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質疑応答206

【質問】


 親鸞会の公認ブログである「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」に、書いてある記事について質問します。

(本来は管理人に尋ねるべきでしょうが、受付先も不明で、コメント欄は都合の悪い質問は一切表示されませんので、清森さんにお尋ねします。)


 このサイトでは、親鸞聖人は、

>「まことの善ができると思って
> 一生懸命にやってみたが、
> 善をやっても雑毒の善しかできない。
> まことの善などできる私ではなかった。
> 出離の縁がかりの全くない私だった」

と知らされた方だと主張しているようです。


 一方で、次のようなことも書いてあります。

> 二千畳で聴聞した人ならば、
>
>「我々のやる善はたとえ
> 雑毒の善であっても善は善であり,
> 善は大いにしなければならない。
> しかし,私達の善で
> 出離は絶対できない。
> 迷いの世界から出て離れることが
> できるような真実の善はできない」
>
> と常に説かれいることは
> 周知の通りだ。


 結局のところ、親鸞会が会員に勧めている善は、「まことの善」なのでしょうか、「雑毒の善」なのでしょうか?



【回答】


 親鸞会が主張するように、「まことの善」ができると思って一生懸命やった人にしか、「まことの善ができない自分」と知らされないのであれば、当然「まことの善」を勧めなければなりません。

「雑毒の善でもいいからやりなさい」と勧めているのであれば、「善は出来る」ということが知らされるはずです。(雑毒の善なら出来る)

 親鸞会で勧める善を、いくらやっても、「まことの善が出来ない自分」と知らされるはずがありません。「まことの善」を勧めていないのですから。


 こんな自己矛盾した記事を、平気で載せてしまうということは、よほど仏教が分かっていないのだと思います。



 さて、私達にできる善と、私達にできない善の違いについてですが、親鸞会の教えと、仏教とはまったく違います。


 仏教では、善には「無漏善」と「有漏善」があると教えられています。

「無漏善」とは、煩悩の混じらない善ということで、これが出来ないと仏になれません。凡夫の私たちには出来ない善です。

「有漏善」とは、煩悩の混じっている善ということで、私たちにも出来る善です。


「有漏善」は、善をしても認められなかったり、喜んでもらえなかったりすると、怒りの心が起きてきます。この怒りを「毒」と言い、このような善を「雑毒の善」と言います。

 十分に認めてもらっていたり、心に余裕があれば、必ずしも怒りを起こすわけではありませんので、「有漏善」=「雑毒の善」とイコールの関係ではありません。



 仏教では、「雑毒の善」でも良いからやりなさい、と説かれることはありません。毒で苦しむわけですから、当然、「雑毒の善」にならないように教えられます。そのために「三輪空」の実践を勧められるのです。

 しかし私たちは、有漏善しかできませんから、結果的に「雑毒の善」になってしまいます。これは仕方のないことです。

 あくまで、「仕方ない」ということであって、「雑毒の善」を奨励されているわけではありません。最初から「雑毒の善」でいいと思って善をしているとすれば、そんなものは有漏善ではなく、「悪」になります。



 では、親鸞会で勧められている善は、「無漏善」でしょうか、「有漏善」でしょうか?

 もうお分かりだと思いますが、「無漏善」でも「有漏善」でも、ありません。「悪」になります。


 参詣目標、顕正目標に追われての「法施」、御報謝目標の達成や、真実開顕賞などの名誉欲をエサにぶらさげての「財施」などは論外です。

 目標や賞があったほうが頑張れる、と言い訳するかも知れませんが、目標や賞を無くしたら頑張れなくなるようなものは、布施とは言いません。

 こんなものを設定している時点で、親鸞会の活動は布施ではありませんと宣言しているようなものです。


 また、自身の信心決定のための「宿善」になるから、という理由での善の実践も、仏教の趣旨から大きく外れるものです。

 相手を、自分が助かるために利用しているだけです。


 結局のところ、親鸞会の人集め、金集めに利用されてしまっていることに、早く気付いていただきたいと思います。
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質疑応答205

【質問】


 親鸞会OBネット(http://www.shinrankai-ob.net/)というサイトが、親鸞会の圧力によって潰されてしまいました。
 特専部長と思われる人物から、以下のような内容の内容証明郵便が送られてきたということです。
 このような親鸞会のやり方について、どのように思われますでしょうか?


> 当職は、浄土真宗親鸞会(以下,単に「親鸞会」といいます)の代理人として,以下の通り通知いたします。
>  貴殿は、「shinrankai-ob.net」というドメイン名を使用して,「親鸞会OBネット」というサイトを運営しています。
>  同ドメイン名には,「shinrankai」という文字が含まれているため、閲覧者は親鸞会が運営しているものと誤認混同します。また、その名称にも「親鸞会」の文字が含まれているため,この点からも,閲覧者は同サイトを親鸞会が運営しているものと誤認混同します。貴殿の行為は氏名冒用による人格権の侵害に当たり,違法です。従って,直ちに上記サイトを閉鎖し、ドメイン名の使用も停止することを要求します。
>  もし,本書到達後2週間以内に何らかの措置もとられない場合,当職としては,法的手段を執る所存ですので,その旨ご了承ください。
>  尚,本件については,一切を当職が受任しておりますので,今後の連絡は,親鸞会に直接することなく,必ず当職宛にお願いいたします。




【回答】


「氏名冒用による人格権の侵害」云々と書いてありますが、本当の理由は、親鸞会にとって都合の悪い事実が書かれているため、会員に見られたくないということでしょうね。
 最初から、知られたら困るようなことをしなければ良いだけのことですが、このような方法で隠蔽しようという体質は、仏法者とは思えません。

 そもそも、「親鸞会」という名称は、親鸞聖人に対する「氏名冒用による人格権の侵害」ではないでしょうか?
「親鸞会」という団体名には、「親鸞」という文字が含まれているため、親鸞聖人の御教えが説かれているものと誤認混同します。

 教義的な誤りを改める気がないのであれば、「高森会」など、適切な団体名に改めるべきだと思います。

質疑応答204

【質問】


 今回の清森問答を読ませて頂いて、親鸞会の会員が「偽なる者」「虚なる者」ばかりであるならば、19願の善を勧めている親鸞会のやり方は正しいようにも思うのですが、どうなんでしょうか。



【回答】


 結論から言えば間違っています。

 まず、19願の教えは、少なくとも外道から離れた人に勧められています。親鸞会で教えられている「因果の道理」は、仏教で説かれている「因果の道理」と全く違いますので、親鸞会は基本的に外道です。

 ですから、19願の教えを説く対象とは言えません。



 また、親鸞会では、「必堕無間の一大事を解決するために」「信心決定するために」、善をしなさい、と教えています。

 このような善は、19願の善とは言いません。

 19願では、「発菩提心」と誓われていますが、菩提心とは、「仏になりたい」「他人を幸せにしたい」という心です。仏様の仕事は、他人を幸せにすることですので、この2つは本質的に同じ心です。(「医者になりたい」というのと、「他人の病気を治したい」というのは同じ心ですよね。)

 仏様は、苦しんでいる人を助けるために、喜んで地獄に行かれる方です。自分が地獄へ堕ちたくないから善をする、というのは方向が正反対です。

 龍樹菩薩も、十住論に『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。



「信心決定するために」善をするというのも、おかしな話です。19願の善を修する目的は化土往生するためです。親鸞会では、化土往生を否定しているのですから、19願の善など勧める理由がありません。

 親鸞会の人は、「化土往生できないことが知らされるため(善が出来ないことが知らされるため)に、19願の善に励むのだ」と主張するかも知れませんが、お釈迦さまも親鸞聖人も、そのような説き方はされていないのです。



 そもそも、「善が出来ないことが知らされるために、善をやる」という教えは仏教にはありません。善をやろうとした結果、善が出来ないと知らされることはあるかも知れませんが、最初から出来ないと知っているなら、やらないでしょう。

 お釈迦様は、キサーゴータミーという女性に、「死人を出したことのない家から、ケシの実をもらってきたら、死んだ子供を生き返らせてあげよう」と仰いました。
 最初から、子供が死んだと納得できる女性であれば、このように言う必要はなかったのですが、キサーゴータミーは子供の死を認めることができなかったのです。

 この時に、お釈迦さまが「子供は生き返らないということが知らされるまで、死人を出したことのない家を探してこい」と仰ったら、キサーゴータミーは従ったでしょうか?これでは方便になりませんね。

 もし、親鸞会が、19願の善を勧めていると主張するのであれば、「善を修めていけば、阿弥陀仏が往生させて下さいますよ」と説かねばなりません。「化土往生はできない」とか「善が出来ないと知らされるために」などと言っていては、19願にならないのです。

 親鸞聖人は三願転入されたと仰っていますが、親鸞聖人は「善が出来ないと知らされよう」と思って善を修めておられたのでしょうか?
 親鸞聖人が善を修められた心と、親鸞会の人が善をする心が、まったく違うのです。



 最後に、親鸞会で教えられている「善」は、実態は親鸞会に都合のよい「人集め」「金集め」であって、仏教で教えられる善ではありません。悪になります。

 これについては、今まで何回も書いてきたことですので、詳しくは説明しませんが、親鸞会には、まずは悪をやめることから始めていただきたいものです。

質疑応答203

【質問】


 親鸞会では化土について教わった記憶がほとんどありませんが、親鸞聖人は、なぜ化土について説かれたのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人が化土について教えられているのは、教行信証の化土巻です。化土巻は、文字数でいえば教行信証の3割以上を占めており、非常に重要な教えであることに間違いありません。

 ここで親鸞聖人は、化土往生を、19願・20願の往生として説かれています。話が複雑になりますので、今回は19願の往生に絞って説明したいと思います。親鸞聖人は19願の位置づけについて、以下のように書かれています。


●しかるに濁世の群萠・穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なる者は甚だもって難く、実なる者は甚だもって希なり。偽なる者は甚だもって多く、虚なる者は甚だもって滋し。ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく所有海を化したまふ。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引摂の願」と名づく、また「至心発願の願」と名づくべきなり。(化土巻)

 このように親鸞聖人は、外道を離れ、仏門に入った人の中に「真なる者」「実なる者」は非常に少なく、「偽なる者」「虚なる者」が非常に多いと説かれています。
 そこで、「偽なる者」「虚なる者」を真実に導くために誓われたのが19願であると教えられています。

「偽なる者」「虚なる者」は、口では「浄土に生まれたい」と言っていても、心では「真実の浄土」に生まれたいとは思っていません。本当の浄土とは、私達の煩悩が喜ぶような世界ではないからです。


●大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。(真仏土巻)

 私達は楽しい世界を浄土だと思っていますが、楽しいことがあれば、楽しみが終わったときに苦しみを感じます。苦しみを感じる世界は浄土ではありません。だから、浄土は楽しみを断じた世界だと説かれています。

 ここでいう楽しみとは、煩悩の楽しみです。浄土は「浄らかな世界」という意味であり、仏教で「浄らか」というのは、「煩悩の穢れがない状態」を指しますから、浄土に煩悩の楽しみがないのは当然のことです。

 このような「真実の浄土」に生まれたいという心が起きない人に対しては、方便として、私達が生まれたいと思うような世界としての浄土が説かれています。これが化土に当たります。



 親鸞聖人は、化土のことを「辺地懈慢」とも仰っています。
「辺地」とは、境界線のある世界という意味で、誰でも自由に入ることのできない世界です。
「懈慢」の「懈」は懈怠ということで、怠惰な世界。「救われるまでの辛抱だ」と思って頑張り、「救われたら楽をしよう」と思っている人の行く世界です。
「慢」は「キョウ慢」ということで、自分たちの世界以外の人を見下す心があるので、このように言われます。

 以前、親鸞会館のことを「この世の浄土だ」と言っている人がありましたが、「この世の化土」と言ったほうが正しいと思います。
 また、親鸞会の殆どの人が想像している浄土は、「化土」であると考えられます。

 もちろん、こんな世界に生まれさせることが仏教の目的ではないのですが、「偽なる者」「虚なる者」には、煩悩を離れた世界に生まれたいという心がありませんので、方便として説かれているのです。



 では、化土に生まれるには、どうしたら良いと説かれているでしょうか?
 19願では、「発菩提心 修諸功徳」と誓われています。これは、他人を幸せにしたいという心を起こして、善を修めることです。

 他人を幸せにしようとすると、問題になるのが煩悩です。我欲や怒りに振り回されていては他人を傷つけるばかりで、幸せにすることはできません。そこで初めて「煩悩から離れたい」「浄らかな心になりたい」という願いが起きるのです。



 このことを、親鸞聖人は、次のように仰っています。

●しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。(化土巻)

 このように、19願の善は、「欣慕浄土」つまり、真実の浄土を願わせるための方便の善であると説明されています。

 当然ながら、いつまでも化土往生のままで良いという教えではありませんので、真実の浄土である報土往生を願う身になりなさいと説かれているのです。



 ですから、真実の浄土に生まれたいと願っている人には、19願の教えを説く必要はありません。親鸞会では、「すべての人に19願から説かねばならない」と教えているようですが、どこに根拠があるのか疑問です。

 しかし、「早く救われて楽になりたい」とか、「浄土に往生したら八功徳水の温泉でゆっくりしたい」とか、「煩悩から離れたいと思わない」というような人には、19願の教えが方便になると親鸞聖人が教えられていますので、19願の教えが全く不要だと考えるのも誤りということになります。

質疑応答202

【質問】


 親鸞会の講師が、以下のようなブログを作っています。

「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」(http://blog.goo.ne.jp/oonokatu21

 その中で、化土往生できる人は1人もいないと断定し、「『化土往生できる人も
 一杯いる』などと言う人がおったなら、真実の自己の相を知らされた人の発言とはとても思えない。」と書いてあります。

 そこで、清森問答に書いてあった根拠を、以下のようにコメントしました。


> 体験至上の異安心の者は、以下の御文を挙げて化土往生する者もいると主張しているようですが、どのように破ればよいでしょうか?
>
>
> 報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
> 自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)
>
> 報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
> 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)
>
>
> 宜しくお願い致します。


 ところが、コメントは承認されず、新しい記事にも、ご和讃のことは全く触れられず、無視されたままです。

 このブログの内容について、清森さんはどのようにお考えでしょうか?



【回答】


 私の過去の記事を読んて頂ければ分かると思いますが、私は化土往生している人がいるとも、いないとも書いていません。私の意見や、考えではないのです。


清森問答 質疑応答152
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-252.html


 私は仏様ではありませんし、具体的に化土往生している人の氏名を挙げろと言われても困ります。
 しかし、親鸞聖人が「化土に生まるる衆生をば少なからず」と教えられていますので、そのお言葉を紹介しただけです。

 親鸞会講師の人が、「親鸞聖人は間違いだ」を主張したいならば、それは信教の自由ですから、強要するつもりはありません。
 親鸞聖人は「真実の自己の相を知らされた人」とは思えないというのですから、仕方ないでしょう。

 しかし、このような親鸞聖人のお言葉があることを知っておりながら隠蔽して、親鸞聖人が、「化土に生まれる人なんて1人もいない」と説かれたかのように嘘を付くのは、仏法者として感心できませんね。

 このブログの内容については、2、3ページしか目を通していませんが、こんな人が書いたブログに読む価値があるかどうか疑問です。

質疑応答201

【質問】


 親鸞会では、苦しくなければ求道にならない、と教えられましたが、これは経済的な苦しみに耐えながら、聴聞してゆくことなのでしょうか。



【回答】


 仏法を求める苦しみは、経済的な苦しみではありません。仏法の求道の基本は中道ですので、仏法を求めるために極端にお金がかかるのならば、まずはそのお金を減らし、余裕を作ってゆくことが大切です。

 その上で、求道の苦しみとは、自分の心と向き合ってゆく苦しみです。それは今まで味わってきた苦しみとは、種類の違う苦しみになります。

 自分と向き合うためには、心に余裕が必要です。心に余裕がなければ、自分のやったことを客観的に見ることが出来ず、どんどんと自己中心的な盲目状態になっていきます。

 ですから、まずは本当の求道をする為にも、心に余裕を作って下さい。
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