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投稿です。



清森 義行 様

「日蓮大聖人深秘伝」によりますと、長年の慢性下痢から腸結核となり、最後に脳膜炎を起し、臨終に枕元にあった法華経を歯をもって食い破ったようです。
(こんなことが知りたい④ P139)

とあります。
「日蓮大聖人深秘伝」は見たことがありませんが、慢性下痢は事実のようです。

既に生を受けて齢六旬に及ぶ老又疑い無し只残る所は病死の二句なるのみ、然るに正月より今月六月一日に至り連連此の病息(や)むこと無し死ぬる事疑い無き者か(56歳、阿仏房御返事 創価学会版御書全集 P1317)

日蓮下痢去年十二月三十日事起り今年六月三日四日日々に度をまし月々に倍増す(57歳6月、中務左衛門尉殿御返事 同全集 P1179)

ひるも・よるも・さむくつめたく候事法にすぎて候、酒は凍りて石のごとし、(中略)手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし(中略)去年の十二月の三十日より・はらのけ(下痢)の候しが春夏やむことなし(57歳11月、兵衛志殿御返事 同全集 P1098)

此の七八年間が間・年々に衰病(やせやまい)をこり候いつれどもなのめにて候いつる(60歳5月、八幡宮造営事 同全集 P1105)

八年が間やせやまい(中略)今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日々にをとろへ・夜々にまさり候いつるが・この十余日はすでに食も・ほとをととどまりて候上・雪はかさなり・寒はせめ候、身のひゆる事石のごとし・胸のつめたき事氷のごとし(60歳12月、上野殿母御前御返事 同全集 P1583)

日蓮は53歳頃から身延山に暮らすようになりましたが、冬の寒さは耐えがたいことを八寒地獄にたとえています。日蓮を慕って身延山に棲みつく信徒も四十人以上あったようですが、「人死ぬことかぎりなし」と大変であったようです。

日蓮は無量義経を偽経と知らなかったとはいえ、法謗の報いとはいえ、かわいそうだなあ、と思います。



仏・観経等の四十余年の経経を束ねて未顕真実と説かせ給いぬれば此の経文に随って乃至十念・即得往生等は実には往生しがたしと申す此の経文なくば謗法となるべし(顕謗法抄 御書全集 P449)

「四十余年未顕真実」の文がなければ謗法になる、と言っています。

なお、日蓮は発病直後頃は「病は必ず治る」と

設い業病なりとも法華経の御力たのもし(中略)いかでか病も失せ寿ものびざるべき(55歳、富木尼御前御返事 同全集 P975)

と言っていますが、後には「治らないこともある」と

されば身をすてて信ぜん人人は・病まぬへんもあるべし・又病むとも助かるへんもあるべし、又大悪鬼に値いなば命を奪はるる人もあるべし(57歳、日女御前御返事 同全集 P1247)

と、弱気になっているようです。

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投稿

清森義行様

以下の本を紹介させて頂きます。

★安斎育郎著『「だまし」の心理学 』(雑学3分
間ビジュアル図解シリーズ)

【出版社/著者からの内容紹介 】
 世の中には、さまざまな「だまし」があふれています。
 最近問題になった、マンション強度偽装、食品の消費期限偽装、
振り込め詐欺、 盗作、必修科目履修漏れ、テレビ番組の捏造
などなど、どれも広い意味での「だまし」です。
 また、推理小説や手品、トリックアートなど、人を楽しませるエ
ンタテインメントとしての、 罪のない「だまし」というもの
も存在します。
 本書では、古今東西、さまざまな事例をとりあげながら、人はな
ぜだまそうとするのか、 なぜだまされてしまうのかという疑
問を、図説を使いながら解明していきます。
 自称霊媒師による詐欺行為や、UFOやネッシーのニセ写真な
どのトリックを暴きつつ、 霊やたたり、超能力は存在するの
かを科学的に分析。
 また、なぜ人々はスピリチュアルな世界に惹かれ、カルト宗教に
心を奪われるのか、 心理的、社会的な面からもアプローチし
ます。

 様々な形の「だまし」が溢れているご時世ですので、清森問答を
ご覧の方にもこの本を読んで「だまし」の被害にあわないようにし
て頂けたら幸いです。

~以下、特に参考になった項目~

★だましの手法 言葉巧みにウソを真実と思い込ませる

・抽象的な話は具体化して考える

 真実でないこと(=ウソ)を巧みな手法で真実と思い込ませる
 だましのテクニックも広く使われています。
 健康関連商品などでは、根拠のない検証結果を横文字の專門用語
を並べ立てて説明することで、
 いかにもすばらしい効果があるかのように見せかけ、
 購入意欲をかきたてるような手法がしばしばあります。
「わからないのは自分に知識や理解力がないからだ」
「わからないということは恥ずかしい」などと思うと、
 疑いをさしはさむ余地がなくなり、思いこみからさらに抜け出せ
なくなります。
 抽象的な話や専門用語ばかりで、具体的な話、根拠のはっきりし
た話が出てこないときは、
 そのまま流されるのではなく、一度整理し、検証してみる必要が
あります。
(p.14)


★本当のことだけ言って、全体として錯誤に導く方法

・一郎君が言わなかったこと

「だまし」の方法は、なにもウソを言ったり、ごまかすことだけで
はありません。
 次ぎの一郎君の発言を聞いてください。

「お母さん、ただいま。今日はね、1時間目の体育でドッジボール
をやったよ。
 2時間目の算数では点対称の勉強をした。3時間目は育てている
ヒマワリを観察したんだ。
 けっこう大きくなっていたよ。夏休みには持って帰ってくるからね。
 4時間目は家庭科。卵の味噌汁を作ったよ。すごくおいしかった。
 5時間目の国語は、漢字の書き取りテストをやった。満点だったよ。
 6時間目は今度見学する工場について、体育館に集まって説明を
受けたんだ。
 その後、学芸会の練習をしてきた。あ~忙しい一日だったな」

 一郎君は何ひとつウソをついていません。
 しかし、本当は今日、各教科のテストが返ってきて、
 成績がよくなかったことは言いませんでした。

 都合の悪いことを言わずに、都合のいい本当のことを並べれば、
「うちの子は学校でちゃんと勉強をして、成績も上げているようだわ」
 とお母さんが勘違いするかもしれません。

・肝心な情報は言わないという「だまし」

 すべて本当のことを言って、相手を錯誤に導くことは可能です。
 たとえば、こういう場合はどうでしょうか。
 ニュースで連日取り上げられる「桜前線が北上中」「各地の祭
り」「珍しい動物」
 といった話題はそれぞれ本当のこと。
 しかしその一方で、重要な外交問題や、国会の審議が報道されな
かったとしたら。

 報道する側が「視聴率が稼げるものを優先する」
 というような基準で放送するニュースを選ぶと、法案成立の動きなど、
 国民にとって大切であるはずのことが置き去りにされる可能性が
あります。
 情報を伝える側の意識は、ときとして重大な「だまし」につなが
るのです。
(p.206)


★遺跡発掘捏造事件の手口と学者の心理

・「神の手」がしたこと

 2000年に、旧石器発掘捏造事件があったことは、記憶に新
しいところです。
 東北旧石器文化研究所の副理事長F氏は「神の手」をもつと
いわれていました。
 F氏が発掘すると、なぜか旧石器が見つかるというのです。
 しかしそれは自作自演の発掘劇でした。

 宮城県の上高森遺跡で、自分が用意した石器を埋めていたのです。
 それを発掘して見せ、「旧石器が見つかった」と言っていたのでした。
 このことが明らかになったあと、F氏は「魔がさした」との
べましたが、
 この詐欺行為が与えた衝撃は大きなものでした。
 日本の考古学界の体質が危ういことが明るみに出て、学会全体が
混沌としてしまったのです。

 最初に詐欺行為が発覚したのは、北海道の総進不動坂遺跡と宮城
県の上高森遺跡の2つでした。
 しかし、F氏が発掘に参加した他の遺跡も検証したところ、
 捏造が広範囲にわたっていたことがわかり、遺跡の登録取り消し
などが相次ぎました。
 このように、F氏の関与した遺跡は疑いがもたれ、どこまで
が真実なのか、
 どこから詐欺行為によるものなのかわからなくなってしまいました。

・研究者に必要なモラル

 F氏はこのような詐欺行為によって、発見者という栄誉を得
ました。
 この事件から、「捏造は決して許されない」という当たり前の
ルールがいかに脆く、
 誘惑に負けてしまいやすことか、考えさせられます。
 考古学に限った話ではありません。ほかの研究分野でも、
 国内、国外を問わず論文を捏造するなどの事件が明るみに出ています。

 また、学歴を詐称するなどの事件もあります。
 事実を曲げてでも栄誉を手に入れようというのは、
 他人も自分も貶めることに他なりません。
(p.86)


★カルトに心を預ける前に

・「欲望」と「見栄」は危険

 欲望や悩み、恐怖心があると、それらを解決してくれるものを探
しがちです。
 必死に探していく中で、「だまし」の世界に取り込まれていくこ
ともあります。

 心配ごとや欲得で頭がいっぱいのときは、
 客観的にものを考えることができなくなっており、思いこみに陥
りやすいのです。
 こういったとき、だましをもくろむ人物に出会ってしまうと大変です。
 詐欺師は「あなたの願いをかなえる」だとか、
「心配を解消する」などといって近づいてくることが多いからです。
 マジックを見ればわかるように、
 巧みなトリックで感覚器官に間違った情報を与えることは簡単です。
 それにもかかわらず、
「自分で見たから本物だ。この人は自分の願いをかなえてくれるか
もしれない」
 などと信じてしまい、だまされてしまうのです。

 また、「見栄」も危険です。詐欺師は
「あなたのように優秀なお方なら、もちろんご存じだとは思います
が・・」
 など、相手の虚栄心に訴える言葉を繰り返す場合があります。
 知らないと言うのは恥なんだなどと見栄を張っているうちに、
 詐欺師の矛盾に気づく機会を失っていきます。
 その結果、どんどん詐欺師のペースにのせられ、だまされてしま
うのです。

・金儲けに近道はない

 詐欺師やカルト宗教などの言いなりになってしまわないために、
「人生を生きるのは自分自身だ」という自覚を持つことが大切です。
 また「簡単に金を儲けることができる話しはないか」
 などと欲得ずくに陥らないように気をつけましょう。
 たった数時間で巨額の富を得る経営者でも、
 事業を軌道にのせるための仕込みの時期があったはずです。
 楽して得がとれる近道がないかと色めきたつのは危険です。

 人間はだまされやすいもの。自分だけで背負いこむのではなく、
 誰かに相談して、客観性を取り戻すことも大切です。
(p.188)


以上

親鸞会教義の相対化・75(投稿)

親鸞会教義の相対化・75(投稿)


>「一。誹謗正法は、五逆のつみにおほくまさりと申候は、ま事にて候か。答。これはいと人のせぬ事にて候。」(真宗聖教全書四P657)


 これは「一百四十五箇条問答」の中の一つで、『義山上人の『和漢灯録日講私記』五によれば、宮廷貴族に仕えている女房と法然上人との問答と言われていますが、中には尼僧や男性からの問いと思われるものも含まれています。了恵道光上人の『和語登録』にも収録されていますので、比較的信憑性のあるテキストであると言えます。


 試みに訳してみると、

Q 誹謗正法は、五逆罪よりも遥かに重い罪であるというのは、本当でしょうか?
A これ(誹謗正法)は、人がそんなに犯さない罪である。

※「いと」は下に打ち消しの語を伴って「そんなに~ない」と訳す。

となります。


 これは既に相対化・10でも述べましたが、法然上人は「正如房へ遣わす御文」において、

「五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、
まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう」

と述べおられ、現実の不条理に苦しんでいる人に対して、

 あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、実際に何をしたというのか。
 親を殺したのか、仏を傷つけたのか、何もしていないではないか。
 経典に述べられるような罪人と比べると、大した罪など犯していないではないか。

というように過剰な罪業観に悩むことがないとお説きになっています。

 さらに「十二問答」においては、

「かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、当時の御坊達は仏のごとし」

というように、末法万年後の人間と比べたならば今のあなた方は仏のような存在である。と語って、不当な罪意識から民衆の心を解き放っておられます。

これらの言葉を踏まえても、


★「五逆以上に重い罪である誹謗正法は、人がそんなに犯さない罪である」

と、法然上人が述べられていることは明かです。



 従って、親鸞会が「十方衆生は五逆謗法だ」と教えていることは、法然上人の教えに明かに抵触しています。

質疑応答162

【質問】


 先月、支部長から配布されたプリントに、以下のように書かれていました。
 このような“機相”は、善知識方は語られていないということですが、本当でしょうか?



機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。



【回答】


 私は今まで、「機相」という言葉を、このような意味でお聞きしたことはありませんでしたが、最近は教義が変わったようですね。

 まず、親鸞会の教学聖典4の18番は、以下のような問題です。

●問
  法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

○答
  時-承安五年の春 四十三才
  処-黒谷の報恩蔵の中
  文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)



 また、善知識方が、「あの人は獲信している」と言われていないということですが、以下のような御文もあります。


●大師聖人まさしく仰られてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。(御伝鈔)


●明法御坊の往生のこと、驚きもうすべきにはあらねども、かえすがえす嬉うそうろう。(末灯鈔)


●蓮如上人、順誓に対し、仰せられ候う。「法敬と我とは兄弟よ」と、仰せられ候う。法敬、申され候う。「是は、冥加もなき御事」と、申され候う。蓮如上人、仰せられ候う。「信をえつれば、さきに生まるる者は兄、後に生まるる者は弟よ」と、仰せられ候う。「仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、四海、みな兄弟」と、いえり。(御一代記聞書)



 親鸞聖人のアニメ第2部では、上記の御伝鈔のお言葉を元に、法然上人に「阿弥陀如来から賜った私の信心も、親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。全く同じになるのだよ」と言わせています。

 このアニメは、回収になるのでしょうか?

 そのプリントが、何を根拠に書かれたものなのか、非常に疑問です。

質疑応答161

【質問】


 今月15日号の顕正新聞に「信相」と「機相」について書かれていました。
 新聞だけでなく、最近よく「信相」と「機相」について話がされます。
 私は15年間仏教を聞いてきましたが、この言葉を聞くのは初めてです。

 これは果たして正当な真宗教義なのでしょうか?
 また、今になってこの言葉が徹底される理由は何なのでしょうか。



【回答】


 まず、「信相」という言葉ですが、親鸞聖人は使われていません。善導大師が一箇所だけ、以下の部分に仰っています。


●また行者さらに向かひて説きていへ。「なんぢよく聴け、われいまなんぢがためにさらに決定の信相を説かん。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉といふとも、われまたいまだ一念の疑心を起さず。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑなり」と。(観経疏)


 これは、言葉の通り、「信心のすがた」という意味で使われています。



「機相」という言葉は、私の知る限り、お聖教には一箇所も出てきません。仏語辞典も何冊か調べましたが、出てきませんでした。

 親鸞会では「機相」を、「機受の心相」という意味で使っています。これを、親鸞会で、どのように教えているかを確認したいと思います。


●信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。
「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」
と、ズバリ一念の信を明記なされているからです。
(乃至)
 先ず、親鸞聖人が信楽一念の心相を述べられたこの大文章を、「機相ではない、どこまでも法徳談である」という大邪義から正さなければなりません。
 そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、
「行に一念あり、亦、信に一念あり」
と仰言って、先ず、行の一念を解釈しておられます。
 それが終って信巻で、次の信の一念に就いて述べられたものが今の文章でありますから、この文章は絶対に信一念の機相でなければなりません。
 これは明らかに、他力の信心を獲る時尅と、その時にある心相とを明示されたものです。
 慶心も慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、
「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)
「能発一念喜愛心というは、一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土にむまるべし」(銘文)
とも言われていることでも明白な事実です。
 故にこの文章は、法徳の名をもって機受の心相を語られたものであり、いゝかえれば、信心の徳の名をもって機相の安心を示されたものです。

(こんなことが知りたい2 p206~p209)



 このように、「親鸞聖人は、機相を説かれた」とハッキリ書かれています。

 御質問の顕正新聞は読んでいないので分かりませんが、最近は「機相を説いてはならない」と教えているという噂を聞いています。

 教義を変更したということでしょうか?



 その理由は、私には分かりませんが、「華光会」を意識してのことではないかと思います。

 親鸞会では、弥陀に救われた喜びを語る人が、殆どと言って良いほど、ありません。

「何十年も、講師をやっている人が救われていない。本当に高森先生は、善知識なのだろうか?」と疑問に思っておられる会員さんも、少なくないと思います。

 そのような中、親鸞会から華光会に行く人が、非常に増えているそうです。


「機相」を説いてはならない、ということになれば、自己の信心の喜びを語ることも禁止ですから、華光会は間違っていることになります。

 親鸞会で、救われた喜びを語る人が殆どいないのは、「機相」を説いてはならないからで、本当は救われている人が沢山いるはずだ、と誤魔化すこともできます。


 このような理由ではないかと、私は推測していますが、どう思われますでしょうか?

質疑応答160

【質問】


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿弥陀仏の『重誓偈』のお言葉で示せば、
「我無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずは、誓いて正覚を成ぜじ」。
「衆の為に法蔵を開き、広く功徳の宝(名号)を施し」
と誓われている。

これらのご文でも明白なように、弥陀が『名号』(功徳の宝)を造られたのは、苦しみ悩める私たちに与えて「破闇満願」「信心歓喜」の絶対の幸福に助けるためであったのである。

【第16回】弥陀より賜る“信楽”
http://shinjin.info/2008/10/161652154.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これはチューリップ企画の解説ですが、私の記憶では高森先生からもこのようにお聞かせ頂いていたと思います。

 ところで『無量寿経』の「広施功徳宝」に対応する『無量寿如来会』を見ると「於彼貧窮為伏蔵」とあり、サンスクリットを読むと「苦しまされている人にとっての(隠された)宝」(nidhAna duHkhitAnAM)とあり、チベット訳でも同様です(sdug bsngal rnams kyi gter gyur te)。いずれにしても経文から「功徳の宝」=「名号」という解釈を導き出すことはできないと思います。

 このことに関して清森先生に教えて頂きたいのですが、親鸞会で教えられるように「功徳の宝」=「名号」と解釈する根拠は、浄土真宗の聖教中に存在するのでしょうか?



【回答】


「功徳の宝」=「名号」と明示された根拠は、私も分かりません。

 おそらく、以下のお言葉などを元に、高森先生が解釈されたものと思います。


●諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。(教行信証行巻)


 厳密に解釈するならば、意味は違うと思いますが、真宗の学者の本を読むと、「名号」の意味合いを広く取る傾向があり、「功徳の宝」という意味も含めて言われる場合もあるようです。

質疑応答159

【質問】


質問、よろしくお願いします。
私がお伝えしたい方から、言われたことは以下の通りです。

・高森先生の教えの間違っている部分が分からない。

・結局、教義的な誤りは具体的にどの部分なのか。

・清森問答のブログも読んでいるようですが、イマイチハッキリしないようです。
 私には説明しきれなかったので、具体的に教えていただけないでしょうか。



【回答】

 私の書ける範囲のことは、すでに清森問答に書いてきましたし、それで判って頂けないとすると、やはり直接、膝をつめて話をしてゆくしかありません。

 私がお会いできないのであれば、あなたが教義的によく親鸞会の間違いを理解されて、少しずつ、その方に話をしてゆかれるのが、一番だと思います。


 なお、分かりやすい教義上の問題点を挙げれば、


・善の解釈がおかしい。親鸞聖人は、目標や試験によって、善や教学に励んではならないと教えられている。

・「若不生者」を「信楽に生まれる」と解釈するのはおかしい。親鸞聖人は「浄土に生まれる」と教えられている。

・「唯除五逆誹謗正法」を「全人類は五逆謗法である」と解釈するのはおかしい。親鸞聖人は、五逆謗法の人と、そうでない人がいるという前提で説かれている。

・退会者から、御本尊を取り上げるのはおかしい。親鸞聖人は「本尊を取り返してはならない」と教えられている。

・本尊に「親鸞」の二字を貼り合わせるのはおかしい。

・「一切衆生、必堕無間」という親鸞会の教えの方向性がおかしい。釈尊も親鸞聖人も、そのようなことは教えられていない。

・善知識に無条件服従せよ、という教えはおかしい。親鸞聖人は、そのようなことは仰っていない。


 仏教や真宗学を詳しく学ぶと、他にも本質的な間違いが沢山あるのですが、親鸞会の人には分かりにくいと思います。

 以下、教義に関連する「清森問答」の文章です。
 繰り返しになりますが、このような文章を読ませることによって解決する問題ではないと思いますので、御自身が理解されることを優先された方が良いと思います。




質疑応答152

【質問】


 蓮如上人の「この信心獲得せずば無間地獄に堕在すべきものなり」というお言葉は、うそだということでしょうか?



【回答】


 なぜ、蓮如上人がこのように説かれたのか、私にはハッキリしないのですが、以下の4通りの可能性があると思います。

(1)釈尊、七高僧、親鸞聖人が、「一切衆生必堕無間」という内容を説かれなかったのは、不適切であった。

(2)蓮如上人の上記のお言葉は、特定の対象に説かれた対機説法であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(3)蓮如上人の上記のお言葉は、蓮如上人の懺悔のお言葉であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(4)蓮如上人が間違われた。


 この中で、どれが一番妥当か、考えてみたいと思います。



 仮に、全人類が無間地獄に堕ちるのが真実だとします。

 釈尊は、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 七高僧方や、親鸞聖人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 そこには、何か深い理由があると思われませんか?



 蓮如上人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」と書かれたのは、ごくわずかな一部分です。

 その御文章を読まれた人のみに、真実を伝えられ、他の人には説かれなかったことになります。



 また、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、みな「信心決定できなければ、化土に生まれる」と説かれています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。



 つまり、「一切衆生必堕無間」が真実なのかも知れませんが、釈尊も、七高僧も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人の「正信偈大意」も、そのような説き方はされていないのです。だから、方向性が違うと申し上げたのです。

 蓮如上人が、「この信心獲得せずば…」と書かれたのは、対機説法で、その時は、そのような説き方をされる必要があったのであろうと、私は拝察しているのですが、どのように思われますでしょうか?




質疑応答151

【質問】


 親鸞会教義の相対化72・73で紹介いただいた蓮如上人の言葉は、親鸞会ではあまり聞く機会のない言葉が多く、正直非常に驚きました。また、親鸞会で出している「百ヶ条」に含まれていないものも多かったと思います。

 私は「百ヶ条」を選ぶに際して、非常に恣意的な操作があったのではないかと思ってしまいます。恣意的な操作を行った文献で構築 された「蓮如上人の教え」は、もはや「蓮如上人の教え」ではなく、恣意的な操作を行った人物個人のドグマ以外の何物でもないと思います。

 これに関して、清森先生がどのように思っておられるかお聞かせください。



【回答】

 私は、「百ヶ条」に限らず、高森先生の教えの全てに、同様の問題が含まれているのではないかと思います。

 高森先生の教えには、「全人類は死んだら無間地獄だぞ。堕ちたくなければ、全てを犠牲にして富山に聞きに来なさい、人を誘いなさい、お金を出しなさい」という方向性があり、それを信じさせるに都合の良い言葉だけをピックアップして教えられているように感じます。

 しかし、仏教は、このような方向性で教えられていません。

 龍樹菩薩は十住論の調伏心品に、『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。

 現に、経典のどこを探しても「一切衆生 必堕無間」とは教えられていませんし、親鸞聖人も仰っていません。仏教では、地獄に堕ちる恐怖を原動力として、仏法を求めるような説き方はされないのです。

 また、法施、財施の功徳は説かれていますが、地獄に堕ちたくないからするものではありません。方向性が全く違います。

 それが、私が最も疑問に思うことです。




質疑応答143

【質問】


 親鸞会では、『唯除五逆誹謗正法』を、『十方衆生』は『助かる縁手がかりの無い五逆謗法の者』だと見抜かれた、と教わりましたが、この解釈は正しいのでしょうか?



【回答】



 結論から言いますと、親鸞聖人は、そのように解釈されていません。


●善知識をおろかにおもい、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者をば、五逆の者と申すなり。同座をせざれと候なり。(末灯鈔)


 ここで親鸞聖人は、五逆罪・謗法罪の人と「同座するな」と仰っています。分かりやすく言えば、「近づくな」ということです。

 全人類が五逆謗法であれば、無人島で暮らすしかありません。

 五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくなと仰っているのです。

 もちろん、「親を邪魔だと一度でも思ったら五逆罪」とか、「善知識の話が長かったとか短かったと思うのが謗法罪だ」という教えは、仏教にはありません。



 また、少々難しいですが、教行信証信巻には以下のように書かれています。


●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。

(乃至)

 しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。

 彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。

『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。



 ここに説かれていることは、

・五逆謗法を造っていない人には、これから造らせないために「除く」と言われた。

・五逆謗法を造ってしまった人も、実際は浄土に往生できる。

・ただし、「仏・聖衆が見えない」「正法が聞けない」「仏を供養できない」という3つの障りがあり、本当の幸せにはなれないけれど、地獄に堕ちるよりマシである。


 以上の3点です。


 浄土がなぜ素晴らしいのかと言えば、「仏・聖衆が見える」「正法が聞ける」「仏を供養できる」からであり、それが出来ないのであれば、浄土の幸福は享受できません。

 ですから、五逆謗法でない方が良いに決まっていますが、五逆謗法を造っていても、信楽をえた人は、地獄に堕ちないのです。

 これも、信楽をえた人に、五逆謗法の人と、そうでない人の2種類あるという前提で説かれていますので、全人類が五逆謗法と解釈するのは無理があります。



 結論として、阿弥陀仏が「唯除五逆誹謗正法」と仰ったのは、五逆罪、謗法罪の恐ろしさを教えて、造らせないようにするためだ、ということになります。

 これを「十方衆生は五逆謗法だ」と教えてしまうと、五逆罪、謗法罪を造るのは仕方ないということになり、誓われた意味がなくなります。

 ですから、親鸞聖人の教えられたように解釈すべきだと思います。




質疑応答・128

【質問】


 チューリップ企画の法論を読み、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないことでないか」と思いましたが、如何、お考えでしょうか。



【回答】


 私も、最初に法論を読んだ時は、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないこと」と思っていました。

 ですから、あなたの言いたいことも、よく分かります。

 しかし、この件を御縁に、最近、勉強しなおしまして、非常に重要な違いであることが分かってきました。

 親鸞会の教義の、根本的な誤りにつながっている部分ではないかと、今は考えています。


 親鸞会では、仏教の目的は信心決定だと教えられていますが、これは誤りだと思います。

 仏教の目的は、成仏です。同じだと思われるかも知れませんが、同じではありません。


 仏教では、菩提心を起こし、功徳を積んでゆかねば、仏になることが出来ないと教えられています。

 これは、聖道仏教でも、浄土仏教でも、同じです。

 浄土仏教は他力だから、菩提心も功徳も必要ないと思われるかも知れませんが、そうではありません。


 もともと、教行信証は、選択集に対する批判に応えたものと言われています。

 当時、浄土宗は、菩提心を起こさずに仏になる、と批判されていました。

 菩提心を起こし、功徳を積まねば、仏になれないのは、仏教の常識ですから、当然の批判です。


 それに対し、親鸞聖人は、菩提心に自力と他力の二つあることをハッキリと教えられ、阿弥陀仏のお力によって、菩提心を起こし、功徳を積ませて頂くことによって、仏になれることを、教行信証に明らかにされました。

 阿弥陀仏のお力とは、私達に菩提心を起こさせ、功徳を積ませる働きであり、仏になるまで導いてくださる働きであることは明らかなのです。

 信前の人は、その阿弥陀仏のお力を、撥ね付けてしまっている状態です。

 信心決定は、阿弥陀仏のお力を、受け取れるようになったことを言いますから、信心決定が、仏教のスタートと言っても良いと思います。

 信心決定も阿弥陀仏のお力に違いありませんが、少なくとも、阿弥陀仏が目的とされているのは成仏であり、命をかけておられるのも成仏です。


 親鸞会では、そういうことが、殆ど理解されていないように思われます。

 十住毘婆沙論を読みますと、自力で菩提心を起こし、功徳を積もうとした人が、その限界を知り、敗壊の菩薩と知らされて、初めて他力の菩提心を頂くことが出来るということが説かれています。

 つまり、成仏するとは、どういうことか、菩提心とは、どういうことかを理解せずに、信心決定はありえないと思います。

 ですから、阿弥陀仏が命を懸けておられるは信楽だ、信心決定が仏教の目的だ、と思っているうちは、救われないと思います。


 私は、親鸞会が結成されてから、「私は信心決定した!」と救いを喜び、他人にも伝えたいと、頑張られるようになった方を、殆ど知りません。

 高森先生も、命懸けで布教され、トータルで何万、何十万という人が、命掛けで求めてこられたと思いますが、なぜ救いを喜ばれる方が殆どいないのか。

 ずーっと考えてきましたが、最近は、18願の解釈の間違いが、大きいのではないかと思っています。

 これは、まだハッキリとはしませんし、現時点での考えでから、理解が深まれば変わるかも知れませんが、非常に大事な問題だと思っています。




質疑応答116

【質問】


 親鸞会では、「方便」ということで、嘘をつくことも許容されてきたように思いますが、仏教的に「嘘も方便」という言葉は通用するのでしょうか。



【回答】


 仏教で、方便とはどういう意味か、正しく知らねばならないと思います。

●正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるが故に一切衆生を憐愍する心を生ず。外己によるが故に自身を供養し恭敬する心を遠離す。(浄土論註)


 正直でなければ方便にならないと書かれていますが、嘘をついて良いとは、どこにも教えられていません。



●知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。(釈尊)


 このように仏教では、嘘を厳しく戒めています。
 嘘を平気で言える人は、求道が全く進んでいない人です。仏教で、そのようなことを勧めるということはありえません。

「嘘も方便」というのは、世間で言われる言葉ですが、これを仏教に持ち込んではならないと思います。




質疑応答101

【質問】


質問です。

知人は「親鸞会が今日のように脱線したのは善導大師の
 
  『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』

を読み間違ったのが大きい」言っていました。

すなわち、善導大師は、

  「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」

と教えられたのが、親鸞会では、

(1)外には賢善精進の相を現じなさい
   (外面は猛烈な善をしなさい)

(2)そして内は虚仮を懐いてはいけません
   (内面はキチンとしなさい)

になってしまった、と言うのです。

たしかに漢文では、「得ざれ」は文全体にかかっていますので、

(1)、(2)に分けることは不可能だと思いますが、この知人

の言うことは正しいのでしょうか。

一般的な解釈はどのようになっているのか教えて下さい。

また、清森様はこのことについてどのようにお考えでしょうか。


以上、よろしくお願いします。



【回答】


『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が、常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさい、ということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。




質疑応答85

【質問】


親鸞会発行「御一代記聞書100ヶ条」の[79]と、原文である御一代記聞書223番と読み比べますと、

『「又前々住上人の御時、あまた昵近のかたがたちがひ申す事候。いよいよ一大事の仏法の事をば、心をとどめて細々人に問ひ心得申すべき」の由、仰せられ候ひき。』

の部分が削除されているように思いますが、なぜでしょうか。



【回答】


 教えて頂くまで、気付きませんでした。
 単なる編集ミスか、意図的に削除されたのかわかりません。

 その部分の意味を調べますと、このような意味になっています。

「蓮如上人の時代、近くでお仕えしていた人々の多くが、御教えを間違って受けとめることがあった。私達は、大切な仏法をますます深く心にとどめ、人に何度も何度も尋ねて、御教えを正しく心得なければならないのである」

 親鸞会でいえば、局長や学院長に当たるような方々が、御教えを間違えていたという内容ですから、都合が悪かったのかも知れません。もし、そのような理由で削除されたのだとすれば、誠実さに欠けるやり方だと思います。




質疑応答83

【質問】


 化土往生できる人がこの世にいるとするならば、本願文の「唯除五逆誹謗正法」のお言葉や大無量寿経の五悪段に説かれていることとの関係はどうなっているのか?



【回答】


 親鸞聖人が、「唯除五逆誹謗正法」を「全人類は五逆謗法だ」と解釈されたお言葉はありません。親鸞聖人は、「唯除五逆誹謗正法」について、以下のように解説されています。


●四十八願の中の如き、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障、極重なり。衆生、もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるには、あらざるなり。(教行信証信巻)

●「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というは、ただ除くという言葉なり、五逆の罪人を嫌い、誹謗の重き咎を知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して、十方一切の衆生みなもれず、往生すべしと知らせんとなり。(尊号真像銘文)



 阿弥陀仏は、逆謗の者も救って下さいますが、衆生が、五逆罪・謗法罪を造らないようにするために、唯除と誓われているのだ、と仰っています。

 逆謗の者でも救われるのだから、どんな人でも救われる、という根拠にはなりますが、だからといって、全人類が逆謗だという根拠にはなりません。

 逆謗でない人が、実際にいるのかどうか、私には分かりません。しかし、親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。



 また、五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。


●かるがゆえに自然の三途無量の苦悩あり。転た、その身を貿え、形を改め、道を易えて、受くるところの寿命、あるいは長く、あるいは短し。(大無量寿経)

●仏、弥勒に告げたまわく、「吾、汝等に語る。この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛、五焼、展転して相生ず。但し衆悪を作して善本を修せず。みな悉く自然に諸々の悪趣に入る。あるいはその今世に先ず殃病を被りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ、衆に示して、これを見せしむ。身死して、行に随いて三悪道に入りて、苦毒無量なり。(大無量寿経)



 また、これは全人類が、三悪道に入る、という意味ではなく、悪人が行く世界だと教えられています。善をすれば、三悪道には行きませんので、善をしなさいと勧められています。


●善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。(大無量寿経)

●人能く中に於て一心に意を制し、身を端し、念を正しくし、言行相副い、作す所、至誠にして、語る所、語のごとく、心口転ぜず、独り諸善を作し、衆悪を為さざれば、身独り度脱して、その福徳、度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを五の大善とするなり。(大無量寿経)


 つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。




質疑応答82

【質問】


 獲信した人を除いて後生の一大事(無間地獄に堕ちる)を抱えていない人はいるのか?
 (化土往生できる人は現代の世に存在するのか?)



【回答】


 まず、先に化土往生について、解説したいと思います。

 七高僧は言うまでもなく、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人ともに、化土往生を教えられています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。

 三願転入の御文では、親鸞聖人は、双樹林下往生、難思往生を通って、十八願の世界に出られたと書かれています。双樹林下往生とは化土往生のことです。



●ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓い、良に由あるかな。(教行信証化土巻)

●観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生ともうすなり。(三経往生文類)



 親鸞聖人は、化土往生に永く止まっておられたと仰っています。

 もし、その時に親鸞聖人が、亡くなられていたら、本当に化土に往生されていたのかどうかは、私には分かりません。

 しかし、間違いなく言えることは、親鸞聖人は、化土往生の救いを真剣に求めておられたということです。

 これが全人類が通らねばならない道ならば、すべての人は、化土往生を求める過程を経なければ、十八願の世界には出られないことになります。

 そう考えますと、善知識方が、化土往生を教えられたのは、至極当然のことのように思います。



●釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して あまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

※福徳蔵は十九願、化土往生の教え

●釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。(教行信証化土巻)

※功徳蔵は二十願、化土往生の教え

●それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。(教行信証化土巻)



 もしかしたら、私達は、どんなに頑張っても、化土往生は出来ないのかも知れません。

 仮に、そうだとしても、それを言ったら「お終い」な訳です。誰も十九願を実践しようとする人など、いなくなります。

 化土往生を説かれたのは方便なのですから、「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの」なのです。



 私は、真面目に仏法を求めている人は、化土往生できる、と考えるべきだと思います。

 報土に生まれさせるお力を持つ阿弥陀仏が、化土に生まれさせる力さえ無いのでしょうか?

 釈尊、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が、口をそろえて、「化土に生まれられる」と仰っているのに、それに反発して、「どうせ化土には生まれられない」と言っていては、仏法にならないと思います。



 私は、参詣できなかったので分かりませんが、昨年の香港御法話で、高森先生が、「真面目に仏法を求めてゆけば、臨終に観音菩薩が説法して救って下さる」と仰った、と聞きました。

 それが事実だとすれば、まさに十九願、化土往生の教えです。

 これを聞かれて、親鸞学徒の皆さんは、やる気を出されて、仏法を実践しようと思われたのではないでしょうか?

 高森先生が、化土という言葉を使われずに、化土往生を説かれたのかも知れません。




 次に、必堕無間の一大事について、思うところを述べさせて頂きます。
 親鸞会が、「必堕無間」の根拠としているのは、以下の御文です。

●この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章)


 私は、この御文を一概に否定するつもりはありません。しかし、この一文をもって、「一切衆生 必堕無間」と結論づけて良いものか、という点については、疑問が残ります。



 まず、すでに書きましたように、化土往生を説かれなかった善知識はおられません。化土は、信心決定していない人が往く世界ですから、「信心を獲得せずは、無間地獄に堕在すべし」という教えと相反致します。

 蓮如上人御自身が、「正信偈大意」には、自力の人は化土に生まれ、化土に生まれる人が多いと説かれているのですから、どちらが真意か、分かりません。

 しかし、御文章はあくまでお手紙ですから、対機説法です。その機に応じて、必要があったから、そのように説かれたのかも知れません。誰に対しても、そのように説いて良いかは疑問が残ります。

 一方、「正信偈大意」は、親鸞聖人の御心を明らかにするために執筆された、事実上、唯一の御著書ですから、普遍性があると思います。

 いずれにしましても、「信心獲得せずば…」のみを採用し強調して、すべての善知識方が説かれた化土往生を説かないというのは、かなり偏った説き方ではないでしょうか?



 次に、化土にも往けない人は、無間地獄なのかという点ですが、親鸞聖人は、六道輪廻する、という説き方をされています。


●もしまた、この度、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また曠劫を径歴せん。(教行信証総序)

●呼吸の頃、すなわちこれ来生なり。一度、人身を失いぬれば万劫にも復らず。(教行信証行巻)

●自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし、と深信す。(愚禿鈔)



 親鸞聖人は「必ず無間地獄に堕ちる」という説き方はされていませんので、親鸞聖人が仰っているように、「六道輪廻する」と理解した方が良いと思います。




質疑応答67

【質問】


 先日、M支部長に、退会したいと申し上げたところ、昨晩、夜中の1時頃に、支部長が他の学徒の方を7名つれて、うちに説得に来られました。その中には、90歳過ぎの学徒の方もおられ、こんな夜中に連れ回されて、本当に気の毒だと思いました。帰って欲しいと申し上げたのですが、結局、夜中の3時過ぎまでおられました。親鸞会を辞めるのは、こんなに大変なことなのかと、驚きました。

 その際、お仏壇用の正御本尊も返却するように言われました。最初は、お仏壇用の正御本尊は返却する必要は無いと言われたから求めたのですが、やはり返さなければならないのでしょうか?非常に高価なものでしたし、今後も勤行をしたいので、返却したくないのですが。



【回答】


 それは本当に大変でしたね。今年は、大変な目標が出ているそうですから、支部長の気持ちも、分からないではありません。

 ご質問については、親鸞聖人が以下のように仰っています。


●聖人の仰に曰く、「本尊・聖教を取返すこと、甚だ然るべからざることなり。」(口伝鈔)

●本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞が睦びをすてて、他の門室に入るというとも、私に自専すべからず。(口伝鈔)

●同行、知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊・聖教をうばいとりたてまつる、いわれなき事。(改邪鈔)

●念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。(乃至)次に、「本尊・聖教をうばいとりたてまつらん時、おしみ奉るべからざる」よしの事、またもって同前、さきに違すべからず。(改邪鈔)


 このように、親鸞聖人が教えられていますので、支部長が、退会する人に「正御本尊を返せ」と言われるなら、教えに反していることになります。

 しかし、これは親鸞会の規則ですし、お仏壇用の正御本尊も、最近、返却が義務づけられるよう規則が変わりました。

 ですから、支部長が、親鸞聖人の教えに反してでも、規則が大事だと言われるなら、お返しするしかないのではないでしょうか。

 私達の方でも、表具屋に注文して、親鸞聖人御真筆の六字名号本尊を作っております。

 もし、どうしても返せと言われるのであれば、こちらで用意してありますので、遠慮なくお申し出ください。




質疑応答36

【質問】


> 「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたお言葉は、存在しないと思います。

>  上記のサイトも読ませて頂きましたが、田中さんの主張の方が、筋が通っており、正しいと思います。


という部分を読ませて頂いて、自分の理解が、間違っていたように思いました。

つまり、「若不生者」の「生」を無明の闇を破って頂いて、信楽の心に生まれさせて頂けると理解していたからです。


そこで、お尋ねしたいのですが、

・「若不生者のちかいゆえ」の御和讃は、そもそも親鸞会が正しいという根拠になるのでしょうか。

・また、本当は、どのように理解すればよろしいでしょうか。



【回答】

 「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。




質疑応答17

【質問】


 親鸞会が、親鸞聖人の御教えに反した方針、活動、組織、制度、募財、勧誘方法をしていると、ご教示頂きましたが、具体的にどのような教えに反しているか、教えて頂けないでしょうか?



【回答】


 一例を挙げれば、教行信証化土巻には、以下のように教えられています。


●四つの善事あり、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一つには、勝他のための故に経典を読誦す。二つには、利養のための故に禁戒を受持せん。三つには、他属のための故にして布施を行ぜん。四つには、非想非非想処のための故に繋念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没して、没し已りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。


 これは、善を行う心がけを教えられたものです。「経典を読誦す」「禁戒を受持せん」「布施を行ぜん」「繋念思惟せん」は、仏教で教えられる善に当たります。これらの善を行っていても、心がけが間違っていれば、悪果をえて、悪道に没すると説かれています。

 その間違った心がけとして、「勝他のため」「利養のため」「他属のため」「非想非非想処のため」の4つが教えられています。心がけを問題にされているのですから、当然、「勝他のために」「布施を行ぜん」というのも、悪果を得ることになります。

「勝他のため」とは、他人より勝りたい、ということです。支部間で成果を競ったり、他の人より、良い評価を得たいという心で活動することを言います。

「利養のため」とは、生活や保身のため、ということです。目標未達成で、問題にされたくないから頑張って活動したり、上司から嫌われないためにイエスマンとなり、言うべきことを言わないのも、利養のためです。

「他属のため」とは、いくつか解釈がありますが、他人を自分に属させる(従わせる)ため、と理解したら良いと思います。親鸞会に入会してもらうために説法をしたり、御報謝を出してもらいたいという都合を通すために、布施の行いをしていたら、他属のためになると思います。

「非想非非想処のため」とは、無色界の段階の1つで、三界の最高位とされる世界のことですが、ここでは、仏のさとりではない、間違った喜びの世界と理解したら良いと思います。信心決定を、この世のパラダイスのように勘違いし、そのような喜びを求めて、善を行じているようなのは、これに当たると思います。

 このような間違った心がけを戒めるように、教えてゆかねばならないのですが、親鸞会では、厳しい目標を与え、出来なければ徹底的に問題にし、間違った心がけを奨励しているのが現状と思います。そもそも、入会した人数や、参詣した人数や、集まった御報謝の額といった「形」を問題にし、決められた「数字」を達成することに、何の意味があるのでしょうか?

 そういう目標を与えなければ、頑張れない人は、布施を受け取っていない人です。そういう人に必要なことは、布施を与えることであって、目標によって頑張らせることではありません。もし、そのような方法で、善行に励ませることが出来たとしても、悪果を受け、悪道に沈むだけです。

 特に昨年から、目標に対して厳しくなったようで、多くの学徒の皆さんから、「講師の目付きがおかしくなった」とか、「友人を紹介すると、強引に入会を勧められるから、紹介したくない」という声を聞くようになりました。そして、講師が生活に困窮し、家族も養えないとか、食事も満足に取っていないという話も、あちこちから聞こえてきます。

 まさに、四つの善事から、悪果を獲得しているのだと思わずにおれません。悲しいことですが、これでは頑張れば頑張るほど、悪果を受け、悪道に沈むことになります。

質疑応答158

【質問】


 先日、他の支部ですが、学生部のときの同じ大学の同期で、まだ会員さんの人とメールで連絡がとれまして、状況を聞いてみたところ、うつ病になって、休職しているそうです。

 その担当の講師から、誘いや訪問、アポなしの訪問もたまにあるそうで居留守を使っているそうです。

 そこで、少しお聞きしたいのですが、うつ病の人に仏法を聞いてもらうと調子が良くなるものなのでしょうか。



【回答】


 結論から言えば、そう考えて良いと思います。

 仏法を聞くということは、光明に照らされるということであり、阿弥陀仏の本願に誓われている33願の、触光柔軟の願によって、心も体も癒されます。

 ですから、仏法には、心の病に良い効果があると考えてよいと思います。

 ところが、親鸞会に入会して、精神的に病んでしまったという話を、多く聞いています。

 なぜ、こんなに精神が病んでしまう人が多いのだろうか、と驚いております。

 もし、親鸞会が本当に真実の仏法を説いているならば、このような実情にはならないはずです。

 そういう点から考えても、親鸞会は、真実の仏教を説いている集まり、と言って良いのかどうか、疑問です。

お知らせ

昨日の「投稿」ですが、投稿者から、取り下げたいという要望がありましたので、削除させて頂きました。
ご了承ください。

質疑応答157

【質問】



『親鸞聖人御遺言法語』には、たとえば祖師の言葉としてこんなのがあります。
------------------------------------------------
念仏の外に信心ということのありと思召し候はん人人は、仏祖の御罰なりと知せ
玉うべし。
------------------------------------------------

親鸞聖人の思想からその表現として「仏祖の御罰」はないだろうと思われます。

ところで、『蓮如上人御一代聞書』にはこんな表現があります。
------------------------------------------------
たれの輩も、われはわろきとおもふもの、一人としてもあるべからず。こ
れしかしながら聖人(親鸞)の御罰をかうぶりたるすがたなり。
------------------------------------------------

------------------------------------------------
仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきこと
なり。われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候
ふ。
------------------------------------------------

------------------------------------------------
おなじく仰せにいはく、聖人(親鸞)の御影を申すは大事のことなり。昔
は御本尊よりほかは御座なきことなり。信なくはかならず御罰を蒙るべきよし
仰せられ候ふ。
------------------------------------------------

蓮如上人の思想からは「御罰」という表現が出てきますので、こういうことからすると、蓮如上人の死後以降に作られた贋作のように思われますがいかがおもわれますか?



【回答】


 御遺言鈔は、もともと親鸞聖人の著作ではありませんので、聖人の仰らなかったことが書かれている可能性は否定できないと思います。

 個人的には、親鸞聖人の他のお聖教から推察しても、「仏祖の御罰」とは仰らなかったように思います。

 成立時期については、何とも言えませんが、この一件だけで蓮如上人以降と断定することは出来ませんので、真偽についても、分からないとしか言いようがありません。

質疑応答156

【質問】


 親鸞聖人や蓮如上人が「「あの人は信心決定している、あの人は信心決定していない」とおっしゃった文章は無い、という事について、アニメ解説の時だったと思いますが、ある質問がありました。

 御一代記聞書73の、蓮如上人仰せられ候、「堺の日向屋は三十萬貫持ちたれども死にたるが仏にはなり候まじ。大和の了妙は、帷一つをも著かね候えども、この度仏になるべきよ」と仰せられ候由に候、についてでしたが、高森先生はハッキリ答えて下さりませんでした。

 こんなことが知りたい3(25)の中に「大和に住んでいた了妙は帷一枚も着かねた貧乏人であったが、よく信心決定していたから仏になるだろう、と蓮如上人は道破なされています」と書かれています。

 また、御一代記聞書248の「法敬と我とは兄弟よ」のお話で、法敬は信心決定していたと蓮如上人がおっしゃっている、と聞いた記憶があります。
 華光会の事を意識しておられるからだ、と思いますが、昔と今で話が変わっていませんか?



【回答】


●なにごとよりも、明法の御坊の往生の本意とげておわしましそうろうこそ、常陸の国中の、これにこころざしおわしますひとびとの御ために、めでたきことにてそうらえ。(末灯鈔)


 他にも、親鸞聖人は明法房の往生のことについて、何箇所も書かれています。特に、「あの人は信心決定している」と言ってはならない、という御文もありませんし、善知識方は、余り問題にされていないように思います。



 親鸞会で駄目だと教えられるのは、華光会の影響もあるのかも知れませんが、「私は救われた」と言う人が、殆どいないことが原因だと思います。

 昭和の妙好人と言われるような人を、何人か知っていますが、華光会時代に救われた方ばかりで、親鸞会で救われた方となると、まったくと言って良いほど御縁がありません。

 新入生や、新しく入会された方に、「誰が信心決定しているのですか?」と尋ねられた時、誤魔化すには、非常に都合の良い教えでした。

 しかし、「○○さんは信心決定している」と言うのが、教えに反しているのならば、「高森先生は信心決定されている」と言ってはいけないはずですので、多くの講師部員が、教えを破壊していることになります。

 これでは、自己矛盾ではないかと思います。

質疑応答155

【質問】


 お世話になっております。以下、清森問答に質問いたします。

 最近、Youtubeにこのような動画が上がっていました。

http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2008/11/post-440e.html
http://jp.youtube.com/watch?v=7YOzsFg2ZQk

 とても信じがたい内容ですが、こうしたことが親鸞会で行われていることを事実と思われますでしょうか。
 また、清森さんが在籍されていたときに、同様の行為を見聞きされたことはありますでしょうか。

 最後に、どうして人を幸せにするための親鸞聖人の教えで、このような悲しい出来事が起こってしまうのでしょうか。

 お忙しいところすみませんが、宜しくお願いいたします。



【回答】


 これは、おそらく以前に相談を頂いた方だと思います。
 その場に居合わせたわけではありませんが、事実だと思います。

 大変申し訳ないことですが、私自身も、会員さんのお宅や、学生の教室の前で待ち伏せしたり、待ち伏せを指示したことは何度もありました。

 相手の方には、大変な迷惑をおかけしてしまったことを、深くお詫び申し上げたいと思います。

 また、待ち伏せをさせられた会員の方にも、本当に申し訳なかったと反省しております。


 親鸞会では、深夜・早朝に待ち伏せしたり、会員さんのお宅に夜中まで居座るということは、決して珍しくなかったと思います。

 私も講師部の時は、御本尊の取り返しを、厳しく言われており、もし御本尊を取り返すことができなければ、大変な問題になりますので、講師の気持ちも理解できないことはありません。

 当時は、それが当たり前であり、正しいことのように思い込んでいました。これは、マインドコントロールと言うのでしょうか?

 本当に、おかしな状態だったと思います。


 しかし、親鸞会から離れ、客観的に見ることによって、いかに異常なことをしていたのかが分かってきました。

 昨年は、滋賀の元会員から、「夜遅くに支部長が家の前で待ち伏せして御本尊を取り返しにきた。怖い。」という苦情を聞きました。

 今年も、東京の元会員から、「早朝から講師に家の前で待ち伏せされ、本部に参詣するよう説得された。」という苦情も聞いております。この方は、既に退会届を出し、御本尊も返却されていた方です。

 上田君や斉尾君も、同様の苦情を多数聞いているそうです。中には、支部長が下宿の前で待ち伏せしているという脅迫観念から、精神を患ってしまった人もいるそうです。

 親鸞会は、待ち伏せをされたり、家に押しかけられた会員、元会員の方が、如何に傷つき、苦しんでいるか知るべきだと思います。


 親鸞聖人が、御本尊を取り返しに行ったり、待ち伏せをしたり、相手に面会を強要するようなことをされたのでしょうか?

 このような行為は、決して親鸞聖人の御教えでも、仏法でもありませんので、直ちに改めて頂きたいと思います。


質疑応答154

【質問】


問2 仏法を伝えることが最大の仏恩報謝であると教えられた
   善導大師のお言葉(のべ書き)と親鸞聖人の御和讃を書け

答2 ○自ら信じ人に教えて信ぜしめることは 難きが中にうたた更に難し
    大悲を伝えて普く化す 真に仏恩報ずるに成る
   ○他力の信をえん人は 仏恩報ぜん為にとて
    如来二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし(正像末和讃)

(平成7年度前期 講師試験問題)


疑問:最大というのは親鸞会的には称名以上という意味に解してよろしいでしょうか。また、なぜこれらのご文が、「法を伝えることが最大の仏恩報謝である」ということになるのか理解できません。真宗は称名報恩の教えではないのでしょうか?


【回答】

 親鸞聖人は、仏恩報謝に「これが1番だ、これが2番だ」と順番を付けられていないように思います。

 ですから、このような出題が、不適当だと思います。



【質問】


問10 親鸞聖人の御臨末のお言葉を記せ。

答10 ○我が歳きわまりて安養浄土に還帰すというとも和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せか帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり。我なくも法は尽きまじ和歌の浦あおくさ人のあらんかぎりは。

(平成7年度前期 講師試験問題)


上記は親鸞聖人の御臨末のお言葉ということは否定されているときいていますが、いかがお考えでしょうか


【回答】


 真偽については、私には分かりません。親鸞聖人のお言葉ではない可能性もあると思います。

 しかし、真宗聖典にも収録されていますし、一般的にも知られていますので、親鸞聖人のお言葉と味わっても、良いと思います。


質疑応答153

【質問】


問1 一切経の中に深法と言われる経が二つあるがそれは何か、根拠をそれぞれ挙げて示せ。

答1

法華経………法華経を信じえない者の為には如来の余の深法を教えよ。(嘱累品)
大無量寿経…無量寿仏を念じその国に生れんと願ずべし、若し深法を聞きて歓喜信楽し疑惑を生ぜず。(大無量寿経下巻)

(平成7年度後期 講師試験問題  10月29日実施)


疑問:実際は、深法とは般若経典を意味すると考えますが、いかが思われますか?



【回答】


 般若経典を深法と考えることもできると思いますが、上記の問答は、存覚上人の「法華問答」を元に作られたものだと思います。

●『法華』の七(嘱累品)にいわく、もし衆生ありて信受せざらんものは、まさに如来余の深法のなかにおいて示教利喜すべし。『法華』を信ぜざるものは余教のなかにおいて示教利喜すべしという文分明なり。この文を見ながら『法華』を信ぜざるものは謗法なりといい、『法華』以前の教に得益なしという、不足言なり。『法華』のほかに深法ありということ、誰かこれをあらそわん。いうところの深法というは、すなわちこれ浄土の教をさすなり。ゆえいかんとなれば、弥陀の本願釈迦の留教、諸仏の証誠かぎりて浄土の教にあり、『無量寿経』の下巻にいわく、無量寿仏を念じたてまつり、そのくにに生ぜんと願じて、もし深法をききて歓喜せんと。いまだ諸教のなかにおいてかくのごときの説を聞かず。(法華問答)



【質問】

問9 聖道の慈悲と浄土の慈悲の違いを平易な言葉で簡潔に説明せよ。

答9 ○聖道の慈悲は、どう生きるかの慈悲
   ○浄土の慈悲は、なぜ生きるかの慈悲

(平成7年度後期 講師試験問題  10月29日実施)


疑問:理解できません。実際にこのように説明されているのでしょうか?親鸞会では歎異抄を引用して説明されないのでしょうか?



【回答】


 親鸞会では、このように説明されています。歎異抄の解説の中で、このように言われたと記憶しています。

 ところで、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」は、自力と他力という違いがありますが、どちらも「出世間の善」ですので、親鸞会的に言えば「なぜ生きるかの慈悲」になると思います。

 「聖道の慈悲」を、「どう生きるかの慈悲」と表現するのは、不適当だと思います。

親鸞会教義の相対化・74(投稿)

親鸞会教義の相対化・74(投稿)

清森義行様



 今日は「本願」と「誓願」に関してお話させていただきます。

 親鸞会においては「本願」と「誓願」という二つの言葉が特に区別されずに同じように用いられているようですが、「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されています。

「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になります。

 このことを法然上人は以下のように述べておられます。

===================================
 本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。
===================================

 また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答を設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されています。

===================================

 問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上

===================================

「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけですが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっているのです。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのです。

このことを善導大師は、

===================================

 もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生
を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
===================================

とお説きになられています。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、

===================================
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
===================================

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かです。



 ところで、既に様々な角度から論拠に基づき誤りを指摘されながら、チューリップ企画(=親鸞会)は未だに、

>「若不生者不取正覚」の「生」は
>「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
>「平生に信楽に生まれる」ことである、
>と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。

というドグマをまき散らしておりますが、「本願」は以上述べたように「既に実現している過去の誓願」ということですから、

★未だに実現していない「本願」は絶対に存在しない。

ということは明らかであり、この原則からも上記チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤りであることは明かです。

 なぜならば、十方衆生が「平生に信楽に生まれる」ことまでも、阿弥陀仏が誓願として立て、その誓願が成就されて現在阿弥陀仏という仏になっており、その誓願が「既に実現している過去の誓願」「本願」となっているならば、阿弥陀仏が仏になった時点で十方衆生が全て信楽になっていることになり、現在迷っている衆生が全く存在していないことになってしまいます。

 しかし実際には、阿弥陀仏の本願を信じることなく迷っている衆生が存在しており、チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤っていることは明かです。


===========苦笑の独り言より引用===========
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/category5-1.html

阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。


●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力
に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人は
ありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら、
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。
===========苦笑の独り言より引用===========


 このように苦笑氏が述べておられますが、全く同感です。

 さらに「本願」の解釈の誤りから派生して、チューリップ企画(=親鸞会)は、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈されているようですが、これも苦笑氏の言うとおり明かに誤りです。

※「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html

 親鸞会のドグマは、「本願」の原語から見ても間違いであり、親鸞会の優れた特色をも損なうことにさえなっているのですから、一刻も早く訂正すべきだと思います。


 親鸞会関係者の方であれば、おそらく皆さんご存じであろうと思いますが、

阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる

と一休禅師が送られた歌に対し、蓮如上人は、

阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ

と返されたそうです。

 蓮如上人がこのお歌で伝えようとしているものを、きちんと考えて頂きたいと思います。

以上


※お願い

 清森問答をご覧の方で、この蓮如上人のお歌の出典をご存じの方がおられたら、ぜひお教え頂きたいと思います。
 浄土真宗の布教の本はもちろん、ネットでも紹介されてましたし、浄土宗の林隆硯上人著『元祖大師御法語講話』にも引用されてましたので、著名なものなのだと思いますが、出典がどうしても見つかりません。

 ご存じの方がおられましたら、教えていただきたいと思います。

投稿

清森先生


 今日さきほど、テレビ番組の「ニュースキャスター」という番組で、宗教法人「幸福乃光」が多額の献金を霊感商法だとして訴えをおこされた、と報じておりました。
 親鸞会のことが思われてなりませんでした。
「幸福乃光」というところは、新聞の折り込みチラシに人生相談2000円と
広告をうたって、やってきた人に、このままでは事故にあう、地獄に堕ちる、
等と言って、何百万と献金を要求する団体だったようです。
 親鸞会と似たシステムだなと思いました。

 前衛組織をつくる→勧誘する→おどす→献金させる

というシステムは変わるところがありません。

私の白道・信心の沙汰(投稿)

「私の白道」・信心の沙汰(投稿)

親鸞会元講師部



○{信心の沙汰}


 生まれ難い人間に生を受け、聞きがたい仏法、中でも阿弥陀仏との御縁ほど尊いことはありません。
 ここを読まれている方は、殆どが仏縁に恵まれた方と思います。
 阿弥陀仏は六道を輪廻し生死の苦海に沈み切っている私を助けんと、唯一仏立ち上がって下された如来様です。
 この阿弥陀仏以外に後生の一大事を解決して、迷わぬ身にして下される仏はありません。
 その仏願の生起本末を聞くことによって救われると、親鸞聖人は教えてゆかれた事を、先回の「仏法は聴聞に極まる」に書きました。


 今回は、次に浄土真宗で大切な「信心の沙汰」について書かせて頂きます。


蓮如上人は

・「いかにも不信の面々は一段の不審をもたてて、信心の有無の沙汰すべきところに、何の所詮もなく退散せしむる条、然るべからず覚えはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮、自今已後においては、不信の面々は、相互いに信心の讃嘆あるべき事肝要なり」(御文章4帖目12通)


・「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよく聞き、心中の通りを同行に会い談合すべきことなり」(御一代記聞書167)

・「もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所に、心中を包みて有りのままに語らざる類あるべし。これを責め相尋ぬる所に、有りのまま心中を語らずして、当場を言い抜けんする人のみなり。勿体なき次第なり。心中をのこらず語りて、真実信心に基くべきものなり」(御文章4帖目8通)

・「物を言え、物を言え」と仰られ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰られ候。「信、不信ともにただ物を言え」と仰られ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人にも直さるるなり。だた物を申せ」と仰せられ由候。(御一代記聞書87)



1 信前、信後の人はお互いの信心の沙汰をしなさい。聞くだけにならぬように。

2 自分の仏法の理解、聞き方は間違いないか、話し合いしなさいよ。

3 信前の人に、なぜ自分は救われないのか、疑問、不審を尋ねない人がいますが、ありのまま、隠さずに全部言いなさい。心中を残らず話して、真実信心、徹到しなさいよ。

以上のように教えて下さっています。



○信心の沙汰が始まった


 最近の親鸞会の刊行物を読むと、信心の沙汰が必ず載っています。
 これは2、3年前には無かったことで、本来の聞法に近づいたことですからいいことだと思います。

 しかし、読んでみて、聞いてみると、これは、と思えて来ました。
 実際に参加された、何人もの方達から聞きました。


1  信心の沙汰には信心決定した人と、していない人、信前、信後の人があると蓮如上人は仰言っておられますが、親鸞会の信心の沙汰には信後の方がおられない。阿弥陀仏の御心についても、分からない人ばかりで、肝心の沙汰が出来ない。


2  なぜ私は救われないのか、「それは宿善まかせです。三願転入ですから活動がんばりましょう」と答えが決まっているから聞くだけ無駄になる。長年、聴聞していると支部長の答え、皆さんの言われることが分かってしまうので質問も積極的に出来なかった。


3  南无阿弥陀仏の心を知りたいと思っても「信後のこと、絶対の幸福は救われたら分かります」と言われるのでもう聞く気がなくなった。自分には分かりませんと正直に言われない。変なプライドを感じました。


4  宿善の違いは当然あるのに「なぜ19願の諸善ばかり勧められ、20願の念仏が勧められないのか。2千畳に参詣される人は皆同じ宿善の人ばかりと思えない。支部長も念仏を称えていないのはどうしてですか。念仏を称えるべきではありませんか」。こんな質問もしたいが、言えない雰囲気がある。


5  信心の沙汰も高森先生のご法話の内容で、ここはどう言われたか、そのまま言わねばならず、記憶のいい人はいいが私は苦痛でした。言葉づかいばかりにこだわり、もう参加したくなくなった。
  なぜ支部長は言葉づかいより、その話を自分でどう思ったのか言わないのか。お互いどう感じたかがもっと大事と思う。結局、高森先生の言葉を正確に覚えましょう、になってしまっている。「聴聞の復習会」のようだ。


6「求法太子の説法」の後の信心の沙汰も、親鸞会の指示をそのまま信じて苦しくても実行しなさい、という方向へもっていってしまう。求道の覚悟ばかりが強調、確認され、自由は沙汰など出来ず、優等生発言をするだけで、ありのまま言える雰囲気ではない。
 「後ろ向き発言」を意識したら何も言えなくなってしまうのは当然です。本当の信心の沙汰はこんなことでないと思う。これは「活動確認の沙汰」と思える。


7  ご法話が終わり、掃除をしてから同朋の里に移動してから信心の沙汰が始まりました。1時間30分も過ぎています。使用料も必要でご法礼も別です。本部には広い部屋が沢山あり、移動時間もかからず、全く無駄と思うようになりました。



○ されたことと、今言っていることと矛盾しませんか。


 信心の沙汰には談合、讃嘆、ご示談、お領解、座談があり、当然信後の人の自分の領解、信仰を告白する場合がある。

 当たり前だが、ところが不思議なことに親鸞会の刊行物には個人的な体験は「言うものではない」「書くものではない」「こうなった」「ああなった」という話は万人共通でないから、「聞けば聞くほど、知れば知るほど悪い」と書かれていた。「体験至上主義」とも批判してあった。

 そうかと思うと、「K正新聞」9月15日号の石川県のTさんが「夜を徹したご示談あの情熱能登に再び」と能登の真宗門徒の昔を紹介しておられる。

「いろりに幾重も人の輪ができ、その家の主人が口火を切る。“私は法義をこう味わっている”と領解を語ると、参加者も順々に話していく。質問が出れば、同行を中心に納得いくまで語り合う」

 目に見えるような、尊い仏法讃嘆ではありませんか。
 ここに出てくる“私は法義をこう味わっている”と領解を語るのは、その人の獲信体験、信心ではありませんか。昔の能登の同行は熱く、告白していたのです。これは悪いことですか、なぜ新聞に載せたのでしょうか。



●昔、高森先生が「華光社」から出版された「獲信の記録」には5名の人が実に生々しく、具体的に獲信を語っておられます。
 高森先生のお母様もその中のお一人です。高岡会館が本部会館の時も同じ内容を「話して」おられました。私は聞かせて頂き、そんなことがあるのか、頑張って求めてゆこうと思ったものです。本当に良いご縁でした。
 この「獲信の記録」には、伊藤先生の書かれた獲信体験記「仏敵」や会員さんの獲信体験が載っている「華光誌」の購読を勧めてあります。
 この体験を出版し販売されたのが高森先生です。
 これも大変してはいけないことになりますが、どうしますか。


・「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は如何あるらん、という信心沙汰すべき用の会合なるをーー」(御文章1帖目12通)


 蓮如上人が「わが信心は、ひとの信心は」を語り合えと教えておられるのに、個人的体験は「言うものではない」と親鸞会では指導していますが、これで信心の沙汰になるのでしょうか。
 救われたら分かります、では沙汰になっていません。
 自分の信心はどうなのか、支部長は正直にありのまま会員さんに話したことありますか。講師部らしく「言い抜けて」いませんか。
 長い間、聴聞して来た会員さんは見抜いていますよ

 同朋の里で「信心の沙汰」とアピールしたのは良かったが、肝心の沙汰がこれでは、浄財の無駄になりませんか。



○出来ない無理をしてはいないだろうか

・高森先生の講師部だけの会合に私は20年間の間に200回以上参加しましたが、「信を獲りたるか、獲らざるかの沙汰を幾たびもせよ」の蓮如上人の厳しい教え通りの、信心の沙汰は1回でもあっただろうか。

「君達は後生の一大事を抱えながら、無常の命なのに、何を呑気に聞いているのだ、ワシもいつどうなるか分からん無常の身なんだぞ。
 どんな覚悟で聴聞しているのか今日は一人一人言ってみなさい。
 阿弥陀仏の本願をどう聞いているのか言ってみなさい。
 なぜ信心決定できないのか、どんな自力の心、疑いをもっているのか正直に言ってみなさい。
 誤魔化したら承知せんぞ。
 君達が、はっきりしないでどうして会員さんに法を伝えるのだ。
 まず、総長、講師長、学院長、布教局長、弘宣部長、ここへ来て皆の前で述べよ。
 他の者は、聞いて感想を言って良い。先輩だろうと遠慮はいらぬ、信心の沙汰には、組織の上下は無いのだから。
 他の講師は講に別れて3日間、徹底的にお互いの信心の沙汰をし尽くせ。
 自分の信心の程度を知れ。その結果を知らせよ。
 ワシも回って参加しよう。」


 こんな発言を聞いたことがありますか。
 これが真宗の繁昌、万年の礎になるのでありませんか。
 無理にお金を集め、どんどん建物を建設するのがどうして万年の礎でしょうか。



 長男、布教局長の不倫疑惑の揉み消しには3日間、泣くほど厳しく講師部を詮議、追及されて除名処分30名以上も出しながら、なぜ信心の沙汰が50年間も無かったのか。
 私はここに親鸞会の根本的問題があると思います。
 他の問題もここから派生する問題と思います。
 何が、最も優先すべき課題か、今からでも遅くありません、とことんやって欲しいと思います。
 今のままでは講師部になった意味が無いではありませんか。
 最近、K藤講師が退部したと話題になっていますが、その講師は高森先生の指導の限界を知ってしまったからではないですか。
 このままでは阿弥陀仏に申し訳のないことです。
 仏法の為、一大事解決の為、身も心も高森先生に無条件で従いますと朝晩、誓う講師部は、現在○00名近く、辞めた人○00名。
 やがて法然上人のお弟子に匹敵します。
 どうか、人生をかけている講師部、会員さんを阿弥陀仏のもとへお導き下さい。



・支部長(講師部)が信心の沙汰をしようとしても、講師部自身が信心の沙汰の経験がないから無理なのです。
 説法もすることも大変ですが、信心の沙汰はもっと難しいと私は思います。
 説法は聞いて頂きたいこと、これ一つに集中して原稿を書き、練習して覚えて話をしますが、信心の沙汰は一人一人違う人に何を聞かれるか分かりません。参加者のことを良く知らねばなりません。
 自身の信仰、教学、経験が浅ければたちまち愛想つかされるでしょう。
 一方的に聞いてこられた会員さんの心を開くこと、問題点を知ることはそんな易いことではありません。



○信心の沙汰をする人はどんな人か


・「教化する人、まず信心をよく決定して、その上にて聖教をよみ語らば、聴く人も信をとるべし」(御一代記聞書13)

・「信も無くて人に「信をとられよ、とられよ」と申すは、われ物を持たずして、人に物をとらすべきという心なり、人承引あるべからず」と、実如上人仰せられ候いき。
「自信教人信と候時は、まず我が身が信心決定して人にも教えて仏恩になる」との事に候。
「自身の安心決定して教うるは、すなわち大悲伝普化の道理なる」由、同じく仰せられ候」(御一代記聞書94)



・ここに信心の沙汰の難しさがあるのです。

 蓮如上人は信心の沙汰を勧めておられますが、信前の者に徹底した信心の沙汰は出来んぞとの仰せではありませんか。

「私の信心は皆さんに関係ありません。私のことを聞きたくて来られたのではないでしょう。親鸞聖人のみ教えを聞きに来られたのではありませんか」と講師部はよく言いますが、上手な言い訳のつもりでしょうが、蓮如上人はずばり、誤魔化すなと教えておられます。
 長い間の聴聞と教学で何とかしてゆこう、そんな根性で「光に向って」と言っているから、お互いの信仰が進まないのです。



○まず自身の信心決定こそ大事

・「信をとらぬによりて悪きぞ、ただ信をとれ」と仰せられ候。善知識の「わろき」と仰せられけるは、信の無きことを「わろき」とおおせらるるなり。(御一代記聞書186)

・「一には自身の往生すべき安心をまず治定すべし。二には人を勧化せんに、宿善、無宿善の二つを分別して勧化を致すべし」(御文章4帖目1通)



 蓮如上人は常に、信を獲れ、一日も片時も急げと教えてゆかれました。

「雑行、雑修、自力の心を振り棄てて、後生たすけたまえと弥陀たのめ、たのむ一念のとき、往生一定、おんたすけ治定」と真実信心の体である」

 南無阿弥陀仏の六字の謂れを教えておられます。
 聞いていますか。



○肉の無い「すき焼き」では、お客は来ません。離れます。


 S会食堂の自慢メニューは「すき焼き」。すぐ食べられと誘う店員さん。
 入ると出てきたのは、大皿に白菜、シラタキばかり。
 何でも、これを食べて、次に豆腐、シラタキが出て、最後に肉が出てくるとか。出す順番がある。
 しかも店は広い2000畳が自慢、店長の苦労、恩、心を店員が長々と話す。
 こんな素晴らしい食堂へ来れて皆さん世界一の幸福者ですね、もうすぐ開店50周年と笑顔一杯で話す。
 周りを見ると、皆さん白菜、シラタキを食べまくっているが、中には苦しそうにやっと食べている客もいる。しかも料金が結構高いと評判。
 しかし、そのうち肉が食べられると期待して、一度に食べ切れない白菜、シラタキだから、通いで食べに来られる。
 20年30年も白菜、シラタキを食べ続けているのだから、その根性、執念はすごい。これでこの店はもっているのだと分かる。
 豆腐を食べている人も余り見当たらない。
 そのうち、諦めて帰る人、怒り出す人、お金も続かず来なくなる人、店員さんは必死に、そのうち、そのうち肉が食べられますと励ましている。
 中には、家の肉は世界最高の肉だから、そんな簡単に食べられる物ではない、と説得している店員もいるではないか。
 必ず美味しい肉が食べられる、という宣伝はウソだったと思うようになって来た。
 どうしょうか、このまま白菜食べに通うか、止めようか、迷うお客さんが多くなって来た。


 他所から、美味しい「すき焼き」が食べられる「店」があると話は広まり、店員さんは「あれは肉は肉でも、牛ではなく、犬やヤギや猫のも混じっている、ニセ物です、用心して下さい」と大声で叫んでいる。
 チラシにもそんな事が書かれているから、余程困っているのだろうか。
 おかしいのは、店員さんに美味しい肉の味はどんな味ですかと聞いたら「言えません」「聞くものでない」、食べたとしても「こんな味だった」「あんな味だった」と言わないで下さいと注意された。
 店員さんも肉を食べたことが無いようだ。なのに世界一美味しいと言う。
 この店おかしいなー。
 こんなので繁昌するはずないが、まだまだ店を拡張して万年繁昌させるとか。
 しかも、客の私らにお金、建設費をもっと出して下さいと言って来る。
 怖くなってきた。
 大変な食堂へ入ってしまったものだ。このままでは白菜と豆腐しか出てこないのではないか。
 周りの客が、あちこちで、もう帰ろうかとヒソヒソ話をしている。


・S会食堂---親鸞会
・すき焼き---絶対の幸福
・すぐ食べられる---平生業成、一念往生
・店長---高森先生
・店員さん---講師部
・お客さん---会員さん
・白菜、シラタキ---19願の諸善・自力の心(雑行)
・豆腐、シラタキ---20願の念仏・自力の心(雑修)
・美味しい肉---18願の真実信心・南無阿弥陀仏・他力の信心
・よその「店」---華光会
・ニセの肉---自力の信心


 親鸞聖人は
「自力というは、我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ人なり」(一念多念証文)

 白菜、シラタキばかり食べさせられていませんか。



○「雑行、雑修、自力の心を振り棄てよ」の心を沙汰するのが、信心の沙汰どうしたらすたるのか、


・親鸞聖人は阿弥陀仏の本願・18願の仏心、南无阿弥陀仏の心を聞けと教えておられます。

「経に聞と曰うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あること無し」(教行信証)

・蓮如上人も同じく

「其の名号を聞く、というは、ただおうように聞くにあらず。善知識にあひて、南无阿弥陀仏の六字の謂れをよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり。」(御文章3帖目6通)


「仏法は聴聞に極まる」先回に述べた通りです。そして「信心の沙汰」が大事なのです。


 真の善知識にあなたは出会いましたか。
 求めて下さい。必ずお会いできますから。
 真剣に悩んでいる人を阿弥陀仏は導いて下さいます。


○、それだけ言うならお前の南無阿弥陀仏の味はどうなのだ、と言われそうなのでお話します。

「私の白道・6」に述べましたが、増井悟朗先生のご法話中でした。


「40年聞いてきたがこんな思いは初めてだった。
 あー俺は馬鹿だった、分かりたい、納得したい、そしたら信じられるだろうとは、何と我が身知らず。自力丸出しだ。
 分かるほど小さな仏智ではないのだ、墜ちることさえ分からん俺が、それを自惚れて、もー駄目だー、俺は助かるもんでない、阿弥陀さまー私はもう、どうにもならぬ者ですーとなった。
 その時「まかせよー、そのまま救うぞー」の呼び声が届いた。
 あっという間だった。これまで絶対下がらん心の頭が下がって、分かりましたーおまかせ致しますー、南無阿弥陀仏となってしまった。
 南無の心は、早く来い、われをたのめー、まかせよー、助けさせてくれーの呼び声だ、叫びだ。
 無条件降伏させられ、自力の心が殺された。
 阿弥陀仏は、助けるぞー、捨てはせぬぞ、罪業どれほど重くても心配するな、そのまま引き受けたぞー、必ず我が浄土に生まれさせて仏にしてみせるの大慈悲心だ。
それが一つになった南無阿弥陀仏のお力の大きさが、尊さが口からあふれ出る。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」



1年ほどたったこの心は全く今も変わりせん。



○善導大師が「二河白道の譬」に西岸(阿弥陀仏)から聞こえた呼び声は
「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん。衆て水火の難に墜ちんことを畏れざれ」

 助かる時は一念のはずなのに、どうしてこんな長いお言葉が聞こえるのだろう、不思議だなーと、ずーと思っていました。

「私の白道・6」には書かなかったのすが、「阿弥陀さまー、私はもうどうにもならぬ者ですーとなった。」その時、この善導大師のお言葉がパッと目前に広がり、その瞬間、同時に「まかせよー、そのまま救うぞー」の大慈悲心に貫かれてしまいました。聞即信でした。


 余りの不思議に、どう言っていいか分からず、ここのところは書きませんでした。

 救われた瞬間に何もかも分かると思っている人もありますが、そうではありません。信後の聴聞によって教えて頂くのです。
 救われた人は皆、即、教行信証、正信偈のお言葉を理解し説明出来るものでありません。庄松同行もそうでした。
 信心数え歌の心も日に日に、本当にそうだなーと深くなってゆきます。



 善導大師のこのお言葉を、よくよく聞いてみると驚きと感動でした。
「直ちに、来たれ」はそのまま、来い、まかせよでした。
 そのまま、ほんにその通りでした。
 雑行、雑修、自力の心が廃るとき、自分の中の一切が崩れてゆきました。
 覚えた、聞いた、称えたも間にあわない、力にならぬ、墜ちるしかない、どうしょうもない、どうにもならぬ、すがる何物も無い、そのままでした。
 ただじゃ、無条件と言われるのもこのことと分かりました。

 おかる同行が「そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
 本当にその通りでした。



○本当の「信心の沙汰」とはどんなことか。


「伊藤先生のお言葉」吾勝常晃先生(伊藤先生は華光会の創設者)

(仏智の不思議に触れよ)151P

「私は20年、30年仏法を聞いている。わずか、半年や1年、仏法を求めたぐらいで信が得られるはずがない」
などと言う者があるが、同じ聞くにしても、その内容を考えてみなければならない。--
「わずか半年ぐらいで!」と言うが、本当に後生が苦になって求める者は、夜も眠られず悩みぬき、仕事も手につかず考え抜いている。真に、一大事の後生として求める者と、そうでない者とは、仏法を求める深さが違うのだ。
それが、たとえ子供であっても、そうして求めて行った者には、仏智不思議があらわれてくるのだ。その不思議に触れない限り、どれほど仏教のことを聞き覚えても、到底、後生の闇が晴れるものではない。


(重い仏法)177P

 明治以降の真宗でも、幾つかの熱烈な信仰運動があったが、人々が多く集まり、大きな寺でも建てると、それ以後の運動は、みな大体ダメですな。
 内輪もめしたり、金で争ったりしている。
 真実の仏法は、ワラジばきで広められるものであることを、深く心に銘記しておかなくてはならぬ。
 また、真実の仏法というものは、それほど多くの人々に、チヤホヤされるものではありませんぜ。
 やはり「国に一人、郡に一人」と言われるほど、重い仏法ですわ。

(命がけの信)87P

 自力と他力、信疑の白兵戦は、求める者と説く者との、すざましい戦いじゃ。一歩間違えば、生死岸頭に迷うという一大事がかっかっているのですからな。
 説く者も、その一点に命をかけよ、と言われる。
 しかし、その命がけのところに、如来大悲の念力がかかっていることを知らねばならぬ。
 妙なもので、説く者も「早く信をとらせよう」「信者を作ってやろう」
 と焦り、求める者も「早く信を得よう」「喜ぶ身になろう」と焦っている間は、双方共に人間的なもので、法の世界は開かれてこない。
「自力の計らい」は、まだピンピンしているんだ。
 それは、ただ言葉だけのやりとりにすぎない。
 そんなところに、名号不思議おお働きはないのですなア。

(念仏の不思議)89P

 念仏の不思議ということが、ひしひしと、感じられるような信心でなくてはだめだね。
 本を読んだり、話で聞いたりで、念仏をしぼり出すように喜んでみたところで、そんなものは、病気でもして40度ぐらいの熱が出れば、ふっとんでしまいますわ。
自分の中に、入れ込んで得た信は、すべて自力、計らいの信心じゃ。
 他力の信は「仏智の不思議」が働いて下されてある。
 だから、人から何と言われようと、アーも、スーもありませんわ。
「地獄も、極楽もないぞ」と言われても、有難いし、「お前は、だまされているぞ」といわれても、有難い。
「信心が間違っているぞ」と言われても、やっぱりホクホクと念仏が喜べます。
 これを、仏智廻向の信とも言うし、知恵の念仏とも言うし、とにかく念仏の不思議が、その人の中に生きているのですからな。
 これほど強いものはない。金剛の信ですわ。
 もう元のように「自力、計らいの信」に戻ろうにも、戻り様がない。
 腹の中は空っぽですわ。空っぽのまま、無限の念仏が喜べる。
 ホンマに気楽な身にさせてもらますなア。

○高森先生は、18歳から29歳までの約10年間、この伊藤先生を師としておられました。
「獲信の記録」も奈良県から実家の寺へ招待された時の、座談記録です。
「会報」にも多くの、伊藤先生の書籍の盗作があります。



・「仏智疑う罪深し    この心おもい知るならば
  くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし」

・「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな
  摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」


南無阿弥陀仏。

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