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親鸞会教義の相対化・76(投稿)

親鸞会教義の相対化・76(投稿)



 先日の質疑応答164の内容は、清森さんが親鸞会教義を相対化
した上で述べられた、非常に納得のいく優れたものであると思いました。

 これに関連して、所謂「信行両座の法論」について考察したこと
がありましたで紹介させて頂きます。

 ▽ ▽ ▽

 所謂「信行両座の法論」について論じる上でとても大切なの
は、 法然上人はもちろんですが、親鸞聖人に関しても、

★信心と念仏を切り離して考えるということはありえない。

ということが、とても重要なポイントになると思います。

 名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
 これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
 ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)

 一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
 信が行をさまたぐるなり。
 信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
 又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
 信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
 又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
 其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
 念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

これらは法然上人の言葉ですが、「念仏だけ」とか「信心だけ」と
いう発想はなくて、必ず「本願を信じて念仏を申す」というのが
セットになっています。

そして、上記の法然上人の教えを受けている親鸞聖人ですからお手
紙の中で、

 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓
はせたまひたるを、
 ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
 信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
 また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
 されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
 疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
 詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらん
は辺地に生るべし。
 本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生
にて候ふべき。
 このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんと
セットになっています。

これは親鸞聖人の主著『教行信証』においても同様で、

 まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
 その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
 三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
 これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、 「真実の
一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

 真実の信心はかならず名号を具す。
 名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」に 「名号(=念仏)」が
伴っていることが明らかになっています。


 だから、この「信行両座の法論」を「信心 vs 念仏」と捉え
て、 あたかも「信心だけが大切」で、「念仏が不要」である
かのように、 位置づけてしまうような「解釈」が問題なわけで、
上記の法然上人や親鸞聖人の教えに抵触しない範囲の解釈を、
覚如上人の言葉にも行うことが必要なのではないかと私は思います。


 そして、この法論を「信心 vs 念仏」としない解釈として
考えられるのは、 「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得る
か?」という解釈であり、

 例えば『歎異抄』の第一条の、

 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂
取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

を見ると、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ
こころのおこるとき」に、 阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を
受けるとあるわけですが、

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころの
おこるとき」

の時点で阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったわけで、
この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する
人になるということです。

 もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけですから、
この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけですが、 その
最初の一声が出る前に、地球が滅びるとか何かアクシデントがあっ
たとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になって
いて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけです。

 その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこ
ころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという
問題が、 この「信行両座の法論」で問題になるべきポイント
であると、解釈すべきなのではないかと私は思います。

 そうでなければ、覚如上人が法然上人や親鸞聖人の教えから切り
離された存在になってしまいます。

 その証拠に、覚如上人の『口伝鈔』には、

一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
 このこと、多念も一念もともに本願の文なり。いはゆる、「上尽
一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。しか
れども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽
一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経
釈顕然なるを、一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこ
ころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。さればいくたびも
先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、他力の信をば一念に即得
往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあ
らんほどは念仏すべし。これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。

という記述があり、信心を得た上で、生涯(一形)にわたって念仏
に励むことをお勧めになられているわけですから、 決して「信心
vs 念仏」と対立的に捉えるべきではないと思います。


 なお、法然上人門下で行の座に入った人がほとんで、法然上人門
下に正しい信心の方がいなかったというのは、 「歴史的事
実」というよりは、親鸞聖人を正統に据える「文化」内で作られた
伝承であると考えるべきであると思います。

 これを「歴史的事実」あるかのように振りかざし、親鸞聖人の流
れにない「文化」を見下すような態度は、
学問的にも全く不当なものであり、何より法然上人や親鸞聖人の姿
勢からはあまりにもかけ離れた態度であると思います。

 以上、いろんなことを書きましたので、結論を簡潔にまとめてお
きます。

1.信行両座の法論を歴史的事実として位置付けるのは、学問的には
無理がある。あくまでもそれを通して伝えようとしている「教え」
を受け取るための教材とするべきである。
2.法然上人にも親鸞聖人にも、信心と念仏を切り離して考える発想
はない。どちらも大事である。
3.覚如上人も信心の大切さを強調しているが、念仏を否定すること
はなく、生涯に渡って念仏申すことを説いている。
4.以上を踏まえて考えると、信行両座の法論を「信心vs念
仏」のように、信心と念仏を切り離して解釈するのは、その「解
釈」が問題なのであり、切り離さない「解釈」を行うべきである。
5.時間軸上に配置すると、「念仏申さんと思いたつ心」=信心が起
きた時に、阿弥陀仏の救いがあり、その後に念仏申すことになる
が、信行両座の法論は、その時間軸上のポイントを論じた法論であ
ると解釈すべきである。

 △ △ △


 親鸞会の称名不要論は、「とりあえず念仏申せばいい」という考
えを否定するために言ったことが固定化されたドグマであり、信心
正因を強調する覚如上人・蓮如上人の著書にも絶対に見られないも
のであると思います。


追記

 以前、相対化・2で取り上げた、『法戦』2巻2章で高森先生と
対決されていた方の「信行両座の法論」の解釈は、私の解釈の解釈
とほぼ同じものであると思います。

 「行一念」「信一念」のツメが甘かったため門前払いとなりまし
たが、親鸞会教義の問題点を非常に適切に指摘したものであり、再
評価されるべきものであると思います。
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質疑応答164

【質問】


 いつもメールを有り難うございます。
 かつて、渡海難氏のホームページ「浄土通信インターネット」で、「白道燃ゆ」の一節に対して批判が加えられました。(1999年頃だと思います)


>「この願成就文には、称名念仏が出ていないから「念仏唱えたら助かる」と信じているのは、真宗の信心ではないことが明白になる。願成就文では、明らかに、「信ずる一念」で信心歓喜と助かるのだ、と信心正因が打ち出されているからである。されば、本願の乃至十念の称名念仏は、三信の信心に収まって、ここに親鸞聖人によって、弥陀の本願の極意は、唯信独達であることが鮮明になったのである」
>「若し、このような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。信心正因、称名報恩が、真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである」(白道燃ゆP200~201)


「白道燃ゆ」の以上の部分に対して、(実はこれらの文章も伊藤康善師の「安心調べ」の丸写しですが) 渡海氏は批判を加えています。


> 願成就文というのは、大無量寿経の下巻の冒頭にあります。ほとんど同じ記載が、大無量寿経の下巻で末尾にくり返されています。最初と最後に同じ意味のことをくり返し、聴衆に自分の主張を印象づけるというのは、講演の定石です。大無量寿経の下巻の末尾に再度くり返されている言葉を引用し、親鸞は教行信証で言います。「乃至一念」は、「称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す」、と。
> 願成就文とほとんど同じ文章を引用し、その中の「乃至一念」釈で親鸞は、少なくとも一回でもいいから称名念仏せよと言うわけです。これは何を意味するものでしょう。願成就文の「乃至一念」にも当然、称名念仏せよという意味が込められている。浄土通信はそう論じてきました。
> 願成就文の「乃至一念」に基本的には称名念仏せよという意味が込められているということは、「白道燃ゆ」では考えられないことなのだそうです。真宗の信心正因の教義は、根本から転覆するようなことだと言います。ですから高森氏の主張は親鸞仏教と無関係であると浄土通信は言い続けてきました。


 この渡海氏の破邪に立ち上がったのがM.H.講師です。


> 「十八願成就文の「乃至一念」を、信の一念でなく、行の一念だと釈された、親鸞聖人のお言葉はありますか。(ないでしょう。)だから、あの論には、根拠がなかった。悪かった。撤回する(と言いなさい)」(渡海氏によるM.H.講師の主張の要約です)


 これに対して渡海氏は一念多念文意を出します。


> 「乃至は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり」


 M.H.講師は反論します。


> 「称名念仏の意味は出ていない。一念は極限的な時間を指している」と、浄土文類聚抄を引用します。
> 「乃至一念というは、これさらに観想功徳遍数等の一念をいうに非ず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念というなり」


 渡海氏は解説します。


> 「一念多念文意の「乃至は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり」とは何を意味するのでしょう。乃至は大きく包んでいます。おおきをも、すくなきをもとは、回数を指す言葉です。時間を指すなら、長い短いと言います。多い、少ないというのは、称名念仏を前提にした議論です」
> 「願成就文には、乃至一念という言葉が出てきます。少なくとも一回称えただけでもという意味ですから、当然称名念仏の意味が込められているのです。これが親鸞仏教です」


 更に渡海氏は、


> 「浄土文類聚抄はM.H.氏に読み落としがあります」
> 「浄土文類聚抄は言います。「一念と言うは、すなわちこれ専念、専念すなわち一声、一声すなわちこれ称名、称名すなわちこれ憶念、憶念すなわちこれ正念、正念すなわちこれ正業なり。またないし一念というは観想功徳遍数等の一念をいうに非ず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念というなり、まさに知るべし」
>  つまり乃至一念には、称名の意味もあると説明し、加えて時間の意味もあると言っているのです」


 そして渡海氏は結論します。


> 「親鸞仏教では、信の一念は行の一念、真実の行と真実の信とは一体なのです。親鸞は言います。「この真実の称名と真実の信楽と得たる人は、すなわち正定じゅの位に住せしめんと、ちかいたまえるなり(浄土三経往生文類)」
> 「信心のない念仏行はありますが、念仏を声にするという行のないところに信心はありません。「白道燃ゆ」は、唯信独達という言葉で、行は信心に収まってしまうといいます。南無阿弥陀仏を音声にする念仏行がない信心をうたっています。だから、「白道燃ゆ」は親鸞仏教と無関係だと言うのです。」


 これに対してM.H.講師は何らかの反論をされたのですが、渡海氏は「もはや反論になっていない」と言って、その文章が渡海氏のホームページにアップされることはありませんでした。そこでM.H.講師は「自分が書き込んだ文章については自分に著作権がある」と主張し、公開をやめさせたようです。渡海氏がM.H.講師の文章の著作権を認めたものと思われます。

 この頃のM.H.講師はちび丸ではありませんので、法論は正攻法であったと思います。法論は負けですが、わたしは、M.H.講師の主張の方が、真宗の伝統教学からも正しいのではないのかと思うのですが、清森先生はどう思われますでしょうか。



【回答】


 本願成就文の「乃至一念」は、親鸞聖人は、基本的に「信の一念」で解釈されていますが、法然上人や善導大師は「行の一念」で解釈されています。

 親鸞聖人は、法然上人や善導大師を否定されたのではなく、その説を踏まえられた上で仰っていることだと思いますので、「行の一念」で解釈すること自体が間違いだとは思いません。

 この行信論については、学者の間でも意見が分かれており、私としても責任もって、これが正しい解釈だと断言はできないところです。

 ですから、ここに書くことは、あくまで現時点の私の見解と考えてください。



 なぜ阿弥陀仏に救われた人が、仏になれるか、親鸞聖人は教行信証行巻に、以下のように教えられています。


●他力といふは如来の本願力なり。『論』(論註・下)にいはく、「本願力といふは、大菩薩、法身のなかにして、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもってなり。たとへば、阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。乃至〈菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。〈応知〉といふは、いはく自利によるがゆえにすなはちよく利他す。これ自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなりと知るべし。〈菩薩は第五門に出て回向利益他の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく回向の因をもって教化地の果を証す。もしは因もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。〈応知〉といふは、いはく利他によるがゆへにすなはちよく自利す、これ利他にあたはずしてよく自利するにはあらざるなりと知るべし。〈菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆえに〉と。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもってのゆえに、名づけて仏とす。いま〈即得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。


 このように、他力によって、五門の行(五念門)を実践することによって仏になれると教えられています。称名念仏は、その行の中に含まれます。

 つまり、仏になるには行が必要であり、その行は、阿弥陀仏のお力によってなさしめられる、その力を「他力」と言うのだと仰っています。

 ですから、仏に成るのに「行」は要らないと言われるのは、「自力の行」のことであって、「他力の行」まで不要というわけでなないのです。

 教行信証などを読んでいると、「称名で救われる」という記述が多いことに、親鸞会の方の多くは疑問に思われるでしょうが、そういう理由です。


 本願文に於ける、往生の条件は、三信と乃至十念の両方が挙げられており、十念は称名念仏ですから、他力の行ということになります。その行を往生まで続けることが、乃至十念となります。

 この乃至十念に対応するのが、成就文の乃至一念ですので、善導大師や法然上人が、これを行の一念で解釈されたのは、むしろ自然なことだと思います。


 しかしながら、この「行の一念」には、信心を獲るという大前提があるわけで、信心を獲ずに、どれだけ行に励んでも、自力の行にしかなりません。

 この自力、他力の水際こそが、信の一念であり、乃至一念を説かれた真意であると親鸞聖人は解釈されたのだと拝察いたします。

 つまり、信心を獲ずに、「念仏さえ称えれば仏になれる」との誤解が多かったので、その間違いを正すために、乃至一念の真意は、信の一念であるという説き方をされたのだと思います。


 親鸞会では、信心さえあえば、称名は不要であるという風潮が強いように感じます。M.H.講師と渡海氏の議論の論点も、そこにあるように思います。

 私の記憶では、親鸞会で「乃至十念は、報謝の念仏である。お礼なのだから、有っても無くても良い」と教わりました。

 報謝になることは正しいですが、だからと言って、「お礼だから、無くても良い」という教義はお聖教に見当たりません。

 蓮如上人は五重の義の5番目に名号(称名)を挙げられ、往生の必要条件と教えられています。

 他力の信と、他力の行によって。往生できるというのが浄土真宗の教えであって、他力の信さえあれば他力の行は要らないという教えではありません。

●真実の信心は必ず名号を具す。(教行信証信巻)

と教えられるように、他力の信と、他力の行はセットだと考えれば良いかと思います。他力の行は、他力の信から生まれるので、親鸞聖人は、他力の信を強調して教えられたのです。

質疑応答163

【質問】


随分以前に、投稿として、「高森先生は還相廻向の正しい信心の方である」

との仮説を送らせていただいた者です。

あの時から、私も自分なりに仏法、真宗を勉強しまして、

最近は、高森先生は信心決定していないのではないか、と思うようになりました。

清森様はその点どのようにお考えでしょうか?

よろしくおねがいします。



【回答】


 最近、高森先生が信心決定されているかどうか、問題にする意味がないような気がしてきました。

 親鸞会では、「あの人は獲信している」と言ってはならない、と徹底しているわけですから、「高森先生は獲信されている」と言うことも禁止のはずです。

 親鸞会の人でさえ言わないことを、私たちが問題にする必要は無いように思います。

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