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 清森さん、皆様ご無沙汰しております
 僕は、昨年の夏頃、何回か投稿し、会のいくつかの問題点を箇条書きにしてみなさんの意見をお聞きした者です。
 特に僕としては、病院について多くを知ることとなりました。皆さん、いろいろ教えてくださって有難うございました
 ただ、正本堂の柔道場への転用は笑えないものがありました。みんな結構多額の御報謝されているし、冗談で逆撫ですることもないかなって思いました。
 加えて、最近は、教えについて論争も盛んですが、問題点がより明らかになり、良いことだと思います。
 こういう状況で、僕がこんなことをこの場を借りて言わせて貰うのも、大変気が引けるのですが、敢えて宣言させて下さい

 僕は信心決定しました。阿弥陀仏の本願に救われました。自力が間に合わないと知らされました。疑情が晴れました。いくらでも言いたいのですが、きりが無いのでこのくらいにします。

 信心決定なんて嘘だろうと求道に疲れて、諦めかけているあなた、もったいないですよ。せっかく尊い仏縁があったのに。僕のようなものでさえ救われたのだから、仏縁厚い、日々精進されている皆様が信心決定されないはずは無いと思いますが、あくまで他力の教えですから、人智には及びません。僕も不思議な因縁で救われたとしかいいようがありません。
 親鸞聖人のように多大な影響を与える方もあれば、この世の片隅でただ念仏を喜んでひっそり暮らしている妙好人もあるでしょう。僕はといえば、来るものは拒まず、去るものは追わずのスタンスで生きたいです。今は依頼も無いので、長い間の疲れを癒しています。

 僕は会からも、ここ清森問答からも卒業します。皆様、短い間でしたが、お世話になりました。そして有難うございました。こんな宣言が出来る日がくるなんて思ってもみませんでした。なお個人的に僕に聞きたいと思われる方は清森さんを通してお尋ねください。答えられることは、追ってお返事します。
 教学面はこれから勉強し直そうと思っています。だからご期待に添えないかもしれませんが。求道上の事なら、よく話を聞かせていただいたら、その方が、どのくらい信仰が進んでいるか大体わかり、方向性ならお話できるかもしれません。自分が進んできた道ですからそれは良くわかります。
 僕は人格面等で謗られることは甘んじて受けますが、他力で救われた僕の信心を疑うことは、阿弥陀仏を悲しませます。未信でわからない方は、救われる人もいる位に思っておいてください。お願いします。どうしたら御恩返しが出来るか、なにの何も出来ない、無力な己に日々泣くばかりです。皆様も1日も急ぎ信心決定される事を心より念じています。

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質疑応答168

【質問】


 すでにご存知かとは思いますが、山中君という学生さんが、児玉氏を相手に法論をしているようです。


若不生者の「生」は、なぜ「信楽に生まれる」なのか
http://nyakufushouja.blog115.fc2.com/


 この中で、児玉氏は、

>仏法の質問に答えるのには

>信心沙汰といって

>蓮如上人も直接ひざをつきあわせて

>面とむかって話しをなされました。


このように言って、メールでの返答を拒否しているようですが、このような児玉氏の態度について、清森先生は、どのように思われますでしょうか?



【回答】


 この点につきましては、高森先生が、以下のように書かれています。


(以下、引用)

 最後に「お互い書面では一方通行になると思いますから、今後は面接の上、口頭でお問い願います」と仰有っていられますが、貴殿の御意の理解に苦しみます。
 言葉で話せることが文章に出来ない道理がないからです。言葉で話したことは「言うた」「言わない」という水かけ論になったり、「そんな風に言った覚えはありません」などと逃口上を作るのには重宝ですが、文書だとそのような無責任なことは許されないばかりでなく、何時何時までも、多くの人々に真実を知って頂ける勝縁になりますから、仏意を開顕する為には文書交換が最良の方法だと考えます。逃げることだけに懸命な人を相手に諍論する時などは、特に大切なことだと思いますが如何なものでありましょうか。
 故に、「返事をこれで打ち切らせて頂きます」などと仰有らずに貴殿と私との見解に相異があればある程、仏の正意を開闡する為にお互い微力を捧げようではありせんか。貴殿の奮起を期待して止みません。
 御自愛を念じ上げます。
合掌

昭和四十七年二月九日
高森顕徹
J・A殿

(法戦②、p123~p124)


 この高森先生の教えを基準に考えるならば、児玉さんは、「逃げることだけに懸命な人」ということになるでしょう。
 上記のサイトは、私も読ませて頂きましたが、肝心な質問には一切答えず、返答をはぐらかしてばかりという印象を受けました。

 児玉さん自らが、ブログを作って仏意を開顕しなければならないのに、それもせず、学生がせっかくお膳立てをしてくれたのに、そこからも逃げ出す。
 正直なところ、児玉さんに失望しました。非常に残念です。

質疑応答167

【質問】


ところで質問があるのですが2ちゃんで今日書き込みがあったので他の人が質問されているかもしれませんが、古語の『べし』についてです。古語のべしはたくさんの意味があると私はまったく知らなかったのですが、○○というかなりあたまのおかしそうな人が書きこんでいたのでどうかなとは思うのですが

以下、そのかきこみ



 この問題は、2ちゃんねるの親鸞会スレッドに登場してきたのは、今回が最初ではない。過去幾度も出てきて、その都度僕は回答してきた。またかという感じがする。
 高森仏教は間違いであると主張している人は少なくない。しかし、間違いであるという思いを共通にして2ちゃんねるに常駐している人が、僕のカキコをきちんと読んでくれていない。もし、きちんと読んで伝承してくれていれば、高森仏教の間違いは、もっと早く、多くの人に正しく理解してもらえると思っている。

 「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」。これは、御文二帳目に出てくる。一部の人に言わせると、この言葉が、一切衆生必堕無間を主張している言葉だという。僕には驚天動地の理解である。どうしてここから「一切衆生必堕無間」などという主張が生まれてくるのか、僕には全く理解できない。


 国語辞典を引用しよう。広辞苑である。べし【可し】について。

助動詞  

A 当然の意。 …するのがよい。  …するはずだ。  …しなければならない。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、当然のことながら、絶対に無間地獄に堕在するに違いありません。

B 確実な推量の意。 きっと…するだろう。…するに違いない。 …するらしい。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、きっと、無間地獄に堕在するでしょう。

C 話し手の動作に付いて、意志・決意を表す。必ず…しよう。…するつもりだ。
 この信心を獲得できなければ、私は、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在するつもりです。

D 可能の意。 …することができそうだ。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在する可能性もありますよ。

E 命令の意。…せねばならない。
 この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在しなさい。


 助動詞「べし」は意味が多様だ。意味が多様であるということは、当たり前のことではないか。意味が多様であれば、どの意味で使っているか、総合的に判断するのは当然ではないのか。選択肢はAだけなのか?。どれが正しいのか。選択判断に迷えば、その人が主張している外の言葉を参考にしながら考える。

 蓮如上人の他の書き物を読めば、Aを選択する余地はないと思う。D以外の意味を選択する余地は絶対にない。当たり前だろう。僕のこの考えに反対の人がいるなら、申し出て欲しい。

 もしこの信心を獲得できなければ、来世では天に生まれるかも知れません。再び人に生まれるかもしれない。阿修羅・畜生・餓鬼・地獄に生まれるかもしれません。最悪の場合には、無間地獄に堕ちる可能性も否定できないんですよ。人は六道を輪廻していますからね。
 天に生まれれば幸いかも知れないが、無間地獄に堕ちるようなことになれば、大きな不幸です。信心がなければ、極楽に生まれることは決してありません。さあ、一緒に信心を求めようではないですか。これが蓮如の意思です。

 「べし」の意味を誤読しているのは、高森さんの故意か無知か知らない。誤読の源流が大沼法龍にあれば、大沼法龍の嘘か勘違いを、高森さんが勘違いのまま継承しているんだろう。
 無知・勘違い・誤解に基づく攻撃によって、火だるまになった勧学が本願寺にもいたというからノータリンの底深さにはあきれかえるばかりだ。
 僕は直接聞いたことはないから知らんが、大沼・高森の毒気は相当のものらしい。この毒に一度かかるとなかなか治癒しない。蓮如上人まで秘事法門の元祖になって、話が脱線していく人などは、今でも大沼・高森さんが仕掛けたマインドコントロールのど真ん中にいるんだろうと思う。



この事について清森さんはどのようにお考えでしょうか。学問的に成立するのでしょうか?ご文章2帖のお言葉は『この信心を獲得できなければ、極楽には往生しないで、無間地獄に堕在する可能性もありますよ。』という意味だというのがこの人の主張のようです。

以上、よろしくお願いいたします。



【回答】


 このような観点で考えたことがありませんでしたので、目からウロコが落ちる思いがしました。

 私の手元にある「古語辞典(旺文社)」には、以下のように書いてあります。


●べし

①推量の意を表す。
 ア、ある事の起こることを予想する
 イ、ある程度確実な推測を表す
②予定の意を表す。
③当然の意を表す。
④適当の意を表す。
⑤可能、または可能性を推定する意を表す。
⑥強い勧誘・押しつけの意を表す。
⑦意思を表す。
⑧必要、義務の意を表す。


 私は、古文法については専門に勉強したことがありませんので、文法的にどれが正しいということは分かりません。

 しかし、釈尊・七高僧・親鸞聖人は、必堕無間とは教えられず、信心決定せずに死ねば、六道輪廻すると教えられています。

 例えば、善導大師は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と深信す、と説かれています。

 常に流転とは、六道輪廻のことです。

 また、親鸞聖人は「もしまた、この度、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また曠劫を径歴せん。」と仰っています。

 曠劫を径歴するとは、六道輪廻のことです。


 蓮如上人のお言葉は、文法的には色々と解釈できるようですが、やはり、釈尊・七高僧・親鸞聖人の教えに沿って解釈をするのが筋だと思います。

親鸞会教義の相対化・78(投稿)

親鸞会教義の相対化・78(投稿)


清森義行様



 今回は「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)について、通仏教的な立場から解説してみたいと思います。(※注)


【1】「プラサーダ」(信楽)の対象は様々

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではありません。

その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれていますし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められています。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではありません。したがって、ある人が「プラサーダ」を起こした際に、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となるのです。



【2】「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)


 これに関連して、サンスクリット文『無量寿経』願成就文を見ますと、

※親鸞会教義の相対化・21(投稿3)参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-76.html

●ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられています。

ここで大切はポイントとなるのは、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

ということです。

 既に述べたように、プラサーダの対象は様々であり、舎利弗や目連に対してプラサーダを起こしても、「住不退転」(正定聚)になることはありません。あくまでも阿弥陀仏の本願に対してプラサーダを起こした人が「住不退転」(正定聚)になるのです。


【3】阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、どうして「住不退転」(正定聚)になるのか?

 これはもちろん阿弥陀仏の力によってですが、

★「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、極楽浄土に往生することが確定することによって、現世で「住不退転」(正定聚)になる。

ということが非常に大切なポイントになります。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。『尊号真像銘文』(1)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。『尊号真像銘文』(10)

と親鸞聖人が述べられているように、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われています。

 この阿弥陀仏の本願が実現しているから、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」というシステムが完成しており、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が極楽浄土に往生することができます。

 そして、このようなシステムが阿弥陀仏によって完成されているので、

●必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻

というように、「仏願の生起本末」つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、その願が成就して現に衆生を救済しているということを、「聞きて疑心あることなし」になり「本願力回向の信心」(プラサーダ)を起こしたならば、極楽浄土に往生することが確定します。
 そして、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、現在この身に「正定聚に入る益」があるのです。


【4】まとめ

いろいろ述べましたので、まとめておきます。

1,「プラサーダ」(信楽)の対象は様々である。
2,「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。
3,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。
4,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になるのは、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われ、そのシステムが完成しているからである。
5,つまり現在この身に「正定聚に入る益」があるのは、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こし、将来間違いなく極楽浄土に往生することが確定するからである。


※注

「プラサーダ」に関しては、清森問答においても何度か取り上げられております。

~~おうさんのコメントより~~
中村元著「東洋人の思惟方法」第一部一八九頁

「仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からprasadaと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。従ってちょうどprasadaに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。……」


~~親鸞会教義の相対化・24~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html
 先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

 現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


~~親鸞会教義の相対化・30~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
===================================

 なお、kkhate(=kkk)さんご自身が、プラサーダ(浄らかな信)を得ていないと仰っておられたので、

>今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

とアドバイスさせて頂きました。


以上

親鸞会教義の相対化・77(投稿)

清森義行様



 以下のものに関して私見を述べさせて頂きます。

★『法戦5』(浄土真宗親鸞会)pp.111-127.第5章
・相手浄土宗僧侶・伊藤信道
・邪義「体失不体失往生の諍論は歴史的事実ではない」
「善恵房証空は、『救いは死後』とは説いていない」

 伊藤氏は、アニメビデオ二巻における所謂「体失不体失往生の諍論」の場面に関して、以下の質問と抗議をされています。

~~以下引用~~
さて、これは、歴史上の事実かどうか、お尋ねします。また、これは真実かどうかお尋ねします。
おそらく、覚如の「口伝鈔」を用いられたのであろうと推測するのですが、このビデオを製作する根拠として、これが正しいものかどうか、検討されたのでしょうか?
続いて、証空上人が、救いは死後にあるということは、どこにも仰有ってられません。
「平生業成」「機法一体」など、重要な言葉は、いずれも証空上人の念仏思想から生まれたものでありますから、救いが死後などということは、絶対にありません。正しくないことを、このように一般に向かって伝えられることに、抗議いたします。
(pp.112-113)
~~以上引用~~

 私も清森問答で何度かこの話題を取り上げておりますが(注1)、この方の指摘は極めて妥当なものであり、アニメ制作者は誠実に対応する義務があると思います。

 しかし、親鸞聖人映画製作委員会の解答は以下のようなものでした。

~~以下引用~~
御抗議、確と受け取りました。
歴史上の事実であり、真実であることを、十分検討してあります。
証空上人が、どこに、いつ救われるとどのように、仰有っておられるか。
お手数ながら、根拠をご教示下さい。
(p.113)
~~以上引用~~

 このように、「歴史上の事実であり、真実である」根拠は全く示すことはなく、質問に対して質問で答えるという論点のすり替えを行っております。
 そして「生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん」という証空上人の歌を紹介し、「不審ならば、西山上人の全集など資料を見て下さい」と更に抗議する伊藤氏の指摘を無視し、証空上人の言葉を一つも挙げないまま手紙のやり取りを行っております。
 そして手紙のやり取りは、以下の親鸞聖人映画製作委員会の返信で終わっております。

~~以下引用~~
気を見て森を見ず、森を見て山を見ず、と言われます。今、問題の山は、証空上人が、不体失往生を主張されたか、否かの歴史的事実なのです。
三世十方を貫く仏法の信奉者は、昔も今も変わらぬ事実を尊重します。証空上人が、不体失往生を説かなかったという歴史的事実は、八百年後の今日、不体失往生を説かない証空上人の信奉者によっても証明させている、これこそが最も重大な歴史的事実なのです。
証空上人が、全く完全にこれっぽっちも、不体失往生も体失往生も教えなかったとしたら、弥陀の本願を一切信ぜず、説きもしなかった人、それが証空上人となります。
無論、法然上人の弟子などと言えるものではありません。当然、親鸞聖人の破邪の対象になったのは必然です。くどく木にしがみつくと、ますます、森も見えず、山も見ることができませんよ。決して仏法者は、現象に囚われて、事の本質を見失ってはなりません。
証空上人の不体失往生を説かれた言葉があれば、お聞かせ下さい。
何年後でも結構です。
(pp.126-127)
~~以上引用~~

 この後、伊藤氏からの返信はないようですが、恐らく、あまりにも不誠実で会話が成立しない相手なので、呆れて返信するのをやめてしまったのだと思います。
 しかし、既に私が資料を挙げて論証しているように、証空上人が現世での救いをお説きになられていることは「歴史上の事実であり、真実である」ことであり、伊藤氏への対応が極めて不当なものであったことは明かです。

 なお、これは平成六年になされたやり取りで、この本が出版されたのは平成九年です。十年以上たった現在でも、親鸞会という組織には自浄作用というものが全く働いておらず、チューリップ企画が更なる教義上の脱線を行っていることは、清森問答をご覧の皆様もよくご存じの通りです(注2)。


(注1)

以下のサイトを参照。

★親鸞会教義の相対化・1(質疑応答33)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-35.html

これは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。


★親鸞会教義の相対化・26
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-85.html

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。


★親鸞会教義の相対化・30
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


(注2)

以下のサイトを参照。

★チューリップ企画サイト「徹底検証親鸞聖人の教え」
http://shinjin.info/

★苦笑の独り言ツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-category-3.html



(追記)

「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」とチューリップ企画製作のビデオが間違った記述をしていることを指摘しているビラを愛知県内で入手したことが、本書で書かれています。
十年以上も前に間違いを指摘されているにも関わらず、全く間違いを間違いと認識しておらず、最近、田中氏によって再度指摘を受けても全く間違いを改めない。
このような姿勢は、仏法者としても企業としても、極めて不当なものであると改めて感じました。

親鸞会教義の相対化・65参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html


以上

質疑応答166

【質問】


三願転入しなければ救われないと、今まで高森先生からお聞きしてきましたが、

大無量寿経には確かに19願・20願・18願と、三願は誓われていますが、
この三願を聞いただけでは「三願転入しなければ救われない」
と書かれているご文はみつけられませんでした。

「三願転入しなければ救われない」というのは、お経のどこに根拠があるのでしょうか?



【回答】


 三願転入しなければ救われない、ということが、お経のどこかに書かれているとは、お聞きしたことがないので、分かりません。

 一般の仏教書を読んでも、余り触れられていないように感じます。

 あえて、三願転入に当たる部分はどこかと言われるのであれば、例えば往観偈(真宗聖典p70~p80)が挙げられると思います。

『曽更て世尊を見しもの、則ち能く此の事を信ず』(十九願)
『宿世に諸仏を見しもの、是の如きの諸仏の教を楽聴せん』(二十願)
『法を聞きて能く忘れず、見て敬い得て大いに慶ばは』(十八願)

 十九願は世尊すなわち、釈尊の受け持ち、二十願は諸仏の受け持ち、十八願は阿弥陀仏の受け持ちですので、三願転入の御心と味わえます。


 また、真宗聖典p80には、勧信誡疑というところがあります。

 まず十九願の御心として、三毒訓戒、五悪訓戒が教えられ、その後、二十願の御心として、疑惑訓戒が示されていると考えられます。十九願は煩悩が問題となり、二十願は疑惑が問題になります。

 親鸞聖人は、大無量寿経の下巻に衆生往生の因果が教えられている、と教行信証行巻に仰言っておられます。そういう意味では、下巻全体が三願転入の御心と言えるのではないでしょうか。

質疑応答165

【質問】


「さよなら親鸞会」というサイトのコメント欄に「ユーチューブで親鸞会をやめる者には一千万円の違約金を課す」という情報が書き込んでありました。
この話は事実でしょうか?携帯しかないのでユーチューブで確認する事ができません。事実ならば誰が誰に対して、このような発言をされたのでしょうか?
コメント欄にも書き込んで質問したのですが、清森さんなら詳しい事情をご存じではないかと思いメールさせて頂きました。
お忙しいとは思いますが、事実であれば余りにも理不尽な発言だと思い質問させて頂きました。
ちなみに私は今年いろいろ親鸞会に不審があり辞めさせて頂いた元会員です。突然のメールで恐縮ですが、お答え頂ければ幸いです。
もし、この話が事実であるならば、問題発言だと思うので清森問答でも取り上げて頂きたいと思います。年末でお忙しいとは思いますがよろしくお願いします。



【回答】


 ユーチューブで、直接、聞いてみましたが、講師部の会合を誰かが録音したもののようでした。

 その中で、以下の内容が発表されています。これは講師部に対するものであって、会員に対するものではありません。

_________________________________________________________________

私は生涯講師部の道を貫きます。

私は講師部員として知り得た情報は一切漏洩いたしません。

私はやむを得ない理由で退く時は必ず2ヶ月前に御承認を得てからにいたします。

私は退部する時は違約金1000万円を納入します。

私は如何なる場合でも親鸞会の和合を乱す言動はいたしません。

上記誓約は自主的なものであって強要されたものではありません。
違約した場合はいかなる処罰も受けます。
_________________________________________________________________


 この内容は、まだ案の段階のようですが、講師部員が、親鸞会に対して、講師部を退部する際には、一千万円の違約金を払うという誓約のようです。

 おそらく、この誓約書は高森先生の指示で作成されたものだと思われます。講師部時代、私も過去に多くの誓約書を書いてきましたが、高森先生の知らないところで作られた誓約書は一つもありませんでした。

 会合の中では、吉村総長が、誓約書を作成された高森先生の御心を説明し、渡部さん、児玉さんが意見を述べられているようです。

 3人とも、よく知っていますが、御本人の声と考えて間違いないと思います。

 
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