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質疑応答150

【質問】


 自分の中で信楽と正定聚との関係があやふやになっていまして、一度教えていただいたかもしれませんが、もう一度その関係について教えていただけないでしょうか。お手数ですが、よろしくお願いします。



【回答】


 信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)


 正定聚とは、必ず仏になれる位のことで、通常は浄土往生と同じ意味です。


●仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。(教行信証行巻)


 親鸞聖人は、信楽の人は「若不生者の誓い」によって必ず浄土往生できるので、信心決定すれば正定聚になれる、と表現されているところもあります。


●いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟とは、未だすなわち等しというにはあらずとなり、と。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ(教行信証証巻)
※上地=正定聚

●この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。(尊号真像銘文)

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質疑応答149

【質問】


 先日の清森問答で、「御遺言鈔」という文献について教えて頂きましたが、ネット上の掲示板に、以下のような書き込みがありました。
 参考までにお知らせ致します。


> 307 名前:ちび丸 :2008/09/16(火) 19:43:00 ID:nuJGLGmt
> >覚如上人の著作として真宗辞典に出てますけど
>
> 申し訳ありませんが、御遺言鈔は覚如上人の著書ではありません。お詫びして訂正します。
> 勘違いです。
>
> 「御遺言鈔」にはいくつか名前があるんです。
> 「続真宗授要篇」とか「教名集」とか。
> 教名房への聖人からのお手紙で光照寺蔵。
> 書籍自体は、私の手元にあるのは京都書林から明治9年に出版されています。
> 真宗全書にはこれを評したものがあるようですから
> あながち「一般的でない」とは言えないでしょうね。
> ただ「廃立肝要」とか載ってますからいい扱いはされてのでしょう。



【回答】


 これについては、初めて知りました。情報ありがとうございます。

 早速、光照寺に問い合わせましたところ、親鸞聖人の著作ではなく、弟子の教名房実念という人が書いたものだとの返答を頂きました。

「聖人からのお手紙」というのは、何かの勘違いだと思います。(この方は、もともと覚如上人の著書だと勘違いされていたようですし、ろくに調べていないのだと思います。)

 特に、インターネット掲示板の情報は、いい加減なものもありますので、よく確認した方が良いと思います。

質疑応答148

【質問】


 蓮如上人に「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」という歌があると、親鸞会に関係する方に教えて頂いたことがあるのですが、浄土真宗聖典検索システムで蓮如上人の言葉を検索しても見つからず、ネットで検索をかけても親鸞会関係のHPにしかこの言葉はありませんでした。

http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0403.htm
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0404.htm
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/naze06.html

etc.

 もしも清森さんがこの言葉の典拠をご存じでしたら、教えていただきたいと思います。というか、本当にこの言葉は蓮如上人の言葉なのでしょうか?



【回答】


 私も、このお歌については、以前から探しているのですが、どの本を読んでも載っていないようです。

『真宗聖教全書』という本には、伝説と言われるようなものも総て掲載されており、蓮如上人のお歌も多数収録されているのですが、それにも見当たりませんでした。(割と有名な本です)

 本願寺司教の方にも確認しましたが、ご存知ないようでした。お聖教には無いようです。

 現時点では、まったく分からないとしか、言いようがありません。

質疑応答147

【質問】


『こんなことが知りたい④』に以下のような文章があります。

----------引用

 三田村鳶魚の『横から見た赤穂浪士』という本には、大石内蔵助は腹を開き短刀は握ったが、手がふるえて腹につき刺すことができなかった。
 介錯人が見るに見かねて、彼の輝かしい名声を傷つけまいと、大石の切腹の前に首を刎ねた、とあります。

----------

『横から見た赤穂浪士』には、このような文章は存在しないと聞いたのですが、本当でしょうか?

 もし何か御存知でしたら、よろしくお願い致します。



【回答】


 古本でありましたので、『横から見た赤穂浪士』を購入して確認しました。

 結論から言いますと、上記のような内容はありませんでした。


●この方の伝えによると、内倉助は、自分が声をかけてから首を打ってくれ、と頼んだといいます。内蔵助以下二三人、吉田忠左衛門とか、原惣右衛門とかいうあたりまでは、腹へ突き立てさせてから首を打った。けれども、四五人目からは、脇差を取るのを合図に、首を打ったといいます。
(中公文庫『横から見た赤穂浪士』三田村鳶魚p214)


 この文章を読む限りでは、大石内蔵助は、脇差を腹へ突き立ててから首を打たれたと書いてあります。
 赤穂浪士の多くは、腹へ突き立てることなく首を打たれたようですが、大石内蔵助に関しては違うようです。

 なぜ、高森先生が、そのように書かれたか分かりませんが、正しく引用しなければ、著者に失礼だと思います。


親鸞会教義の相対化・69 (投稿)

清森義行様


ご無沙汰しております。

「宗教的寛容」に関する話題を、これまで何度か取り上げたことがありますが、今回はその続きです。


親鸞会教義の相対化・17(質疑応答71)
「一向專念無量寿仏でないと助からない」という表現について
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-72.html

親鸞会教義の相対化・25
「熱狂について」
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-84.html

親鸞会教義の相対化・37
渡辺一夫著『狂気について』(岩波文庫)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-130.html


 私達は、自分の価値観にあわない存在を、切り捨ててしてしまうことがあります。そしてそれは、「これが正しい」という思いが強い程、その排斥は烈しくなります。親鸞会を批判するものに対する親鸞会関係者の「憎悪」はその典型的な例ではないかと思います。

 しかし、人にはそれぞれが背負っている様々な人生というものがあって、自分の価値観と異なったものを持った人にも、その価値観を持つに至った背景があるということを互いに忘れてはいけないと思います。


この書き置きたるものを見て誹ぜん輩は必ず九品の台に縁を結び、互いに順逆の縁虚しからずして一仏浄土の侶(とも)たらん。
『念仏往生要義抄』浄土宗聖典vol.4.p.329.

(訳)
私が念仏の教えの素晴らしさについて書いたものを見て、それを誹謗する人も、それによって極楽浄土の九品の蓮台に縁を結ぶ。
だから、自分にとってプラスの縁もマイナスの縁も大切にして、一緒に極楽浄土に生まれて、そこで友となろう。


 自分にとって好ましい人は勿論ですが、自分を誹謗するような人も大切にする。
 プラスの縁もマイナスの縁も大事にして、一緒に極楽浄土に往生して、そこでは本当の友達になれることを願う。

 そう仰っている法然上人に少しでも近づこうとするのが、法然上人を師と仰いだ親鸞聖人に学ぼうとしている「親鸞学徒」のあるべき姿なのであると私は思っております。


 久しぶりに清森問答を見ましたところ、親鸞会元講師部さんの投稿に以下のコメントがされていました。

===以下引用===
余計なお世話をしなさるな
相変わらずの「信心の商人」嶋〇はん

>隠れてでもいいから、他の先生の話を聞いて下さい。本を読んで下さい。
>必ず、宿善の人は真の知識にあえます。必ず。
>ここを読んでおられる方はすでに見つけておられます。

本気で言うておるなら、お笑い種よ。

「宿善の人」には、あんたの勧めなどなくとも、必ず弥陀の願力がはたらいて、
善知識の元に導かれておる。

逆に言えば、あんたの言葉に導かれる人は、「宿善薄い人」だから、行き先は
浄土ではないということ、自明なり。

脱会までの愚痴話は、家の中だけにしておく方が、罪もなくてよかろうに。
人を惑わしめ、遠回りさせた今となっては、手遅れだが、その罪重し。
罪業しっかり背負うて、その味をこそ皆に聞かせよ。
2008年09月21日|弥陀の使いURL[編集]

君過つること莫れ
疑謗破滅のその中を
進むが道とは聞きしかど
かくも険しと思わざりけり

信心得たと標榜し、安売り信心で薄縁のものたちを誘い出して、餌食とする。「信心」で商う、罪の深さを弁えておりながら、悪鬼に魂を売り渡したかのごとき所業。誰を騙せたとて、弥陀を欺けはせぬ。

弥陀と親子名乗りができたとな。
それなら、その親がどう言うた。もっと早く来れたのに、とでも言うたか。回り道をしたな、とでも言うたか。師の間違いを糺して来いとでも言うたのか。

一番の間違い者は私だったーーー、の懺悔もなければ、
こんな自分をようこそここまで押し出して下されたーーー、の歓喜も微塵もない。

助からぬ者が助かった、その喜びのない者だから、怨みと呪いに苛まれ、欲の虜を恥ともせぬ。憐れな姿をさらしても、立派な知識のつもり節。あまりのお粗末に、聞いてる方が恥ずかしい。

邪心の上に、いくら純粋そうなメッキをしても、内からわき出る「餌食を狙う欲」と「脱会の怒り」の臭い体液で、既にボロボロと剥がれてしまっておる。
それに騙される者など、よそ見をしている虚けか、鼻のイカれた病持ちだけだ。

sま田よ、昔も今も、少しも変わっておらぬの。
「黒い心」の特有の黒さも、
自前でこしらえた「白い心」の頼りなさも。
2008年09月22日|弥陀の使いURL[編集]
===以上引用===

これに対して、おうさんはじめ多くの方から反論がなされ、そのやり取りが別の所でも紹介されています。

苦笑の独り言「暗黒パワー全開」とOHさんのコメント
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-63.html


 親鸞会に対して都合の悪い投稿をしている親鸞会元講師部さんを、親鸞会関係者の方が激しく「憎悪」されるのは仕方のない部分もあります。

 しかし「暗黒パワー全開」と言われてしまうほどの「憎悪」をむきだしにする人物は、上記の法然上人の言葉からは大きく逸脱しており、到底「親鸞学徒」とは呼べません。ましてや「弥陀の使い」を自称するのはあまりにも僭越な詐称行為であると思います。

 私は以下のおうさんの発言の方が、はるかに「親鸞学徒」らしいものであると思います。

===以下引用===
弥陀の使い氏へ
弥陀の使い氏、なんという仰々しいネーミングでしょうか。
自分を何様と思っているんでしょうか。そんな資格があなたにあるんでしょうか。
弥陀の使い氏も他人を罵倒する前に、高森会長を善知識として認める立場ならば、高森会長のこれまでやってきた所業について少しは言い訳されたらどうですかね。

あんたい氏の「それは高森会長自身がまいた種でもあるのではないか。」というご意見に対して、まったく同感に思います。
会長は真宗の布教をする資格を既に喪失しています。会員はその事実に気づくべきであり、速やかに会を去るべきです。曇鸞大師が悔悟し、仙経を焼かれた潔さを見習ってください。

弥陀の使い氏、パクリ問題についてはどうお考えですか?
他力信仰を語る際に、自己の言葉をもって表現することすらできなかった高森会長。
丸々他人の著書から無断引用し、あたかも自分が述べたように長い間、会員を信じこませてきました。会長が出してきたパクリ書物を通じて「この方こそ本物だ」と信じてきた講師の動揺はかなりのものでしょう。

ネットで容易に確かめることができるこの事実ひとつをもってしても、高森会長はもはや自業自得で自身の信用を失墜させてしまっているわけであり、真宗の布教をなされる資格を喪失しています。
さらには、多くの若者たちの未来を奪い人生を狂わせ、ウソつき偽装勧誘活動に従事させて惑わしてきたことは限りなく罪深いといえます。万死に値するといっても過言ではないでしょう。

だいたい、お調子ものほど、「ワシが少しでも間違いを述べたら切腹する」「ワシは壇上で死ぬ覚悟じゃ」などと大言壮語する。所詮は実行不能なことなど、はじめからおっしゃらぬほうがよろしいのではないでしょうか。

高森会長は善知識と自称し、他称させてきました。すでに自身を断じて師と呼ばせなかった親鸞聖人の「御同行」精神から大きく乖離しているわけですが、そもそも真の善知識ならば身内よりも同行、恩愛より法を大事にし、選択するはずではなかったのか。

少しでも求道心が残っている講師たちにとっては、あの合宿は高森会長のメッキが完全にはがれ、馬脚を現してしまったことを認識するための、弥陀の善巧方便であったのではないか。

>信心得たと標榜し、安売り信心で薄縁のものたちを誘い出して、餌食とする。「信心」で商う、罪の深さを弁えておりながら、悪鬼に魂を売り渡したかのごとき所業。誰を騙せたとて、弥陀を欺けはせぬ。

何をいっているのでしょう。心ある会員にとっては、会員たちがわが身を削り、血のにじむような思いで出した浄財に対して会計報告すらしようとしない高森会長ご自身のこととしかきこえないことでしょう。高森一族を太らせるための私腹を肥やしていると思われても仕方ないでしょう?その状況証拠はすでにたくさん流布しています。

高森会長は親鸞聖人が身業説法なされたご教導に背き、泥を塗り、祖師を汚い土足で足蹴にしました。
高森会長、ここを読んでいますよね?
祖師聖人に対して、阿弥陀如来に対してどう申し開きするつもりでしょうか?
2008年09月22日|おうURL[編集]
===以上引用===

お知らせ


「私の白道」「親鸞会教義の相対化」につきましては、投稿文ですので、清森の文章ではありません。

誤解されている方が、少なからずおられるようですので、お知らせ致します。

質疑応答146

【質問】


 すでに御存知かも知れませんが、インターネット上に、以下のような情報が流されています。

 親鸞会の内部事情に疎いので判断がつきかねるのですが、清森さんはどのように思われますでしょうか?

 できれば、清森問答で扱っていただければ有りがたいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は会員のものですが、高森会長の所得申告に疑義があります。

1998年から2004年までに発表された高額納税者名簿を確認しました。
高額納税者の発表は、2006年より中止されておりますので、それ以前
の分しか確認できませんが、過去の富山新聞に高岡税務から発表され
たすべての高額納税者名簿が掲載されております。

大変驚いたことに、高森会長の名前は一切ありませんでした。

基本的に、概ね所得税額1000万円以上の人が高額納税者として
公表されておりました。これは年間の所得にすると約3000万円
ほどです。
高森会長は、まず親鸞会から、他の講師と同様に法領(給料)
を受けとっています。布教局長が毎月200万ほど受け取っていた
ことから推測すると、ほぼ年収3000万近くは基本法領だけで、
受領していたものとおもわれます。

さらに、毎月の法話の法礼が「現金で」高森会長に渡されていました。
本部の行事では、半分程度が会長に渡されていたと推測されますため
少なく見積もっても
2500円x2000人x月3回x12ヶ月=1億8000万円 が別途法礼として
会長に現金として渡されていたとおもわれます。
当然、この法礼は親鸞会の収入ではありませんので、個人の事業収入と
なりますので、課税対象となるはずです。
正直に申告していたならば、少なくとも毎年6000万~7000万円の税申告
がなされていたはずであり、高額納税者の上位に名を連ねていたはずと
おもわれます。

かつて、顕真会館(11億)、高岡会館(8億)、滋賀会館(5億)
顕真学院(5億)すべて、高森会長のポケットマネーで建築
されたことが、会員には発表され、「先生のお慈悲」と宣伝
されてきました。

ここで、留意すべきなのは、宗教法人親鸞会が建てたのでは
なく、高森会長個人が建てられた、という点です。

しかし、これだけの建物を即金で建築されるのは、当然相当
の個人の所得がなければ到底ありえない話です。
となると、当然、合計で数十億をこえる大きな所得が発生し
ていたはずであり高額納税者に名を連ねてしかるべきです。

過去の富山新聞を確認したとき、高額納税者名簿に名前はある
だろう、しかしどのくらいの金額なのだろうか、とおもって
おりましたが、一切載っていなかった。衝撃でした。

同朋の里事業についても、高森会長がまず施設を買収して、
会員から後付で、財施を集めている様子です。相当額の
金をもっているのでしょう。

親鸞会の申告所得が毎年14億5千万円で、会費収入を差し引くと
正本堂や地下道で集めた100億ほどの金の所得申告がなされて
いないことが読み取れます。

不思議なことに、2003年ころから、正本堂の財施の納入は銀行
振込みではなく、できるだけ現金で、と指示が流れました。
これらの金も会長の個人所得になっている可能性さえありえ
ます。

脱税の時効は、5年ほどといわれます。

マルサの女という映画では新興宗教の教祖が、脱税をしてつかまる
シーンもありますが、親鸞会についても映画の中の話ではないと
いうように感じます。

以上高森会長の所得申告についての疑義を申し上げます。



【回答】


 高森先生の申告所得が3000万円にも満たないのが事実だとすると、私も大変ショックです。

 高森先生の所得は、この方が予想されているより、ずっと多いと思います。


>本部の行事では、半分程度が会長に渡されていたと推測されますため
>少なく見積もっても
>2500円x2000人x月3回x12ヶ月=1億8000万円 が別途法礼として
>会長に現金として渡されていたとおもわれます。


 参詣者は、最近参詣された方から聞く限りでは、もう少し多いようです。

 本部行事の御法礼の一部が、運営費に当てられていると聞いたことはありますが、確か1000円か2000円くらいだったと記憶しています。半分も運営には回されていないと思います。

 あくまで想像ですが、少なくとも毎年2億円~3億円は、高森先生の収入となっていたのではないでしょうか。



>かつて、顕真会館(11億)、高岡会館(8億)、滋賀会館(5億)
>顕真学院(5億)すべて、高森会長のポケットマネーで建築
>されたことが、会員には発表され、「先生のお慈悲」と宣伝
>されてきました。


 私もお聞きした覚えがあります。

 顕真会館については、高森先生が自ら「ワシが出す」と言われるのを聞きました。

 顕真学院は、高森先生が出されたのは、土地と新館建物だけで、本館の建物は御報謝だったと思いますが、金額は5億くらい出されていたと思います。

 これだけのお金を、ポケットマネーで出されるのだから、相当のお金を持っておられると思っていたのですが、高額納税者に名前さえ載っていないというのは、私も驚きのほかありません。

私の白道・明らかなお慈悲(投稿)

私の白道・明らかなお慈悲(投稿)


            親鸞会元講師部


 親鸞会の現会員さんからの相談が多くなって来ました。
 皆さん深刻に悩んでおられます。

 内容はその人で違いますが、会計報告がない財施への不審や、退会者への異常な非難、明らかに華光会への批判と分かる機関紙の内容、しかし華光会との過去。盗作で善知識らしく教えてこられた態度。
「私の白道」で読んで知った「南无阿弥陀仏の六字の心」。
 これらにショックを受け
「このままで自分は救われるのだろうか」と疑問が出てきたと言われます。

 親鸞会の会員さんにも4通りあると支部長の経験から分かります。


1 仏法聞きたい気持ちはそんなに無いが衆生縁で
  会員になっている。後生の一大事も問題になら
  ない。降誕会報恩講、大きな大会(結成50周
  年)にだけ誘われて参詣。都合が悪いとそれさ
  え断られる。

2 因果の道理、阿弥陀仏の本願、人生の目的の話
  はそうだと思い、分かるけど自分から進んで聞
  きたいとまではいかない。財施にも参加するし、
  誘われれば支部長のご法話には参詣する。本部
  の大きな行事には参詣する。

1と2、ここまでが、70-80%(支部によっては違いますが)


3 高森先生を唯一の善知識と信じ、三願転入の教
  えを聞き、宿善まかせと言われて、支部長の指
  示のままに活動している。そのうち何とかなる
  だろうと思っている。
  講師部、幹部、長年の会員さん

20-30%(支部にもよります)


4 このままで本当に助かるのだろうか。聴聞、お
  勤め、顕正、誘い、財施に頑張って来たけど、
  全く後生は暗い。
  支部長、会員さんにも獲信者はいない、自分の
  様なものはどうなるのか。
  20年30年で獲られる真実信心でないと言わ
  れても、死ぬまで求道では死んでゆけん。今生
  で救われねば後生は大変だ。
  支部長が責任取れることでない。どうしたらい
  いのだろう。
  本当に親鸞会でなければ助からないのだろうか。
  色々な親鸞会の批判を知ったけれど、皆そのと
  うりだ。言わないだけだ。
  ああ阿弥陀様、私はどうすればいいのですか。


●4の方がインターネットやその他の情報を知って連絡してこられるのです。この心境は3の程度の支部長や、法友と相談しても理解してもらえず、却って、謗法罪、不浄な言葉、後ろ向き発言と注意され「信心の沙汰」にも発言できる内容ではありません。、



○相談者が増える理由

 大悲のみ心、調熟の光明によって、ここへとお育てに預かっておられると知らされるばかりです。

 本当に自分の後生が心配になってきたら、どんなに機関紙や会合で批判を繰り返しても、阿弥陀如来の調熟の光明のお力は遮ることはできないのです。

 顕正新聞、顕真、とどろきを見た後、私に下さる方がありますので、今、親鸞会でどんなことが話題になっているのかよく分かります。


・顕真8月号

「30年間、聞いたが助からなかったが、ここでは、すぐに信心獲得できた」の批判記事は余りにトンチンカンで親鸞会らしいと思った。
30年間といっても、カスの体力とカスの時間とカスのお金で聞いていただろうと非難してあったが、カスでない体力、時間、お金で聞いたら助かることになるが、本当にそれでいいのですか。
講師部に獲信者がなかったのは、三つのカス聴聞をしていることが原因になり、布教局長もいい加減なカスの聴聞者になるがいいのだろうか。
講師部以上に仏法に、体力、時間をかけている者はないと思うが、それでさえ助からないカス聴聞者なら、会員さんは助からないことになるが、本当にそれでいいのですか。

 なぜ信心決定できないのか、原因の聞き間違いほど恐ろしいものはない。

 形ばかりが強調され、肝心なことを40年近く聞けなかったから私は救われなかったのです。
 それが、増井悟朗先生から仏願の生起本末を聴聞し「南无阿弥陀仏の六字の心」を聞かせて頂き、明らかなお慈悲、大悲のみ心に貫かれたのです。
 それが分からないから、三つのカスの聴聞者と批判したくなるのだろうが、トンチンカンというのです。
 心の向きが間違っていたら、100年1000年聞いていても助かりませんよ。


 また、高森先生だけが善知識と信じ込んでいるから、親鸞会を退会して獲信したとなれば、他にも善知識がおられることになり大変なことなる。
 高森先生信心が総崩れになるから、絶対おかしい、ニセ信心、人工信心化城だと批判をせずにおれなくなるのは、元講師部としてよく分かります。しかし、それは井の中の蛙です。



・顕真7月号

「言うべきことでも、書くことでもない」として人の信心決定、獲信はわからないから言うなと書いてある。
「親鸞聖人、蓮如上人方でも分かられなかったことがハッキリ分かるとでも思っているのだろう」とも書いてあるが、私は自分のことはハッキリ分かると言うだけであり、他人の獲信はその告白を聞くだけであります。阿弥陀仏とその人だけが明らかなことは当然です。
 しかし、今ごろこんな記事を書いてどうするのかと思ってしまった。
「谷本氏の獲信の記録」のビデオテープが実在し、浅倉支部長のナレーションで獲信者として細かに描かれているではないか。
 会員、未会員さんに私は十回以上見せて、「往生スッキリ、往生ハッキリ、スッキリ、ハッキリ」は今も耳に残っている。今はもう回収されたとか。これもハッキリしたことではなかったのですか。
 西堀さん、東岸さん、真野さん、他にも獲信者として顕正新聞に残ってますが、これはどうなんですか。回収、削除ですか。

 信心の沙汰で「我が信心は、他の人の信心はいかがあるらん」の沙汰をせよと蓮如上人は教えておられますがどうするのですか。

 高森先生から、庄松、おかる、山口善太郎、清九郎などの妙好人の説法を沢山、聞きましたが、あれもたぶん助かっておったろう、という話だったのですか。あやふやな信心だったら、そんな人の言動をなぜ説法して聞かせたのですか。無駄ごとになりますよ。

 何より「高森先生は信心決定して仏教を説かれる、世界で唯一の善知識です」とこれからは言うなということですね。
 これまで何百回と言ってたことは間違いですね。


・何を恐れてつじつまの合わないことを言い出されるのか、情けなくなります。しっかりして下さい。
 こんな矛盾した指導では、益々混乱して相談者が増えるなと思います。
 退会者が増えるので被害者意識が溢れていますが、自因自果、であることに目覚めて下さい。4の会員さんがもっと増えます。


○高森先生の話を聞いていてもなぜ救われないのですか。

とよく聞かれます。また善知識ではないのですかとも聞かれます。
現に救われたという方もおられるではありませんか、とも言われます。

 その答えは先の「谷本氏の獲信の記録」にあると思います。
 谷本氏は岐阜市の建設会社社長で高森先生を善知識を仰ぎ、忙しい仕事の合間も聴聞しておられる姿は私も何度も見ました。
 会社ビルの中に、畳敷き広間を作り、岐阜支部長として支部の中心となって活動されていました。
 それが昭和53年、30年前に癌になられ、手遅れの発見でした。
 高森先生も見舞いに行かれ、お世話になった浅倉支部長が駆けつけ、病院での法施が始まりました。
 高森先生は葉書で説法され、その葉書はビデオにも残っています。


・11月12日
「その後の御容態いかがでしょうか。
 日に日に寒くなってきます、ご用心下さい。
 それにしても一日も早く魂の解決をして大安心の身になって下さい。
 明らかなお慈悲が明らかに聞こえたら明らかに安心できます。
 疑わんようにつとめている間は疑っているまっさい中です。
 疑いなく墜つる者でなければ疑いなくすくわれません。
 お元気になられることを願います」

白い心ーー明らかなお慈悲
暗い心ーー疑わんように
黒い心ーー疑いなく墜ちる者

・12月13日
「阿弥陀仏は見聞知のお方、心の底までお見ぬきです。
 ただ全てをまかせよとお呼びずめです。
 逃げても逃げても仏智無辺にましませば、散乱放逸もすてられぬ
 地獄のカマの底までも共に墜ち共に苦しみ、なげきたまう。
 十劫より調熟し釈迦の八千遍の往来は、貴方一人の為です」

黒い心ーー心の底までお見ぬきです
白い心ーーただ全てをまかせよと、お呼びずめですーーー

・12月30日
「この後いかがなされているかと日夜案じております。
 愚考しますに、貴方は今一番阿弥陀仏に近い所におられます。
 もう一つ邪魔をしているのは、自力の執心です。
 何とかなりたい、どうしたら、どう信じたら、どう思ったら、
 助かりたい、ハッキリしたい、生きたい、何とかなりたい、早く安心したい、これらの心が自力の迷情で、聞いているぞ、知っているぞの阿弥陀様を泣かせ、この心は捨てものです。
 この心捨てて、捨てて捨て切っていくしかありません。
 弥陀に念じます。」

暗い心ーー邪魔をしているのは自力の執心ですーーーー

・その後、谷本氏は苦しみ出し、やがて「今、阿弥陀仏にあえたー
 往生スッキリ、往生ハッキリ、往生スッキリ、ハッキリ」と繰り返し恩徳讃を歌われ、数日後亡くなられました。
 高森先生もこのことを聞かれて「それはよかったですねー、あれほど求めておられたのですから」と言われて法名を付けられたとなっていました。

 このビデオテープも回収と知りました。
 皆さん読まれてどうでしたか。
 獲信を念じて最後は仏願の生起本末を説かれているのです。
 これは臨終間近な谷本氏だから説かれたのだと言い訳する人は、自分の命はまだまだ大丈夫のとんでもない油断があるのです。
「今ここで私が」常にこの心で聞くべきです。


黒い心ーー衆生性得の機(悪業煩悩)墜ちる機ーーお目当て、お許しの機

白い心ーー南無廻向の機(阿弥陀仏のまことの心)直の呼び声、いただきもの

暗い心ーー自力計度の機(本願疑う心)計らい、自惚れ心、すてもの


 しかし30年後の現在の親鸞会会員さんはどう聞いているでしょうか。
 三願転入、まず19願の通り、諸善を頑張って活動、人集め、金集め
 これで宿善厚くなって、そのうちーーーー自力一杯やらねば自力無効と知らされぬ、捨てられぬ、他力に入れぬなんか思っていませんか。
 自分で救済の予定概念にこり固まって、それこそ捨てものです。
 助かるつもりでいませんか。自分で自分を助けようともがいていませんか。
 阿弥陀仏は何とおしゃっておられるのか、そこを聞かせて頂かねば苦労していても方向違いでは一生今のままです。

 私は同じ癌末期のTさんに、谷本氏への高森先生の言葉を見せて話しましたが、当時
「ただ全てをまかせよとお呼びずめです」が全く分かりませんでした。
 また「この心捨てて、捨てて、捨て切っていくしかありません」が分からず、どしたら捨てられるか分からず共に病室で泣きました。
 アニメ1部の法然上人の「一切の計らいを捨てよ、捨てようと思う心も捨てよ」のお言葉が分からず苦しみました。
 こいつが一番悪い、こいつの為に墜ちるのだ、しかしどしたら捨てられるのか分からない。

 何を言っているのか、泣くほど辛いのか分かりますか。
 貴方も最後にここへ引っ張り出されて来るのです。

 高森先生は善知識か。私はそう思います。
 人生には目的があり後生の一大事を解決する事である。
 阿弥陀仏の本願こそが真実であり、親鸞聖人が明らかにされている。
 こう教えられる方は善知識です。

 しかし、真の知識とは今の高森先生からは思えません。
 仏願の生起本末を正しく説き、三つの心を分かるように教えて頂かねば救われません。
 講師部も会員さんも皆さん本当に頑張っておられます。
 その苦労が何処へ向っているのか、もう一度考えて下さい。
 聞いているつもりでも聞いていないのですよ。
 信心の沙汰を読みましたが本音が出ていませんね。

 法友通信に特専部の人が「どのような気持ちで善をすれば、どう聞いたらと尋ねる心は自力であり不浄な心だと知らされました。こんな心がいつも動いていたので、だからこそ、教えを聞かねばなならいというお答えに、衝撃を受けました」との記事が目に付いた。
「善に努め、心は不実であってはならない、火の中を突破して聞け」と答えてもらったそうだが、またも尺取虫の火鉢回りではないか。
「今晩死ぬ覚悟で聞法に臨みます」と最後書いてあったが、辛かった。
 これこそ、真面目に求めて来たからこそ出てくる言葉です。
 なのにこんな答えしか用意されない、死ぬまで求道を歩かされているのに早く気付いて欲しいと願う。


 昔はどこを読んでも全部その通りだと思ったが、今はトンチンカンな内容に気付くことが不思議だ。
 仏智の働きの大きさに驚くばかりです。

 隠れてでもいいから、他の先生の話を聞いて下さい。本を読んで下さい。
 必ず、宿善の人は真の知識にあえます。必ず。
 ここを読んでおられる方はすでに見つけておられます。


南无阿弥陀仏

投稿

投稿です。


 すでにご存知かと思いますが、チューリップ企画の法論について、以下のサイトが公開されています。

 清森問答でも、ぜひ紹介して頂ければと思います。


http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/
(苦笑の独り言)


以上です。

質疑応答145

【質問】


 親鸞会関係者の方のHPを見ると、「当流は廃立肝要なり」という言葉が、「親鸞聖人・御遺言鈔」という出典ということでよく引用されているのですが、ネットや浄土真宗聖典・検索システム(http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/kensaku/)で「廃立」を調べましたが、結局該当する言葉を見つけることができませんでした。

 もしも、「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献がどのような文献で、そのどこにこの言葉が記載されているかご存じでしたら、教えていただけたらと思います。というか、そもそもこのような文献が存在するのでしょうか?

 ついでにお聞きしたいのですが、清森問答の質疑応答の87で、「三重廃立」が浄土真宗の伝統的な概念でないという話がされていましたが、(http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-100.html#comment_area)そのコメント覧に「ああさん」が書いていた、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

という言葉も、同様に検索してたのですが見つけることができませんでした。これに関しても、典拠をご存じでしたら教えていただけたらと思います。



【回答】


 私も、今まで真宗に関する本を、色々読んでいますが、「御遺言鈔」という文献については、一度も見かけたことがありません。

 念のために、本願寺司教の方にも確認しましたが、「御遺言鈔」という文献は存在しないとの回答でした。

 親鸞会で、何を根拠に「御遺言鈔」と教えられているのか分かりませんが、存在しないか、存在したとしても一般に認められていない聖教だと思います。


 また、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

 これは、(親鸞聖人)の記載ミスだと思います。

質疑応答144

【質問】


 この議論で書かれていることは正しいのでしょうか。もし、違っている部分があればご指摘お願いします。



【回答】


> > この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
> > すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
> >  (如来二種回向文)

 この御文は、本願成就文から、11願を解釈されたものと思われます。

 五願開示の考え方からは、11願が「若不生者」に対応すると解釈できるのですが、そのように親鸞聖人がハッキリ書かれている根拠はありませんので、これが親鸞聖人の教えだと断言するのは躊躇があります。

 ですから、「若不生者」に、正定聚にさせるという意味があるとは断定できません。(そういう解釈も成り立つ、ということです)



 この文章を書かれた方は、

> 本願成就文を基準に読むなら、「信楽のものを、正定聚に生まれさせる」のが、「若不生者」の意味。

 このように解釈されていますが、正定聚になるのは、「若不生者」の前段階だと親鸞聖人は説明されているようです。

 本願文を詳しく解説された『尊号真像銘文』には、以下のように書かれています。


●「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。

 「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。

 「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。

 「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。

 如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。



 このように、「乃至十念」と「若不生者」の間に、「信心をえれば、正定聚になれる」と書かれています。

 正定聚になるのは、浄土往生の前ですから、この部分に入れざるをえなかったのではないかと拝察いたします。


 ですから、不体失往生の根拠は、本願文では「乃至十念」と「若不生者」の間の空白部分ですので、挙げようがありません。

 本願成就文によって、この空白部分に、「正定聚にしてみせる」の御心があることを、親鸞聖人は明らかにされたのです。




> > 分相の18願は、「信楽を与える」という約束
>
> と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


 これも、分相の18願を、「信楽を与える」と味わうのは良いと思うのですけど、親鸞聖人が、そのような言い方をされている部分が一箇所もないので、やはり慎重な姿勢を取る必要があると思います。

 この方の言うように、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」という表現に止めるのが、無難だと思います。




> 「【信楽を獲た人は現益も獲られる】ということの根拠は
> 「即得往生住不退転」しか有り得ない。」
> と言うほうが、より正確な表現ですね。
> あくまで「若不生者」の「生」は「わが浄土に…」です。

 この意見で、問題ないように思います。

投稿

2chに以下のような書き込みがありました。
ぜひ清森問答に掲載をお願い致します。



678 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:21:20 ID:/nmFEKvb
ちょっと時間が余った。よく読め。

>一願該摂と五願開示

一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

しかし親鸞聖人は十八願を開いて五願に配当されて意を明らかに
されたんです。これが五願開示。

どちらが正しいということでなく、開合の違いといいます。


679 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:23:15 ID:/nmFEKvb
>一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

正信偈や田中氏が根拠に出した唯信鈔文意の「選択本願」は十八願を指しているから
この一願該摂の法門に当たる。

本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
  真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。(正信偈)


 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。
  (唯信鈔文意)


だが祖師聖人はこれだけではないんだよ。



680 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:24:21 ID:/nmFEKvb
如来二種回向文には十七、十八、十一願をあげて
「これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。」と
十七願、十一願も選択本願とされている。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)



681 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:26:37 ID:qtbNF16F
十八願の信楽によって十一願の証果を得るのが難思議往生。

分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

「滅度を得る」という意味は無くなるから、信巻の最初は[正定聚の機] になる。

「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」

分相の法門において滅度は十八願の結果ではない。


これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。
現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。
これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。
これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、
また難思議往生と申すなり。(浄土三経往生文類)


682 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:27:32 ID:qtbNF16F
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

さきに出した回向文。回向とは「与える」ということ。

他力の行を与えるという誓願が十七願。

他力の信を与えるのが十八願。

他力の証果を与えるのが十一願。

ちゃんと書いてあるだろ。



683 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:28:35 ID:wp+JR0yG
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

正定聚の位につくのも十一願による。
十八願で信楽を獲たひとは正定聚の機になるのと
十七願の名号をいただいたひとがつく位だから
本来は十一願で獲る位だが
十一願と共通するので信巻巻頭に書かれている。

成等覚証大涅槃(正信偈)も意は同じ。

純粋な意味で十八願は「信楽を与える」という意味になる。

相伝義書で「若し信心生まれずは」という口伝になっているのは
少なくともその部分は相伝義書は正しいということ。




688 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:21:22 ID:SSHL9SRG

●●● 墓穴を掘ったちび丸 ●●●

 ちび丸の説によると…

     ┌至心信楽 ─ 18願 ─ 信楽を与える
18願─┼若不生者 ─ 11願 ─ 信楽の者を、浄土往生させる
     └その他

> 分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

分相の18願は、「信楽を与える」という約束
分相の11願は、「信楽の者を、浄土往生させる」という約束

だから、18願は「信楽を与える」という約束、とは一応言える。

しかし!!

分相の18願に対応するのは、「至心信楽」
分相の11願に対応するのは、「若不生者」

なので、一願該摂で「信楽を与える」に対応するのは「至心信楽」でなければならない!!!

田中氏の「不体失往生の根拠は、至心信楽だ」という主張を、全面的に認めたわけだ。



689 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:31:11 ID:SSHL9SRG

ちび丸も元会員を自称するからには、

五願開示で、

分相の18願→至心信楽
分相の11願→若不生者

だということは、知っているだろうな。

親鸞会の教学解説書(かなり古いものだが…)にも載っていたし、
講師試験に出たこともある。

というより、浄土真宗の常識だ。



分相の18願が「必ず信楽にさせる」と認めたということは、
  「必ず信楽にさせる根拠」は「至心信楽」だと認めたわけだ。

分相の11願が「必ず浄土往生させる」と認めたということは、
  「必ず浄土往生させる根拠」は「若不生者」だと認めたわけだ。

 チューリップの間違いと、田中氏の主張の根拠を、同時に教えてくれて有難う。





690 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 19:44:01 ID:GFgl1Rj+
>689

田中さんが、不体失往生の根拠は「信楽」だと言われていましたが、理由が分かりました。
ありがとうございました。




693 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:37:18 ID:SSHL9SRG

(補足)

> この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
> すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
>  (如来二種回向文)


このように、11願は、「真実信楽をえたらん人」は「すなはち正定聚の位に住せしめん」とも解釈できる。

しかし、決して「信楽をえさせる」誓いでないことは明らか。

「信楽をえさせる」のは分相の18願のみ。

「正定聚の位に住せしめん」というのは、仏になる身にさせるということ。
必ず浄土に生まれさせる、というのを、正定聚になると解釈されたのであろう。


つまり

分相の18願= 至心信楽 =信楽をえさせる
分相の11願= 若不生者 =信楽の者を、(正定聚にさせ)浄土往生させる

チューリップ山田氏が、「若不生者」を、

信楽に「生」まれさせ、浄土に「生」まれさせる

と解釈したのは、明らかに誤り。




694 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:42:14 ID:SSHL9SRG
しかし…
「不体失往生」=「正定聚」と取るならば、

若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。

不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。

アニメ2部だけなら、問題なかったかも。

その後の、山田氏のフォロウがまずかった。


本願成就文の「信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」

ここに教えられているのも、「信心歓喜(信楽)した者が、即得往生(入正定聚)できる」と説かれている。

本願成就文を基準に読むなら、「信楽のものを、正定聚に生まれさせる」のが、「若不生者」の意味。

親鸞会の人は、最初から「信楽」=「正定聚」と勘違いしているから、間違えるんだよ。


信楽した者に、現益(正定聚)と、当益(成仏)の、両方を与えるのが弥陀の本願。

間違っても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」などと読んではならない。

本願成就文の破壊だよ。これは。



695 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:46:39 ID:SSHL9SRG

分相の18願は、「弥陀のお力によって、信楽になれる」とは説かれているが、

「若不生者」の生は、「正定聚」と「成仏」のみなので、

「信楽に生まれさせる」という表現は、絶対に出てこない。

「もし信楽に生まれさせずば、正覚を取らじ」などとは誓われていない。

親鸞聖人は、そのような書き方はされていない。



表現には、気をつけるべし。

教行信証信巻を、よく読まれたらよい。




696 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:56:58 ID:mBCVh9VS
>695

高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?




697 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:58:38 ID:L/AgIQqE
>>693-695
ありがとうございます。
とてもわかりやすい説明で、納得できました。

そういえば最近、親鸞会の会員の財施や活動に対するモチベーションが、
非常に低下しているというようなことを聞いているのですが、
その辺の背景にはやはりこの法論の結果や、
脱税疑惑なんかが影を落としているのでしょうね。


698 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:07:29 ID:SSHL9SRG
>>695
>
> 高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?


そういうこと。
全然分かってない。

本願は  「信楽した者を、浄土往生させる」
本願成就文「信心歓喜(信楽)した者を、正定聚にさせる」

この関係だよ。


親鸞聖人は、「浄土往生できる」ことを、「正定聚になれる」と言い換えられた。
どちらも、「信楽すれば…、という条件つき」

信楽すれば、正定聚になれる。だから「信楽」=「正定聚」だと思ったのだろうか?

だから、正定聚を信楽と言い換えて、「信楽すれば、信楽になれる」となった。

これでは訳わからないから、「信楽すれば」を削っちゃったんだろう。

そうだとすれば、頭わるすぎ…


だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

同じなら、「信楽の者を正定聚にする」などと、無意味なことは言われない。




699 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:12:53 ID:SSHL9SRG

>
> 若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。
>
> 不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。
>
> アニメ2部だけなら、問題なかったかも。


このように一応書いたが、

親鸞聖人が弥陀の本願を、現当二益と解釈されたのは、あくまで本願成就文が根拠。

本願文には、直接的には現益は示されていない。


だから、親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、本願成就文。

やはりアニメに描くのは「即得往生 住不退転」が適当であった。


親鸞聖人が、何を根拠に不体失往生を論じられたか、分かっていないから、このようなミスをするんだろう。




701 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:16:43 ID:iBZWtYDV
>>698
なるほど。ということは、十八願を

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

と言い換えるのは間違い、ということ?


702 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:29:04 ID:SSHL9SRG
>>701
> なるほど。ということは、十八願を
>
> どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に
>
> と言い換えるのは間違い、ということ?


「どんな人も 信楽すれば 必ず助ける 絶対の幸福(正定聚という意味なら)に」なら、いいんじゃないの?


問題は、必ず信楽になれると言ってよいか。

> 分相の18願は、「信楽を与える」という約束

と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


これを、「どんな人でも かならず信楽にする」と書き換えて良いか?

どこかに親鸞聖人が「必ず信楽にする約束」と書かれていれば分かり易いが、今のところ私は、見つけていない。

間違い無いのは、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」。これだけ。


誰か、「どんな人も、必ず信楽にさせると 約束されている」と書かれている根拠があれば教えてください。

それが見つかれば、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」もOKだと思う。


703 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:39:13 ID:NEkveLHU
なるほど。
弥陀の十八願はそういう約束だったのか。


704 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:50:55 ID:T0XwJH3K
どんな人でもっていうのは、十方衆生のことだとは聞いたな。


705 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:52:38 ID:SSHL9SRG

アニメは高森氏の製作では無いと言い出す人がいそうだから、
高森氏の著作から、間違いを指摘する。


もとよりこれは阿弥陀佛の本願に「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と約束なされた通りになった相であるから、まさに本願に相応したわけである。【会報2集・信の一念5】


「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、浄土往生せずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

現益で解釈しても、

「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」

と書くのが限界。


「信楽の一心に救う」というのは、18願が全然分かってないから、こんな表現になる。




709 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:24:15 ID:NEkveLHU
>>699
アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
という説明は当時からなされていましたよ。

配慮であって、間違われたわけではありません。


710 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:25:12 ID:L/AgIQqE
>>709
それなら田中氏との法論でも最初からそういうべきだったのではないかと思いました。


711 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:37:09 ID:SSHL9SRG
>>709

> アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
> という説明は当時からなされていましたよ。


僕は、アニメより、高森氏が自著で「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と教えていることが、もっと問題だと思う。

アニメは言い訳のしようもあるが、この文章は言い訳の余地がない。




712 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:42:50 ID:SSHL9SRG
>>709

そもそも、弥陀の救いが、現在か、死後かの論争だったんでしょ。

要するに、「若不生者」の「生」が、現在か、死後かという論争。

だから「若不生者」の「生」を現益と解釈できる、お経の根拠は何か、が問題になってるわけ。



ここに「若不生者 不取正覚」を出してどうするの??

理屈から考えてもおかしい。




親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

分かりやすいとか、分かりにくい、の問題ではない。

根本的に、アニメ製作者が、教えを分かっていないのが問題なんだよ。




713 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:50:59 ID:DdIlnfvT
>>711

貴方のお陰で、高森会長がなぜ本願の解釈を間違えたか、よく分かりました。
感謝いたします。




714 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:52:19 ID:plsqetV/

ちび丸にも感謝w




715 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:06:21 ID:LmZCYc0B
>>712
本当に分かっていなかったか、
あるいは分かっていながらわざとそういう教義にしたかったのかもね。

「阿弥陀仏は命掛けなのに、お前たち会員はそうなってない」

「情けない・恥ずかしいと思わないのか」

「だったらお前たちも命掛けで組織に布施をして貢げ」

こうやって罪悪感を植えつけて組織の奴隷を作り上げる。
そういう構造を作り上げたかったんだろうね。

そもそも親鸞聖人の教えは人々の心を解き放つものだったのに、
親鸞会では恐怖と罪の意識で縛り付けることしかしない。
この歴然とした差は、まさにこの本願の読み違いに起因しているように思う。




717 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:21:03 ID:zsT20bKo

今回の議論で、色々な疑問が解けた。
ちび丸氏の「若不生者」が現益というのも、間違いではなかったわけだ。
しかし、現益が信楽だと思い込んでいたから、しっくり来なかったんだ。




718 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:37:49 ID:/lPljhF1
なるほど、現益とは正定聚になることか。「信楽を得たら」「必ず」「正定聚」になると読むわけか。

結局、この「必ず」は「信楽を得る」にはかからないということ・・・凄い分かりやすかった。



723 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 08:02:22 ID:mr53OP0P
>>698
なるほど。とても解りやすかったです。ありがとうございます。
そういえば「入正定聚の益」ですものね。

>だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

普通に仏教の勉強をしないで親鸞会の教学を学んでしまった自分は、
ほかにもたくさん間違った理解をしてるんだろうな。恐ろしいことです。




737 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 16:13:05 ID:ODO4NQvv
>SSHL9SRG

とりあえず、ちび丸の反論を予測して前もって書いておくけど
真宗相伝義書の論註講記には、三心生ぜずばとよむ相伝があると書かれている。自分も調べてみた。
本願寺東西分裂後すぐの人物から聞いたことをまとめた書のようで怪しさがただようとすればそこだが
ちび丸は正統な相伝だと証明しようと今必死にほかの根拠も探していると思う。
まあ、そこにしか根拠がなかったとしても、一応は本願寺の中に若不生者を信楽生まれずばと
解釈する人がいたということからすれば、私的にはこの解釈もありだとは思う。
しかし、親鸞聖人の著作に忠実であろうとすれば認めるべきでないし、
真宗の一般的な解釈からほどとおいものとして、秘密の法門めいて教えるべき教義ではないという意見。

ちび丸は相伝義書と銘うたれた書籍の一引用文献という理由で、
これが親鸞聖人の密かに伝えられてきた真実で、信心決定者なら感得できる本願解釈だと論陣を
はってくるだろうが、惑わされる人がいないことを願います。



742 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 18:31:42 ID:5XAn0pfb
>>712
> 親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

というか、
「【信楽を獲た人は現益も獲られる】ということの根拠は
「即得往生住不退転」しか有り得ない。」
と言うほうが、より正確な表現ですね。
あくまで「若不生者」の「生」は「わが浄土に…」です。

阿弥陀仏が直接誓われたのは、
「信楽を獲た人に当益を与える」です。
そして、この本願が成就したことにより、
「信楽を獲た瞬間に、当益が保障される」というシステムができあがりました。
そして「当益が保障される」のは現世においてですから、
「当益が保障されること(入正定聚)」を「現益」と定義したわけです。ゆえに、
「信楽を獲た一念で、現益が獲られる」ことになったのであり、それを釈尊は成就文に、
「信心歓喜乃至一念…即得往生住不退転」と説かれたわけです。
ですから、本願が成就した現段階においては、本願の内容は
「信楽を獲た人に現当二益を与える」だと見なしても差し支えありません。
(実際、親鸞聖人は現益の意味を補って本願文を解釈されています。)

このように、当益である「若不生者」から副産物として現益が派生したのは確かです。
だからといって、
「「若不生者」を親鸞聖人が現益と解釈された」とまで言うのは言いすぎだと思います。
(当益と解釈されたからこそ現益が派生したのであって、その逆はありえません。)

いずれにせよ、これらのことは全て、「信楽を獲れば」という前提の上での話であって、
「信楽を獲させる」とはどこにも誓われていません。
もちろん、四十八願が成就した時から今もなお、
【光明】を十方衆生に降り注いでくださっていて、
信楽を獲させよう(名号を受け取らせよう)と働きかけておられるのは事実です。

質疑応答143

【質問】


 親鸞会では、『唯除五逆誹謗正法』を、『十方衆生』は『助かる縁手がかりの無い五逆謗法の者』だと見抜かれた、と教わりましたが、この解釈は正しいのでしょうか?



【回答】



 結論から言いますと、親鸞聖人は、そのように解釈されていません。


●善知識をおろかにおもい、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者をば、五逆の者と申すなり。同座をせざれと候なり。(末灯鈔)


 ここで親鸞聖人は、五逆罪・謗法罪の人と「同座するな」と仰っています。分かりやすく言えば、「近づくな」ということです。

 全人類が五逆謗法であれば、無人島で暮らすしかありません。

 五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくなと仰っているのです。

 もちろん、「親を邪魔だと一度でも思ったら五逆罪」とか、「善知識の話が長かったとか短かったと思うのが謗法罪だ」という教えは、仏教にはありません。



 また、少々難しいですが、教行信証信巻には以下のように書かれています。


●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。

(乃至)

 しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。

 彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。

『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。



 ここに説かれていることは、

・五逆謗法を造っていない人には、これから造らせないために「除く」と言われた。

・五逆謗法を造ってしまった人も、実際は浄土に往生できる。

・ただし、「仏・聖衆が見えない」「正法が聞けない」「仏を供養できない」という3つの障りがあり、本当の幸せにはなれないけれど、地獄に堕ちるよりマシである。


 以上の3点です。


 浄土がなぜ素晴らしいのかと言えば、「仏・聖衆が見える」「正法が聞ける」「仏を供養できる」からであり、それが出来ないのであれば、浄土の幸福は享受できません。

 ですから、五逆謗法でない方が良いに決まっていますが、五逆謗法を造っていても、信楽をえた人は、地獄に堕ちないのです。

 これも、信楽をえた人に、五逆謗法の人と、そうでない人の2種類あるという前提で説かれていますので、全人類が五逆謗法と解釈するのは無理があります。



 結論として、阿弥陀仏が「唯除五逆誹謗正法」と仰ったのは、五逆罪、謗法罪の恐ろしさを教えて、造らせないようにするためだ、ということになります。

 これを「十方衆生は五逆謗法だ」と教えてしまうと、五逆罪、謗法罪を造るのは仕方ないということになり、誓われた意味がなくなります。

 ですから、親鸞聖人の教えられたように解釈すべきだと思います。

質疑応答142

【質問】


「信楽にする力」は、12願でも18願でも、どちらでも解釈できるということでしょうか?



【回答】


 お聖教には、12願と教えられています。


●光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。(執持鈔)



 ですから、「信楽にする力は何願か?」と尋ねられたら、12願と答えるのが筋だと思います。

 12願が18願に納まるという考え方をするならば、18願に含まれると言えないことはありませんが、あえて、そのような言い方をする必要はないと思います。

質疑応答141

【質問】


つまりこういうことでしょうか。

弥陀の十八願には
「信楽にする力(無明の闇を破る力)」
「お礼の念仏を称えさせる力」
「信楽にしたものを往生させる力」
が込められているのは当然であり、

阿弥陀仏の本願力によって、信楽になれるし
阿弥陀仏の本願力によって、お礼の念仏も称えさせられるし
阿弥陀仏の本願力によって、往生させて頂ける

のだが、

「十八願とはどういう本願ですか?」

と聞かれたら、
お聖教に書かれているお言葉通りに説明する事が大切なので

「信楽のものを必ず往生させるという誓いです」

と答えるべきであって、

いくら自分が信心決定の身にさせて頂き、

「弥陀の本願は"信楽のものを往生させる"と誓ってはいるが、
実際に救われてみると、私には"信楽にしてみせる"という
本願だと味わわずにはいられなかった」

と思ったとしても、お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、

「十八願は信楽にしてみせるという誓い」

という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。



【回答】


> 弥陀の十八願には
> 「信楽にする力(無明の闇を破る力)」
> 「お礼の念仏を称えさせる力」
> 「信楽にしたものを往生させる力」
> が込められているのは当然であり、
>
> 阿弥陀仏の本願力によって、信楽になれるし
> 阿弥陀仏の本願力によって、お礼の念仏も称えさせられるし
> 阿弥陀仏の本願力によって、往生させて頂ける


「信楽にする力」については、光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。



> 「十八願とはどういう本願ですか?」
>
> と聞かれたら、
> お聖教に書かれているお言葉通りに説明する事が大切なので
>
> 「信楽のものを必ず往生させるという誓いです」
>
> と答えるべきであって、
>
> いくら自分が信心決定の身にさせて頂き、
>
> 「弥陀の本願は"信楽のものを往生させる"と誓ってはいるが、
> 実際に救われてみると、私には"信楽にしてみせる"という
> 本願だと味わわずにはいられなかった」
>
> と思ったとしても、お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、
>
> 「十八願は信楽にしてみせるという誓い」
>
> という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。


 そうですね。

 私たちを導くために書かれたのが御聖教なのですから、法を説く以上は、御聖教に基づいた教え方をすべきだと思います。

 たとえ信心決定していても、教えを間違えることはありますので、御聖教から外れた説き方をするのは、非常に危険だと思うからです。

質疑応答140

【質問】


清森様

また、コメント欄に質問がついていました。よろしくお願いします。

> 「難思の弘誓は難度海を度する大船. 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」. (教行信証).
> 無明の闇を破する=信楽の身に生まれさせる
> と理解しておりましたが、いかがでしょうか。


> 子供が100点を取れたのは、親の教育・指導の影響も大いにありますが、子供の才能・努力によるところもあります。
> 私達が救われるのは、阿弥陀仏のお力であって、私の力は一切足しにならないはずです。この例えに関しては、珍しく清森さん本質を間違えていませんか?



【回答】

 質問はメールのみ、とお伝えしていますので、コメントされずに、質問者本人から以下のアドレスにお願いします。匿名でも結構です。(投稿は匿名不可)


 QWN01215@nifty.ne.jp


●難思の弘誓は難度海を度する大船

「難思の弘誓」とは、弥陀の18願のことです。
「難度海を度する大船」とは、この娑婆世界から、浄土まで渡して下さる船という意味です。

 ですから、これは「18願は、必ず浄土に連れていく誓いである」と親鸞聖人が仰ったお言葉です。


●無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

「無碍の光明」は阿弥陀仏のお力のことです。
「無明の闇を破する」とは、信楽になることです。

 ですから、「阿弥陀仏のお力によって信楽になれる」と仰ったお言葉です。


 では、これを、「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる約束」と言い換えて良いでしょうか?

 光明を誓われたのは12願ですが、どこを探しても「必ず信楽にさせる」とは誓われていません。12願をそのように解釈されている善知識も1人もありません。

 また、これを五願開示に当てはめて、「信」の働きと、言えないことはありませんが、12願にさえ「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と誓われていませんので、まして18願を「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と解釈するのは無理があると思います。


 喩えにつきましては、「Aならば、必ずBにする」という文章と、「必ずAにする」という文章は、決してイコールにならない、ということを示すためです。

 何でも、かんでも当てはめないで頂きたく思います。私が、何を喩えているかという、本質を分かって頂けば、このような誤解は無かったと思いますが、文章力不足をお詫び致します。

 もちろん、「Aの力によって、Bになる」という文章と、「Aは必ずBにすると誓っている」という文章も、イコールではありません。

 この辺りを、混同して考えている方が、多いように思います。



 私も、長年信じてきた、「命をかけて、必ず信楽にしてみせる」という解釈が、間違っているとは思いたくありません。

 どこかに、そのような根拠は無いかと、徹底的に探しました。

 皆さんから質問されるような内容は、すべて検討済みのものばかりです。

 しかし、残念なことに、調べれば調べるほど、明らかになるのは「必ず浄土に生まれさせる」という解釈以外は有り得ない、ということです。



 皆さんが、何とか18願を、「必ず信楽にしてみせる」と解釈したいという気持ちは、痛いほどよく分かりますが、釈尊も、善知識方も「必ず浄土に生まれさせる」としか解釈されていないという歴史的事実は曲げようがありません。


 高森先生は、おそらく個人的な味わいで「信楽に生まれさせる」と言われているのだと思います。

 ですから、「釈尊、善知識方とは違う、個人的な味わい」ということを、よく踏まえた上で、聴聞されたら良いと思います。

質疑応答139

【質問】


今回は、「若不生者」の『生』が「信楽に生まれる」という意味
なのかどうかは別として、
十八願を「信楽にしてみせる」という誓いだと言っても
かまわないかどうかの確認であります。

"『至心廻向』とは名号と願生彼国の2つを与えるという事だ"
というのが「成上起下」。

この「名号」は、頂けば「信心歓喜」であり信心歓喜は
イコール『信楽』ですよね。

========================================
『至心回向の四字は、成上起下とならうなり。成上と云うは、
かみの信心歓喜を引き起すこと、法蔵因中の至心より生ず。
起下というは、しもの住不退転の前途を達すること、
また至心に回向したまえる如来大悲の無縁の慈悲より
成ぜらるるものなり』(願々鈔)
========================================
この解説を山辺赤沼の教行信証講義では、

-----------------------------------------
此の説の根底は、如来の大悲回向を示すにある。
即ち信心も往生も、皆如来の与え給う所に外ならぬ。
(~乃至~)
至心回向が中間にありて、信心と往生を.私共に与える
という説である
-----------------------------------------

とあります。

「信心(信楽=名号)」と「往生」を与える、ということは、

もちろん十八願に「至心信楽した人を、浄土往生させる」と
誓われてある通り『往生』を与えられるということですが、

同時に、「信楽(名号)を与える」という誓いが十八願に
なされているということになると思います。

しかし本願文だけでは、「往生させる」という誓いは分かりますが
「信心(信楽=名号)を与える」という誓いなのかは分かりません。

十八願成就文を聞かせて頂いて、はじめて明らかに知らされる
ことだと思うのです。

ですから、本願文では「信楽にしてみせる」という誓いではなく
「至心信楽した人を、浄土往生させる」という誓いだけだと
理解してしまいますが、

十八願成就文を物差しとして本願文を聞かせて頂くと、
十八願というのは、

「至心信楽した人を、浄土往生させる」だけではなくて、
「信楽をあたえる」つまり「信楽の身ににしてみせる」
という誓いも含まれていると理解できると思うのです。

ですから「成上起下の義」からいえば、十八願を
『信楽にしてみせるという誓い』と言っても、
間違いにはならないと思うのですが、如何でしょうか?

(「往生」は、信楽の身になればできるので、往生を信楽に
ふくめてしまって、弥陀の誓いを「信楽にしてみせる」と
表現しても問題ないと思うのです)


どうぞ宜しくお願い致します。



【回答】


18願の「浄土に必ず生まれさせる」という御約束に、相応した身になったことを信心決定というのですから、18願のお陰で信心決定できるというのは当然のことです。

だからといって、18願を「必ず信楽にしてみせる」と言ってよいという理由にはなりません。



例えば、お父さんが、子供に「100点を取ったら、必ずゲームを買ってあげる」と約束したとします。

子供が頑張って勉強して、100点を取りました。

この瞬間に、子供は「ゲームを買ってもらえる身」となります。

子供が「ゲームを買ってもらえる身」となれたのは、お父さんの「ゲームを必ず買ってあげる」という約束のお陰です。

だからといって、お父さんが「必ず100点を取らせてみせる」と約束したことになるでしょうか?

もちろん、お父さんも、子供が100点を取れるように、一生懸命勉強を教えたと思います。しかし、「必ず100点を取らせてみせる」と約束したわけではありません。


同じように、阿弥陀仏は、私たちに、「信楽になったものは、必ず浄土往生させる」と約束されています。

そして、私達が信楽になれるよう、常に働きかけてくださっています。

だからといって、18願を、「必ず信楽にさせる」と言い換えて良いものでしょうか?

理屈から考えても、そうはならないと思います。


また、善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と解釈されています。誰一人「信楽にしてみせる」と解釈されている方はありません。

ですから、私達が18願を「必ず信楽にしてみせる」と理解してしまうと、善知識方の理解と、私達の理解が異なることになってしまいます。

そんな無責任な説き方を、私は出来ません。


もし、どうしても、「信楽に生まれさせる」と言いたいのであれば、「これは私の味わいであり、善知識方は、誰もこのように教えられていませんが…」と付け加えて説くべきだと思います。

それなら、構わないと思います。




> (「往生」は、信楽の身になればできるので、往生を信楽に
> ふくめてしまって、弥陀の誓いを「信楽にしてみせる」と
> 表現しても問題ないと思うのです)


信楽の身になれば「往生」できるのは、なぜですか?

阿弥陀仏が18願に「信楽をえたものを、必ず浄土往生させる」と誓われているからではありませんか?

まるで、信楽にさえなれば、オートマチックに浄土に往けるように勘違いしていませんか?

信楽をえた人に、阿弥陀仏の願力が働き続けるから、浄土往生できるのです。

浄土往生まで、必ず進ませるというのが18願の誓いであり、そのお力が、いわゆる「若不生者の念力」なのです。


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