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親鸞会教義の相対化・32

清森義行様



引き続き、『会報』の三巻・四巻に関して述べさせて頂きます。


【1】『会報』vol.3p.31~平等一味の世界(1)

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最後に法然上人の裁決を仰いだ。この時の法然上人の御言葉は実に快刀乱麻を断つ明快なものであった。
「信心の変わると申すは自力の信にとりての事なり、即ち智慧各別なるが故に信また各別なり。他力の信心は善悪の凡夫。共に仏の方より賜る信心なれば、源空(法然)が信心も善信房(親鸞)の信心も更に変るべからず、ただ一つなり、我が賢くて信ずるに非ず、我が賢くて信ずるに非ず、信心の変りあうておはしまさん人々は、我が参らん浄土へはよも参りたまわじ、よくよく心得らるべきことなり」
私の信心と異なるということは自力の信であるからだ。とてもお師匠さまの信心と同じになれぬ、師と弟子の信心は違ってこそ当然だ、と主張していた聖信房や、念仏房、勢観房に対して、お前らは未だ他力の大信心を知らないからだ、と叱りつけ、自力の信心は各自の智慧、才覚や学問で創造する信心だから、平等一味になれる筈がないのだ。即ち智慧各別だからだ。それに対して他力の信心は、善人も悪人も智者も愚者も共に偏えに阿弥陀仏より賜る信心であるから、異なる道理がない。
「この法然の信心も弥陀より賜ったもの、親鸞の信心も同じく弥陀から頂いた大信心であれば、全く一つであるから、一味平等の世界である。この法然が特に賢くて、その智慧で造った信心ではないのだ。だからこの法然の信心と異なる信心の者は、みな自力の信であるから、この法然と同じ浄土へはゆけないぞ。この信心獲得できずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在するのだから、信心の異なる者はもっての外の一大事といわねばならない。よくよく思案をせられよ」
当に生死の大問題、相手の顔色もみず、真実他力信仰の世界を喝破なされている。聞く者、総て驚嘆したと『御伝鈔』には記されている。
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所謂「信心同異の諍論」の話です。

とりあえず『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱うかどうかの問題は置いておきますが、高森先生が引用されているはずの『御伝鈔』の原文を見てみると、

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第七段
上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。
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「極楽には往生せずして無間地獄に堕在」するとは、法然上人は仰っておられません。

高森先生のお書きになった「快刀乱麻を断つ明快な」法然上人の御言葉は、覚如上人が『御伝鈔』にお書きになったものではありません。

高森先生が「他力の信心を獲得していない人は無間地獄に堕在する」と思うのは勝手ですが、その発言の責任を法然上人や覚如上人に押しつける行為は大いに問題だと思います。



【2】『会報』vol.3p.55~宿善(2)

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よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
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これは本当に『和語灯録』に基いた記述なのでしょうか?

私はこのような記述を『和語灯録』で読んだ記憶がなかったので、確認のために全文読み直したのですが、やはり見つけることができませんでした・・。


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人の心は頓機漸機とて二品に候なり。頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、最後には必ずお参りすることができるのと同じように、浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。
>>>


『和語灯録』において「頓機」「漸機」について言及する用例は、私の調べた限り以下のものだけだったのですが、高森先生の述べられる内容とかなり異なっているようです。

高森先生は人の機根を頓機・漸機で差別するように語っていますが、法然上人は信心の弱さを嘆く人に、往生を諦めないように励ましておられます。

これは、「親鸞会教義の相対化・29」の「§1信心の弱さを嘆く人へ」で私が挙げた用例に通じるものです。

清森問答をご覧になっている方の中には、高森先生や親鸞会教義を擁護する立場の方も沢山おられますから、上記の高森先生の説に一致する『和語灯録』の記述があるのであれば、ぜひご教授いただきたいものです。



【3】『会報』vol.4p.79~善知識(17)

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そのことは法然上人が神の不拝を非難せる者に反撃された『一向專修七箇条問答』にも記されている。

「第一に神を信ぜざること甚だもって無道なり。それ我朝は神国として霊験いまにあらたなり。天照大神の御子孫として国のまつりごとをもって世を治め給う。神の威光あらたにして人の心もたけきが故に他国大国よりも撃ちとられず、神の守護し給う故、仏法も繁昌する我朝なり。いかでか神を用いざらんや。この不審をあきらめずば専修の行を破すべし。いかん。専修の行者はことに神を敬い奉ること、その志深し。ただ、神に於て二種の神あり。一には権社の神、二には実社の神なり。実社の神と申すは或は人の生霊死霊の魂、或は畜生の魂、かやうのもの、をほく人をおかし悩すことあるを神とあがめて、やしろを作り、或は今宮、わかみやなんどあがむる神のたぐひなり。この実社を崇め信ずれば今生に諸病を身にうけて、病のゆかに年月を送り、蛇道に堕つること七百生なり。かるが故に実社の邪神をば信ぜざるなり」
これらによっても判るように法然上人は実神の神は徹底的に排斥されている。
>>>

この記述を読む限り、高森先生や親鸞会の教義と法然上人の言葉が一致することになります。

しかしこの『一向專修七箇条問答』という文献が、本当に法然上人が書かれたものであるかどうかは、

1)醍醐本『法然上人伝記』、『西方指南抄』、『黒谷上人語燈録』という、法然上人の主要な遺文集に収録されていない。
(※)
2)『四十八巻伝』のような法然上人の言葉を網羅した文献にパラレルとなる部分が存在しない。
3)写本が室町末期に書写されたもの二本しか伝わっておらず、文献学的に「本物」と言える根拠がない。
4)『昭和新修法然上人全集』でも、上記の理由から「伝法然書篇」に収録されており、アカデミックな立場から法然上人の言葉として取り扱うことは認められていない。
5)親鸞会教義の相対化・1(質疑応答33)で紹介した、法然上人の言葉である可能性の高い文献から導き出される結論と、異なった内容である。

以上の理由により、極めて疑わしいです。

私は、自分の主張の正当性を主張するために法然上人の名前を語って捏造した可能性のある文献に基づく見解ではなく、法然上人の言葉である可能性の高い文献から導き出された見解を採用します。

『一向專修七箇条問答』に書かれた記述を法然上人の言葉として主張するのであれば、上記1)~5)に論拠を挙げて反証しなければなりませんね。

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※法然上人の遺文について

以前、法然上人の遺文について整理しましたので、それを転載させていただきます。

参考文献
・中野正明『法然遺文の基礎的研究』
・安達俊英『御法語の背景ー法然上人典籍研究』(1)(2)(浄土宗宗報所収論文)


法然上人の遺文の出典は、大半が法然上人没後に書き写されまとめられたものです。

したがって「確実に法然上人の遺文である」といえるものは、
1)自筆の原本が残っているもの

※とても少ないです。以下の六点だけです・・。
・廬山寺本『選択集』冒頭の二十一文字
・一心院蔵「一行一筆『阿弥陀経』」の「佛子源空」の一行
・二尊院蔵『七箇条起請文』の中の「源空」の署名と花押
・清涼寺蔵『熊谷直実宛書状(五月二日付)』
・興善寺蔵『正行房宛書状』断簡三通
・金戒光明寺蔵『一枚起請文』

2)『選択集』のようにその当時から一般に認められていた文献

だけということになって、
それ以外の大半の遺文は、多かれ少なかれ偽撰の可能性があることになります。

したがって法然上人の遺文を取り扱う場合は、真撰か偽撰を判断することが、非常に大切になってきます。

これには、絶対的な基準はありませんが、一応、次のような二点が、比較的有効な基準として、一般に認められているようです。

1)遺文が所収されている文献の成立や伝来が確かであるか否か?

醍醐本『法然上人伝記』、『西方指南抄』、『黒谷上人語燈録』の三つの遺文集は成立時期が早く、しかも比較的古い時代にさかのぼりえる。
写本・刊本が現存しているので、そこに所収されている遺文は、かなり信憑性が高いと言えるようです。

それに対して、成立の新しい法然伝にのみ見られる遺文や、単独で伝えられてきたような遺文は、伝承が不確かなので、法然上人のお言葉でない可能性が高くなってきます。

2)内容的に法然上人の教えと相違していないかどうか?

その文献に書かれている内容が法然上人の教えと大きく異なるようであれば、それは法然上人の言葉でない可能性が高いということになります。

ただし、この「法然上人の教え」という基準は、主観的要素によってかなり左右されますので、この基準でもって真撰か偽撰を判定するのは、かなり危険を伴うと思います。

例えば『七箇条起請文』(※※)のように偽撰説が出されながら、結局、真撰であることが証明された文献も存在します。

※※注・・『一向專修七箇条問答』とは全然別の文献です!一応念のため。

だから、その内容が遺文全体において、相当に法然上人の教えと異なり、またそのことを多くの人が承認しているのでない限りは、そう簡単に「偽撰」を主張すべきではないと思います。

安易に「偽撰」の主張してしまうということは、結局は、自分の見解に合致しない遺文を排除するだけであって、そのような方法に基づいてうち立てられた法然上人像というのは、相当恣意的なものになってしまって、真の法然上人からはかけ離れてしまう可能性があるからです。

それに法然上人の教えは対機説法ですので、かなり幅があると思います。

ですから、僕は、醍醐本『法然上人伝記』、『西方指南抄』、『黒谷上人語燈録』などに収録された遺文に関しては、全体的に非法然的でない限りは、とりあえずは、法然上人の遺文として取り扱うのがよいのではないかと考えます。

少なくとも上記三つの遺文集に収められた遺文に関しては、法然上人滅後、そう長くない時代の法然門流の人たちが、宗祖法然上人の遺文と判断して所収されたわけですから、僕達の主観的判断よりは、その事実の方を尊重すべきなんじゃないかなとも思います。

しかしそれでも、偽撰の可能性を考慮に入れておくことも必要ですが・・。


【醍醐寺蔵『法然上人伝記』(『醍醐本』)】

●特徴
この遺文集は大正年間に醍醐寺三宝院で発見されたので、『醍醐本』と言われます。
桃山時代から江戸初期にかけて活躍した醍醐寺座主義演上人が、醍醐寺聖教の書写・整理事業を行った際、原本を弟子に書写させたものが、現存する『醍醐本』です。

醍醐寺は真言宗ですから、あまり重要な文献と見なされず内容を十分理解しないで、書写したみたいで、誤字・脱字・文章の順番間違いなんかがいっぱいあって、決してよりテキストとは言えません。

そんでも、重要でないおかげで、逆に恣意的な改変が加えられた可能性が少なく、また機械的に原文を写しているから、字体も鎌倉時代の趣を残しているらしくて、かえってテキスト自体の信憑性は高まっているみたいです。

●成立時期
『臨終日記』の後に、「上人入滅以後、三十年に及ぶ」とあるので、法然上人入滅後三十年(1242)前後の編纂とみなせ、長らく最も古い法然遺文集と考えられてきました。

ところが、近年編纂の上限が滅後三十年と言えるに過ぎないということが、明らかになってきました。

※『黒谷上人語燈録』の解説参照

そうすると、文献の編集自体は、必ずしも三つの遺文中、最古ではない可能性も出てきたわけです。


【『西方指南抄』】

●特徴
なんといっても親鸞聖人の自筆本(高田専修寺所蔵、国宝)が現存してます!!

かつては親鸞聖人がしたためられた真宗系の文献ということで、浄土宗では敬遠されたのですが、戦後になって伝来が確かで、しかも三つの遺文集の中では最も古い写本を有しているということから、浄土宗でも、これこそ信頼できる遺文集であると評価されるようになりました。

ただし、一部には恣意的な変更を加えたのではないかと思われる箇所もあり、ほかの遺文集に同内容がある場合などは、それらもあわせて見ていくのが望ましいです。


●成立時期
各巻の奥書には「之を書(写)」し終えた年月が記されており、最も早い「上末」の巻が康元元(1256)年10月13日、最も遅い「上本」の巻が康元二(1257)年1月2日となっています。

したがって成立年代は疑いありません。

ただし以下の二つの可能性があります。

1)親鸞聖人が編纂した・・この場合は編纂者・編纂年次ともに明確

2)親鸞聖人は書写しただけ・・この場合は編纂者・編纂年ともに不明※ただし、康元元(1256)年10月13日以前に
成立したことは言える。



【『黒谷上人語燈録』】

●特徴
浄土宗三祖良忠上人の弟子の一人で、三条派の祖である了恵道光上人が編纂した法然上人の遺文集です。

法然上人の末流は多岐におよび、それぞれが好き勝手な教えを説いていて法然上人の真意が定め難くなっているので、もう一度上人の教えに立ち戻るべく、法然上人の法語を集めて浄土往生への「燈(ともしび)」にしようという意図で編纂したものです。

したがって、編纂の意気込みは半端じゃなくて、遺文を網羅的に収集して、しかも慎重に真偽の判断を下して、真撰の遺文のみを収録しようとしています。


●成立時期
文永十一(1274)年から翌年にかけて、もしくはその前後と考えられています。

●「大徳寺本」の発見

※梶村昇・曽田俊弘「新出『大徳寺本拾遺漢語燈録』について」
(『浄土宗学研究』第22号、1996年)

近年、滋賀県の水口町の水口図書館に、江戸時代中期、元禄十五(1702)年書写の写本が所蔵されていたことが判明しました。

この写本はもともと安土の浄厳院に所蔵されていた『拾遺漢語燈録』を、当時の浄厳院の住職である恩哲上人が書写し、後に浄厳院末寺の大徳寺の所蔵を経て、水口図書館にもたらされました。

この「大徳寺本」の発見で、一つ明確になったことがあります。それは「醍醐本」に記されていた「上人入滅以後、三十年に及ぶ」という文言と同内容の文言が、「大徳寺本」の『臨終日記』にも記載されており、

しかもその文言が「大徳寺本」では『浄土宗見聞』(「醍醐本」では『一期物語』に当たる)と『臨終日記』の二つの文献にのみに関して述べられたものであると見なせることから、

法然上人入滅後三十年に成立したのは『浄土宗見聞』(『一期物語』)と『臨終日記』であって、「醍醐本」そのものではないということです。

したがって「醍醐本」の成立は、それより後のことになるわけです。


ということで・・

★法然遺文で『醍醐本』が一番古いとは、必ずしもいえません。

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【4】『会報』vol.4p.79~善知識(17)

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上人流刑の命を受けて、まさに京都を出発される際も、一人の門弟に対して一向専念の説法を諄々となされていた。
その時、西阿という弟子が、おこしにとりすがって「もしお師匠さま、この際のことでございますから、たヾ一言雑行を許すと仰有って下さることは出来ますまいか」と申し上げると上人は、「汝、経釈を見ずや」と叱りとばされている。重ねて西阿が「なる程、経釈はその通りでございますが、世間の機嫌を思うばかりでございます。」と申し上げると上人は何時になく激怒なされて「われ、たとい死刑になるとも更に変わるべからず、若し雑行を許すならば、法然一身の安楽の為に如来大悲の御苦労を水の泡には出来ぬ。釈尊の一切経を反古にはせぬぞ。駛路はこれ聖者の行くところなり。謫所はまた権化の住処なり。愁とするに及ばず。辺鄙の群衆を化せんこと莫大の利生なり」と喝破なされ、遠流に処せられたという。

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これはちょっと細かいことなのですが、『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていませんね。これなら問題はありません。

ただその場合は、「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」で指摘したようなエピソードが、なぜアニメ製作の段階で捏造されたのかが、問題になります。

高森先生がアニメの脚本を書かれたのであれば、高森先生の中に何らかの思想変遷があったことになりますし、別の方によって脚本が書かれたのであれば、高森先生の『会報』にもないエピソードを、その方が新たに捏造したことになりますね。

この謎の解明は門外漢の私では不可能ですので、何かご存じの方がいれば、ぜひ教えて頂きたいと思いますね。

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COMMENTS

No title

ふと検索に引っかかったので拝見させて頂きました。
見てて一方的に過ぎ、看過するに耐えないので僭越ながらコメントを書かせて頂きます。


一例は文末の西阿の件ですが、「西阿が破門された根拠が無いではないか?捏造だ」等と仰っておられるようですが、本来貴方が「西阿が破門されていない事」をあなたが証明するべきではないでしょうか。
門外漢と仰っているのにその件に関して「捏造」等と記載するのはいかがなものでしょう。

しかしながら、こうも思うのです。ここで西阿が破門されたかどうか自体重要な問題でしょうか?
我々の救いと何か関係がありますでしょうか?
むしろ法然上人が死刑になっても曲げてはいけない事が仏法であると
ハッキリ仰っている事の方がより重要に思われますが・・・?
この点についてはいかがお考えでしょうか。
高森先生と同じ立場かどうか?


漸機頓機の話ですが、いったいどの辺りが差別と言われるのでしょうか?
私には根拠と会報の内容が言葉変えただけで同じ内容に思われたのですが。
「頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである」
と書いてますので、頓機は聞法心厚く早く救われ、漸機の者も弱い心ながら
聴聞を繰り返しようやく弥陀に救われるのですから差別には当たらないと
思いますが・・・?
「漸機は助からん」と書いてあるのであればまだ分かるのですが
どの点が差別に当たるでしょうか。
ご教授願います。


冒頭の信心同位の諍論にしたとて同じ。
ここで重要なのは弥陀の救いとられると信心が一味平等になるという
事であります。
この点については高森先生と同じ意見でしょうか、また異なるでしょうか?

そしてご主張の無間地獄に堕するかどうかですが。正直高森先生の仰った
心は私もはっきり分かりませんが、おそらく訳するに当たって蓮如上人の
御文章の1節を想起されたのでしょう。
蓮如上人は何箇所か信心を取らなければ無間地獄に堕ちると御文章で仰っております。
しかしながら、たとえ仮に無間地獄に堕しなくとも、
「涅槃経」にある通り、
地獄に堕ちる物は十方世界の土の如く、人間に生まれる者は爪の上の土の如しです。
現在の世相を見るに殺生をしていない人はいるでしょうか?
牛や豚を平気で殺しむさぼっているではありませんか?
人間同士の間柄でさえいがみあっているのですから、地獄行きの相が見えるようではありませんか。
一番苦しみの浅い等活地獄ですら人間の苦しみと比べるべくもありません。

ならば罪悪をかかえた私達の後生は一大事です。
無常は迅速なのですから、我々には浮生を貪り、
悪戯に「救われる為の教え」の正邪以外の部分論議している暇などありません。
お互いに一刻も早く弥陀の救いに遇う事を念じます。
南無阿弥陀仏

No title

 横レスですので、無視して頂いても構いません。

>①
>一例は文末の西阿の件ですが、「西阿が破門された根拠が無いではないか?捏造だ」等と仰っておられるようですが、本来貴方が「西阿が破門されていない事」をあなたが証明するべきではないでしょうか。


 こういう意見を読むと、ある団体を想像してしまうのですが、その団体にはこういう論法を使う人が多いです。



 例えば、「・・・ 」氏は、某団体のネット対策だと、私が本に書いて出版したとします。

 おそらく「・・・」氏は、「私が某団体のネット対策員である証拠がないではないか?捏造だ」と仰ると思います。

 本来、「・・・」氏が「某団体のネット対策員ではないこと」を証明するべきではないでしょうか?

 つまり「・・・」氏が某団体のネット対策員でないことを証明できない限り、「・・・」は某団体のネット対策員だといくら書いても良い、そういうアニメを作って販売しても良い、ということになります。


 もっと極端にいえば、親鸞聖人が、殺人をしていなかったと証明することは出来ません。だからといって、親鸞聖人が人を殺しているアニメを作ってよいでしょうか?

 そんなアニメが出回っても、「親鸞聖人が人を殺していないことを証明せよ」と言われて出来るでしょうか?

 私は、投稿者ではありませんので、あくまで思ったことを書かせて頂きました。

No title

横レスです。


>「涅槃経」にある通り、
>地獄に堕ちる物は十方世界の土の如く、人間に生まれる者は爪の上の土の如しです。


「爾の時に世尊・地の少土を取つて之を爪上に置き迦葉に告げて言く、是の土多きや十方世界の地土多きや、迦葉菩薩・仏に白して言く、世尊・爪上の土は十方所有の土に比べず善男子・人有り身を捨てて還つて人身を得・三悪の身を捨てて人身を受くることを得・諸根完く具して中国に生れ正信を具足して能く道を修習し道を修習し已つて能く正道を修し正道を修し已つて能く解脱を得・解脱を得已つて能く涅槃に入るは爪上の土の如く、人身を捨て已つて三悪の身を得・三悪の身を捨てて三悪の身を得・諸根具せずして辺地に生じ邪倒の見を信じ邪道を修習し解脱常楽の涅槃を得ざるは十方界の所有の地土の如し」(涅槃経三十三)

 正確に訳すならば、

「人間に生まれ、仏道を修し、涅槃に入れるものは爪の上の土の如く、諸根を具せずに、辺地に生まれ、涅槃に入れないものは、十方世界の土の如し」

 このように書くべきでしょう。

No title

>・・・

これちゃんと読んでるの?


親鸞会教義の相対化・24
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html

常識的に考えて、AさんがBさんを泥棒の罪で訴えた場合、Aさんに「Bさんが泥棒をした」ことを証明する義務があります。
立証責任を果たさないままAさんが、「Bさんが泥棒をした」と主張するならば、Aさんは、「虚偽・捏造を行った人物である」と言われても反論できません。

同様に、「西阿が法然上人に破門された」ことを裏付ける資料がないにも関わらず、ある人物や団体が、「西阿が法然上人に破門された」と主張した場合は、その人物や団体は、「虚偽・捏造を行った」と言われても反論できませんね。


親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-71.html

【2】流刑と西阿の破門

ビデオ三巻に、法然上人・親鸞聖人の流刑と、それに伴って、西阿が法然上人に説法を控えるように進言して、破門されるエピソードが書かれています。

ところで、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1,
門弟等なげきあへる中に、法蓮房申されけるは、住蓮安楽はすでに罪科せられぬ。
上人の流罪はたゞ一向専修興行の故と(云云)
しかるに老邁の御身、遼遠の海波におもむきましまさば、御命安全ならじ。
我等恩顔を拝し厳旨をうけ給ことあるべからず。
又師匠流刑の罪にふしたまはゞ、のこりとゞまる門弟面目あらんや。
かつは勅命なり、一向専修の興行とゞむべきよしを奏したまひて、内々御化導有べくや侍らんと申されけるに、一座の門弟おほくこの義に同じけるに、

上人の給はく、流刑さらにうらみとすべからず、そのゆへは、齢すでに八旬にせまりぬ。
たとひ師弟おなじみやこに住すとも、娑婆の離別ちかきにあるべし。
たとひ山海をへだつとも、浄土の再会なんぞうたがはん。
又いとふといへども存するは人の身なり。なんぞかならずしもところによらんや。
しかのみならず念佛の興行、洛陽にして年ひさし、辺鄙におもむきて、田夫野人をすゝめん事年来の本意なり。
しかれども時いたずらして、素意いまだはたさず、いま事の縁によりて、年来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし。
此法の弘通は、人をとゞめんとすとも、法さらにとゞまるべからず。
諸佛済度のちかひふかく、冥衆護持の約ねんごろなり。
しかればなんぞ世間の機嫌をはゞかりて、経釈の素意をかくすべきや。
たゞしいたむところは、源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるがゆゑに、常随守護の神祇冥道、さだめて無道の障難をとがめ給はんか、命あらんともがら、因果のむなしからざる事をおもひあはすべし。
因縁つきずば、なんぞ今生の再会なからんやとぞおほせられける。


2,
まだ一人の弟子に対して、一向専修の義をのべ給に、御弟子西阿彌陀佛推参して、かくのごとくの御義ゆめゆめ有べからず候、をのをの御返事を申給べからずと申ければ、

上人のたまはく、汝経釈の文を見ずやと、

西阿申さく、経釈の文はしかりといへども、世間の機嫌を存するばかりなりと、

上人又の給はく、われたとひ死刑にをこなはるとも、この事いはずばあるべからずと、
至誠のいろもとも切なり。見たてまつる人、みな涙をぞおとしける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


以上が、法然上人の伝記でも一番代表的な『四十八巻伝』の三十三巻で、住蓮・安楽が死罪になった際のエピソードです。

專修念仏の布教を控えるように進言する西阿に対し、
「我、たとい死刑に行なわるとも、この事いわずばあるべからず」
とお答えになられ、專修念仏を広めるためには、自らの命をも惜しまなかった法然上人ですが(2)、

専修念仏を控えるように進言したのは、西阿だけに限らず法蓮房も進言されています(1)。
そして、それに対してその苦難さえも、喜びにかえられ、浄土での再会が間違いのないものであることを弟子逹に説いて、力強くも優しさに溢れた法然上人がそこにいます。

この『四十八巻伝』の伝承のうち、法蓮房のエピソードは『琳阿本』『古徳伝』『九巻伝』『十六門記』といった、別の法然上人の伝記にも共通部分が存在しますし、西阿のエピソードは上記の諸伝記に加え『醍醐本』にも存在しています。

しかし、これらの伝記類のどこを見ても、法然上人が西阿を「立ち去れ!」と破門したというエピソードは存在しません。

いったい、このエピソードの典拠はどこにあるのでしょうか?

親鸞会の教義に会わせて、新しく作ったエピソードを、歴史的事実のように語っているとしたら、非常に問題があるのではないかと思います。

私は部外者なので、率直に申し上げますが、高森先生を法然上人に投影して頂くのは別にかまいませんが、高森先生の人柄を法然上人に投影し、法然上人を不寛容で排他的な人物像にするのは、私のように、日頃より法然上人の言葉にも伝記にも親しんでいる者から言わせれば、はなはだ迷惑であり、絶対に許し難いものがあります。

信憑性のある資料に基づいて語られる、より史実に近い法然上人は、親鸞会の映画のような不寛容で排他的な人物でないことは、この機会に、はっきりお断りしておきたいと思います。

遅くなり申し訳ありません

諸事象により返信が遅れました事をまずお詫び申し上げます。

>1つ目の横レスについて
議論するに値しない内容です。
私がどこぞやの組織のネット対策員かどうか?
それは断じて否ですが、仮にそうだとして何か私の
主張の意味が変わるのでしょうか?
ただ仏教を信奉する一真宗人として物を申しているのみです。

ましてや「親鸞聖人が殺人を犯していないこと~」といったあまりに乱暴な
物言いは、正直人間としての程度を疑わずにおれません。
「仏教の、親鸞聖人の教えに基づいて、それを布教する為」の
アニメではありませんか。
好んで殺生をするアニメなどどうして作れますか?
仏教のアニメと言えますか?そんなシーンどこかにありましたか?
これでも分かってもらえないようであればつきあいきれません。
論外です。

あなたも意見するなら私の質問に答えて頂きたかった。
一方的なコメントですね。私はこれで返事しましたよ?

>2つめの横レスについて
そこではないです。根拠を挙げましょう
「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、人間に生まれる者は爪の上の土の如し」
(涅槃経)
読んだままでしょう。

>3つめのコメントについて
この方が投稿者なのでしょうか??
あいにくですが、他の記事に関しては読んでおりません。
西阿が破門されたかどうかの是非はさておき、あなたの仰るその理論
でもアニメに説明責任があるとは到底思えませんが?
歴史教育アニメならば苦情も出てくるでしょうが、あいにく目的が違います。

教理にかない、仏教を明らかにする目的が果たされておれば
問題ないのではないでしょうか。
捏造というのは悪意ある言葉です。読んだ人が危険に感じ警戒するでしょう。
軽々と使われるのは不適切、無責任と言わざるを得ないのではないでしょうか?

更に言えば私は高森先生を法然上人に重ね合わせた事は一度も
ありません。
勝手な想像で物を仰ると物笑いになりますよ。
法然上人は確かに慈悲深いお方である事はよくよく存知しております。
親鸞聖人も7高僧(釈尊入滅以後の7人の浄土教の高僧方)にあげられており、
真宗人は朝晩にお勤めの際は「本師源空明仏教」(正信偈)と法然上人のご恩をしのんでおります。

ただ、知恵の面でも優れたお方である事を知って頂かなければなりません。
お釈迦様も破邪顕正しない者は仏弟子ではないと言われております。
「僧にして法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、更に呵責駆遣せざる者は
 、この僧は、これ仏法中の怨なり。若し、よく駆遣呵責せば、これ我が
真仏弟子なり。」(涅槃経)

仏教は六道輪廻しておる私達を解脱せしむる唯一の教え。
それを曲げよと言う者はたとえ弟子でも、いや弟子の影響力を考えればこそ
ハッキリ厳しく破邪せずにおれないでしょう。もし西阿が法然上人亡き後に
「一向専修でなくても良い」と説法すれば、
少なくとも浄土宗の人々の信仰の惑いにもなるでしょう。
当然、法然上人としても頭にあったはずです。
「知恵第一の法然房」と言われる程の方です。破邪の激しさは推して知るべき
ではありませんか?またそうでなければならないのです。
間違いを知らされるのは、叱られるのと同様に苦しい事です。
しかしそれは無上の幸せに導く為には、誤りを厳しくもはっきり言わねば
ならぬのです。
それは慈悲に裏付けられた知恵がそうさせるのです。
それを非寛容だとか、排他的だとかなんですか。。。情けなくなるではありませんか。
かの有名な大原問答では聖道諸宗を一蹴しておられるではありませんか。
もし平和主義、敬遠主義をとっておられ、
「あいつら間違っておるが、まあ放っておけばよかろう」と放置されたならば、
あの大原問答はありえないのです。

しかしあなたも教義的な面については一切お答え頂けないのですね。
嘆かわしい。
西阿が破門されたかどうかはそこまで重要な問題でしょうか。
それよりも「救われる為の教え」が正しいか否かが重要ではないですか!
悪戯事ではありますが、私もまじめに回答しました。
あなたも私が質問申し上げた以下の三点についてまじめにお答え下さい。

①仏法は死にそうになったら曲げて伝えてもよいのか否か
②会報の漸機頓機の文章がなぜ差別にあたるのか
③阿弥陀仏に救われると信心が同じになるか否か。

分からないなら「分からない」と書いてくだされば結構です。
会話をする上での最低限のルールを守られないコメントは申し訳ないですが、
今後返事を申し上げません。あしからず。

あのね~

ましてや「親鸞聖人が殺人を犯していないこと~」といったあまりに乱暴な
物言いは、正直人間としての程度を疑わずにおれません。
「仏教の、親鸞聖人の教えに基づいて、それを布教する為」の
アニメではありませんか。
好んで殺生をするアニメなどどうして作れますか?
仏教のアニメと言えますか?そんなシーンどこかにありましたか?
--------------------------------------------------------------
あのね~、横レスさんは論理の誤謬を浮き彫りにするために、
あえて極端な喩え(決して「実例」ではありません)を出したにすぎません。
その喩えによって何を明らかにしようとしたかが本質であって、
その喩えが非現実的であることや極端であることは本質ではありません。
(そんなことぐらい第三者である私が読んでも分かることです。)
そこをもっとよく汲み取るべきです。
読者に最低限の読解力・的確な理解力がなければ、まともな議論は不可能です。

No title

>あなたも意見するなら私の質問に答えて頂きたかった。
>一方的なコメントですね。私はこれで返事しましたよ?

 誰かが書いてくれていましたが、殺人云々は貴方のロジックが間違いであることを示すためも喩えです。実際にそんなものを作るという話はではありません。

>そこではないです。根拠を挙げましょう
>「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、人間に生まれる者は爪の上の土の如し」
>(涅槃経)
>読んだままでしょう。

 こんな言葉は涅槃経にありません。

>①仏法は死にそうになったら曲げて伝えてもよいのか否か
 →良くない。
>②会報の漸機頓機の文章がなぜ差別にあたるのか
 →分からん。
>③阿弥陀仏に救われると信心が同じになるか否か。
 →同じになる。

 あなたは涅槃経の言葉を曲げていますが、死にそうなのですか?

No title

>斜めレス

ですので、ありえない喩えを言われても困ると言っているのですが?
仏教の教えに合致しないアニメを作る事はないでしょうし、そんなアニメなら
世人の目にも留まらないでしょう。
こういった点を踏まえた上で、ありえる喩えで
「西阿が破門されたように描写された事が具体的にどう問題があるのか」
教えていただきたい。
更に言えば特に殺人等あげるのはなんとも下品でしょう。悪意も感じます。
なので人間としての程度が疑われるのです。
これでも理解いただけないのであればもはや議論の余地はないでしょう。

>横レス

先ほどあげたご文に関しては、つて聞きの物を
ノートに書いた物でして、間違いがあったらならば取り消します。
なにぶん大乗涅槃経は大部でもありなかなか個人で所持できるもので
もありません。
確認のしようが無く、申し訳ありません。

①、③については私もまったく同感です。
②がお分かりでないとなれば、どうして投稿者は差別があると仰ったのか。
そもそも皆頓機であれば仏教を求める苦労もないのです。
一座のご説法で弥陀の本願を正しく説かれるを聞いて救われる人もおれば、
千座万座聞いて救われる人もいる。
衆生の根機は千差万別、億差兆別です。
差があるのは当然ではないでしょうか?
著者はそれについてどうお考えなのか・・・
一緒に聞いてみようではありませんか。

今後なるべく投稿者以外からのコメント(当然今回のコメントに関するレスは除きますが)は控えて頂きたいと思います。
①~③について当事者にお話させていただかないと話が進まない為です。

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