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質疑応答195

【質問】


 最近、コメント欄に以下のような投稿がありました。念のため、お知らせいたします。


> さて、今回は教えて頂きたいことがあり、コメントさせて頂きました。
> ご存知のように、親鸞会の本尊は南無阿弥陀仏の左に「親鸞」と合成複写してあります。これは改邪鈔本の【七・本尊聖教に知識と号する者の名を記すまじき事】に反するように思います。しかし、親鸞会では
> ・改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの(親鸞会には当てはまらないと言いたいのでしょう)
> ・親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけだ
> といいます。
>
> そこで上の改邪鈔の意味と、この件に関する清森さんの見解を教えて頂ければと思います。既に示されている所がありましたらリンク先を教えて下さい。よろしくお願いします。




【回答】


 最初にお願いですが、ご質問はなるべくメールで頂ければ有難く思います。

 まず、最初の「改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの」というのは、ある意味では当たっていると思います。

 改邪鈔の最後のお言葉を読むと、以下のように締めくくっておられます。

●これを案ずるに、知識の所存に、同行あい背かん時、「わが名字をのせたれば」とて、せめ返さん料のはかりごとか。世間の財宝を沙汰するに似たり。もっとも停止すべし。

 つまり、善知識を名乗る者に背く者から、本尊を取り返そうとすることが問題だと教えられています。

 親鸞会では、夜中の1時過ぎに講師部員が会員を10人近く連れて、本尊を取り返しに行くということが平気で行なわれています。また、深夜にアパートの前で講師部員に待ち伏せされ、本尊を返すように強要され、その場で他の人に連絡を取ったら携帯電話を取り上げられるという非常識なこともありました。

 こういうことをするのは悪知識ですよ、と教えられているわけですが、まさに親鸞会のことではないでしょうか。


 次に、親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけという主張ですが、それだと名号に知識の名を記しても良いということになりますね。
 覚如上人の教えは間違いだと、親鸞会では教えていることになります。

 そもそも、親鸞聖人があえて何も書かれなかったところに、わざわざ他から切り取ったものを貼り付けなければならない意義がどこにあるのでしょうか?

 ご名号だけだと有難く思えないので、親鸞聖人のお名前を貼り合わせることによって箔を付けなければならないと思っているようです。
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質疑応答194

【質問】


清森問答に質問します。

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。
と言う「高森会」の主張に対して、清森元講師は

「『若不生者』の『生』は、当益の意味しかない」

と、断言されました。ビックリしました。



私なりに、研究しました。

阿弥陀様は3つのお約束をしておられます。

信楽(しんぎょう)現益

若不生者(にゃくふしょうじゃ)当益

乃至十念(ないしじゅうねん)念仏をとなえる身にしましょう



ですから、現益(この世で救う、不体失往生)のお約束は、信楽である。

当益(あの世で救う、極楽往生)のお約束は、若不生者である。



私は、往生と言う言葉に、子供の頃から関心があり

「死んだとか困ったという意味に使われていましが、はたして本当だろうか?もっと重要な意味があるのではないか?知りたい、知りたい。法然上人やお釈迦さまはどのように教えられたのだろうか。その本当の意味は、10年や20年という短い期間ではなく、私の全人生に影響を及ぼすだろう」と考えました。

 ですから、往生と言う言葉には、強い思い入れがあります。だまって見ておれません。


法然上人は往生とは「彼(極楽)に往き蓮華化生する」ことだと教えられました。

『若不生者』の『生』は、化生でない、と言う「高森会」に対し、

「死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の主張は、真逆です。

大問題だと思います。

文中に間違いがあればお叱り下さい。



【回答】


 質問の意図を確認させて頂きますが、「約束」というのは、どういう意味で使っておられるでしょうか?

「約束」=「もし○○せずば、正覚を取らじ」という意味で仰っているのであれば、この中で該当するのは「若不生者」だけです。弥陀の48願の中に、「もし信楽にせずば、正覚を取らじ」という願はありません。


 あと、現益と当益の意味を勘違いしておられるようですが、「現益=信楽」ではありませんし、「当益=往生」ではありません。

 信楽の身になった人が、この世で頂ける利益を現益と言い、浄土で頂ける利益を当益と言います。信楽になれば、二つの利益が得られるので「二益」と教えられます。

 具体的には「現益=正定聚」であり、「当益=滅度」です。親鸞会には、「信楽=正定聚」「往生=滅度」と誤解している人が多いように思いますが、それぞれ違う意味の言葉です。

 例えば、教行信証にはこのように書かれています。

●金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。(乃至)十には入正定聚の益なり。

 もし、「信楽=正定聚」だとすれば、「信楽になった者には、信楽になれるという利益がありますよ」という、意味不明の文章になってしまいます。

 また、弥陀の四十八願を読まれれば分かるように、浄土には声聞も菩薩も多数おられます。「浄土=滅度(仏)」とは言えません。浄土に往生した者を、必ず滅度に至らしめると誓われているから、仏になれるのです。

●たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ。(十一願)

質疑応答193

【質問】


 親鸞会の伊藤健太郎講師のブログで、最近は因果の道理について扱っています。(伊藤講師のブログであることは、本文中に書いてあります)

 下記のエントリで、細い横道から飛び出してきた車にぶつけられたのも自業自得だと書いていますが、これについて清森先生はどのように思われますでしょうか?



愛と哲学の自分探し(生きる意味は結婚?)
http://tetugakuboya.cocolog-nifty.com/test/2009/11/post-1322.html


 自分が過去に行った行為(業)が原因となって、幸福や不幸を生み出すといっても、それは一つの行為が一つの結果を引き起こすという、単純な関係ではありません。過去の業に、さまざまな縁(間接的原因)が重なり合って、原因に応じた果報(運命)を受けると説くのが「自業自得」です。
「自業自得」と思えない事例は、世に少なくありませんが、それは「因」と「縁」を正しく区別しないことから来る誤解です。
 例えば自分が優先道路を走っていたときに、細い横道から無謀な車が、一時停止もせず突っ込んできたとします。こういう場合、相手が飛び出したという行為が、私の災難の原因のように思われますが、その考えは正しいでしょうか。もし運転手が飛び出したという行為が原因であれば、私の前や後を走っていた人も、同じ運命を受けなければならないでしょう。しかし実際には、私だけが事故に遇っています。
 また、たとえ車が飛び出してきても、「飛び出す車があるかもしれない」という「かもしれない」運転をしている人は、事故には遭いません。他の人には無かったものが、私にだけあったことは明らかでしょう。
 私しか持たない原因があったから、私だけが、車が飛び出してくる、ちょうどその時に、その場所を通らなければならなかったのです。
 事故の「因」と「縁」を正しく知れば、「自因自果」だと分かります。この場合、私の過去の悪い行いが「因」で、そこに無謀な運転手という悪い「縁」が結びついて、事故という悪果が現れたのです。飛び出してきたドライバーは、悪い「縁」になったのですから、処罰されるのは当然でしょう。こんな事故が繰り返されないよう、危険運転を厳しく取り締まって、悪い「縁」を減らす努力をしなければなりません。しかし私の事故の「直接の原因」は、あくまで私にあったのです。

 はっきり見える原因と、隠されて見えない原因があることを知らないと、「自業自得」は正しく理解できません。例えば、熱いコーヒーを膝にこぼして火傷をしたとします。火傷の原因は「コーヒー」と言えないこともありませんが、もしこれがアイスコーヒーだったら、火傷はしなかったでしょう。だから本当の原因は「コーヒー」そのものではなく、目に見えない「熱」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。
 先の交通事故でいえば、誰の目にも明かな原因は、飛び出した車ですが、それは悪い「縁」であり、悪果が現れるのを補助する、間接的な原因にすぎません。目に見えない過去の「業」こそが、幸福や不幸を生み出す直接の原因だと教えるのが、「自業自得」の道理です。




【回答】


 親鸞会では、無謀運転の車が突っ込んできて事故に遭うという結果も、自分が過去に行なった行為の結果だと教えられています。
 仏教では、このような事は教えないのですが、これが自業自得だという親鸞会の主張を検証してみましょう。


> 「自業自得」と思えない事例は、世に少なくありませんが、それは「因」と「縁」を正しく区別しないことから来る誤解です。
>  例えば自分が優先道路を走っていたときに、細い横道から無謀な車が、一時停止もせず突っ込んできたとします。こういう場合、相手が飛び出したという行為が、私の災難の原因のように思われますが、その考えは正しいでしょうか。



 事故に遭うというのは一つの物理現象です。その事故を苦しいと感じるのは心の問題になります。仏教で、苦しみの原因は、自分の業だと教えられていますが、偶発的な事故の原因までは論じられていません。

 一般的に考えれば、一時停止すべきところを飛び出してきた車に原因があると言ってよいでしょう。
 安全運転の車同士では事故は起きません。事故が起きるときは、少なくともどちらかが危険な運転をしています。つまり、無謀運転(危険な運転)は事故の原因といって、間違いではないと思います。



> もし運転手が飛び出したという行為が原因であれば、私の前や後を走っていた人も、同じ運命を受けなければならないでしょう。しかし実際には、私だけが事故に遇っています。


 運転手が飛び出したという行為が原因だと、どうして、私の前や後を走っていた人まで、同じ運命を受けなければならないという結論になるのでしょうか?
 実は私も、この論理に騙されていたのですが、よく考えてみると、おかしな話です。

 前や後を走っていた人が、飛び出してきた車にぶつからなかったのは、単に「縁が無かったから」ということです。今回は、たまたま私に縁があったから事故に遇ったのであって、私だけが何か悪いことをしていたから、ぶつけられたとは言えません。


 例えを一つ挙げましょう。

 Aさんが飲酒運転をして、ある電柱に衝突し、その電柱が折れてしまいました。その電柱が折られてしまった原因は何でしょうか?

 普通の人は、Aさんに原因があると考えますが、親鸞会では、その電柱に原因があったと教えていることになります。

 なぜなら、Aさんが原因であるとするならば、その前の電柱も、後の電柱も、同じ運命を受けなければならないからです。
 前の電柱も、後の電柱も折られなかったのに、なぜ、この電柱だけが折られなければならなかったのか。それは、その電柱自身に原因があったからです。

 親鸞会では、その原因を「過去の行為」と教えるわけですが、電柱の過去に、どんな行為があったというのでしょうか?
 このような例えからも、親鸞会の「因果の道理」が、いかに理屈に合わないか分かられると思います。



> また、たとえ車が飛び出してきても、「飛び出す車があるかもしれない」という「かもしれない」運転をしている人は、事故には遭いません。他の人には無かったものが、私にだけあったことは明らかでしょう。


 「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していたら、事故に遭わないと言えるのでしょうか?
 優先道路を走っていて、細い横道から突っ込んでくる無謀な車を避けるなんて芸当は、普通の人間には不可能です。



>  私しか持たない原因があったから、私だけが、車が飛び出してくる、ちょうどその時に、その場所を通らなければならなかったのです。


 この前の文で、「かもしれない」運転をしている人は、事故に遭わないということを例に挙げて、「他の人には無かったものが、私だけにあったことは明らか」だと説明しています。
 つまり、「かも知れない」運転をしていると、車が飛び出して来ないということでしょうか?

 伊藤講師の説明だと、私が、車が飛び出してくる時に、その場所を通らなければならなかったのは、私が「かも知れない」運転をしていなかったから、ということになります。

 これが理屈に合わないことは、皆さん分かられると思います。

「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していても、していなくても、同じように車は突っ込んできます。しかし、突っ込んできた車に、全速力でぶつかって大事故になるか、急ブレーキをかけて軽い事故で済むかという違いが現れてきます。

 つまり、「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していないからといって、車が飛び出してくる時に、その場所を通るという結果になる訳ではありません。



>  事故の「因」と「縁」を正しく知れば、「自因自果」だと分かります。この場合、私の過去の悪い行いが「因」で、そこに無謀な運転手という悪い「縁」が結びついて、事故という悪果が現れたのです。


 結局、親鸞会の論理は、

A「どんな結果にも、必ず自分に原因があるはずだ。」
        ↓
B「だから、偶発的な事故であっても、必ず自分に原因があるはずだ。」
        ↓
C「偶発的な事故でさえ、自分に原因があるのだから、
  どんな結果でも、自分に原因があるのだ。」

 ゆえにAは証明された。


という事を言っているのです。

Aを前提に論理を進めていけば、Aが証明されるのは当たり前です。



> 飛び出してきたドライバーは、悪い「縁」になったのですから、処罰されるのは当然でしょう。こんな事故が繰り返されないよう、危険運転を厳しく取り締まって、悪い「縁」を減らす努力をしなければなりません。しかし私の事故の「直接の原因」は、あくまで私にあったのです。


 仏教では、このように縁を変えるように努力しましょう、という方向では教えません。あくまで、原因は自分の業なのですから、その業を変えるという方向で教えられるのです。


>  はっきり見える原因と、隠されて見えない原因があることを知らないと、「自業自得」は正しく理解できません。例えば、熱いコーヒーを膝にこぼして火傷をしたとします。火傷の原因は「コーヒー」と言えないこともありませんが、もしこれがアイスコーヒーだったら、火傷はしなかったでしょう。だから本当の原因は「コーヒー」そのものではなく、目に見えない「熱」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。


 こういう喩えを出すのであれば、以下のようにしたら良いと思います。

 例えば、事故に遭って苦しんだとします。私たちが苦しむ原因は「事故」と言えないこともありませんが、もしこれがお釈迦様であったら苦しまれることはなかったでしょう。だから本当の原因は「事故」そのものではなく、目に見えない「煩悩」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。


 親鸞会では現象の表面しか見ていないので、仏教でいう因果関係が分からないのでしょう。



>  先の交通事故でいえば、誰の目にも明かな原因は、飛び出した車ですが、それは悪い「縁」であり、悪果が現れるのを補助する、間接的な原因にすぎません。目に見えない過去の「業」こそが、幸福や不幸を生み出す直接の原因だと教えるのが、「自業自得」の道理です。


 この辺りも、細かく言えば間違いです。
 過去の「業」ではなく、現在の「業」が原因で苦しみが生み出されます。

 現在の「業」は、過去の行為によって生み出されますが、過去の行為が「直接の原因」ではありません。


 天親菩薩がまとめられた唯識学によれば、私の感じている世界は、私の業から生み出されます。一人一人、業が違いますから、感じている世界も違います。
 物質的には同じ世界に住んでいても、感じ方が違えば、違う世界に住んでいるといっても良いでしょう。
 中には幸せな世界に住んでいる人もいます。苦しみの世界に住んでいる人もいます。それは業によって生み出されているのです。

 例えば、嘘をつく人は、周りの人も嘘をついているように感じます。だから他人を信用できず、常に不安で苦しまなければなりません。嘘が発覚して、罰を受けることが「悪果」ではないのです。

 どんなに物質的な世界が変わっても、それを見ている私の業が変わらなければ、幸福や不幸の度合いは変わりませんので、「業の報いからは逃れることが出来ない」と教えられるのです。

 なお、仏教で教えられる六道などは、地面を掘っていったら実際にある世界ではなく、業によって見える世界を喩えで示されたものです。

質疑応答192

【質問】


阿弥陀仏の成仏は、十劫の昔とも、久遠劫とも教えていただきます。

どのように受け止めればよいでしょうか。

仏の悟を開かれたのが久遠劫の昔で、その後、仏の位をおりて法蔵菩薩となってくださり、五劫思惟・兆載永劫の修行をされたのちに

南無阿弥陀仏の仏となってくだされたのが十劫の昔、ということでしょうか?


【回答】


 本来の阿弥陀仏は「真理」ですから、始まりも、終わりもありません。そのことを「久遠の成仏」と表現されることもあります。

 しかし、私たちには「真理」そのものを理解することは出来ません。そこで、分かるように形として説かれたのが、経典などに書かれている阿弥陀仏です。形のあるものには、始まりが必要ですから、仮に「十劫の昔」と説かれているのです。


 このことを親鸞聖人は、以下のように仰っています。

●しかれば、仏について二種の法身まします。一つには法性法身と申す。二つには方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし、形もましまさず、然れば、心も及ばず、語もたえたり。この一如より形をあらわして、方便法身と申す、その御相に、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八願を発しあらわし給うなり。(唯信抄文意)

 ですから、法性法身と方便法身の違いと理解されたら良いと思います。



【質問】


また、十劫の昔とは、どのくらいの時間をいうのでしょうか?

たとえば地獄の寿命と教えていただく八万劫は、単純計算でその8千倍の長さということなのでしょうか。



【回答】

 仏教で劫というのは梵語カルパの音略で、極めて長い時間を表しています。具体的に何年というのではなく、非常に長い時間だと理解されたら良いと思います。

質疑応答191

【質問】


 親鸞聖人が、煩悩を慎むように仰ってると教えて頂きましたが、煩悩具足の私たちに、煩悩を慎むことが出来るのでしょうか?
 親鸞聖人に反論するつもりはありませんが、親鸞会では「煩悩は減りもしなければ無くなりもしない」と教えていただいてきましたので、疑問に思いました。



【回答】


 親鸞会では教えられませんが、唯識学では煩悩に2通りあると教えられます。


現行の煩悩…いわゆる三業に現れている煩悩
種子の煩悩…現行の元となる煩悩


 現行の煩悩とは、腹を立てるとか、人を恨むとか、金に執着するとか、そういう三業に現れているものを言います。これは三業ですから、人それぞれ違いますし、この煩悩が強い人もいますし、弱い人もいます。
 また、よく腹を立てていた人が腹を立てなくなるというように、煩悩が弱くなるということもあります。一時的ならば、無くすこともできます。

 しかし、どんなに煩悩が無くなったように見える人でも、縁がくると、また煩悩が吹き上がります。これは、その元となる種子の煩悩があるからです。この種子の煩悩は自覚できません。
 私達が煩悩具足と言われるのは種子の煩悩があるからです。これが無くならないと仏にはなれません。信心決定した人は、この種子の煩悩を、阿弥陀仏のお力によって滅していただき、仏になることができるのです。(信心決定した時に滅して頂くのではありませんので、信心決定と成仏は違います)

 ちなみに親鸞会では、煩悩を三業で教えていますので、それは「現行の煩悩」です。それを、「減りもしなければ、無くなりもしない」というのは間違いです。

 親鸞聖人が慎むようにと仰った煩悩は、この「現行の煩悩」であると考えられます。この「現行の煩悩」さえ、「どうせ無くならないのだから、無くす必要はないのだ!」と言っている人がいたら、それは単なる怠慢であって、仏教の全然わかっていない人です。

 覚如上人や蓮如上人も、煩悩が薄くなるという言い方で教えられています。


●かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。(執持鈔・正信偈大意)

 ちなみに、該当部分の現代語訳を読むと、「この光の縁に会う衆生にあっては、それまで自分が沈んでいた無明の闇がようやく薄らいでゆくのである。」(「親鸞全集5・現代語訳」真継信彦著・法蔵館)となっています。


 衆生の煩悩悪業が、阿弥陀仏の光明に照らされて、無明の昏闇うすくなり、本願の名号をきくと説かれていますが、ここで薄くなると言われている無明は、名号を聞く前のことですから、一念で晴れる疑情のことではありません。
 無明とは煩悩のことを指しますが、「種子の煩悩」が薄くなるとは考えられませんので、「現行の煩悩」の意味だということになります。

 いずれにしましても、親鸞聖人は、煩悩を慎むように教えられているのですから、「現行の煩悩」と「種子の煩悩」をゴッチャにして、「煩悩はどうせ無くならないのだから、慎む必要はないのだ!」ということがあってはなりません。親鸞聖人は、そういう人に近づいてはならないとも仰っています。
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