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質疑応答199

【質問】


 浄土真宗における善とは、仏様になって衆生済度するという事でよろしいでしょうか。



【回答】


 それでは、未来の話になってしまいますね。
 今の私たちに、親鸞聖人が勧められている善は、煩悩を慎むことです。私たちは煩悩で苦しんでいますので、煩悩を慎めば、その分だけ幸せになれます。

 末灯鈔には何か所も書かれていますので、例えば、(15・放逸を慎むべき事)(20・三毒を慎むべき事)(21・放逸無漸なるまじき事)などを参考にしてください。

 以前、私たちにできる善は有漏善であると書きましたが、有漏善とは煩悩を慎むための行いだと理解して頂いて結構です。
 観無量寿経の散善三福の「世福」はそれに当たりますが、「腹を立てないようにする」とか、「嘘を付かないようにする」とか、「悪口を言わないようにする」とか、「不倫をしない」など、当たり前のことばかりです(完全に根絶せよという意味ではありません)。親鸞会で実践されているかは疑問ですが。

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質疑応答198

【質問】


 清森さんの書かれた内容からしますと、法を説く方は相手に応じて、18願、19願、20願、場合によっては聖道自力の仏法を説かねばならないという事でしょうか。また聞く側も自分にあった教えを選んできかねばならないという事になると思いますが、その判断基準はどこにあるのでしょうか。



【回答】


 法を説く方について、親鸞聖人は以下のように教えられています。


●仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。(教行信証)


 このように、仏教は対機説法ですから、聖道仏教の教えが必要な相手がいれば、そういう相手に説くこともあると考えられます。(「聖道自力の仏法を説く」という言い方は正しくありません。私たちが聖道仏教を実践しようとすると、自力になってしまうので、浄土門から見て、自力の仏教と呼ぶのです。)

 実際に、お釈迦様の生涯のほとんどは、聖道仏教の教えです。お釈迦様の時代の人が全員、18願の教えのみを説いてさえおれば救われたのであれば、お釈迦様はそうされたはずです。わざわざ遠回りさせるような無慈悲な仏様ではありません。

 これは説く側について教えられたお言葉ですので、聞く側が自分の機に合った法を選んで求めよという意味ではありません。そもそも、自分に必要な教えが判断できるような人には、善知識は必要ないからです。

 なお、聖道仏教と聞くと、親鸞聖人のアニメのような修行を思い浮かべられるかも知れませんが、お釈迦様の説かれた聖道仏教とは全く違います。(詳しい説明は質問の趣旨ではないので省きます。)



 では、どういう人に対して18願の教えが説かれ、どんな人に19願や、聖道仏教の教えが説かれるのでしょうか?

 非常に大雑把な言い方をすれば、浄土を求めている人には18願の教え、浄土を求めていない人には、善が勧められています。
 このことを、親鸞聖人は以下のように仰っています。


●しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、 欣慕浄土の善根なり。(教行信証)


 つまり、善を勧められた方便の教えは、浄土を願わせるためである、ということです。


 では「浄土に生まれたい」と、口先で言っている人であれば、どんな人でも18願の教えさえ説けば良いかというと、それも違います。その人の思っている「浄土」が、「仏教で教えられている浄土」でなければ、浄土を願っていることにならないからです。

 浄土とは、浄らかな世界ということです。仏教で「浄らか」とは、「煩悩の穢れのない」ことを言います。この世は、煩悩に穢れているので、煩悩を離れた世界に出たいというのが、浄土へ行きたいということです。

 では、何のために浄土へ行くのかと言いますと、善をするためです。善は「しなければならないもの」ではなく、「したいもの」だと説明しましたが、穢れた環境では善をしたいと思っても、思ったように善ができません。そこで、浄らかな世界に出て、善をしたいと思うようになるのです。

 ですから、「信心決定するために善をする」のは間違いですが、「浄土往生して善ができるようになるために信心決定する」なら正しいです。前後が逆になってしまっているのです。



 もし、「浄土真宗は善をしなくて良いのだから、私は善をやりたくありません」とか「煩悩はどうせなくならないから、煩悩のままやりたい放題でいいのだ」とか、「浄土往生して、のんびり楽がしたい」などと思っている人があったとしたら、その人が求めているのは、間違っても「仏教で教えられる浄土」ではありません。

 そういう人は、おそらく「善」の内容を勘違いしているのだと思います。親鸞会で教えられているような「善」を想像して「やりたくない」と言われるならば、それは当然のことです。
 ですから、まず仏教で教えられている善とはどういうものか、正しく理解する必要があります。これが聖道仏教の位置づけになりますので、親鸞会の人には、聖道仏教の教えの理解が必要な人が、少なくないように思います。決して、山にこもって修行せよという意味ではありません。
(「善ができないと知らされるまで、全力で善に励め」というのも間違いです。浄土真宗では、浄土往生して善ができるようになることが勧められています。)



 親鸞会の大きな問題点の一つは、浄土に生まれる目的が、「煩悩を離れて善ができるようになること」ではなく、「無間地獄行きの恐怖から逃れること」になってしまっていることだと思います。
 これは、とんでもない目的違いですので、18願とか、19願とか、聖道仏教というものではなく、外道の教えであることを知って頂きたいと思います。

質疑応答197

【質問】


質問なのですが、
最近「従仮入真」という言葉の意味がよくわからなくなりました。
「仮よりしか真に入れない」と教えていただいていたように記憶しています。

あるサイトで、いつも黒板に書かれる縦の線、横の線、浄土真宗では、横の線はないのだと書いてありました。

仮である諸善や自力念仏を通らないと真である18願の世界に入れないと思いこんでましたので、少なからずショックでした。

この「従仮入真」という言葉は、善に励まねばという親鸞会の会員にとって呪縛になってるなと思います。

●「従仮入真」という言葉は、そもそもどういう意味でしょうか。
 それについて親鸞聖人はどのように教えておられますでしょうか。



【回答】


 従仮入真とは、親鸞聖人が仰ったお言葉ではなく、真宗学で一般的に使われる言葉です。意味としては、方便願から真実願へ誘引する働きのことです。

 親鸞聖人が教えられているのは、三願転入のお言葉です。

 19願、20願の方便願は、18願の真実願へ導き入れるためのものだから、早く18願の世界に入って頂きたいという御心と理解されたら良いかと思います。



 しかしながら、方便が全く不要かのように思うのは大変な間違いです。

 どんな時でも、どんな相手でも、18願の教えさえ説いておればよいのであれば、お釈迦様の45年間の御説法の殆どは無駄だったということになります。

 それどころか、お釈迦さまが方便という無駄な教えを説かれたために、多くの人が迷ったこととなり、お釈迦さまが悪いことになってしまいます。

 結論からいえば、仏教は「対機説法」ですから、誰に対しても同じように18願の教えさえ説いておれば良いという考えは間違いです。

 もちろん、誰に対しても19願の教えを説くというのも間違いです。



 親鸞会の場合は、18願の教えも、19願の教えも説かれていません。

 19願の善は、自力で浄土往生するために説かれていますから、信心決定を目指して行うものではありません。親鸞会では、信心決定を目的とした修善が勧められていますから、これは19願の善にはなりません。

 18願の救いは、これを目的に善に励むようなものではありません。ですから、親鸞会では18願は教えられていないことになります。

 そもそも、親鸞会では因果の道理の理解が根本的に間違っているので、聖道仏教にもなりません。ですから、親鸞会では「真実」も「方便」も教えられていないということです。



「方便はいらない」と主張する人があるとすれば、それは親鸞会で教えられていたようなものを方便だと勘違いしているからだと思います。確かに、親鸞会で「方便」と呼んでいるものは、まったく不要です。

 しかし、仏教で教えられている方便は、機に適ったものであれば、必要なものであり、重要なものですので、決して軽んじてはならないものなのです。

質疑応答196

【質問】


親鸞会は「善をすれば救われる」と説いている、と批判してくる者があるが、そんなことは説かれたことがない。ウソばかり付く批判者の言うことなど、まったく聞くに値しない。

というようなことを親鸞会の講師が言っているようですが、どのように思われますでしょうか?



【回答】


 私は、親鸞会が「善をすれば救われる」と説いているという批判は、聞いたことも読んだこともありません。批判の内容をネジ曲げて、会員さんが批判に耳を傾けようとするのを防ごうとしているのではないでしょうか?

 善をする目的が、信心決定になってしまっているのがおかしいと言っているのです。

 親鸞会では、「獲信の因縁になる」とか、「獲信と良い関係にある」とか、色々と言い方を誤魔化していますが、結局のところ善をする目的は信心決定のためということになっています。

 その証拠に、講師部員や会員さんに「あなたは何のために、一生懸命活動しているのですか?」と尋ねたら、どう答えるでしょうか?

 99%の人は「信心決定のため(後生の一大事の解決のため)」と答えるでしょう。

「善をすれば、金持ちになったり、出世できるなどの相対の幸福が得られるからです。」と答える人は、あったとしても入会間もない人だけと思われます。

 つまり、親鸞会の人たちは、「善をすれば信心決定できる」とは教えられていなくても、「善をする目的は、信心決定のため」となっており、それが間違っていると批判されているのです。



 これは、「善なんかしなくて良い」という外道の思想に、極めて近い考え方です。

 なぜかと言いますと、こういう人は、信心決定するために一生懸命善に励む必要がないと分かった瞬間に、「なーんだ、だったら善なんかやらなくていいや」と転じ変わってしまうからです。

 もともと、お釈迦様が善を教えられたのは、善をすれば信心決定できるからではありません。だから、「善をしても、信心決定できないのならば、善なんかやらなくて良い」と考えること自体、とんでもない間違いです。



 お釈迦様の教えられた善を実践すれば、その分だけ幸せになります。この幸せとは、親鸞会で教えるような「相対の幸福」とは違います。(これについて説明すると長くなるので、別の機会にします)

「どうせ善なんかできないから、やる必要はない」、と誤解している人もあるようですが、私たちには出来る善と、出来ない善があります。

 私たちに出来る善を「有漏善」と言い、私たちに出来ない善を「無漏善」と言います。例えば、六度万行は無漏善ですから、親鸞会のように「六度万行をやれ」と言われたら、出来ませんというのは分かります。
 しかし、散善三福の「世福」など、私たちに出来る善もあります。



 善というものは、それが善だと分かったら、「したいもの」「せずにおれないもの」です。

「善をしなさい」とか「善をしなければならない」という言葉の裏には「本当はやりたくない」という心が見え隠れしています。

 そこで、「信心決定」というエサをぶら下げたり、「目標」というムチで叩かないと、やる気が起きないのです。



 結局、善をやりたくないと思うのは、善として勧められているものが、実際には善ではないからです。

 親鸞会の皆さんが、これを読んでいるのであれば考えて頂きたいのですが、あなたが善だと思ってやっていることは、「目標が無くても」「信心決定と関係なくても」、今まで同様にやりたいと思いますか?

 その答えが「ノー」であるならば、残念ながら、あなたのやっていることは善ではなかったということです。


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