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質疑応答171

【質問】


「さよなら親鸞会」のコメント欄に収支報告をして欲しい事と、領収書の単位がなぜ『福』なのか?分かりづらいので『円』に変えてほしいと書き込まれていました。親鸞会は収支報告ができない理由、領収書の単位が『福』でないと困る理由があるのでしょうか?清森さんはどう思われますか?



【回答】


 領収証の単位が、「福」に変わった理由については、特に発表されていませんので分かりません。しかし、「福」に変わる少し前に、亡くなった会員さんの遺族が、多額の御報謝の領収証を発見し、親鸞会に返還を請求してくるという事件がありました。当時は、「お預かり証」という名称だったため、貸したお金と見なされて、ますます話が複雑になったようです(結果的に返したかどうか分かりません)。
 ですから、推測になりますが、家族・遺族などに見られたときに、親鸞会に幾ら御報謝したか分からなくする為ではないでしょうか。

 収支報告についても、7~8年前に、突然打ち切られてしまったので、理由は分かりません。最近は、不可解な御報謝の募り方(例えば駐車場整備に5億とか)が多いので、何か隠しているのではないかと疑われても仕方ないと思います。

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質疑応答170

【質問】


はじめまして。私は某W大学の者です。

今まで、講師の先生に、ネットは悪縁だから見てはならない、と言われてきましたが、
先日どうしても本会のことで納得のいかないことがあり、
愚痴の心にまかせてついインターネットで親鸞会を検索し、
こちらの清森問答にたどりつきました。

個人情報が漏洩するのは怖いので、名前を明らかにすることはできませんが、
質問させていただきたいことがあり、メールさせていただきました。

W大学では、メールマガジン顕正というものに力を入れています。
一昨年、W大学では、一年間で約25人の学生を入会顕正したのですが、
三分の一は新勧の時期にご縁を結んだ人、
三分の一は後期顕正でATした人、
そして最後の三分の一はメールマガジンをきっかけに部室に来た人でした。
なのでメルマガはとても重要な顕正の武器です。

では、質問に移りますが、先日W大学の学徒の方が、
このようなメールマガジンを配信されました。
これについて、どう思われるか、清森氏の意見をお聞かせください。

以下、引用です。

*****

■ ドイツの老人が、戦時中ヒトラー・ユーゲントの少年兵の一員として隠れ家に潜むユダヤ人を捜査し、強制収容所に連行する任務に就いていたことを深く懺悔する場面があった。

「どうしてあんな任務に一生懸命に、ひたむきになってしまったんだろう。なぜ躊躇しなかったんだろう。」と悔恨の涙を流していた。

そんな任務に向かって ひたむきに、一生懸命生きたところで何も良いこととは言われない。


問題は【~に向かって】。
それがまず鮮明になって、しかる後に【一生懸命、ひたむきに】が順番だろう。

「向上しなさい」と、よく言われる。

しかし考えてみると、「向上とは上を見る」と書くが「上」とはどこだろう。

社長か、大臣か?

「上」とは何か、よく吟味なされての発言か。

「前向きになりなさい。」とも言われる。

では「前」とはどちらだろう。

そこが曖昧模糊としていて、真に前向きになれるはずがなかろう。


「なぜ生きるのか」「どこに向かって生きるのか」

全人類の忘れ物といえよう。


上記のようなテーマに強く惹かれる人には、聞いて損のない内容だと思いますので、ご期待下さい。

*****

引用は以上です。

要約すれば、どう生きるよりも、なぜ生きるという人生の方向性が大事という文章に思いますが、
冒頭の、ナチスの組織の人間が、ユダヤ人を虐殺した話、
とんでもない恐ろしい任務を、これが正しいことなんだと信じて、一生懸命取り組んだとありますが、
親鸞会の講師の方も、同じような状況なのかどうか、教えていただきたく思います。

よろしくおねがいします。




【回答】


 親鸞会では、誰かを強制連行したり、虐殺するということは行われていませんので、ナチスと同じだとは思いません。

 しかし、間違ったことを正しいと思い込んで、一生懸命取り組んでいたという点については、思い当たることがたくさんあります。


 私が親鸞会の講師を志したのは、本当の親鸞聖人の御教えを聞き求め、皆さんにもお伝えするためでした。

 ところが親鸞会の教えは、根本的なところで、親鸞聖人の教えと異なっています。これについては、清森問答でも何回も取り上げてきた通りです。


 活動のやり方についても、今思えば、おかしなことばかりでした。

 自分が身分を偽って学生を勧誘するだけでなく、学生にも、嘘の大学名を言って、勧誘に行った大学の先輩のフリをするよう指導してきました。

 親鸞会で聞いていることを、家族に隠すようにとか、自宅生であれば、聴聞や活動に行くときに、嘘の目的を言うような指導もしてきました。

 これらは、私の担当地域だけでなく、全国の学生部で、一般に行われていたことです。その結果、嘘をつくことに耐えられず、精神的に病んでしまったという声も聞きました。


 最近、親鸞会の元会員の方と接する機会が多くなりましたが、多くの方の人生を狂わせてしまったと思います。

 経典にも無い、親鸞聖人の御教えにも無い「必堕無間」という教義を叩き込んでしまった結果、親鸞会を辞めても、精神的に追い込まれたままの人は沢山います。

 仕事や生き甲斐に対する間違った無常観を植えつけてしまった結果、やりたい事が見つからず、無意味感に苦しみながら生きている人も少なくありません。


 今は喜んで聞いておられる方でも、これからはどうでしょうか?

 高森先生が無二の善知識だと徹底してきたわけですから、高森先生が亡くなられたら、もう助からないということになります。

 その時に、発狂する人が多数出るのではないかと、本当に心配です。


 そういう精神状態に追い込んでしまったのは、他でもない私です。

「どうしてあんな任務に一生懸命に、ひたむきになってしまったんだろう。なぜ躊躇しなかったんだろう。」というドイツの老人の気持ちは、よく分かります。


 しかし幸い、私は年老いる前に、気づくことが出来ました。

 過去を取り戻すことは出来ませんが、間違った教えによって苦しんでいる人を、1人でも救済してゆくことが、これからの私の使命ではないかと思っています。

どう思われますか?

 親鸞会の行く末が案じられる出来事がありましたので、質問に対する回答ではありませんが、こちらに書かせて頂きます。(外部からの投稿ではないので、質疑応答に分類しておきます)

          *          *          *


 昨年、ある会員さん(Aさんとします)に送った葉書が、全て私のところに返送されてきました。

 その葉書には、「受取拒否」と書かれた紙が貼られており、さらに、Aさんの印鑑も押されていました。

 ご存知の方もあるかも知れませんが、郵便物に「受取拒否」の旨を書き、捺印をして郵便局に持ってゆけば、差出人に返送してもらえます。



 さらにAさんからは、絶縁状とも言える内容の葉書が届きました。私は「Aさんはこんな筆跡だったろうか?」と一瞬思いましたが、まさか偽造とは思わず、Aさんとの連絡を一切絶ちました。

 しかし、最近になって、Aさんには受取拒否の意思もなく、絶縁状も出していなかったことが分かったのです。

 以下は、Aさんが言われていたことです。



 Aさんは、担当支部長である野尻真紀講師を、家庭御法話に招いておられます。その時、野尻講師から、清森からの葉書が来ていないかと尋ねられました。

 Aさんが「来ていますよ」と答えると、上からの指示なので貸して欲しいと言われました。Aさんは、悪いものではないことを分かってもらいたいと思い、葉書を野尻講師に渡しました。


 さらに、野尻講師から、印鑑を貸してほしいと言われました。そして、白い紙に印鑑を押すように言われました。

 Aさんは、何のために押すのか不思議に思いましたが、講師の言うことなので信用して押しました。



 その後、私からの葉書が全く来なくなり、非常に寂しく思っておられたそうです。その原因が、「受取拒否」と「絶縁状」にあることを知られ、大変驚かれました。

 自分の押した印鑑によって、そのようなものが勝手に作成されるとは、夢にも思っておられなかったそうです。絶縁状についても、「絶対に書いていない」と涙ながらに訴えられました。

 絶縁状は誰が書いたものか分かりませんが、少なくとも「受取拒否」については、野尻講師か、その上司によって作成されたものと考えて間違いないでしょう。



 Aさんは、大変立腹しておられます。

 無視してよい問題ではないと思い、弁護士の見解を尋ねたところ、これが事実であるとすれば、『勝手に受け取り拒否の書類などを作成して、郵便局に本人の許可無く提出されているので、私文書偽造になってくるかと思われます。』とのことでした。


 ちなみに、「私文書偽造行使等の罪」について調べますと、

『行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、三月以上五年以下の懲役に処する(刑法159条1項)。 』

と規定されています。

 つまり、刑務所に行かねばならないほどの犯罪行為だということです。



 私もAさんも、決して野尻講師に刑務所に入ってほしいなどとは思っていません。もし野尻講師が、勝手に受け取り拒否の書類を作っていたとしても、上からの指示でしょう。

 現に、原田講平支部の会員さんからも、浅井端子支部の会員さんからも(いずれも当時)、数十枚の葉書が、「受取拒否」として戻ってきています。

 これらの方々は、自発的に、自分の意思で「受取拒否」の葉書を出してこられたのでしょうか?

 組織的に行われていることは明らかです。



 親鸞会の組織は、仏法を伝えるための組織なのでしょうか?

 それとも、犯罪行為をさせるための組織なのでしょうか?



 今思えば、私自身、身分を偽って大学構内に侵入し、宗教団体であることを隠して学生の勧誘をしていたことも、違法行為だったと思います。

 それによって、迷惑をかけた方々には、どれだけお詫びしても過ぎることはないと思います。

 しかし、言い訳するつもりではありませんが、中にいるときは、感覚が完全に麻痺してしまっていました。


 これから、親鸞会がどのような方向に進んでゆくのか、本当に心配です。

質疑応答169

【質問】


 二河白道についての質問です。
 三定死について、親鸞会の高森先生は行者が一進一退しながら白道を進んでいると、火の河と水の河の波がいよいよ荒れ狂い、これ以上前にも進めない、後退もできな い、止まることもできない、その時が三定死と解釈されています。
 これに対して本願寺では白道に一歩、足を踏み出す時は、すでに弥陀の呼び声が届いたときで、したがって三定死は此岸にいる時と教えています。

 二河白道の三定死について親鸞会と本願寺、どちらが正しい解釈なのか教えて頂きたいと思います。



【回答】


 原文を読めば分かられると思いますが、弥陀の呼び声を聞いてから、白道を進むと描かれています。ですから三定死は此岸です。


 晩年にお書きなされた愚禿鈔にも、

●「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

と仰言っています。

 ここで、親鸞聖人は白道を、「白」と「道」に分けて教えておられます。

・「白」→「黒に対す」=「六度万行、定散」(修善)
・「道」→「路に対す」=「自力小善では無い」(他力)

「道」という字は、「路(自力)」に対して使われていますから、信前ということはありえません。

投稿

以下、最近退会された方が、担当の支部長に送られたメールです。
投稿としての依頼がありましたので、紹介させて頂きます。

      *      *      *

B(支部長)様

こんにちは、Lです。

今回は、お伝えしたい事がありメール致しました。

会費についてですが、Bさんには色々配慮を頂き、
本当に感謝していました。私は今まで縁のあった講師の
方々の中に、人間味を感じるような尊敬できる人は
あまりいませんでしたが、


Bさんには、他の講師にはない優しさを、
その言葉や態度から感じ、

「あぁ、このような人を仏法者と言うのだろうな」

と心から思いました。ですから、
会費も頑張って早めに納めていこうと考えていたのですが、

しかし、

ある事が原因で、納める気持ちがなくなってしまいました。

Bさん個人は、私は好きですし、人間味もある素晴らしい
仏法者だと思うので、そんなBさんに、こんな事を
申し上げるのは本当に心苦しいのですが、今の率直な気持ちなのです。


と申しますのも、実は親鸞会の実情を、
インターネットで知りました。


インターネット情報が「事実」に基づくものなのかを、
関係する人たちに聞いてみたところ、

残念ながら事実と分かったからです。


よく「ネットに書かれていることは悪意に満ちた捏造で、
読んでも求道のマイナスになるだけだから読むな」と
指示する人がいますが、

よくよく事実関係を知ると、ネット情報で、本会の
実態を知られるとまずいので、本当の事を隠す為に
「ネットを見るな」と指示しているのだと思いました。

どのような情報を知ったかについては以下に、
書いていきますが、まず結論から申しますと、


私は親鸞会を退会したいと思います。


よく、「退会します」という人に対して
「あなたは人生の目的を放棄したのですか!」
と講師部員が言うようですが、


親鸞会を辞める事が「人生の目的を放棄する事」になるには、
以下の3つが大前提になります。

----------------------
(1)親鸞会(=高森先生)が教えている内容が
   真実の仏教である。
(2)親鸞会(=高森先生)のやっていることが
   真実の仏教に適った行動である。
(3)親鸞会(=高森先生)しか、
   真実の仏教を説いているところはない。
----------------------

この3つがこの通りであれば、親鸞会を辞める事は
確かに「人生の目的を放棄した事」になると思います。

しかし、

この3つのどれか一つでも、反するものがあれば、
親鸞会に残る事こそ「人生の目的を放棄する事」になります。

この論理はB講師なら当然お分かりになると思います。

そしてBさんは、
上記3つの大前提が成り立つと思うからこそ、
Vさんが退会を申し出た時も

「人生の目的を放棄するんですか?」

とVさんに言ったのだと思います。
これはVさんが退会した事を最近知り、私から
電話をかけて聞いたことです。

Bさんは親鸞会の講師部員ですから、
このように言うのも私は充分理解できます。


しかし、私は上記3つの大前提が、いずれも成り立たない
事が分かったので、人生の目的を放棄しない為には、
親鸞会を離れねばならないと思ったのです。


まず、親鸞会が正しく仏教を説いている団体かを判断するには
今現在、親鸞会がやっている行動を見れば明らかになります。

なぜなら仏教の根幹、因果の道理からして、

「今の結果(本会の教えに基づいてとった、本会の行動)」
を見れば
「原因(本会の行動の基になった、本会の教え)」
を知る事になるからです。

この検証の仕方で上記の大前提(1)(2)が正しいかどうか
知ることが出来ます。

つまり、「本会の行動」が仏法に反するような行動であれば、
それはそのまま、
「本会で説いている教え」は正しいとは言えない教え
ということになるからです。
教えに従った行動をとるのが本会ですから当然です。

この論理も、Bさんならお分かりになると思います。

(1)(2)が崩れれば(3)も自然と
崩れます。

まず私が抱いた不審点を思いつくまま大雑把に述べますと、

==========================================================

・局長の不倫疑惑事件とその事後処理の不可解さ

・報恩講や降誕会間近になると法話に誘ってくるのに、
 それが過ぎると全然法施をしようとコンタクト
 を取ってこない講師部員の姿勢

・「会費関係や御報謝がつのられた時だけ」電話をかけてきて、
 「教えを伝える為だけ」に電話をかけて来たことがない講師の姿勢。

・本会のお金の流れの不透明さ

・聞法ドメイン事業の不可解さ

・顕真学院だったら厳しく注意を受けるであろう非常識な言動を
 してでも、本会の指示を貫く講師の異常さ

・親鸞聖人の教えをそのまま、本会の指針とするのではなく、
 お聖教の中で本会に都合のいいお言葉のみを、親鸞聖人の教え
 としてしまう偏った姿勢。

・大沼法竜氏の著書を盗作した「光に向かって」を
 「100の花束」として高森先生の著作として世に販売
 してしまったのは、著作権法違反ではないかという疑問

==========================================================

等々、他にも教義的な不審点がいくつもあります。
例えば「機相と信相」の話も、矛盾点を感じています。

「何を根も葉もない事を言うのだ」

と思うかもしれませんが、

これには根拠がありますから、以下に紹介しますので
まずはその根拠となる情報をご覧になって下さい。

私が抱いた不審の理由は、以下のサイトを
ご覧になればお分かり頂けるので、確認して頂きたく思います。

---------------------------------------------------
【▲▲講師が夜中の3時に退会者の家に集団で
 おしかける非常識な言動を録音した音声】

親鸞会が夜中に脱会者の家に押しかける
⇒ http://jp.youtube.com/watch?v=7YOzsFg2ZQk

--------------------------------------------------
【局長の不倫相手(H講師)の夫(R講師)の
 お父様が書かれた、高森先生とのお手紙のやり取り等】

「捏造」と捏造された不倫事件の真実
⇒ http://blog.goo.ne.jp/furins/

---------------------------------------------------
【親鸞会の問題点を明らかにしたサイト】

さよなら親鸞会
⇒ http://sayonara1929.txt-nifty.com/

---------------------------------------------------
【本会内部の実態について】

私の白道 (元講師)
⇒ http://byakudo.exblog.jp/

---------------------------------------------------
【本会の教義的な問題点について】

清森問答(清森 元講師)
⇒ http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

---------------------------------------------------
【高森先生の著書の殆どが大沼法龍の著書の盗作である根拠】

高森顕徹氏の著書のルーツ
⇒ http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/index_pkr.html

---------------------------------------------------
【上記を裏付ける大沼法竜氏の著書の内容】

大沼法龍師の言葉
⇒ http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu
---------------------------------------------------

これらの記事内容が事実かどうか確かめるために、
実際に連絡を取り直接電話で確認しましたところ、
「事実」という事が分かりました。

本会がこのようなおかしな行動ばかりしているのが事実
という事は、

自ずと、説いている内容も正しい仏教ではないのだと
断ぜざるを得ません。先ほど書いたとおりです。

また事実、教義的な問題があることも、上記サイトを読めば
ご理解頂けると思います。


一つ断っておきますが、私はそれらの方々に言いくるめ
られたり、ウソを吹き込まれたりしたのではありません。

当然ですが、退会したVさんから何かを吹き込まれた
ということも全くありません。(Vさんは無関係です)


たとえば大沼法竜氏の著作を本当に高森先生が盗作したのか
を知るには、大沼さんの著書を見れば良いだけです。
何も言いくるめられたりウソを吹き込まれる余地がありません。

誰かに何かを吹き込まれて無理やり退会する気持ちに
させられたのではないのです。

情報の事実確認をし、最終的に自分の判断で退会を決めた
ということなのです。

本当は、不倫疑惑事件や本会の不透明なお金の流れや
教義的な問題点など、言いたい事は多々ありますが、
メールが長くなりますし、上記のサイト内容を知るだけで
充分足りると判断したので、あえて今回書きません。

ますは上記サイトを確認してください。

それでも「自分の言葉で不審点を述べよ」ともし仰るので
あれば、不倫疑惑事件や教義的な不審について書きますが、

それを読んでBさんが納得するには、
直接記事を書いた本人たちにコンタクトをとって事実確認
するしかありません。それができますでしょうか。

局長とHさんに、不倫の事実確認をしたり、
高森先生に「なぜ捏造ということにしたのか」を確認したり
清森さん等に、「なぜこんなことを書くのか」確認したり
している時間があったら、

一人でも多くの人に法施した方が良いと思うのです。
お互い、時間を大切にしたいものです。


長くなりましたが、


唯一つ言いたいのは、私が提示した「3つの大前提」全てが、
成り立たないものだと納得したから私は退会を決意した
という事です。客観的に情報を分析した自分の判断です。

最初に申しましたように、

私は、講師部員の中でもBさんは、仏法者としても
人間的にも尊敬できる人間味のある方だと感じています。
色々配慮いただいたBさんにこのようなメールを
お送りするのは本当に心苦しいです。

しかし、もう私の思いは変わらないのです。
どうかご理解いただきたく思います。

退会させて下さい。退会が認められたら正御本尊は
郵送でお返し致しますのでご安心ください。

尚、直接お会いしたり、電話で話したりする気分になれません。
Bさん個人への恨みや嫌悪感は全くないのですが、
本会への不審で、本会とはもう関わりたくないという思いだからです。

「悪を好まん人には慎みて遠ざかれ。近づくべからず」
とも教えられていますので。どうかご理解ください。
(Bさんが悪い人という意味ではありませんから)

ですのでお返事はメールで頂きたく思います。

今週中に返信いただければと思います。
それでは宜しくお願い致します。

今までお世話になり有難うございました。
寒い日が続いておりますので、お体くれぐれもご自愛下さいませ。

親鸞会教義の相対化・80(投稿)

清森義行様



 前回、私が書いた文章を読まれた自称デカ丸(ご本人も認められているように、実際はちび丸)氏が、以下の記事をお書きになっておりました。


※前回の私の文章
親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html

※自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事
法然上人の善のすすめ(これが断章主義?)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23340202.html



====以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====
「法然上人の善のすすめ」を書きましたところ
『善にもすすむべき事』というお言葉だけでは断章主義であるとのお叱りを受けました。
理由はわかりませんが、一緒にあげた御文はあえて無視されたようですので再掲しておきます。
どのお言葉も全文をアップはできませんので御不審な方は原書をお読みください。
====以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====

 とのことですので、以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章にコメントを加えさせて頂きます。


※自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章は、読みにくい改行を消去した以外は原則そのまま掲載しております。


【1】

「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」
とこそは釈し給ひたれ。
又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)


★コメント★

 この引用では、この文章がいかなるコンテキスト(文脈)で語られたものであるかがわからないために、この文章の持つ意味を誤って受け取る可能性があります。
 既に述べたことなので繰り返しませんが、前回の私の文章をもう一度読んで頂きたいものです。

親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html



【2】
「持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、たへたらんにしたがいてたもち候べく候。孝養の行も仏の本願にあらず。たへんにしたがいて、つとめさせおはしますべく候。」
(熊谷直実入道蓮生へつかわすお返事)


★コメント★

●また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

(訳)
 女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

・持戒の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り守るべき
・孝養の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り勤めるべき

という意味ですね。

それはそれでいいのですが、この文章の直前に書かれている部分がもっと重要です。


●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。


「持戒の行」「孝養の行」が、「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、極楽浄土へ往生することを欣求する人にとって「念仏」が最優先に行わなければならないことであることは明かです。

 法然上人が極楽浄土へ往生することを欣求する人に最優先で「念仏」を勧められたことが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏にとって都合が悪いのかどうかは不明ですが、この引用でもコンテキスト(文脈)を無視した「断章主義」が行われていると私は思います。

 ちなみにこのお手紙は、嵯峨清涼寺に法然上人の真筆が残されております。文献学的な見地からもこの資料の持つ意義は非常に高いものとなっております。



【3】

念仏の行者四修の法を行用すべき文。
善導の『往生礼讃』にいはく、「また四修の法を勧行す。何者をか四となす。
一には恭敬修。乃至。
教とは『弥陀経』等を五色の袋に盛れて、みづから読み他を教へよ。(選択集)


★コメント★

これに関しては、以下の記事を読んで頂けば十分だと思います。

ツッコミ番外編(3)名義詐称野郎にツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-169.html

~~上記から引用~~
四修の解釈は第一に善導大師の『往生礼讚』に従うべきだと思うけど、

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける
~~上記から引用~~

これも『選択集』のコンテキストを無視した「断章取義」であると言わざるを得ませんね。



【4】

いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、
ただ韋提および仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、
証して〈生ずることを得〉とのたまふ。(観経疏)


★コメント★

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っています。


 そして、善導大師『観経疏』において、この言葉を以下のように解釈され、その解釈を法然上人は『選択集』(第12章)に引用され継承されています。


●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


 素朴な疑問ですが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は、本当に『観経疏』読んでいるのでしょうか?
 もしも読んだ上で、『観経疏』のこの箇所を意図的に挙げないというのであれば、やはりこれも『観経疏』が伝えようとしている内容を故意に歪曲している「断章取義」と言わざるを得ません。



 以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事に若干のコメントを加えさせて頂きました。

 自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた資料の「原典」が、皆一様に最も強調して勧めているのが「念仏」であることは明かです。
 それを、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は「断章取義」し「原典」のコンテキストから離れた意味を導き出そうとしました。

 私見ですが、今回のように、親鸞会関係者の挙げる「論拠」は露骨な「断章取義」が行われている危険があります。
 自称デカ丸(実際はちび丸)氏自身も「御不審な方は原書をお読みください」と仰っておられますので、親鸞会関係者の言葉は安易に信用しないで、各自が必ず「原典」に当たって再確認していく必要があるでしょう。


以上

投稿

以下、投稿です。



●思考停止と反論封じ


 信心決定したい、このこと一つでいろいろ活動してきました。

 しかし四半世紀かけても求道は何も変わらず、反って後退しているかのようです。今まで費やした時間、労力、お金を返せといっているわけではありません。結局自分で納得して出してきたものだから、文句を言う気もありません。

 過去は振り返っても戻ってきませんし、悔やんでも振り出しに帰ることは出来ません。だからこそ今から、今が大事だと思うようになりました。


〔1〕思考停止

 以前は何か疑問があるとT先生にお手紙を書いて、お聞きしていました。
 しかし、あるころから幹部以外は手紙を書くなと言われました。
 理由はお疲れでたくさんの手紙が読めないからということでしたが、会員は会についての苦情や疑問で幹部講師に都合が悪いことを先生に知らせない為と思っています。でもこれは腑に落ちないという問題、後生が苦になってどうしていいか分からないなどは誰にも聞けなくなりました。
 また座談会もなくなり、事実上、自分では何も考えなくなっていったのです。
 それでもさすがに教学講義は活動、財施をしているもののみしか参加できなくなり、組織批判をしない、それを通報する者のみ出られる旨の誓約書まで書かされたときには考えました。何の為に正本堂の財施を今までしてきたんだろうという虚無感にも似た考えを持ったのは私ひとりでしょうか?教学講義もあんなに広い会館の後
ろが開いていてはもったいないので、出たい人は無条件に参加させるのが、多くの財施をしてきた会員への「配慮」ではないですか?活動、財施で縛りをかけ、会員に序列をつけるのは親鸞聖人の教えに叶っているのでしょうか?
 更に支部も自分の意思で講師を選べるという最初の趣旨が、在住の県等に限定されたり、いくらでも会に管理しやすいように、講師に少しでもお金が入るように「配慮」がなされていきました。
 方針がころころ変わり、ついていけないものは聞法の敗残者とまで称されました。こんなことを仏教を求めるものが言っていいのでしょうか?屍を乗り越える?無駄死にしたくはありません。
 小杉の会館、アニメ、正本堂、と次から次へと金金金といわれ続けほとほと嫌になったところ、D計画が発案されました。何人かの人にこれはさすがに、布教活動の本筋から逸脱していないかと尋ねましたが、嫌なら出さなければいいと言われました。でも1円でも出すなら、聖人の教えを広めるものに出したいと私は思います。
地下道も、弁当屋も、風呂も、宿泊施設も月三回のために要りません。絵画も壷売って遠距離や海外から来られるお金のない方の交通費にしたほうがましです。空いたところには子どもたちの絵でも飾ればいい。


〔2〕反論封じ

 何かと言えば善知識のご恩、善知識はお疲れと言われ続けましたが、私たちが本当に感じなければならないのは、阿弥陀仏、親鸞聖人の恩が先ではありませんか?関東にいたとき、Nの反乱を目の当たりにし何事にも純粋には信じられなくなりました。御自分のことを善知識とT先生は始めから会員に呼ばせていたのですか?それなら今のNと何ら変わらないような気がします。
 善知識の能といふは「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と人を勧むべきばかりなりと御文章にあります。1人でも多くの方が信心決定してほしいと思ったら会員の声を聞いたり、会員が1座でも多いご縁を持てるような「配慮」がなされるべきではないでしょうか?そのための正本堂でしょう。宝のもち腐れではないです
か?
 どうして会員は自分たちの声や要望を上げないのでしょうか?言いなりなのでしょうか?私には家族はありますが、そのほか失うものはありません。でももう少し待ってみようと今は思います。
 本当にほかの皆さんは何も思わないのでしょうか?こんな風に思うのは仏縁がないせいでしょうか?
 反論封じはされていないと、マインドコントロールではないと渦中の人は思いたがりますが、それは冒頭に述べた時間労力お金を長年に渡って費やしたことも関係すると思いますが。
 何かお感じになることがあったら教えてください。気違いの戯言とお考えなら無視してください。冷静に私は考えていきます。多くの会員と同様アクションを起こすことは「無駄死」にすることと同じと考えていますから、無茶はしません。心配には及びません。

以上です。



●疑問に思うこと


 突然ですが、どうしても腑に落ちないことがあり、思い悩んでいます。
 以下、いくつか箇条書きにしてみますので、教えていただけることがあれば宜しくお願いします。


 六字の御名号の脇に親鸞と書かれているものは実存するのか?
 コピーで張り合わせたという説があります。聖人は御自分のお名前を礼拝させるような方だったのでしょうか。

 T先生の御著書のほとんどが大沼、伊藤両氏からの引用である事実についてどう考えればいいのか?
 ちなみに親鸞聖人は教行信証の中で必ずどなたのお言葉と示しておられます。兄弟子の唯心抄文意も書かれています。会報も新タイトルで発刊の予定がこの問題で白紙になったとも聞きます。

 D財施は本来の布教活動の趣旨と違うのではないか?
 会計報告がなされないのは、集まったお金の残りで、会の負債部分や、必要経費を補填しているのではないでしょうか?例えば、S病院の借金の利子、講師、職員の給与等。会員の減少で財政が苦しいので、いろいろな理由をつけて金策に走っているようにも感じられるのですが。

 新入生勧誘や社会人の集まりでなせS会と堂々と名乗らないのか?
 配慮とか方便とか言われますが、正しいみ教えなら親鸞聖人のお名前を出すのが筋ではないでしょうか?

 M氏とS支部長の不倫テープの存在について
 関東ばかりでなく、会員の多くが知るところとなっているのに、なぜ先生は放っておかれるどころか、いじめないで発言をされたのでしょうか?聖人は善鸞にどうされたでしょうか?


 以上思いつくまま書きましたが、これらがどうでもいいこと取るに足らないことで、私の求道心が純粋でなく、あれこれ余計なことを考えてしまうのでしょうか?何かご存知のことやより前向きになれることがございましたら教えてください。宜しくお願いします。



●疑問に思うことへの今の考え

〔1〕名号について
 ご本尊は宗教の要なのでこれは譲れません。
 どうして6字の脇に親鸞聖人のお名前を入れた御名号を会員に下附したのか?甚だ疑問です。今まで気に留めていなかったのですが、気になりだしたらおかしい気がします。お勤めの時、礼拝の時はなるべく6字だけ見ていますが、出来たら聖人のお名前のないものがいいです。


〔2〕御著書について
 昔からT先生の年代のお言葉にしては難解で、古い言い回しが多いのを疑問に思っていました。T先生の御著書の大部分が大沼、伊藤両先生の引用と知り納得しました。糸一筋でも他人の物に手を掛けてはならないと、いつも教えて頂いていたのでこれは納得いきません。たとえ両先生がご許可下さったにしても敬意を示して、引用である旨を私なら書きます。
 なぜ生きる 歎異抄を開く に関しては残念ながら腹にこたえる内容でなく失望しました。

〔3〕財施について
 聞法に関係あることにしか出したいとは思いません。月三回の為だけなのにドメインは要らないと思います。それときちんとした会計報告をしてほしいです。

〔4〕大学での勧誘について
 はっきり親鸞会を名乗ればいいと思います。なぜそんなに人集めにこだわるのでしょうか?

〔5〕先生のご子息について
 ほおって置かれるT先生の御心が全く分かりません。親鸞聖人を見習ってほしいです。

以上です。



●先生なぜですか?

 なぜ私の腹にこたえる説法をして下さらないのですか?
 もう限界です。このことは、ご自身が一番良く判っていらっしゃることでしょう。
 こんな形で先生の下を去らねばならない時が来るなんて思ってもいませんでした。本当に残念です。
 先生にお会い出来なければ知らされなかった事が、たくさんありました。これには感謝しております。
 しかしながら、対機説法が出来なくなられた今、富山に行く気にはなれません。いつからですか?
 原因を考えてみるに、2002年のご子息の不倫もみ消し事件からですか?うそをつくと人はそのうそを守るためにうそを重ねて、壊れていきます。それ以前でも、合成の御名号、大沼、伊藤両氏の著作を御自分のものに引用という断りもなく大量に使われたこと、更に華光時代の著作などの過去を、今頃になっていろいろあちこ
ちから、つつかれ、苦しくないですか?なぜ本当のことを言って、謝るべきことは謝れないのですか?
 そもそも親鸞会の存在意義はまた設立の原点はなんであったのでしょうか?人を集めることでしょうか?大きな建物をつくる事でしょうか?
 信心決定する方が1人でも現れることと親鸞聖人のみ教えが正しく説かれるようになることではないのでしょうか?かつてそうお聞きしました。
 このように不信感が高まっては先生の話は聞けません。残念ですが。うわさに惑わされたのでもなく、ただ説法がこたえない、これが会、そして先生から離れる理由です。
 今まで有難うございました。ただ、私は親鸞聖人の教えから死ぬまで離れません。誰がなんと言おうと。先生との縁が尽きただけです。もし弥陀のお浄土で再会できたならば、そのときこそ、本当のことを話してください。頭の上からものをいうように感じられたら済みませんが、今思っていることを書きました。ごきげんよう、
さようなら。


投稿

清森先生へ


 親鸞会で教えて頂いた「五願開示」が、高森先生のパクリに基づ
く間違いであることが明らかになりました。

●苦笑の独り言 「ちび●さんのおかげでわかりました!!結局こ
れもパクリだったのだ!!」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html

 既にご存じかもしれませんが、一応お知らせいたします。

親鸞会教義の相対化・79(投稿)

清森義行様


 今日は『無量寿経』の第十八願に説かれる「唯除五逆誹謗正法」について、まとめておきたいと思います。



§1問題の所在

1-1『無量寿経』第十八願

『無量寿経』の第十八願の対象は「十方衆生」であり、この願は、阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人を全て救い取る願ですが、

ただ、五逆罪を犯す者と正法(仏教の教え)を誹謗する者を浄土往生から除く。

とあります。


「五逆罪」とは、

1,父を殺すこと
2,母を殺すこと
3,阿羅漢(覚った仏弟子)を殺すこと
4,仏教教団を乱すこと
5,仏の身を傷つけて血を流すこと


の五つの罪で、この正法を誹謗することと五逆罪を犯すことは、八大地獄でも一番ハードな阿鼻地獄(あびじごく)・無間地獄に堕ちるぐらいの、仏教では最も重い罪であるとされます。



1-2『観無量寿経』

一方で『観無量寿経』には、

衆生のうちには、あるいは不善な行為である五逆や十悪を行い、
その他多くの不善をすべてそなえてるものがあろう。
このような愚人は、その悪い行いが原因となり、
地獄・餓鬼・畜生などの悪道に落ちて、永遠の時をすごし、
苦をうけることができまりないであろう。

このような愚人は、その命が終わろうとするときにあたって、
善道に導く高徳の人にめぐりあい、
その高徳の人はいろいろとなぐさめて心安らかにさせ、
そのためにすぐれた教法を説いて聞かせ、仏を念ずるように教える。

だが、この愚人は苦しみに責めたてられて、仏を念ずる余裕がない。
そこで、その高徳の友人は告げて言った。
「もしお前が仏を念ずることができなければ、無量寿仏と称えるがよい」

その言葉とおりに、まごころをこめて、その称える声を途切れさせることなく、
十念の全てをそのうちにこめて、「南無阿弥陀仏」と称えた。

仏の名を称えるのであるから、一念一念と重ねるあいだに、八十億劫にわたる生死輪廻を続けなければならないほどの罪悪を消し去ることになる。

とあって、五逆という重い罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申すことによって救われることができる。と釈尊は仰っておられます。



1-3『無量寿経』と『観無量寿経』の矛盾

●「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」
by.『無量寿経』

●「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
by.『観無量寿経』

という二つの経典の記述は矛盾しますので、浄土教の祖師方の間で、大きな問題となったのです。



§2曇鸞大師と善導大師の解釈

※親鸞会教義の相対化・28で述べてことを再掲します。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

2-1曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、

「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」

と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?

また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。

もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、
このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、
その誤った見解に、心が定まってしまうことを、
「正法を謗る」というのである。

というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。


つまり、

・釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。

・阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

そのように曇鸞大師は解釈されているのです。



2-2善導大師の解釈

善導大師は『観経疏』散善義において、

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、
「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、
これらの者の往生を許さないが、
いまこの『観経』の下品下生のところでは、
正法を誹謗するものをえらび除いて、
五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、
いったいどういう意図があるのか?

答える。
このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、
抑えとどめる教えの上で解釈する。
四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、
実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、
衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、
途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、
ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、
たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、
これもまた、おさめとらぬというのではない。

また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、
正法を誹謗するものを除いているのは、
五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、
迷いの世界に流転させることはできないから、
かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、
法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、
もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、
もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。

というように、

★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、

まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、
「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」
と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)

であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
(『観経』)という記述は、

すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、
阿弥陀仏は見捨てることなく、
大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)

であると解釈されます。

つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。



§3法然上人の解釈


法然上人は善導大師の解釈を受けていますので、未だ罪を犯していないものには、罪を犯さないように戒めつつ、罪を既に犯してしまっているものに対しては、浄土門の教えは、十悪や五逆という重い罪を犯したものでさえ、救われるとお説きになっておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
罪は十悪五逆の者も生まると信じて、
小罪をも犯すさじと思うべし。
罪人なお生る、況(いはん)や善人をや。
『一紙小消息』

(訳)
罪に関して言うならば、「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じて、
「どんな小さな罪も犯すまい」と思うべきである。
罪人でも往生できる。まして善人は言うまでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じる・・
信仰の立場
2)「どんな小さな罪も犯すまい」と思う・・実践の立場

と、まとめることができるのではないかと思います。


1)は、いかなる人でも救うという阿弥陀仏の本願に対する、信仰の立場だと思います。

どんなに罪を犯してしまった人であっても、その罪を懺悔し、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができます。

そのことを疑ってはいけません。ひたすら信じてお念仏申すことが大切です。

2)は、阿弥陀仏に救って頂く私たちが、最低限守っていくべき道徳的な実践の立場であると思います。

どんな人でも救ってくださる阿弥陀仏ですが、阿弥陀仏が救ってくださるからと言って、好んで悪いことをしていいはずがありません。

悪いことは悪いこと。罪は罪。

仏様が悪いことを勧めるはずがありません。「罪を犯せ」と勧めるような仏様はどこにもおりません。

いかなる人をも救ってくださる阿弥陀仏を前にして、自らの至らなさを恥じつつ、そういう自分でも救ってくださる阿弥陀仏の本願を有難く仰いで、「どんな小さな罪も犯すまい」と可能な限りの努力し実践していくべきである。

法然上人はそのように教えられています。



§4『浄土宗略抄』

最近、「デカ丸」(※実際は「ちび丸」という方の名義詐称のようです)を名乗る方が、『浄土宗略抄』における法然上人の言葉を引用し、「法然上人が善をすすめている」ことの根拠とされていました。

しかし、苦笑氏が指摘されているように、前後の文章を読むならば、上記の『一紙小消息』と全く同じことが述べられていることは明かであり、『浄土宗略抄』の文章の一部を取り出して「法然上人が善をすすめている」ことを強調するのは所謂「断章取義」であると思います。

~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-170.html

心の善悪をも顧みず罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば仏の誓によりて必ず往生するぞと決定の心を起こすべきなり。
その決定の心によりて往生の業は定まるなり。往生は不定に思えば不定なり、一定と思えば一定する亊なり。
せんじては仏の誓を憑みていかなるところをも嫌わず、一定迎えたまうぞと信じて疑う心のなきを深心とは申しそうろうなり。

いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、
善の三業をば真実心の中になすべし」とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、
心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。

ただ弥陀の本誓の善悪をも嫌わず名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、
名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、
深く信じて疑う心一念もなかれという意なり。『浄土宗略抄』

(苦笑ちゃん訳)
心の善悪を問題とせず罪の軽重いも問題にせず、「ただ口で南無阿弥陀仏と申したならば仏の誓によって必ず往生するのだ」という「決定の心」を起こすべきである。
その「決定の心」によって往生することができる行為(往生の業)が定まるのである。往生が定まっていない(不定)と思うならば往生は定まっていない。間違いなく確定している(一定)と思うならば間違いなく確定している。
結局は、仏の誓を憑んで、阿弥陀仏はどのような場所であっても嫌わずに間違いなく迎えてくださると信じて、疑う心がないことを「深心」と言うのである。

阿弥陀仏がどんな過ちを犯した人をも嫌わないからと言って、その教え(法)を自分の都合に合わせて受け取り勝手気ままに振る舞うべきではない。
それ故に善導大師も「善くない三業が起きた時は、真実心を持ちながらそれを捨てるべきである。善い三業は、真実心を持ちながらそれをなしていくべきである」と解釈されているのである。
また、「善い行い(善業)でなければ、敬ってこれから遠ざかるべきであり、それに随喜してはいけない」と解釈されているのだから、心の及ぶ限りは罪を犯すことを恐れ、善にすすむべきであると心得なさい。

ただ、阿弥陀仏の本来の誓願が人が善であろうと悪であろうと嫌わず、名号を称えれば必ず迎え取ってくださると信じ、
名号の功徳があらゆる過ちをも除き滅ぼして、一念でも十念でも必ず往生することができることの素晴らしいことを深く信じて、疑う心は一瞬もあってもならない、という意味である。
~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~



§5所謂「悪人正機」について


最後に、上記の法然上人の教えは『歎異抄』の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と全く矛盾しません。

『歎異抄』では、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」に続いて、

自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。

と述べられているわけですが、

『歎異抄』においては、

1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、自力作善の人という意味の「善人」のことで、
2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のことであり、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されていて、罪を犯したかどうかという道徳的基準では定義されてはいません。

そして、
1)「阿弥陀仏の本願をたのんでいない人=善人」でも往生できる。
2)まして「阿弥陀仏の本願をたのんでいる人=悪人」が往生できることは言うまでもない。

ということが述べられております。

つまり、ここでは世間的な倫理道徳として扱われる「悪=毒」とは違う意味で、「善人」「悪人」が定義されており、上記の法然上人の教えとも、

●『親鸞聖人御消息』37、『末灯抄』16
●『親鸞聖人御消息』4、『末灯抄』19
●『親鸞聖人御消息』2、『末灯抄』20

これらにおける親鸞聖人の教えとも、全く矛盾しないものであると思います。


以上
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