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投稿(§ラストまとめ)

§ラストまとめ


【浄土真宗の基本的システムに関する話】

§1「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
  「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。

§2極楽浄土に生まれるためのシステム
1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。

§3阿弥陀仏の救いは平生から
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。

§4「信楽」と「正定聚」の関係
1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。

§5何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」
(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。

§6「名号」と「光明」
1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


【浄土真宗の「聴聞」に関する話】

§7聴聞(何を「聞く」のか?)
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
  疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
  阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
  それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。

§8なかなか信心獲得できない人のために・・
1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。


【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
  「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
  ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
  ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
  ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
  「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
  【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ
1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
 【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
 【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
 【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)
「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因

§11浄土真宗の「信心」(二種深信)
1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、二つの角度から明らかにしたものである。
3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

§12「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
  この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
  無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

§13「異安心」(2)「異安心」のサンプル
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】

§14「信心」と「念仏」
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
  「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

§15所謂「信前の念仏」について
1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」
  という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
  「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
  「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


【「三願転入」の位置づけに関する話】

§16所謂「三願転入」について
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

§17阿弥陀仏の本願の行
1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
  阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
  阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
  親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
  この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
  十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
  それができなくなるような環境からは脱出すべきである。

§18阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
  阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
  セーフティーとして立てられたのが十九願である。
2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
  極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
  阿弥陀仏の本願を無視することになる。
3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

§19『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」
  というのは、間違い。
2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
  「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。


【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】

§20「浄土門以外の教え」の位置づけ
1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

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投稿(§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ)

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~
という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。

       ↓↓↓

116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、
危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)より)



【今日のまとめ】

1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。

2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。

3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。

4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。


※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
 譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
 明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
 水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
 かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
 目に即して見つべし。千差万別なり。
 何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
 隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
 随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
 これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
 汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
 然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
 すなわち汝が求むる所に非ず。
 汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
 また我求める所に非ず。
 この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
 行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
 凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
 もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
 少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。



注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」
(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、
『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。

一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。


 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。
そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)


※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

●聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
 『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、私達を導くために示してくださった、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
これらに依存して他の説を蔑視し、
自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

かれは過った妄見を以てみたされ、
驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

自分の道を堅くたもって論じているが、
ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の哲学的断定を捨てたならば、
人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
―かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
とわたしは説く。
この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)

投稿(会員さんより)

親鸞会会員の方より、以下の投稿を頂きました。

相手の幸福を念じるのが、仏教の教えです。
他人を傷つけることの無いよう、お互い気をつけたいと思います。

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いつもお世話になります。親鸞会会員の○○です。
清森問答の趣旨とは外れてると思いますが、専任講師の言動に気になる事を聞いたため、投稿致します。

Aさん(会員)が、支部長に対して、「本部ご法話に参詣するときに、Bさん(会員)と一緒のワゴンに乗りたくない」と言われていたそうです。

それを聞いた支部長は、Bさんに対して、「Aさんが貴方と同じワゴンに乗りたくないと言っている」と伝えてしまいました。

Bさんはショックを受けて、地元の活動にも参加しなくなってしまいました。

なぜ支部長は、そのようなことをBさんに言う必要があったのでしょうか?

人は好き嫌いはありますが、そこをうまくまとめるのが支部長の仕事ではないかと思います。

投稿(§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?)

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

※今回も「ダチ」との質疑応答形式です。


【ダチ】

 セーフティーネットというのは分かりやすいですね。
 最終的には、自力修善では仏になれない、弥陀の願力によらねばならないというのが結論になると思います。

 阿弥陀仏のお仕事というのは、よく分かるのですが、浄土門の教えを説く人の仕事ではないというのは、「説く必要が無い」ということになるのでしょうか?

 教行信証の化身土巻は、19願の解説であり、聖教の引用の多くは観無量寿経疏であり、特に散善義は多いです。

 観無量寿経の中には定散善が説かれていますが、特に散善については一般的な仏教で言う修善に当たると思います。

 これは、念仏に導く方便とは思いますが、方便である修善についても浄土三部経で触れられているということは、浄土門に19願の教えもあると解釈はできないでしょうか?

 もし浄土門で説かないなら、教行信証化身土巻は書く必要がなかったという気がしますし…

 もちろん、某会のように「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」などという意味ではなく、対機として、有りうるのではないかという疑問です。


【苦笑】
う~ん。
『教行信証』化身土巻は、

「これじゃあアカンよ」
「こういう思いで浄土往生を求めていたら、それは自力の信心だよ」
「これは法然上人や私と同じ信心じゃないから、気をつけなさいよ」

という位置づけで書かれたものであり、
実際、十八願に基づいて往生しようとしている人の中に、
そういう人がいっぱいいるから、気をつけましょうね。

という位置づけで書かれたものであって、
確かにそこにいる人にとってはプロセスなわけだけど、

それは、一刻もはやく「抜けなきゃいけないプロセス」なわけですから、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で、
説いていかなければならないものだと思います。(注1)

『選択集』の四章で説かれる、廃・助・傍の三義も最終的に、善導大師解釈=法然上人の本音でいうと、
「諸行は廃のために説く!」なわけですし、(注2)
第十二章でも、念仏は立てるために説いて、定散は廃するために説く。
というのが結論になってますしね。(注3)(注4)

そういうことを「説く」のであれば、大いに説いたらいいと思います。
ただ、そういう見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説いてしまうのは、少なくとも、
法然上人や親鸞聖人の門下の教えではないと思います。


>「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」

まあ、これは論外ですけどね(苦笑)。(注5)


【今日のまとめ】

1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。

2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」というのが本音である。

3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。

4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

※次回は、「浄土門以外の教え」の位置づけに関して説明するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「それをせえ!」ではなく「それじゃだめよ!」という意味であることは、以下の親鸞聖人の言葉を読めば明白である。


●まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『教行信証』化身土巻

(訳)
いま、まことに知ることができた。念仏を専ら修していても、雑心(自力が混じった心)なものには大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』で、「(雑心の者は)仏の恩に報いようという思いがなく、行を修めても驕慢の心がおきる。いつも名誉や利益を求めているために、その人は「私」というとらわれの心に(自力)に覆われて、同行の人や善知識に親しみ近づくことがなく、進んで雑縁に近いて、極楽浄土に往生するための行を自ら妨げ、人を妨げるのである」と仰った。
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力の信心を伴った念仏を自力の行でもって補い助けようという気持ちが混入し(助正間雑し)、自力の定散の行でもって極楽浄土に往生しようという心が起きるため(定散心雑する)、迷いの世界から離れることができないのである。
自分の力で流転輪廻を渡ろうとするならば、どれほど限りなく長い時を経ても、阿弥陀仏の本願力に帰して、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人と呼ばれる人逹も、阿弥陀仏が与えてくださった本願の名号を自分の力で作った功徳として称えてしまうために、他力の信心を生ずることができず、阿弥陀仏の仏智を知ることができないのである。
阿弥陀仏が衆生が極楽浄土に往生するための因をお作りになられたことを知ることができないので、真実報土に往生することができないのである。

注2 §18の注2参照。

注3 善導大師は『観経疏』において以下のように述べておらえる。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)

法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用されている。


注4 さらに法然上人には、以下のような言葉もある。

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給ひたる事なれば、
人を、きらうことは、候(そうら)はぬなり。
佛の御心は、慈悲をもて体とすることにて候ふなり。
されば『観無量寿経』には、
「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。

善導和尚この文を受けて、
「この平等の慈悲をもっては、普く一切を摂す」と釈し給へり。
一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。
されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。
世の種々の行は本地の誓いにあらず。

釈迦も、世に出で給ふ事は、
弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。

『勅伝』巻二十八、「津戸三郎へつかはす御返事」(昭法全五七二頁)

(訳)
念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
阿弥陀仏の誓願は、
全ての人を平等に救うという慈悲の心から起こされたものであるから、
「あの人は救わない」というように人を選んだりするものではない。
仏の御心というものは、慈悲がその中心となるものなのである。
だから『観無量寿経』には、
「仏の心というのは、大きな慈悲のことなのである」と説かれているのである。

善導大師は、この文を受けて、
「この平等である慈悲をもって、普く全ての人々を救い取る」と解釈している。
「一切」という言葉は、広くという意味であって、
この救いにもれる人がいるはずがない。
だから、念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
阿弥陀仏の誓願は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
お建てになられた誓願なのである。
念仏以外の行は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
お誓いになられた行ではないのである。
釈尊がこの世に現れたというのは、
阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、
決して釈尊の本心によるものではなかった。

だから念仏は、
阿弥陀仏のとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
お釈迦様にとっては、それをひろめることが
この世にお出ましになられた真の目的だったのである。
それが、念仏以外の行との違いなのである。


注5 これに関しては§8の注5で述べたが、再掲載しておく。

『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

投稿(§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義)

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義


※原稿を読んでくれたダチ(元親●会講師)との質疑応答形式になってます。


【ダチ】

 19願とか修善は方便なのだから、対機なのであって、すべての人に勧められたとは思わないのですが、少なくとも必要な人に対しては、修善の勧めがあったわけで、それは否定されるべきものなのでしょうか?(苦笑さんが否定しているという意味ではなくて、一般論的にどうなんでしょう)

 つまり、19願の教えが必要な機に対して、そこで知らされるべきものを、まだ得ていない人に対しても、「一刻も早くそこから出るべき」と言えるのかどうかが疑問です。

 「一刻も早く出ろ」と言っても出られない機だから、方便としての修善が勧められているのであって、そういう機に対しては、修善を勧めることが結果的に「一刻も早くそこから出よ」と言うことになると思うのですが、どう思われますか?



【苦笑】

いい質問ですね。

「修善をしなきゃアカン!」という人に対して・・

★阿弥陀仏が修善を勧めた。

ということじゃなくて、

★その人がシステムから外れないように、
 セーフティーネットとして、十九願を立てた。

ということがポイントになると思います。


「修善をしなきゃアカン!」というのは、カス野郎な自分の力が、
極楽浄土に往生するのに何か役立つかのように思う「自力」の心であり、
こんなものがいくらあって頑張っても、
極楽浄土に往生することには役にも立ちません。

それでも、そういう人もいずれそういう思いからリタイヤして、
十八願の世界に入るようにセーフティーをかけているのが、
十九願の意義ということになります。(注1)

これは阿弥陀仏の仕事であって、浄土門の教えを説く人の仕事ではありません。


したがって、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになりますので、
法然上人や親鸞聖人の流れを汲む浄土門の教えとしてはアウトです。(注2)

ましてや、どっかの親●会のように、
「極楽浄土への往生」目的でもなく、
「信心決定」目的で「諸善」を勧めちゃうのは、
「諸行往生」にすらならない、完全にセーフティーのかからない、
「ヘンテコドグマ」ということになりますね(苦笑)。(注3)

ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
極楽浄土に往生する目的ではなく、この世で成仏する目的で諸善を勧め、
そこからリタイヤして、「極楽浄土に往生しよう」と思ってもらう。
というのは「あり」です。(注4)


あと、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」生きる努力をするものですから、
できる限り頑張ってしたらいいと思いますし、(注5)

阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことですが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰ってませんね。(注6)



【今日のまとめ】
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
  阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
  セーフティーとして立てられたのが十九願である。

2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
  極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
  阿弥陀仏の本願を無視することになる。

3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。

4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。

5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。

6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。


※次回は、「『教行信証』化身土巻の内容はプロセスだからやらなきゃダメ!」
という考え方について考察するで!!


――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語、「十七箇条御法語」には、


「第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむと也」(昭法全p.470)

とある。


注2 『無量寿経』において釈尊は、極楽浄土へ往生するための行として、念仏と諸行の両方をお説きになっておられる(三輩段)。

この念仏と諸行の関係について法然上人は『選択集』四章において、

・廃立・・衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため。
・助正・・諸行を念仏の助けにするため。
・傍正・・念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため。

この三つの解釈が可能であると述べ、

ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳)
ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
自分自身の判断で、取捨しなさい。

と述べた上で、

今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と述べておられるので、これが法然上人の本音であると言える。


注3 某所に、とてもよい問題が掲載されていた。

~~以下引用~~

535:神も仏も名無しさん:2009/06/30(火)12:21:35 ID:aFbNIyl5

今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。

例として、
親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは分からないと教えられ、
親●会の会員は、この世では救われないから、親●会の求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

参考までに、
精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

~~以上引用~~

また、以下のコメントも秀逸だった。

~~以下引用~~

569:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:06:46ID:y/2OT4/
i
>>535

(中略)

親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

570:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:16:09 ID:y/2OT4/i

(中略)

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。

~~以上引用~~


注4 以下の法然上人の言葉を参照。

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、決して釈尊の本心によるものではなかった。
だから念仏は、阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


注5 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
 「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


注6 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」

(訳)
念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、
やってはいけない悪いことを平気でやって、
やらなくてはならないことをまったくやらないで、
念仏も頑張って申さないというのは、
仏教のあるべき掟に反することなのである。

たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、
よい子であっても悪い子であっても、
あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、
我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、
我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。

ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、
よい人であっても、悪い人であっても、
へだてなく極楽浄土へと救いとるが、
衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、
悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。

だから、よい土地によい種をまくように、
しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、
さらに念仏申すべきである。

それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。

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