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質疑応答152

【質問】


 蓮如上人の「この信心獲得せずば無間地獄に堕在すべきものなり」というお言葉は、うそだということでしょうか?



【回答】


 なぜ、蓮如上人がこのように説かれたのか、私にはハッキリしないのですが、以下の4通りの可能性があると思います。

(1)釈尊、七高僧、親鸞聖人が、「一切衆生必堕無間」という内容を説かれなかったのは、不適切であった。

(2)蓮如上人の上記のお言葉は、特定の対象に説かれた対機説法であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(3)蓮如上人の上記のお言葉は、蓮如上人の懺悔のお言葉であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(4)蓮如上人が間違われた。


 この中で、どれが一番妥当か、考えてみたいと思います。



 仮に、全人類が無間地獄に堕ちるのが真実だとします。

 釈尊は、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 七高僧方や、親鸞聖人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 そこには、何か深い理由があると思われませんか?



 蓮如上人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」と書かれたのは、ごくわずかな一部分です。

 その御文章を読まれた人のみに、真実を伝えられ、他の人には説かれなかったことになります。



 また、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、みな「信心決定できなければ、化土に生まれる」と説かれています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。



 つまり、「一切衆生必堕無間」が真実なのかも知れませんが、釈尊も、七高僧も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人の「正信偈大意」も、そのような説き方はされていないのです。だから、方向性が違うと申し上げたのです。

 蓮如上人が、「この信心獲得せずば…」と書かれたのは、対機説法で、その時は、そのような説き方をされる必要があったのであろうと、私は拝察しているのですが、どのように思われますでしょうか?

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質疑応答151

【質問】


 親鸞会教義の相対化72・73で紹介いただいた蓮如上人の言葉は、親鸞会ではあまり聞く機会のない言葉が多く、正直非常に驚きました。また、親鸞会で出している「百ヶ条」に含まれていないものも多かったと思います。

 私は「百ヶ条」を選ぶに際して、非常に恣意的な操作があったのではないかと思ってしまいます。恣意的な操作を行った文献で構築 された「蓮如上人の教え」は、もはや「蓮如上人の教え」ではなく、恣意的な操作を行った人物個人のドグマ以外の何物でもないと思います。

 これに関して、清森先生がどのように思っておられるかお聞かせください。



【回答】

 私は、「百ヶ条」に限らず、高森先生の教えの全てに、同様の問題が含まれているのではないかと思います。

 高森先生の教えには、「全人類は死んだら無間地獄だぞ。堕ちたくなければ、全てを犠牲にして富山に聞きに来なさい、人を誘いなさい、お金を出しなさい」という方向性があり、それを信じさせるに都合の良い言葉だけをピックアップして教えられているように感じます。

 しかし、仏教は、このような方向性で教えられていません。

 龍樹菩薩は十住論の調伏心品に、『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。

 現に、経典のどこを探しても「一切衆生 必堕無間」とは教えられていませんし、親鸞聖人も仰っていません。仏教では、地獄に堕ちる恐怖を原動力として、仏法を求めるような説き方はされないのです。

 また、法施、財施の功徳は説かれていますが、地獄に堕ちたくないからするものではありません。方向性が全く違います。

 それが、私が最も疑問に思うことです。

投稿

清森義行先生


 清森先生にはお忙しいところ、メールを失礼致します。

 先生方のような元講師の方たちのお苦しみはわたくしたち元会員にとっては想像できないものですし、自分には語る資格はないと思います。

 それを踏まえた上ですが、反親鸞会の人間には、いろいろなタイプがいるのでしょうが、わたくしの場合は、自分個人のことというよりも、2chと「ジャンヌ」、「家族の絆」等(他にも多々あります)のログをこの五、六年間に全て4、5回以上は熟読してきて、被害者のことを考えると遣る瀬無いという思いからです。

 当初はわたくしも貴重な青春時代を失ったとか献金のために昼の食事を抜き続けたため胃腸がおかしくなったとかの理由で親鸞会に怒りを抱いておりましたが、青春時代云々に関してはよく考えれば楽しかったと思うようになりました(もちろん、邪義を伝えたり、他人に不幸を与える活動をしたのですが、罪滅ぼしをしてきました)。

 上のような理由など小さく思えるくらい(自分の場合においてのみです)、大きな問題に関して親鸞会に激怒する日々が続きました。それは、家族の絆をズタズタに引き裂く活動をしてきたということですね。

 清森先生に対してお聖教の根拠を出すのはおこがましいのですが、あえて出させて頂きますと、蓮如上人も、「親に不孝の人は一段曲言之由被仰、折々御折檻の事候。二親に孝々なる人をは一段と御崇敬の事にて候。蓮如上人以来如此候。(実悟『本願寺作法之次第』 蓮如上人全集 言行篇 251頁(753)」、「何よりも親に不孝なる人蓮如上人第一御きらひにて候。又は不信の人には蓮如上人は御見参あるましき、と明応三四年の比より被仰出されたる事にて候。(同左 261頁(784))と仰っておれらますように、親鸞会は多くの家族を苦しめてきました。家族の絆のHPには、ノイローゼになったお母さんのお話など載っておりますが、本当に許せませんね(まあ、その学徒に問題があるのだというのが親鸞会擁護側の意見でした)。
 
 上のような根拠を出すと、すぐ親鸞会は、「信心決定すれば親孝行になる」とか「人生の目的を果たさないと親不孝」とかいう論理を持ち出しますが、何様だと怒りを禁じ得ないのは親の気持ちだと思います。そもそも、親鸞会にその親の気持ちを超越するだけの仏教理解があるとは到底思えません(あったとしても許されないことだと思います)。わたくし個人としては、たとえ仏教的に超越するようなもの(わたくしのような凡夫には関係のない歴劫修行の菩薩の行ですが)でも、親を大切にするべきだと思います。

 大乗仏教を貫いている空の思想も学ぼうとせず(わたくしは学ぼうとしましたが2冊とも途中で挫折しました)、唯識も学ぼうとしない(これだけは3冊読み通すことができましたが煩悩学?のレベル程度です)のに、偉そうに仏教を話したいた(つもりになっていた、どころか悪縁になっていた)自分は、恐ろしい種まきをしていたと思います。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)

清森義行様



 前回に続き、『蓮如上人御一代記聞書』で興味深かったものをもう少し紹介してみたいと思います。

前回親鸞会教義の相対化・72(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-248.html

(79)
一、前々住上人仰せられ候ふ。「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」といふことがあるぞ。妻子を帯し魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思ひのままにはあるまじきよし仰せられ候ふ。

(訳)
 蓮如上人が仰せになった。「噛むとは知るとも、呑むとは知らすな」(物事をよく噛みしめて味わうことを教えるべきで、鵜呑みにすることを教えてはならない)という諺があるぞ。妻子がいて魚や鳥を食べる罪深い身であるからと言って、そのように思いのままに振る舞うことがあってはならない。


★会員各自が教えられることに対して検討を加えていくことを禁じ、高森先生への絶対無条件服従を強要する親鸞会は、はたして「噛むとは知るとも、呑むとは知らすな」という蓮如上人の教えをご存じなのでしょうか?(※)
 高森先生の著書の盗作問題や様々なスキャンダルを会員に指摘されても、「善知識が殺人犯であろうが関係ない、聞かなければいけない」と居直る講師の方には、「罪障の身なりといひて、さのみ思ひのままにはあるまじき」という蓮如上人の教えは関係ないのでしょうか?

「悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし」という法然上人の教えを以前紹介しましたが、親鸞聖人はその法然上人の弟子であり、浄土真宗はその流れを汲んでいることを忘れてはいけないと思います。


(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。


★「御文章は、一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめること大切」と講師に徹底して教えている団体は、「注意せずにぼんやりと読んでいる」ということになるのではないかと私には思えてしまいます。


親鸞会教義の相対化・44
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-163.html


 また、親鸞会ドグマに基づく親鸞聖人の言葉の解釈を、田中氏に古典文法の間違いや親鸞聖人の言葉との矛盾から指摘されたにも関わらず、

>>>
「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
>>>

などと居直るチューリップ企画の山田氏も、明かにこの蓮如上人の教えに反していると思います。


(240)
一、安芸の蓮崇、国をくつがへし、くせごとにつきて、御門徒をはなされ候ふ。前前住上人(蓮如)御病中に御寺内へまゐり御詫言申し候へども、とりつぎ候ふ人なく候ひし。
 その折節、前前住上人ふと仰せられ候ふ。安芸をなほさうと思ふよと仰せられ候ふ。
 御兄弟以下御申すには、一度仏法にあだをなしまうす人にて候へば、いかがと御申し候へば、仰せられ候ふ。それぞとよ、あさましきことをいふぞとよ、心中だに直らば、なにたるものなりとも、御もらしなきことに候ふと仰せられ候ひて、御赦免候ひき。そのとき御前へまゐり、御目にかかられ候ふとき、感涙畳にうかび候ふと云云。しかうして御中陰のうち蓮崇も寺内にてすぎられ候ふ。


(訳)
 安芸の蓮崇は、国を乱すような騒動を起こしたり他にも問題があったために、御門徒を破門された。その後、蓮如上人がご病気になられた時に、御寺院に参ってお詫び申し上げようとしたが、誰も取り次ごうとしなかった。
 その時に、蓮如上人が仰せになられた。「安芸の破門をとこうと思う」と仰せになられた。
 蓮如上人のご子様方が「一度仏法に背き危害を加えるようなことをした物であるから、いかがなものでありましょう」と申しあげたところ、蓮如上人は、「それは何というあさましいことを言うのであろう。心の中さえ改めて直したならば、どんな罪を犯したものでも、もれることなく助けてくださる阿弥陀仏の本願ではないか」と仰せになり、安芸の蓮崇をお許しになられた。そして蓮崇は蓮如上人の御前に参りお目にかかったが、感涙にむせび畳みを濡らしたということである。
 そして、蓮如上人が往生され、その中陰の期間中に、安芸の蓮崇も寺内で亡くなった。


★これは既に、清森問答のコメント覧でおうさんが指摘されていましたが、この記述も親鸞会で読まれることがあり、このような例は親鸞会にもあるのでしょうか?

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-247.html#comment1144

 三十年近く親鸞会に尽くしてきた清森さんをあっさり除名するような団体ですから、おそらくそれはないでしょう。
 というか、清森さんが除名される理由が私には全くわかりません。ちなみに、親鸞聖人の教えと異なるドグマを「親鸞聖人の教えと違う」と言うことは「謗法罪」にはなりませんし、親鸞聖人が教えていないことをあたかも親鸞聖人が教えているかのように捏造して教える人物を注意することも「謗法罪」にはなりません。



※ちなみに親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものは、以下のように何れも根拠になっておりません。

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html
2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html
3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html
4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html


以上

親鸞会教義の相対化・72(投稿)

清森義行様


 今回は『蓮如上人御一代記聞書』を取り上げてみたいと思います。
 本書は、蓮如上人の言行を中心に、蓮如上人に教えを受けられた門弟方の言葉も合わせて収録されており、浄土門の信仰のあり方を学ぶのに、非常に参考になるのではと思います。

 なお、今回取り上げた言葉は前後のコンテキストから明かに蓮如上人の言葉であるものを選びました。もしも私の不勉強で蓮如上人の言葉でないものを蓮如上人の言葉であるかのように扱っている部分があれば、清森さんの方でご指摘いただけたらと思います。


(91)
一、わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。触光柔軟の願候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。

(訳)
他力の信心を得ているのは自分だけだと思って、独覚のような心になるのは、恥ずかしく見苦しいことである。他力の信心を得ているということは阿弥陀仏の慈悲を受け取ったということなのであるから、「自分だけが」などと思うようなことはあるはずがない。触光柔軟の願(第三十三願)と言うのがあり、阿弥陀仏の光明に照らされたならば心も柔軟になるはずなのである。したがって、そのように「自分だけが信心を得ている」と思っている縁覚の人の覚りは、独覚の覚りであるから、仏には成れないのである。


★「自分は他力の信心を得ている」ということで、経典や祖師方の言葉を自分の都合で勝手に解釈し、経典や祖師方の言葉に基づいてその誤りを指摘しても、全く改めようとしない方がいます。
 そのようなことは阿弥陀仏の光明を受けていたらあり得ないことであり、そのような方は「仏に成らざる」方ということになります。


(107)
一、何ともして人に直され候ふやうに心中を持つべし。わが心中をば同行のなかへ打ちいだしておくべし。下としたる人のいふことをば用ゐずしてかならず腹立するなり。あさましきことなり。ただ人に直さるるやうに心中を持つべき義に候ふ。

(訳)
どんな仕方であっても誤りは他の人に直してもらおうという心を持つべきで、自分の心の中を同行の仲間にうちあけて語るべきである。目下の人の言うことを用いずに決まって腹立てる人がいるが、これは恥ずかしく見苦しいことである。誰からでも他の人に直してもらえるように、心がけるべきであるという意味である。


★根拠を挙げて問題点を具体的に指摘し、どのように改めるべきであるかも示させていただいているにも関わらず、それを全く改めようとすることもなく卑劣な詭弁で誤魔化そうとする人物がいます。
 また、上司の間違いを指摘したら粛清されてしまうような組織があります。
 そのような人物や組織は、明らかにこの言葉に反しています。
「蓮如上人の教えに従う」と言うのであれば、速やかに態度を改めるべきです。



(116)
一、ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく存ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され、法義を心にかけられ候ふ。一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。その時仰せられ候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ。


(訳)
蓮如上人がある御門徒に「貴方が師事している僧侶が心得違いを直してもらったことをうれしく思うか」とお尋ねになられたところ、その御門徒は「まことに心得違いを直して頂き、ご法義のことを心にかけることができるのようになり、大変ありがたくうれしく思います」と申し上げた。その時に蓮如は「私はそなたよりも、なおいっそう嬉しく思うぞ」と仰せになりました。


★もしも親鸞会が本当に親鸞聖人や蓮如上人の教えられるように教えを伝える団体であるならば、会員はこの御門徒のあり方を学ぶできでしょう。親鸞会の会員が師事している高森先生の心得違いを指摘して頂いたならば、速やかにそれを直し、さらに心得違いを指摘した頂いたことを嬉しく思うべきです。
 親鸞会の会員一人一人がこの御門徒のようになり、高森先生の心得違いが改められるようになったならば、蓮如上人はなお一層嬉しく思ってくださるはずです。


(191)
一、行くさきむかひばかりみて、あしもとをみねば、踏みかぶるべきなり。人のうへばかりみて、わが身のうへのことをたしなまずは、一大事たるべきと仰せられ候ふ。


(訳)
歩いていく先の向こうばかりを見て、足元を見ないでいると踏み誤ることがある。他人のことばかりを見て、自分のことを省みて慎まなければ、大変なことになるであろう。と蓮如上人が仰せになった。


★清森問答の以下の投稿等を読ませて頂くと、「自らの足元をきちんと見ること」がいかに大切なことであるか切実に感じられます。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-161.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-150.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-139.html


(195)
一、人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ。


(訳)
他人の悪い所はよく目につくものであるが、自分の悪いところはなかなか気づかないものである。もしも自分でも悪いと気づくようならば、よほど悪いからこそ気づいたのだと思って心の中を改めるべきである。ひたすら他の人の言う言葉に耳を傾け受け入れていくべきである。自分の悪いところはなかなか気づかないものなのだから。と蓮如上人が仰せになった。


★そして、他の人の悪いことはよく見えるけど自分の悪いことにはなかなか気づかないのが私達の有様ですから、他の人に問題点を指摘された場合はその言葉に素直に耳を傾け受け入れるべきです。
 親鸞会で言えば、高森先生が自分で自分自身の誤りに自分で気づくというのは極めて難しいことです。他の人が高森先生の誤りを指摘してくれている時には、それをきちんと高森先生にもお伝えし、速やかに改めて頂くようにするのが、あるべき会員の姿であると言えるでしょう。
 高森先生自身がそれを望んでおられるのですから、当然そうあるべきです。

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-68.html


(261)
一、おなじく仰せにいはく、雨もふり、また炎天の時分は、つとめながながしく仕り候はで、はやく仕りて、人をたたせ候ふがよく候ふよし仰せられ候ふ。これも御慈悲にて、人々を御いたはり候ふ。
大慈大悲の御あはれみに候ふ。つねづねの仰せには、御身は人に御したがひ候ひて、仏法を御すすめ候ふと仰せられ候ふ。御門徒の身にて御意のごとくならざること、なかなかあさましきことども、なかなか申すもことおろかに候ふとの義に候ふ。


(訳)
 同じくこれも蓮如上人が仰ったことである。「雨の降る日や夏の炎天下では、お勤めなどもながながとしないでなるべく早く終わるようにして、お参りの方を帰らせるのがよい」と仰せになられた。これもまた蓮如上人のお慈悲の心のあらわれで、参拝された方をいたわられたのであり、これはそのまま阿弥陀仏の大慈大悲の御あわれみなのである。蓮如上人は常々「私は人にあわせて仏法を勧める」と仰せになられている。ところが御門徒の身でありながら、蓮如上人の御意向のとおりにならないのは、まことに残念なことであり、蓮如上人の嘆きはとても言葉で言い表すことができなかった。


★お勤めの際に暖房や冷房を入れることを禁止するほどお勤めの形式にこだわりながら、お念仏申し阿弥陀仏とのご縁を深めることを全く勧めない親鸞会のあり方を批判しましたが、私の主張の正しさは、この蓮如上人の言葉によっても裏付けることができると思います。


親鸞会教義の相対化・48
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-168.html



 最後に、清森問答のコメント覧には、私に対して「浄土宗僧侶」というレッテルを貼ることによって、あたかも私の意見が全く価値のないものであるかのように印象操作を行う親鸞会関係者の方の書き込みがありましたが、今回取り上げた内容に、その手が全く通じないことを追記させていただきます。


以上

私の白道・仏法は聴聞に極まる(投稿)

私の白道・仏法は聴聞に極まる(投稿)


             親鸞会元講師部


 私が「私の白道」を書く目的は、こんな私がお目当てと阿弥陀如来が救い摂って下された喜びと、このご恩を思えば阿弥陀如来の本願の尊きことをお伝えする以外にないと思うからです。
 親鸞聖人が「恩徳讃」にそのみ心をお示しになって下さいました。

     如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
     師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

 常にこの心を忘れず書かせて頂きます。


○{仏法は聴聞に極まる}

 親鸞聖人は両親の死をご縁として、自身の「後生の一大事」死んだらどうなるのだろう、何処へ行くのかに驚かれました。
 解決の道は仏教にあると知られ、わずか9才にして出家なされたその決意は、大変なものでありました。
 だから比叡山での仏道修行は激しく厳しく、自身に容赦なく励まれました。
 しかし、煩悩具足の身、励めば励むほど知らされるのは、仏の覚りに遠い自己ばかり。
 本性は仏性であり、煩悩の穢れ汚れを修行によって清めてゆけば救われると教える聖道門・法華経の教えの限界を20年間の修行の末、身を持って知られました。
 泣き泣き比叡山を下りられた聖人に、「よくぞ参られた、そなたが救われるみ教えは阿弥陀仏の本願だけであるから、よくよく聞きなさい」と法然上人は教えて下さいました。
 雨の日も風の日も法然上人のご説法を聴聞され遂に、「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証)
 阿弥陀如来に救い摂られたのです。
 信心決定、獲信なされました。
 それからの恩徳讃のご生涯は皆さんお聞きの通りです。

 ではどうしたら、後生の一大事は解決できるのか。
 法然上人から何を聞かれたか、親鸞聖人はどう教えられたのか、この一点こそ最も重要です。

 仏教を説かれた釈尊は、方便の聖道門・自力の仏教と真実の浄土門、他力の教え、阿弥陀仏の本願を教えてゆかれました。

 阿弥陀仏の本願、誓願、お約束には48願があり、18願こそ全ての人がこの世から救われる阿弥陀仏の本心を誓われたお約束であることを、親鸞聖人は法然上人より聞かれました。

  設我得仏 十方衆生  すべての人よ
  至心信楽 欲生我国  本願を信じて
  乃至十念       念仏申せば
  若不生者 不取正覚  必ず仏に成るべし
  唯除五逆 誹謗正法

 では、後生の一大事の解決が出来る、往生して成仏する因となる、本願を信ずるとはどういうことか。
 親鸞聖人は弥陀の18願文を明らかになされた釈尊の18願成就文をお示しになっておられます。

  諸有衆生 聞其名号  諸有の衆生其の名号を聞きて
  信心歓喜 乃至一念  信心歓喜せんこと乃至一念せん
  至心廻向       至心に廻向せしめたまえり
  願生彼国       彼の国に生まれんと願ずれば
  即得往生 住不退転  即ち往生を得不退転に住す
  唯除五逆 誹謗正法  唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん

「聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向」の釈尊のお言葉を知られて、

・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
(教行信証信巻)

・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
(一念多念証文)

・「廻向」は本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御法なり
(一念多念証文)

 このように、往生成仏の因となる至心信楽欲生我国の信心は、名号を聞く、仏願の生起本末を聞いて疑いの無くなったことであり、これは阿弥陀如来からの廻向、頂きもの、他力の信心であったと体得さなれたのです。


 蓮如上人もここを教えられて、


・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。
 これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文章4帖目8通)


・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
(御文章5帖)

・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
(御文章4帖)

・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
 しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
 これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
(御文章3帖目4通)


 ここまで読まれて皆さんどうですか。
 御本尊を御名号にされて朝晩、勤行の時、礼拝されている方は南无阿弥陀仏のみ心を本当に知られて礼拝しておられますか。

 私も、30年以上も前に親鸞会より御名号本尊を御下付され、礼拝してきましたが「無上甚深の功徳利益の広大なることその極まりなきものなり」の御文章のお言葉や、また「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」の御一代記聞書を根拠にこれこそ正しいの思い以外ありませんでした。

 また「聞其名号信心歓喜」が御名号本尊の根拠であることも知っていました。しかし、深いみ心は今思うと本当に分かっていなかったと知らされます。

 親鸞会を退会するとき、家の御本尊を返却するよう言われたので、文章と口頭で強く抗議し、従いませんでした。
 御本尊は最も大事、命をかけて御護りしろ、と指導しながら矛盾であると思ったからです。

 アニメでも親鸞聖人は、非難して去ってゆく信楽房に御下付された御本尊、与えられたお聖教をお弟子が取り返そうとしたら止められているでありませんか。アニメの聖人のされたことと違いませんか。こんなことでいいでしょうか。

 最近またも、退会をした人に支部長が御本尊を返せと迫ったことを聞きましたが、悲しいことです。六字のみ心がわかれば絶対出来ないことです。
 もう止めて下さい。親鸞聖人が嘆かれています。



○増井悟朗先生「本願の心」より

「聞によって廻向される」

「それでは、その信心歓喜乃至一念の廻向というものが、どのような方法で衆生に起こってくるか、つまり廻向の方法を示されたものが聞其名号ということであります。
 阿弥陀様は五劫の御思案、兆載永劫の御修行によって仕上がった大功徳というものを、全部南无阿弥陀仏のお六字におさめこんで、この名号のおいわれを説く声として、名声超十方と衆生にお与え下さる。
 それで衆生はこれを「聞」という形でいただく。
 声による廻向だから、衆生はこれを聞で受けるわけです。
 こういう仕掛けが聞其名号ということです。
 だから親鸞聖人は願文の「欲生」を解釈なさるのに勅命と廻向の二つの意味で味わっていなさる。如来様が「諸有の群生を招喚したまう勅命なり」勅命すなわち仏の呼び声ですから、衆生はこれを聞くということでこれを自分に受けとることができる。
 欲生の勅命の中に、その声の中に至心も信楽もおさめて廻向して下さるというのです。
 だから聞其名号によって信心歓喜乃至一念が起こってまいります。
 それを親鸞聖人は
「経に聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞といふなり」
と仰って、ここから聞即信という真宗独特の法門を展開されたのであります。


○いかに仏願の生起本末を聞くことが大事かが分かるではありませんか。


・おかる、庄松、山口善太郎、山本良介妙好人は19願の諸善を励んで、遂に18願に転入したと、いつ高森先生は説法されただろうか。誰か覚えていますか。

おかるーーこうにも聞こえにゃ聞かぬがましかーー
庄松ーーー合点ゆかずば合点するまで聞きなされーー
山口善太郎ーー聞けよ聞けよのお勧めがーー
山本良介ーーー金沢から四国高松、庄松の許へ聞きにゆく

 皆、真剣な聴聞をしているのではないですか。


 蓮如上人は親鸞学徒の鏡と言われますが、蓮如上人はどう説かれているでしょうか。


・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
(御文章2帖目15通)


「私の白道」にコメントをする人があり、読んでいるとその方の真意が分かります。
 退会した人を「それに騙される者など、よそ見をしている虚けか、鼻のイカれた病持ちだけだ」と書いて批判する人がありましたが、この人は阿弥陀仏の御心の分からない人だなと悲しくなりました。

・つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどということは不可説なり。(歎異鈔第6章)


 高森先生も「歎異鈔をひらく」に詳しく書いておられる。
 支部長はよく読んで、今後の退会者に無理な引き止めをしないで下さい。

「親鸞会、高森先生を離れて後生の一大事の解決は出来ませんよ。どうするんですか。絶対に助かりませんよ。」
などと決して言わないで下さい。それこそ親鸞聖人のみ教えに反しますよ。

 阿弥陀仏は十劫の昔から、どうしたら南无阿弥陀仏の心を伝えることができるか、受け取ってくれるか、このことひとつに掛り果てて一時も油断無く調熟の光明をもってお育て下さっている。
 阿弥陀仏のご苦労、ご恩を知れば自分から離れてゆく人を、「聞法の敗残者」とか「よそ見している虚けか、鼻のイカれた病持ち」など言うのは余りにも自分勝手で無慈悲です。
 阿弥陀仏は見放されないのです、決して。救い摂るまで付いて離れたまいません。
 こんなことを言うから会員さんが離れてゆくのも当然です。

 また、

「Sま田よ、昔も今も、少しも変わっておらぬの。「黒い心」の特有の黒さも。自前でこしらえた「白い心」の頼りなさも」

と教えて頂きました。

 親しい言葉つかいは、よほど私を知っておられる方のようです。
 その通り「黒い心」(煩悩)は信前も信後も少しも変わりません。
 変わらぬどころか、光明に照らされ余計に見えて、見えて恥ずかしい限りです。こんな私だから阿弥陀仏は棄てておけぬと、どれほどご苦労して下さったのか、申し訳なく有難い。南无阿弥陀仏。

「自前でこしらえた白い心の頼りなさ」と言えるのは、この人の体験かなと思ってしまいます。自分もそうだったからお前も多分、と思われてるなら随分と思い込みの激しい方だ。
 思い当たる人が一人あるが、今の親鸞会の現状は想定外で、相当あせってその上の発言とも思える。これは私の思い込みになるからやめておこう。



 本県では10月だけでも10名以上が退会していると聞いている。
 しかも、20年、30年の会員暦、幹部とか。
 合計はもう25名以上になるとか。
 原因を真面目に考えず、退会した人を非難したり、私のせいだとののしったりしているようでは、お粗末すぎる。
 自分の後生を真剣に考えてのことだから、現在の親鸞会、高森先生の指導に見切をつけられたことに間違いない。
 会員は何を言っても、善知識高森先生には無条件にハイハイと従うものだと思い込んでおられるようだが、皆さん正邪に自覚を持ち始めておられる証拠だろう。

「深いみ心ですから」は、もう通用しないことに気づいて下さい。
 絵に1億円の募財などと、怒っておられる方があったが、会員の心を無視して勝手な指示を出しておれば残っておられる会員さんも、同じ思いになられるのもすぐではありませんか。

 身を斬る思いの反省と、正しい教えを説くことに専念しなければ、親鸞会の使命は尽きることになるでしょう。



○三大諍論ーー親鸞聖人が法然門下の法友となされた諍論

●体失不体失の諍論

善慧房証空ーーー法然上人は諸行往生の者と言われた。

「諸行往生の機は臨終を期し来迎を待ち得ずしては、胎生邊地(化土)までも生まるべからず。諸行往生は非本願なるによりて定散の機にかぎる。」
(口伝鈔)

「講師部員は19願の入り口にも入っておらん」といわれたそうだから、化土さえ行けない。
 30年、40年、何をしていることになるのだろう。
 私は不安をいつも感じていた。
 高森先生は真面目に活動していれば、臨終に観音菩薩の説法にあえると言われたが、どこが根拠ですか。聞きましたか。
 また何を聞いて何処へ行くつもりだろうか。
 こんなことで安心して死を迎えられるのか、私には無理と思ったものです。
 講師部の皆さん、本当にそんな事信じているのですか。
 会員さんに本気で言えますか。

 阿弥陀仏の18願の救いは疑いながら、高森先生の言われることは疑いませんと言うのは、おかしくありませんか。
 一体どなたに助けて頂くつもりですか。
 とんでもない間違い、方向違いをしていると思いませんか。
 私も長い間、この矛盾に気が付きませんでした。

 親鸞聖人は常に「弥陀の本願まことにおはしまさば」だから弥陀の本願を伝えられた法然上人を心から尊敬なされたのです。
 よーく考えてみて下さい。
 そんなもろい信心なんて続きませんよ。これからも、まして臨終に通用しません、必ず崩れます、後悔しますよ。



 30年間聞いていても助からん者が、他所で1年かからずハッキリした、救われたと言うのはおかしいとトンチンカンな批判をしていることは前回書きました。

 聴聞は30年の時間より内容、聞き心が大事ということが分かったということです。
 山本良介も金沢で何十年聞いたが分からず、四国まで聞きに行って庄松同行の一言で弥陀の救いにあったと高森先生より聞きましたが、私への批判は矛盾していませんか。
 何が不思議なものか。
 おかしいと言う人こそ、弥陀の本願力不思議が分かってない人です、善慧房と同じですよ。
「聞其名号信心歓喜乃至一念」と何十年も聞いていながら、お気の毒な人です。この御文が信じられないから批判してしまうのです。
 平生業成、一念往生が弥陀の救いであることを強く自覚して下さい。



●信心同異の諍論

勢観房、念仏房、聖信房ーーー法然上人は自力の信心と言われた


 親鸞聖人が法然上人の信心と同じと言われたので、大先輩の三人が怒って諍論になった。
 私にも大先輩が沢山おられる。
 私を批判される心に、この三人と同じ心がありませんか。
 あんな奴が、あんな程度の聞き方で、あんな活動で何が獲信か。よく言うな。と。
 他力廻向の信心が分からねば、知恵、才能、学問、経験の三業で信心の有無を判断したくなるのです。
 何十年聞いていても、そうしか思えないのです。
 これが自力の信心です。
 阿弥陀仏の救いには、それは役にたちません。

 相談して来られる会員さんの中には、トンチンカンな批判の間違いをを見抜いておられる方もありました。
 その方は今月退会されたそうですが、気をつけて批判記事を書いて下さい、逆効果ですよ。



●信行両座の諍論

380余人は行の座ーーー法然上人は親鸞聖人の信の座に入られた。


 19願の諸善を力一杯やらねば自力無功と知らされず、20願の念仏、そして18願へ転入だ、だから今は諸善、活動をすればいいと思っている人は皆、行の座ですよ。
 教学に自信のある人は、せめて頭だけ信の座のつもりでしょうが、やはり行の座です。

「雑行が分かるだけでも30年40年かかる」と教学講義で高森先生より聞いたが、行の座に何十年もどっしりと座り続けている自分をどう思いますか。
 死ぬまでそこに座り続けるのですか。
 それでは70歳で初めて仏教聞いた人、聴聞会場に行けない病人は助からぬことになりませんか。

 蓮如上人「白骨の章」の御文章の心が分かりませんか。

・されば人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり
(5帖目16通)

 無常の命の私に阿弥陀仏の本願がかかっている、現在、ただ今間違いなく救われるから聞けよと教えておられるではありませんか。
 どんな聴聞しておられますか。
 こんな間違った教え方に気付いた人が、次々と退会をしているのですよ。
「こんな話をいくら聞いていても助からない」図星です。

 50周年の参詣の誘いに苦慮していると聞きますが、50年たってやっと皆さん気が付き始められたんだなと思います。



 阿弥陀仏、親鸞聖人はあなたをどのように見ておられれますか。それこそ「仏智疑う罪深し」本願を疑う恐ろしい人ではありませんか。
 親鸞学徒と看板を出していても、心は「仏敵」なのです。
 阿弥陀仏を真如法性の仏の座から引きずり降ろし、法蔵比丘にさせてまで五劫の思惟と兆載永劫の修行をさせたのは誰なのか。
 十劫の成仏以来、南无阿弥陀仏、死ぬぞ、堕ちるぞ、危ないぞ、早くまかせよ、我をたのめ、必ず助ける、堕としはせぬ、我が浄土へ生まれさせて仏の覚りをひらかせる、若し出来ねば共に地獄へ堕ちても離れんぞーの叫びが聞こえませんか。
 南无阿弥陀仏は名号、名のりであり、号は叫び、お前を助ける弥陀がここにおるぞー、早く来い、まかせよー、助けさせてくれーと叫び続けておられるのです。
 響流十方、大宇宙届かぬところは無く、今もあなたを呼んで、呼んで、呼びづくめです。

・「南無」の言は帰命なり。「帰命」は本願招喚の勅命なり
親鸞聖人(教行信証行巻)

・「そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
(おかる同行)

・「私しゃあなたに拝まれて、助かってくれよと拝まれて ご恩うれしや南無阿弥陀仏」
(浅原才一同行)

・「四つとせよくよくお慈悲を聞いてみりゃ 助くる弥陀が手を下げて
  まかせてくれよの仰とは ほんに今まで知らなんだ」


 私もこの呼び声が聞こえたとき、大慈悲心に貫かれ、心の頭が下がり、無条件にまかせられてしまいました。文句も不足もないようにさせられてしまいました。すごい力です。


南无阿弥陀仏




○東京公開講演会の案内です。

日時  10月18日(土) 昼1時~5時まで
会場  全林野会館6階(文京区大塚3丁目3-28-7)
    入場無料
講師  増井信先生(華光誌編集長)
            質疑応答も有り


親鸞会教義の相対化・71(投稿)

清森義行様


 今回は、以下の書籍を取り上げてみたいと思います。

●木村耕一編著『こころの道』(一万年堂出版)

 「木村耕一」が親鸞会講師の山崎豊氏のペンネームであることは
別のサイトで明かにされており(*)、山崎氏の『親鸞聖人の旅』
に関しては既に清森問答に感想を投稿させて頂いております(**)。

*さよなら親鸞会 1万年堂出版のエッセイスト木村耕一氏
は、親鸞会の講師部員です。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/1_5a7b.html

**親鸞会教義の相対化 38~43
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-151.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-152.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-155.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-156.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-157.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-158.html

 本書には、古今東西の昔話や童話、様々な人物のエピソードが紹介されていて、自分自身の生き方のヒントとしても布教の教材とし
ても非常に有益なものです。

 今回は、「裸の王様」を取り上げてみたいと思います。

===以下引用===
  ヨーロッパの古い時代のこと―。 
  とても衣装に凝る王様がいた。新しい服を、次々に買って楽しんでいた。
  そこへ、二人の詐欺師がやってきた。
 「私たちは、世界一、美しい布を織る職人です。しかも、ただの布ではありません。
  地位にふさわしくない者や、愚か者には、見えない布なのです」
  王様は、さっそく大金を与えて、新しい服を作るように命じた。
  二人の詐欺師は、城の大広間に布を織る機会を据え付けた。
  しかし、機会の上には一本の糸も張られていない。
  空っぽの機会を、カタンコトン動かして、夜遅くまで、布を織るふりをしていた。

 「もう、どれくらいできたかな」
  王様は、最も信頼している大臣に、進行状況を見に行かせた。
  大臣には、不安があった。
 「地位にふさわしくない者と愚か者には見えない布」と聞いていたからである。
  仕事場へ行って、恐る恐る目を開けると・・。
 「おや、何も見えないぞ!」
  永年、大臣を勤、王様の信頼を得ているのに、「見えない」などと言ったら大変なことになる。
  辞めさせられるかもしれない。
  二人の詐欺師は、さも、目の前に布があるかのように話しかける。
 「どうです。柄も良くて、色も素晴らしいでしょう」
  大臣は、もう一度、大きく目を見開いてみた。だが、やはり見えない。
  詐欺師の一人が、ニタニタ笑いながら、小さな声で言った。
 「どうして何もおっしゃらないのですか。まさか大臣には・・」
  急に大臣は、大きな声を出して、
 「おお、素晴らしい。なんという美しい布だろうか!」
  詐欺師たちは、布の色合いや柄を詳しく説明した。
  見えない大臣は、忘れないように真剣に聞いている。
  王様の所へ戻ってから、まさに自分が見たかのように報告するのであった。 

  しばらしくて、王様は、別の役人に見に行かせた。
  この男も、先ほどの大臣と同じであった。
  保身のために、見てもいない布を、確かに見たと言って、
 「まことに、世界一の、素晴らしい柄であります」と報告した。

  やがて王様は、優秀な家臣を多く従えて、布を織っている仕事場を訪れた。
 「これはどうしたことじゃ。わしには、何も見えん・・」
  王様は激しいショックを受けた。しかし、大臣たちが見たと言っているのに、
  王である自分に見えないとは、とても言えない。
 「なるほど、とても美しいのう。大いに気に入ったぞ」
  王様が、こう言うと、供の者たちも、皆、
 「なるほど、とても美しい布でございますね」と、声を合わせて褒める称える。

  王様は、この布で作った服を、パレードで国民に披露することにした。
  詐欺師たちは、布を持ち上げるふりをして、大きなハサミで空を裁つ。
  糸の通してない針でどんどん縫っていく。
 「さあ、でき上がりました。この服は、クモの巣のように軽くできています。
  何も着ていないかのように、重さを感じないところに値打ちがあるのです」
  彼らは、このように念を押すことを忘れなかった。
  王様は裸になった。新しい服を着て鏡の前へ行き、
  身体をひねったり、横を向いたりして、
  確かめてみるのだが、自分には、やはり見えない。
  周囲の人々は、皆、「本当によくお似合いでございます。
  お体にぴったりでございます」と、褒めちぎる。

  こうして王様は行列を従えてパレードに出発した。
 「王様の新しい着物は、なんて立派なんだろう」
  国民も、この不思議な服が、愚か者には見えないと聞いていたので、
  皆、口をそろえて称賛する。王様がこれまでに買った何万着の服のなかでも、
  これほど評判のよいものはなかった。

 「あれ!王様は裸だよ」。ふと、一人の子供が言った。
  この言葉が、ひそひそと伝わっていく。
 「王様は裸なんだ。小さな子供が、何も着ていないと言っているよ」
 「王様は裸なんだ」と、皆が叫びだした。
  その声は、王様の耳にも伝わってきた。
  しかし「今さら、パレードを中止するわけにはいかない」と思って、
  今まで以上に、威厳を張って、最後まで行進を続けたのであった。
  (pp.108-113)
===以上引用===

 如何でしょう?大人となった今読むと、子供の頃とはまた違った味わいがあるのではと思います。

 更に本書は、木村(山崎)氏の解説がエピソードの後に添えられており、そのエピソードの持つ深い意味が明らかにされています。

===以下引用===
 アンデルセン童話集の「皇帝の新しい着物」と題する話である。
  一般には「裸の王様」として親しまれてきた。
  大臣は、自分が王様から悪く思われたくないので、
 「素晴らしい布です」とウソの報告をする。
  他の人々も、自分が愚か者だと思われたくないので、
  本当は見えないのに、「美しい」を連発する。
  皆、自分のことが一番大事なのである。
  自分にプラスになるように計算して、相手を褒める。
  人間、褒められたら、いちころだ。
 「豚もあだてりゃ、木に登る」といわれるくらいだから、
  目に見えない服でも着てしまうかもしれない。

  また、私たちは、ついつい他人の心ない言葉によって、傷ついたり、沈んだりしてしまう。
  しかし、この「裸の王様」の反対のケースだと思えば、気が楽になる。
  目に見えない服を「素晴らしい」という人は、
  事情が変われば簡単に「なんてセンスの悪い服」とけなすだろう。
  そんなに深刻に悩む必要はない。

  日本でも室町時代の一休が、
 「今日ほとめ 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
  と笑っているとおりだ。
  西郷隆盛も、幕末の騒乱を駆け抜けたあとで、こう言っている。
 「世上の毀誉、軽きこと塵に似たり」

  王様は、途中で、自分が「裸だ」と気がついたのに、
  より一層、威厳を取り繕って、最後までパレードを続ける。
  人生、そんな終わり方をするのは哀れだ。
 「裸の王様」だったと知らされた時点で、意地や見栄を投げ捨てて、
  本当の人生の目的に向かって、新たな一歩を踏み出す勇気を持ちたい。
  (pp.108-113)
===以上引用===

 この木村(山崎)氏の解説により、本書は単なるエピソードの集成にどまらず、実践的な人生の教科書になっているのではないかと思います。

 ここに書かれていることを「人ごと」として読み流して終わるか?
それとも「自己の問題」と受け取り、自らを向上させる糧とするか?

 最後は本書を読んだ読者の態度で、本書の価値が決まるのではないかと思います。

===以下引用===
【高●顕徹公式ウェブサイト より】

いちばん心にかけてきたのは    昭和63年

 今日まで私がいちばん心にかけてきたのは、いかに正確に速やかにお伝えするかであります。

 親鸞聖人は今から700年前のお方ですから、いろいろなことが今日と違います。

 そこで今日の人たちに親鸞聖人の教えを、聖人の使われたお言葉のままでは、分かってもらえません。今日の言葉に変えなければなりません。

 その変える時に、親鸞聖人のみ教えまで変えてしまったら大変なのです。

 それで私は、現代の皆さんに親鸞聖人のみ教えを正確にお伝えするにはどうすればよいか、日夜悩んでいるのは、ただそのことであります。

 間違いだらけの私です。

 親鸞聖人でさえ、お手紙の中に「我あやまてり、我あやまてり」
とおっしゃっています。

 私など、間違いだらけです。

 だから私は「親鸞聖人はこう教えておられる。こう書いておられる。もし私の言っていることに間違いがあれば、おっしゃっていただきたい」と申し上げているのです。

「高森、おまえは親鸞聖人のみ教えだと言っているが、それは間違いだ。それでは皆を迷わすだけだ」と、おっしゃるならば、どう言えばよいのか教えていただきたい。間違えたら大変。仲人腹切り仕事と言います。

 この世の男女1組を結婚させるのにも、仲人が苦労する。うまくいかなければ、腹切ってお詫びしなければならない。そういう責任があることを言ったのでしょう。しかし、それどころではないのです。

 もし親鸞聖人のみ教えを間違えたら、万死に値すると私は覚悟している。

 非難するならば、していただいてけっこう、間違っていたら直ちに正します。
http://www.takamori.info/setsuritu/s63kouen01.html
===以上引用===

 このように言いながら、会員には絶対無条件服従を強要し、批判者は粛清し(***)、さらに教義上の誤りを指摘されても誤りを認めず、詭弁で見苦しい誤魔化しをしようとしている方がいますが(****)、その方にも本書をお読み頂き、生き方の指針にしていただきたいものです。

***親鸞会教義の相対化 70(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html

****苦笑の独り言より
ツッコミ!【第一回】論戦の発端
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-9.html
ツッコミ!【第二回】なぜ見解が分かれたか
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-18.html
ツッコミ!【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-24.html
ツッコミ!【第4回】田中氏の主張メール(1)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-30.html
ツッコミ!【第5回】田中氏の主張メール(2)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-33.html
ツッコミ!【第6回】かくて判明した根本的相異点
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-39.html
ツッコミ!【第7回】田中氏の「成就文」の領解
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-46.html
ツッコミ!【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-50.html
ツッコミ!【第9回】名号のお働き
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-55.html
ツッコミ!【第10回】名号を頂けばどうなるか
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-58.html
ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-60.html
ツッコミ!【第12回】信楽は一念で獲得
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-64.html
ツッコミ!【第13回】一念は真実信心の信相
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/
ツッコミ!【第14回】機法二種深信とは
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-75.html

【カルトのインチキ法論の定石(第3版)】
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-65.html
詭弁の特徴(応用編)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-72.html
かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点
(前半)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-42.html
かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点
(後半)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-43.html

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 以前僕が載せて頂いた内容に某巨大掲示板で別の方がコメントしていましたで紹介します。(いま掲示板は人大杉で読めませんが、携帯版はOKです。これが会の対策員の言論統制、ネット対策でない事を望みます。)

どうやら内部事情に詳しい方の様です。

良かった皆さんの御意見お知らせ下さい。


583:神も仏も名無しさん 10/04(土) 19:15 l5SmqIlw
>1 先生は会員の要望に耳を傾けた方がいいか否か
会長には一切手紙は渡っていません。最近のことではなく、5,6年以上
前から、基本的に代読(M晴夫婦)という形態での検閲、忠誠度チェック
に利用されているだけです。

>2 講師の生活費を出すか否か
親鸞会では、講師の親をあてにして、親から金をださせるという方針です。

>3 教学講義は会館御報謝1円以上の希望者全員無条件で参加の可否
会員にヒエラルキーをつくるためにも制限する必要があります。
聞きたければ金をだせ、というのが本音です。

>4 会員に対してまともな1円単位の領収書発行の義務があるか否か
脱税を問われたときや、やめた会員の家族などが訴訟をおこしたときに
うやむやにするためなので、「円」単位では発行しません。


584:神も仏も名無しさん 10/04(土) 19:16 l5SmqIlw
>5 会計報告を会員にする必要があるか否か?
最早、できません。正本堂あたりから特に巨額の金が高森一族に渡っている
ようです。

>6 御著書の引用等をはっきりさせる必要があるか否か
これも無理です。引用という次元をはるかに超えて、すべてがパクリである
ことが公式にばれてしまいます。

>7 会員が自由にものを言うことへの可否
これも最早ありえません。言論を封じないと、教義を逸脱した矛盾だらけで
暴動がおきかねません。

>8 真生会のプロに任せるべきか否か
会長の娘は大変わがままな後家で、我が物顔で振舞っており、最早手の施しようがあり
ません。たとえ、コンサルなどのプロに改革をまかせてもまともなことをいえば
追い出されるだけでしょう。 そもそも、親鸞会からの巨額の補填という大きなアキレス腱が
存在しています。

>9 大学の勧誘で親鸞会を名乗るべきか否か
ある程度洗脳する前に親鸞会であることを名乗ったら、ほとんど誰も入会しないでしょう。
カルトであることがばれますから。自信がないので、やっぱりウソ勧誘しか人集めの
方法はありません。学生もゆすれば親から金をむしりとってきます。一流大学の学生は
親も裕福なので十分たかれます。

>10身内でも違反した時には厳罰にすべきか否か
最早ありえません。親鸞会は高森一族の所有物なのですから。
文句のある人間は出て行けばよい。それ以外の論理は存在しません。


585:神も仏も名無しさん 10/04(土) 19:25 l5SmqIlw
>>581
>ぼんさんのコメントにあるように前の院長の未亡人(先生のお嬢さん)が職員採用の面接にまで出て来て、偉そうに意見して、働くのを断念してしまった人がいたそうです。
>一事が万事同様な事が真生会で多々あり、先生の身内だし、切るに切れず目の上のたんこぶみたいです。

切るもなにも、会長の娘は病院は自分の所有物だとおもってますよ。

事実、出資金 7億9800万円は高森一族の出資ということになっており

法的にも高森一族の所有物です。

ただし、20億ともいわれる巨額の借入金には、特専部員が保証人になって

います。こんな異常な契約をよく結んだものだとおもいます。

ある特専部員が、批判すると粛清される、とぼやいていました。

特に、石川で弁護士をしている、H木氏などがひどいチクリ魔だそうです。


598:神も仏も名無しさん 10/04(土) 22:11 l5SmqIlw
すべての財施への参加は教学講義参加の必須条件


603:神も仏も名無しさん 10/04(土) 22:34 cg0PponI
>>597
会費を含めて、年間30万円以上の献金


606:神も仏も名無しさん 10/04(土) 22:36 5uLLme+K
>>603
又は、月10日以上の活動(学生は15日)


608:神も仏も名無しさん 10/04(土) 22:46 gbk1pqC4
>>581
>ぼんさんのコメントにあるように前の院長の未亡人(先生のお嬢さん)が職員採用の面接にまで出て来て、偉そうに意見して、働くのを断念してしまった人がいたそうです。
>
>一事が万事同様な事が真生会で多々あり、先生の身内だし、切るに切れず目の上のたんこぶみたいです。
>
真生会では、医師がやめるのも会長の娘の許可がいるらしい。
会長の娘に頭下げないと、医師はやめさせてもらえないらしいよ。


>先生の息子さんの長男も同病院に勤務していて、会ったら挨拶するようにお達しがあったとか。
>
バカ息子光春の長男のこと?真生会に就職したのか?

講師部は最高の道なんじゃないの?家では言ってないのかな?
それとも能力不足?気持ち不足?

お知らせ

お知らせ


 最近、無関係な一般個人名を挙げて、中傷するコメントが増えていると聞きました。

 明らかに問題があると思われる書き込みが複数ありましたので、削除いたしました。

 詳しい人に調べてもらったところ、コメントの主は、海外のプロバイダを経由するという手の込んだことをしており、悪質性も感じられます。

 また、名前を色々と変えて書き込んだりもしているようですが、荒らすのが目的でしたら、御遠慮いただきたく思います。

 申し訳ありませんが、コメント欄までチェックしている余裕が無いため、今後も問題のあるコメントに気づかれた方がありましたら、御一報をお願い致します。

投稿

投稿です。


先日、紅楳 英顕氏の法話に参詣して聴聞してきました。

あの、本願寺の僧侶で、親鸞会と論争したこともある、

紅楳氏です。

私は親鸞会で聞かされてきたように、本願寺の僧侶は、

「念仏さえ称えていれば、死んだらお助け」と

説教するばかりだとおもっておりました。

しかしながら紅楳氏の法話は現当二益がはっきり説かれており


中でも現在生きている時に救われる、信心決定できるという、

平生業成、現生正定聚の教えが強調されていました。

そして信心決定のためには、熱心な聴聞が重要だと

とかれておりました。

非常に驚きました。

親鸞会で私は学んできましたが、教えの要の部分は

ほとんど変わりません。

もちろん、信心決定するために、財施をせよ、

破邪顕正をせよ、という内容は紅楳氏にはありません。

紅楳氏の本も、数冊読みましたが、教えが外れていると

感じたところはありませんでした。

ご自身は信心決定なされているようですし、

文章も根拠をあげて書かれており分かりやすいです。

(紅楳氏『浄土真宗がわかる本』など)

大変立派な方だと思いました。

親鸞会の高森会長以外にも、真宗の教えを正確に

伝える方がおられるということを

知っていただきたく思います。

投稿

清森様

親鸞会の議論の進め方を理解するのにとても参考になりましたの
で、清森問答でも紹介いただきたいと思います。

【カルトのインチキ法論の定石(第3版)】
1,「絶対に正しい」と思っている(思わされている)意見を、壞
れたテープレコーダーのごとく何度も繰り返す。
2,上記に抵触した対話者の提出した資料は、見なかったことにし
て無視。
3,対話者の意見を自分の解答しやすい形に改変(捏造)して反論。
4,対話者の人格を攻撃し、対話者の意見が価値のないものである
かのように印象操作。
5,自分の提示した見解が論破されたら「そんなことはわかってい
た」と居直り。
6,それまで行っていた論点での議論で勝ち目がないことがわかっ
たら論点スライド。
7,自分は答えないくせに、複数の不当質問で、相手を呆れさせる
ように誘導。
8,対話者があきれて反応しなくなった所で勝利宣言。

以下、対話者の反応がなくなったにも関わらず、
「勝利宣言」できない位ボロ負けしてしまった際の対処法。

9,相手の主張の都合の悪い部分を削除し、ボロ負けしていないか
のように印象操作。
10,これまでの議論で扱ってなかった話題を積極的に扱い論点拡散。
11,まともな発言中にインチキドグマをブレンドし、あたかも全
部がまともな発言であるかのように偽装。
12,これまでの議論で根拠を出さ(せ)なかったにも関わらず、
そのことを前提に一方的に議論を進行。
13,指摘された資料は、ドグマに都合のよい形に資料改変。
14,対話者がいないので、最後の勝利宣言まで言いたい放題。

※ただし、以上の定石はツッコミが入らない場合に限り有効。
 ツッコミが入った場合は、要注意!

以上
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-65.html



【詭弁の特徴(応用編)】

例:「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っているかどうか?」とい
う議論をしている場合

「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓ったという親鸞聖人の言葉はな
い」と言ったのに対して、
チ●ーリップ企画(=親●会)は…

1.事実に対して仮定を持ち出す
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』という、まだ発
見されていない親鸞聖人の言葉があるかもしれないじゃありませんか!」

2.ごくまれな反例をとりあげる
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っていると言わなければ、信楽
になれない人がいるかもしれません!」

3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』とい
う親鸞聖人の言葉が発見されないという保証はありません!」

4.主観で決め付ける
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓わないはずがありません!」

5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「浄土真宗では、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓ってい
る』というのは伝統であり、常識です!」

6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「浄土真宗では、信は一念で頂くということをご存じでしょうか!」

7.陰謀であると力説する
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』とすると
親●会が長年教えていたことが間違っていることとになり、そうな
ると都合の良い本願●が画策した陰謀でしょう!」

8.知能障害を起こす
「上●・清●の印象操作には全くうんざり。バ~カバ~カ!」

9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』などと言
いなさる方は、真剣な聴聞が全く足りてないのです。全く信仰の幼
稚園と言わざるをえません!」

10.ありえない解決策を図る
「貴方が、信楽に生まれさせることを誓われた阿弥陀仏の御心に気
づくことを念じております!」

11.レッテル貼りをする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』など言い
なさる貴方の主張は、まさに善慧房の主張そのものです!辻斬り強
盗のような真似はやめていただきたい!」

12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「信楽に生まれるために、何の力が必要なのでしょうか?」

13.勝利宣言をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ことは、浄
土真宗の伝統です!このようなこともわからないまま逃げ出されました」

14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「必墮無間の後生の一大事もわからない信仰の幼稚園の貴方に、阿
弥陀仏の御心がわかるはずがありません!」(※親●会ドグマと異
なる=ミスと認識した人限定の発言)

15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ということ
がなければ、浄土真宗の根底が崩れてしまいます!」

16.全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』という親鸞
聖人の言葉がないことを、現在発見されていない親鸞聖人の言葉も
含め調査し証明するのは不可能です!(だから、阿弥陀仏が信楽に
生まれさせることを誓っています!)」

17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』とい
う親鸞聖人の言葉はないかもしれません、しかしだからと言って、
浄土真宗に関係する全ての文献に『信楽に生まれさせる』と書かれ
ていないと言うのは言い過ぎではありませんか?」
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』という親
鸞聖人の言葉はないはずです。」
「『若不生者の生は、極楽に生まれることだけ』と親鸞聖人は述べ
ておられません!」

18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは何の力によって信楽に生まれるかどうかです。大
切な問題をお忘れになられてはいけません!」

19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「信楽に生まれてもいない貴方に阿弥陀仏の深い御心がわかるはず
がありません!唯一絶対の善知識、高●先生だけが阿弥陀仏の御心
を明かにできるのです!」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-72.html

投稿

投稿です。

 教学聖典(6)問(22)に、破邪顕正しない者は仏弟子ではない涅槃経の根拠があげられています。某掲示板で、これは往生要集に出ていると某氏が言っておられましたが、よく似た根拠を教行信証に見つけました。

 「涅槃」の第三に云はく、
「如来今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属したまへり。(優婆塞優婆夷この諸の国王大臣および四部の衆、当に諸の学人等を勧励して、上の戒定智恵を増長することを得しむべし。もしこの三品の法を学せざることあらば懈怠なり。)戒を破り正法を毀つ者あらば、王及び大臣・四部衆、應當に苦治すべし。
是の如きの王臣等、無量の功徳を得ん。(当に小罪あることなかるべし、我が涅槃の後その方面に持戒の比丘あって正法を護持せん。壊法の者を見てはすなわち能く駆遣し呵嘖し恋治せよ。)是れ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。(もしは善比丘法を壊する者を見て、置きて嘖むべからず。当に知るべし、この
人は仏法の中の怨なり。)」
是の如きの制文、往往衆多なり。皆是正法に明かす所の制文にして、像・末の教に非ず。 


       (教行信証化土巻  法蔵館真宗聖典P475)

 ( )内は、教行信証では「乃至」とされているところですが、六要抄で補いました。

親鸞会教義の相対化・70(投稿)

清森義行様

今回は、以下の書籍を取り上げてみたいと思います。

●明橋 大二著『子育てハッピーアドバイス』(一万年堂出版)

『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』の第九章の実質的な著者は
明橋氏であるようですし(*)、明橋氏が親鸞会と深く関わってい
る人物であることは既に多くの方の知るところです(**)。

*親鸞会教義の相対化・54コメント覧 参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-183.html

**明橋大二医師と親鸞会 参照
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/akehashi.html


===以下引用===

【「がんばれ」より「がんばっているね」と認めるほうがいい】(pp.
46-53)

私達は、よく子どもに「がんばれ」と言います。
先生が連絡帳に、最後に赤ペンで書くのも、
たいてい「がんばりましょう」とか「今度からもっとがんばりま
しょう」ですね。

確かに「がんばれ」と言われて、がんばろうと思える時もありますが、
よけいつらくなるときもありますので、気をつけねばなりません。

それは、これ以上がんばれないくらいがんばっているのに、
さらに「がんばれ」と言われたときです。
「これ以上、じゃあどうすればいいの」という気持ちになってしま
います。

お母さんにしても、朝から晩まで、家事、育児に追われて、
そのうえ、仕事もして、くたくたになっているときに、
夫から、「もっとがんばれよ」と言われたらどうでしょうか。

お父さんも、会社で、同じようなことがありませんか。
こういうときに、社長から「君、いつもがんばってくれてるな」と
言われると、
ちょっと元気が出てきませんか。
夫からでも「いつもがんばってくれてありがとう」とか、
言われるとちょっとは胸のつかえが下がります。

それは子どもも同じです。

「いやあ。うちの子どもは、ちっともがんばってませんわ。
 毎日ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゲームばっかりして、宿題もしない
で、どっこもがんばってません」

と言われるかもしれませんが、子どもなりに、いろいろと苦労して
いるところがあるのです。

学校に行ったら、いじめにあわないかと思って人に気を遣っていますし、
家に帰ったら、ガミガミ言われるのを一生懸命、忍耐している。

子どもなりにがんばっているところがあるのです。

そういう子どもに、「がんばれ、がんばれ」だけじゃなく、
「おまえもけっこうがんばっているな、ご苦労さん」
と言ったほうが、かえって元気が出てきます。

「がんばれ」という言葉は相手を選ぶ。
言っていい人と、言ってはいけない人がある。

だけど「がんばってるね」「よくがんばったね」
という言葉を言ってはいけない人は、ほとんどありません。

「がんばれ」よりも「がんばっているね」、
相手のがんばりを認めてねぎらう言葉をよく使うようにしてはどう
でしょうか。



【子供のしつけ方】(pp.108-117)

(1)
まず初めに、不登校、引きこもり、キレる子供、少年非行、少年犯
罪など、
現代のいろいろな子供の問題が、しつけ不足で起きているケースは
むしろ少ない。
逆に、しつけすぎ(体罰、きびしすぎるしつけ)から起きている
ケースが多いのです。

(2)
しつけがまったく不必要ということではありません。
基本的な生活習慣、他人のことを思いやる行動を身につけることは
大切です。

(3)
いちばん大切なことは、親自身が、身をもって、あるべき姿を示し
ていくこと。
親が、子供に、してほしいと思うことを、親自身がふだんから、子
供の前でしいく。
そうすると、自然と子供はまねていきます。

(4)
子供に、「~しなさい」「~してはダメ」と、
言葉で指示、命令するしつけを繰り返していると、往々にして、叱
ることが多くなりがちです。

そうなると子供の自己評価を下げるだけで、効果は少ない。
親が言っている間はやっていたとしても、親が言わなくなると同時
に、やらなくなる。
それでは、本当に身についたとは言えません。

(5)
親の言葉で、子供の行動を方向づけするとするなら、その場合は、
親が、「私は」を主語にして、「うれしい」「悲しい」という言葉
を使うのがいいのです。

「あら、洗い物してくれたのね。お母さんうれしいわ。ありがとう」
「あなたが、人の物を默って取るなんて、お母さんは悲しい」

子供は、親に、喜んでほしい、悲しませたくない、という気持ちが
非常に強いです。
ただ「これをしなさい」「これはしちゃいけない」と言うより、
その気持ちに訴えかけるほうが、子供には伝わります。

(6)
子供には、どんどん失敗させる。
先回りして、指示、命令するのではなく、失敗から学ぶことを教える。
失敗したときに、それを責めずに、
今後、どうしたら同じ失敗をしなくなるか、一緒に考えてみます。

(7)
きちんとしつけなきゃならない、と思って、子育てが負担になり、
いらいらしていると思ったら、
いったん、しつけなんて、もうヤ~メタ!と、放棄して、肩の荷を
下ろして、深呼吸してください。

そのほうが、よほど子どもの将来のためにいい、ということもある
のです。
===以上引用===


このように本書に書かれた内容は大変素晴らしく、私は以上の内容
に全面的に賛同します。

本書は「子育て」を扱ったものですが、ここに書かれている内容は
布教にも多いに通じるものがあるので、本書のシリーズは全巻購入
しており、日々の布教におおいに活用させて頂いておりますし、明
橋氏が所属する親鸞会でも、本書が布教に際して有効に活用されて
いると思っておりました。

ところが、親鸞会では、以下のように教えられているようですね。


★無条件服従
===以下引用===
釈尊は「善知識はさとりを得る道の大因縁、全因縁なり」と仰言っ
ておられる。又、「善知識があったら十里、二十里はおろか海山越
えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬うて、身肉手足をも供養
すべきである」とも般舟三昧経に教えておられるとおり、私達が助
かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。その御化導に私見
をはさんでいては万劫聞いても助からない。ただひたすら、善知識
を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事
にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会
長先生の御下にぬかずかねばならない。
【顕正新聞 昭和49年12月】

親鸞会で際だっていたのは、善知識への絶対無条件服従でした。高
森顕徹会長をもって無二の善知識としている親鸞会では、それはそ
のまま高森顕徹会長への絶対無条件服従を意味することになります。

では、なぜ無条件服従しなければならないのでしょうか。少し長い
ですが、引用します。

親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定
であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも
世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕
いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件
服従できるか否かにかかっているといえよう。
このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実
我々はどうであろうか。
自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従
は極めて難しい事である。理性が満足せねば、善知識の仰せに対
し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」
「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をと
ころかまわずもちあげる始末、それでもまだ足りず、自らの怠惰な
求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の
御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流
転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受け
つけぬ元凶であることを知らねばならない。
仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なの
であり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。
蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬ
ことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰
候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事
も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如
上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたもの
である。
我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰
せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばなら
ない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よ
き人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真
の無条件服従が体験できるのである。
この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、
本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに
無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組
織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
【顕正新聞 昭和54年8月】

赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を
聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構
えが信前信後を通じて尊いのだ。
【顕正新聞 平成4年9月】

つまり親鸞聖人が「よき人(法然上人)の仰せをこうむりて信ずる
ほかない」と仰り、蓮如上人が「何事も何事も知らぬことも開山
(親鸞聖人)のされたようにするのがよろしい」と仰ったのが、無
条件服従の根拠だと言われるのです。
しかし本当に、高森顕徹会長への「無条件服従」は、親鸞聖人の御
心にかなったものだったのでしょうか。以下は親鸞会の顕真学院生
と講師部員が、1日2回唱和している「聖則」の文章です。
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。
【親鸞会 顕真学院・講師部聖則より】

確かに親鸞聖人は法然上人に従われ、蓮如上人は親鸞聖人のされた
ことに従われました。しかし、蓮如上人が、「親鸞聖人は法然上人
に従われたのだから、私にも無条件で従え」と仰るようなことが果
たしてあったのでしょうか。そしてそんなことを毎日唱和させるよ
うなことを、果たしてされたのでしょうか。
それだけではありません。一般会員にも下記の粛正規定を徹底して
います。

会員粛清規定第3条(2)組織破壊行為
 (1) 支部長の指示に従わない。
 (2) 講師部を批判する。
  (3) 本会の機密を漏洩する。
 (4) 本会の和を乱す。
 (5) 本会の指示に対する批判的言動。
 (本会の指示、方針、通達、活動目標等を批判する)
【親鸞会 会員粛正規定】


なぜ私は親鸞会をやめたのか
3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
http://shinrankai.mondai.nukenin.jp/naze3.html
===以上引用===


★後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章禁止
===以下引用===
<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
 ※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。

親鸞会教義の相対化・46
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-166.html
===以上引用===


明橋氏の著書と親鸞会で教えられていることを比較すしてみます
と、明橋氏の著書は、親鸞会教義の問題点を全く受け継いでおら
ず、むしろ親鸞会で教えていることの問題を浮き彫りにするものと
なっております。

私見ですが、明橋氏は以下の何れかの立場を取っておられるのでは
ないかと思います。

1)自身が扱っている領域はあくまで「子育て」に限定されたもの
であり、親鸞会で教えられていることには全く適応されないと考え
ている。

2)教団で教えられていることを批判することが禁止されている親
鸞会を、「子育て」を扱うことによって間接的に批判し、親鸞会を
内部から改革しようとしている。

私としては、明橋氏の立場が2)であることを強く願います。そし
て明橋氏の努力により親鸞会が素晴らしい団体に生まれ変わること
を希望します。

これほど素晴らしい内容の本をお書きになられる人材を輩出する団
体なのですから、本書で教えられた内容を活用し、本書の著者が所
属するのに相応しい団体に生まれ変わって頂きたいと思います。

以上



清森追記

* * * *
赤尾の道宗が蓮如上人から、
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたとき、
「はい畏まりたる」と無条件服従している。
この人の言うこと、どこまで本当だろうか、と思っていては仏法を
聞き開くことはできない。
「近江の湖を一人で埋めよ」と言われたら、「はい」と答える心構
えが信前信後を通じて尊いのだ。
【顕正新聞 平成4年9月】
* * * *

 この記述は、『御一代記聞書』に基づいていますが、この記述の
当該部分は、蓮如上人のお言葉として伝えられている部分ではあり
ません。


●善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさま
しきことなり。ならざる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ず
べし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずるこ
と、あるべきか。しかれば、「『道宗、近江の湖を一人してうめ
よ』と、仰せ候うとも、『畏まりたる』と、申すべく候う。仰せに
て候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。(御一代記聞書)


 現代語訳は、以下のようになります。

●善知識の仰せではあるが、これはとうてい成就しそうにないなど
と思うのは、大変嘆かわしいことです。成就しそうにないことで
あっても、善知識の仰せならば、成就すると思いなさい。この凡夫
の身が仏になるのだから、そのようなことはあるはずがないと思う
ほどのことが他に何かあるでしょうか。
 そういうわけで、赤尾の道宗は、「もし蓮如上人が、『道宗よ、
琵琶湖を一人で埋めなさい』と仰せになったとしても、『かしこま
りました』とお引き受けするだろう。善知識の仰せなら、成就しな
いことがあろうか」といわれたのです。


 道宗の言葉を引いて、実悟法師が自分の考えを書かれた文章と思
われます。少なくとも蓮如上人の直接のお言葉は含まれていません。

 第一、蓮如上人が「ワシに無条件服従せよ」と仰るはずがありま
せんし、そんなことを言う人なら、善知識とは言われないでしょう。

(ちなみに、実悟法師は、蓮如上人が78歳の時に生まれられたお
子さんですので、許可を得て書かれたということもないと思います。)

投稿

清森様


 いつも御教導有難うございます。
 最近、高森先生の著書の信憑性についての内容が多いですが、ここまでいい加減なものだとは思ってませんでした。
 今回の日蓮の言葉の引用の仕方は、まさに断章主義以外の何者でもないです。自己の信じる教えに自信があるのならば、なぜ嘘と言っても良いような批判の仕方をするのでしょう。ひどすぎます。
 かなり昔に発行された書籍ですが、「顕正」にこのような文章があることを思い出しました。

『故意に相手を、おとし入れる為に言葉の端や文章の一句を抜きとって非難攻撃するのなら、私はどんな人でも非難攻撃することが出来るし、どんな方でも立派に異安心者にすることが出来る。』
(高森顕徹著「顕正」P.34)

 高森先生は、これを如実に実行されているようです。こんな人の書いた本を、今まで有難がって読んでいたことが馬鹿らしくなってきました。いちいち書いてあることが事実か確認しなければならないなんて普通じゃないですよ。

 書かずにいられなかったので、送らせて頂きました。

投稿

投稿です。


「こんなことが知りたい④」の、「(25)念仏誹謗の日蓮は偉大な男か」の中で、

「日本国の人、みな無間大城に堕ちむ事よ、悦ばしきかなや、楽しいかなや」と言うに至っては悪魔の言もここに極まれりと言うべきでありましょう。

と書かれています。


 いくら日蓮でもこんなことを言うだろうか、と疑問でしたが、この言葉には前後がありました。

「あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむことよ、悦ばしきかなや・楽しいかなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(撰時抄)


 ご存知かもしれませんが、御参考までに。

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