スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

投稿(§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル)

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル


それでは、前回の「ガイドライン」を踏まえて、
今日は具体的に「異安心」のサンプルを見ていこう。

まず浄土真宗の伝統的な「異安心」に関して、
山も山さんがサクッと解説してくれたものを、以下に引用しておく。
↓↓↓
~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~

異安心と言ってもいろいろありますが、長くなるので、代表的なものを今回は書きます。

土蔵秘事→これは有名ですが、親鸞聖人の長子善鸞がはじめたものと言われていますが、儀式によって信心を授けるものをいいます。
知識がそれでよいと認定したり、信心をいただいた年月日時を覚えていなければならないというものです。

十劫安心→阿弥陀仏が十劫の昔、本願を建てられたときに、すでに私たちは助かってしまっている、だから今は分からないだけで死んだら極楽なのだというものです。

地獄秘事→地獄行き間違いないと(自分で)ハッキリしたのが救われたことだと思っているもの

機決定→自分でこれでよいと決めた異安心

またおいおい書いていきますが、いづれも特徴は、「自分でこれで間違いないと決めている信心」が、すべて異安心です。

また、「こうしておけばいつかは助かるだろう」と思っているのも異安心です。

親鸞聖人が

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証総序)

と仰有り、蓮如上人が

「他力の信心ということをば、今既に獲たり。」
「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。」(御文章2帖目13通)

と言われたのと異なり、「いつかは」とか「○○だから大丈夫だろう」「○○だから間違いない」という安心は、すべて異安心です。
(真実信心ではないという意味で)

~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~


「異安心」はこれだけではなく、「現代の新しい異安心」もあるので、
このような「異安心」にもならないように注意がいるだろう。
↓↓↓
~~現代の新しい「異安心」より~~

某所より

510:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:33:48 ID:t6+HHvif
浄土真宗親鸞真会狂学性典(7)

問(32)

異安心の名を十あげよ。

答(32)

○十講安心
○十燈正因
○不倫秘事
○盗作づのり
○断章決定
○タイヤキ覚知
○脱税邪義
○華光秘事
○高森だのみ
○ドメイン往生

511:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:42:14 ID:t6+HHvif
問(33)

十講安心とはどんな異安心か。
何をどう間違ったものか、喩えで示せ。

答(33)

○十講制度が出来た昔にすでに我々は保身できてしまっているのだから、
今さら謝罪することも釈明することもいらぬという人達のこと。

○組織のでき上がったのを、免罪符をもらったことと早合点した間違い。
局長になっていても不倫すれば組織のガンは治らない。
(こんなことさえ判らぬ人達)

512:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:45:49 ID:t6+HHvif
問(37)

十燈正因の異安心とは、どんなことか。

答(37)

○高額財施さえしていれば助かる、と信じている人達。

513:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:53:54 ID:t6+HHvif
問(38)

不倫秘事の異安心の特色を六つあげよ。

答(38)

○絶対に秘密を守れと言う。
○夜中に秘事を授ける。
○本会の二代目善知識から「気持ちよい」と具合が認可される。
○不倫によって地位を貰う。
○証拠写真を撮った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
○証拠ビデオがアップされた後は、会員がいなくなる。

518:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:27:39 ID:t6+HHvif
問(39)

断章決定とは、どんな異安心か。

答(39)

前後を無視し、自分でここがよいと思った部分の言葉だけを使う。

519:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:31:35 ID:t6+HHvif
問(40)

タイヤキ覚知とは、どんな異安心か。

答(40)

○おごられたタイヤキのことを覚えておらねばならぬ、
覚えておらねば生かしてはおかぬ、という異安心

520:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:33:04 ID:t6+HHvif
問(42)

ドメイン往生とは、どんな異安心か。

答(42)

阿弥陀如来の本願はさておきドメインに御報謝しているままで助かる、という異安心。

~~現代の新しい「異安心」より~~


いずれにしても、

★浄土真宗の信心である、「二種深信」と異なった信心

は「異安心」である。(注1)


そして、

>「必堕無間の後生の一大事」がわからないと、
>阿弥陀仏の本願はわからないのでございます!

と言うような「特殊文化」でもって、
「異安心」を認定することができないのは言うまでもない。(注2)

このように不当な「異安心」認定をするような人の「信心」は、
「プラサーダ」(信楽)=「二種深信」とはほど遠い、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の、(注3)(注4)
一種の「異安心」のようなものの可能性が高いと思われる。


【今日のまとめ】
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の
「信心」は、「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


※次回は、「信心」と「念仏」の関係についてレクチャーする。


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、§11浄土真宗の「信心」(二種深信)参照。

注2 詳しくは、【地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない】参照。

~~以下引用~~
>必堕無間の後生の一大事

これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

【質疑応答82】

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

【質疑応答83】

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、
ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

【質疑応答84】

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・28】

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメみたいですよ(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・26】
まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。


【親鸞会教義の相対化・30】
>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでお
かしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定
地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。



強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない

特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。
~~以上引用~~


(注3)「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いに関しては、§4の注4参照。

(注4)「分かってない安心」を、元親●会講師のメル友が以下のように解説くださった。

~~以下、メル友の解説~~

>>分かってない
>↑
>特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
>まあ納得ですけどね(笑)。

この「分かってない」「わかっとらん」は、親鸞会ではよく使われる言葉です。
いわゆる「親鸞会定義の異安心者」に対して、会の講師が、会員にいうとき使われます。

【用例】
会員「○○さんって、最近みないけどどうしたのでしょうか?」
講師「○○さんは、親鸞会をやめてしまった。彼は分かってなかった。」
「○○さんも、わかってなかったということです」
「あんな者のいうことを信じるなんて、わかってない」
「彼らは異安心だからわかってないんです」

会員「なぜこんな建物が必要なのですか?」「なぜ○○(会の財施や、人集めなどの方針」なのですか?」
講師「そんなことをいうものは、わかっていない」

というように、「わかっていない」の主語がハッキリしないために、聞かされた方は、自分で起こした疑問について全否定されるので、「自分は分かってない→自分では理解できない→自分は考える力がない→考えないでおこう」とだんだんと、思考停止のスパイラルに陥っていきます。

この「分かってない」も、いってみれば異安心といってもいいでしょう。

・分かってない安心→会員に「わかってない」「全然わかってない」ということによって、会員を思考停止にして安心する異安心

~~以上、メル友の解説~~
スポンサーサイト

投稿(§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン)

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン


浄土真宗の信心が「二種深信」であるというお話をしたので、
所謂「異安心」についても、若干触れておこう。

「異安心」とは、浄土真宗の異端思想のことであるが、

法然上人とも親鸞聖人とも異なる信心では、
法然上人や親鸞聖人と同じ極楽浄土に行けないので、(注1)
自分の信心が「異安心」にならないためにも、
「異安心」について知っておく必要があるのである。

ところで、浄土真宗において「異安心」であることは、
その人やその「教え」に従う団体にとっても致命的なことであるから、
「異安心」かどうかを認定するためには、
慎重に検証を加えならなければならない。

ところが、きちんとした検証を加えることもなく、
特定の個人や団体を一方的に「異安心」呼ばわりする人がいるのは、
とても危険で嘆かわしいことである。(注2)

というわけで、「異安心」を認定するために、
最低限どのような手続きを踏まねばならないかのガイドラインを作
成した。

↓↓↓↓

▽▽▽▽▽

【「異安心」を認定する際のガイドライン】

★はじめに

いかなる人にも、他人の心の中は見えません。
したがって、ある人の信心が「真実信心」かどうかは、
本人と阿弥陀仏にしかわかるものではありません。

しかし、ある人によって説かれている「教え」が、
善知識方の「教え」に明らかに反するものの場合、
その人の信心は「異安心」である可能性が極めて濃厚です。

したがって、このガイドラインは、
ある人によって説かれている「教え」を検討することによって、
その人の信心が「異安心」であるかどうかを認定するためのものです。


★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
cf.法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては
『選択集』16章参照

c)浄土真宗で、正しい「信心」がいかなるものであるかを説明した
テキスト。

例・・灘本愛慈『やさしい安心論題の話』(西本願寺)
   山田行雄『やさしい真宗信心のQ&A』(西本願寺)

上記b)に基づいて、浄土真宗でいかなる「信心」が正しいものであるか、
解説したテキストは、「異安心」を認定するのに参考になります。

ただし、このテキストは特定の「文化」の影響を受けている恐れがありますので、
必ず同時にb)を参照して、b)と抵触していなことを確認した上で、
使用していかなければなりません。

d)過去にどういう信心が「異安心」と認定されたかがわかる資料。

例・・中島覚亮『異安心史』(平楽寺書店)
   続真宗体系第18巻「異安心御教誡集」(真宗典籍刊行会)

過去の「異安心」の判例を知っておくと、
「異安心」認定が容易にできるようになります。

但し、これだけでは「異安心」認定はできません。
必ずb)を参照する必要があります。


★「異安心」認定までの手続き

準備ができたら、以下のプロセスで「異安心」を認定しましょう。

1)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料(a)から、
  「異安心」と思われる発言を典拠を挙げて抽出する。

2)上記の発言が、発言者の立ち位置に応じて、
  該当する(b)とどのような点で抵触するかを、典拠を挙げて説明する。

3)上記の説明が、自分独自の解釈や、
  自分の「文化」のみに固有の解釈でないことを、
  他の「文化」に属するテキスト(c)などからも証明できる場合は、
  それを指摘する。

4)さらにその発言が過去に「異安心」と認定されている場合は、
  それがわかる資料から(d)その判例を挙げておくのもいいでしょう。

だだし、その判例自体が誤っている可能性もありますので、
必ず、(b)を参照する必要があります。

そしてその判例が、(b)に抵触する場合は、
判例よりも、(b)を優先することは言うまでもありません。


★おわりに

カルトとは、

「誤謬・虚偽、詭弁・詭弁詐術満載の虚言・妄説を垂れ流した上、
その挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬドグマ体系とその信奉者」

のことである。

と以前「カルト」を分かりやすく定義いたしましたが、

きちんとした「異安心」認定プロセスを踏まえず、
無責任に「異安心」というレッテルを貼って、
挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬ輩は、
「カルト」と言われても仕方ありませんので、
「カルト」と言われないように、気をつけましょう。

さもないと、良識を疑われて、誰にも相手にされなくなり、
やがては言語空間から抹殺されてしまうことになるでしょう。


△△△△△


【今日のまとめ】
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。


――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『御伝鈔』第七段参照

上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。
かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。
わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

なお、『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱ってよいかどうかに関しては、検討を要する。
ただし、この「伝承」が伝えようとしている内容は浄土真宗の教義上、非常に重要である。


注2 例えば、以下のような論拠に基づか(け)ない異安心認定は極めて不当であり、このような不当な「異安心」認定を行って憚らない団体がどのように扱いを受けるかは、「ガイドライン」に述べた通りである

~~某チャンネルより~~

見えぬ自惚れ

ちょっと変わったことが起きると、「これが獲信」と思い込み、信心という極めて大切なことについて何の自制心もなく、「オレは信心獲得したぞ」と触れ回る者がいる。自分の体験に合わせて親鸞聖人の教えを聞くようになり、機に合わないところは聞かず、己の教学の不徹底に気づこうともしないから反省もない。
そんな自分の実態が分からないから、「こんな獲信の近道、なぜ教えてくれなかった」と大恩ある善知識にさえも謗法の刃を向ける。
自惚れの果ては、「こうすれば獲信できる」と、他人の信仰相談までやって自他ともに信仰の奇形児になり果てているのだ。
親鸞聖人のみ教えを破壊している大罪の自覚など、全くないのである。

自惚れは他人(ひと)に見えても身に見えぬ

以上、顕正新聞平成21年3月1日
三面「大喝」より引用
~~某チャンネルより~~


~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

(M支部長からBさんへのメールより抜粋)

大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

あれが、まともな人の文章でしょうか。

ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

本当に恐ろしいことです。

慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

可哀相な人だと思います。

~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

投稿(§11 浄土真宗の「信心」(二種深信))

§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)


「南無阿弥陀仏」の「名号」にどんな意味があるか?
前回までのレクチャーで、ちょっと詳しく解説した。
今回は、これを踏まえて浄土真宗の「信心」について解説する。

一口に「信心」と言っても、いろんな「信心」があるわけであるが、(注1)

浄土真宗の「信心」は他の「信心」とは全く異なる特別なもので、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を受け取って、
阿弥陀仏がお作りになられたシステムに乗した人の「信心」だけが、
浄土真宗の「信心」になる。(注2)

この様々な「信心」の中で特別な、
浄土真宗の「信心」の内容を明確に表したのが、
所謂「二種深信」ということになる。(注3)



「二種深信」の内容に関しては、既にご存じであると思うが、
一応、簡単におさらいしておこう。
     ↓
深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。
一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、
衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

(訳)
深心というのは、とりもなおさず深く信ずる心である。これに二種ある。
1)一つには、自分は罪深い迷える凡夫であり、はかり知れない昔から今にいたるまで、
常に迷いの世界に沈み、常に流転して、迷いから離れでる機会がないものである、
と心に決めて深く信じたということである。
2)二つには、かの阿弥陀仏は、
四十八願をもって衆生をおさめとって救われるのであるから、
疑いなくためらうことなくかの本願の力に乗じて、
まちがいなく浄土へ生まれることができる、と心に決めて
深く信じたということである。
(『観経疏』散善義)

1)・・機の深信
2)・・法の深信

ということになるわけだが、

ポイントになるのは、

阿弥陀仏が、どのような衆生を対象にして、
救済するためのシステムを構築したか?
(本願の生起本末)

を聞いて、それが本当のことであったと、
明らかに「知らされた」「わかった」になると、
(聞きて疑心あることなし)

この「オレ」というものが、
はかり知れない昔から今にいたるまで、
自分の力じゃ絶対に迷いの世界から離れることができない、
どうしようもないカス野郎だ!・・1)機の深信

であるということと、

阿弥陀仏が、そんなカス野郎をお目当てに、
とんでもないご苦労をしてシステムを作り、
それを完成させてくれているから、
そのシステムに乗じることによって、
この「オレ」が絶対間違いなく極楽浄土に往生して、
迷いのない存在になれる(成仏できる)!!・・2)法の深信(注4)


ということが同時に「知らされた」「わかった」ことになるということである。

これは、一つの「信心」を二つの角度から見たものだから、
どっちが先ということではなくて、
二つ同時に「知らされた」「わかった」になるものである。


自分が絶対に救われないカス野郎であるということが、
「知らされた」「わかった」から、(注5)
それを救うために阿弥陀仏が作ったシステムの凄さも、
同時に「知らされた」「わかった」になるわけであり、

阿弥陀仏の作ったシステムの凄さが「知らされた」「わかった」ら、
そこまでのシステムがなければ救われなかった、
自分のカス野郎加減も明らかに「知らされた」「わかった」になるのである。


だから、「南無阿弥陀仏」した人に、
「知らされた」「わかった」信心が「二種深信」であるから、

「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

これは非常に重要なことであるから、十分気をつけて欲しい。(注6)


【今日のまとめ】

1、様々な「信心」の中でも特別な、「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、二つの角度から明らかにしたものである。
3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

※次回は、所謂「異安心」について解説する。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「信心」(=プラサーダ、信楽)の対象は様々である。

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではない。

 その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれているし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められている。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではなく、ある人が「プラサーダ」を起こした際には、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となる。


注2 「信心」(=信楽、プラサーダ)を得たことが、イコール「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」を受け取ったことであることは、§6において、『御文章』5帖13通に基づいて述べた。


注3 「真実の信心」=「二種深信」に関しては以下参照。

『教行信証』信巻の「三心一心問答」には、第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり、「真実の信心」であると述べられている。

 ●今三心の字訓を按ずるに、
  真実の心にして虚仮雑ること無し、
  正直の心にして邪偽雑ること無し、
  真に知んぬ、
  疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
  信楽は即ち是れ一心なり。
  一心は即ち是れ真実信心なり。

『教行信証』信巻「一心轉釈」に、「真実信心」=「深心」=「深信」=「金剛心」であることが述べられている。

 ●然れば、願成就の一念は即ち是れ専心なり。
  専心は即ち是れ深心なり。
  深心は即ち是れ深信なり、
  深信は即ち是れ堅固深信なり、
  堅固深信は即ち是れ決定心なり、
  決定心は即ち是れ無上上心なり、
  無上上心は即ち是れ真心なり、
  真心は即ち是れ相続心なり、
  相続心は即ち是れ淳心なり、
  淳心は即ち是れ憶念なり、
  憶念は即ち是れ真実の一心なり、
  大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、
  真実信心は即ち是れ金剛心なり、
  金剛心は即ち是れ願作仏心なり、
  願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、
  度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり、
  是の心は即ち是れ大菩提心なり、
  是の心は即ち是れ大慈悲心なり、
  是の心は即ち是れ無量光明慧に由りて生ずるが故に。
  願海平等なるが故に発心等し、発心等しきが故に道等し、
  道等しきが故に大慈悲等し、大慈悲は是れ仏道の正因なるが故なり。

『愚禿鈔』の「深心」にも、「深心」=「深信の心」=二種の深信
=「他力の金剛心」であると述べられている。

  深心と言ふは即ち是れ深信之心なり。
  亦二種有り。
  『一には決定して、
   「自身は、現に是罪悪生死の凡夫、
    曠劫より已来常に没し常に流転して、
    出離の縁有る事無し」
   と深信す。
   二には決定して、
   「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふこと、
    疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」
   と深信す』と。
  今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。


これらによって、「真実の信心」=「一心」=「信楽」=「二種の深信」であることは明らかであり、

「真実の信心かどうか?」=「一心かどうか?」=「信楽かどうか?」=「二種の深信どうか?」

ということになる。


注4 親●会では、「救われる」という言葉は「信楽になる」という意味だけに使われているようである。
 しかし「法の深信」で知らされるのは、自らが阿弥陀仏のシステムに乗ずることによって間違いなく極楽浄土に往生して、迷いの世界から解放されるということである。
 これは、『観経疏』散善義の本文を読めば明かであり、そのようなシステム全体を、親鸞聖人が「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」と呼ばれたことは§1で既に述べた通りである。


注5 「凡夫」(プリタグ・ジャナ、異生)という言葉は、「輪廻を繰り返して種々の世界に生まれてしまうもの」という意味であり、単なる「愚かな者」「無知な者」ではない。自力では絶対に救われない存在を表す言葉である。


注6 この「ヘンテコドグマ」に関しては§10注4、並びに以下のQ&A参照。

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

ホームページを紹介します


 大変、参考になると思いますので、以下のサイトを、このブログからリンクいたします。


紅楳英顕の真宗教室
http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/

 本願寺派司教であり、相愛大学人文学部教授、相愛大学宗教部長、日本仏教学会理事を勤めておられます。
 大変、温厚なお人柄で、仏教学、真宗学について深い造詣をもっておられます。



真宗光明団
http://www.komyodan.jp/

 故細川巌先生の所属されていた団体です。
 私も、会合に参加させて頂きましたが、皆さん非常に勉強熱心で、感銘を受けました。

投稿(南無阿弥陀仏について)

清森先生へ


「苦笑の独り言」で、親鸞会における「南無阿弥陀仏」理解の誤りが指摘されていましたので、お知らせいたします。


★Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-283.html

Q。
いつもありがとうございます。

「南無阿弥陀仏」の意味について教えて頂きましたが、
結局、高●先生の「南無阿弥陀仏」の理解が、間違っていたのでしょうか?


A。
高●先生の話を直接聞いておりませんし、直接確認をしたわけではありませんが、
少なくとも、公式HPやその記事の元になる「顕正新聞」に書かれた、
「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈する理解は、明かに親鸞聖人や蓮如上人とは異なったものです。

繰り返しますが、蓮如上人著『正信偈大意』を読めば、
「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれております。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

高●先生のような解釈は、どこまでも個人的な「味わい」なわけであり、
「あじわい」と断った上で述べるのであればギリギリセーフですが、
この「味わい」は既にドグマ化され、会員さんに徹底されてしまってますので、
問題は大変深刻だと思います。



★Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-284.html

Q。
今回は根拠が豊富で、壮観ですね。反論の余地のない論文という感想です。
今回のところは、会員にとって、耳にたこができる程、聞かされた内容で、根拠も
知っているものが多いのですが、『教行信証』『尊号真像銘文』については、知らず、
目から鱗の感じになると思います。

ただ、「南無」を「助かった」「救われた」と直訳するのはおかしいことはわかりますが、
「意訳であっても間違いだろうか?」という疑問は残るのではと思います。

いかがでしょうか?


A。
間違いです(苦笑)。

「南無」の元になるサンスクリット語“namas”は、
「腰をかがめる」「おじぎをする」という意味の動詞“√nam”から派生した言葉で、
そこから相手に対して自分を「お任せする」「帰依する」という意味が出てきます。

浄土真宗では所謂「報恩感謝の念仏」が言われていますが、
これを阿弥陀仏に対する「お礼」などと言うのは全くおこがましい話です。

この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し続け、
自らの口から出る「本願招喚の勅命」の念仏を聞きながら、
「勅命にしたがひて召しにかなふ」生き方をし、
間違いなく極楽浄土に往生し成仏することこそが、
何もすることができない私達が、
阿弥陀仏の御恩に報いる最高の「報恩感謝」です。

阿弥陀仏の本願を無駄にしないこと以上の、
「報恩感謝」は存在しません。

§10の注3であげた蓮如上人『御文章』の言葉は、
全てそのような意味の言葉です。

既に、親●会における念仏不要論に対する批判がなされていますが(※)、
そういう点でも、親●会ドグマは二重三重に複雑に、
沢山の間違いを積み重ねているような気がします。

また後で、浄土真宗の大行論、念仏の位置づけの話で、
このことに関しては詳しく解説する予定ですが、
§10の注3で挙げた蓮如上人の言葉は、
とても大切ですので、しっかり何度も読んでください。


※以下の記事を参照

清森問答質疑応答164

同親鸞会教義の相対化・76(投稿)



★Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-285.html

Q。
いつもありがとうございます。
今回はちょっと内容が難しく、特に親●会で長年聴聞している人にはわかりにくい気がしました。
もうすこしわかりやすく、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」の違いについてまとめて頂けませんか?


A。
そんなに難しかったですか?
親●会関係者じゃない方には、
すんなりわかってもらえたんですけどね~(苦笑)。

繰り返しになりますが、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」は、
この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し、
阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」ものであり、
衆生が、阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」ものであり、
阿弥陀仏の「選択本願」であり、
衆生が間違いなく、極楽浄土に往生する「正定の業因」です。

「帰命無量寿如来」も、「阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり」
と蓮如上人が解釈されていますから、全く同じ意味です。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。


わかりやすく図にしてみました。
    ↓


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因




一方、親●会の「南無阿弥陀仏」は、
「帰命無量寿如来南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈していることから明かなように、
「救われた」「助けられた」後に限定されたものです。

したがって、「救われた」「助けられた」状態になるまで、
「南無阿弥陀仏」しませんので、
衆生が、「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」こともなく、
阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」こともありません。

そして、そのような衆生が、阿弥陀仏の「選択本願」によって、
極楽浄土に往生することはありませんので、
親●会の「南無阿弥陀仏」は、
衆生が永久に「救われた」「助けられた」にはなれない「南無阿弥陀仏」です。

これは、明らかに善導大師や親鸞聖人や蓮如上人と異なった「南無阿弥陀仏」であり、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ではありません。


こんなもんで、よろしゅうございますでしょうか?

投稿(§10 南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ)

§10 南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ

『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、

 ★「帰命」→「私を信じてシステムに乗じよ!!」
  という【勅命】

 ★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
  という【発願・回向】

 ★「即是其行」→「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
  という【選択本願】

という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回詳しく解説した。


そして、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、

すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。

・・というとも、既に述べてきた通りである。(注1)


今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、さらによくわかるという話である。


さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみよう。(注2)

 ★「帰命」  →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ
 ★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
 ★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因

ということで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっていることが注目されるべきことである。


★「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、

★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になる。


このように、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
私のような【衆生が】、間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できる。

だから「南無阿弥陀仏」が重要なのである。(注3)


今後は、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、阿弥陀仏に関係のない話ではなく、「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、浄土真宗の「聴聞」をして頂きたい。


間違っても、某浄土真宗系新宗教団体のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」といったように、
勝手な解釈をしてはならない。(注4)(注5)

「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しなかったならば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないままである。
このような誤ったドグマに従うべきでない。


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 これに関しては§7で詳しく述べた。


注2 『尊号真像銘文』

●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。


注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。

●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。


●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。

●3-5全文

●3-6全文

●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

●3-8全文

●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。
そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。

●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

●4-11全文

●4-14全文

●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。

●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
●5-13全文

●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。
されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。


注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。

浄土真宗親鸞会公式ホームページ 伝えたいことがある


「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

 無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。

※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)

親鸞会広島

親鸞会岩手

親鸞会三河

※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。

※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。

※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。


注5蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

投稿(親鸞会の不誠実な対応)その3

昨日の続き(最後)です。
団体名などを、一部、伏字に修正させて頂きました。

========================================
(BさんからM支部長へのメール)


M様


メールの返信を出させて頂いてから、2週間ほど経過しました。
残念ながら、未だ返信が届いておりません。
もう、お返事は頂けないのだと思います。
前回、頂いたメールにて、このように書いておられましたね。


>  Bさん、あなたは今、大変な迷いの中におられます。
>
>  地獄と極楽の分かれ道です。


本当に、そう思っておられるならば、私の質問にお答え頂けないのは「何故なのでしょうか?
もし、私が会員さんを担当していて、その人が地獄へ堕ちようとしていると思ったならば
何とかして疑問に答えて、分かってもらおうとします。
M支部長には、そういう気持ちも無いということなのでしょうか?
私は、支部長なら必ず答えてくれるはずだと思っておりました。
そのくらい信じておりました。
たとえ、講師部がどのような組織であっても、「Mさんだけはきっと返事をくれる、あの人は会員が質問している事を無視する人ではない」と心からそう思っていました。
悲しいです。
このメールに書いておられたことも、嘘だったとするならば、本当にショックです。

今回、M支部長とメールを交換することによって、図らずも親鸞会の本当の姿を知ってしまった思いがします。
私はこういう事実は、会員の皆さん全員が知るべきだと思います。
その上で、個々に判断すればいいと思います。
いろんなことを隠蔽し、捏造して親鸞会が得られるものは何なんでしょうか?

M支部長も、親鸞会がおかしいことは、十分に分かっておられると思います。
だけど、1000万円の誓約書で束縛されていますから、上司の指示に従うしかないのですよね。
いつの日か、M支部長が本心を語って下さる日を、お待ちしています。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)


B様

 手紙やメールを読んで、ただただ、残念で、言葉もありません。

 頑なに、会いたくないのは、なぜ?



========================================
(BさんからM支部長へのメール)


M様

>  頑なに、会いたくないのは、なぜ?

大勢で来られるからです。
Cさんの家にも複数の人で行かれたそうですね。
Cさんのご主人が対応されたそうですが、
なぜ支部長お一人で行かれなかったのでしょうか?

私と二人だけならお会いしたいと思います。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)

B様


>私と二人だけならお会いしたいと思います。

 いいですよ。


========================================
(BさんからM支部長へのメール)


M様

お会いしましたら、私の質問に必ずお答え頂けますね?
約束下さい。

>  手紙やメールを読んで、ただただ、残念で、言葉もありません。
>
>  頑なに、会いたくないのは、なぜ?

私もお聞きしたいです。
頑なに返答を拒むのはなぜ?


========================================
(M支部長からBさんへのメール)

B  様


 高森先生は、親鸞聖人の正しい教えを説いていらっしゃいます。

 今、大事なことは、本当の親鸞聖人の教えは何かということ。

 阿弥陀如来の願心、それを、明らかにされているのは、

 どなたなのか、ということですよ。


 土俵が違えば、かみ合わないと思いますが、後生の一大事の解決は

 阿弥陀仏の本願以外に無いからです。


========================================
(BさんからM支部長へのメール)


M様

私は、絶望してます。
私は支部長の質問には、きちんと答えました。
しかし、支部長は私の質問には、何ひとつ答えようとしない。
これだけ人を愚弄した話があるでしょうか。
今まで生きてきて初めてです。

答えないという事は、あの4つの質問は事実なのですね。
だから、答えないのです。
結論はこうですね。
反社会的な事を平気で行う親鸞会であっても
親鸞聖人の御教えを、正しく説いておられるのは、高森先生だけなのだから
そんなことは目をつむり、先生のご教導に従いなさいという事ですね。

はっきり申し上げますが、そんな事は出来ません。
正しい教えには、必ず正しい行動があるです。

4つの質問に対し、M支部長が毅然と「そんなことは嘘です、その証拠はこれです」

と言ってくれるの切望しておりました。
そうしたら、退会することなど考えませんでした。


>  土俵が違えば、かみ合わないと思いますが


土俵が違うというよりも、土俵から逃げているのが支部長です。


>  Bさん、あなたを救うのは、人でも組織でもありませんよ。
>
>  本師本仏の阿弥陀如来、ただ一仏です。


そのとおりです。
高森先生や親鸞会が救うのでありません。

もう、私からお話する事はございません。
お会いする意味もないと思いますが、支部長が話があるのでしたら
いつでもお会い致しますので、自宅にお越し下さい。
ただし、多人数で御本尊を取り返しに来るような事は、断じてなさらないで下さい。


========================================
(BさんからM支部長への手紙)


M様

合掌

長い間、お返事をお待ちしておりましたが、やはりご回答は頂けないのですね。
私は、M支部長なら答えて頂けると信じておりました。
退会させて頂きます。
お体にはくれぐれも気をつけてお過ごし下さいませ。

かしこ

========================================
(M支部長からBさんへのメール)


B様

 受信が出来なかったので、今、帰宅し、受信しました。

 やっと会えると思っていましたが、こんな風に、思われるとは・・・


 8ヶ月間、聴聞をしておられなかったこと、親鸞学徒の皆さんから

 離れていたこと、その間、とられた行動が、Bさんの心の向きを

 変えたのだと思います。


 手紙やメールに添付された内容は、浅ましい、おぞましいものばかり

 よく書けたものだと、「馬鹿じゃないの?」と言いたいですが

 暴言だと言われますので、言葉も無いのが現状。

 ↓ こんなことを、言うはずがないです。

>
>答えないという事は、あの4つの質問は事実なのですね。
>だから、答えないのです。
>結論はこうですね。
>反社会的な事を平気で行う親鸞会であっても
>親鸞聖人の御教えを、正しく説いておられるのは、高森先生だけなのだから
>そんなことは目をつむり、先生のご教導に従いなさいという事ですね。


投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2

昨日の投稿の続きです。
その後、Bさんは、友人のDさんにメールを出されました。

========================================
(Bさんから、別の会員Dさんへのメール)

D様

お返事が遅れて申し訳ございません。
2月にDさんにお目にかかってから、私は支部長に手紙を書かせて頂きました。

その中に、お答え頂きたい4つの質問をさせてもらいました。その4つの事が明らかにならない限り、退会させて頂きたいとお伝えしました。
そしてパソコンのメールに答えを頂きたいとお願いしました。

しかし、手紙を出させて頂いてから5日くらい経ってやっと来た返事は「お会いしましょう」だけでした。
結局回答してもらえず、今日に至っております。

私は、Sさんに支部長に手紙を書いた事を伝えました。
Sさんは、返事は出来ないだろうと言われました。それは「講師部は一般の会員さんには理解出来ないだろうが、組織は軍隊のようなもので、上司の指示なしでは絶対行動は出来ない。だから返事はこないよ」と言われましたが本当にそのとおりでした。
ですから、返事が頂けなくてもそれは、本会の指示だと思います。

私がメールで返信をお願いしたのは、証拠が残るからです。
もし、私が質問させて頂いた事が、本当に捏造なら、メールでお返事が出来ると思いました。
誠に残念です。

Dさんは、私の行動を批判されるかもしれませんが、真剣に確認していけば分かります。
大沼法竜氏やI氏の著書の盗作は丸写しと言っていいくらいです。
現代の教行信証とまで言われた「会報」はなぜか今は廃刊になりました。
とても不思議でしたが、これも盗作でした。それがバレた為に廃刊になったのです。確認すれば、分かります。これは氷山の一角です。

M支部長のご主人は、夜中に退会しようとした人の家に押し掛けて正ご本尊を取り返しに行きました。
You Tubeに声が録音されてアップされております。
本会の実態が分かった時の衝撃は筆舌な尽くしがたいものでした。

また、野尻真紀講師の支部にいる会員さんは、絶縁状を偽造され、清森講師に送りつけられました。その会員さんは後で、それを知り、泣きながら絶縁状など書いていないと言われたそうです。これは私文書偽造という犯罪ですよ。
こんな、社会正義に反する事をしている会が、正しい教えなど説けるはずがありません。
私は後生の一大事の解決のためだけに親鸞会に入会したのです。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)


B様


> 私は後生の一大事の解決のためだけに親鸞会に入会したのです。


 Bさんの、この言葉を信じています。

 この言葉どおりなら、何があっても純粋に、親鸞聖人の教えに従っていけると思います。

 高森先生は、親鸞聖人の正しい教えを説いていらっしゃるのですから。

 大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

 だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

 親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

 あれが、まともな人の文章でしょうか。

 ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

 本当に恐ろしいことです。

 慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

 可哀相な人だと思います。


 Bさん、あなたを救うのは、人でも組織でもありませんよ。

 本師本仏の阿弥陀如来、ただ一仏です。

 その阿弥陀如来の願心が、三願転入なのです。

 いずれも、「十方衆生」を救うために、阿弥陀如来が建立されたのですよ。

 このほかに、どんな近道も、コツもありません。

 あるはずがありません。

「善のすすめは遠回り」などと言っているのは、弥陀の願心の破壊ですよ。釈迦一代の教え、仏法そのものの否定ですよ。

 だから、K会の人たちは、「信仰の奇形児」といわれるのです。

 通らなければならない道を通っていないからです。

 五つ目のぼたもちだけ食べて、満腹したつもりになっているからです。

 人間はあせると、そういう体験をしてしまうものです。つい、おかしなものをつかんでしまうものなのです。だから昔から、「つもりの信心」「千万の化城」「大きな安心16ぺん」などと言われているのですよ。

 彼らの機関誌によれば、すでに何百人も救われているはずなのに、誰一人、熱烈に布教活動する人がありません。「救われた」と叫んでいた人が、次々に聞法しなくなっているではありませんか。

 おかしいと思いませんか。

 そんな消極的、退嬰的なものが、親鸞聖人のみ教えでしょうか。


 Bさん、よくよく考えてみてください。

 どなたのおかげで、あなたは仏縁を結ばれましたか。

 どなたのご苦労があって、あなたは仏教を聞かれるようになったのでしょうか。弁論で優勝されたBさんを、いまも思い出します。

 会長先生のお葉書、今も大切にされていますか。

 よくよく考えてみてください。

 そして、大切な大切な仏縁、尊く大事にしてください。


 繰り返しますが、三願転入が、阿弥陀如来の御心です。それをそのまま教えられたのが、親鸞聖人です。

 19、20願は、絶対に通らなければならない獲信の道程なのですよ。必要不可欠の方便だから、阿弥陀如来が建てられたのですよ。

 方便を方便と知らないのは、真実が分かっていない証拠ですよ。

 真実を真実と知らせるための、方便なのですから。


「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」

 親鸞聖人が断言されているではありませんか。


 Bさん、あなたは今、大変な迷いの中におられます。

 地獄と極楽の分かれ道です。


 今、大事なことは、本当の親鸞聖人の教えは何か。

 それを、明らかにされているのは、どなたなのか、ということです。


 18願だけでいい、自分はそれで助かる、と思われますか。

 19の方便願は、自分には必要ないと思われますか。

 それなら、阿弥陀さまの見込み違いですよ。

よくよく自己を見つめて、振り返ってください。

 最近の顕正新聞に何が書かれてあるか、心を静めて読んでみてください。

 親鸞聖人の本当の教えを、真剣に聞いてください。


 仏縁を念じています。



========================================
(BさんからM支部長へのメール)



M様

メールを頂き本当にありがとうございます。
それにしても、Dさんにメールさせて頂いたとたんに
お返事を頂き驚きました。
1ヶ月以上もお待ちしたお返事ですが、私の質問の回答はしていただけないのですね。

支部長として、私の後生を案じてのご返信でしょうか?
このような内容ならば、こんなに時間がかからなくても、すぐに頂けたのにと思います。
1ヶ月もほったらかしの支部長が、今更私の心配をして頂いているとは思えませんが。


>  高森先生は、親鸞聖人の正しい教えを説いていらっしゃるのですから。
>
>  大沼法隆は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅
>
> 子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く
>
> 知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の
>
> 教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。




ではなぜ、高森先生は、「化土往生の安楽椅子」や「三業安心の安楽椅子」の教えを、 ご自身の著作として、学徒の皆さんに読ませているのでしょうか?
間違った教えを広めるのに、協力していることになりませんか?
私が高森先生の御著書の中で最も感動した文章の一つが、「白道燃ゆ」の「魂の叫び」です。
この、真に迫る信仰の告白を読ませて頂いて、高森先生は真実の方に間違いないと確信いたしました。
ところが、この信仰の告白さえも、大沼法竜氏の著書の盗作でした。
なぜ、ご自身の信仰さえも、ご自分の言葉で表現することができないのでしょうか?



◎魂の叫び

来る年も、来る年も、金銭を求めて苦しんでいる。どれだけ得れば満足するのか。
名誉を追うて、あせっている。どこまで登れば安心できるのか。財産を望み、色を漁り 衣食住の満足を願って、三百六十五日狂い回っているのが私の実相だ。
無限の欲望は一村、一国、世界に、ひろがってゆく。
咲き誇った花も、必ず散らねばならぬ時がくるように、集めた財産も、地位も、名誉も総てが離散する時がくるのだ。泡沫のように消えてゆく。
死の巌頭に立った時は、三文の価値もないものだ、と百も千も合点承知しながら、この根性はどうだ
この魂は何としたことか。
(白道燃ゆ)


『名誉を憧れて居る、何処迄登れば満足するか、 地位を望んで居る、何処まで得れば満たされるか
学問を要求して居る、どれだけ得たら止めるか、
土地を貪って居る、色を求めて居る、金銭を欲して居る、衣食住を願って居る、
等々々々と限りなく
一村、一国、四天下と無限に欲望は動いて居るではないか、
嗚呼永遠に私を救うものは何者であろうか、うたかたの様に消え行く地位や名誉
や学問は、 死の岸頭に立つ時は三文の価値も無いものだぞ。』
(大沼法竜著「歓喜の余滴 中巻」)


あゝ、私の心は、血涙を流して懺悔しても足らぬ悪性なのに、微塵の懺悔の心もない。 こんな無慚無愧の恥知らずの鉄面皮が、高上りして、他人を見下している。
他人から褒められたい一杯、名を知られたい一杯、食いたい一杯、したい一杯、
遊びたい一杯より以外に心は動かない。
(白道燃ゆ)


『嗚呼、私の心、無慚無愧の悪性じゃなア、大地にひれ伏して懺悔しないか
これ程にも鉄面皮の奴であるとは思わなんだが、
照さるれば照さるる程底が知れないではないか。
この根性はこの根性は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、
高上りして居る人から讃められたいと思って居る、道心堅固じやと言って貰い度い
名を知られ度い、食いたい、したい、遊びたい、より他には心が動かないから浅間しいではないか。』
(大沼法竜著「歓喜の余滴 中巻」)


不思議だ不思議だ、こんな奴が何故にこんなに嬉しいのか。
何故にこんなに恵まれているのか。
何故にこんなに愉快なのか。どうしてこんなに生かされるのか。自分自身にも判らない。
他人が知ったら、さぞ変人と思うだろう、笑う者には笑わせよ、そしる人にはそしらせよ
弥陀より外に知る人ぞなき世界だもの。
毀誉褒貶を度外視して、叫ばずにおれないこの信念。
人生苦悩の乱麻を截つ、
南無阿弥陀仏の名刀の切れ味は凄い。逆境こそ心の試練であり、不幸こそ信念の試金石である。
(白道燃ゆ)


『何故嬉しいのか何故愉快なのか、自分には判らないが
人が聞いたらさぞ可笑しかろう、笑えば笑え罵らば罵れ、
絶対不二の妙法に打明かされた嬉しさには文句を超越して進まずには居られないのだ
逆境こそ心の試練であり不幸こそ魂の試金石である。 』
(大沼法竜著「歓喜の余滴 中巻」)


今日の一日が尊い。只今の一息はもっと尊い。吸う息吐く息が不思議だ。
こんな広大無辺な、仏恩を受けながら、九牛の一毛も報い切れない私は、悪魔か、羅刹か、
なぜ身心に破れるまで、真実を叫び続けぬのか。
苦しみ悩む人がいるのはお前の責任だ。大地にひれ伏して大罪を謝し、身命を賭して破邪顕正に突撃しなければならない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
(白道燃ゆ)


『進むぞやるぞ命のあらん限り。
今日の一日程尊い日は無いのだ、今日の一時間、今日の一秒間は尚更尊い、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。』
(大沼法竜著「歓喜の余滴 中巻」)

具体的な箇所を示しました。
M支部長はまだご存知ないのですか?
大罪を犯し多くの人を惑わしている人の文章を盗作するなど
常識では考えられません。



> だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、
>
> あの体たらくなのです。


高森先生のことを仰っているのですか?
なぜK会で救われたことを隠しておられるのでしょうか?


>  このほかに、どんな近道も、コツもありません。
>
>  あるはずがありません。


何を勘違いされているのでしょうか?
私は近道もコツもあるとは思っておりませんよ。
そんなこと一言も言っておりません。


> 「善のすすめは遠回り」などと言っているのは、弥陀の願心の破壊です
>
> よ。釈迦一代の教え、仏法そのものの否定ですよ。

ではお聞きしますが、
親鸞会で勧めているのは善でしょうか?悪でしょうか?
例えば、夜中の1時過ぎに、多人数で本尊を取り返しに押しかけるのは、善ですか?悪ですか?
本人に無断で受取拒否の葉書を出したり
絶縁状を捏造して人間関係を破壊することは善ですか?悪ですか?
妻子ある身でありながら、部下と不倫関係にあることは善ですか?悪ですか?

悪を勧めている親鸞会では救われない、と理解してよろしいでしょうか?


>  だから、K会の人たちは、「信仰の奇形児」といわれるのです。


客観的な物言いですが
具体的に、誰が、K会の人たちを「信仰の奇形児」と言っているのでしょうか?
私は聞いたことがありません。


>  五つ目のぼたもちだけ食べて、満腹したつもりになっているからです。
>
>  人間はあせると、そういう体験をしてしまうものです。つい、おかし
>
> なものをつかんでしまうものなのです。だから昔から、「つもりの信心」
>
> 「千万の化城」「大きな安心16ぺん」などと言われているのですよ。


本当に私の手紙をちゃんとお読み頂けたのでしょうか?
私は早く助かりたいとあせっているのではありません。
親鸞会がやっていることに不信感を持っているから、質問しているのです。
それに答えてもいただけないで、勝手な推測は止めて頂きたいです。
私はK会に入会した訳でもありませんし、他で話を聞いているわけでもありません。


>  彼らの機関誌によれば、すでに何百人も救われているはずなのに、誰
>
> 一人、熱烈に布教活動する人がありません。「救われた」と叫んでいた
>
> 人が、次々に聞法しなくなっているではありませんか。
>
>  おかしいと思いませんか。
>
>  そんな消極的、退嬰的なものが、親鸞聖人のみ教えでしょうか。


私は、今まで顕正新聞で「救われた」という告白を何回も読んだ記憶がありますが
その多くの方が、聞法しなくなっています。
まして、熱烈に布教活動しているなんて聞いたことがありません。
おかしいと思いました。
親鸞会で、「私は救われた」と言って、熱烈に布教活動している人があるでしょうか?


高森先生以外で、具体的に名前を教えてください。
真実信心かどうかは、三業では分かりませんから、信心の真偽を言っているのではありません。
言動として、「私は救われた」と言って、熱烈に布教活動している人がいるかどうかは客観的に分かるはずです。



>  Bさん、あなたは今、大変な迷いの中におられます。
>
>  地獄と極楽の分かれ道です。
>
>
>  今、大事なことは、本当の親鸞聖人の教えは何か。
>
>  それを、明らかにされているのは、どなたなのか、ということです。


本当に、そのように思って下さっていらっしゃるのであれば、
私の質問を無視したり、はぐらかしたりせず、お答えいただきたく思います。
会員が尋ねていることは、きちんと答えるべきだと思います。
それが、支部長の勤めではないでしょうか?
Dさんからメールをもらいましたので返信しましたが、その内容に驚いて
今回メールを下さったのだと思います。
私がDさんにメールをしなかったら、今回のメールは頂けなかったでしょう。
こんな返信を見るほど心からお気の毒な思いが致します。
Sさんは以前、「いつか気が付く日がくるよ、Mさんなら」と
言ってました。私もそう願います。事実を正しく見てください。恐れずに。
今回の質問も含めて
誠意のあるお返事をお待ちしております。


(この後、2週間ほど、支部長から返信無し)

投稿(親鸞会の不誠実な対応)その1



 以下の文章は、親鸞会会員Bさんと、担当のM支部長とのやり取りです。

 Bさんから、親鸞会の不誠実な対応について、ぜひ皆さんにも知っていただきたいと投稿がありました。


 最近はインターネット上でも、親鸞会の問題点について、たびたび取りざたされています。

 親鸞会では、「あんなのは便所の落書きだ。堂々と批判してこないのに、相手にする必要はない」と言っているのでしょうか?

 そんなことはありません。私が知っているだけでも、かなり沢山の会員さんが、直接、支部長に対して、親鸞会の運営や、教義に対する疑問を、口頭や、文章でぶつけています。(ここに紹介しているのは、ほんの一例です)

 しかし、その疑問に対して、まともに対応してもらえたという話を、聞いたことがありません。


 なぜ、質問しても無視されるのか。
 それは、指摘が的を射ており、反論できないからだと思います。

 私も講師部員の時は、こういう疑問が起きても、押し殺すように努力していました。
 高森先生や、親鸞会の活動に疑問を起こすということは、講師部員はもちろん、親鸞学徒失格であり、絶対に助からない、無間地獄まっさかさまだ、と脅迫観念に駆られていました。

 ですから、M支部長の気持ちも、痛いほどよく分かります。


 しかし、だからといって、会員さんを裏切り、傷つけるような行為が許されるわけではありません。

 確かに、今まで積み重ねてきた過ちを認め、改めるということは、なかなか出来ないことだと思いますが、それをしなければ、親鸞会は間違いなく大崩壊します。

 すでに、その兆候はあちこちに現れています。もう時間はありません。
 高森先生には一刻も早く、決断して頂きたいと思います。

(長くなりますので、数回に分けて掲載いたします)


========================================
(BさんからM支部長への手紙)


M支部長へ


合掌

 Bです。

 今般、どうしても自分の正直な気持ちをお伝えしたいと思い、ペンを執った次第です。
 昨年、9月にCさんが辞めた事は、本当に大きな驚きでした。
 個人的にも彼女と親しくしておりましたので、とても信じることが出来ませんでした。
 なぜやめたのか。
 支部長は「Sが後ろにいるのは違いない」と言われましたね。
「SはK会には入っている」と聞きましたが、私は、それが何か判りませんでしたので、「K会ってなんですか?」と聞いた時、「土蔵秘事に類するもの」と支部長は言われました。
 その時、正直言いまして、「何を言っているのか」と思いました。
 あのCさんが土蔵秘事なんかに迷う訳がない。
 絶対に他に理由があるはずだ、と思っていました。
 支部長から止められましたが、私はどうしてもCさんに会って確認せずにはおれませんでした。
 私の思いを手紙に書いたところ、Cさんに会うことが出来ました。
 彼女の口から、初めて会を辞めた本当の理由を知りました。
 驚きました。耳を疑いました。
 しかし、やはり土蔵秘事などではありませんでした。

 支部長からお聞きしたK会とは浄土真宗K会といいますが、なんと高森先生はそのK会にいた事があるというではありませんか。
 また、その時に顕正新聞で毎月のように"あるグループ"という言い方で名前を出さずに誹謗中傷しているのが、そのK会だったという事も知りました。
 私は顕正新聞を読んでいて、いつも不思議でした。
 何の事をいっているのだろう、なんで毎月こんな事を書いているのだろうと思っていました。
 また支部長から、「高森先生は福井の皆さんを心配しておられる」ということもお聞きしましたが、これについても、何を心配しておられるのかと本当に不思議でした。
 他にも、大沼法竜氏やI氏などの著書からの剽窃。
 また、高森布教局長の不倫問題など、まだまだありましたが、親鸞会だけがこの世で信じられる唯一の組織と思っておりましたので、はじめて聞いた時はとても信じられませんでした。
 本当に眠れない日が続きました。
 しかし聞いた以上は、自分で確かめるしかないと心を決めました。

 盗作と言われた本を確認しました。
「ネットは見てはならない」と言われておりましたから、忠実に守ってきました。
 しかし私は、ネットに書かれている事が本当かどうか確認する為、ネットは勿論ですが、Sさんや元講師の方、元会員の方に連絡を取り、事実を確認していきました。
 確かにネットには、愚にもつかぬ内容もあります。
 また元会員の中には、怨恨や霊感的な事を言う、本当におかしな人もおりました。
 こういう人の話は論外で問題にしておりません。
 また親鸞会が"土蔵秘事に類するもの"と言って誹謗中傷しているK会に行き、M先生にもお会いしました。
 M先生の事は、高森先生もよくご存知の事と思います。
 ご説法もお聞きして来ましたが、どこにも土蔵秘事のような事はありませんでした。
 買い求めた書籍の中にも、親鸞会が言っているような事は書いてありませんでした。
 K会への誹謗のひとつと思われる事ですが、「機相をいうな」と最近やかましく顕正新聞などで書かれています。
 しかし高森先生も、先生のお母様も救われた体験を語っておられる著書がありました。
 これは機相ではないのですか。

 この数ヶ月間、私はいろんな人に会ったり、本を読んだりして調べて確認してきましたが、本当に自分が信じていた事が崩れていく恐怖に襲われました。
 32年ですよ、32年。
 心から信頼していた人、心から信頼していた団体、心から信頼していた教え、自分の人生を全否定する恐ろしさから目をそむけようとさえ思いました。
 しかし事実は事実として、把握しなければならないと思ったのです。
 ネットを見るなと言ったり、K会の事を誹謗中傷するのは、高森先生ご自身がいた会の事を知られると困るので、嘘を言って近づかないようにしていたのではないかと思ってしまいます。
 しかし、以下の事は真実と判明しました。


1.高森先生がK会にいた事があり、顕正新聞などでK会の名前を伏せて誹謗中傷していること

2.大沼法竜氏、I氏らの著書を盗作している事実

3.高森布教局長がHS講師と不倫関係にあり、その証拠があるにも関らず、それらに関った講師方を不倫は捏造とし粛清した事実
 ※HS講師の夫であるRS講師のお父様が"「捏造」と捏造された不倫事件の真実"というブログを立ち上げて高森先生、布教局長、恭子部長との電話、手紙のやり取りを公開しております。

4.収支報告のない会計処理


 ここでひとつ断言しておきますが、SさんやCさんに言いくるめられた訳ではありません。全くちがいます。
 これはあくまで、私が事実かどうか確認した結果、判った事です。
 私は悩みました。
 この事実を支部長に話そうか、どうか本当に迷いました。
 Cさんがなぜ何も言わずに退会したのか、理由がよく理解できます。
 こういう事実を知り、支部長に伝えたところで、何か解ってもらえる事があるでしょうか。
 Sさんはじめ、退会した人達のことを呼び捨てにして、平気で罵る人達を見てきて、理由を言う気になれないのはよく分かります。

 Sさんに至ってはシロアリとまで言い放つ、本会には本当に深い疑問を持ちます。
 なぜなら親鸞会は破邪顕正に命をかける団体で、公開であれ、非公開であれ、どこでも真実を明らかにすると言っているではありませんか。
 それならばなぜ、Sさんのお宅に行って破邪顕正しないのでしょうか?
 逃げも隠れもせず、今までと同じ所に住んでいます。
 Sさんはじめ、いろんな人がネットに書いていますが、総てウソであるなら、有能な弁護士が本会にもいるのですから、訴訟をおこせば良いではありませんか。
 こそこそと、ネット対策などする必要はないと思います。
 今、ネット上の誹謗中傷も十分犯罪の対象です。
 面と向かって、Sさんに誰も何も言わないのは、書かれている事が真実だからと判断せざるをえません。
 確かにSさんは個性的な方です。好き嫌いはあるでしょう。
 しかし30年の長い間付き合ってきて分かるのは、嘘をいう人では決してないという事です。
 こんな大きなリスクがある事を堂々とネット上に書けるでしょうか。

 親鸞会のやっている事は社会正義に反すると思います。
 なぜなら、因果の道理は仏教の根幹と教えて頂いております。
 しかし、善をせよと勧める親鸞会が、とても仏法者とは思えない犯罪まがい(実際の犯罪もあります)の事を平然とやっているからです。
 親鸞会は善を勧めているのでしょう?
 仏法者なのでしょう?
 言行一致しておりません。
 本会の為に、高森先生に生涯をささげている講師の方々に、講師を辞める時は違約金1,000万円を支払う誓約書を書かせたりするなど、常軌を逸しているとしか思えません。
 何の為の誓約書なのですか。
 そんな誓約書を書かせないと安心出来ないのでしょうか。
 心から悲しくなりました。

 私はこの事実を知ってから、支部長の言葉の不自然さを思い出しました。
 開発の○○○○会館で、ご報謝を募る時、支部長は「ご報謝は使って下さいと言ってさせて頂くものです。何に使われてもいいじゃないの」と言われたのです。
 私はこの時に、今までご報謝を募る時、こんな言い方はしなかったのにと不思議に思いましたが、使途不明なお金の使われ方を知ると、だからそのような言い方をしたのかと思いました。
 また昨年、Sさんから暑中見舞が届いた時に、その葉書を支部長に渡すよう指示がありましたね。
 私はこの時、本当に捨ててしまっていて、持ってなかったのです。
 その事実を支部長に話した時、本当に困惑している様子が、電話を通してでもよく分かりました。
 その時は不思議でした。
 なんで捨ててしまった事がそんなに困る事なのか、分かりませんでした。
 今は分かります。
 私たちに無断で、"受取拒否"をする為だったのですね。
 その時にちゃんと理由を言って下さらなかったのは、なぜでしょうか。

 元講師の清森さんのブログにこのように書いてありました。
 野尻真紀講師(実名で出ています)が、会員Aさんの元に届いた清森さんからの葉書を、本人の意思も確認せずに受取拒否で返信しました。
 またAさんの名前で絶縁状を偽造して送ったというのです。
 あとでその事を知ったAさんは泣きながら、絶縁状など書いていないと言われたそうです。
 この件も捏造でしょうか。
「私文書偽造」という立派な犯罪です。
 心から悲しくなります。

 2月の顕真の巻頭言には、信頼と人徳という事が書いてありました。
 人徳ゼロ人間にはなりたくないものだと明記してありましたが、こんな行為をしていて信頼と人徳はえられるのでしょうか。


 私は4つの件が明らかにならない限り、退会したいと思っております。

1.K会の名前を伏せて「土蔵秘事」と誹謗中傷している理由

2.盗作の事実について
  もし盗作が捏造ならばそれを証明できる事実

3.高森布教局長の不倫について
  不倫の事実を捏造とし、関った講師方を粛清した理由
 ※不倫そのものは問題にしておりません。
  講師部には男女関係について厳しい規定があるにも関らず、布教局長はなぜその規定の対象とならなかったのか明らかにして下さい。

4.収支報告しない理由
  人から集めたお金は収支報告するのが、社会通念上当然だと思います。


 客観的に証拠を出して明らかにして頂きたいと思います。
 申し訳ありませんが、「会長先生の御心」は答えではないと思っております。

 まだ、書きたいことはありますが、私のお伝えしたい事を書かせて頂きました。
 M支部長には、大変お世話になり、またとても大好きな支部長でした。
 縁があってM支部になりました。
 それなのに、このような事をお伝えするのは誠に残念です。
 私は支部長に感謝こそすれ、恨む気持ちなどは全くございません。
 本当に今でも大好きです。それ故に残念でなりません。
 親鸞会には、32年ご縁がありました。
 いろんな事を教えて頂きました。
 親鸞聖人の御教えまでも間違っているとは思っておりません。
 ですから本当によかったと思っております。
 ただ、自分の人生です。
 私の人生は私が責任を取らねばなりません。
 どのような人生になっても、誰の責任でもありません。
 このような事実を知ってから、頭を下げて聞かせて頂こうという気持ちがなくなりました。
 ですから、親鸞会で信心決定するのは不可能です。

 本来ならば、お目にかかってお話させて頂く事が筋だと思います。
 それが長い間、お世話になった事に対する礼儀だと思います。
 しかし何を言っても総て、親鸞会、高森先生だけが正しいと言う支部長に私の感じた事は到底、理解して頂けないと思います。

 この数ヶ月間、本当に悩みました。
 しかし、相手の心を少しでも考える事が出来る会であれば、退会しようとした人の家に、夜中に正御本尊を取り返しに行ったり、また絶縁状を偽造したり出来るでしょうか。
 こんな事を平然と行う親鸞会が、本当に人の幸せを願う会とは私にはどうしても思えないのです。
 回答はメールにてお願い致します。
 ○○○○@○○.or.jp
 私の思い違い、考え違いがありましたならば、私の後生がかかっておりますので、どうぞメールで返信下さいませ。

 退会する時は○○○○も一緒に退会させて頂きます。
 正御本尊は郵送させて頂きます。
 また、お仏壇に安置させて頂いております正御本尊は、私が30年前に求めたものです。
 大切にさせて頂きますので、こちらは返納させて頂くつもりはございません。
 家や会社に来られますと大変迷惑ですので、ご遠慮ください。
 また、無理やり押しかけて取り返しに来るような事はなさらないで下さい。
 お願い申し上げます。
 お体、くれぐれもご自愛下さいませ。

                             かしこ

========================================
(M支部長からBさんへのメール)


 2月に、Cさんの夢を見ました。

 何も言わず、突然のことで、今も信じたくて

 会いたいと思っていたからだと思います。


 Bさんも、なぜ、「会って支部長と話をしたい」と

 言ってくれないのか?と、思いました。



========================================
(BさんからM支部長へのメール)


M支部長へ

 メールの返信ありがとうございます。
 私の質問にはお答え頂けなくて残念です。

>
> 2月に、Cさんの夢を見ました。
>
> 何も言わず、突然のことで、今も信じたくて
>
> 会いたいと思っていたからだと思います。
>

 今も信じたいと仰るのは、何を信じたいと思われるのでしょうか?
 Cさんが今でも”親鸞会を信じている”と信じたいという事でしょうか?

 彼女は責任感や正義感が人一倍強い人です。
 そんな彼女ですから、親鸞会のやってきた事を許せないのだと思います。
 深く信じていたから、余計に許せないのです。
 そんな会が本当に真実を説いているのかと、今度は教えに対しての不信感がでてきました。
 だから私達は、確認せずにはおれなかったのです。
 みんな、自分の後生がかかっているからです。
 その為に、親鸞会に入会したのです。

 私も世間の中で仕事をしてきて、まことあることなしを実感してきました。
 だからこそ、親鸞会は正しく素晴らしい組織であることが私の誇りでもあったのです。
 本当に今まで生きてきて、こんな大きなショックはありませんでした。


> Bさんも、なぜ、「会って支部長と話をしたい」と
>
> 言ってくれないのか?と、思いました。


 理由は手紙に書かせて頂きました。
 私もCさんも、心情的には会いたいと思う気持ちはありますが
 親鸞会支部長としてのMさんには
 会ってお話することはありません。
 私の質問にお答え頂きたいと存じます。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)


 2月までは、確信が無かったからで、今は、ハッキリしました。

 会って話をしましょう。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)(続けて2通)


 Bさんは、支部学徒なのですから、支部長として

 会って、話をしたいと言っているのは、おかしく

 ないと思います。

 支部長でない私の返信というのは、どういう意味ですか?


========================================
(BさんからM支部長へのメール)


> 支部長でない私の返信というのは、どういう意味ですか?
>^^^^^^^^^↑^^^^^^^^^^^^
申し訳ありませんが、何を聞いておられるのか意味がわかりませんので
お尋ねになられている事を教えて下さい。


========================================
(M支部長からBさんへのメール)


B様

>私もCさんも、心情的には会いたいと思う気持ちはありますが
>親鸞会支部長としてのMさんには
>会ってお話することはありません。

 私も、この意味がわかりません。


========================================
(BさんからM支部長へのメール)


>>私もCさんも、心情的には会いたいと思う気持ちはありますが
>>親鸞会支部長としてのMさんには
>>会ってお話することはありません。

>私も、この意味がわかりません。


 人間的には、Mさんの事は今でも好きです。
 それはCさんも同じです。
 ただ、親鸞会のM支部長には会いたくないという
 意味です。

 私の質問にメールで答えられないが
 会ったら答えると言われるのでしょうか?
 答えられるならメールでも出来ると思います。

 申し訳ありませんが、私はお会いしたくありません。


(この後、1ヶ月以上、支部長からの返信無し)

投稿(§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命)

§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命


ここで、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、如何なる意味があるか
を解説しておこう。(注1)

「南無阿弥陀仏」の六字の意味を、はじめて明かにしたのは善導大師で、
以下のように解釈しておられる。(注2)(注3)


★「南無」  →「帰命」
       →「発願回向」
★「阿弥陀仏」→「即是其行」



これを、親鸞聖人は『教行信証』で次のように解釈しておられる。
(注4)

★「帰命」  →「本願招喚の勅命」
★「発願回向」→「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」
★「即是其行」→「選択本願」

ここでポイントになるのは、

この『教行信証』の解釈が、「南無阿弥陀仏」の中身である、
「帰命」も「発願回向」も「即是」も、
その主語が全部【阿弥陀仏が】になっているということである。


★「本願招喚の勅命」とは、【阿弥陀仏が】私に、
「ワシを信じるのだ!」と命令しているということである。

私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するためのシステムは、
【阿弥陀仏が】既に完成させてくださっていて、
あとは私がそれを信じてシステムに乗ずるだけの段階になっている。

だから、【阿弥陀仏が】、
「私を信じて、このシステムに飛び込んで来なさい!!」
と「招き」「喚んで」「命令」しておられるのである。


★「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」とは、
私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するための「働き」である、
「行」というものが、全部【阿弥陀仏が】与えてくださったものである。
ということである。

【阿弥陀仏が】作ってくれた「働き」が、
私の所に届くことによって、私は極楽浄土に往生することができる。
しかし、それが届かなかったら、往生することはでけない。

だから、【阿弥陀仏が】、
なんとかしてその「働き」を私に与えようとしているというのが、
この「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」なのである。


★「選択本願」というのは、
私を極楽浄土に往生させて成仏させるために、
【阿弥陀仏が】与えてくださった「働き」が、
他の誰でもなく、【阿弥陀仏が】自ら選びとってくださったもので(「選択」)、
【阿弥陀仏が】過去に誓った誓願を実現されて完成された(「本願」)ものである。
ということである。



このように、「南無阿弥陀仏」というものは、
私のような衆生の勝手な計らいでなされたものじゃなくて、

★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】で、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】で、

★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】なのである。

このように「南無阿弥陀仏」は、全て【阿弥陀仏が】作ったものなので、

「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」に、
私のようなものを極楽浄土に往生させて、最終的に成仏までさせるような、
人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっているのである。(注5)



だから、【阿弥陀仏が】作った、この「南無阿弥陀仏」の「名号」を、【衆生が】「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)するということが、

即ち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる、
「信心」を【衆生が】獲得するということになるのである。(注6)



このことは、『尊号真像銘文』における解釈を読むと更によくわかる。
解説が長くなるので次回に述べよう。


【今日のまとめ】
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」という【勅命】、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
★「私が選択して完成させたシステムだから間違いない!!」という【選択本願】、
として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、私が「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
  【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

※来週も大切やから、見逃しちゃダメよ!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 このことは、「六字釈義」として所謂「安心論題」でも取り扱われている。

浄土真宗教学の「伝統」として蓄積されたものであり、非常によくまとまっているので、以下に参考までに挙げておく。

~~以下引用~~
六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。
ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう)の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生」(玄義分)文「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。
「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。
~~以上引用~~


注2 『観経疏』玄義分

●いまこの観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行ありて具足す。
いかんが具足する。南無といふは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

注3 この部分の解釈に関しては、以下の記述に問題はない。

~~以下『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~

この尊高無比の名号、尊号、嘉号を善導大師は
『南無というは帰命、亦是、発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり』と教えて、南無とはタノム機の方であり、阿弥陀佛とは助くる法の方である。
タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国佛教の全盛時代であった。
当時、有名な天台、嘉祥淨影等の諸大師が競うて『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。
所謂、淨影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。
これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。
何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。
然るに、この下々品の人間は無善造悪で、業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
南無は帰命、帰命とは身命をなげ出して佛にお願いすることだから南無阿弥陀佛ということは阿弥陀佛さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。
唯願無行だ。
だから十念の称名念佛は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。
今はただ遠生の結縁になるだけである。
にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。
別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大朱論』の中に、佛の説法に四悪趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法に仕方である。
諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと云えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。
それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近づかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。
だから南無阿弥陀佛だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮かぶ縁になるということである。
しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなく、それ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解をケ゛キ破する為に「今、我が延ぶるところ、佛の願意に叶いませば夢中に霊相を示し玉え」と日々、阿弥陀経を誦すること三遍、念佛三万遍相続され十方諸佛に証明を乞われたという。
かくて夜毎に化佛来りて一々佛に指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して
「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀佛の目的でないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、佛の慈悲は苦なるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。
しかもその南無阿弥陀佛の名号は諸師の言われるような唯願無行では絶対にない。何故なら、南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは即ち是その行なり、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえて有るから必ず往生が出来るのだ。
願行具足といっても凡夫が願を起し、凡夫が行を修して行くのなら、凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に佛の世界に、行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
大信海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。
~~以上『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~


注4 『教行信証』行巻

●ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

(訳)
こういうわけで「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願による勅命なのである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って久遠の昔に、衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる心を言うのである。
「即是其行」とは、阿弥陀仏が発願し回向されたその行が、選択本願による行であることを表している。


注5 詳しくは§6で述べた通りである。

また『無量寿経』巻下東方偈には、以下の記述がある。

●その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。


注6 これに関しては§7で詳しく述べた。

六字の呼び声 (その3)

 以下は、親鸞会元講師部員である嶋田久義さんからの投稿です。
 昨日に引き続きの内容です。


         *         *         *


追伸


 不思議なご縁により「六字の呼び声」をお読み頂きまして有難うございました。
 驚かれた方、こんなことだったのかーと気付かれた方、不審に思われた方、皆さん感想はそれぞれと思います。
 私の知って頂きたいことは、阿弥陀仏は常に貴方に南无阿弥陀仏を与えよう、真実信心を受け取らせようと十劫の昔から善巧方便しておられます。
 親となり、先生となり、友となりーーー貴方の周りの全てそうなのですが、気付かないだけなのです。
 ただ気をつけて頂きたいことは、私に阿弥陀様は、書きましたように善巧方便してお助け下さいましたが、それは人それぞれ違うということです。機ごと機ごとにお導き下さるということです。
 聴聞を続けて何年、何十年かかる方もあれば、数回の聴聞で信楽開発される方もあります。また説法中の方も、仕事中に、食事中、入浴中、勤行中の場合もあります。
 過去世の仏縁、今生の聞き方もまちまちだからでありますが、救う阿弥陀様は全力あげて早く分かってくれと、呼びづめであることだけは忘れないで下さい。
 そこで知らされてきたことをもう少しお伝えして、皆さんに、南无阿弥陀仏の主に、仏凡一体の身になって頂きたいと思います。



○仏法は聴聞に極まる「仏願の生起本末を聞く」


 親鸞聖人は、法然上人より阿弥陀仏の18願のみ心を聴聞されて救い摂られ、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」の身となられました。
 その18願を聞きながらまだ疑いの中にいて、19願(雑行)20願(雑修)の心で助かろうとしている380余人の法友に「定散の自心に迷うて金剛の真心に昏し」と見抜かれ、気付いて下さいと三大諍論をなされのです。

 蓮如上人も「雑行、雑修、自力の心を振り捨てて後生助けたまえと弥陀たのめ」と強調され、「南無阿弥陀仏のいわれを聞け」「南无阿弥陀仏のすがたを心得よ」と教えられています。
 ではどう心得るのか、その「六字の心」「仏願の生起本末」を御文章に

「阿弥陀如来の仰せられけるようは、末代の凡夫、罪業の我等たらん者、罪はいかほど深くとも(生起)我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし(本末)」と仰せられたり」4帖目9通

とハッキリとお示しになられています。一生涯これ一つを教えて行かれたのです。
「どんな悪人も、そのままわれに任せよ、必ず救う」

 信心決定とは、このみ心に貫かれ、疑心なく、明信仏智、信順無疑、仰せにハイとなったことでした。

「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。ただ仏法は聴聞に極まることなり」御一代記聞書

 妙好人や獲信した人は皆、この聴聞の一本道、仏願の生起本末を聞いて救われています。



 その18願、生起本末を聴聞すれば「悪人そのままで救う」と言われます。しかし自分はそんな悪人だろうかと最初は疑います。道徳倫理程度で見ているからです。
 だが聴聞すれば生起、誰の為の、どんな者のための本願なのか、聞くほど照らされ見せられてくる。私は煩悩具足の凡夫であるなーと。

 毎日が、俺が俺がの我執丸出しの浅ましい生活でないですか。(黒い心)
 しかし「本当にこのままだろうか」と疑い、遠慮し、もっと欲も抑え、腹も立てず、愚痴言わず感謝の日暮しにならねば助けて頂けないのではないだろうかと、この心を直しにかかりはしませんか。
 極悪人と見抜かれての本願、これがお目当てとは思えず、善人に成ろう、ましな人間になろう、善いことすれば助けて下されるだろう、やれば出来るだろうと思っていませんか。
 これは阿弥陀様仏のみ心に反しているから、そんな心でやる善を雑行と嫌われるのです。(19願、自力の信心)

 なぜ雑行と嫌うのか。阿弥陀様のみ心は、悪人が好きではないが、悪のし放題で六道輪廻して苦しむ私を、哀れだなー、可愛そうだ、見てはおられぬ、助けてやりたいのお慈悲で、仏の座から降りて、修行のし直しをなされて極悪人の私を助ける南无阿弥陀仏になって下さったのです。

 大慈悲心はどうして起こされたのか、自分の正体を知らないから善人になったならば助けて頂ける、と大間違いをしているのです。
 だからやる善を雑行と言われるのです。真実の業と言わないのです。

 私のする善は虚仮雑毒の善だと親鸞聖人は教えられます。
 本当に善が出来るでしょうか。自分の得や利を捨てて親切を本気でやっているでしょうか。私には本心から出来ません。最後は我が身が可愛いのです。親が大事、妻が大事、子供が大事の腹底は自分大事だからです。

 善知識の厳しい真実の自己のご説法を重ねて聞く度に、出来る奴でない、直る根性でないことが分かってきます。生起を知れよ、値打ちを知れよと重ねて説かれるからです。

 善人になって助けて頂こうと思っていたが自惚れであり、浅ましい落第者と段々と分かってきます。
 自分は十悪、五逆、謗法で無常の命ではないかと知れてくると、こんな奴が今死んだらと後生はどうなるか、ただ事ではない、一大事だなとと不安になってくるのです。

 その私に、「そのまま任せよー、必ず救う」と南無阿弥陀仏と呼んで下さっているぞと善知識は説いて下されるのが本末です。
 南无阿弥陀仏になって下されたみ心、五兆の願行のご苦労、十劫の昔から、呼んで呼んで待ち通しのやるせなきみ心、助ける弥陀が手を下げ、頭下げてどうか任せておくれ、助けさせておくれ、信じてくれると信じて下さる真実のみ心を聞かせて頂くのです。

 しかし、この心が分からない。受け取れない。計らうのです。
 そこで自分の方から阿弥陀仏にお願いして助けて頂こうとかかるのです。諸善と比べられない功徳の念仏称えたり、朝晩のお勤めを励んだり、阿弥陀様のことを一心に念じて何とかなりたいとしていませんか。
 これを力として、あてにして助かろうとするから雑修と言われるのです。(20願、自力の信心)

 それも日によって心が変わり安心できない。
 お勤めをサボったりすると、阿弥陀様に見捨てられるように感じて、これではなーと不安になっとことはありませんか。
 すると余計に真剣になろう、真面目になろうと反省して、信じようともがく。しかし念仏も、信ずる心も続かない。Sさんも出来ぬと泣かれたのはここでした。


「それは自力だ、その心を捨てて、弥陀に任せよ」と聞かせて頂くが、ではどう信じたら、どう任せたら、どうたのんだらと計らい、疑い、信心を掴もうとするのです。安心したい、楽になりたい、喜びたいと自分の心ばかりこね回し、苦心して悩み苦しみ、遂に阿弥陀様さえも恨むのです。こんなに私が苦しんでいるのにどうして助けて下さらないのですか、どこ向いておられるのかとまで言い出すのです。
 これが宿善の人の心です。調熟の光明のお育てなのです。
 これ皆、阿弥陀様の十劫以来の想像を絶する種々のお育てなのですが、本人は分からないから、「私は宿善が薄いから助からないのだ」などと言ったりするのです。とんでもないことなのです。
「まことに宿善まかせとはいいながら」と蓮如上人が言われる深いみ心なのです。

 そのにっちも、さっちもならない、助かる縁の尽きたどん底に「南無の心」「任せよー」「はよ来いー」「そのままー」が届いた一念に、ああーいらざることをしておりましたー(雑行、雑修、自力の心が振り廃る)と謝り果てて南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏「遠く宿縁を慶べ」の親鸞聖人と一味の信とならせて頂くのです。(18願、他力廻向の信心)
「南無とは本願招喚の勅命なり」と親鸞聖人は阿弥陀様の直の呼び声、有無を言わせぬ仰せ、ハイとなってしまう、信ぜずにおれない呼び声であるとおっしゃています。
 その南無の心に貫かれた一念で疑い心、自力心は無くなってしまいます。



 世界一の名医が「貴方はガンでありしかも末期です。このままにしておれば命はありません。私に任せて下さい、このガンを必ず治してみせます。治せます」と言ったとします。ところが患者は「私がガン、末期?。先生脅かさないで下さいよ。どこも痛くないし、何を食べても美味しいし、よく眠れます。仕事もあるから入院、手術など、どうして出来ますか。それほど言われるなら、健康食品でも食べて、運動もするようにしますよ」と返事しているようなものです。
 病気(悪業煩悩、後生の一大事)の恐ろしさの自覚なく、名医の言葉を信ぜず(疑い)、良いと言われる健康食品(諸善)でなんとかなると勝手に思っている愚かな患者と同じです。
 この患者お見て名医は何と思うでしょうか。
 信じて、任せてくれないことを嘆き、患者の末路が分かるから悲しまれるのです。
 愚かな患者は私達であり、名医は阿弥陀様です。
 十劫以来、御立ちずくめ、浄土で待っておれず迎えに来られたお姿が、ご木像、ご絵像のやるせない大悲のお姿なのです。

 今、阿弥陀様は何と思っておられるでしょうか。
 疑い、逃げ回り、謗っていることを悲しんでおられます。

「八つとせ 益にもたたぬ雑行や 雑修、自力を捨てもせで
 弥陀仏泣かせていたことは ほんに今まで知らなんだ」


 私も、三願転入だから、19願の諸善をやれば宿善が厚くなってゆく、私は活動に頑張っているから宿善が厚い、あの人よりも、そのうちに開発、などと、自分で積み上げ、出来る筈だと考えていたこともあったが、全く阿弥陀様のご苦労を知らず、とんでもない大間違いでありました。
 宿善とは阿弥陀仏が何とか助けんと念じ続け、自分の値打ち、お目当ての機を知らせ、逃げ続け、疑い続け、謗る自力の心、仏敵も浮かび上がらせ、ご照育下された十劫以来のご苦労であり宿縁、仏縁でありました。



 三願建立、三願転入のみ心は、19願からさあやるぞでなく、18願の救いを聞いても、疑っている19願の人や、20願の人も皆、調機誘引、照育して最後に必ず18願の約束通り、南无阿弥陀仏の大功徳を廻向して往生成仏させてみせようのお誓いと頂きます。
 18願の仏正意を聴聞することで19願、20願の自力心を一念で破って頂けるみ教えなのです。
 三願転入は阿弥陀様の調熟の光明のお育てで通らされる心の道、救われて知らされる心の道と思います。やれば助かると説く教えではありません。
 言葉の意味を間違えては、大変なことになってくるのです。



 高森先生は「顕正」124Pに「然るに、わが浄土真宗は、このような19願、20願に当る浄土宗とは違って、18願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意をを弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 喩えば、虎の手本を見せて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎でなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵が描けるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因ともなるものもあろうが、たゆまずアキラメず、信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真実を諦得出来るようになるのである。
 未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に、教家は常に虎の説法をしなければならないのである」

 18願のみを徹底して説けよ、聞けよ、50年前はそう説かれていたのです。三願転入の一文字もありません。

・「廃立とは、廃とは捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、すてものであり、廻向せられるものは名号六字である。」128P

・「自力計度の心は一念開発、信心決定の一念に南無廻向の機によってなくなるが、悪業煩悩は臨終夕べの一念までなくならない。」66P

自力計度の心(暗い心)疑情
南無廻向の心(白い心)
悪業煩悩  (黒い心)衆生性得の機


 南無廻向の機とは何か、皆さんこれまで知っておられましたか。最も大事なことですが知る方は少ないと思います。
「六字御名号のご本尊」にして朝夕礼拝しておりながら六字の心を正しく知らない。「無上甚深の功徳利益の広大なることその極まりもなきものなり」と言いながら、何が甚深か広大か分からない。
 この大慈悲心を抜きに聞いているから、いつまでたってもハッキリしないのです。



○高森先生は「会報」4集32P

『古来、教行信証は三重廃立を開顕せられたものだと言われている。事実、三重廃立以外に「教行信証」の教えはないのである。まさに聖人が一生の心血を注いで開顕したもうた三重廃立の教えこそ釈迦、諸仏、菩薩の出世本懐である。「一向専念無量寿仏」を鮮明に徹底させ、濁流滔滔たる現代人を救う最高の指針ある。これこそ聖人の精神であり、源流遠く大聖釈尊の真実を伝うるものである。
 我々が信心決定して絶対の幸福を獲得するのには必ず、この「捨てもの」と「拾いもの」とを明らかに理解して、捨てるべきものは速やかにこれを捨て、拾うべきものは速やかにこれをとらなければ、絶対に救われることはないということである。』


 こんなにハッキリと正しく書かれています。


 親鸞聖人は「教行信証」の前5巻に18願のみ心、救いを詳しく著され、最後1巻の「化身土巻」に18願のみ心を疑い、19願、20願を信じる人の心を著されてその心得違いを正されています。

 また、高森先生はこうも言われました。
『「教行信証」の前5巻には18願、信後のことが書かれてあり、最後の1巻「化身土」巻に信前の19願、20願のことが書かれてある。なぜ親鸞聖人は信後のことを先に多く書かれたのか、よくよく考えると、こう教えることが私達が信心決定できるから、親鸞聖人はこのように教えられらのです。だからこのように説かねばならない」

 18願の徹底の大切さを教えられた。聴聞の長い人は聞いて知っていますね。



 高森先生は「会報」5集59P

『一体、どこに19願相応の修行をしている道俗が真宗に見当たるのか。どこも20願相応の念仏をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く「あれはまだ19願だ」「あれは20願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相応した行がともなわない人ばかりだから本当の19願、20願の行者は真宗の道俗には、いないと言ってよいのだ』
 これも断言して書かれています。その通りです。19願や20願は落第です。

「いないと言ってもよいのだ」皆さんや、私のことですよ。実行できない、と言われていることを良く覚えて続きをお読み下さい。



 しかし今はどうですか。どう説かれていますか。
 35周年あたり(15年前)から、前と変わってきた。
 三願転入が強調され出した。


「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。我々に19願、20願はいらぬ、18願だけでいいと公然と言う学者もいるが、皆、三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19願20願を通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
(平成18年4月30日の教学講義で聞きました)

「化身土巻」の三願転入を、これが親鸞聖人の教えの全てように言われ、従仮入真と強調して「19願、20願は絶対に通らなけらばならない獲信の道程」と言われています。
 まず19願の諸善から真剣にやらねば信仰は進まない。
 親鸞会の活動(人集め、お金集め等)を強く勧められます。
 前に教えられたことと同じでしょうか、よく読み比べてみて下さい。
 明らかに違っていますね。
 だから「会報」が廃版になった原因かなと思いましたが、違っているでしょか。



○どうしてこうなったのか。

 大沼氏の盗作をしているうちに、反対に心を盗まれてしまったのでしょうか。
 16冊を読んでそう思えてきましたが、無理な邪推でしょうか。
 高森先生のお話、書かれたものの元は大沼氏からの引用、盗作が余りにも多いのに驚きます。
「求道の縦、横の線、卒業がある、決勝点がある」も一緒でした。

「深い御心です」など言っている人は何も知らない人です。


・大沼氏「広大難思の大慶喜」241P
『この三願転入をせず、第18願だけでよいと言う人は、二尊や聖人より偉い人なのです。阿弥陀さまは、いらない願を建てられたか、釈尊は不要な説法をされたのか、聖人自らの体験が三願転入であるが、他の道を通って聖人と同じ報土に往生ができるでしょうか』

・大沼氏「八万の法蔵は聞の一字に摂る」113P
『「化土往生できるか」なんて言えば「われわれのような者は自力の修行が出来ないから、化土に行かれるものか。化土へ行くのは、自力の修行をした人が行くのだ」と言う人がいるだろうが、あなたは自力が出来るか、出来ぬかやってみたことがありますか。ーーーー
まだあなたは、19願の入り口ですよ』

・大沼氏「昭和の歎異鈔」322P
『たとえば、買い物の荷物を子供が持つと言ったとき、持てないことを承知の上で親が荷物の下に手をすけ、子供は真っ赤な顔をしてーーーー』
『自力一杯19願をやって出来ないと知らされた者が次の20願へ行く。階段です』と譬えられています。



 これ皆、高森先生からも聞いた内容ですね。
 まだまだ、こんなものでありません。いかに影響が大きいか、分かってこられましたか。
 だから次のような発言になってゆくのです。



 高森先生は「雑行、雑修、自力の心を振り捨てる」をこう言われました。

「捨てるべき雑行がどんなものか分からねば捨てられないから、雑行を知らねば成らない。知るためにはやらねばならない。子供が重い荷物を持てると自惚れていたら、持たせないと持てたのに、の不満はなくならない。持たせて始めて無理と分かる。納得する、文句言わない。親にまかせる」

 この話に納得して何十年も諸善(活動)をして来ましたが、この話こそ大問題でした。
 自力の善根功徳を積み上げて、これで後生の一大事が助かるか無理かやってみようということになります。
 19願は死ぬまで求道、臨終来迎に遇わねば助かりません。しかも18願の本願を疑いながらの自力の善根功徳ですから、出来る人は化土往生と説かれています。
 これを求めていることになりますよ。

 だから親鸞聖人はこれら19願、20願の人に「和讃33首」を創られ「仏智疑う罪深しーーー」「仏智不思議の弥陀の御誓いを疑う罪、咎を知らせんとあわわすなり」と教えておられます。
 私は18願、六字の心を知って、何ということを何十年もやってきたのか、人に勧めてきたのか、愕然としました。「仏智疑う罪」を知ったからです。
 六字の心を明らかに説かれず、知らないから、罪悪深重、無常の命なのに真仮廃立の心が分からず、方便さえやっておればいつか真に入るのだろうと漠然とやっていただけでした。貴方はどうですか。

 真(六字の心)を知らずして仮が仮と分かりません。
 三願転入しなければ助からないなら、「会報」5集55P「一体、どこに19願相応の修行をしている道俗が真宗に見当たるのか。どこも20願相応の念仏をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く、「あれはまだ19願だ」「あれは20願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相応した行がともなわない人ばかりだから本当の19願、20願の行者は真宗の道俗には、いないと言ってよいのだ」

 これでは誰も助からないことになりますよ。
 大矛盾でありませんか。出来ないことを勧めていることになるからです。
 実際、活動、財施は勧めても、20願の念仏を勧めていますか。あなたの支部長、幹部の方は念仏称えておられますか。
 講師部時代、上司も講師部も念仏の人は見かけませんでした。これで講師部も20願の行人でないから、18願の願海へ絶対に転入出来ないことになります。助かりませんよ。

 高森先生自身が19願、20願の通りやって18願の世界に救われた「体験」を聞いたことはありません。
 高森先生の獲信の18歳の「体験」は「華光誌」に載っており、何度も読みましたが、19願、20願の行をしたと書いてありません。
 高森先生が22歳の時「華光社」から出版された「獲信の記録」も読みましたが、5名の方、皆さん生々しく語られ、高森先生のお母さんまで実に詳しく語っておられます。
 高森先生から19、20願の行や三願転入を勧められたなど、どこを読んでも書いてありません。「そのまままかせよ必ず救う」の18願、六字のみ心を聞かれたのです。
 なぜ「体験」の本を出版したのですか。今は隠すのですか。
 しかも本の最後には伊藤先生の「仏敵」と「華光誌」の購読まで紹介し勧めてあります。なぜですか、おかしいですね。



「体験」がよほど都合が悪いのか、最近は言わないようですが、前はよく聞きました。顕正新聞にも出ていました。
「自信教人信」自らの獲信を語り、阿弥陀様の救いは真実であること、その喜び、広大なご恩を話して、お救いの法を説いてゆく、これが本当の説法ではないですか。
 これを皆さん心から聞きたいと願っておられるのではありませんか。

 ゆったりとした会場、安心な弁当、綺麗な宿泊所、広い風呂、高価な絵画、これを楽しみに参詣されるのでしょうか。
 力の入れるところ、心のかける所が違っていませんか。
「一人なりとも人の信を獲るべきならば、身をすてよ。それすたらぬ」。蓮如上人のご催促です。
 皆さんの不満の声が聞こえてきますよ。



●現在の親鸞会の最大の問題はここにあります。


 また高森先生は「善を力一杯やってこそ、悪しか出来ない自己が分かる」とも言われました。私もそうかと思って、悪人と分からない原因はここだと信じていました。これが真実の自己を知る鍵だと思いました。
 では分かったでしょうか。何十年やって本当の自分の値打ちが分かったでしょうか。30年40年講師部の道で精進してる人からも聞いたことがありません。誰か言われでしょうか。
 そんなことが分かる自分でしょうか。素直に認める私ですか。
 自分の座っている座布団は自分では持ち上げれないのです。
 自惚れ一杯の私が、地獄行きの極悪人と知らされたでしょうか。
 やればやるほど、やったー、目標を達成した、俺はやってるぞー、自慢心が一杯でないでしょうか。
「仏願の生起本末を聞く」これ以外に真実の自己を知らされる道はないのです。仏智で照らされないと見えてこない私なんです。

 私も母から親心を聞いて、親不幸の57年であったと思い知らされました。心配のかけ通し、思い続けていてくれているのに、それなのに私は自分のしたい放題の人生を過ごし、一体、1年に何日親のことを思ったことがあったろうか。
 自分勝手で、恩知らず、もらう物はもらい、利用する鬼、餓鬼の心しかない私とやっと気付く大馬鹿者でした。
 親の心を聞いて、知って、ようやく親不孝者、五逆の者と分かったのです。

 自分の値打ちは自分で考えるのでなく、阿弥陀様がどう見ておられるか、仏智に見抜かれた自己を聞かねば正しく分からないのです。
 聴聞に極まるのです。

「やらねば分からない」こんな話に乗せられて、「人集め、お金集め」の活動を頑張っていれば、やがて真実の自己が分かると思いますか。このままでは大変な後悔を残すと思います。



 しかも大沼氏は親鸞会のような活動をすることが19願の行者だからやれとは書いていません。
 18願の聞き損ないだから、そこに座わらず他力になるまで聞けと勧めています。
 ここにも高森先生の独自の三願転入の解釈が刷り込まれているのです。最近、大沼氏を「化土往生の安楽椅子を説いた親玉です」と非難している親鸞会支部長(講師部)の通信を読みました。

 都合のいいところだけ利用して最後はこうです。
 自分の間違いは一切認めず、謝罪せず、相手を非難する、これで皆さんついてゆけますか。



「宿善論争」は「どちらが真実か」分かります。
 本願寺の指摘はその通りです。

(本願寺)「親鸞会では未信の人は宿善の薄い者であるから、信心を獲得するためには自力の善根を積んで厚くしなければならないという」
「当流では他力の信心を獲るためにまず自力諸善を積まねばならないという説示はない」
「宿善とは親鸞聖人が{たまたま行信(信心)を獲ば遠く宿縁慶べとあるように遇法獲信の現在から過去をさかのぼって宿善のお陰であると、その由縁を喜ぶものである。将来の獲信のために積まならないという方向で語られるものではない」

 本願寺は真仮、自他力廃立のみ教えに立って、18願の仏意を述べているのです。正しい指摘です。


(親鸞会)「親鸞聖人のみ教えに善の勧めは有るのか、無いのか」
 これは、三願転入の19願の諸善のことを問題にしているトンチンカンな質問なのです。19願は諸善が勧められているのは当然です。
 いかに噛み合わないことを聞いているか、六字の仏智を頂いてみると、こんな私にもハッキリ分かるのです。
 それを「返答求めて」といいながら本願寺に押しかけて座り込みまでしたのですから、本願寺の方で呆れて、話にならない団体だと、無視されたのが本当だと思います。
 それを返答が無い、勝った、勝ったとはお粗末千万でした。本願寺は100年1000年経とうと返事はしないと思います。
「三重廃立が親鸞聖人のみ教え」、高森先生も昔は書いおられた、皆さんここをよく考えてみれば分かることなのです。
 そして高森先生はこの後、三願転入に力をいれて説かれ、今日のようなってきたのです。


「自力一杯求めたら、自力無効と知らされる、まず諸善を励め」と、19願、20願を頑張ればやがて18願に「入れるように思わせる解釈、教え方」をしておられます。
 どんなに否定しても、会員さんに聞けば事実と分かります。30年間のSさんもそれを信じ、苦しまれました。
「三願転入の根拠を示して教えている、真実を説いている」と言っても18願の阿弥陀仏の本願を正しく説けないようでは、正しい教えではありません。
 18願に当益(往生成仏)は誓われてないとか、若不生者は「信楽」にしてみせるのお約束と言ったり、次々と間違いが明らかになっています。これで18願に転入されるでしょうか。
 何時になったら正しい六字の心を聞けるでしょうか。疑問です。

 母の言う通り、前と話が明らかに違ってきています。
 今のまま求めてゆけばどうなるか、何より、Sさんが身をもって教えてゆかれました。
 自分の後生の一大事です。今こそこれまでの求道を振り返って、今後どうするか静かに考える時ではないでしょうか。



 親鸞会は「親鸞聖人のみ教えを徹底する以外にあってはならない」と公言し、会員さんはそれ一つを誇りとして厳しい道を歩んでこられました。私もこの心で共に求めた同志の一人です。
 しかし、ここまで曲がってしまいました。
 本当に残念です。
 信じていたものを疑うのは苦しいでしょうが、真実かどうか、今こそ熟慮して下さい。私も何ヵ月かかって悩んだ末にようや決心がつきました。
 そんな簡単ではないのです。しかし求めれば真実に必ず出会えます。
「今ここで私が」救われる六字なのです。



 長い文章になってしまい恐縮です。
 そうかと思われる方、、善知識を誹謗していると憤慨される方もあることも承知しています。
 母は「今は言われることが変わられたが、高森さんのお陰で聞かせてもろうた。恩があるでなー」と言ったことを忘れません。私もです。仏教のイロハから聞かせて頂いたのです。釈尊の出世本懐は阿弥陀仏の本願以外にないと。
 だからこそ、十劫より待っておられる阿弥陀様のご恩を思えば書かずにおれませんでした。
 私は何と思われてもかまいませんが、「六字の呼び声」だけは聞いて頂きたい、知って頂きたい。これしかありません。

「あわれ、あわれ存命のうちに、皆々、信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心しばらくも止むことなし」
 蓮如上人の御遺言を胸に刻んで終わらせて頂きます。



 若し、読むだけでなく、聞きたいこと、相談したい事などございましたら遠慮なく仰有って下さい。聞かせて頂いたことで迷惑はおかけ致しません。
 私は毎日仕事に出かけますので、日中は時間がとれませんが、事は後生の一大事、出来る限り最善を尽くします。

〒918-8134
福井市下莇生田町27-1-32嶋田久義

メールアドレス simahisayoshi@yahoo.co.jp


電話090-2375-8256

●時間昼12時10分から12時30分まで
夜8時から9時まで

(これ以外の時間は難しいと思います)

○もっと詳しく知りたいと思われましたら
増井悟朗先生の「念仏の雄叫び」(法蔵館)をお勧め致します。

六字の呼び声 (その2)

 以下は、親鸞会元講師部員である嶋田久義さんからの投稿です。
 昨日に引き続きの内容です。


         *         *         *

○1月 華光会で聞法を始める


 京都の華光会館、3階建ての2階道場へ行くと、すでに全国から同人の方が集まっておられ、福井から初めて参詣した方々と一緒に後ろの方に座った。ご本尊はご木像で、皆さんの服装をみて驚いた。
 楽な服装で、スーツ、ネクタイの男性は私一人だった。
 お勤めも本願寺系のお勤めで静かに聞いていた。
 ご法話が始まり「身体を楽にして聞いて下さい」と言われてまた驚いた。
 正座が当たり前と思っていたが、皆さん自由で私は正座で聞いた。
 S先生のお話だったが、親鸞聖人のお言葉から阿弥陀仏のみ心にについて深いお味わいを述べられたので、親鸞会のお聖教解釈の説法との違いを感じ、ああこれが華光会のご法話なのかと思った。すごく新鮮だった。

 ご法話が終わり、十数人の幾つかのグループに分かれて、座談、ご示談が始まった。
 福井から来た私達は、3階の増井悟朗先生のグループに参加した。
 前に電話でお話させて頂いたが、初めてお会いして、穏やかで、慈悲と信念の強さを感じるお顔だった。
 全員の自己紹介の後、ご法話を聞いてどう感じられたか、一人一人の感想を聞かれた。
 ここでは有難そうな建て前発言や優等生発言は何にもならない、これまで後ろ向き発言をしてはならないと縛られていたが、やっと本音が言える、聞いてもらえる所だと分かってきた。

 私の番になって、「まだよく分かりません」と言った。
 妻も率直な思いを言っていた。やがて部屋の六字の御名号に念仏を称えるように勧められ称え始めた。周りの方達も一斉に称えられ、念仏の声が響き合い、こんな念仏の合唱は初めてだった。
 もう一つ驚いたのが、「これから真剣に聞かせて頂きます」と言った時、S先生から「これから、これからですか。そんな聞き方をしているから何時までたっても解決がつかないんです。今、ここで、私一人の為、と聞かせてもらいなさいよ」とハッキリ言われ、頭を棒で殴られたようなショックを受けた。
「続けて聞かせて頂きましょう」と40年間言われ、言ってきたので一番大事なことが全く抜けていた。

 長い間の聞法姿勢を打ち砕いて頂いた。しかし帰りに、やはり来て良かった、さあこれから聞かせて頂くぞとまた後戻り、そう簡単にこの心は正されない。そのうちに信心はピンピンしている。
 書籍コーナーには、伊藤、増井先生以外の浄土真宗の先生の本が多く並べられてあった。皆、自己の獲信を告白し阿弥陀仏の本願の救いの間違いないことが書かれてあり、他のもの読むなと言われてきたのと大違いだ。早速求めた。
ご法話ビデオの貸し出しがあるのには感動した。過去の行事の時のご法話が聴聞できる。これまでとは考えられないことだった。これも借りた。



○聞法の日々

 毎日、会社の往復時間も惜しくテープ聴聞し、家に帰ってビデオご法話を聴聞し、双書拝読の聞法を続けた。
 南无阿弥陀仏のご名号の尊さも段々知らされ、念仏を称えるようになっていった。
 聞くほど、読むほど、理解して感動する心と、信じられない、分からない、疑い心も強くなってゆくのを感じてきた。
 車の中や、仕事中に一人になると「信心数え歌」を毎日歌うようになりそれにつれて歌の意味が気になってきた。
 歌詞は理解できるが私の心と同じではない。
 勿論、信後の心の歌だからだ。

「四つとせ よくよくお慈悲を聞いて見りゃ 助くる弥陀が手を下げて
      任せてくれよの仰とは     ほんに今まで知らなんだ」

「八つとせ 益にも立たぬ雑行や      雑修自力は捨てもせで
      親様なかせていたことは    ほんに今まで知らなんだ」


 この心が分からない、本当にそうだと思えない。



○3月 華光会館の「講習会」で仏教の目的を知る

 華光会館での宿泊は初めてだった。
 演題は「浄土の荘厳」で、阿弥陀仏が本願を建て五劫思惟、兆載永劫の末に成仏なされ、また出来たお浄土はどんなところなのか、2日間にわたって増井悟朗先生が講義された。
 私はこの時、参加するまで本心は、獲信した方は聞きたいかもしれないが私はまだ未信の者。死んで往くお浄土より獲信をどうしたら出来るかの方が私にとって大事だ、そっちを聞きたいと思っていた。
 丁度、金持ちが今度行く旅行先の案内を聞くようで、金なし貧乏人の私にはあまり関係ない、金持ちになる方が先だのような先入観があった。しかしそれは打ち砕かれた。

「阿弥陀仏は、本願に‘若不生者不取正覚’と、信楽をえた人は必ず往生成仏させてみせますと誓っておられます」「我が浄土に生まれさせて、自分と全く同じ仏にさせてみせると誓っておられます。これが阿弥陀仏の本願です、往生成仏、仏に成ることが仏法を聞く目的ですから」と言われたのだ。

 私は、えっと驚いた。耳を疑った。
 高森先生から40年間も、若不生者の誓いは信楽にさせる、この世で絶対の幸福にさせることであり、不取正覚、若し出来なければこの弥陀は命を捨てると約束なされているから、信楽の身になれると聞いてきた。

「若不生者の誓いゆえ 信楽まことにとき到り
 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」親鸞聖人

 まさか、このご和讃の若不生者が「信楽」でなく、「往生かならず定まりぬ」とは夢思わなかった。気付かなかった。40年も。
 尊号真像銘文に聖人はハッキリと教えておられた。

「若不生者不取正覚というは、若不生者はもし生まれずはといふみことなり。不取正覚は仏に成らじと誓ひたまへるものりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたひと、わが浄土に生まれずは仏に成らじと誓いたる御のりなり」

 あー何という間違いを聞いてきたのか。ハワイのHさんにも間違ったことを言ってしまった。否、ずーっとそう言ってきた。
 親鸞会の人は全員そう思っている。
 平生業成、信心決定、信心正因、この世を絶対の幸福で暮らすことこそ仏教を聞く目的、人生の目的思っている。
 高森先生がいつも黒板に書かれた縦と横の線で話で縦の線、信心決定、絶対の幸福、無碍の一道になる事が信仰の卒業、決勝点と何十年も聞かされてきたからここしか見えてないのだ。

 死んでからの往生成仏、死んだら仏、死んだら極楽など、信心決定すれば自動的に付いてくるもの。そんなに問題ではない。この世こそ大事。あくまで目的は獲信、絶対の幸福と信じ込んでいる。
 現当二益の教えと言いながら、心は現益、一益で聞いていたことが知らされた。18願は現当二益が誓ってあるのを深く知らされた。

 だから「信心数え歌」のここがなぜそんなに嬉しいのか、ひっかかっていたのだ。

「七つとせ 永の迷いも暇乞い    憂いもつらいも今しばし
      やがて浄土のご果報とは ほんに今まで知らなんだ」

「十とせ  称えるみ名のそのままが 連れて帰るぞ待っている
      間違わさぬの仰とは   ほんに今まで知らなんだ」

 願行具足した南无阿弥陀仏の大功徳の仏種を私に与えて信心として、それで極楽往生させて成仏させ、もう六道迷わぬ身に完全に救いたい、これが阿弥陀仏の最終目的だったのだ。これが仏教の目的なのだ。
 それなのに当益を軽く見て、この世ばかり助かりたいと求めてきた。往生成仏を買い物した後にもられるポイントか、グリコのおまけのように思ってきたのだ。
 もう分かったつもり、親鸞会の間違いに全部気付いたつもりだったが、まだ根本的な間違いをしていた。
 何んてことかと深く反省せずにおれなかった。
 阿弥陀仏が想像出来ないご苦労で成就なされたお浄土を、改めて聞かせて頂こうと受講した。未信の私こそ聞かせて頂かねばならないお話だった。

 夜に懇親会があり、幾つものテーブルに酒や飲み物、食べ物が出て雰囲気が昼と一転して初めての私たち夫婦はすっかり気を許して、周りの人と話し合っていた。
 そこへ増井悟朗先生も来られて和やかに話しに入られた。私の向かい側に座わられお酒を飲まれながら、私の話を聞いて下さったが、その内厳しい顔をされて「貴方ほど、自分可愛い、自己中心な者はない。我執の塊で、周りの者を都合のいいように利用しているだけや。阿弥陀様にもそうや。そんな心では聞けない。謝ってきなさい、阿弥陀様に謝って来なさい。」
と言われてしまった。

 その通りだ、短い会話の中で私のど根性を見抜かれた。
 懇親会の会場のお仏壇の阿弥陀様の前で念仏を称えながら、これまでのこと、受講前の態度、阿弥陀様の深いみ心、思うほど申し訳なく涙が流れる。
 妻もすぐに横にきて一緒に念仏を称えていた。
 酒と話し合いと渾然としている会場で、私達夫婦は30分ほど念仏を称え続けていた。その間、増井先生は私達の後姿を見守っておられたと後から人より聞いた。



○深まる悩み

 毎日仕事しながらテープ聴聞、拝読して華光会の行事、地元の増井悟朗先生のご縁にも全部参詣するが益々、分からない、信じられない、疑いが深くなっていく。
 仏願の生起本末を何と有難いと素直に泣いて合点納得する心と、それがどうした、ふんという心が見えてくる。

「仏智疑う罪深し    この心おもい知るならば
 くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし」

「弥陀の本願信ずべし  本願信ずる人はみな
 摂取不捨の利益にて  無上覚をばさとるなり」

 このご和讃が頭から離れられなくなる。
 仏智疑う罪深しが喉に刺さった骨のように抜けない。
「本願の心」「六字の心」のご法話テープを何度も聴聞するが、お任せできない心、疑情が頑としてある。


・私の心 --衆生性得の機、悪業煩悩・墜ちてゆく因(黒い心) 治らない
・南無の心--廻向の機 真実心 信ずる心(白い心) もらいもの
・疑い心---自力計度の機 流転の因(暗い心) 捨てもの、無くなる

 浅ましい黒い心が見えてくると、これではなー、こんな奴が本当に救われるのか、もっと真面目に、正直に、真剣にならんと救われないのではと思い、心を責め、「そのまま任せよ、必ず救う」の阿弥陀様の本願力、を疑う心、暗い心が出てくる。

 有難い、勿体無い、早く分かりたい、納得したい、安心したい、楽になりたい、ハッキリしたい、任せたい、どうにかしてくれ、全部あるこれも自力だ。
 何を思っても自力でないか。自力以外ないではないか。
 これでは助からない。自力よどこかへ行ってしまえー、消えろー。



○4月 妻の不思議

 4月の華光会館の「永代経」のご縁に参詣して、妻が帰りの車中で「私、さっき阿弥陀様におあいした。自力の心がもう無くなってしまった。不思議や、不思議や」と言った。「えーそれ本当か、本当か、本当か」驚いてしまった。ご示談の最中にそれは起きたと言って話してくれた。
(内容は華光誌に載りました)
 まさか、こんなに早く、妻が、想像もしなかったことが起きた。
 私は驚きと、疑いが入り混じり、何か思い違いでないだろうか、その内崩れるのではないかとも思った。
 そうか、そうかと聞くだけで、あまり良かったなーと言わなかった。感情的になるまいと押さえた。
 妻も1月、華光会へ行ってから真剣に悩み続け、毎日のように私と信じられぬ心、三つの心について話し合ってきた。
 だから、私はおかしなものを握ったら大変だと警戒する心があった。
 妻は私が素直に認めていないことに気付いているが、こんな不思議が疑いの真っ最中の私に信じられないことも承知していた。

 それから妻は毎日、阿弥陀様のみ心について折りにふれ話してくれた。私の思い違いを言ってくれるが、それが分からず落ち込む。
「そのまま任せよ、必ず助けるが南无阿弥陀仏の心だったよ、それ以外に何を聞こうとするの」と言うが、それがそうならないから困っているのだ。
 前まで「お父さんが信心決定して必ず私を導いてや、絶対よ、約束してね」と何十年もしおらしく言っていたのに、今は逆転してしまい、こうも差が出来てしまった。
「もう言うな、分かってる、俺一人で考える、自分のことだから」と男の意地が、もっと聞かせてくれと言わせない。あー俺は馬鹿だ。



○6月 華光会館「壮年の集い」自力建立の信は続かぬ

 最初の自己紹介で「仏智疑う罪深しのご和讃の心をどうしても知りたくて来ました。宜しくお願いします」と皆さんに頭を下げた。
 何としても今回こそと内心力が入っていた。
 ご法話、ご示談が繰り替えされてすすむが、一向に私の心は変わらない。
 夜のご法話、ご示談が終わって懇親会が始まったが私は3階の部屋に一人残って、六字のご本尊の前で正座して念仏称えながら仏智不思議を疑う罪を深く考えていった。
 本師本仏の阿弥陀仏が六道輪廻して苦しむ私をご覧になられた。
 三世諸仏は何とか救おうとご苦労されたが、余りにも私の罪業が重くて手がつけられない。善のかけらの無い奴には力が及ばない。縁無き者と見放されたが、捨てられて当然の私なのだ。文句があるまい。
 阿弥陀仏はそんな極悪人なら尚更見捨てておけぬと、私を救う仏に成ってみせると、仏の座から降りられて、世自在王仏のお弟子、法蔵比丘になって下さった。
 私の罪業の深さ、自性を見抜き見抜かれて、この私をどうして迷わぬ仏に出来ようか、よし、全部この法蔵が代わりに願も行もやろう、五劫が間も考え抜かれて四十八願を建て、師の世自在王仏にこの願必ず成就してみせますと重ねて誓って下された。

「お前のためなら、火の中、水の中、身を八つ裂きにされようと、たとえ諸々の苦毒の中に投げ込まれようと、苦しくないぞ、だから信じておくれ、任せておくれ、助かっておくれ」と兆載永劫の修行して功徳を積み上げ成就して南无阿弥陀仏の仏に成って下さった。
 それから十劫の間、一時の油断なく、こうもすれば聞いてくれるか、分かってくれるか、受け取ってくれるかと種々の善功方便、調熟の光明のお育てを頂いてきたのだ。今か今かと南无阿弥陀仏のこの大功徳、全財産をさあー受け取れよ、任せよと呼びずくめ、待っておられる。釈迦は娑婆往来八千編、このこと一つを伝えようとご苦労なさっているのだ、私の周りの人々も菩薩なのだ、妻もそうだーーーーーー
 ああ、何という大慈悲心なのか、お念仏と共に涙があふれる、止まらない。
 阿弥陀様済みません、済みません。それなのに、疑うとは申し訳ありません、何という恐ろしい奴でしょうか、済みません。
 懴悔と念仏が出てくる。
 しかし、1時間もたつとこの心が続かなくなってしまった。おい、何時まで泣いているのか、もう芝居はやめておけ、お前なんかどれだけ泣いても俺は知らんぞ。しらーとする奴が段々出てくる。
 本願を、大慈悲心を素直に受け取らない奴がまだいる。
 なぜ聞かぬのだ、なぜはねつけるのだ、お前さえハイと信じてくれたら全て終わるのだ。何時まで逆らうのだ、このままなら又しても昿劫流転だそ、分からんのか。
必死に聞いてくれぬ心を責めるが、全く反応しない。
 始末がつかぬ、真面目にならない。
 阿弥陀様のことが思えぬどころか、ああ腰が痛い、喉が渇いた。下では皆さん愉快にやっているようだな。腹がへったな、まだ何か残っているだろうか。こんなことまで思うようになっていった。

 2時間近くも降りて来ないので、妻が気になって様子を見に上がって来た。
 何とも言えぬ格好をしている私を見て、どうなったのと言ったので「あかん、こいつに、もー勝てん」と腹を叩いた。
 逆謗の屍、闡提の本心は全くピクリとも受け付けなかった。
 今思えば、これがお目当てなのに、あれほど妻に「このままやったよ」と言われても、自分でこの心をどうかしよう、なると思って悩んでいた。
 自分の心の中に説法道場を作り、自分が阿弥陀様のみ心分かったつもりで説法して自分に聞かせて感動する、助けようとする。自力建立の信とはよくぞ言ったものだが、それは続かぬ、崩れる。
 益々、聞かない心と聞かそうとする自力の心、計らい心に悩んでいった。



○途方に暮れてゆく

・おかる同行の嘆きが分かってくる。
「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか、聞かにゃ苦労はすまいと言えどー
       ーーーーどうすりゃ他力になるのじゃろ」
・山口善太郎同行も
「味わいどころか苦しくて  無き疑いの起こり出しーーー
 泣いて甲斐なきことなれど 方角立たずに泣くばかり」よく分かる。


・伊藤康善先生は「安心調べ」に厳しく教えておられた。
「十劫の昔の話を素直に信じられる程、我々はお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台に生首を突き出す苦しみがある。
 払うても払うても後から現れ、奪えるだけ奪って尚、心の底にこびりつ仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。
 だから、説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道の精も根も尽き果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそあきらかに知られたりと驚き立つ心である。--この一念の体験がなくては何を言っても駄目なのだ」

・増井悟朗先生も「念仏のお叫び」に言われていた。
「真宗のお救いでは、この自力の心が、最も邪魔になる。とはいえ、真剣に聞法してゆく人には必ずこの自力の心が出てくる。そしてそれが、大問題となってくる」



 K先生と一対一のご縁の時、心境を話しすると「貴方はとんでもない頭の高い人ですね。偉い人だ。阿弥陀様の頭の上に上がっている。増井先生の上に上がって聞いている。そんなことで聞けますか。自分を全く分かっていませんね」とズバリ言われてしまい頭がまっ白くなる。
 自分では意識していないつもりだったが、40年聞いてきた、20年講師をしてきた、1000回近く話しをしてきた、何もかも分かってる、知っている、覚えてるの心が言葉の端に現れ、高い頭で聞いているのが分かる人には分かるのだ。
 言われると辛い、逃げ出したくなる。K先生は妻の獲信の時の座談をして下さった方であり、K先生自身がその苦しみを通って来られた方だから、私を見て問題点を指摘されるのだ。
 毎月、妻あてに(私に)我々は邪険、驕慢の者であり、罪悪深重の者である。自分の値打ちを知りなさい、知らねばお慈悲は届かない、心の頭を下げて聞かせて頂きなさいと、ご自身の懴悔を書きながら繰り返し、繰り返し葉書、手紙で教えて下さった。



 8月の鯖江市のお寺の増井悟朗先生のご法話、9月の福井市のOさん宅のM先生のご法話にも参詣するが、依然としてこの心はハッキリせず、座談の席で皆さんの前もはばからず泣いてしまった。
 血で血は洗えぬと言われたが、疑い心で、疑いはなくならないが、疑わずにおれない、任せれられぬ、飛び込めぬ心に困り果ててきた。どうししようもないのだ。

「富士の白雪 朝日でとける
 凡夫の疑い 思案じゃとけぬ
 晴れたお慈悲を聞きゃ、晴れる」

 時々、この歌を思い出す。聞くしかない。

 外にご法話の無い日曜は、家で増井先生のご法話テープを聴聞するが、聞きたい内容が妻と違うので2台のラジカセでお互いに離れてヘッドホンで聞いた。
 妻はハイ、ハイ、そうです、その通りと言って泣きながら念仏称えて聞いている。
 私は黙りこくって目を閉じ、うつむいて聞いている。
 華光会に出会った時は、砂漠でオアシスを発見したような、闇夜に太陽の喜びだったが、今は夕日が沈み沈みの心境になって、途方に暮れてしまった。1月から10ケ月、300日毎日のように聴聞、拝読を続けているが、全く六字の心を受け付けない。はねつける。こうまでもしぶといとは思わなかった。
 邪見、驕慢の悪衆生とは俺のことだ。自分ながら愛想が尽きる。
 ばかやろーと頬を殴ったりしてもちっとも変わらない。何という奴だ。



○10月 この世の一大事が起きた

 10月の中頃、会社で仕事中に急に腰から下が痛み出した。
 最初はしびれ、鈍痛だったが、段々ひどくなってきて激痛に変わり不安になる。
 今の仕事で腰が悪く動けなければクビだ。
 何とか治さないと生活が出来なくなる。家のローンもまだ残っている。
 年頃の娘二人もまだ未婚だ。どうしても働かねばならないのだ。
 どうしよう。しかし痛くて、ゆっくりとしか歩けない。
 50メートル歩くと立ち止まってしまう身体になってしまった。
 家の玄関の5段の階段さえ自分の足で登れず、横の柱にすがってやっと入った。 布団の中でも痛くて足が伸ばせず猫のように膝を抱えて横になる。痛くて夜も眠れない。
 原因は早朝から仕事して、帰ってまたアルバイトした無理かと思うと自分の体力を甘く見たことが悔やまれてならない。

 仕事を2日間休んで整骨院へ行くと、坐骨神経痛ですね、治りますよと言ってくれたのが何よりの救いだった。そうか治るのか。
 朝起きるが、すぐに起きられず、柱にすがって立ち上がり、壁にすがって家の中を歩き、どうにか身体を車に乗せて会社に出かけ、毎日痛い足腰をかばいながら、そのうち治る、良くなる、と信じて仕事を続けていた。上司、同僚には痛みを余り気付かれないようにするのも辛かった。
 家に帰ればクタクタで横になるだけで、テープを聞く気も、拝読する元気もない。情けない心だ。
 しかし毎日のように仕事帰りに通院治療しているのに1ヶ月たっても全く良くならない。心配になり、大きな整形病院で精密検査を受けると、予想以上に悪く「このままでは、そのうち歩けなくなりますよ。」医師の言葉に目の前が真っ暗になった。
 手術の方が良いということになり覚悟した。
 しかし、血液検査の結果、糖尿病の数値が悪く、麻酔が効かないので糖尿病を治さないと手術は出来ないと言われてしまった。最悪だ。そう簡単に治る病気でないことは私自身知っている。
 それまで、この痛み我慢しろというのか、自分のせいなのに腹が立ってくる。馬鹿な私だ。

 1月4日入院、糖尿病治療で血糖値を抑え、上手くいけば2月4日手術、退院は2月末と言われた。
 鎮痛剤、貼り薬で痛みを誤魔化しながら会社へ行き、入院を待つ身になった。
 テープ聴聞もおろそかにしている自分、正座が出来ないのを理由にお勤めもさぼって念仏で済ませている自分。
 身体とお金と仕事と信用ばかり心配している本心しか見えてこない。
 この世の一大事の前には、後生も阿弥陀様のご恩も疑いさえも忘れて、病気の回復を真剣に願う心しかない。
 生きるため、心配なく生きることが一番大事なのだ本心は。主人は。
 殊勝そうに聞いていたのは番頭で、本心は何も聞いていないのだ。
 死ぬとも、悪人とも思っていないのだ本当は。
 あれほど疑い心に悩んでいたのに、1ケ月の痛み苦しみが続くと、今はそれどころでない、どうでもよくなっている。
 おい、このまま死んでいいのか、後生が心配ならないのか、Sさんのことを思い出せ、誓ったでないか求め切りますと。何とか叩こうとするが、
 全く返事しない、やはり屍だ。情けない。
 これが私の実態なのだ。身体も心も辛い日々が続いた。



○11月の「華光大会」私一人の為だった

 11月末の2泊3日の華光大会が迫ってきた。
 さーどうしようか。身体のことが心配になってきた。
 正座は勿論できない、階段も怖い。もそもそしている姿を皆さんに見られたくない。
 3日間も集団生活する自信がない、本気で行きたくない、と思った。
 大分気持ちが弱くなっている私を見て、妻が会社へメールを何度も送ってくれた。
「そうしている内に後生が容赦なく突然やってくるんです。一息一息後生に運ばれているじゃないですか。これ以上長綱はいている時間がお父さんにありますか。そんな余裕が本当にあるんですか。」
 私は返信した。「あー腰が痛い。くそーと思うばかり。昼寝したい。今はそれだけ、煩悩具足だ」すると又妻から「そんな煩悩具足のお父さんが可愛そうと阿弥陀様は泣いておられんですよ。そのまま、まかせるだけ」と来た。私は「分かるけど、そうならんー」と返信した。

 どうしても参加させるつもりだ。少しは同情しろ、菩薩じゃない、鬼に見えてくる。このままでは駄目だ。
 私は増井先生に今の身体の具合、弱い聞法心、浅ましい根性の洗いざらい、妻の言葉まで書いて、宜しくお願いしますと手紙を送った。
 こうしなければ当日に行かんと言い出す心しかないことが分かったからだ。もう後戻り出来ない。
 京都へ行く車中、ご法話テープを聞いて心の切り替えをした。



 1日のご法話、座談では、心を閉ざして聞いているだけの状態だった。絶えず身体のことが気になる。
 夜の懇親会には身体がしんどくて参加せず、待っていたように布団にもぐりこんだ。
 今日聞いた話、座談、ご示談で言われたことを思い出してみる。
 思えば一日中、にこりともしていない自分であったと気付く。
 明るく挨拶する余裕が無くなっている。



 2日目も先生方が真剣に話され、ご示談も熱が入って、言うほうも、聞く方も真剣だった。
 素直に聞けない心があると私は発言して、この心が辛いと言った。
 今日も私の心は変わらなかった。
 懇親会は参加せず、今日のことを振り返っていた。



 3日目、午前中は華光会の会計報告があった。
 私は3日目で疲れが出たので参加せず、別の部屋で横になってスピーカーから聞こえてくる会計報告を聞いていた。
 3枚の収支報告書には1円まで収支が書き込まれ驚いた。すべてガラス張りで不審が出ないようになっていた。
 あーこんな苦労の歴史を刻んで今日の華光会があるのか。
 不思議だなー。高森先生と40年のご縁がありながら、その高森先生の聞法の古里へ私が来ているとは。
 Gさん、Sさんのあの泣かれた姿を見なかったら、母の勧めがなかったら、父があの本を残してくらなかったら、インターネットで華光会のホームページを見なかったら、増井先生がお元気で電話に出て下さらなかったら、華光会の先生が根機よく教えて下さり、妻が今度も絶対行くよと強く言ってくれなかったら私は今、ここに居ないのだ。
 あらゆる因縁がそろって私はこのご法に遇わせて頂いている。
 そう思うと涙が頬を伝って流れる。
 これらの因縁は遠く法蔵菩薩の願心からではないか。
 十劫以来、今も呼びずくめの阿弥陀様の仏心の働きではないか。
 それを、分からん、分からん、だけどーと俺は言いつづけている。
 助かる縁がないのか。また涙が流れる。

 昼からは、増井悟朗先生のご法話が最後だった。
 入院すればこれでもう3月まで会えない、聞けないのだ。
 ところが、増井先生は私も高齢ですから、何時どうなるか分かりませんと言われる。
 私は何と愚か者か。また聞けるつもりでいる。
 私はあぐらをかいて座っているのさえ自信が無くなり、道場の一番後ろの隅の誰 からも見えない処に膝を抱えるように座っていた。
 増井先生に手紙を出しながら、この3日間一度も先生の座談の部屋へ行かず他の、部屋に参加していた。
 逃げていたのだ、心が。

 増井先生のご法話は南無阿弥陀仏の六字の心を、隅っこに隠れる様に座っている私目掛けて話しされているように感じはじめた。50畳位だから丸見えだ。
「凡夫の知恵で阿弥陀仏の心を知ろう、掴もうとするのは丁度、ストローの穴から大空を覗いて見ているのと同じだ」と言われた時、ズキーンとして不思議な心になり、阿弥陀様の愚かな私へのご説法だと聞こえてきた。
 40年間、聞いてきてこんな思いは初めてだった。

 あー俺は馬鹿だった、分かりたい、納得したい、そしたら救われるだろうとは、何と我が身知らずか。自力丸出しだ。
 分かるほど小さな仏智ではないのだ、堕ちることさえ分からぬ俺が、それを自惚れてーーー。聞いたのも、覚えたのも、知ったのも、泣いたのも、称えたのも、信じたのも、何の力にならぬ、すがるものは何もない全部ない。もー駄目だ、俺は助かるものではない、阿弥陀さまー私はもうどうにもならぬものですーとなった。

 その時「まかせよーそのまま救うぞー」呼び声が届いた。あっという間だった。これまで絶対下がらん心の頭が下がって、分かりましたーお任せいたしますー、南无阿弥陀仏となってしまった。
 南無の心に貫かれ聞即信となった。
 南無の心は、早く来い、われをたのめー、まかせよー、助けさせてくれーの叫びだ、呼び声だ。無条件降伏させられ、自力の心が殺された。
 阿弥陀仏は助けるぞー、捨てはせぬぞー、罪業はどれほど重くとも心配するなー、そのまま引き受けたぞー。必ず我が浄土に生まれさせて仏にしてみせるぞーの大慈悲心だった。
 それが一つになった南无阿弥陀仏のお力の大きさが、尊さが口からあふれ出る。南无阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ーー

 救われた私より、阿弥陀様の方が、よく聞いてくれたと喜んで下さるのだ。何という不思議か。こんな私が南无阿弥陀仏の主とは。ああ。

 親鸞聖人が「噫、弘誓の強縁は多生にも値い難く、真実の浄信は億劫にも獲難し、遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」そのお心が沁みてくる。
 絶対助からぬ者を絶対助けるの本願であった、永い間疑い続け、逃げ続け、謗り続けてきたのに、必ず聞かせてみせる、と六道どこにいようとも何時も離れず護り、育て下さった大慈悲であった、申し訳ないことをしておりましたー。何と勿体無いことか。

 おかる同行が「そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
 浅原才一同行が「わたしゃあなたにたのまれて、助かってくれよとたのまれて、ご恩うれしや南无阿弥陀仏」と言った心がこのことだったかと分かった。

「たのませて たのませたまう弥陀なれば
 たのむ心も われとおこさじ」

 全く、他力廻向の信心でありました。
 私からは信じる心など持ち合わせておりませんでした。
「ただもいらんただ」「ご注文なし、おかまいなし、無条件」でした。


(十八願)
どんな悪人も--十方衆生(五逆、誹謗)--そのまま
本願を信じ --至心信楽欲生我国  ---弥陀におまかせして
念仏申せば --乃至十念      ---称えれば
仏に必ず成るーー若不生者不取正覚  ---助かる(現当二益)

 これが、今の私の本願、南無阿弥陀仏の頂き心です。
 何の不足もありません。これ一つが火宅無常の世の真実です。
 祖母がこれ一つは残る、一緒や、と言った意味がやっとハッキリしました。
 ばあちゃん、有難う、分かったよ。

 帰りの車中で今度は私が、ご法話中の不思議を妻に話した。
 妻は泣いて喜んでくれた。
 妻は3日間中、どうか、どうかと阿弥陀仏に念じ続けていたことを話してくれた。そうとも知らず、申し訳がなかった。有難う、お前のお陰で六字の主に成らせて頂けた。
 阿弥陀様は総がかりで私一人を助けんとなさっておられのだ。

 実家の母に伝えに行った。突然行ったので驚いたが「阿弥陀様に遇えたよ、助かったよ」と言ったが、後は言葉にならなかった。
 母は泣いて手を握って「良かったなー、そうか、良かったなー」と言ってくれた。
 40年間この日を待っていたと言ってくれた時、また泣かずにおれなかった。
 母には私達が華光会へ行くようになって、ご法話テープ、書籍など50点以上送っていた。
 電話で毎日喜んで聞いている、読んでいる。真の先生に遇えて良かったなー。しっかり聞かせてもらえや、と何度も励ましてくれた。
 増井先生は善知識だから今度こそ聞きぬけ、後生の一大事、自力、他力の廃立を説かれているから聞けば必ず救われるとも言った。私の獲信を聞いて慶び、大恩ある増井先生に法名をお願いしたいと言ったので書いて頂き、見せると大変喜んだ。
 母はそれから半年後に「先に往くぞ」とお浄土へ往きました。
 大変寂しいけれど、悲しくはありません。今ごろお浄土にじっとしていないでしょう。南无阿弥陀仏をお伝えに出かけているでしょう。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」

 親鸞聖人が阿弥陀如来と善知識、お釈迦様、七高僧方のご恩を慶ばれ感泣なされたみ心が知らされてきます。
 私も阿弥陀様、そして増井先生にどれほどご心配をおかけしたのか。そのご恩が知らされ、この喜びと導いて下されたお礼を心から書かせて頂いた。

 私はこれからも聞かせて頂きます。我が身の値打ち、阿弥陀様のご恩の深さをもっともっと聞かせて頂ききます。ご恩をすぐ忘れる私ですから聞かせて頂きます。
 そして今も呼びずくめの六字の心をお伝えしてゆきます。坐骨神経痛はその後、どういう訳か痛みが引いていき、入院手術の必要も無くなり、今では普通の身体に戻りました。これも有難いです。

「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 連れて帰るの 親の呼び声」
(読み人知らず)

南无阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

六字の呼び声 (その1)

 以下は、親鸞会元講師部員である嶋田久義さんからの投稿です。
 長文になりますので、3日間に分けて掲載させて頂きます。


         *         *         *

『六字の呼び声』 嶋田久義



「釈迦弥陀は慈悲の父母種々に善巧方便し我等が無上の信心を発起せしめたまいけり」親鸞聖人


 身の幸を思えば思うほど、このご和讃の深いみ心に頭を下げずにおれません。

 私一人を救い摂らんと阿弥陀仏はどれほどの善巧方便なされ、ご苦労下されたのか、私の過去を申し上げて、お育て頂いた洪恩の億分の一なりともをお伝えさせて頂きます。


○私は昭和24年に、満州から苦労して命がけで引き揚げた両親から、この世に生を受けました。はや60歳。父は農家の次男、引揚げて来ても少しばかりの田畑しか相続出来ないので、母と豆腐屋の商売をしながら兄、私、妹と可愛がって育ててくれた。
 特に母は、祖父母が熱心な仏法者だったため仏法を聞き求め、3人の子共の中でも仏さまに関心を示す私を見て、「お釈迦様」「親鸞」の映画を町まで連れて行って見せてくたれこともあった。阿弥陀様に手を合わせていると、なぜかしら見ておられるような、親しい、暖かい思いになった。


 近くの寺の日曜学校や報恩講のお参りに行き、正信偈や歌も覚え、小学生の時、村の住職に4,5人連れられて京都の本山へ行き、おカミソリを受けて法名をもらって帰ると母が大変喜んだことを思い出す。

 又、母に連れられて、村に説法に来られた高森先生の話を初めて聞いた。
 往生要集のスライド上映の後、黒板に字を書いて「後生の一大事」、「地獄」がある、と恐ろしいことを話され、すごい熱弁であったことを今も記憶している。
 まさかこの高森先生が後に親鸞会を創り、会長となり、私の人生に深く関わることになるとは夢思わなかった。


 中学生の時、急性肝臓病で黄疸が出て入院、病棟には死ぬ人が何人もあり、人間は死ぬ、自分もひょっとして死ぬかもしれないと、初めて自分の死を考えた。
 死んだらどうなるのだろう。あんな地獄が本当にあるのだろうか。恐ろしい。

 母がこの時、早く良くなるようにと川に入ってシジミ貝を捕って来ては毎日のように病院へ持ってきた。
「これがこの病気に一番いいぞ」と、三食に必ず食べろと勧めるので、死なせまいと心配する親心を感じた。

 また、吉川栄治の「親鸞」を病院へもってきて読むようすすめてくれた。祖母が小さい時買ってくれた漫画の「親鸞さま」より人間的悩みが描かれていて、自己に厳しい方であることが分かり、親近感をもたずにおれなかったが、どうして南无阿弥陀仏のお念仏になってゆくのか分からなかった。

 死の不安も2ケ月後には回復して学校へ戻ると思わなくなってしまった。


 高校時代、東本願寺の仏教青年会、仏青に入り行事に参加しするようになっていく。
 毎月、持ち回りの講師方の話があったが、その時の講師はほとんど後生のことの話は無く、この世は四苦八苦の人生だが親鸞聖人の教えられたお念仏に励まされ、慰められて感謝の生活、お念仏の生活をしましょう、と仏法を今生ごととしか話さなかった。

 お念仏が生きてゆく為の杖のようなものなら、私にはまだ杖は要らないと思い、段々と仏教を聞く気持ちが無くなってしまった。
(最近になって、東、西本願寺にも後生の一大事、自力を捨てよ、信心決定、往生成仏を説かれる布教使のおられたことを知った。早くから、このようなお方とご縁がなくて残念であった)


 次の冬、欠かさず寺参りを続けていた祖母が84歳で倒れた。
 亡くなる3日前に一人で見舞いに行くと、よう来たと喜んでくれたが、もうすぐ死ぬ祖母にどう言葉をかけていいのか戸惑うばかりだった。
 やっと、「婆ちゃん、84まで生きて長生きやったねー」と長生きを誉めたが「そんなもん、あっとゆう間や、早いぞー。すぐ来るぞー」と切り返えされてしまった。
「そんなに早いんか」と念を押すと「ああ、早い、すぐじゃ」と言った。
 次に「婆ちゃんが頑張って生きて来たから、母ちゃんや俺が生まれて来れたんや、有難う」と言うと、「そうやけど、死ぬ時は一人や誰も付いてこれんぞ、この世のものは皆、置いてゆくもんばかりや」と言った。
 私は困ってしまい「何も無いんか、そこまで生きてきて何も無いんか」と聞くと「一つだけある。親鸞さまのみ教え、南无阿弥陀仏だけが残る、無くならん、一緒や」と言い切った。
 南无阿弥陀仏だけが残る、一緒とは何のことか。
「お前に、どう言うていいか分からんが、これだけは残る、無くならん、一緒じゃ」と又言った。
 今、臨終を前にして祖母が孫にウソを言うはずがない。
 84年の人生の結論を、何とか私に伝えたいのだ。
 やはり仏教は聞かねばならない教えなのか。
 祖母の遺言を心に刻んだ。



○親鸞会との出会い

 しばらくして、近所の親戚の親鸞会、青年部会員と6時間以上話す機会があった。
 彼女は「人間の実相」の絵を出して説明し、今にも切れそうな細い命の藤ツルにぶら下がって、切れたら三匹の毒龍の待つ地獄へ墜ちるのに、五欲の蜂蜜をなめることに心を奪われているのは誰かと聞いて来た。
 初めて聞く「佛説譬喩経」の話に私は何の反論も出来ず、自分のことだと認めると、じゃ仏法を聞かねばならないと言ってきた。

 何と仏青で3年聞いても分からなかった仏教を聞く目的を、こうもハッキリと聞かされて驚いた。
 そして、今の本願寺では本当の仏教、親鸞聖人の教えは聞けない、分からない、高森先生こそ阿弥陀仏に救われた、無二の善知識であるとも言った。

 高森先生、そういえば小学生の頃、すごい早口で黒板に字を書きまくって指示棒を、バンバン叩いて話していた金ボタンの学生服の人を思い出す。
 あの人か、あの人が親鸞会を創って彼女をこうまでさせたのか。

 帰りに渡された高森先生の書かれた「顕正」を読み、強いショックを受けた。
 仏教用語が多く、難しく理解出来ぬところがあるが、本願寺を強く批判してある。こんなに批判する人の本は初めてだった。
 しかし自信と情熱一杯で書かれてあることも感じた。

 寺の住職に相談すると、「あそこには近づくな、私は助かった信心を獲たと強く言われるものだから、多くの人が、早く自分も信心を頂けると思って熱心になっている。気をつけなあかんぞ」」と言われてしまった。
しかし、本に書かれていたことが気になり寺に隠れて夜聞きに行く。
 2、3ヶ月ほど聞いて御法話が終わってから、高森先生の控え室へ勝手に入った。40年前は在家の御法話がほとんどで、夜の参詣者も40人ほど。今では考えられないほど自由だった。

 氏名と仏青であることを言い、「あなたは異安心ですか」と切り出した。すると「異安心って、どうゆうことか知っているか」と言われ、「信心が違っているということでしょう」と答えると「そうだ。誰の心と違っているかが問題だ。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の信心は一味、同だ。ワシも同じ。本願寺と違っていても異安心ではない。本願寺こそ間違っている。どう違っているか言おうかね」と、4つほど挙げて話された。

 これでも、本願寺は親鸞聖人と同じかねと、根拠を示しての話に私は納得してしまった。
 寺へ行って住職にどこが間違いですかと尋ねると「あれほど行くなと言ったのに、行ったのか、んー」と言うだけで返答がない。
 かって、この寺でも高森先生を招待していたが、本願寺から問題があると連絡があり反対するようになったことを後で知る。
 きちんとした説明が出来ない住職の態度が気になり、小さい時からお世話になったところだったが、悩んだ末に仏青との縁を切り、親鸞会に入会した。親鸞会では掛け持ちが許されず、18歳でした。



○親鸞会で求め始める、

 次のように聞きました。

 私達は、欲、怒り、愚痴の煩悩で毎日、心、口、身体で十悪を造り続けて生きている。その上、五逆罪、謗法罪という悪業を犯している。
 だから因果の道理、悪因悪果、自因自果で無間地獄へ堕ちる報いは逃れられない、後生の一大事がある。
 これ以上の一大事はこの世にないが、皆、知らないで生きている人ばかり。
 救われるには仏教、阿弥陀仏の本願しかない。
「すべての人を絶対の幸福に必ず助ける」
 阿弥陀仏はこの後生の一大事を解決して、絶対の幸福、いつ死んでも極楽参り間違いない身にこの世で救って下される。
 この体験を信心決定といい、これが人生の目的であると。

 ではどうしたら救われるのか。
 蓮如上人は御文章に「五重の義、成就せずば往生かなうべからず」と教えられている。これが揃わないと絶対に助からない。

1宿善 2善知識 3光明 4信心 5名号(念仏)

 まず何よりも宿善であり、「宿善まかせ」「無宿善力及ばず」と聞かされた。船に乗ったら船頭まかせ、病気になったら医者まかせ、これ以上大事なものはない。
 宿善は善が宿るともいい、過去世を含む、今までの善行をいう。
 また阿弥陀仏とのご縁、仏縁でもある。
 宿善のある人は、後生が気になる、仏法を尊く思い、聞きたい心の人である。
 宿善が厚くなると、宿善開発する、信心決定する、絶対の幸福になれると聞いた。
 その宿善はどうしたら厚くなるのか。

1聴聞 2勤行(五正行) 3諸善

 聴聞が一番大事で、しかも善知識の高森先生以外の人の話を聞いても宿善にならない。なぜなら現代の善知識は高森先生お一人であるからである。唯一、無二のお方であると何度も聞いた。
 どんなに疲れていても、毎週日本各地、どんなにお金がかかろうと高森先生のご法話に行かねば宿善は厚くならない。

 その為、家中が反対しても喧嘩になっても、ウソついてでもそこを参るのが「火の中をかき分けて聞くのが仏法」だから尊い。
 正座して一言も漏らさず聞き、聴聞記録をしっかりと書き、覚えていないと真剣な聞き方とは言えない。居眠りなど謗法罪の大罪と言われた。服装もきちんと、男性はネクタイが常識。


 勤行は必ず朝晩しなければ信仰は進まない、宿善は厚くならない、勿論、ご本尊は御名号でなければならず、木像、絵像は他流のご本尊で地獄行きの者である、と特に厳しかった。
 しかし、南无阿弥陀仏の心が分からず、毎日勤行をしていても、なぜか阿弥陀さまが遠くにしか思えない。


 諸善、六度万行をしなければ宿善は厚くならない。
 中でも布施行として法施、人に仏法を伝える、人を誘うことが最高の善と言われ、顕正、入会を勧めることや、参詣者数が活動の柱となり、目標が与えられ、競った。
 また財施も尊い宿善になると強く勧められれた。
 その他、教学の勉強、会合など、皆宿善、宿善と言われて時間、労力、お金をかけて活動に熱くなって行く。


 高校3年の卒業近くに教官の許可をもらい、教室でクラスの50名に3時間程、仏教の話をした。勉強をして知識、技術も大事だけど、生きる目的こそ大事だと「人間の実相」の絵を書いて話をする。
 皆、何を言い出すのかと驚いていたが、やがて真面目に聞いてくれ、学友は今も覚えていてくれた。


 しかし、青年は熱し易く冷め易いと言われるように、2年もすると活動するのが苦痛になってきた。
 高校卒業後、家業の豆腐屋の仕事を両親としているので、朝5時に起きねばならず、今と違って365日休み無し。
 活動で夜が遅くなると本当に身体がきつい。
 何より、指導している講師部にも信心決定している人がないことが分かってきた。
 こんなことを続けていても信心決定など自分には無理だと思えてきてしまった。しかし会員さんは真剣でとても誰にも言えなかった。

 遂に20歳の時、自分なりの生き甲斐探しのために家出をしてしまい、東京、札幌、名古屋、福井と仕事をしながら3年があっという間にすぎた。
 両親の期待を裏切り、本当に申し訳の無い自分勝手なことをしてしまったと思う。どんなにか辛かっただろう。でも両親は責めず、怒らなかった。
 家業は家出中に妹が婿取りをして継いでくれた。申し訳がない。
 福井県へ来て仕事中、道でばったりと親鸞会講師部の人と出会い、声をかけられ近況を話しているうちに、1度位来ないかと言われ、用心しながら無理をしない程度に聞き出した。


○後生の一大事に驚く

 ある日、「人間の実相」の説法を聞いた数日後、私は夜中に自分が死ねばならぬ夢を見た。実に生々しく、今もハッキリと思い出せる。
 2匹の3メートル位の鬼が迎えに来た。あわてふためき「どうか助けてくれー」と泣いて哀願するが、だめだ今すぐだと拒絶された。
 両手、両足つかまれた。1日、いや半日でもいいから許してくれと更に必死に哀願する。何をすると鬼が言った。
「仏法聞きたい、真剣に聞くから許してくれー、半日くれー」というが、今すぐ連れてゆくと引きずりだした。
 回りをみると多くの人が同じように、泣き叫びながら昏いトンネルのような中に引きずられてゆくのだ。
 泣き泣き堕ちてゆくしかない。その時、目がさめた。

 あー助かったー、夢だった。よかったー夢で。枕が涙で濡れ、12月というのに全身汗をかいているのに驚いた。今すぐ寝るとまた続きを見るのでないかと恐ろしく、早く朝がこないかと布団の中で待った。
 そのうち、今回は夢でよかったが、しかし何時か必ず現実のこととなるのだ、さあどうする、鬼に仏法聞くから許してくれと泣いたではないか、さあどうする。聞くしかない、後生の一大事解決するしかない、聞く、今なら高森先生から聞けるのだ、今度は絶対聞きぬこうと決心した。23歳になっていた。

 毎月、高森先生の全国御法話・座談会8回、地元の講師部御法話夜7回、月に15回の聴聞を始めた。
 そして13年の聞法活動の月日が流れ、結婚もして娘二人の父親にもなった36歳の時だった。

 青年部の福井県の責任者になり、会合には親鸞聖人の教えを話し、活動の指示もしているが依然として後生の一大事の解決が出来ない。なぜか。原因は私の宿善が浅いからだ、それ以外に無いと思うのが親鸞会会員としての答えだった。
 まだまだ求め方が温いのだ、これでは間に合わないのではないか、
 どうしたらいいのか、「宿善は待つに非ず、求むるものなり」と蓮如上人は教えておられる、一番厳しい講師部の道へ進もうかどうしようか。
 その時、高森先生の長男の青年部長から、講師部にならないかの電話があり、妻と相談して決意して飛び込んだ。

 そして20年後に、まさか退部することになるとは想像出来なかった。
 今思えば、これ皆、阿弥陀さまのお育てであったなと思わずにおれない



○本願寺からの批判と「宿善論争」

 しばらくして西本願寺と「宿善論争」が始まった。「親鸞会では未信の人は宿善の薄い者であるから、信心を獲得するためには自力の善根を積んで厚くしなければならないという」
「当流では他力の信心を獲るためにまず自力諸善を積まねばならないという説示はない」と西本願寺が批判した。
「宿善とは親鸞聖人が{たまたま行信(信心)を獲ば遠く宿縁を慶べ}とあるように遇法獲信の現在から過去をさかのぼって宿善のお陰であると、その由縁を喜ぶものである。将来の獲信のために積まならないという方向で語られるものではない」と批判してきた。
「宿善まかせ」とだからと顕正、財施に頑張っている私にとって聞き捨てならない大問題であった。

 高森先生は「自力の善が(獲信)の資助になるどころか自力無効、捨自帰他、自力が廃らない限り絶対に弥陀の本願はわからす、報土往生は出来ないと説いている」しかし「自力一杯求めたことのない者に、自力無効と知られる筈がありません」と理屈を付け加えて反論された。
 そして本願寺との文書論争が繰り返され、「本願寺なぜ答えぬ、親鸞聖人のみ教えに善の勧めは有るのか、無いのか」に、いつの間にか論点を高森先生はすり替えられた。

 私はこの時、本願寺の不思議な批判が理解出来なかった。
 また、高森先生の自力の善が獲信の資助にならないというのも強くひっかかった。
 教学的には自力で助からぬが、しかし何かに成る、資助に成ると思う心で全員活動しているのが親鸞会会員の本音でないか。
「宿善まかせ」それを否定したら誰も動かなくなる。
 諸善は「因縁」になると言われたが理解できない。資助とどう違うのか。
 されど私は親鸞会の講師部。「高森先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します」と朝晩、お勤行の時は唱和している者である。分からないのは私がまだ未信だからで、高森先生の教えられることに絶対間違いは無い、と本願寺への座り込み抗議にも参加した。
 本願寺からの反論が無くなり親鸞会は「本願寺を完膚なきまで論破した」と勝った勝ったムードで、教義の正当性に自信を持つようになっていった。

 しかし、この問題が如何に根本問題であったのか、次第に知らされることになる。



○法友の苦しみに何も出来ない、

 福井市で美容院をしていたGさんが癌で緊急入院したと知って、大先輩講師と支部責任者と急いで見舞いに行った。
 腹痛に耐えられず病院に来た時は既に末期で手遅れだと関係者から聞いた。激痛に耐えている姿が可愛そうだった。
 先輩講師が声をかけ励まし、「Gさん、阿弥陀仏を念じなさいよ」と繰り返して言ったが、「念仏称えなさい」とは一言もなかった。
 自力の念仏では助からない、信前の念仏は無効だと、福井市の布教使と法論した親鸞会では念仏を勧めず、称える人はいなかった。

 後日、一人で見舞いに行って心配で心境を聞いた。
 彼女は20年近く高森先生の話を聞き、まだ40代で、いつも後生に一大事がある、地獄に堕ちるとお客さんにも言い、それほど後生を恐れていた。
「阿弥陀仏を念じるように言われたけど、どうや」と言うと、「出来んわねー、辛て出来ん、出来ん、私はあかんのやー、宿善薄いんやー」と泣いた。
 10分おきにやってくる激痛に身体をくの字に曲げて耐えているのを見ると、言葉も見つからず、辛くなって病室を出た。哀れで涙が流れる。
 どうか阿弥陀様、Gさんを助けてあげて下さいと念じるしかなかった。
 殊勝に「阿弥陀仏を念じなさい」と勧めても、そんな立派な心が用意できようか、続こうか。激痛、病苦の激しさの前には、ただ「助けてくれー」しかない。
 私はGさんの姿を、宿善を元気なとき力一杯求めなければ、臨終に自分もそうなると教えてくれたと、そんな受け取り方をしていた。
 阿弥陀仏は、心から信じることも、念ずる心も全くないものと見抜いて、本願を建てておられる深いみ心を、私はまだ知らなかった。
 やるせないみ心を一言も伝えられなかった。
 しばらくして彼女は亡くなり、親鸞会葬儀が行われ、私は進行役を務めた。



○海外布教で見抜かれた信仰

 私の海外布教はハワイだった。
 1年余り、日系人を中心に一人で布教に飛び回った。
 会員さん、購読者を集め法話をしたり、戸別訪問したりのある日、70歳代の病気がちの日系人のHさんを訪ねた。
 毎週参詣される熱心な方で「先生、私助かるでしょうか。こんな身体ですからそう長くはありません。後生が暗いです。何とか助かりたいのでお参りしています。お勤めもしています。阿弥陀さまどうか助けて下さいと朝晩お願いしています。」と言われた。
 この時私は「Hさん、お参り、お勤めよく頑張っておられますね。でも、阿弥陀様助けて下さいは、自力たのみで駄目なんですよ。他力廻向の信心でなければ助かりませんよ」と言った。
 すると「えー、私の信じ方は駄目なんですか。ではどうしたらいいんですか。先生はもう信心決定しておられますか、他力の信心頂かれましたか。それを教えて下さい、お願いします」と強く哀願されれた。
「いいえ、まだです」と答えると、「どうしてですか。先生は奥さんも子供さんも日本におかれてハワイまで仏法のために来ておられます。よく仏教の勉強をして何でも知っておられる宿善のとても厚い方と思いますよ。そんな先生が信心決定まだなら、宿善の薄い私なんかとても無理なんですね」と厳しい顔になられた。
「いや、宿善が厚いか薄いか、人には分かりません。助かるのは宿善まかせですから、仏法は聴聞に極まる、続けて聞いて下さい、必ず助けると阿弥陀仏は誓っておられます、命をかけて約束しておられますから。」と言った。一番痛いところを突かれてしまった。あの時のHさんの不安一杯な顔を今も忘れられない。

 宿善まかせ、と言っていれば本願寺の指摘通り、諸善やお勤めで助かる、聞いておればその内何とかなる、としか思えなくなるのは本当なのだ。
 高森先生は自力の善で助かるなどと説いていないと強調されても、会員さんの理解は違う、自力の執心はそう簡単に承知しない。
 自分のやった善根功徳が多いか少ないか、これで助かるかどうか、宿善の厚薄ばかり問題にして、聴聞さえも何回聞いたか、真剣に聞いているか、苦労して聞いているか、覚えているかばかり大事にする。
 金と時間と身体のカスで求めていないか、と自分の方の求める姿勢、形ばかりを問題にして、助けて下さる阿弥陀様の心を知らない、聞いていない、問題にしない。
 私自身が阿弥陀様のみ心を知らず、本当の仏願の生起本末が説けないから、結局そんな指導ばかりして、Hさんと、あんな愚かなやり取りしか出来ないのだ。
 しかし、この時もまだ自分の根本的間違いがどこにあるのか気付いていなかった。



 帰国してやがて福井県の本部長、責任者となり、法話をしながら担当講師と会員さんの指導や顕正、参詣者、財施目標の達成に他県と競争することに熱心になっていった。
 やがて高森先生の作られた「世界の光・親鸞聖人アニメビデオ」の配布こそが尊い善である、これで本願寺も大津波に飲み込まれてしまうと豪語された。
「真宗の危機は全人類の危機」「真宗改革は我らの手で」「打倒本願寺」のスローガンを思い出し、毎月の目標本数に向って、会員総動員してあらゆる手段で販売促進が行われた。
 私にアニメ販売の専門職が与えられ、20名余りの青年部会員と全国を3年半、アニメ販売の飛び込みセールスに専念した。

 その後、顕正の専門となり2年半、朝、昼、夜と広島、福井県を仏法の話し込みに毎日歩いた。



○講師部の退部

 新しい支部制度が始まり、私も福井県の一支部長となった。
 しかしこの頃、講師部内、特に上司の非常識な仏法者らしからぬ言動を無視出来ず、2度も高森先生に手紙で訴えたが、取り上げられず、反対に30名余りの講師と共に「和を乱した大罪」と糾弾され「除名処分」が下った。
 執行猶予5年付きで許されたが、理不尽な処罰と思うと不審が大きくなっていった。
 やはり清らかな団体は有りえない、皆、煩悩具足、我が身可愛い、自己中心、我執の集まりと思い知らされた。
 お互いに信用して本心も明かせない状況になってきた。
 高森先生といえど身内大事、やはり凡夫、例外でなかった。
 これまでお慈悲で公平な先生と絶対視していた心が崩れ始めてきた。
 何より、自分こそ、そうでないか。会員さんの前では真摯な仏法者らしく振舞っているが、本当に後生が苦になっているか、阿弥陀仏を心から敬っているか、会員さんの獲信を心から願っているか、導けるのか、毎日心配しているのは、生活のことであり、悪くなってきた糖尿病のことでないか。それでも三界の大導師か、自分は。
 もう講師部だから信心決定できるなどと思わなくなっていた。
 しかし40年あまり聞いて来たこの教えだけは間違いない筈だという信念を残し、20年余りの講師部を退部して会員として求めていくことにした。本心は言えないから、経済的理由で続けて行けませんと全講師部の前で言ったら、批判の嵐だった。
 しかし経済的に無理なことは本当で、ウソではなかった。
 会員さんにはただお詫びするだけで、一切理由は言わなかったが、心が張り裂けそうだった。
 講師部の現状に失望し、自身の求道姿勢にも自信をなくした私は、高森先生の説かれる教えだけは真実だから、こんな私が救われるには聞くしかない、後生の一大事がある以上、聞くしかないと思い、働きながら親鸞会の聞法を続けていた。



○法友の嘆き、深い疑問生ずる

 そんなある日、2年半も元嶋田支部会員としてご縁のあったSさんが癌でもう聴聞に来れないと聞いた。
 80歳位で、30年近く求められ、聴聞も県で一番多く、心臓の持病を持ちながら、アメリカ、ブラジルであろうと高森先生のご法話は一度も欠かされたことがなく、支部のご法話、会合も全日程参加でアニメ配布にも真面目に回られた。
 財施も常に県で上位、副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、親鸞会から、貴方は会員の模範だと何度も表彰を受けた方だった。
 2月に見舞いに自宅へ行くとベットに横になり、変わられた姿に驚いた。私の顔を見て「こんなになって聴聞に行けんようになったー。宿善積めんようになったー。困ったー。弱ったー」と言われた。
 自分の病気に気付いておられるなと直感した。
 もう世間並みの見舞い言葉など言っておれない。
「Sさん、本部で座っているだけが聴聞ではありませんよ。何を聞いたかです。何を30年間聞いてこられましたか。こうなったら、これまで聞かせて頂いたことを話しに来ますから、このベットの上が聴聞会場ですよ。」と言った。
 私はこの時、このSさんにこれまで聞いてきたことを全てお伝えしよう、交通事故で突然亡くなった父と同じ歳のSさんに何とか救われてもらいたいと強く願った。
 それから本棚に積み上げてあった高森先生の書籍を20冊以上を読み続け、何十年間の聴聞記録を読み返し、話そうと思うところをコピーしたり、テープに吹き込み準備して、月2回程見舞いに行った。
 何を話してもSさんは30年余り、3000回以上の聴聞をしてきた方だから、私の話することは全部分かる。話しするのはSさんの体調から1時間が限度でした。
 無常観、罪悪感が大事と話しすると、
「無常をとりつめたら後生の一大事に驚きが立つ、今死んだらどーする、と思うけれど、まだまだ死なんとしか思えん」
「罪悪をとりつめようと、自分の悪をいろいろ思うが、もー悪い奴、地獄行きと本心から思えん、こいつが」と腹を叩かれた。
「こんな者どうすりゃいいんですかー、教えて下さい、助けて下さい」
と男泣きに泣かれ、私の腕にすがりつかれた。
 いつも山が崩れても動じないような方だったのに、恥も外聞もかなぐり捨てたこの態度に、自力の信心の崩れを目撃し、私も動揺した。

「阿弥陀仏が分からーん、本当におられるのかー、どう信じたらいいのや、どう思ったらいいのか。私みたいな者は助からんのか。あー私は宿善が浅いから助からんのや、信心決定できんのや。高森先生、申し訳ありません、もっと宿善積んで頑張ればよかった。済みませんー」とまた号泣された。

 繰り返し三願転入の説法を聞いて、19願の諸善を真剣にやらねば、20願、18願へと進めないと信じ込んいるから、宿善が薄い、どうにもならぬと泣かれる。私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。
 仏法を聞き始めて40年、私は初めて人に念仏を勧めた。
 Sさんは驚いたように「念仏で助かるんですか、称えていいんですか」と聞かれた。無理はない、信前の念仏は助からんと散々30年聞かされたSさんは、初め躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。
 3分、5分と共に念仏を称え続けると、何の涙か分からないが止まらない。一緒に泣きながら称えた。
 Sさんの担当支部長にこんなことが知れたら、注意されるかもしれないが、20願の念仏を勧めて何が悪い、三願転入でないか、という覚悟でいた。

 私はSさんが何度も「高森先生申し訳ありません」と泣かれる姿に違和感を感じ始めた。懴悔する相手が「阿弥陀仏」でなかったからです。助けて頂くお方は阿弥陀仏なのに心が高森先生しか見えてない。
 親鸞会では何十年も、高森先生の「ご苦労、ご恩、み心」を具体的にその都度、繰り返し、繰り返し伝え「感謝しよう、お礼状出しましたか」と徹底したきた。
 だから会員さんには無上、無二の善知識だから「高森先生の深いみ心です」と言えば何でも通じた。反対は無かった。
 阿弥陀仏の「ご苦労、ご恩、み心」はほとんど分からない、知らないこと生起本末を話してみて私自身驚き、大変な心得違いでないかと思った。これでは「善知識だのみ」ではないだろうか。

 病気の進行は早く、Sさんは自宅から病院へ移られ、行くのが辛かった。
 行く度に落ちていく体力。10分程聞くのも辛く、痛みのため話が何度も中断する。しかし痛みが和らぐとまた聞かせて下さいと言われた。
 病気になって諸善のやれないSさんに19願の話をしていても何にもならない、宿善薄いと嘆いていても何にもならんと判断した私は、諸善を切り捨て、念仏を勧め、18願の「仏願の生起本末」に絞って話しをすることにした。
 A3用紙に書きながら、聞き得るだけの宿善、仏縁のある人と思って話し始めた。
 生起。自分は極悪人であり後生は一大事、地獄は必定、流転輪廻を繰り返してきた私であるから阿弥陀仏が立ち上がられた。

 本末。法蔵菩薩の五劫の願、兆載永劫のご修行の末、成仏され、お浄土と南无阿弥陀仏が出来上がった。しかしここまでしか分からない。
 いくら話しこんでも、南无阿弥陀仏が分からない。
 他力の信心一つで救われるが、頂く名号六字が分からない。
 どこが功徳の大宝海なのか、地獄行きが極楽行きにする力がどこにあるのか、そんな力が六字のどこにあるのか、信じられない。どう頂くのか。
 分からない。話ししている私こそ分からないのだ。Sさんも分からん、分からんと言われる。
 話すほど二人とも疑いがどんどん出てくるでないか。
 よく考えてみると、高森先生から諸善は勧められるが六字の心を詳しく聞いていないことに気付く。
「雑行、雑修、自力の心を振り捨てて弥陀たのめ」とあるが、どうしたらこの自力、疑いを捨てて他力に入るのか。
 その方法が「三願転入」で「自力一杯やらねば自力無効と知らされない」と聞いたが、では、自力一杯がどこまでか分からない。
 又、諸善、五正行の善はせねばならないが、「心がけが悪い」から捨てよとも教えられた。
「これで助かりたい、間に合わせようの心を捨てよ」と聞いた。
 Sさんも以前に、この意味が分からない、本当にこんな心を捨て善が出来ますか、私には出来ません、と正直に言われたことがあった。やれば「自力無効、悪い心がけが廃る」と言われるが、Sさんは30年余りを宿善、宿善とやってきて、これ以上の宿善をどう求めよというのか。しかも臨終が迫っている。まだまだ足りぬというのか。

 教学講義で「雑行を分かるだけでも30年、40年はかかる」と言われて驚いた。これでは高齢から聞き始めた人は助からないことになる。
 それなら実際、30年40年以上求めている講師部に獲信した人はいるのか。聞いたことがない。「自力一杯活動して自力が廃りました、疑い晴れました、他力が分かりましたと」言った人を見たことはない。
 私自身、やっても、やってもこれで一杯と思えず、反省を繰り返してきた40年だ。それでも精一杯か、動きが緩慢だ、講師部は19願の入り口にも入っていないと厳しく指導されてきた。
「仏法は聴聞に極まる」と教えながら「19願の諸善を励まねば信仰は進まぬ」と説いていたら、捨てるどころか、諸善で何とか成ると思う自力の信心が強くなってくる。そうでないだろうか。現状が証明している。そして臨終に総崩れになる。

 18願の本願を疑う心、疑情一つが助からない原因とは、皆さん合点している。
 しかし、疑い晴れて無碍の一道に出るのも、そうなるのはやはり宿善まかせと理解しているから、最後に助からないのは宿善薄いからだと、結局ここに泣くことになる。これが親鸞会の現実なのだ。

「他力の信心は20年や30年で獲られるようなものでない」と親鸞会発行のパンフレットに書いてある。
 また「多生の目的です」と言われ、今生だけでは難しいと受け取れるような言い方になった。
 平生業成の本願なのに、これでは死ぬまで求道で一生が終わる。
 まるで火鉢の周りを、周り続けている虫と同じでないか。やがて力尽き、火の中へ落ちるだけだ。
 中には真剣に求めている人は、臨終に観音菩薩の説法にあえると高森先生から聞いて元気が出たと、本気にしている人もいた。


 噫、これで浄土真宗なのか。

 ところが高森先生自身は18歳の時、求めてしばらくして救われたと言われた。しかも19願の諸善に励んだとは聞いたことがない。
 自分がしなかった事をなぜ会員さんに勧めるのだろうか。
 私は朝晩の勤行に御文章80通を30年以上繰り読みしているが、どこにも「雑行、雑修、自力の心を捨てるには、諸善をやらねば廃らない」とは1ヶ所も書いてない。なぜだろうか。
 蓮如上人は高森先生のように教えておられない。蓮如上人は親鸞聖人のみ教えをそのまま伝えられたお方なのに、これはどういうことなのか。おかしいことになる。
 蓮如上人は自力の心を捨てるには「六字のいわれを善知識に聞け」と一貫しておられるからだ。


「自力一杯求めなければ、自力無効と知らされない。」この言い方こそ問題ではないだろうか、自力の内容が違うのでないか、諸善をやっていては一生を無駄に終わるのではないかとやっと気付いて来た。

 なぜなら親鸞聖人は、「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し。これを聞というなり」18願の心、ご名号を聞け、南無阿弥陀仏のみ心を知れ、疑心なくなったのが他力廻向の信心と、ハッキリ救われる法を明らかになされているからです。なぜ自分がやっていないことをさせるのか疑問一杯になってきた。


 宿善と疑情、三願転入と自他力廃立どう関係あるのか、分からないまま「真実はここでしか聞けない」と叫んでいるだけではないだろうか。

 これは何かおかしい、間違っているのではないだろうか、と思えてきた。
 本願寺の「親鸞会の宿善論」への指摘の言葉が段々と鈍い私にも効いてくる。

 親鸞会の求道で本当に救われるのか、
 高森先生の言葉に絶対間違いないのか、
 これまで考えたことのない疑問が頭を持ち上げてきた。
「私は真実を説き切っている、聞き切らないのは君達の責任だ」と言われた自信一杯の言葉を信じてきたが、その堤防が決壊を始めた。
 恐ろしいことだった。40年間、求めてきたものに疑問を持つのは何より怖かった。
 これは恐ろしい謗法罪だ、考えるなー、やってきた全部が無駄ごとになってしまう。必死に否定しようとした。
 しかし、聴聞信心、活動信心、教学信心、宿善まかせ信心、そのうちそのうち信心が崩れてゆくのは経験したことのない不安だった。親鸞聖人が比叡山の修行に疑問を持たれ時も、こんなお心だったのだろうか。
 同時に私はこの時、自分の慢心に気付いた。よし俺が導いてみせようとは、何たる傲慢。Sさんは目前の後生に命がけなのに、聞いた話、覚えた教学、読んだ要で何とかしょう、出来るだろうとは、自分こそ後生の一大事を軽く見ている何という馬鹿者だ。
 阿弥陀仏の本願が全く分かっていない。疑情の塊、自惚れるな。
 このままでは私もSさんと同じ臨終を迎えるだろう。会員さんも同じではないか、福井へ来て30数年救われた会員さんを聞いたことがないが、この大きな疑問をどうしたらいいのか心が暗くなるばかりだった。



○母の慈悲と真実の言葉


 8月のお盆に久々に富山県の実家へ帰った。
 80歳過ぎの母が、もう父の墓参りは今年が最後だろうから連れて行ってくれと気弱なことを言った。早いもので亡くなって10年が過ぎ、村の墓場へ行き、墓前で阿弥陀経をあげて母と父を偲んだ。
 家に帰ると母が「こうしてお前とじっくり話しが出来る機会はめったにないから言っておきたいことがあるので聞いてくれ」と静かに話し始めた。
 自分の生まれた時からの、これまで断片的に聞いていたことを、正確に時間的順序で出来事、心情を2時間余り語ってくれた。
 家が貧乏子沢山で東京へ奉公に出たこと、満州開拓団に夢を託し、結婚し男の子2人もいたが、夫は急性肺炎で急死し、子供もソ連参戦のどさくさの惨事で死なせこの世の地獄を味わった。
 戦地で助けてくれた今の父と命からがら日本へ引き揚げてきて、私達兄妹3人が生まれ、苦労して育ててくれた。
 特に私は小さい時病弱で、近所で貰い乳をして育ち、兄妹の中でも親に心配をかけたという。亡くなった子供を思い、その分私達に注いでくれた愛情の数々を思い出すと私はこみ上げる涙を堪え切れなかった。
 今も私の身の幸一つ思っていてくれる母に、私は何をしてきたのだろうか。
 裏切り続け、親をどこまでも利用する心しかないではないか。
 五逆罪の57年だったことがぐーっとこみ上げてきた。
 なのに、それを責めずいつも許してくたではないか。
 ああ私程恐ろしい者はない、浅ましい子供はいない、恩知らずの鬼とは私のことだ。
「悪かったー、俺ほど悪い者はない、堪忍してくれー」と、私は大声あげて母の膝に泣き崩れた。恥ずかしいも何もない、泣くしかなかった。
 母は「分かった、分かった」と背中をなでてくれた。
 泣く心のない私を泣かせたのは母の慈悲だった。聞いて知らされた深い親心だった。

 私が泣き止むと母は話を続けた
「お前は小さい時から仏様のことは関心があったな。
 高森さんと縁があって仏法聞くようになり、講師にもなって苦労しているのを見て、早く信心決定してくれ、まだかまだかとずーと思ってきた。
 生活も大変やし、子供もいるのにどうやってゆくか本当に心配だった。
 講師やめて働いて、生活が心配ないようになったと聞いて安心したよ。
 だけど後生のことは大変だ、このまま高森先生の話を聞いていって信心決定出来ると思っているのか」と聞いてきた。
 本当にドキリとした。見抜かれていると思った。
 どうしてそう思うのか、と聞くと驚くべきことを言った。

「満州から帰ってしばらくして高森さんが村の寺に説法にこられてご縁あった。満州で地獄を見て、人間の本性を知ったから、説かれることは本当だと思って真剣に続けて聞き歩いた。数年して安心できた。お前みたいな者がと言われるだろうから、ずーと言わずにいたけど、何時死のうと母ちゃんの後生は心配してくれるな。分かったか。
 それよりこの間、立派な本部になっていて驚いたが、高森さんの話を聞いてこれではなーと思った。昔の話はもっと腹に応えた、厳しかった。極悪人だから後生に一大事がある、阿弥陀様だけしか助からん、18願の生起本末を話され、自力の心、疑いが有る間は絶対助からんと、自力、他力と何度も、何度も説かれたもんや。
 今は次から次とテレビに親鸞様のお言葉が出てきて若い人(アシスタント)に説明させて、じっくりと話されん。あれではなー。それにお前は三願転入で助かると言うが、昔は廃立、捨てもの、もらいものと聞いた。自力、疑いは捨てて、六字の心を聞け、頂けと言われ、だから安心できた。話が変わってきているように思うな。昔とは。
 善いことしないと助からんように思っているなら、いつまでたっても19願で終わると思う。お前は善ができる善人様か。親鸞様も比叡の山で出来なんだと泣かれた。お前はそんな偉いんか。どう思って聞いている、40年も聞いてきて分からんのか。
まだ19願か。一生なんかすぐ終わるぞ。もうすぐ60でないか。お前、高森さんだけに聞いているがそれでいいのか。一度離れて静かに自分の心を見つめたほうがいいのでないか」

 ガーンときた。母の真実の言葉に私の40年の信心が壊されてしまった。
 私の信念はモタモタになり、聞法の問題点が浮かび上がって来た。
 この世ばかりか、後生まで心配し続けてくれる母だった。
 父の本棚には「本願成就文説法」の本があり、親鸞会以外の本を読んだことのない私は読んで深い解説に驚いた。父は私より深く知っていたのか。

 私はこの日、親不孝を思い知らされ、また何と有難い両親のもとに生まれたものかと感謝せずにおれなかった。
 両親が親鸞会に縛られている縄を解いてくれた。



○華光会との出会い

 高森先生だけが善知識だ、の思いが崩れだし、他にも阿弥陀仏の本願を分かり易く、深く伝えておられる方があるはずだと思うようになった。
 見るな、読むなと言われていたインターネットで「親鸞会」を検索すると、有るは、有るは、紹介や批判のサイトが10以上もあり読み始めた。
 そして遂に華光会のホームページにたどりついた。

 高森先生は華光会に18歳から10年近く関係があり、伊藤康善先生が恩師であると分かった。師は無いと聞いていたが、そうでなかった。
 華光会はどんなところか詳しく調べようと電話で「仏敵」「安心調べ」「念仏のお叫び」「後生の一大事」「親指のふし」「廻心の体験」「われらの求道時代」等を注文した。
 電話に増井悟朗先生が出られたが、申し訳の無いことにそうとは知らないから、事務員さんかと思って注文だけした。

 盗作問題も調べようと、ついでに九州の寺へ大沼氏の本を16冊求めて読んだらそれも本当だった。
 伊藤先生、大沼氏からの盗作はひどいもので、見つけて付箋紙を貼っていくと100枚がすぐなくなった。
 高森先生は、さも自分が書いたように見せかける「盗作のプロ」だった。これがバレた為か「会報」が理由も言わずに廃版になっていった。

 当然、教えにも大きな影響が現れ、「自力一杯求めねば自力無効が知らされぬ」は大沼氏の説の引用であったことが分かった。
 盛んに強調される「三願転入」への説法内容の変更も、大沼氏の影響と分かってきた、だから知れるのを恐れ、氏の本を読んだ清森元講師が厳罰を受けたのだ。謎の部分が明らかになった。
 何ということか、40年間も過去が隠され本当のことを知らずにいたのだ。こんな重大事を誤魔化す方だったとは、何という方だろうと不審が大きくなってゆく。



 読んでいくと驚くことばかりで、闇夜から太陽が昇るような強烈な思いだった。
「仏敵」は伊藤先生の獲信の記録だが、するどい言葉にドキドキして、胸が締め付けられる。目の前の伊藤先生の聞法の苦悩が、呼吸が聞こえるような本だ。信後のすがすがしい心に、こんなことが実際あるのか、初めて知った。
「念仏のお叫び」には、後生の一大事と自力、他力の違い、どうしたら疑情がなくなるのか、詳しく分かるように書かれていた。
「六字のいわれ」に、うーんと唸ってしまった。ここが知りたかったのだ。
「廻心の体験」は教学信心で作っていた一念や、信後の観念が吹き飛んでゆく。
 どれもこれも、これまでの思い込みと、生きた言葉とが格闘して頭がくらくらする。
「われらの求道時代」は、高森先生の当時のことも何ヶ所も書かれていて、よく分かった。知られたくない理由がハッキリした。

 親鸞会からの一方的情報だけを正しいと信じ込み、会員さんに「これが獲信か」のパンフレットを配って、華光会を「土蔵秘事に類するもの」と批判してきたことが悔やまれてきた。
 このパンフレットの為に私は、華光会に警戒を抱き続け、近づくことが出来なかった。

 取り寄せた書籍を読んでいくうちに、質問したい気持ちを抑え切れなくなってきた。若し間違っていたら取り返しがつかなくなる。
 どうしても確認したい。せずにおれない。
 果して増井先生はご健在だろうか。すでに80歳を越えておられる筈、若いとき結核で苦しまれたと本に書いてあった。
 ご健在でも、初めての私と話して下されるだろうか。親鸞会では想像出来ない。
 夕方5時に電話すると出て下さって、自己紹介し親鸞会会員であることを正直に話した。本を読んで尋ねたいことがありますが、いいですかと聞くと、どうぞと言われた。
 読み込んで、6つにまとめておいた質問をする。


1 阿弥陀仏の救いとは、どうしたら救われるのか
2 三願転入の教えについて
3 宿善まかせとはどんなことか、宿善とは
4 ご本尊について、ご名号にしないと救われないのか
5 華光会は土蔵秘事か、違うのか
6 華光会と高森先生の関係について


 1時間以上、時の過ぎるのを忘れて私は質問して聞いた。
 増井先生は一つ、一つ丁重に答えて下さった。
 不審なことが益々、ハッキリして増井先生から聞かせて頂きたいの思いが胸の中に広がった。

 ご法話のテープもあることが分かり、20本ほど注文して聞き出した。
「六字の心」「六字のいわれ」「後生とふみ出す」「誓願不思議」
「二種深信」「光に遇う」「救済の予定概念」「罪悪感、無常観」
「機法一体」「大経の構造」「二河白道」「白骨の章」「法に遇う」等

 聞けば聞くほど、これまでとの違いがハッキリしてきた。
「六字のこころ」「六字のいわれ」は特に、これが阿弥陀仏の御心なのかと思うと、これまで遠い、遠い阿弥陀様が、ぐーっと一気に近くなってきたように感じた。

 噫、遂に弥陀の本願を説かれる善知識にお遇い出来たのだ、喜びがふつふつと沸いてくるのを感じた。


 Sさんにもお伝えしようと思ったが、病状が更に悪化してモルヒネ治療が始まっていた。身内の方から、余り苦しむからこの治療をするようになって意識がハッキリしないので、もう来られても話を聞くことは出来ませんと言われてしまった。しまった、遅かった。
 そして2ケ月後に亡くなられた。
 Sさんの正直な告白のお陰で、私は40年間の大問題を気付かされ、今、増井先生にお遇い出来たのに、何ということか。申し訳がない。
 Sさんは私に、今のままでいいんですか、こうなりますよと身業説法して下された善知識と思わずにおれない。
 家に行き、写真の前でお礼とお詫びを心からせずににおれなかった。
 そして必ず獲信まで聞き求めますと誓った。



○親鸞会を退会する

 11月の親鸞会の本部報恩講に妻と参詣した。
 高森先生は「聞其名号の聞くとは仏教を聞くことです。火の中をかき分けて聞けと親鸞聖人は教えておられます」と話された。
 帰りに妻に、「もう聞きに来ないよ」と言うと「私も」と言った。
 聖人は聞とは、名号、南无阿弥陀仏の心を聞け、仏願の生起本末を聞けと教えられたので、火の中を苦労して聞くことが大事と言われたのでない。どんな苦労をして聞法しているか、いつも話題にするが、大事なことは阿弥陀仏の本願を、六字の心をどう聞いたか、どう思ったかなのだ。
 増井先生との違いが明らかになって、いつまでもこんな話を聞いていてはならないと心は決まった。
 退会することは辛かった。
 40年近くご縁のあった方々との人間関係が無くなることになる。
「なんで、どうして、何をこれまで聞いてきたの、恩知らず」と非難しながら親鸞会は会員が近づくことを禁止するだろう。
 しかしいつか別れていく人との生活を大事にするために生きているのではない。今度こそ本願を聞いて、迷いの打ち止めを致しますと誓って過去世も求めてきたのではいか。もう迷ってはならない。

 12月に増井先生に「親鸞会をやめて聞かせて頂きます」と電話すると、
「親鸞会が助けるでもない、華光会が助けるのでもない。これ皆無常のものですよ、いつどうなるか分かりません。阿弥陀仏の大願業力に救われるのですから。来る人は拒まず、去る人は追わず、ご縁ですから。親鸞会をやめるも、そのままでも自由にして下さい」
と言われた。

 それを聞くと尚更、早く聞かせて頂こうと思った。
 夫婦で担当の支部長に退会の報告に行くと「どうしてですか、高森先生のご恩を何と思っているのですか」と強く批判してきた。
 20年近く同じ講師部の仲だったから、支部長の気持ちは良く分かる。
 しかし、頭が真っ白になっている支部長に今の私の心を話ししても、到底、理解出来ない。何も反論せず、お世話になりましたと言って帰った。

 遂に、阿弥陀様の強縁に引かれ、お育てを蒙り、私達夫婦は華光会1月報恩講に参詣することになった。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。