手をかけて、もしものことがあれば、引き抜こうと、身構えをしながら、あとすざりをした。阿闍世は、やっとのことで剣を捨て、母を殺すことだけはやめたが、夫人を奥深い座敷牢の中に閉じ込めた。



【質問】


「彌陀釈迦方便シテ

 阿難目連富樓那韋提

 達多闍王頻婆娑羅

 耆婆月光行雨等」(真宗聖典P.228)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 弥陀と釈迦とは、色々な方便をもって、衆生に観経を説かれたのである。
 阿難・目連・富樓那の尊者をはじめ、韋提・提婆達多・阿闍世・頻婆娑羅王、さらに耆婆・月光・行雨などの大臣は、諸仏方が姿を変えて、どんな人でも救われることを、ドラマにして、王舎城の悲劇を起こされたのである。



【質問】

「大聖オノオノモロトモニ

 凡愚底下ノツミヒトヲ

 逆悪モラサヌ誓願ニ

 方便引入セシメケリ」(真宗聖典P.229)

の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 大宇宙の諸仏方は、色々と姿を変えて、凡夫愚人のお粗末な私達、五逆十悪の罪深い我々を、阿弥陀仏の本願に引き入れようとなさったのである。

親鸞会教義の相対化・62

清森義行様


 以下の日記は、某日蓮正宗系新宗教団体に所属する友人のものです。彼女が指摘したその団体のあり方に、親鸞会も多くの共通点があると思いましたので、本人の許可を頂き紹介させていただきます。

※団体名や個人名はイニシャルにさせていただきます、改行等は友人の日記そのままに送らせて頂きますので、そのまま掲載お願いします。

「良識派」を上手に利用するほどの、「そうとう頭のキレる人」が親鸞会にいるかどうかは微妙ですが、読ませて頂いて非常に多くの共通点があると思いました。

===以下引用===
『私、ミイラ!』


私は今日
気づいてしまった!

S学会は宗教団体では無いです
色々な言い訳や「現証」と言うものを剥いでゆくと
最後に残るのは
「S学会は正しい」
これだけ!

盲信している人達は勿論
内部のアンチや活動をあまりしていな人達の心の中もそう
結局は
「なんだかんだでSは正しい」

これしか無い

Sを正しく見せる為に
いろんな飾りをつける
先生の顕彰もそう
対話とかもそう
芸能人とかスポーツ選手もそう
そして
日蓮聖人と法華経
仏教までもが飾りでしか無い

これは謗法ってやつです><
仏教でお金儲けなんてよろしくない事です
宗教法人ですから
言い方悪いけれど
「ぼうずまるもうけ」です

更に!

私の様な
内部で客観的に見て批判する所は批判する人達
これすらも利用している。
私は利用されていた><

ミイラとりがミイラになる前に脱会しよう
と思って冷静になり
そして今日
同時中継と言う、なんかしらの式典のビデオ上映と
なんとか大会と言うものに参加して来て
思った
気がづいた

私は
自分はまだ死んだと思っていないミイラになっていた

私の様な学会員を見て

なんだ、Sにも良識のある人が居るんじゃん
内部からきちんと批判が出るのなら
健全な組織の証拠

って思う人が居るかもしれない

これが、ミソ!超危なかった

決して健全な団体では無いです
宗教団体ならば健全では無い

NPO法人や福祉団体や自己啓発団体ならば
ある意味健全かも
でも
宗教者の団体ではな~い~~~~

そしてダブルスタンダードが当然の様にまかり通る
Sの現実
言っている事とやって居る事がとても矛盾している


S教新聞の中身
敵の組織や人達を
とっても怖い言葉で罵っています
これも、有る意味、「Sの中の良識」を作り出す
ツールだったのかもしれない

狂信者は一緒になって
破邪顕正~!なんて言っているかもしれない

そして普通の人は
「Sは悪いものじゃない」けど、確かに新聞はね~
言葉悪いよね。。。

これが良くない

私の夫もそう
夫の様なのが一番たちが悪い

私は別に組織や先生に批判が向けられても何も思わない
夫は違う
組織の矛盾や良くない所は知っている
だけど組織や先生の悪口(批判)を言う奴に大して嫌悪感を感じる
これはなんだろう
暗示?トラウマ?マインドコントロール?



狂信者だけならば
組織は長続きしない
だから世間に狂信者だらけのカルトと思わせない為の
カモフラージュ的な役割を果たしているのは
私や夫みたいな、「良識派」

凄い
この組織を作って運営している人は
そうとう頭のキレる人だと思う
そう考えると
本当に怖い

婦人部長と言う人が
お話をして下さった内容

私は、この何年間ずっと
新聞を8部取って、色んな人に配ったり
新規を勝ち取ったり云々
これからも新聞をどんどん云々
福運が云々

I先生の素晴らしさ!
I先生の素晴らしさ!

学会正義を知らしめるために新聞啓蒙を云々

その間
一同深く相槌をうってらした


まるで
集団新聞勧誘員です><

さぁ
不思議なところはもっと色々ありますが
気づいてしまったのなら
私は脱会しなくてはならない
そうしないと、組織を巨大化させる一因になってしまうから

「S学会は正しい」の
S学会が宗教団体であるならば
正しくないです

S学会が、企業団体で福祉団体で政治結社で地域の自助団体で
自己啓発実践団体であるならば
正しいです



私は息子と一緒に脱会します
もう、解ったので大丈夫です
夫の問題は、病院に行ってなんとかしないと
無理そうなのでそっとしておきます
抜けたら
もう批判も何もしません
忘れます
忘れて自主的に題目を上げます


一人仏教が一番です◎


【コメント1】
お、思いっきり言っとられますね。(笑)

非常に鋭いご理解であるとおもいます。
良識的な学会員さん、というのも、某コミュでご発言を拝見致しましたけど、「自分は普通にやってますから~。」と、組織としての問題に向き合うことなく、外向きにも,内向きにも,非常に無責任な態度ですよね。

組織のあり方が生み出す問題を、「ま~、そうなんですか、私のまわりでは聞かない話ですね~。」などと言って個人の資質の問題としてすまそうとするから、トラブルに遭われた方の怒りはいや増しに増すのでしょう。

【返答1】
そこまで言って委員会でぶちまけたいです!笑

早くに気づいて良かったです
「組織=自分」と言う暗示にかかっていないので
するっと謎を解く事が出来ました。汗

夫の様な人は
その部分には触れて欲しくない

組織に賛同してくれる人は大歓迎!
でも
組織の不思議に触れてくる人は、嫌い
ってなるのだと思うんです。

人が心から信仰しているものにケチをつけるのか
差別反対
ってなるのです><

組織に関わりの無かった人は
「批判を伝えても、他人事みたいに言うんだなぁ。無責任団体だなぁ。」
って普通に思いますが

ドップリ心を持っていかれている中の人は
組織=自分だからこそ
その様に組織のあり方を批判されると自分から切り離します
自分は違うと言う事で
(実は組織も違う)と言う風に言い聞かせているのかもしれないです
深層心理では。汗

都合よく解釈出来る批判と、賛美は受け入れて
耳が痛い批判は愚痴や誹謗や魔と言う風に変換されてしまいます

これも凄い!

だから
無責任発言をする人は
そんなつもりでは無く
ただ、自分の心を守っているだけのかもしれないです゜д゜

【コメント2】
>無責任発言をする人は
そんなつもりでは無く
ただ、自分の心を守っているだけのかもしれないです゜д゜

私もそうだとおもいますよ。
師弟不二、っと徹底的に心にすりこまれていれば、師への批判は直接自分にたいする批判になりますもんね。

それともう一つ思うのは、学会員であるという理由で迫害されてると思う人は、今一度自分の所行をチェックなさったほうがいいと思うんですけどね。
学会員としての行動故に嫌われる場合もあるだろうし、学会と直接には結びつかないご自身の行動様式への批判までも、「学会員だから迫害される」(自分は悪くない)として受け止めてしまうこともあるのではないでしょうかね~。

浄土門は「自分はなんとどうしようもない悪人であることか」という深い深い内省から始まる信仰ですから、反省力はばっちりだと思います。

・・・一応、日蓮宗のわたしが言うのもなんなんですけど。(笑)

【返答2】
ちなみに
此処まで書いた事柄は
学会員個人の人格否定や誹謗中傷をしている訳では無いのですよね
だけどドップリ嵌っている方々はきっとこれらの文を見たら
非常に心を痛めると思う

違うのに組織と自分を切り離せば良いのに。泣

学会で救われたんじゃなくて
自分で自分を救ったんですよね

自分が、社会的に成功したり
職場でいい感じになったりすると
師匠を偉大たらしめるのは自分達の指名だから
もっと頑張るとか仰るんですが
それらの成功は先生の成功では無くて
全て本人だけのものなんですよね

困難を乗り越えられたのもご本尊様のお陰だとか
学会のお陰だとか言う人が沢山おられるけれども
困難を乗り切って幸せになったのは全て自分の力のお陰なんですよね

人々の幸せは学会じゃ無いと作れないって言う風に思わせるやり方
は酷いです
幸せの横取りです

きづけ~きづけ~~~~~(念)

組織と自分を切り離して考える事が出来る様になれば
わが身を振り返って考える事が怖くなくなると思います><

たまに傲慢な学会の人がいますが
巨大組織S学会=自分が出来上がっているのかもしれないですね
だから、謙虚な気持ちがどんどん薄れていくのかもしれんです。汗

浄土門さんは
日本人の心傲慢を恥じる心にピッタリマッチしますから
沢山広まった宗派なのもうなずけますね~

本当の、普通の日蓮宗はどんな感じなんでしょうね?
ぶっちゃけ学会は
日蓮さんの本当の思想を受け継いでいるとは思えません。汗


【コメント3】
あ。
人様の日記に、嵐を呼ぶような発言をしてしまったな、と思って削除しにきたんですけど、フォローなレスが・・・。

本日の新聞の占いに「度胸のよさが裏目に。のるかそるかでは9割方そる日」
と書いてあったので。(笑)

すみません。。。
私,レスが入ったコメントはよくも悪くも削除しない、というのを基本としているのですけど、個人的に思いを馳せる方があってお困りでしたら削除してください。

ふつうの日蓮宗・・・ホームページなんかで当たり障りのないお勉強はできそうですけど、ナマな感じはよくわかりません。
お寺にお上人がおられないのです~。
在家的にはふつーに葬式仏教化してますけど。

【返答3】
なんと!そんな予言が…!笑

あっ全然とっても貴重なご意見ですから
残させて頂きたいです><
大丈夫だと思いますよ~v

ふむふむふむ
そうなんですね、日常的にお寺にはいらっしゃらないんですね~?
葬式仏教
良いと思うんですけどね
お葬式って、亡くなった人の為ではなくて
残された人の為にあるものだと思うんですよね

!そういえば
私は昔、インドで日本のお寺にお世話になった事があるのですが
そこの住職さんが日蓮宗の方でした!
確か、日本山って名前のお寺でした◎
とってもザックバランとしていて
江戸時代に親しまれていた日蓮聖人のお名前
「おそっさん」って感じの方でしたね~

粛々とした住職さんって感じではなく
アグレッシブなお方でした
インドから伝わった仏教を
今度は日本がインドに伝えて守ってゆくんだ
と仰っていましたね++

ステキです!
===以上引用===

質疑応答131

【質問】

今日ある人と会ってきました。そこで非常に悩んだことがありました。

これは講師部員としてこう思うとか、そういうことでなくて、仏さまの教えはこうですよ、

という立場で、どうか教えてください。布施についてお聞きします。財施についてです。

ここに一万円あるとします。自由に使えるお金だとします。

私ならほとんど迷わず仏法の為になることに遣います。
(生活するうえでの金銭が満たされている前提でですが)

私は阿弥陀如来のご苦労、十劫の間待ち続けて下されている阿弥陀様のご恩を思うと、とても申し訳ない気持ちになります。

そしてはやく南無阿弥陀仏を受け取らせて頂かねば、と思うと同時に、多くの人に本当の幸せになってもらいたいと願わずにはおれません。

そう思うと、仏教では布施が勧められています。

顕正する相手に、財施をし、よい関係をつくり、仏法をお伝えしていく。

(たとえば新入生に食事をご馳走するなど)

これはよいことだと思います。そしてお金が消費されます。

次に、仏法では御法礼というものがありますね。

法施に対して財施でお返しするということです。これもよいことだと思います。

そしてお金がやはりかかります。さてここで質問です。

前述の通りここに一万円あります。

仏法の為に遣うなら、どうするのがよいでしょうか?

顕正相手にたくさん財施するのと、御法礼を多くするのと、

どちらがより勧められることなのか?

どのように仏教では教えるのでしょうか?

A.どちらも財施ですから、まったくあなたの自由です。どちら
に遣おうと、あなたの宿善になります。

B.どちらも財施ですが、○:○(例えば5:5など)にするの
が適切でしょう。

C.善知識をおろそかにすることは謗法罪です。全て善知識にご
喜捨しましょう。そうしないのは仏法が全くわかっていないか
らです。三福田の恩田の教えの通りです。

D.阿弥陀仏が喜ばれることは、大悲を伝えることですから、顕
正することに全力注ぎましょう。御法礼は気持ちだけでいいで
す。

E.その他(これなら具体的に教えてください)

自分で考えますと、上の様に、さまざまな答えが考えられて、
とても悩みます。

どうすることが、仏教で善であるか、教えていただけないでしょうか?


【回答】

 まず、私も時々、間違った言葉遣いをしますが、仏法者に対しては「布施」と言わずに「供養」と言います。意味合いが違うからです。

「布施」は相手を幸せにするためにするもの、
「供養」は自分が幸せになるためにするものです。

 仏法者と縁を深めることは、布施を頂くことになるので、「供養」は自分の幸せのためということになるのです。

「布施」は既に幸せになった人が、周りの人も幸せになって欲しいという気持ちで、するものです。

 不幸な人には、相手に幸せになって欲しいと、心から思うことが出来ませんので、そういう人は「供養」しか出来ません。

 ですから、まず最初に勧められているのは「供養」です。


 観無量寿経では、三福の最初に、世福が教えられています。

●彼の国に生ぜんと欲する者は、当に三福を修すべし、一には父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。(観無量寿経)


 この観無量寿経の御心について、善導大師は、観無量寿経疏に、以下のように書かれています。


●しかるに仏在世の時、時年飢倹せるに遇値ひて、人みな餓死して白骨縦横なり。

 もろもろの比丘等、乞食するに得がたし。時に世尊、比丘等の去りぬる後を待ちて、独り自ら城に入りて乞食したまふ。旦より中に至るまで門門に喚び乞ひたまへども、食を与ふるものなし。仏、また鉢を空しくして帰りたまふ。

 明日また去きて、また得たまはず。後の日、また去きたまふに、また得たまはず。たちまちに一の比丘ありて、道に逢ひて仏を見たてまつるに、顔色、常よりも異にして飢相ましますに似たり。

 すなはち仏に問ひたてまつりてまうさく、「世尊いま、すでに食しをはりたまへりや」と。仏のたまはく、「比丘、われ三日を経てよりこのかた、乞食するに一匙をも得ず。われいま飢虚にして力なし、よく汝と共に語らんや」と。比丘仏語を聞きをはりて、悲涙して自ら勝ふることあたはず。

 すなはち自ら念言すらく、「仏はこれ無上の福田、衆生の覆護なり。われ、この三衣売却して、一鉢の飯を買ひ取りて仏に奉上せん、今まさしく、これ時なり」と。

 この念をなしをはりて、すなはち一鉢の飯を買ひ得て、すみやかにもつて仏にたてまつる。仏知ろしめして、ことさらに問ひてのたまはく、「比丘、時年飢倹にして人みな餓死す。汝今、いづれの処にしてか、この一鉢の純色の飯を得て来れる」と。

 比丘前の如く、つぶさに世尊にまうす。仏また、のたまはく、「比丘の三衣は、すなはち、これ三世の諸仏の幢相なり。この衣、因縁きはめて尊く、きはめて重く、きはめて恩あり。汝いま、この飯を易へ得て、われに与ふることは、大きに汝が好心を領すれども、われこの飯を消せず」と。

 比丘かさねて仏にまうしてまうさく「仏は、これ三界の福田、聖のなかの極なるに、なほ消せずといはば、仏を除きて以外は誰かよく消せんや」と。

 仏のたまはく、「比丘、汝、父母ありや、いなや」と。

 答へてまうさく、「あり」と。

「汝、もつて父母に供養し去れ」と。

 比丘まうさく、「仏なほ消せずとのたまふ、わが父母あに、よく消せんや」と。

 仏のたまはく、「消することを得。何をもつての故に。父母よく汝が身を生ぜり。汝において大重恩あり。これがために消することを得」と。

 仏また比丘に問ひたまはく、「なんぢが父母、仏を信ずる心ありや、いなや」と。

 比丘まうさく、「すべて信心なし」と。

 仏のたまはく、「いま信ずる心あるべし。汝の飯を与ふるを見て、大きに歓喜を生じて、これによりて、すなはち信心を発さん。先づ教へて三帰依を受けしめよ。すなはちよく、この食を消せん」と。

 時に比丘、すでに仏の教を受けて愍仰して去りぬ。この義をもつての故に、大きにすべからく父母に孝養すべし。




 ですから、一番に供養を勧められている相手は、両親だということになります。

 ですが、もし両親に養って頂いている状態であれば、金銭的な意味での供養は、あまり喜ばれないかも知れません。

 現時点では、聴聞の費用や、その他、自らの成長のために使われるのが良いかと思います。

 それが一番、両親に喜んで頂ける結果になると思います。


質疑応答130

【質問】


「即得往生住不退転」は、「至心信楽」を解釈したものだと仰っているお言葉を教えてください。



【回答】


●この信楽をうるとき、かならず摂取してすてたまわざれば、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛のごとくなるがゆえに、金剛の信心とはもうすなり。これを「迎」というなり。『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまえり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがえとなり。「即得往生」は、信心をうれば、すなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即得往生」とはもうすなり。(唯信鈔文意)


 親鸞聖人は、「信楽をうる」=「正定聚のくらいにさだまる」=「即得往生住不退転」と教えられています。

質疑応答129

【質問】


 以下の言葉が、信楽に生まれさせるという根拠だと主張するサイトがありますが、どのように思われますか?

「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。
「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。(六要鈔)



【回答】

 そのサイトは、一応、読みましたが、どうして「若不生者」が「信楽に生まれさせる」という意味になるのか、理解できませんでした。


●「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。(六要鈔)

 このお言葉は、二種深信の解説をされた所です。

●かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく、かの願力に乗ずれば定んで往生を得(法の深信)

 ここで、善導大師が「往生」と仰っているのは、極楽往生です。
「極楽往生できることに疑いが晴れた」と仰っています。
 そのことを、六要鈔では、「無疑」と仰っています。

 これは、若不生者の「生」が、「極楽浄土」だという根拠だと思いますが、どのように解釈すれば、「信楽に生まれる」になるのでしょうか?

質疑応答・128

【質問】


 チューリップ企画の法論を読み、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないことでないか」と思いましたが、如何、お考えでしょうか。



【回答】


 私も、最初に法論を読んだ時は、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないこと」と思っていました。

 ですから、あなたの言いたいことも、よく分かります。

 しかし、この件を御縁に、最近、勉強しなおしまして、非常に重要な違いであることが分かってきました。

 親鸞会の教義の、根本的な誤りにつながっている部分ではないかと、今は考えています。


 親鸞会では、仏教の目的は信心決定だと教えられていますが、これは誤りだと思います。

 仏教の目的は、成仏です。同じだと思われるかも知れませんが、同じではありません。


 仏教では、菩提心を起こし、功徳を積んでゆかねば、仏になることが出来ないと教えられています。

 これは、聖道仏教でも、浄土仏教でも、同じです。

 浄土仏教は他力だから、菩提心も功徳も必要ないと思われるかも知れませんが、そうではありません。


 もともと、教行信証は、選択集に対する批判に応えたものと言われています。

 当時、浄土宗は、菩提心を起こさずに仏になる、と批判されていました。

 菩提心を起こし、功徳を積まねば、仏になれないのは、仏教の常識ですから、当然の批判です。


 それに対し、親鸞聖人は、菩提心に自力と他力の二つあることをハッキリと教えられ、阿弥陀仏のお力によって、菩提心を起こし、功徳を積ませて頂くことによって、仏になれることを、教行信証に明らかにされました。

 阿弥陀仏のお力とは、私達に菩提心を起こさせ、功徳を積ませる働きであり、仏になるまで導いてくださる働きであることは明らかなのです。

 信前の人は、その阿弥陀仏のお力を、撥ね付けてしまっている状態です。

 信心決定は、阿弥陀仏のお力を、受け取れるようになったことを言いますから、信心決定が、仏教のスタートと言っても良いと思います。

 信心決定も阿弥陀仏のお力に違いありませんが、少なくとも、阿弥陀仏が目的とされているのは成仏であり、命をかけておられるのも成仏です。


 親鸞会では、そういうことが、殆ど理解されていないように思われます。

 十住毘婆沙論を読みますと、自力で菩提心を起こし、功徳を積もうとした人が、その限界を知り、敗壊の菩薩と知らされて、初めて他力の菩提心を頂くことが出来るということが説かれています。

 つまり、成仏するとは、どういうことか、菩提心とは、どういうことかを理解せずに、信心決定はありえないと思います。

 ですから、阿弥陀仏が命を懸けておられるは信楽だ、信心決定が仏教の目的だ、と思っているうちは、救われないと思います。


 私は、親鸞会が結成されてから、「私は信心決定した!」と救いを喜び、他人にも伝えたいと、頑張られるようになった方を、殆ど知りません。

 高森先生も、命懸けで布教され、トータルで何万、何十万という人が、命掛けで求めてこられたと思いますが、なぜ救いを喜ばれる方が殆どいないのか。

 ずーっと考えてきましたが、最近は、18願の解釈の間違いが、大きいのではないかと思っています。

 これは、まだハッキリとはしませんし、現時点での考えでから、理解が深まれば変わるかも知れませんが、非常に大事な問題だと思っています。

投稿(7月21日補足)

7月21日の投稿の補足です。

         *         *         *

 皆様、いろいろな御意見お寄せ下さり有り難うございます。

 只なるべく投稿文を手短にと思う余り設問の内容に不備があり、分かりにくく、その意図することがご理解いただけ無かったものがありました。

 それらについて補足説明します。僕の前の投稿文と合わせて読んでいただけたら、よりご理解が得られると思います。


3について

 2千畳、2千畳って自慢してますが、会員さん一人一人の倹約に倹約を重ねた御報謝の集大成だという事が忘れられていませんか?

 学生、年金暮らしの方、育児、介護で働けない人は贅沢をせず何百円を貯めて出しました。働き盛りの人だって同じ思いでした。

 会館に来ながらビデオで聞く様な事がないようにという思いもありました。

 それなのに正本堂が建ったら、それまで学会講師以上が参加条件だった教学講義に活動や年間の本会への献金合計や本会への忠誠を誓う誓約書が追加されました。

 更に講師に合格していなくても献金の額やその他諸条件で特別申請すれば勉強中として出られる抜け道も出来ました。

 こんな事なら会館建立にあたって1円でも出された方は無条件に参加出来る様にしたらという趣旨です。参加費の事ではありません。

 ただ、今の内容なら僕も出る価値はないと思います。


4について

 1円単位というのは貨幣の単位で今の本会の領収書についている福、坪、畳でなく、円に戻して欲しいという意味です。2千円以上に変な単位の領収書が発行されている様ですが、僕は千円位が妥当だと思います。


8について

 ぼんさんのコメントにあるように前の院長の未亡人(先生のお嬢さん)が職員採用の面接にまで出て来て、偉そうに意見して、働くのを断念してしまった人がいたそうです。

 一事が万事同様な事が真生会で多々あり、先生の身内だし、切るに切れず目の上のたんこぶみたいです。

 先生の息子さんの長男も同病院に勤務していて、会ったら挨拶するようにお達しがあったとか。

 そんなことよりもっとこの設問をあげてる別の意味があります。病院の赤字を、建設の際のものか、その後の怠慢経営かはさだかではありませんが、ドメインの余剰金で補填しようとしている噂です。だから5の会計報告も気になってくるのです。


10について。

 これは知る人ぞ知るある事件を、先生が奥さんや娘さんに泣き付かれたのか揉み消した事についてです。

 講師が不倫をしたら除名という決まりがあるにも拘らず、何のお咎めも無かった、あの話の事です。詳しくは私の白道参照のこと。

 証拠を掴んで告発した側が今償いでネット対策などさせられているという酷い噂話まであります。

 本人が反省してやり直す気があれば学院からやり直したらいいのに。でもしないだろうな。厳罰は要らないけど、せめてほかの人と同じような待遇を望みます。



 最後に、たぶん多数の会員が団結して異議を申し出る圧力団体みたいなものが無ければ、このまま会の言いなりになるしかないと僕だってわかってますよ。でも出来ない。先生だって揉み消しの嘘以来誰の言うことも聞かれないし、特に教学講義のとき、ご高齢でお疲れかもしれないけど、椅子にふんぞりかえるのだけはやめてほしいかな。

 だけどあの2千畳が廃墟になるのは非常に勿体ないと思いませんか?

投稿

 昨日紹介した方からの別の投稿です。

         *         *         *

 親鸞会の話のみを聞いていると、おかしいことでも、正しいと思ってしまうのが不思議です。

 因果の道理が説かれている仏法を聞かせて頂いている会員さんで、世間の人より幸せそうでない人が多いのは変だ、という当たり前のことさえ分からなくなっていました。

 善知識の言われることに疑問を抱いてはいけないという無意識の働きがそうさせたのか分かりませんが、言われることに疑問をはさまず納得するのが近道だと思っていました。

 真実のかけらのないのが本性なのだから、自分の感情や疑問に従ってはいけないと、人間の素直な感覚に対して麻痺していたのかもしれません。

 仏法を変にややこしく、人に知識欲を自慢したくなるような、ちょっと斜めの角度から聞かせて頂くのではなく、もっと、一般的にも当たり前で単純で素直に「善因楽果悪因苦果自因自果」「廃悪修善」を実践していくのが正しい仏法ではないかと、今のところ思います。

「善因善果悪因悪果自因自果」が分かったら廃悪修善の心が起きる、と説く一方で、
真実の自己は善のひとかけらもできない者なんですとか、これこれこういう時の善でも、こう考えれば結局自分の為に善をやっているので、雑毒の善なんですとか、一切衆生必堕無間ですとか、善が出来ない自分だと知らされるまで善にをやりなさいとか、善が間に合って絶対の幸福に救われるのではありませんなど、という結論を教えられて善をやろうという気が起きるはずがないと思います。善をやる動機がありません。精神的にも健全になれそうもありません。

「善因楽果」だから素直に楽果を受けるため、と素直に理解すればいいように思いました。

 親鸞聖人でさえ化土往生を説かれていると聞きますので、こういう教え方は仏法がまだそんなに分かっていると言えない私でさえ、今考えるとおかしいなと思いました。

投稿

現役会員の方からの投稿です。

         *         *         *

 お忙しい中、詳しいご回答、まことに有難うございます。非常に長文になって申し訳ありませんが、清森さん上田さんに今まで聞かせて頂いた事を今回の質問に対するご回答で、自分なりに理解をまとめてみました。

 もし間違った理解があればご指摘いただけると大変ありがたいです。

 仏法をお伝えする活動で苦しいと感じたのは、正しい仏法を伝えていたかどうかという前に、仏法を実践していなかったということが分かりました。

 私の場合は、苦しいと感じた原因に、相手に押し付けることと納得できなくてもやっていたことが大きいと思いました。

 相手が明らかにあまり関心がなくても、ここで伝えられなければ、相手を地獄に堕としてしまう、相手にとっては、一生に一度のチャンスなんだという脅迫観念で強引に押し付けざるを得ませんでした。

 その結果、断られると、自分の力不足によって相手を地獄に堕としてしまったという罪悪感と、自分が真実だと思って聞いてきたことが、相手に分かってもらえなかったということによって、自分の思想・全人格が他人に否定されていると思い、本当に今聞いていることは真実なのだろうか、という喪失感とで苦しみを感じました。

 また、清森さんが「納得できないことはやらない」と言われていることと、ちょっと違う意味かもしれませんが、もし、親鸞会で聞いている仏法が真実だと思ったら、何も新勧という機会がなくても自ら進んで他人に伝えると思います。よく言われる、おいしいそば屋のたとえの通り、言わずにはおれなくなると思います。

 そういう人もまれにおられましたが、何かの機会がないとやらないということは、まだ納得していない部分があるからだと思います。それでも他人に伝えるままが自分に伝えることになり、十分に納得していなくても、他人に伝えることによって納得していくのだからやりなさい、と言われてきましたので、まだ自ら進んで他人にお伝えしようというところまで納得していなくても、無理に勧誘していました。

 それが苦しみを感じた原因なのかもしれません。

 それにお伝えしている内容自体も、この世は無常で、すべての人は悪ばかりやっているから、死んだら無間地獄だ、それを回避するには信心決定するしか道がないという、相手を幸せにするどころか、失望感と脅迫観念を与えるものですから、聞いた人の多くは喜べるはずがありません。
 
 もちろん、最初は死んだら地獄だから、仏法を聞きなさいとは言わず、仏法には絶対の幸福があるという導入の仕方ですが、根底には地獄を回避するために絶対の幸福になりなさいというものがあります。
  
 真実はそういう面もあると思いますが、親鸞会の教え方だと仏法を聞く目的は地獄を回避するためだけになり、絶対の幸福というなれるか分からない未来の幸せを求めるためだけになってしまいます。
 
 親鸞会では現在の一念が大事で、死んだら仏ではなく、現生不退、平生業成だと現在を強調しますが、信心決定は40年以上はかかるそうですし、それに、今の苦しみは、後生の苦しみから比べるとほんのチョイのことで、絶対の幸福になる為には世間で言われる相対の幸福を得るよりも努力しなければなれません。ですので、苦しい道なのは当たり前だということで話は終わり、先の地獄・先の絶対の幸福ばかりに目が向いていて、実際は、現在のことをあまり問題にしていないように思います。

 ところが、清森さん上田さんから仏法を聞かせていただいていると、今から幸せになるのが仏法だというように分かってきました。上田さんのご説法を聞かせていただくと、どうすれば今の苦しみが減り、今から幸せになるかということが大半です。お釈迦さまも浄土三部経を説かれるまで、今の苦しみをなくし、幸せになる方法を長い年月をかけられて話してこられたとお聞きしました。

 親鸞会では、横の線の軌道に乗せるために因果の道理を説かれたと教えられますが、いつも、阿弥陀仏の本願という目的地ばかり話され、道程はほとんど話されないように思います。

 道程は因果の道理であり、廃悪修善だと思うのですが、言葉と意味は教えて頂いてきましたが、具体的にはどう実践すれば良いのか分からず、日々の言動が廃悪修善になっていなかったと思います。

 今まで幸福と感じることは少なく苦しみが多かったのが証拠だと思います。
 五正行の実践(お勤め)や聴聞が道程だというのが今までの理解でしたが、それは浄土三部経で教えられている実践で、お釈迦様がそれまでにずっと説かれたのは、因果の道理ではないのでしょうか。

 正確には違うのかもしれませんが、横の線を進ませていただく軌道に乗せてもらうための因果の道理がスッポっと抜けているように思えてきました。因果の道理から導かれる廃悪修善をまず実践していかなければ、横の線に乗ることもできないのではないでしょうか。親鸞会で言われる廃悪修善の善は聴聞・お勤め・法施・財施に限定されているように思います。形は六度万行を勧めていますが、それは財施に導くためのものに思えます。

 今考えますと、自分も含め周りの多くの人の法施・財施以外の六度万行の実践は、親鸞会で「世間の人」と言われる方たちと同じか、それ以下だったように思えます。

 勧められる善が聴聞・お勤め・法施・財施ばかりなので、人との信頼関係はあまりないように思えました。実際私も会員さんより世間の人といわれる友達の方が親しいし、一緒にいて楽しいです。

 聴聞にしても、一方的に聞くばかりで、清森さん上田さんに教えて頂くように聞・思・修ではありません。

 法施にしても、正しい仏法を人にお伝えしているのか分かりませんし、財施にしても、何に使われているか分かりません。

 結局、何倍にもなって幸せが返って来ている人は、親鸞会で言われる聴聞・お勤め・法施・財施をしている人より六度万行を実践している人だと思います。

 今、聞かせていただいている仏法は他人を幸せにすることによって自分も幸せになる教えとお聞きしていますので、人との信頼関係も生まれてきますし、おそらく善を実践している人は形にもなって結果も表れてくるでしょうし、生き生きとしているように、みえてくると思います。

 自分が仏法を他人に押し付けようとしなくても、信頼関係が有り、生き生きとしていれば、なぜ幸せそうにしているのか、相手から色々と聞いてくると思います。

 相手が関心がなく拒否しているところに話し込むのは苦痛ですが、逆に聞かれてきたことに答えるのは楽しいと思います。

 この前、清森さんに教えて頂いたことで、お釈迦様から話されるのではなく、お経は、お弟子の質問に答えられる形式になっているということを思い出しました。

 お釈迦様は、聞かれたことにお答えしているだけだということからも、押し付けていないということが分かります。仏法に関心がある人に答えるのは苦痛でも何でもありません。逆に関心がない人に話すのは苦痛に感じることが多いです。

 関心がある人を見つけるまで探さなくても、自分が廃悪修善を実践して、他人を幸せにして自分も幸せになり、深い信頼関係ができ、生き生きとしていれば、関心がある人から尋ねてくると思います。そこで話をすれば、相手も押し付けられていると嫌な顔もしないですし、自分も聞かれたことを答えるだけですので、苦しいことはないです。

 逆に仏法を話すことが楽しくなると、容易に想像することができます。

 親鸞会のように、関心ある人を探しだすまで、あたりかまわず押し付けて勧誘したり、嘘をついて、一時的に成果はあがるかもしれませんが、あとが続いてこなかったのは学生部をみれば明らかです。自分の場合は40人ぐらいいた部員が4年生まで続けた人は数人です。

 それに、後ろめたく肩身が狭い思いをして仏法を求めてきました。

 もちろん、お伝えしてくださったご恩は忘れていませんが、押し付けでなく、他人から他人へ親から子供へ、子供から親へ、兄から弟へ、親友へと信頼関係の中で自然と伝わったならば、最初はゆっくりとかもしれませんが、言葉は悪いですが、やがて、ねずみ算式に増えていくような気がします。

 ただ、地獄を回避するためには絶対の幸福にならなければならないというのでは伝わっていかないと思います。

 なぜなら、想像もできない非現実的なことだからです。それよりも今幸せになっていくという実感や今の苦しみが軽減していくという体験が得られなければ納得できませんし、継続しないと思います。
 
 もしかしたら、親鸞会が今までのような勧誘方法をとっていなかったら、実際のところ私は聞くことができなかったかもしれませんが、だからといって同じような勧誘をしなければならないという考え方は良くないと思います。

 もし仮に今まで親鸞会が、清森さんや上田さんのように組織的な伝え方でなく、押し付けず、信頼関係のある人の中で伝えられていったならば、聞く人が増えることはゆっくりでも減ることは少なく、長い年月の時間がかかったかも知れませんが、もっと日本中周りに仏法が浸透して、そういう経路で自分も聞くことはできたのではないかと思えます。(ただし、正しい仏法を伝えていることが前提ですが)

 結果論になりますが、今はネットが発達して仏法に関心ある人は自ら探せます。周りの人から伝えられなくても、そういう経路で仏法を聞くことができたかもしれません。もし信頼関係のある人の中で伝えられ、また正しく仏法を教えられていたならば、自ら進んでネットや本や色々なメディアで発信する人があらわれ、批判的なサイトやメディアは現れず、親鸞会を知るきっかけがたくさん増え、多くの人が自ら関心をもって知ることが出来たと思います。

(一時的な成果の為に嘘や仏教を都合の言いように解釈しているようですので、もはやネットやその他のメディアで広めようとするのは、絶望的になったと思います。逆に最大の脅威になっています。)

 ですから、親鸞会の勧誘方法が正しい仏法の実践であったら、私が聞くことができるチャンスはもっと増えていて、大学の新勧でなくても、正しい仏法を聞くことができたのではないかと考えてもいいのではないかと思います。

 学生の時の新勧でなければ、仏法を聞くことはできなかったという考え方はやめようと思います。

 そうしないと親鸞会の勧誘方法のおかげで聞くことができたのだから、親鸞会にご恩を返すために、本会の言われるままに嫌でも、これからずっと苦しい勧誘をしていかなければならないという呪縛から逃れられず、つらいだけですので。

 正しい仏法の実践による勧誘方法かどうかは別として、親鸞会があったから仏法を聞くことができたのは事実です。

 だからと言って、必ず親鸞会の勧誘方法を実践しなければならない、ということにはならないと思います。

 たとえ親鸞会の勧誘方法によって今の自分があるとしても、それは親鸞会のおかげではなく、釈尊・親鸞聖人のおかげだと考えるべきだと思うからです。

 親鸞会が正しい仏教を伝えていた場合に親鸞会のおかげということになりますが、正しい仏法を伝えていない場合、親鸞会は、あくまで、正しい仏法を聞かせていただいた“きっかけ”であって、“おかげ”は釈尊・親鸞聖人にあると思います。

 言いたいことは、親鸞会が良い悪いということではなく、親鸞会がきっかけで仏法を聞くことが出来たからといって、親鸞会の勧誘方法をしなければならないということには、ならないということです。

 あくまで“きっかけ”ですから、親鸞会の教えに従わなくてもいいはずです。

 “おかげ”はどこにあるかというと、釈尊・親鸞聖人なのですから、親鸞会が“きっかけ”で聞くことができるようになったとしても、
従うべきなのは、“おかげ”である釈尊・親鸞聖人の教えになると思います。

 長々とすみません。

 このように考えますと、ご恩があるのだから、時には嘘も必要だということや、相手を地獄にたたき落としてしまうから、押し売りのようになってもやらなければならない、仏法をお伝えすることが苦しくても、やらなければ宿善は厚くならない、自分が地獄に落ちないためにも、どんなに苦しくてもお伝えしなければならない、善知識の命がけのご苦労のご恩をお返しするために、どんなに苦しくてもお伝えしなければならない、でも、なかなかできない、という板ばさみで苦しむことは少なくなると思います。

 これらは親鸞会の教えであって、仏法の実践でないかもしれないからです。

 もちろん、仏法をお伝えするのは嫌だというのではなく、喜びで楽しくお伝えしたいです。

 そのためにも急ぐことは、廃悪修善を行って、周りも幸せになってもらい自分も幸せになって行くことだと思いました。

 自分の幸せよりも相手の幸せを優先して、苦しい中、布教をやってこそ、利他の精神だというのは、言葉はきれいですが、まず自分が幸せになっていかないと、仏法を納得して続けていくことは難しいです。

 求道は苦しいものだと自分に言い聞かせて耐えていても、結局は続かなくなり、自分も仏法を聞けなくなりますし、人にも仏法をお伝えすることはなくなってしまうので、自利も利他もなくなってしまうと思います。

 善を行って、幸せという実感が得られれば、たとえ肉体的には大変でも、続かないということは無いと思います。

 親鸞会で辞めていく人が多いのは幸せが実感できない(苦しみばかり実感する)のが原因の一つではないでしょうか。

 辞めるまでいかないでも私のように活動に積極的にならないは、活動することによって苦しみばかり感じて、いくら善だと言われたことをやっても幸せが実感できなかったからだと思います。

 宿善になるからという論理で、善をやっても苦しいという矛盾に、思考停止させられていたのかもしれません。

 清森さんのご回答で大分スッキリしたのと、思考方法が変わって苦しみと感じていたことが減りました。

 有難うございます。

 もしかしたら、間違って理解していることもあるかもしれませんが、ご指摘いただけると助かります。お忙しいのに長文で申し訳ありません。今後はなるべく簡潔に致します。


 それでは失礼致します。   

投稿

再度投稿します


 少し前に高森先生へのお願いを載せて頂いた者です。

 思っていたより反響が少なく、はじめの方のコメントのように何も変わらないと、あきらめてしまっている方が殆どなのでしょうか?

 それに2番目以降は田中さんとチューリップの山田さんの論争のコメントに使われてしまい嫌な感じがしました。

 ここで今度は僕自身の考えを明らかにして、皆さんにイエスかノーでもいいし、どのように親鸞会の行く末をお考えなのかお尋ねしたくなりました


1 先生は会員の要望に耳を傾けた方がいいか否か

 善知識としては当然の役目と思います。祇園に食事に来られるとか、同朋の里の信心の沙汰に飛び入りで参加されたら、会員が今何を思っているか解るでしょう。今殆ど使われていない地下道や絵画は要らないと思っている人がほとんどです。
 手紙も幹部のみにせず、今週はどことどこの支部とか週代わりにする方法もあります。それと親展で出されている手紙はもちろんご自身で読んでいらっしゃることを念じます。


2 講師の生活費を出すか否か

 家族がアニメや教学講義すら経済的理由で来られない講師もいます。何とかしてあげてください。


3 教学講義は会館御報謝1円以上の希望者全員無条件で参加の可否

 2000畳ががらがらでは宝の持ち腐れでしょう。


4 会員に対してまともな1円単位の領収書発行の義務があるか否か

 ここは先進国日本で平成の時代ですからきちんとした領収書を出すべきでしょう。


5 会計報告を会員にする必要があるか否か?

 出来ないとなるとごまかしているんじゃないかと疑われます。


6 御著書の引用等をはっきりさせる必要があるか否か

 多くが大沼、伊藤両氏のものであると判明したら、ご自身の華光会とのかかわりなども会員に知れてしまうと思っているかもしれませんが、とっくに皆気づいています。


7 会員が自由にものを言うことへの可否

 蓮如如上人がうそつきになるのはまずいでしょう。


8 真生会のプロに任せるべきか否か

 素人は所詮素人です 言うまでもありません。即刻効率の良いものに変えて下さい。


9 大学の勧誘で親鸞会を名乗るべきか否か

 大学にカルト扱いされたり締め出されたり、情けない限りです 正々堂々として残った人が続けて聞かれるのではないでしょうか。学生に身の丈以上の御報謝は無理。


10身内でも違反した時には厳罰にすべきか否か

 親鸞会は世襲と先生はお考えだからスルーですか 例外は認めないで下さい。


以上

親鸞会教義の相対化・61


つづき


 以上、『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』を相対化させていただきました。

 私見ですが、渡部氏は、

「浄土真宗の教えこそが全人類が救われる唯一無二の妙法なのだ」
「高森先生だけが本当の親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏の本願の真意を明かにしている」

という思想を先行させて、資料を恣意的に読んでしまっているために、これほど不当なキリスト教理解を行うことになってしまったのだと思います。



 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、―かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。(896)


 これは、以前紹介させて頂いた『スッタニパータ』の釈尊の言葉です。これらのスッタニパータの言葉から顧みて、渡部氏が行ったキリスト教への批判ははたして仏教徒としてふさわしい振る舞いだったと言えるでしょうか?
 甚だ疑問であると私は思っております。

 それでも個人の信仰は自由です。したがって渡部氏や本書に影響を受けた方が本書に書かれた内容を相対化せずドグマ化していくこともまた自由です。

 しかし、もしも「仏教者」を自称するのであれば、上記の釈尊の言葉に沿っているか常に自己を内に省みるべきだと思います。
 また、法然上人の七箇条起請文も、釈尊のスッタニパータと同様の精神に貫かれた文章です。親鸞聖人御自身も七箇条起請文には署名されています。
 相手のことをよく学び知ることなしに批判することは、どう考えても、仏教徒としてまた念仏者として厳に慎むべきことであると言わざるを得ない、というのが私の率直な感想です。


 なお、今回、同じく親鸞会関係の以下の本も同時に読ませて頂きました。

★浅倉保著『かくて私は人生の目的を知った』

 この本も渡部氏の本と同じように、最終的に、「親鸞聖人の教え」「浄土真宗」の教えに「人生の目的」を見出していきますし、高森先生の教えを絶対視しているものではあります。

 それに、「哲学・文学・宗教の分野で、より多くの著名な人が親鸞聖人を高く評価している」という「統計的結論」(?)に基づいて親鸞聖人を選ぶというプロセスに関しては、少々問題があると思います。
 高山樗牛や宮沢賢治は存在が無視されていましたし、浅倉氏が親鸞聖人の信奉者にカウントしていた内村鑑三が『代表的日本人』で日蓮聖人を取り上げ、非常に高い評価をしているのは有名な話です。

 しかし浅倉氏の本には、少なくとも先行する思想による資料の恣意的な解釈というのはありませんでした。
 それにこの本は、浅倉氏が自分で模索して答えとなる道筋を見出していった過程が綴られたものであり、浅倉氏自身の感動を伝えるという純粋な動機で書かれています。
 故に、細かい問題はともかく、同じ仏教者として心動かされ、共感できる部分が沢山ありました。

 最後にそのことをお伝えしておきたいと思います。


以上

親鸞会教義の相対化・60


つづき


 それから、キリスト教における「利他」の問題に関しても、少し述べておきたいと思います。

『新約聖書』には以下の記述があります。

===以下引用===
「一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコへの道で強盗におそわれ、半死半生で道ばたに倒れていた。そこに一人の祭司が通りかかったが、かかわりあいになるのがいやだったのか、死人にさわると汚れるという「モーセ律法」に忠実たらんとしたのか、とにかく見ぬふりをして通りすぎていってしまった。しばらくして、エルサレムの神殿でいろいろな雑用の任にあたっているレビ人の一人が通りかかったが、彼も道の反対側を通りすぎていってしまった。そのあと三番目に、一人のサマリア人が通りかかった。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、ふだんは道で出会っても挨拶もしないというふうで、ユダヤ人はサマリヤ人を外国人同様に見なしていたが、そのサマリヤ人は倒れていたユダヤ人を見て可哀相に思い、会報して、宿屋までとどけ、宿代まで払ってやった。」
ここまで話してから、師は律法学者にきかれたのである。
「あなたはこの三人のなかで、誰が強盗に遭って倒れていた人の隣人になったと思うか。」
「彼を憐れんで助けた第三番目のサマリヤ人だと思う」という彼の返事をきいてから、師は言われたのである。
「ではあなたも彼と同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10章25節~36節)
===以上引用===

 これは、「隣人を愛しなさい」という教えを説いていたイエスに、律法学者が問い掛けた「どのようにして、隣人だと、明らかにできるのか?」という問いに対する、イエスの喩え話です。

「サマリア人」とは、イスラエル人と、アッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々とその子孫で、混血の人であり、ユダヤ人によって差別され、口も聞いてもらえなかったような存在です。

 イエスは、この喩え話をするのに、あえてこの「サマリヤ人」を主人公にしました。そして、差別され忌み嫌われている人の中にも、神の愛が生きており、相手が誰であり、自分を必要としている人の隣人になるように勧めるように教えたのです。

 そしてイエスが「隣人を愛しなさい」と述べたのは、それが天国へ行くための条件であるからではなく、「神が愛してくださった」ことに対する「報恩」であり、それは「エゴイズム」とは全く異なったものです。

 井上神父は、自らの求道の遍歴を綴った『余白の旅』で以下のように述べておられます。

===以下引用===
 私は更にアガペーについて考えさせられる、ある機会に出会ったのである。それはいつものように、鞄を片手にさげて大学から修道院に帰る途中のことであった。一緒に歩いていたスイスの友人が、次ぎのようなことを私に話してくれたのである。それは修道女(シスター)たちが経営しているある病院から、国立病院へと移っていったある患者の話であった。

「シスターたちは本当に親切にあなたたちの世話をしていると思うのに、どうして国立病院などに移りたいのか」
という友人の質問に対して、彼はこう答えたというのである。
「この病院には愛がない。確かにシスターたちはよく面倒をみてくれる。しかしシスターたちがよく面倒をみてくれるのは、私たちを大切にしていてくれるからではなくて、彼女たちが天国に宝を貯えるためなんだ。私は彼女たちの天国行きの梯子にはなりたくない。」

 この話は私たちに大きな問題を投げかけた。確かにその病人はひねくれているには違いない。しかし、もしもシスターたちが天国に宝をつむために奉仕しているのだとしたら、彼のいうことにも一理があるのではないか。たとえそれがどんな高尚な目的であったにせよ、よしんば天国に宝をつむことであれ、その人をキリスト教に改宗させることであれ、悲愛(アガペー)というのは、その人の心をかけがえのないものとして大切にすること以外に他の目的や意図をもって決してなされてはならないものなのではないのだろうか。他人の思いを受け入れ、感じとるというイエスのアガペーの姿勢の難しさと大切さというものを、私はこの問題からしっかりと心にたたきこまれたように思うのである。

 他人から親切を受ける身の立場になってみれば、その人が本当に自分のことを思ってしてくれているということに、人間としての喜びを感じるはずである。たとえそれがどんなに高尚な目的であろうと、神様のためということであろうと、それは意識されていてはならないものではないか。受ける側からすれば、それはあくまでも自分を手段としてその人自身の別の目的を達成しようとしているふうにうつるのではないか。そうであれば、誰しも人間としてやはり傷つくに違いない。そしてその不愉快さと傷は、皮肉なことに、その親切や奉仕の度合いが大きければ大きいほど深くなっていくもののように思えるのである。

 アガペーは、自(おのずか)らなるものであり無心からのものでなければならない。もしもこれが私たちにとって至難のわざであるならば、むしろ素直に自分のためのわざであることを認めた方が、相手は傷つくことが少ないのではなかろうか。
(井上洋治『余白の旅思索のあと』日本基督教団出版局pp.
98-100)
===以上引用===

 私は、井上神父というキリスト教者の言葉に、非常に考えさせられ大きな感銘を受けました。

 一方、「これだけよいことをすれば、これだけのよいことがある」というような言い方で「善」を勧め、しかもその「善」を行うことによって、一定のポイントを貯めないと阿弥陀仏の救いを得られないかのように教える「教え」があるとすれば、 その「教え」こそが「自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させたもの」だと私は思っています。

 渡部氏が批判したキリスト教と渡部氏自身が所属する団体、どちらが「自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させた」ものを教えているか?

 清森問答の読者の皆様一人一人が、じっくり考えて判断していただきたいと思います。


つづく

親鸞会教義の相対化・59

つづき


【pp.116-117】
神の愛は巨大なエゴ

 結論から言うと、神の愛とは、自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させたものに他ならない。愛憎一如そのままに、裏切られた時の仕打ちたるや、想像を絶する残虐さである。
 アラビヤという苛酷な自然風土の中で、徹底的に苦しい生活を強いられた古代ユダヤ民族が、天地万物を見て、あたかも大工が家屋や道具を造るように、偉大な神があって、それらを創ったのだろう、そして一切を支配しているのだろうと想像し、一切の不幸や災難も、神の罰として恐れたのも一応無理からぬことである。
★★★


井上神父が書かれたキリスト教の入門書には以下のように書かれています。

===以下引用===
 ユダヤ教の中心は、紀元前千二百年頃、神ヤハウェがシナイ山頂でモーセという指導者を通してあたえた、いわゆるトーラーと呼ばれるモーセ律法の遵守にあります。シナイ山という山が何処にあるかは、幾つかの候補地があがっていて現在もまだ決定的には特定されていませんが、いずれにしても強烈な光と影の砂漠の只中に位置していることは疑う余地はありません。
 その意味ではユダヤ教は典型的な【砂漠の宗教】であり、従って神ヤハウェは、「言うことをきく者にはゆたかな祝福を、言うことをきかない者にはきわめて厳しい罰を」という父性原理の強い神なのです。『旧約聖書』の中の『出エジプト記』二〇章には、律法をあたえるにさいして、次のような厳しい神ヤハウェの言葉がのっています。

「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」

 この父性原理の極めて強い、砂漠の宗教であるユダヤ教の神に対して、イエスの説いた神は、むしろ母性原理の強い神でした。この神の悲愛(アガペー)は売春婦の罪を責めるおりも先にまず受け入れて一緒に食事をし、自分を裏切る弟子たちをもゆるすイエスの姿勢に如実に示されています。
 『ルカによる福音書』十五章には、売春婦などと一緒に食事をとることをユダヤ教の人たちから非難されたイエスが、その答弁として語った二つのたとえ話がのっています。
 一つは、九十九匹の羊を野原に残しておいて、迷った一匹の羊を探し求める羊飼いのたとえ話で、神は、このように迷ってしまっている、悲しく重い人生を歩んでいる人を決して見捨てることなく、どこまでも探してくださる神なのだ、というのです。
 いま一つは、ふつう「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれているたとえ話です。
 ある人に二人の息子があったのですが、長男はちょんと父親を手伝って真面目に働くのに、働くのがいやになった次男は、財産の分け前をもらって旅にでてしまいます。しかし酒と女で金を使いつくしてしまい、どうしようもなくなって、父のもとに帰ってきます。
 息子が帰ってきたのを遠くから見つけた父親は、家から飛びだしていき、その放蕩息子を家に迎え入れたというのです。神はこの放蕩息子を迎える父親のような方なのだ、だから私は売春婦などを迎え入れて食事をしているのだ、というのがイエスの答弁だったわけです。
 売春婦にしろ、このたとえ話の中の放蕩息子にしろ、彼らが改心するよりまえに、まず神もイエスも、これらの人を受けて入れていることに注意する必要があります。
 ゆるしが先で改心があとなのです。このイエスの神のとらえ方はイエスがこの上なく湖を好んでいたこと、イエスの重要な直弟子たちの多くが湖の幸でやしなわれた漁師たちであったことにも大きな遠因があるのかもしれません。その意味では、ユダヤ教が典型的な「砂漠の宗教」であるのに対し、キリスト教は「湖の宗教」であると言えましょう。

井上洋治著『キリスト教がよくわかる本』(PHP出版)pp.56-57
===以上引用===

『旧約聖書』の神と『新約聖書』の神との違い。
ユダヤ教とキリスト教の違い。

・・これは、どのようなキリスト教の入門書にも書かれている内容ではないかと思います。

 渡部氏は、それすらもご存じなかったようです。


つづく

親鸞会教義の相対化・58

つづき


実際に信仰していない私が、キリスト教を信仰して獲得される境地を語ることはできませんので、代わりに私が最も尊敬するキリスト者である井上神父の言葉を紹介させて頂きます。

===以下引用===
フランクルによれば、どんなにひどい苦しみであっても、それが本当に愛する人のためになっている、本当に何かの役に立っていると思ったとき、私たちはそれを一生懸命背負っていくことができるので、それが失われてしまったら私たちは足もとを完全にさらわれてしまうという事態に直面することになるわけです。
『夜と霧』の第八章は「絶望との戦い」という題名がつけられていますが、この章が何といってもこの本のクライマックスではないでしょうか。
ある夜、もうどうしても自殺したいという人たちを思いとどまらせるために、囚人代表がフランクルに何か話をしてやってくれ、とたのむ場面です。
このときのフランクルの話がまことに素晴らしく、およそ次のような内容のことを彼は語ったのです。


“わたしたちは、殆ど全員この収容所で死んでいくこととなるだろう。
これから私たちを待ち受けているものは、発疹チフスによる死か、過労による死か、ガス室での死か、いずれにしてもいま一度外の空気がすえるということはまずないと考えなければならないだろう。
私たちの人生は、これからの何日間かの苦しみの後に、この収容所で終わるだろう。
それなら、その死までの何日間かの人生に一体何の意味があるのか。
どうせ死ぬならそんな何日間かの無意味な苦しみはやめにして、一刻も早く死んだ方がいいと考えている人たちがあなた方の中にいることを私は知っている。
またそこまでいかないまでも、自暴自棄になり、絶望的になっている人も多いだろう。
しかしそれは、あなたたちが、死ぬまでの苦しみの人生のなかから、何をまだ得ることができるか、というふうに発想しているからいけないのでだ。
そうではない、視点を転換することが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待できるか、という視点をやめて、人生がこれからあなたたちの生涯に何を期待しているのか、という視点に立つことが肝要なのだ。
大げさにいえば、精神世界のコペルニクス的転換が必要なのだ。
この視点の転換をできた人が、死にむかっての苦しみの中にも、なおかつその意味を見つけることができる人であり、その苦しみを前向きに背負って生きていくことのできる人なのだ”


私はこのフランクルの言葉に接したとき、深い感動を覚えました。
視点のコペルニクス的転換。フランクルが、あの真暗闇の、飢えと拷問と疲労と汚物にみちた夜の収容所の一室で語っていることこそ、まさに宗教の世界そのものだからであります。


このフランクルの話を、私なりに、カトリックの司祭として説明させて頂けば、もし【私たちが何かをする】というのが人生であれば、寝たきりになるとか、人の厄介にならなければ毎日の生活もうまくできないとかいうことになれば、人生はもはや無意味だということになってしまうでしょう。
そうなれば、次第に衰えていく視力、聴力、脚力のうちに、ひそかに忍びよってくる死の足音を前にしての孤独と寂寥の苦しみとに、フランクルが指摘するように、人は到底前向きに耐えていけるはずもないでしょう。
けれども問題はそうではなくて、私たちの人生というものは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を表現するものではなくて、神が―神という言葉がお嫌いな方は、私たちをささえている大自然の生命と受けとめてくださっても結構なのですが―【私たちの生涯において己自身を表現させるものだ】、ということなのであります。私はここに宗教の世界の核心というものがあると思っております。


病気になったら、特に自分の子供が病気になったりしたら、何とかして治して頂きたいと願うのは人情として当たり前のことであります。
元旦には実にたくさんの方が初詣をなさいますが、それらのかたがたが元旦に心を一新し、きれいにしてから、あらためて家族の幸せや商売の繁盛を祈願するということも、たいへん美しいことだと思っております。
ただしかし、私は、それは宗教の世界―少しではありますけれど、その世界を生きてきた者として申させて頂きますと―宗教の世界の、何と申しましょうか、あまりいい言葉ではないかもしれませんが、私流の言葉を使わせていただけば、宗教の世界のまだ主体的段階であると思います。
主体的段階とはどういうことかと申しますと、たとえ自分のためではなく人のためであったとしても、何らかの形で、自分がそうなってほしいということをお願いする、願いごとの段階であります。
御利益をお願いしている段階といってもいいかもしれません。
ですから非常に極端ないい方をすれば、神さま仏さまを自分の願いごとに従わせようとしている段階であります。
私はこれを一応主体的段階というふうによばせて頂いているわけであります。
ところがフランクルがいったような、視点が転換した段階は、―私は一応これを主体的段階と区別して逆主体的段階とよばせていただいているのですが―自分がこうなりたい、こうして欲しいという世界ではなく、【あちら様が主になって自分が従になる】世界であります。
そしてこれこそが、学問とも芸術とも、そして道徳とも異なる宗教固有の世界であると私は思っているのであります。


もちろん逆主体的段階になりきるなどということは至難の業でありますが、しかし一度この逆主体的段階を体験するということは、とにかく核心的な宗教体験を持ったということであり、行きつもどりつしていても、決して未体験のときと全く同じになってしまうということはないであろうと思います。
それはどんなに烈しく、長くゆれていても、磁石の針はさいごには北を指してとまるというようなものであろうと思います。


もしお金を一番大切なものとして生きていれば、事業に失敗してスッテンテンになってしまったときには、もはや生きていく元気もなくなってしまうでしょう。
健康だけがすべてであれば、年をとって寝たきりになったり、あと何ヶ月の命だと宣言されたりしたら、もはや生きていく意味がなくなってしまうでしょう。
けれども、そういう価値がうばわれてしまい、全く色あせてしまったようなときでも、その自分を本当に受け入れ、意義づけ、生かしめるのは、そういう逆主体的段階の生き方であって、その意味で、この世界を生きるということが人生では一番大切なことなのではないかと思うのです。


色あせた自分を受け入れることのできる人が、初めて、色あせてしまった隣の人をあたたかく受け入れることのできる人だからです。

井上洋治著『人はなぜ生きるのか』(講談社)pp.13-17
===以上引用===

 繰り返しますが、私は浄土門で言う「信心決定」とキリスト教の「回心」が同じものであるとか、浄土門の「他力」と井上神父が「逆主体的段階の生き方」と言ったものが同じであるとか、そのようなことを言うつもりはありません。

 しかし、この井上神父というキリスト者の言葉を読ませていただいたならば、

【pp.84-85】
確かにキリスト教によれば、この世の禍福はすべて神から与えられた運命であり、たとえそれが苦しく、つらいものであっても試練として耐え忍ぶことが「神のみ心」であるという。それがまた、来るべき最後の審判で永遠の救いにあずかる条件なのだ、と。
ハッキリ言うと、「この世はガマンして生きてゆけ。死んだらお助け」の教義である。
★★★

という渡部氏の言葉が極めて不当なものであることは、明かであると言えます。

 もしも清森問答をご覧の方で、渡部氏の本書を通してキリスト教をわかったつもりになり、本書の受け売りでキリスト教を批判している方がいるならば、とても恥ずかしいことなのでやめるように忠告させていただきます。


つづく

親鸞会教義の相対化・57

つづき


 以下に、友人から教えて頂いたものを転載させていただきます。

 友人は以下の考察から、

・根源的決定に対応する宗教体験は、たしかに世界の宗教の中では極めて稀だが、少なくともバルトや滝沢克己の本を読む限り、キリスト教には同様のものがあると言わざるを得ない。

と結論づけておられ、私もそれに全面的に賛同します。


===以下引用===
 滝沢克己の論文「浄土真宗とキリスト教カール・バルトの脚注に寄せて」(『浄土真宗とキリスト教』(法蔵館)所収)が、一番詳しくそこらへんを書いている文章なのですが、

 滝沢がまとめるには、バルトの説く内容というのは、

「イエス・キリスト」という名を口にするとき、バルトが見つめているのは、

・私たち人間の一切の思い・あらゆる働きからまったく独立に、真にそれ自身で在りかく活きている「何ものか」である。

・この不可見不可思議な何ものかは、一切の資格を問わず、その人が好むか否か、認めるか否かに関係せず、人間の事実存在するところには、必ずそれとして実在する。

・この根源的な関係は、あらゆる関係の変化によっても失われることのない、真実確かな人生そのものの基点、生命の基盤であり、この実在する無償・無限の恵みを己が身のうえに映すところ、絶対無条件のその生命の促しに乗って精一杯活動するところに、はじめて人間としての善き働きも美もある。

・この順序は、不可逆の絶対の関係である。この一事を抜かして、いかなる人間関係も本当に尊重することはできない。この唯一の根源的関係にひたすら忠実に活きることは、それに基づきそこから派生する諸物・諸人の関係を、それとして大切に扱うことになる。

・全人生・全歴史の根底に臨在するこのロゴスに目ざめる時、私たちは、自分がこれまで、この根源的関係に、まったく盲目だったことに、大いなる驚きと畏れをもって告白せざるをえない。

・しかし、この私が、私によることなしに、ただ私の罪を赦して新しく生きることを許しかつ促す恵みの言に乗って生きることが生起する時、そのあたらしい生は、おのずから、己を含めて、人間の世界に跳梁する虚しきものの誘い=罪そのものの結果として、この世界に現れてくる一切の動き・形に対する根強い闘い、限りなく優しく、しかも激しい闘いなる。

というものだそうです。

で、こんな主張をしているバルト自身が、『教会教義学』という著作の長い脚注の中で、世界の宗教の中で、ただキリスト教と浄土宗・浄土真宗の二つの宗教のみが、驚くべき平行関係にあり、この根源的関係を見つめていると言っているそうです。(そこそこいい線をいっているものとして、ヒンドゥー教のバクティ派をあげていますが、この二つほどではないとしています。)

 ただ、バルトが、最終的には浄土宗・浄土真宗への知識の乏しさと誤解から、キリスト教のみを唯一の真の宗教としているのに対し、

 滝沢克己は、バルトの誤りを批判して、宗教として、実存の人の真実の救い、究極始原の基礎もしくは目標にかかわる人間的応答として、本質的な諸点に関する限り、キリスト教と浄土教のあいだに、いかなる矛盾もないとしています。

 私は、以上の見解に、全面的に賛成しています。

===以上引用===

 渡部氏も、仏教・浄土真宗の立場からキリスト教を論ずるのであれば、ぜひともこの論文を読んでおくべきだったのではないかと思いました。

つづく

親鸞会教義の相対化・56

つづき

まず、私が親しくさせて頂いているキリスト者の方が教えてくださった詩を紹介させていただきます。

===以下引用===
「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために、
おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずじていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何も出来なくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何も出来ない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よわが友よわれなんじを見捨てじ」と。

(ヘルマン・ホイヴェルス「人生の秋に」より)
===以上引用===

 その方は、亡くなった教会の友人の葬儀で、以前送ったこの詩を、弔辞に読み上げたそうです。

 友人の方は、筋萎縮性硬化症で、医者から余命を宣告されて、毎日カウントダウンしながら、ベッドと車椅子の生活で一日一日を大切に生きておられたそうです。
 動く腕は片方のみで、PC入力も指一本で一つ一つ行わなければならず、たった三行の文章も、キーを120回も打たなければならなかったそうです。

 その友人の方に、「元気になって、草花の咲く草原を、いつか自分の足で歩いてみたいですか?」と牧使が語り掛けたそうですが、その友人の方は、

「いいえ。あの小さな私の部屋の空間が、私の信仰の場所であり、神の祝福で満たされており、満足であります。」

と答えられたそうです。

 私は、仏教者であり、キリスト教を信仰しているわけではありませんので、実際に体験してもいないキリスト教の信仰体験を論ずる資格はありません。

 したがって、浄土門における「信心決定」と、キリスト教における所謂「回心」とを、安易に同一視するつもりもありません。

 しかし、キリスト教を信じることによって、こうして生きている時に、絶対的な存在に身をゆだね揺るぎない境地に達することができることを身を持って示している人がいる以上、

「西洋哲学をはるかに凌駕する真実の体験、信心決定こそが、死もさわりとならぬ世界に雄飛し、絶対の幸福を獲得する唯一無二の体験なのである。」

ということを、キリスト教に関して深く知りもせず、実際にキリスト教を信じてもいない人物が、軽はずみに言うべきではない。

 少なくともこれだけは言えるのではないかと思っております。


つづく

親鸞会教義の相対化・55

つづき


【pp.225-227】
 阿弥陀仏に救い摂られることを、信心決定という。死も障りとならない無碍の一道に雄飛し、生きてよし死んでよしの絶対の幸福に生かされる身となる。
 人生の目的が、生きているただ今、完成する体験である。
 そこで、私の友人は、浄土真宗で説くこの信心決定という体験が真実か否かを確かめるため、一つの質問を用意した。一見、どういう意味があるのか分からない質問だが、実はこの中には、西洋哲学二千年の歴史が集約されているといっても過言ではない。
 それは、次のようなものであった。
「死ということを全然考えないうちは、回りの世界は、疑いようのない絶対の現実としか思えませんが、死を取り詰めてゆくと、回りの世界が紙芝居のように、虚仮であり、夢幻の世界というように見えてきます。では、信一念(信心決定した瞬間)、そして信後(信心決定した後)では、回りの世界は、それぞれどのように見え、あるいは感じられるでしょうか」
 ただの興味半分の質問では無論なかった。彼は、高森先生へのお手紙の中で、もしお答え頂けたなら自分は大学をやめてもいい、と書いていたという。
 高森先生は静かにお答えになった。
「信一念の時の、回りの世界の見え方は、世界が破壊せられる感じです。
その一念の時、世界は一心に収まる。自もなく他もなく、全くの個になる。
そしてそれがそのまま地獄に堕ちるのです」
 彼が、
「世界全てが自分の心になって、それ全体が地獄に堕ちる、ということですか」
と尋ねると、
「そうです。それがいつも私が火だるまになって、地獄に堕ちる、などと表現している体験です」
 さらに続けて、
「信後は、信前(信心決定する前)とは違った意味で絶対疑いえない現実となります。信前思っているのは、本当の絶対ではありません」
と仰有った。


【pp.237-241】
 信一念の体験は、明かにニヒリズムを超えている。
 そしてそれは、この世でただ一つ、浄土真宗でしか得られぬ真実の体験なのである。
 高森先生は仰有る。
「浄土真宗には、臨終が二度ある」と。
 二度の臨終とは、心の臨終と肉体の臨終のことである。
 阿弥陀仏の本願を信じ切れた一念に、我々の魂は一度死ぬのである。そして同時に生き返る。それが弥陀の救いなのだ。
 聖人はそれを『愚禿鈔』に、
「信受本願前念命終即得往生後念即生」
と仰有っている。
 弥陀の本願を信受する前念に一度、命が終わる。この命とは無始より流転を重ねてきた自力の心であり、不安な魂のことである。その自力の迷心が、阿弥陀仏の名号利剣によって、一念で殺されてしまう。まさに迷いの打ち止めがなされるのだ。
 覚如上人は、これを、
「平生のとき、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって、娑婆のおわり、臨終と思うべし」(執持鈔)
と喝破なされた。
 大死一番、如来の願力によって、魂の臨終を突破させられた時に、初めて「即得往生後念即生」と、身も心も南無阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して生まれ変わるのである。死んでよし、生きてよし、心は浄土にすみ遊ぶの心境は、この体験をして初めて味わわれる。
 その心境から見える回りの世界を高森先生は、
「信後は、信前とは違った意味で、絶対疑い得ない現実となります。信前思っているのは、本当の絶対ではありません」
と仰ったのだ。
 絶対が知らされて、相対がわかる。
 ホンモノが知らされて、ニセモノがわかる。
 夢からさめて、ああ、夢であったと気づく。
「世間虚仮唯仏是真」(聖徳太子)
「火宅無常の世界は、よろづのこと皆もって空事たわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄)
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証後序)
 いずれもいずれも、仏法まこと、本願まことの鮮やかな告白である。
「慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」(教行信証後序)
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)
「うれしさを昔は袖につつみけり、今宵は身にも余りぬるかな」
(御文章)
 苦悩渦巻く人生が、光明輝く無碍の世界に転じかわった踊躍歓喜があふれているではないか。
 人生究極の目的は、仏法にこそある。しかもそれは、信一念で達成される。
 西洋哲学をはるかに凌駕する真実の体験、信心決定こそが、死もさわりとならぬ世界に雄飛し、絶対の幸福を獲得する唯一無二の体験なのである。
★★★

 私は、高森先生のこの言葉が信仰体験を踏まえたものであることを否定しません。 したがって、高森先生が信仰体験をされたということも否定しません。

 また、高森先生が死後の救い以上に、現世での救いを強調してお説きになられていることに関しては、基本的に賛同しておりますし、「信一念」の信仰体験を鮮明に語っておられるのは称賛に値すると思っております。

 死後の救いだけを説き、現実から眼を背け自助努力を自らも行わず、他にも勧めない浄土門の人間よりは、遥かに優れていると思っております。

 ただしこの体験は、一つの信仰体系における未曽有の体験であることは事実でありますが、それは「浄土真宗」という枠組みの中に限らず、もっと一般化されえるものではないかと考えております。

 そのことについて、述べてみたいと思います。

つづく

親鸞会教義の相対化・54

つづき

第9章 信一念で仏教は哲学を超える

 この章は、本書で最も読み応えがあり内容も素晴らしい部分であ
ると思います。ハイデッガー哲学に基づいて現実世界を理解する部
分は明晰でわかりやすく、それを踏まえた上で、高森先生に信心決
定の宗教体験について疑問をぶつけた度胸やセンスも抜群だと思い
ました。

 あと、これはどうでもいいことなのかもしれませんが、もしも詳
しい事情をご存じの方がいたら教えていただけたらと思います。

 本書の「はじめに」に、「執筆にあたり、法友・明橋大二氏から
多大な助言をいただいた」(p.6)とあり、明橋氏が京都大学
の学生時代にハイデッガーに傾倒していたという話を聞いたことが
あるので、この部分はひょっとして、渡部さんではなくて明橋さん
が書いたのでしょうか?

  たとえばこの章には、このような鋭い文章があります。

【pp.221-224】
 人生の目的は死の解決である。ハイデッガーの言葉でいうなら、
根本において死の不安に繋がれた世界を脱却する、ということである。
 しかし、その為には、「存在可能性に関わりつつ生きる」という
在り方に、根本的な変革が起きねばならない。それは、単に信じ
る、とか、明るく生きる、とか、希望をもつ、とか、絶望する、と
かいうことではない。それらのものは、単なる存在可能性の一様態
であり、存在可能性に関わりつつ生きる、という在り方に根本的変
革が起こってこない限り、「死」という存在可能性に関わりつつ生
きる、という在り方にも変わりはないからである。
 それならば、結局、いくら劇的な体験だとしても、根本におい
て、死の不安からは脱却できておらず、死の解決とは到底言えない。
 一般の宗教体験といっても、結局それは、一つの特殊な存在可能
性が開かれたに止まり、存在可能性に関わりつつ生きる、という有
り方そのものには何の変革も起こってこない。それでは本当の死の
解決とは言えないのである。
 それでは、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、
根本的変革が起こった場合、理論的にはどうような事態が予想され
るだろうか。それは、今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」
という有り方が、言わば根本から否定され、その後に新たな有り方
が、出現する、ということでなければならない。

 この「新たな有り方」というのは、既に哲学を超えた所に位置す
るもので、到底想像できるものではないだろう。
 しかし、今までの有り方が、根本から否定される、ということに
関しては、ある程度予想することが可能である。それは、少なくと
も、回りの世界の根本的変革を伴う。なぜなら、回りの世界が、現
在あるように見えているのは、今までの「存在可能性に関わりつつ
生きる」という有り方があるからこそだからである。少なくともそ
れは、「回りが真っ暗になった」とか、「回りがどうだったか覚え
ていない」とか、その程度のものである筈がない。なぜなら、そう
いう表現では、まだ机は机、椅子は椅子として見えているだろうか
ら。それは心理的投影のレベルにすぎない。
 その宗教体験の時、自分が変わるだけで、回りの世界が温存され
るなら、つまり机が机、椅子が椅子、として見えたままなら、それ
は真実の宗教体験ではない。机が机、椅子が椅子、として見えるの
は、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があればこそ
可能なのであり、そういう有り方は、根本において「死への存在」
だからである。
 そういう有り方に根本的変革が起きるなら、少なくとも一旦は、
机が机、椅子が椅子としてもはや見えない、という瞬間を通らねば
ならない筈だ。
 換言すれば、己の成立の根源と回りの世界の成立の根源は、同じ
ところにあり、(それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、と
いう有り方だが)自己の改革が、その根源から行われるならば、回
りの世界も、必ず同様に、様相を一変するに違いないということで
ある。己のみが変わって、回りの世界が大して変わらないような体
験は、自己の非常に浅いレベルの変革に過ぎず、到底、自己の根源
にある「死」という問題を解決したことにはなっていない。
 要するに、その宗教的体験のさなかに、回りの世界がどのように
見えるか、によって、その体験の深さをある程度推し量ることがで
きる。これが、ハイデッガーの哲学から導き出される結論である。
これが、宗教的体験を測るための物差しとして、今まで人類が作り
えた最も正確なものである、と言っていいだろう。
★ ★ ★

 それに対し渡部氏の、

「こんなものが神の愛、アガペというのなら、こちらから願い下
げ、アッカンベー。」(p.116)

というような品性の欠片もないような文章とが、同一人物の書いた
ものとは私にはとても思えませんでした。


つづく

親鸞会教義の相対化・53


つづき

【p.119】
また、生まれながらの不平等や、一生不幸の境涯に泣く人々の存在を『新約』ではこう説明する。盲人に生まれた理由を尋ねた門弟に対し、「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神のわざの顕れん為なり」(ヨハネ伝)
と、イエスが答えているのだ。
盲人に生まれたのは神のしわざ、即ち罰だというのである。
だから、キリスト教では、自業自得という発想ができない。
悪いことに出くわすと、原因を他者に求める傾向がある。
★★★

聖書を正確に引用すると以下のようになっています。

====以下引用====
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
わたしたちは、わたしを遣わされた方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない。だれも働くことができない夜が来る。わたしは、世にいる限り、世の光である」。

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で泥を作り、その泥を彼の両目に塗られた。
そして彼に言われた、「シロアム―遣わされたという意味―の池に行って洗いなさい」。そこで、その人は行って洗い、見えるようになって帰ってきた。
(ヨハネの福音書9章1-3節;新共同訳)
====以上引用====

確かに、現実に受けている不条理を「人間の自己責任である」と位置づける考え方は否定されています。

しかしこれは現実に受けている「不条理」を意味づけるための言葉であり、

「盲人に生まれたのは神のしわざ、即ち罰だというのである。」

というのは、聖書本文を変な所で切り取ったために起きた致命的な誤読で、

「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神のわざの顕れん為なり
(神の業がこの人に現れるためである。)

というのは、これからイエスが病を治す奇跡を行うため、という意味を持っていると思われます。

つまり、

「この人に罪があるわけでもなく、神が罰するために病気にしているわけでもなく、いまイエスが奇跡を起こすために、病で苦しんできた」

という文章と受け取るべきであって、「許し」の文章なのであって、それを「罰」と誤読したしまったのは、思想先行で文献を読んだ結果起きた結果だと思います。

さらにキリスト教においては、創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えていますので、渡部氏の批判は全く的外れです。

むしろ私は、このイエスの言葉に偉大な優しさと許しを感じています。私が聖書で最も好きな箇所を紹介しましょう。

====以下引用====
ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。
「神よ、わたしはほかの人のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」

ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った。
「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
(ルカの福音書18章10節~14節)
====以上引用====

ここで「取税人」というのは、ユダヤ人でありながら、ローマの指示に従って税金の取立てをする人で、ユダヤ人の間では、嘘つきで泥棒で売国奴だと言われ、忌み嫌われた人達です。

イエスは、パリサイ人ではなくて、その取税人こそが神の御心に適っていると言います。

このことに関して、井上先生は以下のように述べておられます。

====以下引用====
問題になるファリサイ派の態度は、これしかないでしょう。それは、「こんなダメな人間とは違うことを感謝します」という姿勢です。ファリサイ派には悲愛がないのです。
だから一人の人間に会ったとき、彼らにはまず、「モーセ律法」という尺度があるわけですが、それで人を測るわけです。
「お前はどのぐらいちゃんと守っているか、何だ六十点か。八十点以上はつきあってもいいけれど、六十点はだめだ。四十点は問題にならん」と言う。そういう生き方なんです。
その人がその日までどういう重荷を負って生きてきたか、どういう悲しみの涙を噛みしめてきたかということはどうだっていい。
とにかく、お前はちゃんとしているかどうか、ということで測って、切り捨てていく。
そのうちいちばん怖いのは、天に代わって不義を討つ、天に代わって人を裁いていくようになってしまうことです。
まるで背中に神さまを背負って、師範代のようになって「お前はダメ」とやっていく。

その姿勢の中に欠けているものが悲愛なのです。人に相手にされない落ちこぼれた人間の哀しみを映しとる心がないのです。
====以上引用====

井上神父は、ヨーロッパ留学中、聖書でこの場面を読んだ時に、キリスト者として生きてきた今までの自分が、実はイエスと一番対立してパリサイ人の生き方をしていた。そのことに気づき、自分のそれまでのキリスト道を転換されたそうですが、私も井上神父の本を読んだ時、知らず知らずにパリサイ人になっていた自分自身に、ものすごくショックを受けました。

「自業自得」という言葉でもって、現実に不条理で苦しむ人に対し「それは自己責任だからだ!」と自分の価値観でもって裁くような行為を行う人や、「俺が現在幸せなのは、これだけ良いことをしてきたから!」と驕るような人物は、仏教者ではなくパリサイ人です。

真のキリスト教は、パリサイ人よりも遥かに仏教者に近い存在です。

つづく

親鸞会教義の相対化・52

つづき

【pp.118-119】
 『旧約聖書』は、人間の苦しみの原因を、アダムとイブの造った
「原罪」と説く。
 人祖アダムと今日の我々は、明らかに人格を異にするにもかかわ
らず、アダムの罪が子孫たる全人類の罪だ、という。たとえ罪が遺
伝したのだとしても、その罪そのものが、神から与えられたもの。
 いや、与えたのではない、人間が神禁を犯して自ら墮落したの
だ、と言い訳しても、全智全能、創造主たる神は、墮落をくいとめ
ることもできたはず。それをしなかったのは神自身の意志に他なら
ないから、結局「原罪」の根本原因は神にいきつく。神の意志で
我々が苦しまなければならないことになる。
★ ★ ★

 渡部氏は「罪」と「原罪」の区別がついていないために、このよ
うな不当な批判を行っているようです。これに関しては、私が下手
な解説を行うよりも、井上神父の解説を掲載させていただきます。

====以下引用====
 キリスト教ではよく「罪人」という言葉を使いますが、これは法
律でいう「犯罪人」とは全くと言っていいほどちがう意味を含んで
います。犯罪(英語のcrime)というのが法律違反の行為で社
会に対しての責任を問われるものであるのに対して、キリスト教で
いう罪とは、もっと内面的な行為または状態をも意味していて(英語では
sinでcrimeとは明確に区別されています)、言わば神さまに
対して(神さまがわかりにくければ、多少問題はありますが、各自
の良心の前で、と解してもまあよいと思いますが)責任を問われる
行為であると言えましょう。
 『新約聖書』の中でよく罪をあらわすために使われているギリシ
ア語のハマルティアという言葉は、もともとは、弓矢の競技で「的
をはずす」とか「車が道をふみはずす」とかいうことを意味してい
る言葉で、『新約聖書』の記者たちが、これを罪をあらわすための
言葉として使ったのだと言われています。すなわちキリスト教にお
ける罪とは、【神との正しく美しい関係をこわしたり汚したりする
行為ないしは状態】を言うわけです。
 『旧約聖書』のはじめの『創世記』には、有名なアダムとエバの
「楽園喪失の物語」がのっています。これはユダヤ教文学の最高の
傑作に属するものと言えると思いますが、この物語の中で蛇がエバ
とアダムを誘惑するところがあります。神が園の中央にある木の実
だけは食べてはいけないと命じたことに対して、蛇がエバを誘う場
面です蛇は実にエバに次のように言うわけです。

「この実を食べると、善悪を知って【神のようになる】」

 人間が人間の与えられた場を忘れ、【神のように】なろうとする
こと―これがキリスト教でいう罪であり、神とその御手の中にある
人との調和の美を破壊する、ある意味では唯一の根源的な罪なのです。
 パウロはその手紙で、罪を単数の形と複数の形とに意識して使い
分けていますが、単数の罪(ハマルティア)は、アダムと同じよう
に、神のようになろうとすることであると述べ、それをこの罪がア
ダムから伝わってきているのだというふうに表現しています。この
罪を“盜むな”“殺すな”“偽証するな”というような個々の掟に
背く罪と区別して、キリスト教ではこれを「原罪」という言葉で呼
んできたのです。
 「楽園喪失物語」には、更に、木の実を食べたアダムとエバは、
そのとき裸であることに気づいて恥ずかしくなり、いちじくの葉で
前をおおったと記されています。これは、天地自然の姿を失って、
それぞれが個とエゴイズムの殼の中に閉じこもり、真の平和の美を
失ってしまったことを意味しています。この破壊された平和と連帯
の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死な
のだとパウロはその手紙の中で述べています。
 罪という語が複数形ででてきた場合には、これは“盜むな”“殺
すな”“偽証するな”といった掟に違反した罪をさしているわけで
すが、しかしこれらのいずれも結局はすべて隣人愛に背く行為なの
であり、エゴイズムの殼の中に閉じこもってしまった結果起こって
きたものであると言えます。

井上洋治著『キリスト教がよくわかる本』(PHP出版)pp.143-145
====以上引用====

 神の意志に反してしまう人間のエゴイズム・・「阿弥陀仏の御心
に反した行為をしてしまう凡夫」の自覚があるのであれば、全く理
解できないものではないと思います。

 もちろんキリスト教には、「神がこの世界を創造したにもかかわ
らず、なぜ悪や苦難が存在するのか?」「なぜこの世では義人が苦
しみ悪人が栄えるのか?」という神義論が古くから存在していて、
そのために私の友人は、キリスト教ではなく仏教(その中でも浄土
門)を生き方の指針としています。

 渡部氏の指摘はそれなりにポイントはついていますが、「遺伝」
などを持ち出しているので、創世記の記述を、象徴表現と受け取っ
ているのか、事実と受け取っているのか不明瞭であり、まずこれを
明確に規定する必要があると思い
ますし、創世記以外の他の箇所を検討する必要もあると思います。
 さらに神義論に関しては、キリスト教内部に膨大な蓄積があり、
それに対する批判哲学でも多くの議論がなされていますので、そう
した背景を押さえた上で発言しなければ、キリスト教に詳しい人の
失笑をかうことになるでしょう。

 それに神義論に関して言うのであれば、

===以下引用===
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
===以上引用===

という指摘を受けた某宗教団体のドグマに対しても、公平を期すた
めに渡部氏は同様の批判を行う必要があると思います。

つづく

親鸞会教義の相対化・51

清森義行様

 渡部隆志著『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』(とどろき出
版社)を読み終えましたので、感想を送らせて頂きます。

 今回も分量が多いので数回に分けさせて頂きます。

※本書の一部(pp.136-161)は以下のサイトに掲載されています。
http://sendai.cool.ne.jp/tetuworld/index1.htm


【pp.42-43】
 『般若心経』の「色即是空、空即是色」が、現代物理学の先端を
いくアインシュタインの相対性理論に現れる式、
 E=mc2(二乗)(Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速度)
と同じ意味であるとは、多くの物理学者が指摘するところ。もちろ
ん、仏意はそんなに単純ではないのだが、新進の物理学者で、本気
に仏典を研究し、修行しようとする者も多い。
★ ★ ★

 「仏教と現代科学の共通点」というような言い方は、通俗的な仏
教書ではよくある話ですし、それで読者の興味を喚起するならば必
ずしも悪いことではないと思います。
 しかし、「アインシュタインの相対性理論」は「現代物理学」を
支える重要な理論ではありますが、「量子論」で取り扱っている問
題を取り扱うことができません。
 「現代物理学の先端」は、「相対性理論」と「量子論」を統一し
たものを目指していますので、「アインシュタインの相対性理論」
だけで「現代物理学」を語り尽くすかのような言い方には問題があ
るのではないかと思います。

 したがって、渡部氏がどの程度「現代物理学」の本をご覧になっ
ているのかはわかりませんが、本書はあくまでも「通俗的な仏教
書」程度のものとして取り扱うべきであると思います。

 私は、同じように「仏教と現代科学の共通点」について書かれた
本でより学術的なものとして、

★佐々木閑著『犀の角たち』(大蔵出版)

をお奨めします。

 佐々木先生は、京都大学の工学部工業化学科を出られた後に文学
部哲学科仏教学専攻を卒業され、その後京都大学大学院、カリフォ
ルニア大学バークレー校に進まれた方で、律の世界的権威であり、
初期大乗仏教の最先端の研究者でもあります。

 佐々木先生のこの本は、仏教に関して正確な理解がなされている
のはもちろんですが、先生自身が理科系出身の方であるとともに、
花園大学で科学分野の現役研究者を招いて最新の研究成果を紹介し
てもらう取り組みを行った成果が反映されていますので、科学に関
する知識も決していい加減なものではなく、より確かなものです。

 佐々木先生が「相対性理論」と「量子論」の関係についてまとめ
てくださっているので、以下に引用しておきます。

====以下引用====
 相対性理論は、時間と空間という我々にとっては最も基本的な環
境が、我々の直感に反して相対的なものであることを示した。しか
もそれは質量のせいでねじれゆがんでいるという。しかしそれで
も、その世界の中で展開する現象は、我々が頭の中で想定している
のと同様、因果律に基づいてまっすぐ一義的に進んでいくもので
あった。すべての存在は、はっきり決まった状態にあり、これから
どうなるかもはっきり決まっているのである。
 ところがこれを量子論が否定する。我々の住むこの世界は、可能
性の重ね合わせであって、それ以上のものではない、そしてそれを
観測する場合、対象のすべての状態を一義的に決定することは絶対
に不可能だという。量子論は、我々が常識的に感じている、世界の
厳密さというものを奪ってしまった。極端なイメージとしては、こ
の世界は茫々とした不確定性の荒野であり、我々はそこをさまよう
迷い人ということになる。我々には何一つ確実なものなど手に入ら
ないのである。アインシュタインは、そこが納得できなかった。あ
くまで因果律の支配する明確な世界を追い求め、確率の支配する世
界など信じられなかったのである。
 デカルト、ニュートン、アインシュタイン。天才たちによって科
学に内在する神の視点は次々に人間の視点へと移し替えられてきた
が、それは同時に、彼らが後継者たちによって乗り越えられていく
歴史でもある。アインシュタインが「神はサイコロ遊びをしない」
と言って、自説を神の立場に喩えているところが、その対立者とし
て現れた量子論が、より人間の視点に立つ理論であることを示して
いる。量子論によって物理の視点はいよいよ神の世界を離れ、人間
を中心に据えたものへと移り変わった。そして、直覚が要求する、
単一で合理的でエレガントな理想の世界はますます遠ざかり、不可
思議が支配する不条理の世界へと墮落したのである。(何度も言う
が、墮落とは感覚の傾向であって劣悪化を意味するのではない)。
pp.48-49.
====以上引用====

 これを読んで頂けば、「量子論」を抜きで「現代物理学」を語る
ことが、どれ程不当な行為であるかは明かです。

 それに相対性理論の式は、物質とエネルギーが交換可能であるこ
とを示した式ですので、「色即是空、空即是色」との類似性を指摘
するのであれば、むしろ「量子論」を挙げるべきであったと思います。

 更にもっと厳しいことを言わせて頂くと、所謂「ニューサイエン
ス」系の物理学者の文献読解の杜撰さと仏教理解の不十分さは、ま
ともに仏教文献を読んだことのあるものであれば一目瞭然です。

 渡部氏が「多くの物理学者が指摘するところ」を本当に確認した
かどうかはともかく、学問的手続きを踏まえた学術書と、所謂「ト
ンデモ本」は明確に区別して用いる必要があります。


つづく

質疑応答127

【質問】


 上田さんの説法で、善友力について教えて頂きました。
 基本的には人との良い関係が、大変重要であると理解致しました。
 例外もあって、物も含まれると教えて頂いたように思いました。
 この場合、自分の思い入れのある大事な本とかは、善友力の中に含まれると理解するのは、間違っているのでしょうか。
(ただ単に執着があるだけとも思ったのですが・・・)


【回答】


 善友力とは、主に人間に限定して、考えた方がいいです。



【質問】


「同じことを毎日繰り返しているようで空しいし、馬鹿馬鹿しい」

ということについて質問したいのですが・・・

 自分もそう思いますが、友人も会う度に、よく言っています。

 上述のような気持ちが起きた時には、どのような対処をするのが望ましいでしょうか。

(自分は、聴聞するのがいいように思っていますが、)

 聴聞以外にも他に方法はあるのでしょうか。


【回答】


 聴聞が一番大事だと思いますが、その人の話を、よくよく聞いてあげるのが、良いと思います。

質疑応答126

【質問】


「大聖易往とときたまう

 浄土をうたがう衆生は

 無眼人とぞなづけたる

 無耳人とぞのべたまう」(真宗聖典P.230)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 お釈迦様は、大無量寿経に易往而無人、と極楽に往き易くして、往っている人がいない、と教えられました。それは私たちは真理を見る目や、耳がない為に、浄土へ疑っているからであります。



【質問】


「無上上は真解脱

 真解脱は如来なり

 真解脱にいたりてぞ

 無愛無疑とはあらわるる」(真宗聖典P.230)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 
 無上の上の仏果は、真実の解脱であって、これが即ち、これ如来である。この真実の解脱の仏果に至った時は、もはや愛着の心もなければ、疑う心もない。

質疑応答125

【質問】


 今まで新入生勧誘、アニメ頒布、親への顕正、祖母をご法話へのお誘い、チラシ撒き、文化講座での話し込み等、それなりに仏法をお伝えする活動はしてきました。

 ですが、申し訳ないことですが、正直なところ誰にも言えませんでしたが、ほとんどは苦痛でした。仏法をお伝えするという人間ができる最高の善と教えられていたのに内心嫌でした。

 宗教をやっていると白い目で見られるのが嫌だという名誉欲や、断られたり、嫌な顔をされたりして、自分を否定されたりすることが苦痛の主な原因だと思います。

 そこで疑問ですが、苦しいと感じるということは悪因苦果の因果の道理からすると、悪をやっているということになるのでしょうか。
 それとも、行為自体は善であるけれど、因を業と考えますと、悪業の状態ですので、善をやったとしても苦しみという結果を受けるということでしょうか。

 苦しみという結果を受けているということは、善だと思っていても実は悪をやっているとお聞きしたことがあります。

 そうすると、いままで仏法をお伝えするという行為は悪だったということになるのでしょうか。
 それとも正しい仏法をお伝えしていなかったのが原因なのでしょうか。

 また、たとえ正しい仏法をお伝えしていても、苦しいと感じたならば、悪をやっていることになりやらなくてもいいということになるのでしょうか。

 名誉欲や非難に打ち勝ち、苦しくても仏法をお伝えすることは親鸞学徒の使命だと教えられてきましたし、そういう苦しい中、沢山の方がお伝えしてこられたからこそ自分が聞くことができたと考えると、苦しいからやらないというのは、甘い情けない自分勝手な考え方とも思います。

 親鸞会で今まで何が苦しかったかというと、肉体的・経済的というのもありましたが、よく考えてみたところ、とても誰にも言うことはできなかったですが、一番の苦しみは精神的な苦しみ、つまり仏法をお伝えすることが原因による苦痛でした。

 情けないと言ってしまえば、それで終わりですが、幸せになることが説かれているはずの仏法をお伝えすると逆に苦しむ結果になるのは、おかしいように思います。


 あらためて質問をまとめますと、

1、仏法をお伝えすることによって苦しむということは、人によっては悪をやっていることになってしまうのでしょうか。
  それとも、善であることには変わりはないが、その人の業によっては善をやっても苦しむという結果になってしまうということでしょうか。

2、もし苦しむという結果になるのならば、無理に今は仏法をお伝えしなくても良いというのが仏法の教えでしょうか。
  そうなると我利我利で仏法精神とは違うような気もします。

3、あるいは、苦しい中やっていくとやがて善果となって返ってくるということでしょうか。
  もっと言うと、苦しい中やるほど大きな善果となって返ってくるということでしょうか。


 親鸞会で活動してきて何がつらかったかと考えると、正直なところ、どうしてもこのことに行き着きます。
 お忙しいところ申し訳ありませんが、以上よろしくお願いします。



【回答】


 仏法をお伝えするとは、仏法を自ら実践し、他人も幸せにしてゆくことです。
 仏法を実践するとは、例えば以下のようなことです。

・嘘をつかない。
・相手に押し付けない。
・納得できないことはやらない。


 貴方が苦痛を感じたという活動の中で、嘘をついたり、相手に押し付けたり、納得できないことを嫌々やるようなことは無かったでしょうか?

 これらの行為は悪ですから、悪因苦果で苦痛を感じるのは当然のことです。
 もちろん、仏法の実践になりませんから、仏法をお伝えすることになりません。

 仏法を伝えるというのは、善ですから、当然、楽しいことです。

 私も、親鸞会を離れてから、嘘をつく必要もなくなり、目標もありませんから押し付ける必要もなく、自分の納得のいく活動しかしていませんから、本当に幸福です。


> 1、仏法をお伝えすることによって苦しむということは、人によっては悪をやっていることになってしまうのでしょうか。
>   それとも、善であることには変わりはないが、その人の業によっては善をやっても苦しむという結果に
>   なってしまうということでしょうか。

 仏法をお伝えするのは善です。嘘をついたり、押し付けたり、納得できないことを嫌々やるのは悪です。


> 2、もし苦しむという結果になるのならば、無理に今は仏法をお伝えしなくても良いというのが仏法の教えでしょうか。
>   そうなると我利我利で仏法精神とは違うような気もします。

 仏法をお伝えするのは善ですから、苦しむという結果にはなりません。


> 3、あるいは、苦しい中やっていくとやがて善果となって返ってくるということでしょうか。
>   もっと言うと、苦しい中やるほど大きな善果となって返ってくるということでしょうか。

 苦しい中やっていくと、やがて悪果となって返ってきます。善であれば肉体的・精神的に大変なことでも、苦痛とは感じません。

質疑応答124

【質問】


 「無明の大夜をあわれみて

  法身の光輪きわもなく

  無碍光仏としめしてぞ

  安養界に影現する」(真宗聖典P.230)

  の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】


 煩悩に惑わされ、生死の迷いの深い闇に、閉ざされている衆生を憐れんで、久遠劫からの働きかけは、極まりなく、何ものにも障碍されることのない、無礙光仏となって、安養の浄土に、影の如く、現れて下されたのが阿弥陀仏です。



【質問】


 「久遠実成阿弥陀仏

  五濁の凡愚をあわれみて

  釈迦牟尼仏としめしてぞ

  迦耶城には応現する」(真宗聖典P.230)

  の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】


 塵点久遠の昔に、既に仏に成られた阿弥陀仏は、衆生済度のために縁を結び、幾度となく、この世に姿を現されました。五濁の悪世の衆生を哀れんで、インドの迦耶城、つまりカピラ城に生まれられた釈尊は、実のところ、阿弥陀仏の化身である。



【質問】


 「百千倶テイの劫をへて

  百千倶テイの舌をいだし

  舌ごと無量の声をして

  弥陀をほめんになをつきじ」(真宗聖典P.230)

  の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】


 阿弥陀仏の徳は、あまりにも広大であるから、百千億の長い時間を費やし、百千億の沢山の舌を用いて、その一つ一つの舌に無量の声を出して、いかにその徳を褒め讃えても、褒め尽くすことが出来ない。

質疑応答123

【質問】


 【ひとは、なんのために生きるのか。平凡な生活のまどろみが

  破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解答が迫

  られます。】(なぜ生きるP.30)

①意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

「私は一体何の為に生きているのだろうか?」当たり前のように、明日がやってくる。そんな平凡な毎日を送っていた私に突然、心の支えを奪うような不幸が襲ってくると、この問いに、真剣な解答を求めずにおれなくなってきます。



【質問】

②また、上記を読ませて頂くと、平凡な生活をしている間は、

「自分は、なんのために生きるのか」が問題にならず、

不幸がやって来たときに初めて我が身の問題になる、

と読める気がしますが、間違った理解でしょうか。


【回答】

 間違っておりません。



【質問】

③平凡な生活をしていても、「自分は、なんのために生きるのか」

が問題になる気がしますが、間違った理解でしょうか。


【回答】

 平凡な毎日を送ってきた人でも、自分の心を大事にしてもらえず、心の支えが無い状態で、生きてきた人には、「自分は、何のために生きるのか」が問題になります。

質疑応答122

【質問】


「頻婆娑羅王勅セシメ

  宿因ソノ期ヲマタズシテ

  仙人殺害ノムクヒニハ

  七重ノムロニトジラレキ」(真宗聖典P.228)

  の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】


 頻婆娑羅王は、宿世の因縁によって、やがて王子に生まれてくる仙人を寿命の尽きるのを待たないで、無法にも、これを臣下に殺させた。その報いは、たちどころに現われ、父王は自分の子である阿闍世のために、七重の牢獄に閉じ込められることとなった。



【質問】


「阿闍世王ハ瞋怒シテ

  我母是賊トシメシテゾ

  无道ニ母ヲ害セント

  ツルギヲヌキテムカヒケル」(真宗聖典P.228)

   の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】


 隠れて食物を運んでやり、父王の命を長らえさせた母を見て、阿闍世は、わが母もまた賊なり、自分の仇敵であると、怒り狂って剣を抜き、無道にも、母を殺そうと立ち向かった。



【質問】


「耆婆月光ネンゴロニ

  是旃陀羅トハヂシメテ

  不宜住此ト奏シテゾ

  闍王ノ逆心イサメケル」(真宗聖典P.228)

  の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】


 耆婆と月光は、懇ろに、阿闍世を戒めて言うのに、産みの親に逆害を加えることは、人の子のなすところではない。そのような行為は、賎民でさえも、恥かしむるところである。もし、どうしても母を殺そうというなら、あなたは国王として、この国にとどまる訳にはいかない、と、その悪逆心を戒めた。

質疑応答121

【質問】


 釈尊が、「贈り物を受け取らなければ、持ってきた本人が持ち帰る」という譬えで、「怒りを向けてくる人がいても受け取らずにいれば、それは本人に帰る」というようなことを、教えられたと記憶しています。この理解は正しいでしょうか?



【回答】


 怒りを向けられても、自分が一切、それを受けとらなければ、悪業に染まることはありませんので、それによって苦しむことが無いということです。

質疑応答120

【質問】


「衆生有碍のさとりにて

 無碍の仏智をうたがえば

 曽婆羅頻陀羅地獄にて

 多劫衆苦にしづむなり」(真宗聖典P.231)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 もし衆生が凡夫の浅い了見で、無碍広大の仏智を疑うようなことがあれば、それこそ、曽婆羅頻陀羅地獄に堕ちて、長い間、多くの苦しみを受けねばならないであろう。



【質問】


「阿弥陀如来来化して

 息災延命のためにとて

 金光明の寿量品

 ときおきたまえるみのりなり」(真宗聖典P.231)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。



【回答】


 阿弥陀如来は、私達衆生を救うために、また禍を除いて、命をながらえさせるために、わざわざ浄土から、この世へ来て、金光明経の寿量品をお説きになったのである。



【質問】


「山家の伝教大師は

 国土人民をあわれみて

 七難消滅の誦文には

 南無阿弥陀仏をとなうべし」(真宗聖典P.231)

 の意味を教えて頂けないでしょうか。


【回答】

 昔、比叡山の伝教大師は、災難が起きて、人民が苦しんだ時、これらの人々を哀れみ励まして、七難を滅ぼし、苦難を克服するためには、南無阿弥陀仏の力によるしかないと教え、勧められました。

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