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投稿(§17 阿弥陀仏の本願の行)

§17 阿弥陀仏の本願の行



ここで大切なことを確認しておくが、

親鸞聖人の所謂「三願転入」のうちで、
「万行諸善」「要門」に当たる『観無量寿経』において、
最終的に釈尊がお勧めになられたのが「念仏」で、(注1)

されにそれを善導大師が解釈されて、

阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、
釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、
衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。

と述べられ、(注2)

その教えを法然上人も受け継いでおられることを、
忘れてはならない。(注3)

そして、法然上人が『選択集』最後の十六章に書かれた、実践的結論と言える、

速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば・・

1)「聖道門」「浄土門」という二種の優れた法門の中で、「浄土門」を選んで入る。
2)「正行」と「雑行」の二行の中で、「正行」を選んで実践していく。
3)「正定の業」と「助業」の中で、「正定の業」(阿弥陀仏の名号を称えること)を專らに実践していく。

という言葉は、(注4)
親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

とコメントされているから、
当然ながら、浄土真宗においても従わなければならない。(注5)


それでは、なんで阿弥陀仏は十九願と二十願を立てられたのか?
ということになるが、

★阿弥陀仏の十八願を信じようとしない人を導いて、
十八願の世界に入れるため。

に決まっている。

いかなる行も及ばない末代の衆生のために、
阿弥陀仏が名号を作ってくださり、
それを受け取った人を必ず救う、と仰っておられるのに、(注6)
それを信用せず、

「何かをしなけらばならない!」

と思ってしまう、阿弥陀仏の御心がわからない衆生・・。

そんな衆生にも心を向けて、なんとか十八願の世界に導きいれようとした、
「巧みな手段」(方便)の願が、十九願と二十願なのである。(注7)

だから、「本意の願」である十八願の世界に、
一刻も早く入ろうとしなければならない。(注8)

そのために善知識がお勧めになられているのは、
聴聞と信前の念仏であるから、それを最優先にしなければならない。(注9)

それが、できなくなるような環境ならば、
速攻で脱出しなければならない。(注10)(注11)


【今日のまとめ】

1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
  阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
  阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
  親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。

2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
  この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。

3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。

4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
 「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。

5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
  それができなくなるような環境からは脱出すべきである。


※次回から、「まだ納得できない人」のために、質疑応答形式で更に掘り下げた解説を行う。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 詳しくは以下参照。

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っている。


注2 詳しくは以下参照。

善導大師は『観経疏』において、上記の釈尊の教えを以下のように解釈されている。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


注3 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用され、また同じく『選択集』で以下のように述べておられる。

もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
少ししか見たり聞いたりしていない人は、
きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
少ししか聞いていない人は甚だ多い。

もし戒や律をきちんと守ることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
極楽浄土に往生するための本願にせずに、
ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(第三章)


注4 『選択集』十六章

1)
それ速やかに生死を離れんと思わば、
二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、淨土門に入(い)れ。

(訳)
速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、
二種の優れた法門の中で、
しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)
浄土門に入(い)らんと思わば、
正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
浄土門に入ろうと思うのであれば、
正行と雑行の二行の中で、
しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)
正行を修せんと思わば、
正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
正行を行おうと思うならば、
正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
それは、阿弥陀仏の本願によるからである。


注5 親鸞聖人は、「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。
ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。
いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。
真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。
なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、
仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、
願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。
三経一心の義、答へをはんぬ。
(『教行信証』化身土巻)

しかし、この「他力の信心」と善導大師・法然上人・親鸞聖人がお説きになられている「念仏」が切り離して考えられないものであることは、既に述べた通りである。

詳しくは、§14「信心」と「念仏」参照。


注6 例えば以下の法然上人の言葉を参照。

酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、
大慈大悲の御心のうちに思惟して、
年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を巡らして、思惟し給えり。
しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、
薄地低下(はくじていげ)の、衆生を引導すべし。
その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
我、すべからく、衆生のために永劫(ようごう)の修行をおくり、
僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、
その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
我が名号として、衆生に称えしめん。
衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二七頁)

(訳)
阿弥陀仏は、「どうすれば仏になることができるだろうか」という理論を、
大いなる慈悲の御心でもって考えているうちに、
年月はいつの間にか過ぎていき、五劫という途方もない時間が過ぎた。
そして衆生の能力や理解を判断して、巧みに教え導こうとお考えになられた。
「この私は、私だけの特別の願を立てて浄土に住して、
何の取り柄もなくもがき苦しんでいる衆生を、導いていこう。
もしも、そのような愚かな衆生が、自分で行ったよい行いの力によって、
極楽浄土に生まれるというのであれば、それは難しいであろう。
だからこそ私は、当然のこととして衆生のために、
果てしない時間修行を行い、無数の苦行を積んで、
ありとあらゆる修行・善行の結果として得られる功徳を獲得し、
自ら覚り、他を覚らせるための仏道を極めて、
その結果完成した、ありとあらゆるけがれなき全ての功徳を、
私の名号に込めて、衆生に称えさせよう。
だからもしも衆生が、私のこの本願を信じて、私の名号を称えたならば、
私の誓願の通りに、極楽浄土に生まれることができるであろう。」


注7 「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことである。
仏の覚ったものは「真理」であるが、その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、それ自体「真理」そのものではない。
なお、「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、「うそも方便」という言葉があるが、「方便」は本来、仏教語であり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味は存在しない。


注8 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語である「十七箇条御法語」には、以下の記述がある。

●第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむとなり。
『昭法全』p.470

また、『安心決定鈔』の冒頭に以下の記述がある。

●浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。
弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。
余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この書物は著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなされている。


注9 聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
§7聴聞(何を「聞く」のか?)
§8なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
§15所謂「信前の念仏」について


注10 以下の法然上人の言葉を、勝手に改変しないでそのまま受け取るべきである。

現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。
一所にて申されずば、修行して申すべし。
修行して申されずば、一所に住して申すべし。
ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
在家にて申されされずば、遁世して申すべし。
ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。
衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。
妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。
所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」


(訳)
この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
他の人に助けてもらいながら申しなさい。
他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
自分で生計を立てて申しなさい。

妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。

領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。


この御法語は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、
阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、
この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものである。


注11 なお、法然上人が「持戒の行」「孝養の行」を勧めておられる言葉があるが、「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と教えておられていることに注意しなければならない。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
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投稿(§16 所謂「三願転入」について)

§16 所謂「三願転入」について


前回、「信前の念仏」を親鸞聖人も勧めておられることを証明したが、

親鸞聖人は「三願転入」をお説きになっておられるから、
「信前の念仏」は二十願のプロセスの人に説かれたもので、
十九願のプロセスにある人には「諸行」が勧められている。

と反論される方も、おられるだろう。(注1)

そのような方のために、所謂「三願転入」について触れておこう。


そのような主張をされる方は、親鸞聖人が『教行信証』化土巻で、
「以下の道程を歩まれている」とお話されていることを、根拠にしておられる。(注2)

1)【万行諸善の仮門】を出て、【双樹林下の往生】から離れた。
2)【善本徳本の真門】に入って、【難思往生】を願う心を起こした。
3)【選択本願の大海】に転入して、【難思議往生】を遂げようと欲する。

そして、1)2)3)が、
本願で言うと、それぞれ十九願・二十願・十八願に対
応して、
浄土三部経で言うと、それぞれ
『観経』『阿弥陀経』『大無量寿経』に対応するから、

[三願][三経][三門]
[三往生]
1)万行諸善=十九願=観経=要門→双樹林下の往生
2)善本徳本=二十願=小経=真門→難思往生
3)選択本願の大海=十八願=大経=弘願門→難思議往生

こういう構造になって、

「とりあえず1)からスタートしなければならない!」

ということで、

「お金を持ってきなさい!ただ働きしなさい!
 お友達を連れてきなさい!サークルを作って学生を誘いなさい!
 アニメを売りなさい!」

という「善(?)」に励んでいるわけである。(注3)

 さて、このような「活動」が、「万行諸善」と言えるかとりあえず置いておいて、
(私は、言えないと思うが。。)


 これが、親鸞聖人の「体験告白」であって、
親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。
ということは、まず踏まえておかなければならない。
(注4)(注5)


【今日のまとめ】
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。


 とりあえず、今日はここまで確認しておいて、話が長くなるので、続きは次回に述べる。

★「仏が衆生に何を求めているか?」が、次回のポイントである。


注1 例えば以下のような解説をしている「文化」に属する皆様が、このような反論をするのではないかと思われる。

以下引用

高森顕徹著『こんなことが知りたい』vol.4pp.106-110

二〇 三願転入とはどんなことか

問 三願転入と、よくききますが、三願転入とは、どんなことでしょうか。

答 大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。
その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
十八願は、卒直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
ところが、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私達を、絶対の幸福にまで導くことは大変で、種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、その為に誓われたものです。
十九願には、「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、どうしたら平和な安楽な世界に生まれることが出来るのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、その力で我国(浄土)に生まれたいと願う者は、臨終に諸仏菩薩にとりまかれて迎えにゆこう」
と、約束なされています。
因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。
知っただけでは観念の遊戯に終わり、実行しなければ善果は得られない、と真面目に全力尽してやってみると、悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて泣かざるを得ません。
二十願はそんな人に誓われた弥陀のお約束です。
「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、念仏を称え、その功徳の力で、我国(浄土)に生まれたいと願う者は、必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。
そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、つとめればつとめる程、散乱粗動の心ばかりが見えて来て、こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、と不安な心が出て来ます。
また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、功徳にならぬように思えるので、悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、見えて来るのは悪ばかり。
励めば励むだけ、乱れる心はやまず、悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、こんな者でも死んだらお助け、と安心し喜ぼうとしますが、助かっていないから喜ばれる筈がありません。
法の尊さに感激した時は、助かるようにも思いますが、悪性が現れると、こんあことでは助からんのではなかろうかと、堕ちるような気がする。
念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、参ってみたり堕ちてみたり、つねに不安動乱がやまないのです。
十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。
後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私達の本性です。
親鸞聖人は、逆謗の屍といわれました。
この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、命を投げ出すとお約束なされているのが弥陀の十八の誓願です。
こうまできかされても、聞き切らぬ渋太い私であったのかと照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。
一切の助かる望みが切れた時と、大慈悲心が徹到した時とは同時で、まことなるかな、弥陀の本願、己れ忘れて踊り上がり、ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き出るお念仏を仏恩報尽の念仏というのです。
無辺の智恵と、無限の慈悲を体得しますから、底の知れない懺悔、高さの知れない
歓喜、広さの知れない苦悩の晴れた味に、遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。
この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を
通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
その体験を三願転入というのです。

以上引用


注2『教行信証』化土巻より

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を?うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。


(苦笑ちゃん訳)
 このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩のような論主の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師のような祖師方の教えを受けることによって、久しくさまざまな行や諸善を修行する方便の要門【万行諸善の仮門】を出て、永く【双樹林下の往生】から離れた。

 そして、自力の念仏の功徳を積む方便の真門【善本徳本の真門】に入って、ひとすじに【難思往生】を願う心を起こした。

 しかしいまや、その方便の真門からも出て、【選択本願の大海】に転入した。速やかに難思往生を願う心を離れて、【難思議往生】を遂げようと欲するのである。

 阿弥陀仏が、必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をお立てになったのは、まことに意義深いことである。

 ここに久しく、阿弥陀仏の本願の海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い御恩に報い感謝するために、真宗の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称えるのである。いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。


注3 某巨大掲示板に、注1で紹介した「文化」の主張を端的にまとめた記述が掲載されていたが、非常に的を得ているのではないかと思う。

以下引用

400:神も仏も名無しさん:2009/03/11(水)20:58:36
ID:d3pLMFdy
親鸞会で言う「善」の基準ってなんだろうか?
彼らの主張によれば「極楽に行くための縁、手がかりになるもの」ということらしいが

・「阿弥陀仏は全人類を極楽に往生させるために18願をたてられた」
      ↓
・「18願まで導くための方便として19、20願を建立した」
      ↓
・「19願のこころを釈尊は一切経において廃悪修善として教えられた」
      ↓
・「廃悪修善を六度万行として要約された」
      ↓
・「六度万行の第一が布施である」
      ↓
・「布施とは、財施・法施である」
      ↓
・「財施とは真実の仏法、善知識のためにお金や労働力を提供することである。法施とは真実の仏法を人々に伝えることである」
      ↓
・「真実の仏法は親鸞会でしか教えていない。よって親鸞会にお金や労働力を提供し、親鸞会に多くの人を勧誘しなければならない」

 結局、お金を持ってきなさい、ただ働きしなさい、お友達を連れてきなさい、サークルを作って学生を誘いなさい、アニメを売りなさい、それが「善」ですよ、ということ。

以上引用


注4 投稿文・三願転入「しなければ」助からないという、言い方の影響を考える参照

以下引用

■三願転入の御文は、親鸞聖人の「体験告白」

親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏に救われた体験告白をされたのが、三願転入の御文です。
三願転入の御文は、親鸞聖人の教行信証全6巻の化土巻に書かれているものです。

「ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)」

最初に「愚禿釈の鸞」とありますから、間違いなく「親鸞は」という、親鸞聖人ご自身の体験告白文です。親鸞聖人ご自身は、自身の救われた具体的な体験告白というものはほとんどされていません。ご自身の名前を出して「このようにして弥陀に救われた」と告白されている部分は、これ以外には

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)」

の他にはありません。

■「体験告白」は重視されなかった親鸞聖人

このことから分かることは、親鸞聖人ご自身が、救われた人の具体的な体験を書くことを重要視されていなかったと言うことです。「このようにして救われた」と書くと、それは「救われる方法」ということになり、「このようにすれば救われる」と聞く人が多いからです。

親鸞聖人の書かれた浄土真宗の根本聖典である教行信証は、阿弥陀仏の教、阿弥陀仏の行、阿弥陀仏の信、阿弥陀仏の証について書かれたものです。「私たちの」教・行・信・証を書かれたものではありません。
親鸞聖人がもっとも力を入れて書かれたのは、教行信証の信巻です、その信巻とは、阿弥陀仏の本願に誓われた信心について書かれている者です。ですから、浄土真宗は「信心為本」の教えと言われ、阿弥陀仏から賜る信心一つで救われる教えです。

親鸞聖人の教えを、そのまま伝えられた蓮如上人は、親鸞聖人の教えについて、「聖人一流の章」では、一言で

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流)」

と言われています。

阿弥陀仏から賜る他力の信心一つで救われるのが浄土真宗ですから、「私がこうしたから助かる」という言い方はできません。個人的な体験談を語るということは、聞いた人が、「私がこうしたら助かる」という方法(自力の行で助かる)があるように思ってしまうからです。

ご自身の体験談を書かれた「三願転入の御文」が、教行信証の化土巻末に書かれているのはそのためです。
ことさら重要視されていなかったことは明確です。覚如上人や、蓮如上人が、ご自身が「このようにして救われた」という体験談を書かれなかったのも、自身の体験談を語ることの危険性を考えられた上でのことです。

「三願転入の御文」は体験談である以上、このような道を通って救われたとは書かれていますが、救われた後振り返って「すべて阿弥陀仏の願力の働きによって救われたのであって、自分の教、行、信、証は一つもなかった」ということを書かれたものです。

■三願転入「しなければ」救われない?

そのように書かれている三願転入の御文であっても、真実信心を獲得していない人にことさら強調して説けばどうなるでしょうか。まして三願転入「しなければ」救われないと言えば聞いた人はどう思うでしょうか?

『「三願転入の御文」にあるように私が行動しないと救われない』としか思えなくなるでしょう。
ここで大事なのは、三願とは、「阿弥陀仏の」18願、19願、20願の三願ですから、「阿弥陀仏の三願」の願力によって救われたと親鸞聖人が告白されているのであって、「親鸞が」こうして、こうして、こうなったから救われたと言われているのではないということです。

三願転入「しなければ」と聞けば、「私が」三願転入の御文の通りに行動しなければと大半の人が思うのではないでしょうか。
親鸞聖人が三願転入の御文で、告白されたのは、「阿弥陀仏の願力によって三願転入させられたから、現在弥陀に救われる事ができたのだ」と、救われた後振り返って知らされたことを、阿弥陀仏の願力からいわれたものです。ということは、阿弥陀仏に救われるまでは、阿弥陀仏の18願の願心も、19願の願力も、20願の果遂の誓いもハッキリ分かるものではないということです。

三願転入の御文の最後に言われているのはそのことです。

「選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻・三願転入の御文)」

阿弥陀仏の18願の救いに一念で救われ、20願の往生の心を離れて、18願で誓われた報土往生を死ねば遂げる身になることができました。18願の世界に必ず出させてみせるという果遂の誓い(20願)は本当であった、といわれています。
18願の救いに救われて、20願は本当であったと振り返って言われいるのであって、救われる前に、自分は19願の願力に引っ張られているとか、20願の願力に引っ張られていると明確に分かるものではありません。

まして、「自分で」19願の行をして、20願の念仏を称えたから出られたとは言われていないのが、親鸞聖人の三願転入の体験告白なのです。

すべて阿弥陀仏の働きによって救われるのでありますから、「私が」三願転入(でいわれようなことを実行)しなければ助からないと思うのは間違いです。
??以上引用??


注5 近年は、親●会も個人の「体験告白」を「教え」として語ってはいけない教義にシフトしている。

清森問答質疑応答162より

機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。

投稿(§15 所謂「信前の念仏」について)

§15 所謂「信前の念仏」について

 前回の解説で、「真実の信心」と「念仏」が切り離せないことも、
「念仏はお礼だから、してもしなくてもいい」とは絶対に言えないことも、ご理解いただけたと思う。

 しかし、こういう話をしても、
「念仏は信後に限る」という方が必ず出てくるであろう。
(注1)

 本当に「念仏は信後に限る」と言えるかどうか、
 まず、親鸞聖人の師匠である法然上人にお聞きしよう。



 法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めておられる。(注2)

「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」の人は、もちろん「信前」である。

 その「信前」の人に「念仏」を法然上人がお勧めになられているのに、
「念仏は信後に限る」とは口が裂けても言えない。


 それに、「我が心をも護り信心をも催す(うながす、引き起こす)」ために、
「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられるから、(注3)
「念仏は信後に限る」とは、絶対に言えない。


 そして親鸞聖人は、

信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられる。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
=「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけであるから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できない。


 なお、一応断っておくが、親鸞聖人は法然上人の教えを受け継がれた方であるから、
当たり前の話であるが、親鸞聖人の言葉は、法然上人の教えに抵触しない解釈をしなければならない。(注5)


【今日のまとめ】

1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。

2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。

3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。

4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。

5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


※「親鸞聖人は教え方が違う!」「親鸞聖人の教えは三願転入である!」と反論したくなった方は、とりあえず脊髄反射は控えて、次回の「三願転入の話」をじっくり読んでから反論して頂きたいと思う。



――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば、以下のような発言。

 真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


注2 『念仏往生義』浄土宗聖典vol.4.pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、
こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。


注3 『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.pp.445-446

問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

答えていわく、その様一つにあらず。
あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
あるいは常に念仏してその心を励ませ。
あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。

つまり、

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。

普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられる。


注4 以下の言葉も信前の念仏を勧めたものである可能性がある。

 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

 しかし、「往生を不定におぼしめさん人」(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。と解釈することも不可能ではない。


注5 以下の親鸞聖人の言葉等に基づき、親●会においても「法然上人の教え=親鸞聖人の教え」という立場を取っている。この点に関しては素晴らしいことであると考える。
 親鸞聖人の言葉を法然上人の教えに抵触する意味に解釈し、「親鸞聖人の教えは法然上人の教えと異なる」「親鸞聖人の教えは法然上人の教えを超越している」と主張する態度は、親鸞聖人ご自身の御心を裏切る行為である。

●『高祖和讃』源空讃

曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし

阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき

●『歎異抄』二章

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。

投稿(§14 「信心」と「念仏」)

§14 「信心」と「念仏」


ここで、「信心」と「念仏」の関係について述べておこう。
結論から先に述べるが、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えてはいけない。

これは、非常に重要である。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じである。
 信じたと言っても、念仏を申さなければ信じたことにはならない。
 念仏申しなさい。」

と仰っておられ、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
しっかり信じることと念仏申すことをセットにしておられる。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけである!」
と言って、
「行の一念」を軽んじる輩もいるようであるが

親鸞聖人が、

「信を離れた行はない。
 行の一念を離れた信の一念もない。」

と仰っておられるのを忘れてはならない。(注4)

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、抵触しない解釈でなければならない。(注5)


それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけであるが、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切である。

これは法然上人が仰っておられることであるが、(注6)
親鸞聖人も受け継いでおられる。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

等という、念仏申すことを軽視する、誤ったドグマになってしまうのである。(注9)(注10)

「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたので、
読者諸兄は、そのような誤ったドグマからは既に脱却されているであろう。(注11)


【今日のまとめ】
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をする。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」というドグマとの対決である。

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注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)


注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。


注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。


注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
『親鸞聖人御消息』(7)


注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

 この法論を「信心vs念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
 したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、
「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。

例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。


注6 法然上人には以下のような言葉がある。

●行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。
(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。


●一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。


注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文


注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一、一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。


注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一、開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。


注11 §9~11,ならびにQ&A(3)~(5)参照。

質疑応答178

【質問】


 親鸞会では「教と仏語にしたがえば」の部分を「19願と20願を通って」と教えています。
 顕真平成13年5月号18ページには、
「教と仏語にしたがえば」とは、釈尊の『観無量寿経』の教え(第十九の願意)と、『阿弥陀経』の諸仏のお言葉(第二十の願意)に従うて
と書かれています。
 そこで質問があるのですが、このご和讃の「教と仏語にしたがえば」とは、三願転入を親鸞聖人が教えられたお言葉なのでしょうか?



【回答】


 ここで「教」、「仏語」と書かれているのは、それぞれ、観無量寿経、阿弥陀経のことです。しかし、観無量寿経、阿弥陀経だからといって、自力の信心を教えられたものとは限りません。

 浄土真宗の教えには、顕彰と隠密があり、略して隠顕と言います。
 顕彰とは、顕著に説かれている教えということであり、観無量寿経、阿弥陀経ともに自力と解釈します。
 隠密と目立たないように表されている真実のことで、観無量寿経、阿弥陀経ともに他力信心が説かれていると、親鸞聖人は教えられています。


●三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆえに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもって金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。(教行信証化土巻)


 さて、この和讃で教えられている意味ですが、これは善導大師の教えが元になっています。
 善導大師は、往生できる人と、往生できない人の違いを、以下のように教えられています。


●ただ信心をして求念せしむ れば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもって往生を得易し。(乃至)なにをもってのゆえに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆえに、仏の本願と相応することを得たるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえなり、と。(教行信証行巻)


●もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百は時に 希に一二を得、千は時に希に五三を得。なにをもってのゆえに、いまし雑縁乱動す、正念を失するによるがゆえに、仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違せるがゆえに、 仏語に順ぜざるがゆえに…(教行信証化土巻)


 行巻では、信心決定している人は、雑縁が無くなるから往生できると説かれています。
 雑縁が無くなる理由として、「本願と相応する」「教に違せざる」「仏語に随順する」の3つを挙げておられます。

 化土巻では、信心決定していない人は、雑縁乱動するから往生できないと説かれています。
 雑縁乱動する理由として、「本願と相応せざる」「教と相違せる」「仏語に順ぜざる」の3つを挙げておられます。


「利他の信楽うる人は…」の御和讃は、信心決定した人が、なぜ雑縁が無くなるのか教えられたお言葉です。
 つまり、行巻の上記の内容を要約されたものです。

 ここで、「教と仏語にしたがえば」と仰っているのは、当然ながら信心決定した人のことですので、他力です。
 ですから、信前の求道の道程を教えられた御和讃でありません。

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