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質疑応答92

【質問】


質問(3)

 親鸞会教義の相対化・31において、「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」という言葉は、『般舟三昧経』には存在しないことを教えていただきました。
 さて、同じく『般舟三昧経』において、「故に善知識があったら十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬って、身肉手足をも供養すべきである」と説く箇所は存在するのでしょうか?また、存在するのでしたら前後の文脈も含めて教えていただけますでしょうか。
 また、このような自力聖道門の教えを浄土門に適用してそのまま教えることについては許されるとお考えでしょうか?



【回答】

 浄土宗僧侶の方に調べて頂きましたので、紹介させて頂きます。

        *         *         *

『般舟三昧経』において「善知識」という言葉が使われているのは、以下の三箇所です。

未曾離於諸佛慈。於佛經中樂行。常隨佛出入。
常在【善知識】邊無有厭極時。
於十方諸佛刹無所適止。悉逮得願行。度脱十方萬民。
大正vol.13,p.904a

何等爲定意。從念佛因縁。向佛念意不亂。
從得黠不捨精進。與【善知識】共行空。
除睡眠。不聚會。避惡知識近【善知識】。
不亂精進。飯知足。不貪衣。不惜壽命。
大正vol.13,p.904b

無有疑黠。無有能呵。自得曉覺意故。
佛黠不從他人待。得【善知識】計如佛。
大正vol.13,p.904c

 これらの用例を見る限り、「善知識があったら十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬って、身肉手足をも供養すべきである」に対応する記述はありません。

 一応、前後も読みましたが「善知識があったら十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬って、身肉手足をも供養すべきである」に対応する記述を見つけることはできませんでした・・。

 ただし、「善知識」が別の言葉で翻訳されているかどうか確認したわけではありませんし、チベット語は不得意で『般舟三昧経』のチベット訳を確認できていませんので、断言することはいたしません。

 しかし少なくとも、『般舟三昧経』の典拠がきちんと挙げられるまで、この高森先生の説を鵜呑みにすべきでないということは、現時点でも言えるのではないかと思います。

        *         *         *

 以下、清森の意見です。

 上記のように、聖道門の教えでも、本当にそのように説かれているか分かりません。

 善知識と、同行の関係については、すでに述べさせて頂いた通りです。
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COMMENTS

感謝

早速のご回答ありがとうございました。浄土宗僧侶の方にも重ね重ね、感謝の意をお伝え願いたいと思います。

>「善知識があったら十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、その善知識を仏の如く敬って、身肉手足をも供養すべきである」(『般舟三昧経』)

これは、
「こんなことが知りたい1」に出ていたように記憶しており、善知識を仏のように敬い帰依すべし、と教える非常にインパクトある教説でした。
親鸞会の布教使になる決意をされた方においても、この教説が脳裏にこびりついていた方が少なくなかったのではないかと考えています。

>『般舟三昧経』の典拠がきちんと挙げられるまで、この高森先生の説を鵜呑みにすべきでない

そのように思いました。涅槃経の「破邪顕正せざるものは仏弟子にあらず」にせよ、教学テキストで覚えさせられた「三世諸仏 念弥陀三昧 成正等覚 般舟経」にせよ、高森会長にはこのように、経典からの引用がそのままでなかったり、意訳しすぎではないか、と思われる例が多すぎるのではないでしょうか。

親鸞会で教えられている、特に浄土経典以外のお経からの引用による教説に対しては注意が必要ではないかと感じました。

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