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投稿(§4 「信楽」と「正定聚」の関係)

§4 「信楽」と「正定聚」の関係


阿弥陀仏の本願に対して「信楽」を得た瞬間に、「正定聚」になることを、「不体失往生」と言うわけであるが、

★「信楽」・・阿弥陀仏の本願に対する信心
★「正定聚」・・完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地

ということは、仏教の常識として知っておく必要がある。(注1)


この二つは、因果関係にあって密接に関係しているが、(注2)
この二つをイコールにしてしまうと、
これまでツッコミを入れてきた某浄土真宗系新興宗教のドグマのように、
いろいろな問題が発生してしまうことになる。(注3)


なお、「信楽」は「プラサーダ」であって、
「バクティ」や「思考停止」でないことも、
キッチリ理解しておかなければならない。(注4)

極楽浄土に往生することを願うのであれば、
「バクティ」や「思考停止」ではなくて、
「プラサーダ」を目指さなければならない。



【今日のまとめ】

1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 サンスクリット文『無量寿経』願成就文には、

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
          ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられているが、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

これは、『無量寿如来会』の願成就文も共通である。


●『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

★信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

★即得往生住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと



注2 親鸞聖人の言葉に基づいた、以下の解説がわかりやすい。


~~~以下引用~~~
656:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:13:05
ID:eu09B6u2
>>653の続き

 しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
 つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
 それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」という同義語反復になってしまいます。
 ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。


658:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:28:21
ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願前念命終
 即得往生後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。
~~~以上引用~~~

 また、「信受本願」「即得往生住不退転」「若不生者不取正覚」を図にすると、以下のようになる。

 1)      2)                3)
 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    ↑         ↑              ↑
 「信受本願」   「即得往生、住不退転」     「若不生者不取正覚」
   =前念(因)        =後念(果)


なお、

●しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

とあるように、1)と2)は「即のとき」というように、時間を介在しないから同時であるが、明確に因果関係にあるので、これをイコールにすることはできない。



注3 更に詳しくは以下を参照。

参照 「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
参照 ちび●墓穴!(再掲)
参照 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)
参照 「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!
(再掲)


注4 「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いは以下の通り。


【プラサーダ】

 仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からプラサーダと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。
 従ってちょうどプラサーダに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。
(中村元『東洋人の思惟方法』第一部p.189)


【バクティ】
 後代のヒンドゥー教信仰において、シュラッダーに代わって最重要の概念となるものはバクティである。√bhajという語根に由来するこの語の原義は、分割あるいは参与である。それがいわば最高神への参入という意味に転じ、結局、最高神に対する真摯熱烈な絶対帰依としての信仰・崇拝を指す語として、シヴァ教、ヴィシュヌ教諸派の間で近代に至るまで弘く用いられるようになっていったのである。
 バクティはつねに人格神に対する熱烈な情愛を伴うものであり、その点でインドの他の信仰形態と趣を異にしている。人間が最終的解脱に至る最重要の及至は唯一の道がバクティであると考えられることが多く、その意味でバクティこそヒンドゥー教信仰のかなめであるということができる。
(『岩波哲学・思想辞典』pp.815-816「信仰」)


【参考思考停止】

●意味
 考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。
「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

●使われる場面
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。
(「参考思考停止とは」はてなダイアリーより)


注5

●世親菩薩『倶舎論』
SraddhAcetasaHprasAdaH.(AKBh55,6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

●梵文『無量寿経』願成就文

ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、プラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

とあるように、仏教における「信」は「プラサーダ」であり、極楽浄土に往生することを願う人が起こすべき心も「プラサーダ」である。
「プラサーダ」(浄らかな信)は、「しずめる」「浄化する」
「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sad
から作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであり、「バクティ」とも「思考停止」とも、全く異なるものである。
 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」じゃなくて「プラサーダ」を目指さなければならない。
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質疑応答174

【質問】


 最近、親鸞会では、18願は「十方衆生を必ず信楽にしてみせる」という約束であり、当益の意味は全くない。「信楽の者を必ず浄土往生させる」という約束は11願である、と教えられています。
 ところが、前回の教学講義では、「易往而無人」のお言葉を出されて、信楽になれば往生は易いけど、信楽になる人が少ないから無人なのだと教えて頂きました。
 必ず信楽になれるのならば、信楽になる人が少ないというのは矛盾に聞こえますが、清森先生はどのようにお考えでしょうか。



【回答】


 結論から言えば、本願に対する解釈が間違っていると思います。

 浄土往生が11願の働きによって易いのであれば、信楽を獲るのも18願の働きによって易いはずです。

 信楽を獲ることが難しいから、信楽を獲させることに命を懸けられた、というならば、11願で浄土往生に命を懸けられたのは何故なのか?

 この程度のことは、多くの会員さんも気づいておられると思います。



 何回も紹介していますが、親鸞聖人は「若不生者」の「生」を、信楽をえた人が、浄土に生まれることだと解釈されています。


●「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。(尊号真像銘文)

●「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。(唯信鈔文意)

投稿

清森義行様


インターネット上で録音音声が公開されている、
「親鸞会が夜中に脱会者の家に押しかける」動画
(いわゆる「かー○ーたーさーん動画」)
について、最近思うことがありましたので、
投稿させていただきます。

先日、仕事の関係で、金融会社に勤める方と知り合いになりました。
彼女は、主に顧客の借金の返済の支払いを催促したり、集金したりすることを、
仕事にしているそうです。いわゆる取立てです。

その話で盛り上がっていると、実は取り立てにも
ルール、常識があるのだということがわかりました。

たとえば、取立てに訪問する際は、午後9時以降は行ってはなりません。
訪問が法律で禁止されています(※1)

また、大声を上げたり、多人数で訪問することも禁止されています(※1)

そして、訪問者は、「帰ってください」と言われた場合、
退去しなければ刑法130条不退去罪になります(※2)

このようなルールは、あくまで集金の話ですが、
訪問の常識ルールだと思います。

この程度の常識は、
「つねに親鸞学徒の誇りと自覚を持ち、
阿弥陀如来の大慈悲を、胸から胸へ、お伝えする」という方ならば、
最低限持っていてもらいたいと思います。

蛇足:例の動画では、
深夜2時、3時の訪問です。大声を上げて大人数で訪問しています。
か○たさんが帰ってくれと言っても本尊を返すと言うまで帰りません。
この動画が捏造であることを念じてなりません。

(注)
※1「貸金業規制法及び金融庁事務ガイドライン」
(1) 貸金業者又は債権の取立てについて委託を受けた者等が、債務者、保証人等を「威迫」に該当するおそれのある次のような言動を行ってはならない。
① 暴力的な態度をとること
② 大声をあげたり、乱暴な言葉を使ったりすること
③ 多人数で債務者、保証人等の居宅等に押し掛けること
(2) 貸金業者又は債権の取立てについて委託を受けた者等が、債務者、保証人等に対して次のような言動を行ってはならない。
① 正当な理由なく、午後9時から午前8時までの時間帯に、電話をかけ若しくはファックスを送信し又は債務者等の居宅を訪問すること
② 正当な理由なく、勤務先などに電話をかけ若しくは電報を送達し、若しくはファックスを送信し又は訪問すること
(3) 「人の私生活又は業務の平穏を害するような言動」に該当するおそれが大きい次のような言動を行ってはならない。
① 反復継続して、電話をかけ、電報を送達し、電子メールを送信し、若しくはファクシミリ装置を用いて送信し、又は債務者、保証人等の居宅を訪問すること
② 債務者、保証人等の居宅を訪問し、債務者、保証人等から退去を求められたにも関わらず、長時間居座ること

※2「刑法第130条 住居侵入等」
正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。
(M講師は3年以下の懲役ですか?)

投稿(§3 阿弥陀仏の救いは平生から)

§3 阿弥陀仏の救いは平生から


前回まで、阿弥陀仏の作ってくれたシステムが、
衆生を極楽浄土に「往生」させて、
最終的に「成仏」させてくれることが明らかになりました。

ところで、このシステムによって衆生が救われるのが、
「死後」ではなく「平生」であることを、
法然上人が明かにしてくださっています。(注1)

親鸞聖人はこれを踏まえて、
「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見たならば、(注2)

★衆生が「信楽」を得たその瞬間に、
「往生」が確定して「成仏」も確定する。

ことを明らかにしてされております。(注3)

浄土真宗では、これを「不体失往生」と言います。(注4)

したがって、「不体失往生」の根拠は、
「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければなりません。(注5)


【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下の文参照。

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

なお、善慧房証空上人も「この世での救い」を積極的にお説きになられていることは、晄かである。

参照親鸞会教義の相対化・77(投稿)


注2 参考までに、サンスクリット文『無量寿経』願成就文は以下の通り

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、

★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられている。



注3 親鸞聖人が「若不生者」を「極楽浄土への往生」と解釈されながら、本願成就文の内容を踏まえて「平生業成」「現生不退」の意味を十八願に補っておられることは、『尊号真像銘文』を見れば明かである。

『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
 本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。


注4 『口伝鈔』参照

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。
 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。
 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。
念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。
このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。



注5 親鸞聖人の言葉の用例から、【若不生者不取正覚】と
  【即得往生住不退転】を時間軸上の配置すると以下のようになる。


【若不生者不取正覚】
★「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』(1)

★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
『尊号真像銘文』(10)

至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる!
ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる!


「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
『唯信鈔文意』

若不生者のちかひ=穢土をすてて真実報土にきたらしむ!


【即得往生、住不退転】
★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
『唯信抄文意』

信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生


そんでもって『尊号真像銘文』の(1)の方を読むと、
「若不生者不取正覚」よりも時間的に前の時点で、

真実信心をえんとき→摂取不捨の心光にいる→定聚のくらいにさだまる

とある。

★如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
『尊号真像銘文』


つまり「即得往生住不退転」と「若不生者不取正覚」を時間軸上に配置すると、

真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
             ↑                 ↑
        「即得往生、住不退転」        「若不生者不取正覚」

となる。

質疑応答173

【質問】


 法蔵館出版の真宗聖典は、尊号真像銘文において大切な「このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」の文が抜け落ちてます。
 法蔵館に確認したところ、本願寺出版の聖典と照らし合わせた結果抜け落ちていたと言われました。
 とても重要な文がなぜ抜けてしまったのか分かりませんが、これでは他の文においてもこんな事がないのか不安です。
 聖典は本願寺出版のものが正しいと考えていいのでしょうか?



【回答】


 尊号真像銘文には「略本」と「広本」とがあります。いずれも親鸞聖人の御真筆ですが、広本の方が長いです。
 法蔵館の真宗聖典に収録されているのは「略本」であり、本願寺出版の聖典には「広本」が収録されています。

親鸞会教義の相対化・81

清森義行様



 友人が以下の書籍を読んで感想を述べてくれたので、紹介させて頂きます。

★高森顕徹『光に向かって100の花束』(一万年堂出版)

※この友人は、親鸞会教義の相対化・27でアニメの感想を述べてくれた方です。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-89.html

※改行・スペースなど、感想のまま送らせて頂きますので、基本的にこのまま投稿頂きたいと思います。


【友人感想】

う~む・・・。

半分ほど読んだんですけど、全部読まんといけんですかね、これ。

むむぅ~。

え~っと。
オビの文言、紹介してみますね。

「100以上の,おとぎ話や有益な話を知らなければ、親の資格がない」と、ある教育者は道破する。歴史上の人物の成功談や失敗談、心あたたまる話題の中から、おもしろい話を100選び,小さい魂に奮発心を喚起させ,不屈の精神を培うための小話集。」

・・まあ,著者が「おもしろい」と思った話を紹介して、そこから導かれる教訓を最後に示して訓話としてまとめた小文が100編、おさめられています。

しかし、なんですね。「面白い話」とそこから導かれている教訓の間にえらいズレ感があるような気がするのは私だけなんだろうか。(笑)
「100の花束」中、第2話目で、いきなり私は「な、なんじゃこりゃ・・」と爆笑寸前の苦笑をしたんですが。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

第2話
「約束は,必ず、はたさなければならない」

さる有名にして貧しき歴史学者が,ある日、人からの借り物を壊してしまって泣いている貧しい少女に出会い助けてやりたく思ったが、その時貧しさ故に自分も持ち合わせがなかった。そこで明日、ここへ来たらなんとか工面してお金をあげようと約束した。
ところが翌日、彼のスポンサーになろうという富豪が現れたので今すぐにその富豪に会いに行くようにと友人からの伝言を受けた。
しかし彼は、「大切な用事があるのでまたにしてほしい。」と富豪との面会をことわり、少女との約束を果たした。
富豪は一時は激怒したものの、のちほど事情を知り,感心して信用を深め,くだんの歴史学者のスポンサーとなった。

・・ここまでが教訓を読み取るべき、ちょっといいお話である。
そして後半が、これ。全文引用してみましょう。↓

金持ちほど怒りっぽく、あつかいにくいものはない。いつも金で、何事も自由にできる,と思っている。
また金で,約束を破り節をかえる金銭奴隷が、いかに多いことか。

(次の一文は『』の中の文字と「」の中の文字が、地の文章の文字よりも二まわりほど大きい字で書かれている)

『儲け』は「信用のある者へ」と書いてある。

たとえ自分に不利益なことでも、誓ったことは,必ずはたすのが信用のもとである。
はたせぬ約束は、はじめからしないこと。相手に迷惑をかけるだけでなく、己をも傷つける。

(そしてふたたびでかでかと)

四角い枠で囲まれた「儲」という字が印章を押したかのようにうすめのインクで印刷され、その上から「信用のある者へ」という言葉がで~んとかかれてあるのだった・・・。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

この第2話のズレ感は、逸品中の逸品ではないかと思います・・・。
ほかにも「・・・?」という奇妙なズレ感を抱かせられる文章があるように思うが、なぜなんでしょう。
たぶん・・・その「ちょっといい話」自体が、良い行いの結果,世俗的な意味での良い結果を生んだ(笑顔で接客したウエートレスがその笑顔を気に入られ,玉の輿に乗った、とか。笑)式のパターンに染まっていることも原因の一つかもしれません。

あと、著者の持っている女性観というか・・「男の人生を支えるために、女性はかくあるべし。」みたいなの・・・まあ・・おじいさんだからこんなもんかもしれませんけど、女性の視点に立ってみようという発想はまったくありませんので、この本を読んで感心した男性を恋人にするのはお勧めできないなあ・・・と、思っちゃったりしました。

その他のはなしにしても、自分の人生経験の深い洞察から精製された貴重な人生訓、といった感じではなくて、だれでも言えそうなありきたりなことをもったいぶって話しているじいさんの趣味のお説教、という印象ですかね~。




つまるところの感想を一言申しますと、

センス悪い。じじくさい。浅い。安い。


の、4点でございました。

(まだ半分しか読んでませんけど。笑)

こんな感想ですみません・・・。


【私】

お疲れ様でした。
若干の補足をしておきますと、高森先生は、近年、大沼法龍
先生のパクリが指摘され、
いろいろ厳しい批判を受けております。


高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作の
パクリです
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/100_80e4.html
大沼法龍師の言葉
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu/
大沼法竜師に学ぶ
http://blog.goo.ne.jp/onuma_horyu/

以下参考までに・・。

大沼法龍師の言葉より
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu/s/%CE%F2%BB%CB

45約束の貴さ
2007-08-2500:05:58|Weblog
 有名な歴史家のナピールがある日散歩していると、路傍に貧しい姿の少女が陶器のかけらを持って泣いていた。ナピールが優しく仔細を訊くと、少女の家は親一人子一人で老父が大病なので家主から五合入りの壜を借りて牛乳を買いに行こうとしたところ、落として壊してしまった。家主にどんなに叱られるか知れないと泣いていた。
 ナピールは憫れに感じてポケットからがま口を出してみたが生憎この貧乏学者は一文も持合せがなかった。「明日の今頃ここへおいで私がその牛乳壜のお金をあげるから」
 しかしその翌日、五六里離れた町の友人から手紙が来た。それは君の研究の為に保護者となろうという貴族がきたが、午後には帰ってしまうから直に来いと書いてある。しかし貴族に逢いに行けば少女に逢う時間がない。ナピールは友人に返事を書いた「私には今日大事な用件がある失礼だが又の日に頼む」と、そして少女との約束を果した。
 貴族は一時ナピールは傲慢な奴だと謗ったが、後にそれを知って彼の人格の高潔なのに深く尊敬して後援した。一概には言えない人格者もあるけれども金持ほど怒りっぽい扱いにくい者はない、直に金で人を自由にできると思っている。また金銭の奴隷となって約束を違え節を変ずる者が多いから困るのだ。たとえ自分に不利益なことがあろうとも一旦約束したならば実行しなければならない。
(「教訓」p55~p57)

ところで、このコメントも含めて、この感想を清森問答に投稿してよろしいでしょうか?



【友人】

正直すぎてスミマセン。

まず、オビの文言からして、「むぅっ。」としたんですけど,私。(笑

「100以上の,おとぎ話や有益な話を知らなければ、親の資格がない」

これだけ見て、すでに「そ、そんなこと、あらへんて。」って、思っちゃいましたもん。
100のお話を知っていようと知っていまいと、センスのいい人はいいし、悪い人は悪いと思います。
そして,センスのいい人はいい人なりに親として脱皮していかなくちゃらならない時がくるし、センスの悪い人は悪い人で、おたおたしながらでも一生懸命子育てして責任を果たそうと努力して行くのだと思います。

ま。ええけど。(笑)

んで、これもパクリやったのですか~。
私は小心者なので,とてもこんな大胆なことはできないわ。^^;
高森先生、そういう意味では大物ですね。(笑)

あぁ・・・なるほどなるほど。

いらんことを付け足すので,ズレ感がでちゃうのね・・・。
へんなこと書き足さなきゃあ、まだ読めるのに。

ははあ・・これがオリジナルですか。
ほんと、ここまでならよかったのに。
やっぱ、【儲け】が出てくる余地はなさげですよね。(笑)

「儲け」は信頼できる者【へ】って・・・「ワシは信頼できる善知識じゃけに、ワシに財施しなさい。」って、言っとるんかい、と思えてすんごくおかしかったんですよ~。

投稿の件は、いいようにされてください~。

投稿(§2 極楽浄土に生まれるためのシステム)

続きです

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム


 前回の話で、以下のことが明かになった。

1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
  「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。


 ところで「浄土真宗」の教えは、最終的には、「成仏」を目指すが、直接的には、極楽浄土に「往生」することを目指すので、

★何によって極楽浄土に生まれるか?

が大事になる。

 そして、これを明かにしたのが、

★「阿弥陀仏の十八願文」なのである。(注1)



 その内容は、わかりやすい言葉で言えば、

★阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れ、
 念仏申す心のおき、たとえ何回でも念仏申した人を、
 間違いなく極楽浄土に生まれさせよう。
 それができないなら、私は仏にならない!!

という内容で、(注2)

阿弥陀仏がこのマニフェストに基づいてとてつもない実践をし、
その結果、このマニフェストが実現し、(注3)(注4)
衆生が極楽浄土に往生させるためのシステムを完成されているから、

私逹が、そのシステムに乗ずることによって、間違いなく極楽浄土に往生することができます。

 したがって、「極楽浄土に生まれる」こと抜きで、本願文解釈をしては絶対にならない。



【今日のまとめ】

1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1『無量寿経』所説の十八願文は以下の通り。

●たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

なお、wikiArcでは以下のように現代語訳されている。

●わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。


注2 十八願の「若不生者」が「極楽浄土へ生まれる」ことを意味しているのは、言語の構造上、単語の格関係が明確であるサンスクリット文を見ても明々白々である。

●世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。
 ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。

『無量寿経』十八願に対応するサンスクリット和訳(親鸞会教義の相対化21より)


★若不生者不取正覚(極楽浄土へ往生)
→彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら

 また、サンスクリットが読めなくても、親鸞聖人の解釈をきちんと知っているならば、解釈を間違うことはない。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』


注3 「本願」は既に実現しているから「本願」である。

「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されている。
「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になる。


 このことを法然上人は以下のように述べておられる。

●本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。


また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答が設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されている。


●問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。
 また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上



「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけであるが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっている。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのである。



 このことを善導大師は、

●もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。

とお説きになられている。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、


 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かである。



注4 「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈するのは、「本願」が何であるかを全く理解してないことに起因する誤りである。

参照 「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html

投稿(やさしい浄土真宗の教え)


清森先生も御存知かと思いますが、以下のサイトの内容は、浄土真宗の教えを偏りのない形で理解して頂くのに、役立つのではないかと思います。

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

管理人の苦笑氏に了解を得て、文章を直してありますが、清森問答に掲載して頂ければと思います。



§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」

 結論から申しますが、

★「仏教の目的」は「成仏」である。

ということになります。

仏教の「八万四千の法門」は、全てこれを目的にしていて、
「成仏を目的にしない仏教」は「仏教」とは言えません。

これは、

★極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する。

「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」であっても変わることはあり
ません。

極楽浄土は「成仏」するための場所であって、(注1)
阿弥陀仏が衆生を救済するために立ててくださった「本願」は、
最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムなのです。(注2)

そして、親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、
このシステムを明かにした
「願成就一実円満の真教」=「真宗」を意味してるのです。(注3)


【今日のまとめ】
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
※本文は可能な限り簡潔に書くので、詳しい資料や解説は以下の注
をご覧ください。

注1 『無量寿経』において極楽浄土は、仏にまみえて菩提をきわ
めつくし成仏する場所である。

●実にまた、アーナンダよ、かの国に生まれた菩薩たちはすべて、
仏にまみえることと法を聞くことから遠のかず、菩提をきわめつく
すまで、(地獄などの悪い境界に)墮落することのないものであ
る。また、彼らはすべて、そのときから以後、(前)生のことを記
憶していないものとはけっしてならないであろう。ただしかし、
ちょうど私がいま(現にここにあらわれて)いるように諸仏・世尊
が世間にあらわれれるとき、五つの濁りが起こっているそのような
カルパの乱れのなかに(生まれたいと)、かつて立てた誓願(に
よってそれを誓った菩薩たち)は別として、である。
『無量寿経』サンスクリット文和訳


注2 極楽浄土に往生した人が成仏するためのシステムは以下のよ
うになっている。

1)世尊よ、もしも私の仏国土に生まれるであろう衆生逹の全て
が、大いなる涅槃にいたるまで、正しい状態にあることに決定した
ものとならないようであったら、その間は、私はこの上ない完全な
正覚を覚ることはないであろう。
『無量寿経』第11願サンスクリット文和訳

 私(=阿弥陀仏)の仏国土(=極楽浄土)に生まれる「全ての衆
生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至るまで、正しい状態にあるこ
とに決定(=正定聚)したものにならなければ、阿弥陀仏は仏にな
らないと誓っている。

2)実にまた、アーナンダよ。かの国(極楽)に既に生まれ、現に
生まれ、やがて生まれるであろう衆生逹の全てが、涅槃にいたるま
で正しい状態にあることが決定している。
それはなぜかと言うと、そこにおいては、いまだ(覚りに至ること
が)決定していないものと、邪な状態にいたることが決定している
ものの二つの集まりが、存在しているということもないし、仮に示
されることもないからである。
『無量寿経』第11願成就文 サンスクリット文和訳

 そして、その本願が実現して、極楽に生まれる「衆生逹の全て」
が、「涅槃」にいたるまで正しい状態にあることが決定している。
 さらに、極楽においては、覚りに至ることが決定しないものと、
邪な状態にいたることが決定しているものは、存在しないことも示
されている。

 1)は阿弥陀仏の誓願。2)は阿弥陀仏の誓願が実現したことを
証明する釈尊の言葉であり、 いずれも極楽浄土に往生する
「全ての衆生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至ることが、決定し
ていることを証明する文である。


注3 『教行信証』信巻参照

●横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂
に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは
大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成
就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・
九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には
品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真
道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『教行信証』信巻

ここに書かれている内容を簡単にまとめると、

【聖道門】【方便】「竪出」・・大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
     【真実】「竪超」・・大乗真実の教
【浄土門】【方便】「横出」・・三輩・九品、定散の教、化土・懈
慢、迂回の善
     【真実】「横超」・・願成就一実円満の真教、真宗

ということになり、

【聖道門】【方便】である「竪出」、
【聖道門】【真実】である「竪超」、
【浄土門】の中でも【方便】である「横出」、

これらに対して、

【浄土門】【真実】である「横超」が、
「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証」するシ
ステムである、
「願成就一実円満の真教」=「真宗」であることを明かにしている。

投稿

清森義行様

先ほど調べものをしており、たまたま大阪大学の公式ホームページを開いたところ、

以下のような文章がトップのトピックスに掲載されていましたので、お伝えします。

大学側も、本格的にカルト対策に乗り出しているということだと思います。

かつて「東の早稲田、西の大阪大学」といわれた親鸞会の基幹大学学友部も、

もはや崩壊に近づいていると思わずにおれません。



http://www.osaka-u.ac.jp/jp/press/newtopics.html#article760

新入生の大学生活環境に関するお知らせ 更新日: 2009/3/9
【重要】合格された皆様・保護者の方々へ
 入学式前後の手続きや大学生協が主催する相談会などに足を運んだ際、キャンパスの内外で、反社会的カルト団体の構成員が様々なサークルを装って新入生を勧誘するケースが、例年、多数確認されています。
 最初は、彼らの「教義」「教会」などの実態を明かさずに、フレンドリーにボランティア活動・音楽・スポーツ・外国語会話・健康ヨガ・占い・生き方セミナーなどへの勧誘や、単位取得の履修指導などで近づき、友人関係や先輩後輩の関係を築いたうえで、知らず知らずのうちにマインド・コントロールを行います。そのような団体と関わりを持つと、入学後の貴重な時間が奪われるばかりか、身体的・精神的・経済的に大きな負担となり、深刻な被害を受けることになります。
 このような勧誘にあった時には、個人情報(住所、氏名、所属学部、携帯電話番号、メールアドレスなど)を安易に相手へ教えないように十分ご注意ください。また、執拗な勧誘は、いかに相手が親切そうに見えてもはっきりと断ってください。
困ったときには大阪大学各学生センターにご相談下さい。

(さらにこのページには、学生への警告チラシのリンクがあります。
 直接アクセスしてご確認ください。)

質疑応答172

【質問】


 あるホームページを閲覧していまして、次のようなお言葉がありました。

---------------------------------------------------------
「真なる者(真実信心の人)は甚だもって難く、
 実なる者(真実信の人)は甚だもって希なり。
 偽なる者(安楽椅子の人)は甚だもって多く、
 虚なる者(安楽椅子の人)は甚だもって滋し」とも、仰っている親鸞聖人の
 お言葉である。

 安易に座れる椅子は満ちている。勧める者も数多い。襲いくる群賊悪獣悪知識のその中を、千万の化城(安楽椅子)を突破して・・・・・・・・・
----------------------------------------------------------

 この中の、「安楽椅子」という言葉の意味がよく解らなくなりましたので、よろしくお願い致します。



【回答】


 一般的に、浄土真宗で「安楽椅子」という言葉を使うのか分かりませんが、私は親鸞会関係以外では知りません。

 この文章は以下のサイトからの引用だと思います。


「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/group/89ginarumono.html


 このサイトは、渡部弘宣部長の作られたものです(ご本人から聞きましたので間違いありません)。

 親鸞会では、信心決定していないのに、信心決定したと思い込んでいる人を、「安楽椅子」と呼んでいます。具体的には、親鸞会以外で信心決定した人を、みんな「安楽椅子」と呼ぶ傾向にあると思います。

 高森先生は無二の善知識、親鸞会は唯一真実の団体である、と宣伝しているわけですから、親鸞会以外で信心決定する人があっては困るのでしょう。

 特に最近は、退会する人が後を絶たないそうですから、焦っているのかも知れません。だからと言って、親鸞会以外は全て異安心だと思わせるような書き方は、良くないと思います。

 親鸞聖人は、

●「師を背きて、人ににつれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどいうこと、不可説なり。(歎異抄)

つまり、「この親鸞から離れたら助からないとは言ってはならない」と仰っています。


 しかも、最近退会された方の理由を聞いてみると、親鸞会の活動が教義に反しているから、非常識だから、お金のことばかり言われるから、というような声ばかりです。

 親鸞会にいれば大丈夫、という「安楽椅子」をブチ壊して、信仰の面でも活動の面でも大改革しなければ、本当に未来は無いと思わずにおれません。

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