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親鸞会教義の相対化・31

清森義行様


『会報』を読み終えましたので、問題点を指摘しておきたいと思います。
分量が多くなりますので、今回はとりあえず一巻と二巻に関して述べさせて頂きます。


【1】『会報』vol.1p.89~真実の自己とは(5)

>>>
仏教では殺し方によって、自殺、他殺、随喜同業の三種に分けるが・・
(中略)
第三の随喜同業とは自分に関係のない人が殺生しているのを眺めて楽しみ、殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造るといわれる。
>>>

私の知る限り、釈尊はこのようなことは仰っていません。
どなたがこのようなことを仰っているのでしょうか?

佛言。佛子。若自殺教人殺方便讃歎殺見作隨喜。乃至呪殺。殺因殺縁殺法殺業。乃至一切有命者不得故殺。
『梵網経』大正蔵経vol.24p.1004b

自分自身で殺すこと、人をそそのかして殺すこと、巧みな方法で殺すことを誉め讃えること、自分で手はくださなくても呪い殺すこと。
これらとともに「見作随喜」(殺生を作るのを見て随喜すること)がありますが、釈尊は、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは仰っておられません。

これに関しては、仏教と仏教の「兄弟宗教」ともされるジャイナ教とを比較するとよくわかるのですが、「殺生」という悪業に関して、ジャイナ教は事実を重視して、仏教は動機を重視します。
ジャイナ教でも仏教でも殺生は戒められますが、その意味する内容はかなり違います。
ジャイナ教では、水中の小虫を吸わないように水を濾過して飲み、道を歩いて小虫を踏まないように掃きながら歩みます。
一方仏教は道ばたの虫を見て「踏み殺してやろう」と足を上げることがなくなり、虫を踏みそうな場所を避けてとおったり、足元の見えない状況での外出をひかえたりといったこころがけの改善がなされます。

これは人間の身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・意業(精神活動の行為)のうち、ジャイナ教が身業を最も重んじたのに対し、仏教が意業を重要視したことに由来するのですが、「殺そう」とする意業(精神活動の行為)に通じるから「見作随喜」は「殺生」になるのであって、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは言えません。

もちろん、私達が多くの命を頂いて生きていることは事実であり、私達が多くの殺生の上で生きていることは紛れもない事実です。
だから、食べ物を粗末にしていけないし、心して頂かないといけないと思います。

しかしながら、美味しい食べ物を喜ぶことは「殺生」とは言えませんね。



【2】『会報』vol.2p.19~五劫思惟

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法然上人は『選択集』の中に
「法蔵菩薩は世自在王仏のみもとにあって、諸仏の国土をみ、その救済の方法をしらべたもうに、或は布施を勧むるもの、或は戒律を持たしむるもの、或は忍辱をおしうるもの、或は精進を勧むるもの、或は禅定を勧むるもの、或は智慧を勧むるもの、或は持経すること、
或は寺塔を起立すること、或は沙門に供養すること、或は父母に供養すること、或は師長に奉持すること、こうした色々の善根と、いろいろの功徳とを規定されてあるけれども、かかる諸行が規定せらるる時は、到底すべての人々が、救われることが出来ない。
そこで一切の善悪の凡夫が、受けとる一つで救われる名号を成就し、これを廻向することを誓い、この名号を受け取る者は、すべて救われることを約束された」
と五劫思惟のありさまを詳しくのべられ、お経を念誦せらるる時に、何時も、この五劫思惟の文に感泣せられたという。
>>>

「」の部分に対応する『選択集』の記述は存在しません。
あえて類似した部分を挙げるとすると、以下の部分ということになるのではないかと思います。

「もしそれ造像起塔を以て、本願としたまわば、すなわち貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たん。然るに富貴の者は少なく、貧賤の者ははなはだ多し。
もし智慧高才を以て本願としたまわば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たん。然るに智慧ある者は少なく、愚癡なる者ははなはだ多し。もし多聞多見を以て本願としたまわば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たん。
然るに多聞の者は少なく、少聞の者ははなはだ多し。もし持戒持律を以て本願としたまわば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たん。
然るに持戒の者は少なく、破戒の者ははなはだ多し。自余の諸行これに准じてまさに知るべし。まさに知るべし、上の諸行等を以て本願としたまわば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からん。
然ればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。ただ称名念仏の一行を以て、その本願としたまえる。」
『選択集』三章

ちなみにこの部分は、既に清森問答で訳させて頂いております。

>>>
もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、少ししか見たり聞いたりしていない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、少ししか聞いていない人は甚だ多い。

もし戒や律をきちんと守ることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。

以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、仏像を造り、堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、極楽浄土に往生するための本願にせずに、ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
>>>


『選択集』を紹介してくださるのは結構なのことですが、ご自身の思想にあわせて『選択集』に書かれていないことを書いているかのように書くのは、いかがなものかと思います。



【3】『会報』vol.2p.23~阿弥陀仏の本願(1)

>>>
第二にこの願成就の文によって、弥陀の本願の真意が信心正因、称名報恩なることが明らかになったが、その正因たる信心は自分で起こすものなのか、他力の賜りものであるのかが、本願のみでは我々にはハッキリしないが、成就文では「至心に廻向せしめたまへり」と説かれてあることから、この信心は佛の方より授けまします、他力廻向の大信心であることが明らかである。
>>>


はたして「明か」でしょうか?

この部分の直前に高森先生自身が引用されていますが、本願成就の文の原文は、

諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法

です。

通常の漢文のワードオーダーから考えると、「至心廻向」の主語は基本的には「諸有衆生」であり、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜して、ないし一念し、至心に廻向して彼の国に生まれんと願えば、すなわち往生を得・・」

と読むべきものです。これはサンスクリット文の本願成就文でも共通しております(※)。

※それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされたわけですが、それは親鸞聖人が受け取られた信心に基づき経文を読んだ結果得られた解釈です。

『無量寿経』から言えないことを、『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないと思います。

もっと厳しいことを言うならば、高森先生が漢訳原文を引用していながら、実際には漢訳原文は読んでおらず、親鸞聖人の読み方を採用している浄土真宗系の「書き下し」に基づいて論じているから、このような初歩的な誤りをしてしまうのではないかと思います。



【4】『会報』vol.2p.135~喜忍(1)

>>>
これは何も聖人の体験ばかりの独断ではない。阿弥陀佛の御本願に誓われていることなのだ。
即ち、第十八願のお言葉で示せば「十方の衆生を必ず信楽の心にしてみせる」と約束なされている信楽の楽の心が大慶喜心となるのだ。
楽は惱み苦しみの反対で、本当の幸福であり喜びをいう。
>>>


阿弥陀仏が「十方の衆生を必ず信楽の心にしてみせる」と約束していないことは、改めて説明する必要もないと思います。

それからこの解釈は、どなたの解釈なのでしょうか?
寡聞にして、この解釈がどなたの説に基づくのかわかりませんが、少なくとも親鸞聖人の解釈と異なることだけは明かだと思います。(※)


※「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
『尊号真像銘文』



【5】『会報』vol.2p.161~信忍(4)

>>>
釈迦一代四十五年間の教えは、阿弥陀佛の本願を説くにあったことは、前号に於いてほぼ明らかにした。
故に、一切経は弥陀の本願におさまり、弥陀の本願によらねば一切の人々は救われることは絶対にないのだ。
釈迦はこのことを『般舟経』に於て、「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」(三世の諸佛は弥陀三昧を念じて等正覚になる)と説いている。
三世の諸佛というのは一切の佛をいい、弥陀三昧を念じてとは、阿弥陀佛の御力によってということである。
等正覚に成るとは、佛になれたということだ。
つまり三世の諸佛でさえ弥陀三昧によって始めて成佛するのだから、一切の人々は阿弥陀佛の本願によらねば、絶対に助からんのは勿論である、と仰言るのである。
釈迦も三世の諸佛の中の一人であるから、釈迦の本意は弥陀の本願を説くにあったこともまた当然である。
>>>


残念ながら「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」という言葉は、『般舟三昧経』にはありません。

おそらく、

また『般舟経』にのたまはく、「三世諸仏念弥陀三昧成等正覚」とも説けり。
『口伝鈔』浄土真宗聖典p.899

という覚如上人の言葉に基づいて、典拠を確認しないまま引用してしまったのではないかと思います。

余談ですが、西本願寺で出されている浄土真宗聖典では、「『般舟経』(意)」と書かれていて、覚如上人の引用の誤りがきちんと踏まえられています。


最後に、『般舟三昧経』の古層部分と言われている行品に対応するチベット訳の和訳を紹介させて頂きます。 

バドラパーラよ、現在諸仏面前立三昧(般舟三昧)とは何であるか。
バドラパーラよ、比丘であれ、比丘尼であれ、優婆塞(在家の男信徒)、優婆夷(在家の女信徒)であれ、戒を完全に行じている者は、一人で閑静な所に行って座って、
「世に尊き(世尊)、如来、供養にあたいする(応供・阿羅漢)、正しく完全にさとられた(等正覚)かの阿弥陀(無量寿)仏はどの方向に住み、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられるのか」
という思いを起こさねばならない。
彼はいままでに教えられたように、「この仏国土より西の方角に、百千コーティの仏国土を経たところにある、スカーヴァティー(極楽)という世界にかの世尊・如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏が現在、菩薩たちの集まりに囲まれ、仕えられ、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられる」と億念し、そして散乱しない心を如来に集中する。

バドラパーラよ、たとえば、男にせよ女にせよ、誰かが眠っている夢のなかで、物の形を見るとしよう、銀とか金とか、友人、同族、親戚、仲間、快いもの、愛ししもの、愉快なものなどを見て、彼は夢で彼らとともに遊び、喜び、娯楽し、話し、雑談する。
夢から覚めて、彼は[夢で]見たり、聞いたり、考えたり、知ったり、語ったり、雑談したりしたことを、他の人たちに告げる。
彼は夢の有り様を思いだして涙を流すであろう。

ちょうどそのように、バドラパーラよ、在家であれ出家であれ、菩薩は、ひとりで、閑静なところに行って座り、教えられたように、如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏に心を集中する。
戒律の諸要素において過失なく、億念に乱れなく、一日一夜、二、三、四、五、六、七日七夜、心を注ぐ。
もし彼が七日七夜、心に散乱なく、阿弥陀仏を億念するならば、七日七夜を満たしたのちに世に尊き阿弥陀仏を見るのである。
たとえ彼が世尊を昼間に見ないとしても、眠って夢を見ているあいだに、世に尊き阿弥陀仏はその顔を彼に示すのである。
(浄土仏教の思想二pp.269-270)


「般舟三昧」の原サンスクリットは、『般舟三昧経』のチベット訳に記されている梵名から、

pratyutpanna(現在)-buddha(仏)-saMmukha(面前)-avasthita(立つ)-samAdhi(三昧)

であることがわかり、このサンスクリット複合語は、

1)「現在諸仏の面前に立つひと(行者・菩薩)の三昧」
2)「(菩薩あるいは行者の)面前に現在諸仏が立つ三昧」

という二つの読みができますが、いずれにしても、諸仏を面前にする三昧で所謂「見仏」であり、これによって「空」を感得し、最終的に覚りに至るのが『般舟三昧経』の中心テーマです。

高森先生がお書きになられたようなことは、『般舟三昧経』には書かれていません。

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COMMENTS

親鸞聖人の教えは教行信証

清森さんは、いつから浄土宗に改宗したのだろう?

No title

佛、跋陀和に告げたまはく、この菩薩特に四事あり、この三昧の中に於いて助けて其れ歓喜す。過去の佛の時、この三昧を持って助けて歓喜し、この経を学する者は、自ら阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛を致して、其の智悉く具足す。我れ助けて歓喜すること是の如し。復た次に跋陀和、当来の諸仏、菩薩の道を求むる者、是の三昧の中に於いて助けて歓喜し、是の三昧を学する者は、自ら阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛を致して其の智悉く具足す。其れ皆助けて歓喜すること是の如し。復た次に跋陀和、今現在十方無央数の佛本と菩薩の道を求めし時、是の三昧の中に於いて助けて歓喜し、是の三昧を学する者は、自ら阿耨多羅三耶三菩阿惟三佛を致得して其の智悉く具足す。其れ皆な助けて歓喜す。

中根といっしょ

というか、中根繁といっしょで真宗とは別に新しい上田・清森教をはじめたんだよ。
よく質疑応答88の【回答】を読んだらわかる。
清森氏は、勝手に「雑行」の定義を変えて
「信心決定しても、雑行はすぐには無くなりません」などと言いふらしているんだ。
真宗学ではなく清森式「唯識学」なんだから、すでに清森教だよ。

ええ様へ

>清森氏は、勝手に「雑行」の定義を変えて

親鸞会の定義とは違うということでしょ?
まずは順番的に言って、親鸞会における「雑行」の定義を明らかに示してもらわなくてはいけないと思いますが。
某掲示板にはこういう書き込みがありました。

480 :神も仏も名無しさん:2008/04/14(月) 13:14:53 ID:lMs72J2X
>「信心決定しても、雑行はすぐには無くなりません」

親鸞会では「雑行」=「自力の心でやる善」という定義を採用しており、
この定義によれば、確かに矛盾します。
(「信心決定」とは「自力の心」が廃ったことをいうのですから。)

しかし、清森さんによると「雑行」=「雑毒の善」という意味もあり、
その聖教上の根拠もたくさんあるそうです。この定義によれば、何も矛盾しません。

では、なぜわざわざ「雑行」=「雑毒の善」という定義を持ち出したかと言えば、
信前の人が「雑行を捨てよ」と聞いても、具体的にどうすればよいか分からないからだそうです。
それに対し、「雑毒の善を捨てよ」という意味に受け止めれば、
「至心で善をせよ」という意味になりますから、19願の教えそのものになります。
_____________________________________________

ということで清森さんによると「雑行」=「雑毒の善」という意味もあって、その聖教上の根拠もたくさんあるということですので、納得がいかないのなら、その根拠を示していただいて議論なさればよろしいのではないでしょうか。

そもそも、親鸞会だって「破邪顕正せざるものは仏弟子に非 ず」とかいって出家者に説かれた涅槃経の教えをゆがめて在家者にも破邪顕正しろとかいって教えているから他人のことをいえませんよね。

親鸞会は釈尊の教えに背き、勝手に高森教をつくったといわれてもしかたないですね。

>真宗学ではなく清森式「唯識学」なんだから

詳しく説明してください。説明できなければただの言いがかりに過ぎませんね。
中根氏と一緒くたにしているあたり、悪意に感じますが、それはあくまでも会員向けのプロパガンダであって、高森氏の過去を知ってしまった脱会員にとっては高森氏も中根氏も所詮は五十歩百歩の存在に過ぎません。

言葉にならない言葉

親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされたわけですが、それは親鸞聖人が受け取られた信心に基づき経文を読んだ結果得られた解釈です。

『無量寿経』から言えないことを、『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないと思います。

もっと厳しいことを言うならば、高森先生が漢訳原文を引用していながら、実際には漢訳原文は読んでおらず、親鸞聖人の読み方を採用している浄土真宗系の「書き下し」に基づいて論じているから、このような初歩的な誤りをしてしまうのではないかと思います。

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4月2日コメントの方へ

コメント拝見しましたが、メールアドレスを確認できませんでした。
メールアドレスだけ再度コメントしていただくか、QWN01215@nifty.ne.jp宛にメールを頂けますでしょうか?
匿名で構いません。よろしくお願いします。

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