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質疑応答190

【質問】


③.「静かな劇場」において、因果の道理から廃悪修善、後生の一大事へと説いていく理屈は

一方で人間の死後の不安や罪悪感を過度に煽っているように思えるのですが、

他方で「無間地獄に堕在すべきものなり」・「地獄一定すみかぞかし」といったお聖教の言葉があるため

完全に否定できないようにも思えます。

このブログの因果の道理の理解が間違っているとすれば、親鸞聖人・蓮如聖人は何を根拠に後生を一大事と

考えたのでしょうか。



【回答】

(続きです)

 親鸞会の因果の道理の理解は、仏教から見ると、悲惨なほど間違っているのですが、なぜこのような誤解が起きたのか、考えてみたいと思います。

 まず、話を理解するために、業思想について説明いたします。

 業思想とは、古代インドの思想で、お釈迦様の生まれられる前からある考え方です。お釈迦様が仏教を説かれた時代、業思想はインドでは広く信じられていました。
 そのため、お釈迦様も業思想の言葉を用いて説かれているところが多く見受けられます。

 しかし、業思想そのものは仏教の教えに合わないため、仏教では、業思想に、かなりの修正を加えられています。ですから、仏教は業思想であって、業思想では無いのです。

 ところが、お釈迦様の死後、古来からある業思想の教えが、仏教の経典として書き残されるようになってきました。いわゆる偽経といわれるものです。
 一例をあげれば、親鸞会ではよく使われる「本生譚(ほんしょうたん)」という経典は、お釈迦様以前の古代インドの物語を、主人公をお釈迦様にして書き換えたものです。当然、典型的な業思想を教えた話になっているのですが、親鸞会では、これを仏教の教えだと勘違いして教えています。

 他にも、経典の中には、古来の業思想の影響を受けていると思われるものが散見されます。有名な「善悪因果経」と言われる経典もその一つですが、一般に偽経と言われています。


 これまで指摘してきたような、親鸞会の誤った理解の多くは、古代インドの業思想の考え方から来ていると考えられます。同じような誤解をしている人は、少なくありませんので、決して親鸞会だけの責任とは言えないと思います。

 しかし、仏教の専門家として布教するのであれば、ある程度、基本的なことは正しく理解してから、法を説いて頂きたいと思わずにおれません。

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質疑応答189

【質問】


③.「静かな劇場」において、因果の道理から廃悪修善、後生の一大事へと説いていく理屈は

一方で人間の死後の不安や罪悪感を過度に煽っているように思えるのですが、

他方で「無間地獄に堕在すべきものなり」・「地獄一定すみかぞかし」といったお聖教の言葉があるため

完全に否定できないようにも思えます。

このブログの因果の道理の理解が間違っているとすれば、親鸞聖人・蓮如聖人は何を根拠に後生を一大事と

考えたのでしょうか。



【回答】


 仏教において、死後の不安や、罪悪感を煽るような説き方をするのは、間違いです。
 お聖教を探せば、僅かではありますが、そのように取れる部分も無いとはいえませんが、その部分だけを殊更に強調して、不安を煽るようなやり方は、カルト宗教の手法です。

 このブログでも、他の人のブログでも、何回も論じていることですが、仏教は「一切衆生必堕無間だ」という教えではありません。下記にリンクしておきますので、読まれた上で疑問があれば、再度お尋ねください。


清森問答(一切衆生必堕無間なのか)

親鸞会教義の誤り(必堕無間)


 親鸞聖人の「地獄一定すみかぞかし」のお言葉が、なぜ「死んだら地獄」の根拠になるのかも、理解に苦しみます。

 「一定」ということは、過去世も、現在世も、未来世も、変わらず地獄にいるということです。現在世が地獄ですから、人間界も地獄に含めて仰っています。この場合の「地獄」とは「六道」と同じ意味で、六道は苦しみの世界なので、仏教では地獄と表現されることもあります。

 つまり、現在世と同じように、未来世も地獄だということなので、死んで初めて地獄へ堕ちるという意味にはなりません。


 「機の深信」のお言葉についても、同様のことが言えます。親鸞会では、「機の深信」を「無間地獄へ堕ちるに間違いなし」と説明します。しかし、親鸞聖人の仰った機の深信のお言葉は、

●自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと深信す。(愚禿鈔)

 というように、過去世から、未来世にわたって、常に苦しみの世界を流転輪廻している自分だと仰っています。死んでから地獄へ堕ちるとは仰っていませんし、まして無間地獄とは仰っていません。


 このようなお言葉を都合の良いように改変して、堕地獄の不安を煽るように悪用するということは、仏教では決してあってはならないことです。

質疑応答188

【質問】


②.お経によると、「善因善果 悪因悪果 自因自果」ではなく、

正確には「善因楽果 悪因苦果 自因自果」である、とどこかで書かれていたのですが、

この二つは何が違うのでしょうか。善ができなければ、「悪い結果」であろうが、「苦しい結果」であろうが、

「後生の一大事」(死んだら地獄)に変わりはないように思うのですが。



【回答】


 言葉遣いの違いなので、そんなにこだわる必要はないと思いますが、「善因楽果悪因苦果」の方が、一般的のようです。
 すでに説明した通り、私たちの受ける「結果」というのは、物理的な現象ではなく、「楽」や「苦」という心の問題です。そう考えると、「楽果」「苦果」の方が、適切な表現だと思います。

 あと、貴方は「後生の一大事」(死んだら地獄)と書かれていますが、「後生の一大事」と蓮如上人が仰っているのは、「往生浄土の一大事」という意味で、「死んだら地獄」という意味ではありません。

 悪ばかり造っていれば、死を待つことなく、この世から地獄になります。これも説明済みですが、仏教でいう因果の道理は、現在の業の状態で結果が表れます。
 悪業の人は、この世から苦しみ続けですので、その延長で、死後も苦しみが続くと教えられているのです。

 今が地獄の人が、未来に地獄へ堕ちても、それは当り前のことですから、「一大事」とは言われません。

 浄土というのは、本来は、善のできる人しか往けない世界です。その浄土に、善の出来ない者が往生できるとすれば、それは大変なことです。そこで、阿弥陀仏のお力によって浄土往生することを、「一大事」と仰っているのです。


質疑応答187

【質問】

(続きです)

①.この著者(ブログ「静かな劇場」)が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、

お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?


【回答】


 このブログの管理人が、以下のように書いています。

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/43d098a9e5e10812f04ac7c8e8e96f21


1人殺すという因が、1回自分が殺されるという結果を引き起こすものならば、
10人殺した人は、死刑に遭って、あと残り9人分、
100人殺した人は、死刑に遭った後、あと99人分、
殺したその結果をどこかで受けるのでなければ、論理が一貫いたしません。

結果というのは、因の後に来るものです。しかし、肉体は死刑に遭ってすでに終わっているので、結果を受けるとしたら、肉体の命の終わった後、ということになります。

それが後生です。



 1人殺せば、1人殺した分の報いを受け、10人殺せば、10人殺した分の報いを受ける。このような考え方を「一因一果」と言います。
 親鸞会では、「一因一果」の考えで、因果の道理が教えられているようですが、仏教では、この「一因一果」の考えは間違いだと説かれています。

 仏教で、私たちの苦しみを生み出す原因とされるのは、阿頼耶識に収まっている業(種子)であると教えられています。「過去の行為」そのものではありません。
 同じ行為を繰り返せば、それに関する業(種子)の力は強くなります。だから、縁が来たときに発生する結果も大きくなります。

 しかし、何回の縁が来るかは分かりません。1回しか縁が来なければ、結果として現れるのも1回ですし、100回の縁が来れば、結果も100回現れます。

 1回結果として現れれば、それで清算されて終わりではないかと思う方もあるかも知れませんが、そうではありません。私たちは、苦しいときには迷いが生じて、更なる悪業を造りますので、ますます酷い結果を受けるようになっていきます。

 ただし、苦しい結果が現れたときに、その原因は自分の悪業にあったと諦かに見て、それを懺悔したならば、その悪業は消えると説かれています。これを「懺悔滅罪」と言います。

 難しい話になりますが、苦しみという結果を受けなくても、法を聞くことにより懺悔することができれば、その悪業は消えるため、結果は現れません。ですから、「悪い行いをしたら、必ずその結果を受けなければならない」というのも厳密には間違いです。


 身近な例を挙げると、タバコは肺がんの原因と言われます(これは仏教的な因果ではありませんが)。タバコを吸い続ければ、他の要素も加わって、肺がんになってしまいます。

 しかし、肺がんが発見されて、それに驚き、二度と吸わないと決意すれば、治療に成功したあとは、次の肺がんには罹らないでしょう。

 また、タバコの害を諭され、それに納得してタバコを止めれば、肺がんに罹らないで済むかも知れません。

 もちろん、肺がんになったことでヤケになって「どうせ死ぬんだから、何本吸っても同じだ!」と吸いまくれば、ますます肺がんがひどくなり、苦しむことになります。

 いずれにしましても、1本タバコを吸ったからといって、必ず肺がんに罹るという教えではないのです。


 そういうわけで、一応、理論上は悪業を消すことも可能なのですが、私たち凡夫に懺悔など出来ませんから、悪業を造り続けて、苦しみから逃れることが出来ないと理解されて結構です。

質疑応答186

「静かな劇場」についての質問が途中ですが、先に以下の質問に回答させて頂きます。


【質問】


以下、コメント欄にも書き込ませて
いただきましたが、質問です。

★「飛行機が墜落する」のは物理的な原因によってひき起こるもの。

★「墜落する飛行機に乗って苦しい運命に巻き込まれねばならない」のは
 仏教で教えられる因果の道理(幸せ・不幸についての法則)。

……という理解でしたが、それは間違っているということでしょうか?



【回答】


 この場合、親鸞会では2通りの言い方をします。

1、墜落する飛行機に乗る、という行為が原因で、被害に遭うという結果が起きた。
2、その人の持つ業力によって、墜落する飛行機に乗るという結果が起きた。


 1の場合は、物理的な考え方で言っています。
 仏教の因果の道理では、こういう考え方はしません。

 そもそも、「墜落する飛行機に乗る」とは、どんな行為でしょうか?
 墜落するかどうかは、乗る時点では分かりません。
 だから、「墜落する飛行機に乗る」というのは、実行不可能です。

 一般的に、こういう再現性の無いものを、「原因」とは呼びません。
「宝くじに当たる方法は、当たる宝くじを買うことだ」と言われて納得できるでしょうか?


 2の場合は、仏教の考え方に近い部分もありますが、やはり間違っています。

 私たちの行為は、業(種子)を原因として、生み出されます。
 その人が、「墜落する飛行機に乗りたい」と思うような業を持っていて、たまたま飛行機に爆弾を仕掛けられるのを目撃したら、その飛行機に乗るでしょう。

 こういう場合は、「その人の持つ業力によって、墜落する飛行機に乗るという結果が起きた。」と言えます。しかし、偶発的に起きた事故については当てはまりません。

 私たちは、未来の物理現象を予測することは出来ません。どんなに悪業の強い人だとしても、どの飛行機が墜落するかを予測して乗る、などという芸当は出来ないのです。



 これも繰り返しになりますが、飛行機事故の当事者となっても、遺族になっても、その人に「執着心」という悪業がなければ、苦しみは発生しません。必ずしも、「事故に遭う」=「苦しみ」とは、ならないのです。

 しかし、私たちには必ず執着心があります。執着心があるから人間に生まれてきたのです。執着心が全く無ければ仏ですので、肉体を持つ必要もなくなります。

 仏様であれば、肉体が有っても無くても問題ありませんから、死んだとしても苦しみはありません。仏教で、苦しみを完全に解決したといえるのは、仏になった時なのです。

 ところが、私たちは自力で執着を断ち、仏になることができません。そこで、阿弥陀仏は、私たちを必ず仏にすると誓われているのです。

質疑応答185

【質問】

(前回の続き)

①.この著者が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、

お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?


【回答】


 前回の内容を少しまとめますが、世の中には色々な因果関係があります。

 物理現象は、物理的な法則によって、物理的な原因によって引き起こります。
 社会現象は、社会的な法則によって、社会的な原因によって引き起こります。

 万有引力の法則によって、景気が悪くなることもありませんし、
 経済学で教えられる法則に従って、核融合が起きることもありません。

 こんなことは、当たり前です。

 仏教で教えられる因果の道理は、私たちの幸・不幸はどんな原因によって引き起こるかという法則です。

 私たちが幸せになるか、不幸になるかということを、物理法則で予測することはできません。それと同じように、どんな物理現象が起きるかということを、因果の道理で予測することは出来ないのです。

 だから、ここに断言しておきますが、私たちが過去に作った悪業が原因で、自分の乗った飛行機が墜落したり、居眠り運転のトラックに追突されたり、宝くじに当たったりすることは、絶対にありません。

 これらの現象には、それ相応の物理的な原因はあると思いますが、それは物理学で扱う内容であって、仏教では教えないのです。

 このような現象に遭ったときに、その人にとって、どれ程の苦しみとなるのかを決めるのが、その人の持つ業(種子)ということになります。

 だから、苦しみの原因は、自分(の業)だと教えられるのです。


 親鸞会では、このような偶発的な出来事に巻き込まれることも、自因自果だと教えています。これは、根本的に仏教が分かっていないからだと思います。

質疑応答184

【質問】


①.この著者(ブログ「静かな劇場」)が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、

お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?



【回答】


 まず気になるのは、例えば、『暴走するトラックと衝突して夫が即死』というような偶発的な出来事も、自因自果だと主張している点です。因果の道理が分かっていたら、このような仏教の教えに反したことを書けるはずがありません。


 まず、仏教では、(いわゆる)運命を生み出す仕組みを、以下のように教えられています。
 

1、種子生現行
2、現行薫種子
3、種子生種子

 種子(しゅうじ)とは、親鸞会で言うところの「業力」に当たります。この種子が縁に触れると、現行(げんぎょう)を生み出します。
 現行とは、親鸞会の人に分かりやすく言えば「三業」に当たります(厳密には少し違いますが)。

 いわゆる因縁果の道理というのは、この種子と縁が結びついて現行を生み出すことを言います。現行の中には、怒ったり悲しんだりという感情や、行為も入ります。

 2番目の「現行薫種子」とは、現行が新たな種子を生み出し、それが阿頼耶識に収まることをいいます。仏教ではこれを「薫習」と言います。
 3番目の「種子生種子」とは、縁に触れなかった種子は、現行を生み出さず、同様の種子を生み出すということです。この辺りは、分かられなくても結構です。

 分かりやすく説明すると、パチンコをする人は、パチンコをするという行為によって、「パチンコをする」という種子が阿頼耶識に収まります。
 パチンコをするという種子が収まっている人が、パチンコ店という縁に触れると、「パチンコをやりたい」という心を起こしたり、「パチンコをする」という行為になって現れます。
 この行為がさらに「パチンコをする」という種子を生み出すので、どんどん悪循環にはまっていきます。

 パチンコをするという種子を持っていない人は、目の前にパチンコ店があっても、入ろうとは思いません。このような結果の違いを生み出す原因は、自分にあるというのが「自因自果」です。
 パチンコを繰り返したことによって、破産したということがあれば、それも広い意味では自因自果と言ってよいと思います。

 では、「暴走するトラックに衝突された」という結果が、自因自果だと言えるでしょうか?
 その人が、暴走するトラックを見つけると、突っ込まずにおれなくなるという奇特な習性があるというのであれば、自因自果と言えるでしょう。しかし、偶発的な出来事に関しては、自因自果とは言いません。

 仏教では、暴走するトラックに衝突された後、そのトラックの運転手を恨んだり、呪ったりして苦しむことがあれば、その苦しみは自因自果だと教えます。
 もし、お釈迦様のような方が、トラックに衝突されたとしても、怒りとか、憎しみとか、恨みの「種子」を持っていないので、苦しみは起きません。たとえ死んだとしても、肉体に執着するという「種子」が無ければ、苦しみは起きないのです。

 つまり、トラックに衝突されたという現象は「縁」であって、それと私たちの持つ怒りや憎しみの「種子」が、因縁和合して、怒りや憎しみの感情となり、苦しみとなるのです。

 このように、「種子」が影響を与えるのは、私の三業に対してのみであって、それ以外の物理現象などに影響を与えるものではありません。親鸞会では、宝くじが当たったのも自因自果と教えますが、当然ながら宝くじの結果を左右する力はありませんので、間違いです。

 また、墜落する飛行機の乗ってしまったのも、「業力によって引き寄せられた」と教えますが、業力に、未来どの飛行機が墜ちるか予測する力などありませんので、これも間違いです。飛行機が墜ちて、怪我をして(あるいは死んで)、それを苦しみと感じるか、感じないかは「自因自果」になります。

 物理現象には、物理現象の因果関係があります。私たちの運命には、運命に関する因果関係があります。親鸞会では、それをゴッチャにしています。
 それで、「運命に関する原因から、物理現象という結果が生じる」という、間違った教えが生まれたのだと思います。


 なお、「静かな劇場」管理人が、参照するようにと紹介していたウィキペディアには、以下のように書いてありました。


> 「因果の道理」とは、事故や事件、病気災難などの物質的出来事の発生を予言するようなものではない。 人間の幸福という問題に焦点をおき、その「幸福」自体にたいする切実な、回答の見つからない問いに対する、 覚りからでた「答え」なのである。
>
> また、この「因果」の思想を直観的にイメージし易くするため、地獄極楽的な教誨方法も存在する。しかしまた これに囚われて、地獄への恐怖を抱える生活を作り出しては本末転倒となるのである。あくまで「因果」とは 「恐れ」や「害意」の思いを無くし、「慈しみ」「感謝」の思いを勧めていこうとする思想なのである。


 このように、正しく説明している文章を読んでいるはずなのに、なぜ間違った教えをブログに載せているのでしょうか。

質疑応答183

【質問】


清森さま



初めてメールを差し上げます。

ブログ「静かな劇場」について質問させて頂きます。



このブログの著者は、脱会した講師への攻撃的な記事が多くの非難を浴びた結果、

それまでのエントリを削除し、その後一貫して「因果の道理」について解説しています。



ネット上の教義批判などには一切答えずに「因果の道理」のみ説いているところを見ると、

この教義に余程の自信があり、自分の土俵で相撲をしようという意図が感じられます。



そこで質問です。



①.この著者が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、

お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?



②.お経によると、「善因善果 悪因悪果 自因自果」ではなく、

正確には「善因楽果 悪因苦果 自因自果」である、とどこかで書かれていたのですが、

この二つは何が違うのでしょうか。善ができなければ、「悪い結果」であろうが、「苦しい結果」であろうが、

「後生の一大事」(死んだら地獄)に変わりはないように思うのですが。



③.「静かな劇場」において、因果の道理から廃悪修善、後生の一大事へと説いていく理屈は

一方で人間の死後の不安や罪悪感を過度に煽っているように思えるのですが、

他方で「無間地獄に堕在すべきものなり」・「地獄一定すみかぞかし」といったお聖教の言葉があるため

完全に否定できないようにも思えます。

このブログの因果の道理の理解が間違っているとすれば、親鸞聖人・蓮如聖人は何を根拠に後生を一大事と

考えたのでしょうか。


以上、よろしくお願い致します。



【回答】


 すべてに回答すると長くなりますので、1つずつ回答させて頂きます。

①.この著者が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?


 まず、「お聖教」につきましては、浄土真宗のお聖教には、因果の道理の説明が殆どありません。
 この理由は分かりませんが、「浄土を求める」ということは、その前提に、因果の道理を信じるということがあるからだと思います。

 つまり、因果の道理を信じていない人は、他宗教でいうパラダイスを求めたり、あるいは金や地位や名誉を求めることで幸せになれると信じていたりするわけで、「浄らかに世界に生まれたい」という心は起きてきません。
 もちろん、浄土真宗を名乗る人でも、浄土へ行って、たらふく食べて、昼寝して、欲のままに生活したい、と思っている人もあるでしょう。しかし、その人が向かっている「浄土」は、親鸞聖人が教えられた浄土とは違う世界であることを知るべきです。

 そういうわけで、仏教で教えるところの浄土を求めている人は、その前提として、因果の道理を理解し、信じているはずです。

 では、何によって因果の道理を学ぶことになるかと言いますと、仏教の経・論・釈のすべてということになります。しかし、経典の中には、外道の教えを書かれたものを、権力者にお金を積むことによって経典と認定させたものなど、いわゆる偽経も少なくないため、経典に書いてあるからといって、それが必ずしも仏意だとは言えません。

 そこで、基本的に天親菩薩が大成された唯識学の考え方から、お答えしていきたいと思います。

 具体的な内容については、次回から書かせて頂きます。

質疑応答182

【質問】


 『本願寺なぜ答えぬ』ではありませんが、親鸞聖人の教えに、善の勧めは有るのでしょうか?無いのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人は、「念仏」という最高無上の善を勧めておられます。しかし、貴方の質問は、「念仏以外の善」を勧めておられるかという意味だと思いますので、それに対して回答いたします。

 これは、有る、とも言えますし、無い、とも言えます。

 まず親鸞会の人が思っているような意味での善は、親鸞聖人は勧められていません。だから、“信心決定するために”法話に人を誘って来いとか、たくさん御報謝せよとか、そういうことは教えられていません。こういうことは、「雑行」と言われ、捨てよと教えられています。

 だから、親鸞会の人に分かりやすく言えば、「善の勧めは無い」と言えます。

 しかし、親鸞聖人は「三毒を慎むこと」と教えられています。たまに、「私達は煩悩具足なのだから、悪のやりたい放題で良いのだ」という人がいますが、これは間違いです。煩悩を断ち切ることは出来なくても、親鸞聖人の仰るように「慎む」ことはできます。
 煩悩を慎むことは、仏教でいう善に当たりますので、これは「善の勧め」と言えると思います。

質疑応答181

【質問】


 親鸞会では、善の出来ない自己が知らされるために、善に励まなければならないと勧められます。この考えは間違いでしょうか?



【回答】


 間違いです。

 まず第一に、善が出来ないことが知らされるために、善をせよなどという教えは、経典にも聖教にも、まったく見たことがありません。今まで誰も説かれたことのない、珍しき教えです。

 また、仮に、百歩譲ってその理論が正しいとしても、親鸞会には当てはまりません。

 浄土真宗で、「私達に善が出来ない」と言われるのは、正確には「私達には無漏善は出来ない」という意味です。
 仏教には有漏善と無漏善があり、私たちがやっている善は有漏善です。これは煩悩の混じった善ということで、この有漏善では仏になることは出来ません。だから、私たちは自力で仏になることは出来ないと言われるのです。

 親鸞会の理論で言えば、無漏善が出来ないことが知らされるためには、無漏善を勧めなければなりません。そうだとすれば、目標を与えたり、講師部賞や真実開顕賞などを設けて意欲をかき立てるなどというのは論外です。

 有漏善を勧めながら、無漏善が出来ない自分が知らされると言っているのですから、論理が破綻しています。まして、そうやって(親鸞会でいう)善ができないことが知らされたのが、機の深信だと思っているならお粗末というより他はありません。

 機の深信とは、阿弥陀仏の光明に照らされて、知らされた自己の姿です。最近は、比叡山の修行によって機の深信が知らされると説いていると聞きましたが、事実だとすれば本当に驚きです。

 いずれにしましても、「善ができないことが知らされるために、善をせよ」などと教えられた善知識がいるとは、聞いたことがありませんので、悪知識の教えだと思います。

投稿:「辛口!真宗時評」管理人様

 ある方から、投稿を頂きました。

 以下のサイトの管理人はmakino hiroshi氏だと聞いていますが、もしこれが親鸞会の牧野講師であったら、非常に残念なことだと思います。

 他人のコメントを勝手に改変して、都合の悪いところを削除して掲載するなどということは、管理人としてやってはならないことです。

 親鸞会では、お聖教の言葉の一部を改変したり、削除するということがよく行われていましたから、それを真似てしまったのかも知れません。

 もし、makino氏がこのサイトを読んでおられるなら、コメントを改変したり、隠したりせずに、正々堂々と議論することを、強くお勧めします。


        *        *        *

 辛口!真宗時評(10月5日)
 http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/577/
 
 
 [こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか]
 ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
 登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
 
 (中略)
 
 上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
 はなれたと、言わざるを得ません。


        *        *        *

 この記事に対して10月7日、淀川コナンのHNで以下のコメントをしました。


私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。
 


 それに対して管理人(M氏)は以下の返信がありました。


コメント有り難うございます。
お尋ねしますが、
A「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心になれる時が必ず来るんだ
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
B「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
AとBとは、どこが違うのでしょうか。
誰が聞いても分かるような、決定的な違いを、聞かせてください。

 

 それに対して私は10月9日夜に、


管理人様。返信遅くなりました。
聡明な管理人様ならばお解りだと思ったのですが…。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。
Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。
また、その布教師は「一切衆生必堕無間と経典に書かれています」と言っていますが私はそんな経典を知りません。
管理人様はご存知ですか?



 というコメントを「管理人様」というタイトルでしました。
 しかし、タイトルは「無題」に変えられ内容は削られました。
 以下が、実際にブログに掲載されたコメントです。


管理人様。返信遅くなりました。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。

Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。



 そして、その改変されたコメントに対する管理人のコメントが以下の通りです。


>「Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に生ま
>れさせる、という解釈です。」
では、信楽に生まれさせるのは何の力ですか?


 そのコメントに対して10月10日の夜に以下のコメントをしました。(ネットカフェでコメントしたのでテキストが残っていないので正確ではありませんが内容はこんな内容です)


タイトル「断章しないで下さい」

管理人様へ
私のコメントを断章しないで下さい。
承認制なので不掲載は仕方ないですが、断章されたら私の意見が読む人に伝わりません。
あなたの行為は仏法者としてというよりも人間として恥ずべき行為です。
私の知っている布教師も断章が得意ですが。
また勝手にタイトルを無題にしないで下さい。
お尋ねの件ですが、私が問題にしているのは若不生者の生が何をどう生まれさせるか、その事を親鸞聖人はどう仰っているか、です。
何の力で信楽に生まれさせるか、は別の問題です。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ者として、誠意ある回答をお願いします。



 その私のコメントを掲載せずに、管理人が10月11日夜中に以下のコメントがありました。


> Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に
>生まれさせる、という解釈です。
「往生かならずさだまりぬ」にも係っていて、
これは「報土往生が定まる」ことですが、では、
「報土往生定まる」のは、平生ですか。死後ですか。
「報土往生する(極楽に生まれる)」のは、平生ですか。死後ですか。
(先の「信楽に生まれさせるのは何の力ですか」にもまだお答えを頂いていません)



 ここまでが、現時点での経緯です。

質疑応答180

【質問】


 清森問答で、以下のように教えていただきましたが、親鸞聖人の教えは三願転入ですから、十九願の善として財施も勧められているのではないでしょうか。よろしくお願いします。


> また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。



【回答】


 結論から言いますと、親鸞会では十九願の善は勧められていません。親鸞聖人は、十八願に入るために十九願の善を実践せよとは仰っていないからです。

 十九願では、諸々の功徳を修めた者を、臨終に救う(化土往生させる)と誓われています。臨終の救い(化土往生)を求めて、善を修めることを十九願の善というのです。信心決定を求めて、善を修めることを十九願の善とは言いません。

 十八願では、信楽の者を必ず浄土往生させると誓われています。信楽になるのは聞即信の一念であって、そのために善を修めなければならないとは教えられていません。

 つまり、十九願と十八願では、まったく方向性が違うのです。親鸞会の教え方では、十九願を進んだ先に十八願があるように誤解させます。

 親鸞聖人の三願転入の御文も、十九願ではダメだった、二十願でもダメだった、十八願では救われた、ということであって、十九願を進んだ先に二十願があり、二十願を進んだ先に十八願がある、という意味ではありません。

 今の親鸞会は、十九願の理解も、十八願の理解も間違っています。

 信心決定を求めて善を修めるのは十九願だと思っているのも間違いならば、十八願の救いに遇うために善に励むのも間違いです。

 このように書くと、「親鸞会で、『善をすれば信心決定できる』などと言ったことは無い」と反論が来るでしょう。

 しかし、親鸞会の会員さんに、「何のために活動に頑張っているのか?」「何のために御報謝を出しているのか?」と尋ねたら、どう答えるでしょう。

 当然、「信心決定のため」と答えるでしょうね。講師部員でも同じだと思います。

 この現状が、何よりも親鸞会の間違いを物語っています。

質疑応答179

【質問】


「親鸞会被害家族の会掲示板」で高森会長が御法礼の額は設定した事がないという趣旨の発言があったとありました。清森さんは、この高森会長の発言をどう思われますか?
 私が会員だった時は、支部ごとに目標額があり、個人的には御法礼の目標額に足りない人は特別申請という制度を利用しなければならないと当時の担当講師の方に教えて頂きました。
 清森さんは高森会長への御法礼に関してどういう考えをお持ちですか?
 また、高森会長からはどんな指導があったのでしょうか?
 よろしければ、清森問答で高森会長への御法礼に関して、取り上げてもらえないでしょうか?
 お忙しいとは思いますがよろしくお願いします。



【回答】


 御法礼の額を設定したことがない、との発言があったとのことですが、それについては私は参加していないので、真偽のほどは分かりません。
 しかし現実として、普段の御法話であれば5000円、行事であれば3万円くらいの御法礼が設定されていたのは事実です。減免の申請も、何回も出したことがあります。

 貴方は支部ごとに目標があったと記憶しておられるようですが、御法礼は全支部で一律です。おそらく御報謝の目標のことを言われているのだと思います。
 以前の本部制度のときは、御報謝に非常に高い目標があり、その達成は大変でした。何回も会員さんのお宅へ行き、会合を開いて、御報謝を出されるように訴えました。

 御法礼にしても御報謝にしても本人の気持ちであって、目標があったり、減免申請をしなければならない、というものではありません。

 親鸞会では、言っていることと、やっていることが違うことが多すぎます。
 最初から「御法礼、御報謝は、善知識が決めるものだ」と説いているなら、まだ理解できますが、説法では「御法礼、御報謝は自主的なものだ」と説いているのですから、言行不一致もいいところです。

 なぜ、御法礼の額が決まっていたり、御報謝に目標があるのでしょうか?
 それは、その方が沢山集まるからです。自由にしたら3000円の御法礼しか出さない気持ちの人が、5000円と決まっているから、5000円出される。だとしたら、2000円分は「仕方なく」出されたということです。
 仏教では、「仕方なく」やった善は、悪になります。出せば、出すほど悪いです。

 このように書くと、親鸞会の人は「そんなことはない。みんな喜んで出されている」と言うでしょう。しかし、本当に皆さんが喜んで出されるなら、目標なんて必要ないのです。目標なとどいうものが存在すること自体、喜んで出されていない証拠なのです。

 また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。親鸞会のやり方では、信心がお金で買えるかのように誤解させると思いますし、本心ではそのように思っている会員さんが多いのではないかと心配になります。
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