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質疑応答93

【質問】


 歎異抄6章の中の「『師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり』なんど言うこと不可説なり」について高森先生は以前アニメ解説(昨年8月)で、

「『人につれて~』の『人』は、善知識に限る」

と仰ったと思います。


 もともとアニメでも信楽房は、他の善知識の元へ行ったようには描かれていない(闇に向かっていった)ですし、アニメの聖人のセリフの

「弥陀の大慈悲に救い摂られれば、広大なご恩を知らされ、信楽房も、やがて、己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」

の「罪の恐ろしさ」という言葉からも他の善知識の元へ行ったとは考えにくいのですが、『人につれて念仏~』の『人』は、善知識に限るのかどうか、ご意見をお聞きしたいと思います。



【回答】


 歎異抄第六章は、親鸞聖人が「善知識の力で救われるのではない、ひとえに阿弥陀仏のお力で救われるのだ」と教えられたお言葉です。

 ですから、この文章を「自分から離れても、別の善知識のお力によらねば助かりませんよ」と解釈するのは、親鸞聖人の御心に反すると思います。

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COMMENTS

そんなこともあったねえ。走り書きを解読して補足。

善知識に背いて、別の(善?)知識について、救われるということはあるのか。
あります。
人の離合集散は縁による。
離れたくなくても離れなければならない時もある。
一緒におりたくなくとも一緒におらなければならない時もある。

それまで教え導いた善知識から離れて、別の(善?)知識から聞いているようでは、救われない。と言う事はない。
縁のある知識があれば、その人について、(今までの知識への)気持ちをすてて聞いても、救われることは阿弥陀仏のお力だから、勿論ある。

ただ、(アニメで)信楽房が、親鸞聖人に対して怒りの気持ちで出て行った。ああいう気持ちのままでいたら、どんな知識にあっても、弥陀の本願は聞けないだろう。それだけは間違いない。

という感じでしたかな。除名について先生との間での真相については分からないけども、この時は清森氏を念じているのかと思ったよ。
寂しそうな感じでさえあったけどね。
師に背いて、別の師についたから、救われないということは、阿弥陀仏のお力だから、ない。このような意味のことを力こめて言われておりました。
先生を嫌いな人は、そんなことは高森にはない。と思うかもしれないが、法友何人もそのような感想を持っていた。
何にしても縁がつきると悲しいものだ。つくべき縁あればつき、離れるべき縁あれば離れるとはいえ。


質問

清森義行様

このブログを大変興味深く拝見しています。
特に、元講師部の方の「私の白道」に注目しています。

ところで、「私の白道」は、6回で終了なされたのでしょうか。
6回目の最後に、「次回は最後にお伝えしたい事をお話します。」とあったので、7回目の投稿もあるのかと思って、楽しみにしておりました。

しかし、3週間近くが過ぎても、7回目の投稿がありません。

そこで、元講師部の方に、もう連載は終了されたのか、まだ続きを書いてくださるのか、確認して頂けないでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

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