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私の白道・8

「私の白道」8
元親鸞会講師部



○高森先生、親鸞会ではどうせよと教えるのか。


 私達は、欲、怒り、愚痴で毎日、心で、口で、身体で悪を造り続けている。また五逆罪、謗法罪という無間地獄へ墜ちる恐ろしい悪業を犯している。だから因果の道理、悪因悪果の報いは免れない。
 後生の一大事(必堕無間地獄)は必ずある。
 救われるには阿弥陀仏の本願以外にない。
 では、どうしたら救われるのか。

 蓮如上人は「五重の義、成就せずば往生かなうべからず」と教えておられる。

  1宿善、2善知識、3光明、4信心、5名号(念仏)

 まず、何より宿善であり、宿善まかせと聞かされた。
 船に乗ったら船頭まかせ、病気になったら医者まかせ。
 宿善は善が宿るともいい、過去世を含む、今までの善行をいう。
 また阿弥陀仏とのご縁、仏縁でもある。
 宿善ある人は、後生が気になる、仏法を尊く思い、聞きたい心のある人と言われる。

  1聴聞、2勤行、3諸善、が宿善厚くなると聞いた。

 諸善は六度万行、色々あるが、例えば布施(親切)の法施は人間出来る最高善である。顕正、ご法話の誘いがこれに当る。
 次に財施、親鸞会にお金を出すのも、すごい善、宿善と教えられた。
 だから親鸞会の人は救われたいと、人集め、金集めに必死になるのは、ここから来ている。
 しかし、これをして助かるのではない、これらは自力の善だから、自力の善では助からない。間に合わぬ。資助にならぬと言う。
 助かるのはあくまで他力、阿弥陀仏のお力によるのだと説く。
 じゃこの宿善、自力の善は何の為にするのかと言うと、獲信の因縁になると言う。
 獲信の因縁?それは何ですかと問えば、獲信しないと頭で考えても分からない、本願寺の勧学でも分からない。
 信心決定なされた高森先生でなければ分からない。
 本願寺との「宿善論争」で本願寺が答えられなかったのが、何よりの証拠でないか、となる。
 間に合わないけど、因縁になる、分からずとも、とにかく助かるには、それをせよ、といわれるのだから、頑張るしかない。
 こう理解しているのだ。長い人ほど強く。

・また、親鸞聖人はどうして阿弥陀仏に救われたのか、二ケ所だけ教えておられる。「雑行を棄てて本願に帰す」と「三願転入文」
 それである。
 蓮如上人はそれを「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と教えられている。18願真実の世界に入るには雑行、雑修を捨てねばならない。
 捨てるには雑行、雑修は、どんなものか知らねば、捨てようがない。
 雑行とは19願の諸善、雑修は20願の念仏、自力の心は二願に共通した心、これで助かろうとする心を言う。
 18願を疑う心、計らい心である。
 19願の心を知るには、本願の通りやってみないと分からない。
 やらずにどうして分かるか。やらねば捨てられない、と教えられた。
 自力一杯求めたことの無い者に、自力無功と知られる筈はないと。

・次に、我々親鸞会会員は、その五重の義の2番目の遇い難い、善知識、高森先生より直接、ご指導賜る世界最高の幸福者。
 文句言わず、宿善が厚くなるよう、世界の果てまで高森先生の御法話に参詣し、顕正に驀進し、家売ってもかまわんから財施に捧げるのだ、惜しむな、時間と金と身体をーーーーハイ頑張ります、
こうなってゆくのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○宿善まかせ--毎月正本堂に参詣、財施、して活動せよ


○宿善を40年求めて知らされたことは

・朝、6時30分に起きてから、夜、12時近くに寝るまでこれだけ活動、自力の善をしていても、善の出来ない自己、助からない自己が見えてくるのか、私には見えなかった。
 やっても、やってもまだ足りない、自力一杯やってないから私にはまだ、自力無功が分からないのだ、まだまだ努力が足りないのだと反省するばかり。自分の影を踏むようなもので、キリがない。
 馬の鼻の先にニンジンをぶら下げて走っている状態です。
 その内、ニンジンが食べられる、自力の善の出来ない地獄一定の自己が知らされて弥陀の救いにあずかるはずだとーーーー予定を立ててやっている。
 しかしそれは違っていた。自力の善には卒業はない、一生求道の道なのだ。
 自力で自力の限界が分かる、と思うことこそ自惚れだ。そんな殊勝なものではないのだ、腹底は。買いかぶるな。
 血で血を洗うことは出来ない。

・「自力一杯求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈はない」
 では、高森先生は仏法聞いて3ケ月で獲信したと聞いたが、いつ19願の善を命がけでやられたのか。聞いたことはない。
 過去世にやって来られた、と書いてきた人があった。都合のいい話だ。先生はそうだと言われていない。

・回りの○百人の講師部員を見て分かる。
 私以上に皆さん努力しているのだ。誰も楽している者はない。
 しかし、20年、30年、40年そうやっていて、「私は自力一杯やって助からない、間に合わないと知らされて20願の念仏へ進み、それも駄目だと知らされて救われましたー」と言った人が無いではないか。
 聞いたことは無い。誰か聞いたか、ゼロなのだ。これが現実だ。


・「19願の入り口にも入っていない」と言われたそうだが、当り前なのだ。出来ないことをしているのだ。

「会報」第5集59Pに書いてある。
「本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはいないといってよいのだ。」「真宗の道俗の中にそのような者は見当たらないから化土往生どころか、必堕無間こそ、間違いのない後生である」
そう書いてある。(「会報」は廃刊になっている。)
 これでは、高森先生は出来ぬと分かっていてやれと言われているのだ。これでは、一生やっても助からない筈だ。努力が足りないから分からないのだと反省しても意味がない。
 目をさませ。
 親鸞会は大きくなっても、一生このままで終わることになる。
 私はハッキリと目がさめた。


・「18願は五つ目のぼたもち、一つ、二つ、三つ、四つ食べてこそ五つ目で満腹するのです。五つ目だけ食べたら、それは一つ食べただけだから満腹しない」と三願転入を手紙に書いてきた人があった。
 うまい例えのように思うが、19願の一つ目のぼたもちさえ食べていない(19願の入り口に入っていない)ではないか。
 その例えを使えば、五つ目のぼたもちは浄土往生、しかしこれは多生かかると諦めて、一つ目のぼたもちを食べることに命をかけてはいないか。
 大講師の人でさえ、観音菩薩の臨終説法の話に感動したのだから。
 後生、地獄さえ免れるなら化土でもどこでもいいという思いになる。
 大沼氏はここを説いていたのだ。
 以前の高森先生はこれを「会報」に厳しく破邪していたが、今は変わってしまった。
 あなたもそれでいいですか。安心して死ねますか。

・皆、矛盾したことを言っている。

 19願の通り、極楽へ生まれたいと思って諸善を心から必死にがんばれと勧めながら、しかし「大無量寿経の「心常念悪口常言悪身常行悪曽無一善」「雑毒の善」「心口各異言念無実」「十悪五逆謗法」が私達の真実の姿です。真の善などかけらも出来ない凡夫なのです」と説法している。
 どっちが本当か、これで、真の心で善が出来るか。絶対出来ないことを知る為に、本気でやれ、など言われて出来ますか。
 迷路にはまって、どこが出口か分からず、善をやってるつもりになったり、出来ない私と思ってみたり、何をやってるのか、分からないのだ。

・M副支部長の疑問

 私が本部長の時「話がありますのでいいですか」と電話があった。
 建立御報謝の財施を募る忙しい時期だった。
「御報謝させて頂いていますが、これで助かるのですか」短刀直入に聞いてこられた。
 私は「これで助かるのでありません。聞いておられる通り宿善となります。獲信の因縁になるのです。」と答えると
「いつもそこが分かりません。お金で頂ける信心とは思いませんが、助かる為に役立つのでしょう、違いますか」
「役立つというのは資助ということですが、そうではないのです。獲信の因縁になるのです」
「何にもならんのなら財施は出来ません。信心決定の役に立つと思いますのでさせて頂きます」と言われた。本部でも財施は常に上位の方でした。

財施=宿善=厚くなれば宿善開発=信心決定

と思うから、惜しまず出来る、と言われるのです。
 会員さんは因縁と資助の違いなど、どうでもいいのです。
 このMさんも急病で亡くなられました。
 当時、ハッキリと答えられなかった自分を本当に申し訳なく思うばかりです。

・Tさんの本音

 30年求めて亡くなられたTさんは生前、「聴聞、財施、顕正、お誘い、活動のすべては宿善と勧められますが、これで助かりたいの心がけが悪いから捨てよと言われますけれど、ではどんな心でやればいいんですか。
 私には分かりません。その心無くなったら求められません。どうしたらこの心、捨てられますか。
「助かりたいと思うから、出来るのでありませんか。宿善厚くなったら助かると思うから、頑張るのでないですか。100万出すか、200万出すか、どっちにするか、この心が決めているんですよ。実際は。」とも言われた。
「私はずっーと(30年)これが気になってきました。悪い心がけを捨てるなんて出来るんですか、そんなこと。私には出来ないですが。支部長はどんな心でしておられるですか」と真剣に聞かれた。
「私も同じです。これを自力の心というのですが、Tさん、この心どうしたらなくなるのか、実は私も困っているのです」と本音を話したら「支部長もそうでしたかー」と言われた事を忘れられない。
 誤魔化して通るところではない。だからこそ、癌末期で私の腕にすがって教えて欲しいと泣かれ、言えなくて申し訳なくで私も泣いたのだ。
 聞いたのも、財施したのも、何の明かりにも、力にもならない、宿善と言われてやってきたことが無力と知らされたTさんの落胆はひどかった。
 自力一杯求めたら、自力無功と知らされると言うが、臨終が先なのです。
 講師の皆さんは、こんな時、どう答えますか。
 会員さんばかりか、自分にも同じことが、やがてやって来るです。

・「消防署の方から来ました」と言って消火器を売りつけた者が詐欺で問題になった。「消防署から来た」とは言ってない、と言い張っても、聞いた人が「消防署から来た」と認識すれば、詐欺なのだ。
「財施は宿善だ、獲信の因縁になる」とは言ったが「これで宿善厚くなる、助かる」とは言っていないと開き直っても「宿善が厚くなれば、助かる、財施は獲信に役立つだろう」と会員さんが思えば、これと同じことでないか。そのように聞く者が悪いと言っていいのか。
「心がけが悪いから捨てよ」どころか、これで何とかしようと思っておられるのだ。あなたも、そうではないですか。

◎「宿善まかせ」の活動を取ったら、親鸞会の発展は無いのが現実であり、会員さんが誤解していようと、どう思われようと活動を勧めているのだ。

 頑張る人には、表彰状を出し、顕真に写真で紹介して褒め上げて、顕正新聞には、高森先生の選ばれた、お礼状が紹介される。
 目標達成出来た講師は講が上がり、講師の見本だ、もっと活動せよと誉める。高森先生、有難うございます、もっと頑張ります、とお礼状を出し、認められたことを喜び、誇りで一杯になる、これで自力無功と知らされますか。

○会員さんの認識、現状

・先日、会員さんと電話する機会があった。

私   「Kさん、美味しい物や本まで送って頂きまして有難うございました。お元気でしたか。」
Kさん  「ハイ、しかし私も歳ですから、いつどうなるやら分かりません。でも今年は親鸞会50周年ですから、頑張りますよ。」
私   「何を頑張るんですか」
Tさん  「高森先生のご恩ですよ、50年も大変なことですよ。歎異鈔の本も出して下さったし、だから聴聞、教学も中々覚えられませんが、頑張りますよ」
私   「高森先生のご恩は大事ですが、阿弥陀様のご恩はどうですか」
Tさん  「あー、阿弥陀様ですか、私みたいな者には分かりませんよ」
私   「お歳でいつどうなるか分からんのなら、阿弥陀様にどうしたら救って頂けるか、そこを真剣に聞かねばならんのじゃないですか。」
Tさん 「そうですけど、私みたいな宿善浅い者、まだまだ無理です、私みたいな者」
私   「じゃあ、どうなったら助けて頂けると思っているんですか」
Tさん 「そりゃあ、もっと聴聞も多く行って、お誘いも、教学もして宿善厚くなって、ちゃんとしないとね。私は出来てませんから、まだまだですよ、私みたいな者は」
私   「阿弥陀様は立派になって、善人になって、ちゃんとせにゃ助けんぞと言われておられるかね。いつになったら、そんな立派な人になれますか。欲は深いし、腹は立つし、愚痴は治らんし、どうしますか」
Tさん 「そりゃそうですが」
私   「Tさん、大変な聞き間違いをしていますよ。いいですかーーー」

 私はそれから30分ほど仏願の生起本末を話した。
 ほとんどの会員さんはTさんのような理解をして求めている方が多いのだ。ウソだと思ったら周りの会員さんに聞いてみれば分かります。


・昨年、30年以上も求めている知人から、私が親鸞会を辞めたと聞いて電話してくれた。話の中で

私   「なぜ阿弥陀仏にこれだけ聞いていても救われないと思う?」
知人  「宿善が薄いから、宿善まかせだから」と即答した。
私   「では正信偈に助からないのは、還来生死輪転家決以疑情為所止とあって疑情、本願疑う心一つとあるけど、どうなの」
知人  「んー、分からん」

 彼は学階は講師なのだが、分からないと言った。
 知識として疑情があるから救われない、信疑決判も知っていました。
 しかし関係は分からないまま、30年近くたっています。
 教えの沙汰、議論がされていないから、気にならないのです。
 ただの知識で止まっています。
 教学は求道の定規と言われていますが、実際はこんなことです。

・30年以上求め、大講師の学階を持つ知人から手紙が来た。
「宿善が厚くなる、信仰が進むとは、善のかけらも無い醜い自己の姿が見えてくるということです。自惚れ強い我々は、微塵の善もできない者、と聞かされてもそんなはずはない、少しくらいの善ができるよ、と弥陀の本願を疑っています。そんな者に真実の自分の姿を知らせるには、善を徹底してやりぬかせるしかない、と弥陀は思われ、19願を建てられたのです」

「唯信抄文意のお言葉を拝読すれば、信心獲得は100年や200年求めて得られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく得られもの、ということが明らかです」

「私には親鸞聖人のみ教えについて話したいことが山ほどある、1対1で法論しませんか」と書いてきた。

 大講師の彼は、善の出来ぬ自己を知るため、自惚れた自己が知らされるから、19願の諸善、活動をするのだといいます。
 では、30年以上やって、どんな自己が知らされたのか、彼の手紙にはそれは書いてありません。
 阿弥陀様の頭の上に登って、19願の願意を解釈して分かったつもりになっているのではないでしょうか。
 今生の獲信などあせらず、華光会に迷ったりせず、どっしりと、三願転入の道、まず19願の善が出来ぬ自分を求めていけばよいのだ、それを根拠を挙げて教えてあげましょう、と自信一杯なのだ。
 親鸞会の真宗聖典に載っている信心数え歌の心が分からないのだ。

「一つ必定地獄と聞きながら  うぬぼれ心にだまされて
 墜つる此の機ということは  ほんに今まで知らなんだ」

「二つ不定の命を持ちながら  よもやよもやで日を送り
 今宵も知れぬ命とは     ほんに今までしらなんだ」

「三つ皆さん後生は大事じゃと 人には云うて勧むれど
 我が身の大事と云うことは  ほんに今まで知らなんだ」

○本願寺からの追求と宿善論争と現実

 本願寺がここを「高森親鸞会では、未信の者は信心決定をめざして今生において善根を積み、宿善を厚くせよと勧める。これは宿善の語義そのものから逸脱しており、当流相承の上には無い所談である」と批判した。
 高森先生は「自力一杯求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません」と反論して「宿善論争」が始まったのだ。
 本願寺は「親鸞会は宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るためにはまず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」と追撃した。

 なるほど、親鸞学徒の手鏡と高森先生の言われる蓮如上人のご文章のどこを読んでも、そのように教えておられない。
 信心獲得章、聖人一流章、当流安心章を読めばハッキリする。
 自力一杯求めよ、の記述はどこにも無い。

 高森先生は「自力の善が資助になるどころか自力無功、捨自帰他ーー
 自力が廃らない限り、絶対に弥陀の本願は判らず、報土往生できないこと開顕し続けて来たのが親鸞会の歴史である」と反論された。
 そして、三願転入のご文を証拠として、19願に善の勧めはある、と言われた。

 しかし現状はどうか。
 正しく理解されているなら、それでは、専門の講師部に獲信者はいるのか。自称獲信者が少し有ると聞くが、なぜ、顕正新聞、体験発表、弁論大会、仏法讃嘆のご縁があるのに、堂々とその喜びを発表しないのだろうか。私は一度も聞いたことがない。
 抑えておれるのか。何時も言ってることと違いませんか。言わずにおれないのが真実の信心だと。
 私は今回のご縁があって有難い限りです。思いっきり書かせて頂きます。



○昔は廃立こそ大事と教えられた。

「会報」4集32P
「古来「教行信証」は三重廃立を開顕せられたものだと言われている。
 事実、三重廃立以外に「教行信証」の教えはないのである。
 まさに聖人が一生の心血を注いで開顕し給うた三重廃立の教えこそ釈迦、諸仏、菩薩、の出世本懐である。「一向専念無量寿仏」を鮮明に徹底させ、濁流滔滔たる現代人を救う最高の指針である。これこそ聖人の精神であり、源流遠く大聖釈尊の真意を伝うるものである」「我々が信心決定して絶対の幸福を獲得するには必ず、この「捨てもの」と「拾いもの」とを明らかに理解して、捨てるべきものは速やかにこれを捨て、拾うべきものは速やかにこれをとらなければ、絶対に救われることはないということである」と書かれている。

1内外廃立-一切の宗教をすてて仏教を信じよ
2聖浄廃立-聖道門をすてて浄土門に入れ
3真仮廃立-浄土他流をすてて真宗に入れ

 特に親鸞聖人が厳しくなされたのが真仮廃立である。
 自力他力廃立とも言い、信疑決判が真宗の命ではないか。
 微塵の疑い、自力の心があっても浄土往生が出来ませんよと教えられた。
「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と蓮如上人も厳しいのだ。

 それが行動に現れたのが親鸞聖人の三大諍論である。

            自力信心    他力信心
1体失不体失の諍論--死んで助かる  この世から助かる
2信心同意の諍論 --皆違う     皆同じ 
3信行両座の諍論 --念仏で助かる  信心一つで助かる


・「笠あげて道連れ招く清水かな」
 18願真実に救い摂られた人は、まだ分からず、迷い苦しむ人を見てじっとしておれないのだ。
 美味しい清水を飲むと「おーい、ここに清水があるぞー、早く来いよー」と叫ばずにおれなくなる。
 オレは一日中、山を歩き回って、やっとこの清水をみつけたのだ、あいつらもオレと同じように、探し回って見つければいいのだ。その内オレと同じように見つけるだろう、など思っておれない。


◎疑惑和讃が23首あり、そこに19願20願の人々の信心について教えておられる。高森先生がいつも根拠に出されるところだ。

そして最後に

真宗聖典258P
「仏智疑う罪深しこの心おもい知るならばくゆる心をむねとして仏智の不思議をたのむべし」
「23首仏智不思議の弥陀の御誓いを疑う罪咎を知らせんとあらわせるなり」
 これが、御和讃をつくられた親鸞聖人の御心、本心なのだ。
 恐ろしい疑情の罪咎を知らせる、三大諍論であったのだ。
 ここまで心を砕かれているのだ。そのように教えられているだろうか。
 宿善の根拠にだけ、していないだろうか。

・阿弥陀仏に救い取られた人は、五劫の願、兆載永劫の修行によって南无阿弥陀仏を成就して、十劫の昔から、聞いてくれ、受け取ってくれと待って待って、待ち尽くしておられた阿弥陀仏の御心が知らされたから、それを疑い、自力の善根功徳を差し向けたり、続かぬ、不安な心で念仏を称えている人を見ると、ほっておけぬのだ。

・「待ちわびて うらむと告げよみな人の
  今日も今日とて 急がざるらん」
 やるせない阿弥陀様の御心だ。


・「八つとて益にもたたぬ雑行や 雑修自力は捨てもせで
  弥陀仏泣かせていたことは  ほんに今まで知らなんだ」

・「弥陀の本願信ずべし本願信ずる人はみな摂取不捨の利益にて無上覚をばさとるなり」親鸞聖人の叫びだ。


「顕正」133P
「我々の先徳は、この信行の戦いの為に流血の惨事の法難をくぐっている。自力の念仏を破って他力真実の信心を示すのは我々に命ぜられた無上の使命である。
--幾度も廃立を先として、唯信独建の仏意を教えても信に惑い、行に迷い易き衆生は、信楽開発することを忘れて、またしても自己の称える念仏をアテ力にしようとするのだ。ただに法然門下に於いて信行の戦いがなされたのみならず、親鸞門下に於いても信行両座の戦いは、現在も絶えず繰り返されているのだ」
と書かれている。

「獲信の記録」これも、廃立で教えてある。

しかし、

◎今は「教行信証化身土巻」に三願転入、19願20願を通って18願へ転入したと親鸞聖人は教えておられる。その通りの道を歩むのだと、教えておられる。多生の目的だと言われる。
 宿善は、諸善のすすめ、これこそ19願の教え、三願転入の教えなのだから、これでいいと、皆思っている。

◎19願、20願は18願への道程なら、19願の諸善、念仏、20願の念仏を称えている法然門下の人の信仰をなぜ問題にされたのか。
 必ず通る道を進んでおられるのだから、励まし、見守っておられていいのではないだろうか。憎まれてまで、なぜ諍論されたのだろうか。
 不思議に思うのは私一人でしょうか。


○三願転入、19願の諸善さえやればいい、が起こす間違い


・財施が宿善になるから

 高森先生のご法話が終わり、高森青年部長(現布教局長)の座談会が毎月行われた。
 財施の話の中で「ワシは自分の車を○○万キロメートル走ってあったが、メータを戻して高く売った」と自慢げに話した。
 これは犯罪行為だ、大変なことを言ってしまったのが分からないのかと呆れてしまった。誰か注意したのか、次回の座談会で最初に「先回の車のことは、自動車屋が車の程度が良いからと言ったからだ」と言い訳した。いつも車はピカピカにしていた。
 それでも自動車屋と共犯に変りない。
 ご法話では因果の道理、善を勧め、宿善が大事と言いながら分かってない、「がめつく儲けて、綺麗に使え」といつも先生が言われている言葉を自分勝手に解釈している。
 親鸞会への財施なら法を犯してもいいと、ご法礼を集めている座談会で言ったことになる。時効であっても責任は重い。


・高額財施の勧め

 母がいつに無く実家へ帰ると、怒っていた時があった。
 聞くと、100万円以上すると高額財施者として高森先生と一泊会食会に温泉に行けるからどうかと支部幹部会員から勧められたと言う。あんな言い方があるか。仏法の為です、と言えばいいのになんで、高森さんの会食が売りものになるのか、親鸞会はおかしな集め方しとるなと言った。お前も講師だけど、そんなこと言ってないだろうな、と釘を刺してきた。


・顕正、入会者のお金の立替

 幹部の人から「うちの支部長はおかしいことをされる。顕正者に今月中に入会して欲しいからと、入会金、会費まで自分で立替えて出すと言われ、却って相手の方から不審がられてしまった。どうして、あせられるのですかね」と言われた。
 目標達成が目的の顕正しているからだ。
 達成こそ大事になってしまうのだ。


・聴聞の目的違い

 本部の教学講義の昼休みに、県の受講者の集合があった。
 各支部の参詣表が出て来て、「今回の降誕会はこの成果でしたが、報恩講にこの目標が達成出来ねば失敗です」と言ったのに驚いた。
 失敗の報恩講になる。
「報恩講に信を獲れ」とスローガンにあるが、実際、講師、幹部はこんな感覚で、人集めの活動していることになる。
 目的忘れた聴聞をしていることになりませんか。
 正本堂、2000畳に座れば、宿善が厚くなると思っているだけなら、とんでもないことになる。

○三願転入の御文は親鸞聖人の歩まれた道です。


・18願を説き切れ、虎の説法をせよ、と書いてある。

「顕正」124P
「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
喩えば、虎の手本を見て虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎でなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵が書けるようになるように手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因ともなるものもあろうが、たゆまずアキラメず、信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に、教家は常に虎の説法をしなければならないのである」

・「本願寺なぜ答えぬ」156P
「誰もが、意識すると、しないに、かかわらず、方便の道程を通らなければ、真実の絶対界には出れないのだ。」とも書いてある。


・私は「私の白道6」に述べたように、阿弥陀仏に救われて親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を改めて読み味わっています。

 三願転入は親鸞聖人の歩まれた道であり、聖人が獲信後、振り返られた心の道でもあります。
 誰でも通らされる心の道だと私は思います。
 ここが19願、これが20願と、自覚なくても、意識すること無く通らされる心の道です。
 高森先生も教学講義の時、言われて、えっと思ったものです。
 てっきり、実行する道とばかり思っていたからです。
 どうしてそれが分かるか、救われて、それまでの心がどうであったかハッキリするからです。
 19願の諸善は、心から出来ません。落第です。
 やっても常に「私が、誰々に、何々をしてやった」の恩着せがましい、毒を含んでいます。
 20願の念仏、阿弥陀仏を念ずる心も、続きません。悩み苦しみ、嬉しい事があれば念仏を忘れます。20分の勤行中も阿弥陀仏のことを思い続けることは出来ません。仕事、身体、人のことばかりです。
 18願の六字の心を聞きながらも、そのまま、まかせと言われるが、心では常に、こんな私でも助かるのだろうか、本当だろうか、どうしたら、どう聞いたらの疑い心が動きづくめです。信じる心が無いのです。それしか無い奴です。
 宿善が厚くなるとは、仏願の生起本末を聞いて、自分の値打ちが知らされ、こんな者が今死んだらどうなるのか、と後生が苦になった人のことをいいます。熟して落ちそうな柿です。
 宿善まかせだから、諸善、活動をしてゆけば何とかなるだろうと、後生を遠くに思い、そのうち、何とかなるだろうと思っている間は、宿善が熟していないのだ。青柿なのだ。
 自分で求めているつもりが、皆阿弥陀仏のお計らいだったと知らされる道だからです。それを親鸞聖人は

○「噫、弘誓の強縁は、多生にも値がたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし、遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」、宿縁とおしゃっている。

 親鸞会会員は19願の諸善をしっかりやって、20願の念仏やらねば18願に入れないと思っている人がほとんどです。
 しかし、18願、南无阿弥陀仏の謂れを聞く、仏願の生起本末を聞けば、南无阿弥陀仏の一人働きによって救われるのです。不思議です。

○「いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。只、仏法は聴聞に極まることなり」
 蓮如上人も、ただ聞けと勧めておられる。

 雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある。
 私は40年諸善やっても救われなかったが、阿弥陀仏のみ心、六字の心を増井先生よりお聞きして、阿弥陀仏に救い摂られました。
 本当に聴聞に極まるでした。
 その間、活動は一切せず、ただ聞くことだけでした。

 考えてもみて下さい。80歳で初めて仏法のご縁があった人は、どうしますか。病気で動けない人はどうしますか。貧乏で動けない人は駄目ですか。急病な人は20年30年で獲られるような真実信心なら、間にあいません。
 元気で活動できる人だけが宿善を求め救われる弥陀の本願ですか。

 高森先生は華光会に10年余り関わりがあり、その影響が「会報」「顕正」に濃く出ています。
 知っておられるのです。何を話すべきか。

 これからも数千の人々が、Tさん、Mさんのように亡くなっていかれるかと思うとやり切れません。六字の心を説かれることを心から念ぜずにおれません。

◎18願の説法もされる、何を言うかと言う人もある思いますが、あれで18願の願意を説き切っておられると思いますか。
「若不生者の念力」によって「信楽」の身になれるのだ、と説かれる高森先生に疑問を感じます。救われたら、明らかなことなのです。
 チュ―リップ企画と田中氏の法論は大変な意義があるのです。
「私の白道1」に書いた通り、重大問題なのです。
 未だに、その親鸞聖人のお言葉の根拠が示されておりません。
 どうされるのか、毎回、注意深く見ています。


 最初に紹介した高森先生への年賀状はここを分かってもらいたくて出したのです。私の心は通じたでしょうか。


 今回は前回からの間が長くなってしまい、待っておられた方もあると聞き、申し訳なく思います。
 自分の救われた体験までなら、一気に書けますが、何しろ内容が内容だけに、どう書いたら分かって頂けるだろうかと日々悩んでおりました。



 今回、二つの問題を書こうと思いましたが、長くなりますので、もう一つは、次回にさせて頂きます。
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COMMENTS

No title

南無阿弥陀仏は私の往生の姿。
仏法のことは全てご恩報謝。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

No title

>雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある

そうですか。
自力の心のあることがわかりましたか。
めでたいですね(笑)。
長いこと会で聴聞させていただいてその程度でしたか。
残念なことです。

No title

「私の白道」読ませていただきました。

理性的で、押し付けがましい感じを受けない文章だと思いました。


あと、ちび丸さん↑という人は2ちゃんねるでも書いてましたが、↓


>139 :神も仏も名無しさん:2008/05/02(金) 13:08:05 ID:ssh6f399
>>130
>>読んで感想を聞きたいものだ。
>>・・そして、ちび丸氏の反論(言い訳)もw

>あーあ、座っちゃったね、っていう感想ですが、何か?
>私の堕ちた化城よりは立ち上がりやすいでしょう。
>間違いがはっきりしてますから。
>仏縁を念じております。

>140 :神も仏も名無しさん:2008/05/02(金) 13:14:46 ID:Ix+Fl1YU
>>雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある

>そうですか。
>自力の心のあることがわかりましたか。
>めでたいですね(笑)。
>長いこと親鸞会で聴聞していてその程度でしたか。
>残念なことです。

>142 :神も仏も名無しさん:2008/05/02(金) 14:00:45 ID:YQA7aaSv
>ほらほら、ちび丸は怠けてないで聴聞聴聞!
>目の前に後生の一大事・無間地獄がせまってるぞ!
>s会やめたんだから、ちび丸も座ってる状態なんだよ!
>はやく獲信しないと地獄行きだぞ!
>人のことなんか気にしてるひまなど無いと、何回もT森先生に教えていただいただろう>が!このバカモノが!


なぜ「私の白道」の文章から「あーあ、座っちゃったね」という感想が生まれるのか、はなはだ疑問です。

私には、この元講師の方に冷静沈着な視点すらうかがえるのですが・・・。


また、2ちゃんねるで

>おれビビッたんだけど、増井悟朗氏ってNHKに出てたのか!?
>てっきりs会の源流というだけで、マイナーな会だと思ってたんだが・・・
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-269.htm
>ちなみにこのHP自体はK会やs会とは関係なく、NHKの「こころの時代」という番組のフ>ァン?の人が趣味的に作っているページのようで、浄土真宗以外の人まで紹介されてい>るようだ。


という書き込みがありました。

7年前にNHKで増井悟朗氏が出演されたものだそうです。

後生の一大事のことまでをも、テレビで放送されていたということに驚きましたが、
(元s会の友人すらほとんどこのNHKのことを知らなかったことにも驚いた)

このNHKのページを読んで、「私の白道」に増井悟朗氏のインタビュー文章と矛盾するようなところがなかったので、「私の白道」に嘘は書かれていないなと思いました。



ただ疑問として、なぜs会では華光会の本を読んだら除名なのか?がますます分からなくなりました。

教えがおかしいとは思えませんし、増井氏もNHKに出られるくらいだし、本を読んでもまともな人のように思いました。


何がダメなのでしょうか?


増井氏が、例の 「 T会長が唯一頭が上がらない人 」 だからでしょうか?


そんなにすごい人だったら、なおさら、本を読んだだけで除名なんかにせず、

むしろ積極的に紹介してもいいと思うのですが・・・。


ちび丸さんへ

私は必ずしも華光とご縁がある者でもなく、清森さんでもない、ただの一脱会員の閲覧者に過ぎないのですが、ちび丸さんの誤謬を念のため指摘しておきたいと思って書きこみさせていただきました。

>自力の心のあることがわかりましたか。

おそらくはこのようにおっしゃることによって、「この元講師の信心とやらは自力の執心であってホンモノの信心ではない」とおっしゃいたい意図なのでしょう。(もしそういう意図でないというのでしたらご指摘よろしくお願いします)

しかし、他の箇所を熟読して総合的に判断すれば、このようなちび丸さんの解釈には決してならないでしょう。
下記に例示したような箇所は決してちび丸さんの目には入らないようです。
一応どこかにケチはつけなくてはならない、という発想なのか?と勘ぐられてもしかたないかもしれませんね。
他の教学的な問題点に対しては総てスルーみたいですし、かろうじて揚げ足をとっているだけのご発言のように思われますがいかがでしょうか。

> 高森先生に諸善を勧められ
増井先生に第十八願六字の心をお聞きして
従仮入真、捨自帰他、今こそ明らかに知らされました。。

捨自帰他とは「自力が廃って他力に帰した」という明白な宣言ですよね。当然ですが、この表現とちび丸さんのご意見とは矛盾しています。この高森会長に出されたという年賀状の文言で必要十分と思いますが、他にもいくつか「自力が廃った」という意味に解される箇所を挙げてみましょう。

>自力で自力の限界が分かる、と思うことこそ自惚れだ。そんな殊勝なものではないのだ、腹底は。買いかぶるな。血で血を洗うことは出来ない。

>自力他力廃立とも言い、信疑決判が真宗の命ではないか。微塵の疑い、自力の心があっても浄土往生が出来ませんよと教えられた。

>「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と蓮如上人も厳しいのだ。

>「八つとて益にもたたぬ雑行や 雑修自力は捨てもせで 弥陀仏泣かせていたことは ほんに今まで知らなんだ」

>信後、救われたら南無廻向の機に自力計度の機が殺され、無くなって、衆生性得の機が南无阿弥陀仏と一体になり、即ち仏凡一体となるのです。

>「自力さらばと、いとまをやってわしが心と手たたきで、たった一声聞いたのがその一声が千人力四の五の言うたは昔のことよ何も言わぬがこっちのもうけそのまま来いの勅命に如何なるお軽も頭が下がる」

>蓮如上人はそれを「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて」と教えられている。

>18願真実の世界に入るには雑行、雑修を捨てねばならない。捨てるには雑行、雑修 は、どんなものか知らねば、捨てようがない。雑行とは19願の諸善、雑修は20願の念仏、自力の心は二願に共通した心、これで助かろうとする心を言う。18願を疑う心、計らい心である。19願の心を知るには、本願の通りやってみないと分からない。やらずにどうして分かるか。やらねば捨てられない、と教えられた。

>自力一杯求めたことの無い者に、自力無功と知られる筈はないと。

挙げればきりがありませんが、例示しましたように、何度も「私は自力が廃り他力に帰した」という意味の内容でおっしゃっています。さて、

>雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある

という元講師のかたのご発言ですが、この文章の直後に、「私は40年諸善やっても救われなかった」と、信前であることを述べておられます。
よって、この文章は、自力の心だけは頑としてあることを知らされた、という、「熟して落ちそうな柿」の「無常に驚いた」信前の状態をおっしゃたのだと私は理解します。
つまり、あえて親鸞会教学に約されて、「自力の心だけは頑としてある」ことを知らされなければ(他力によって)それが廃る経験が起こりようがない、ということを読んでおられる現会員が理解できるように強調なさったのではないでしょうか。

別の例で申しましょうか?祖師の三願転入のご文で、「善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。」までを読んで、ちび丸さんは難癖をつけます。「あーそうですか。難思往生の心では自力で報土往生できないと高森先生から教えられませんでしたか?」と。
これは文章を最後まで読まない断章取義によって起こった誤謬ですね。その後にくる、「しかるにいま特(まこと)に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れ、難思議往生を遂げんと欲う」を無視しているのです。

元講師の方のご文章においても、
「雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある。私は40年諸善やっても救われなかったが、阿弥陀仏のみ心、六字の心を増井先生よりお聞きして、阿弥陀仏に救い摂られました。」という箇所において、単独で取り出すと誤解を招きうる前半だけをあえて強調し、後半を無視しておられるようです。

この元講師のかたの、ご自身の求道を振り返られた感慨を述べられた部分は、祖師の三願転入のご文にそのまま対応しているように私は味わせていただきましたが。

最後に、ちび丸さんに質問があります。親鸞会の専任講師の大半は、「19願の入り口にも入っていない」のでしょうか?それともすでに入っているのでしょうか?いずれと思われますか?

「顕正新聞、体験発表、弁論大会、仏法讃嘆のご縁があるのに、堂々とその喜びを発表しないのだろうか。私は一度も聞いたことがない。」確かに元講師のかたのおっしゃる通りですね。その理由はどこにあると思われますか?

待ってました!

すばらしいです。ありがとうございます。

Tさんのような人―何の分別も無くただ頑張っていさえすれば極楽に往生すべきように思いはんべりみたいな人―になっていないかを各々が振り返ってみる必要があるのではないかと思います。

ありがとうございました

ありがとうございました。仰っている趣旨がかなり分かってきました。
しかし、申し訳ないのですが、まだ核心がつかめません。

親鸞会の問題点は、①そもそも三願転入を説くこと自体が間違いということなのか、②三願転入は間違いではないが、18願を説いていれば無上仏のお導きによって19願・20願の道を進ませて頂くものであるのに、19願・20願を説くことが間違いだということなのか、③19願・20願を説くことは間違いではないが、19願の善の勧め方(目標制度や布教局長の犯罪行為など)が親鸞会は間違っているということなのか、どれなのでしょうか?

また、

>◎18願の説法もされる、何を言うかと言う人もある思いますが、あれで18願
>の願意を説き切っておられると思いますか。

と仰っていますが、高森先生が説かれていない18願の願意とは何なのでしょうか。高森先生が説かれていない点を増井先生はどのように説かれているのでしょうか。

また、

>「若不生者の念力」によって「信楽」の身になれるのだ、と説かれる高森先生に
>疑問を感じます。救われたら、明らかなことなのです。

と仰っていますが、どのような疑問なのでしょうか。

 以前、三願転入を高森先生が教えられたのは平成5年が初めてだと仰っていました。
 そうしますと、平成5年までは、元講師の方が仰るような「虎の説法」をされていたということではないかと思います。
 「虎の説法」によって救われ、19願・20願を説くことによって救われなくなるということであれば、①平成5年までは獲信者が出て、かつ、②平成5年以降は出なくなったということになるのではないかと思います。講師の方でも、平成5年までは獲信者が出ていたはずということになると思います。しかし、平成5年以前にご縁を結ばれた講師の方でも、信心決定されていないということだと思いますが、その原因は何だとお考えでしょうか。

よろしくお願い致します。

No title

> 7年前にNHKで増井悟朗氏が出演されたものだそうです。
> 後生の一大事のことまでをも、テレビで放送されていたということに驚きました

こちらもお読みください。『われらの求道時代』でもお話がありました。

http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-156.htm
(獲信が「獲心」となっているのは誤植でしょう。)

ちび丸さんへ

私は福徳会員(教賞ではない)です。私は貴殿が親鸞会の講師であると思っています。貴殿は親鸞会を守るために書き込みをしているおつもりかもしれませんが、不誠実な文面に辟易しております。今までの対応では逆効果です。本当に守ろうとするのであれば誠実に何が間違いであるのか明らかにしてください。
せっかく財施させていただいたお金が直接布教や聞法に関係ない布教局長の高級車や美術品、お弁当や宿泊施設に流用されるのはどうかと疑問に思っていました。末端の会員さんや支部長が豊かな状況でしたらそれでもいいでしょう。しかしながら、現実は会員さんは生活を切り詰め財施させていただいているし、生活に窮している支部長もおられると聞いています。
会員をやめさせていただく決意ができつつあります。もしもやめることになったときはその理由としてちび丸さんの不誠実な対応も理由のひとつとして支部長にお伝えするつもりです。

ちび丸さんへ-Part2

「私の白道」を読ませていただき、教義的におかしなところは書かれていないと思います。ちび丸さんはどこがおかしいと思われて非難されているのでしょうか?間違っていないことを非難しているのであれば謗法罪の無間業を作っていることになり、阿弥陀仏を謗っていることになります。「親鸞会を守るため」であっても、阿弥陀仏を謗った罪悪はちび丸さん個人が背負っていくことになります。その辺の自覚はおありなのでしょうか?
親鸞学徒が守らなければならないのは親鸞会でも華光会でもありません。阿弥陀仏の本願ただひとつです。阿弥陀仏の本願の説き方も親鸞会流も華光会流もありましょう。もしも両方正しいのであれば謗ったならばいずれも謗法罪となります。

No title

>雑行も出来ぬ、雑修も出来ぬ、自力の心だけは頑としてある
>という元講師のかたのご発言ですが、この文章の直後に、「私は40年諸善やっ>ても救われなかった」と、信前であることを述べておられます。
>よって、この文章は、自力の心だけは頑としてあることを知らされた、という、>「熟して落ちそうな柿」の「無常に驚いた」信前の状態をおっしゃたのだと私は>>理解します。
>つまり、あえて親鸞会教学に約されて、「自力の心だけは頑としてある」ことを>>知らされなければ(他力によって)それが廃る経験が起こりようがない、という>ことを読んでおられる現会員が理解できるように強調なさったのではないで
>しょうか。

前から書いてますが私は講師ではありません。
講師だと思うなら、親鸞会の講師で私ぐらいに親鸞会とは関係ない本を
読んでいる方をあげてみてください。M野講師ですか?(笑)
まず物理的に無理だと思います。

信前に自力が自力と知らされることはありませんよ。
何に驚くのかよく聞かれるといいですね。

法論したいならお相手してもいいですが
あいにく今から仕事なので休み中書き込みできません。
休みあけにお願いします。

No title

>貴殿は親鸞会を守るために書き込みをしているおつもりかもしれません

違いますね。
いわゆるアンチのデタラメな教学が嫌いなだけです。
御聖教の根拠はいつも出していますが。
間違っているなら、破邪顕正されたらいかがですか?

>「私の白道」を読ませていただき、教義的におかしなところは書かれていないと思います

せっかく福徳会員になっておられても教えに暗ければ
祖師聖人は泣いておられるでしょう。
よく勉強してください。

ちび丸さんに質問

>そうですか。
>自力の心のあることがわかりましたか。
>めでたいですね(笑)。

これは、あなたの前回の発言です。

>信前に自力が自力と知らされることはありませんよ。

これは今回のちび丸氏の発言。

では、あなたの論理によれば、この元講師さんは自力が自力と知らされていないところの信前ではありえない、すなわち信後である、ということをちび丸さんは認めた、
と理解していいのでしょうか?

No title

>法論したいならお相手してもいいですが
>あいにく今から仕事なので休み中書き込みできません。
>休みあけにお願いします。

新勧合宿講師ですか。ご苦労さまです。

ちび丸さんへ-Part3

Responseありがとうございます。せっかく、ご親切にもResponseいただいたので最後までお付き合いいただけますでしょうか?ご回答は連休明けでかまいません。私が会員を続けるかどうかはちび丸さんのご回答にかかっているつもりでご対応をお願いします。もっとも貴殿には関係ないことかもしれませんが…。

1.以下についでどのようにお考えでしょうか?
せっかく財施させていただいたお金が直接布教や聞法に関係ない布教局長の高級車や美術品、お弁当や宿泊施設に流用されるのはどうかと疑問に思っていました。末端の会員さんや支部長が豊かな状況でしたらそれでもいいでしょう。しかしながら、現実は会員さんは生活を切り詰め財施させていただいているし、生活に窮している支部長もおられると聞いています。

2.「私の白道」の中で教義的におかしな点を具体的にあげて説明していただけますでしょうか?
「いわゆるアンチのデタラメな教学が嫌いなだけです」ということですから。100%間違い、ということであればその旨でご回答願います。なお、「100%間違い」とご回答いただいた場合は筆者の方が「高森先生からこのように聞かせていただいた」と書かれているところも間違いということになりますのでご注意ください。というのも筆者の方が「聞き間違い」をしていないかどうかもちび丸さんにご検証いただきたいからです。

3.筆者の方は何十年も講師部に在籍されておられたそうですが、そのような方より貴殿の方が教学力があると自負されておられますか?この方は非常にまじめの求めておられたように感じました。一方(失礼ではありますが、…)、貴殿は「家庭の事情で親鸞会をやめられた」というのが事実であれば「仕事をやめて聞け」とまでいわれた蓮如上人のお言葉に反すると思いませんか?祖師聖人・蓮如上人は泣いておられると思われませんか?教学のための教学になっていませんか?真剣に求めてこられましたか?

4.何十年もまじめに求めてこられた専任講師の方は何人もおられるのに信心決定されておられる方が現れない理由をどのようにお考えですか?

ちび丸さんへ

RE:法論したいならお相手してもいいですが
あいにく今から仕事なので休み中書き込みできません。
休みあけにお願いします。

ちび丸さん、
連休が明けますのでご回答お願いします。貴殿は都合の悪い質問は無視をされるというもっぱらのうわさですので、ルールを決めたいと思います。今後のやり取りについて「3日以内に返答がない場合は相手の主張を認めたものとする。ただし、期限までに難しい場合はあらかじめ回答期限を宣言する」ということでよろしいですか?以下、私の質問です。

1.以下についでどのようにお考えでしょうか?
せっかく財施させていただいたお金が直接布教や聞法に関係ない布教局長の高級車や美術品、お弁当や宿泊施設に流用されるのはどうかと疑問に思っていました。末端の会員さんや支部長が豊かな状況でしたらそれでもいいでしょう。しかしながら、現実は会員さんは生活を切り詰め財施させていただいているし、生活に窮している支部長もおられると聞いています。

2.「私の白道」の中で教義的におかしな点を具体的にあげて説明していただけますでしょうか?
「いわゆるアンチのデタラメな教学が嫌いなだけです」ということですから。100%間違い、ということであればその旨でご回答願います。なお、「100%間違い」とご回答いただいた場合は筆者の方が「高森先生からこのように聞かせていただいた」と書かれているところも間違いということになりますのでご注意ください。というのも筆者の方が「聞き間違い」をしていないかどうかもちび丸さんにご検証いただきたいからです。

3.筆者の方は何十年も講師部に在籍されておられたそうですが、そのような方より貴殿の方が教学力があると自負されておられますか?この方は非常にまじめの求めておられたように感じました。一方(失礼ではありますが、…)、貴殿は「家庭の事情で親鸞会をやめられた」というのが事実であれば「仕事をやめて聞け」とまでいわれた蓮如上人のお言葉に反すると思いませんか?祖師聖人・蓮如上人は泣いておられると思われませんか?教学のための教学になっていませんか?真剣に求めてこられましたか?

4.何十年もまじめに求めてこられた専任講師の方は何人もおられるのに信心決定されておられる方が現れない理由をどのようにお考えですか?

5.今後のやり取りについて「3日以内に返答がない場合は相手の主張を認めたものとする。ただし、期限までに難しい場合はあらかじめ回答期限を宣言する」ということでよろしいですか?

感想

・華光にいたとき、御本尊は木像でした。今もたぶんそうだと思います。
増井さんの説法ビデオの最後に、木像が長々と出てくる。いかにも有難
い。拝みたくなる。拝む。でも、この本尊は親鸞聖人の教えに反してい
ることを親鸞会で知りました。

・華光の人の話には、親鸞聖人の教えを正しく分からせようという熱意
が私には感じられませんでした。自分の体験、味わいが多い。だから結
局、教えがよく分からない。ただ無常と罪悪は何度も言われる。そして
阿弥陀さまのお慈悲の話。それが何度もくる。でも分からない。また、
無常と罪悪がくる。六字のお話が来る。でも助からない。だんだん追い
詰められる。やがて「そのまま」とくる。ああ、よかったとなる。確か
に私も喜びました。あの時は、本とに救われたと思った。人の話を聞い
てみると、みんな似たような感じでした。しかし、救われたといっても
伝えるものがない。教えが分からないから。自分の体験をいうしかない。

・親鸞聖人や蓮如上人が、自分の体験を語っておられないということは
親鸞会ではじめて知った。聞いて、正直驚いた。調べてみればそうだ。
自分は何も知らず、そんなものばかり読んでいた。聞いていた。ああな
れば、こうなればいいのか、と知らず知らず思い込んでいた。洗脳され
ていた。

・華光の人は、自力と無力を混同していると思う。だから、まじめに努
力しようという人を、あまり見かけなかった。服装もだらしない。仏法
以外のことでも、自力はどうせダメだからという雰囲気がいつもあった。
規律もないし、根気もない。聞いているうちに、ああ、ダメだダメだと
いう気持ちになってきます。そのうち私も、これじゃあ人生ダメになる
なという気持ちになった。

・「催眠術の暗示と同じ方法」と顕正新聞にあったが、なるほどと思う。
あの組織は人生の落伍者を生み出しているのではないかな、という気が
する。

・親鸞会に来て驚くのは、みんな活発というかエネルギーがある。これ
が真宗のあつまりなのか、と初めはびっくりした。会館の隅々まで清潔
感があることも違うと思った。因果の道理や他力と言うことを、私自身
が勘違いしていたようだ。親鸞会の方が本当だと思った。気分もガラリ
と前向きになった。

・おかしなことだが、華光で獲信したといっている人より、親鸞会で求
めている人のほうが、はるかに元気があってはつらつとしている。私も
教学をしっかり勉強するようになって、その気持ちが分かる。やはり、
親鸞聖人の正しい教えを知るということは、心が晴れ晴れする。

・「私の白道」の作者が、元親鸞会の講師とはどうも思えない。本当に
元講師とすれば教えの理解がかなりおかしいと思う。「諸善をすれば助
かる」などと親鸞会で教えられるはずがない。また、親鸞会の講師で獲
信した人がいないとは私は思わない。おそらく言われないだけだろう。

・だいたい華光の人はすぐに、「あの人はいただいた」「あの人はまだ
だ」「私はいただいた」「あんた。まだか」と平気で言う。そして優越
感にひたる。これは、かなりプレッシャーにもなるのだ。だから、みん
ないただかないといられない雰囲気になってくる。結局「いただいた」
と言うしかなくなる。「信心の安売り屋」と言う表現は当たっている。

・親鸞聖人の教えについて、今の支部長は本当によく話をしてくれる。
質問にも答えてくれることがうれしい。感謝感謝。教えが分かれば、華
光のどこがおかしいかもよく分かる。華光には、こんなに一生懸命教義
の話しをしてくれる人はなかった。

・信の一念の救いということは、華光では余り聞かない。増井さんのお
話も、「腹から念仏をとなえ~~」と言うのが多かった。いつも念仏が
話の中心だったような気がする。本願成就文とちがっている。信心正因、
唯信独達と言うことは親鸞会でよく分かったことです。

・白い心、黒い心、暗い心は華光でよく聞く。仏智疑う罪も聞いた。だ
が、とてもすぐには分からない。ところが親鸞会の「なぜ生きる」には、
疑情が苦悩の根元で、「後生くらい心」とものすごく詳しく書かれてい
る。驚いた。「なぜ生きる」は本とにすごい本だ。仏語がすくないのに
内容は深い。華光では、だれもこんな本は書けないし、こんな話もでき
ないと思う。

・華光の人は、救われても伝えようという意欲がない。みんなのんびり
したもんだ。顕正新聞にあったが、みんなやっぱり造花だったのだろう。
少なくとも私はそうだった。救われたと喜んでいる人も聴聞にあまり来
ない。そのうちいなくなる人が多い。どんどん布教する人はなかった。

・仏法は聴聞に極まる。親鸞会の聴聞は厳しい。正座できちんと心を正
して聞かせていただく。華光ではリラックスしていいと言われた。確か
に楽でいい。厳しくはない。だが、だらしない。みんないい加減な聞き
方だったように思う。座談も愚痴が多かった。愚痴を言ってもいい雰囲
気だったからだが、結局何を聞いているのか、何を答えているのかよく
分からない。本当によく分かっている人はいたのだろうか。

華光会から親鸞会へ行って獲信できてない人↑を発見

華光会よりもはるかにスバラシイ親鸞会の教えなのに、この通りすがりさん↑は獲信しておられませんですね。なぜですか?それに

>親鸞会の講師で獲信した人がいないとは私は思わない。おそらく言われないだけだろう。

親鸞会の講師は獲信した喜びを会員にすら話さないのでしょうか?
「獲信見敬大慶喜」という正信偈の文はウソだったのでしょうか。
「喜びを話さない講師の方は、喜んだ体験そのものがまだ無い」と判断するのが妥当でしょう。


>「私の白道」の作者が、元親鸞会の講師とはどうも思えない。

清森氏は、元講師かどうか素性の分からない投稿を載せるような人でないことを考えれば、この発言はおかしいと思います。やはり元講師の方というのが妥当な見方でしょう。

また、あれだけ詳細に親鸞会の教義の問題点を挙げられる人は、現役講師の中にすらそうおられない。


通りすがりさんの書き込みは、私から見るとおかしな感じがします。

親鸞会を無理にかばおうとするあまり、親鸞会の欠点を矛盾のある文でかばい、
(おそらく華光にないであろう)華光の欠点を無理にでっち上げているように思います。


親鸞会擁護のバイアスが奇妙なほど強いように感じますが、
通りすがりさんは親鸞会のネット対策部の方でしょうか?

すでに親鸞会の講師がた・会員が多数華光会に流れているそうですが、それを阻止しようとされるための書き込みでしょうか?

No title

いかにも作ったような文章。
ネット対策員の書き込みじゃないの?
親鸞会も必死ですね。

Re:感想

>・華光にいたとき、御本尊は木像でした。・・・
>でも、この本尊は親鸞聖人の教えに反していることを親鸞会で知りました。

高森先生も華光にいたとき信心決定し、
親鸞会結成後に木像本尊は教えに反していると話した、そうです。

>自分の体験、味わいが多い。だから結局、教えがよく分からない。

体験談が多すぎると教えに明るくならない、という問題が起きるという意見だろうか。
「尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとる」と、蓮如上人は教えられていますが、ほどほどにしたほうがよいということでしょうか。
表現が抽象的なので、誤解を受けてしまうような気がします。

>ただ無常と罪悪は何度も言われる。

「なぜ生きる」で高森先生も強調されているような気がしますが。

>そして阿弥陀さまのお慈悲の話。それが何度もくる。

浄土真宗は阿弥陀さまのお慈悲だけと聞いておりますが。

>また、無常と罪悪がくる。

親鸞会でも、次々に与えられる勧誘・財施活動の度に、
「後生の一大事解決のためです。がんばりましょう。」と
無常と罪悪がきました。

>六字のお話が来る。

親鸞聖人は六字以外のお話をされたのだろうか。

>教えが分からないから。自分の体験をいうしかない。

信心決定の体験は、教えに適っていないのだろうか。
信心決定の体験を語ることは、教えを語ることにならないのだろうか。

>・親鸞聖人や蓮如上人が、自分の体験を語っておられないということは
>親鸞会ではじめて知った。

南無阿弥陀仏は体験ではないのだろうか。
南無阿弥陀仏を称えることは体験ではないのだろうか。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて・・・」と親鸞聖人はお弟子達に語っておられなかったのだろうか。
御文章・領解文は蓮如上人の体験と異なるのだろうか。
「自分の体験」とは何を指しているのだろうか。

>聞いて、正直驚いた。調べてみればそうだ。
>自分は何も知らず、そんなものばかり読んでいた。聞いていた。ああな
>れば、こうなればいいのか、と知らず知らず思い込んでいた。洗脳されていた。

調べることが大切だというのは同感です。
「調べる」ことを許されず、身内の本だけ読んで、「知らず知らず思い込んでいた」のはマインド・コントロールされていたということですよね。
(調べたところ、洗脳とマインド・コントロールは別物のようです。)

No title

教学的なことは、高森先生のご著書を引用してカムフラージュしていますが、やはりごまかせません。三願転入の真意が分からないままでは、親鸞聖人の教えを語る資格はありません。こんな体験話を堂々と掲載する清森さんも、同じ程度か、それ以下ということなんでしょう。まあ、あの人なら、泣いて感動しているかもしれませんが。

No title

華光会では三願転入を否定しているのでしょうか。このあたりが体験談を拝見してもよく分からない部分です。18願一本という言葉も出てきますし、三願転入は誰でも通る道だという部分もあります。

「通りすがり」さんのご発言は、親鸞会から見た華光会の問題点ですよね。確かに形にこだわる親鸞会に対して、形に全くこだわらない華光会は対照的です。

しかし、親鸞会では、華光会は土蔵秘事に類するものだと聞いておりました。
随分違うようですが、なぜ親鸞会ではそのようなデマを会員に流しているのでしょうか。

三願転入を否定しているから邪義だというのであればそのように徹底すればいいだけのように思うのですが。

困ったことです

清森さま、皆さま:

   親鸞会被害者父母の会で先日までいろいろ書き込ませていただいておりました「あれあれ」でございます。
   上のほうにございます書き込み(↑)は、決して私のものではございません。「あれあれ=ちび丸」なる書き込みも、昨日(5月7日)、上記「被害者父母の会」の掲示板になされておりますが、僕はともかく、あの教学力豊かなちび丸さんにとっては、僕のような蓮如嫌い、お西嫌い(親鸞会、華光会をも含む)と同一人物扱いされて、おそらく迷惑極まりないのでは。以上、謹んで弁明させて頂きます。

NNNさんへ

>華光会では三願転入を否定しているのでしょうか。このあたりが体験談を拝見してもよく分からない部分です。18願一本という言葉も出てきますし、三願転入は誰でも通る道だという部分もあります。

私は増井氏と面識がありませんし、直接華光会の話をきいたことがないのですが以前、某掲示板にて華光会同人のかたと「話題提供」氏(おそらく=ちび丸氏)と名乗るかたの教義論争を読んだことがあります。
(興味あるかたは、話題提供、昔々の会員、親鸞会 で検索かけてみてください)

ここに登場される昔々の会員氏は自ら獲信者であるとおっしゃってますので、「私の白道」を書かれている元親鸞会講師部の方と似た立場ともいえます。ただし、昔々の会員氏が親鸞会に在籍されていたのは数ヶ月でしかなかった、とあったと思います。

彼らのやりとりで、こういう箇所があります。

話題提供氏:「それはよかったですね。どうしたらそういう身になれるか三願転入の御文をとおして 解説してください。 」

昔々の会員氏「阿弥陀様の御本願の生起本末を聞かせていただく。これ一つだとはお聞きになっており ませんか? なぜ、三願転入の御文をとおした解説がいるのですか? 」

思いますに、三願転入は祖師が教行信証において説かれているので、NNNさんが「華光会では三願転入を否定しているのでしょうか。」とおっしゃられるご意図は、「すべてのひとが三願転入して19願→20願→18願という道程を経なければ救われない」のか? という意味であると思います。

おそらく、華光会では、必ずしも親鸞会で説かれているように、
「すべてのひとは信前に三願転入することを目指すべきであり、19願→20願→18願と順に実践しなければ救われない」
という立場をとるのではないと考えています。
(上記は必ずしも親鸞会の公式見解とはいえないのかもしれません。もしも違っている点がありましたらご指摘ください)

つまり、昔々の会員氏のご発言によれば、「19願、20願は聖道門の方を誘引する 為の御方便」であって、信前のものに対して、19願、20願を必ず経由しなければ絶対に救われない、と説かれることは正しくないという立場を取っているのでしょう。

つまり、三願転入は「信心を決定した人が過去の求道を振り返ってはじめて気づかされる一種の味わいであり、信前の人間にとっての修行の階梯のようには理解すべきでない、」という立場でないかと思っています。
信心を決定した時点で、過去の求道を振り返り、そういえばあれが19願時代で如来のご方便であった、20願時代で如来のご方便であったと振り返り、思い起こし如来の懇ろなご方便のご恩に報謝し、念々にお念仏する、というようなイメージです。

これに対して、話題提供氏は

「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに 往生浄土の方便の 善とならぬは  なかりけり」

というご和讃を引いて19願20願を「十八願へ導くために必要不可欠な方便」と主張します。
(因みにこのような「必要」という意味で「方便」を解釈することは正しいとはいえません。)

これに対して、昔々の会員氏は下記のように反論します。

「至心発願など、私のような最悪の泥凡夫には及びもつきません。阿弥陀仏に向かって 正行をやろうとする心も力もありません。断善根の極悪人です。そんな私一人の為、 阿弥陀様が至心発願してくだされ御回向してくださります。そんな勿体無い阿弥陀 様の諸善万行が、往生浄土の因縁にならないはずがないですか? 」

私は親鸞会の解釈よりも、この解釈を(おおむねですが)支持します。
話題提供氏の説どおりならば、お釈迦様はわれわれに、機法が相応しないことを実践させていることになるからです。これでは法然、親鸞両師のご苦労が反故にされてしまいます。

正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし 菩提心いかがせん

像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

>しかし、親鸞会では、華光会は土蔵秘事に類するものだと聞いておりました。

もしも、華光会の信心が「土蔵秘事に類するもの」と親鸞会で主張しているとすれば、高森会長がご自身の過去について何らかの総括をされない限り、高森会長の信心も、K池さんの信心も、F松さんの信心も、T岸さんの信心も、すべて「土蔵秘事に類するもの」と批判を受けることは免れえないと考えられます。

>随分違うようですが、なぜ親鸞会ではそのようなデマを会員に流しているのでしょうか。

会長が(華光会時代に獲信したという)ご自身の過去を会員に知られたくなかったから、そして親鸞会会員が華光会に流出するのを未然に防ごうと画策したから、としか思えませんが。

>三願転入を否定しているから邪義だというのであればそのように徹底すればいいだけのように思うのですが。

三願転入の解釈について「親鸞会と華光会で公開法論」という企画も、私のような傍観者にとっては興味がありますが、華光会は「大人」の会ですからおそらくは親鸞会側が企画しても乗ってこないのでしょうね。

追加:
「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」
「しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。」(顕浄土方便化身土文類)
おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。(顕浄土方便化身土文類)

と教えられていますので、二十願→十八願の流れの場合、二十願の行人では機法が相応していないといっても、浄土真宗の教えに含まれうると考えられます。
もちろん真宗で勧められるのは自力念仏ではなく他力念仏ですが、信前の場合は結果的に自力念仏になってしまいます。
しかし、無常迅速であるにもかかわらず、信前の人に最初から十九願の実践を勧める教えは浄土真宗とはいえないと考えます。
あくまでも真宗において勧められるべきは十八願であるのですが、自力が廃らない信前のうちは結果的に十九、二十願の実践になってしまうということでしょう。

(長文失礼しました)

おうさん、ありがとうございました

ありがとうございました。元講師の方が仰りたいことがまた一つ分かったと思います。

>信心を決定した時点で、過去の求道を振り返り、
>そういえばあれが19願時代で如来のご方便であった、
>20願時代で如来のご方便であったと振り返り、
>思い起こし如来の懇ろなご方便のご恩に報謝し、
>念々にお念仏する、というようなイメージです。

 「なぜ答えぬ」の中で、本願寺の学者さんも同様のことを仰っていたと記憶しています。「宿善は信心決定してから振り返って喜ぶものであって、浄土真宗では信心決定のためにまず宿善を求めよという教えはない」というような記述だったと思います。

 しかし、そうすると分からないのが、「全ての人は三願転入の道を通るのかどうか」という点です。

1 三願転入の道は通るけれども、18願さえ説いていれば自然と19願20願の道を通るのであって、19願20願を説くことが間違いだ
 ということなのか、それとも
2 全ての人が三願転入の道を通るとは限らない
 ということなのか、
3 18願の世界に転入するまでの19願20願の道とは聞法であって、諸善万行や念仏を勧めるものではないし、諸善万行や念仏に励んだからと言って19願20願の道を進むものではない
 ということなのか、どうもはっきりしません。

 「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」という聖人のお言葉からすれば、3ではなさそうですが・・・。
 
 それから、もし、

>「至心発願など、私のような最悪の泥凡夫には
>及びもつきません。阿弥陀仏に向かって 正行
>をやろうとする心も力もありません。断善根の
>極悪人です。そんな私一人の為、 阿弥陀様が
>至心発願してくだされ御回向してくださります。

 を徹底すれば、親鸞聖人が「往生浄土の方便の善となる」と仰ったこととどう関連するのかが分かりません。
 つまり、「極悪人である我々にできぬ善を勧められるはずがない」 とすると、我々の善行が「往生浄土の方便の善となった」ことと矛盾するように思うのです。
 蓮如上人の「宿善まかせ」と仰った「宿善」とは一体何なのかという疑問も出てきます。

 もし元講師の方がこのコメント欄を読んでいらっしゃいましたら、このあたりのことも次回記事でご説明頂ければ幸甚です。


 私としては今のところ親鸞会の解釈の方が説得力があるように思います。
 親鸞会がおかしいのは、「善ができないことを知らされるために善をする」という理解だと思います。「善ができないことを知ろう」などと思って善をやっても力が入るはずがありません。
 「善ができないことを知らせるために善を勧める」というのは、無上仏・善知識からご覧になったお言葉であり、それを私たちが、「善ができないことを知らされるために善をするのだ」と理解するのが間違っているという理解です。

 善をするんだと一生懸命励んだ結果、何が知らされるのかという問題であり、もし「善ができないのが真実の姿なのだ」というが間違っていて、善ができたらできたでよいことです。疑情が晴れなければ化土往生ですが、六道輪廻より(といいますか六道輪廻とは比べものにならないほど)ずっと良いことです。

 本当は「善ができない」などと全く思っていないのに、「善ができないことを知らされるために善をする」という思いが間違っていると思っています。元講師の方のお言葉をお借りすれば、「三願転入の道、まず19願の善が出来ぬ自分を求めていけばよいのだ」という心がけは19願の願意にかなっていないと思います。

 アニメ王舎城の悲劇でいえば、イダイケ夫人は「善ができないことを知らされるためにお釈迦様が勧められる観法を実践しよう」などとは思っておらず、「お釈迦様の勧められる通りにやれば救われるのだ」と一生懸命やった結果、善ができない自分が知らされたということだと理解しています。

No title

華光会の人によくあるパターンが出ています。増井悟朗さんの話では、どうしても、こういう化城の迷信者を多数生み出してしまいます。なにしろ、増井さん本人の信仰が、師匠の伊藤さんに確かめて「それでいいよ」と言われて安心したものなんですから。
増井氏「仏書が唯一の聞法だったのですが、ある書物を読んでいた時です。序文に、著者のお嬢さんの看病記が出ている。念仏しながら法悦の中で死んでいきなさった。わが身に引き寄せて、私は一生懸命読んだんです。どこで、どう読んだ時に、どうなったかは覚えがないんですが、心の転換が起こってきたんです」

聞き手「その内容をぜひ聞きたいのでございますが」

増井氏「やらずともよいことを、一生懸命力を入れておった。すでに、大きな力が働いてくださっておったんだということですね。その後、伊藤先生を訪ねました。自分で有り難くなっておるだけなので、伊藤先生にお会いして、真偽を確かめていただきたい。そこで誤っておればご指摘も頂こうという目的でした。先生は、非常に喜んでくださいました」

 増井氏自身も、「獲信」を他人に「真偽を確かめてもらって」やっと安心するという「つもり」信心。グループの者たちも、同じような体験ができると、皆に「よかったね」「それでいいのだ」と称讃されて安心してしまうから、とても十八願他力の世界までは進めない。
「知識は針のごとく、同行は糸のごとし」
 知識の針が曲がれば、同行の糸も曲がらざるを得ない。知識の針がいい加減なところで止まれば同行の糸も徹底はできないのです。
 頭狂えば尻尾まで狂う。悪知識の恐ろしさが知らされるばかりです。

No title

>知識は針のごとく、同行は糸のごとし

このフレーズって大沼法龍氏のパクリでしたっけ


NNNさんへお返事

>「全ての人は三願転入の道を通るのかどうか」

これは、あくまでも私の考えであって華光会ではどう教えられているのかは存じませんが、「全ての人は三願転入の道を通る」のだと思います。

しかし、それは、信心獲得して佛智によって知らされることであって、少なくとも後生に驚いた信前のものに対して十九願の法門の実践を勧められる教えは浄土真宗には含まれていない、と私自身は考えています。

そのような人に対して勧められるのは、あくまで「他力の念仏を称えること、そのために佛願の生起本末を聞かせていただく聞法」であり、その結果称える信前の念仏は獲信までは結果的に十九願、または二十願の念仏になってしまうことでしょう。

法然上人のご法座をたまたま聞いて獲信したという、元盗賊の耳四郎、あるいは東條英機氏を正しい信心の持ち主と親鸞会は認めていると私は認識しています。

さて、速やかに獲信した彼らがいつ菩提心を起し、定善・散善のさまざまな善根功徳を修することを教える十九願の法門を実践したというのでしょうか?

18歳で速やかに獲信したと広言されている高森会長もしかりです(彼の信心がホンモノであるかどうかはまた別問題として)。

彼らは法施や財施するなど、定善・散善の種々の善根功徳を修することを実践することが大きな因縁となって獲信したと思いますか?
(もちろん、『佛敵』でもそのようには説かれていません。)

「他力の念仏を称えること、そのために佛願の生起本末を聞かせていただく聞法」を勧められ、それを実践されて獲信されたのでしょう。

これに対して、あの人は頓機だから特別、漸機の我々はまずは十九願から入り、しっかり善に励みましょう、とか、頓機漸機を区別して教えることは阿弥陀如来の広大なお慈悲に対するとんでもない法謗だと考えますし、教行信証方便化身土巻を読み間違えていると考えます。

真宗で勧められているのは諸善の勧めというよりは、無常と罪悪に驚いて速やかに名号を信受することです。また、抑止門で造悪は戒められています。

善の実践を通して善の実践ができない自分が知らされていき、やがて我が身の無常と罪悪に驚く、という教え自体は浄土真宗には含まれていません。

【又いわく、夫れ速に生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中、且(しばら)く聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲はば正、雑二行の中、且く諸々の雑行を拠(なげす)てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正、助、二業の中、猶助業を傍(かたわら)にして選んで正定をも専(もっぱ)らにすべし、「正定之業」とは即ち是れ仏の名を稱するなり、名を稱すれば必ず生ずることを得、仏の本願に依るが故なりと。】
(選択本願念仏集)
親鸞聖人はあくまでもこの教えを踏まえて説かれています。

No title

おうさんに同意です。また、親鸞聖人の三願転入のご文は今生だけのことをおっしゃられているのではないと思います。つまり、前世で救われなかった人すべてが今生で19願からやり直さなければならないというわけではありません。聖人は「久しく万行諸善の仮門」におられたと書かれていますが、これは比叡の山の20年どころのことをおっしゃったのではないと思いますし、そもそも弥陀の本願を求めていたわけではありませんので、この時期を19願に含めるのかは疑問です。また「双樹林下の心」すなわち、体失往生しようと思っていた、ということです。ということは20願・18願に進むために諸善をしていたわけではありません。救われた後に振り返ってみて20願・18願と進ませていただくための方便だったと分かるのではないでしょうか?まずは19願からはじめよ、というのでは善恵房と同じになってしまいませんか?体失・不体失往生のじょう論をされたことと矛盾しませんか?
今生において18願を聞いても、直ぐには信じられず、機に従い、19願から始まる人、20願から始まる人がいるのではないでしょうか?それはちょうど浄土門の説法を聞いても信じられず、別時意趣と思い、聖道門にとどまる人がいるように…。
また、「諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに 往生浄土の方便の 善とならぬは  なかりけり」のご和讃は積極的に諸善を勧めておられるとは思いません。「往生浄土の方便の 善とならぬは  なかりけり」=「ならないこともない」と回りくどい言い方をされています。つまり、18願を聞いても直ぐには信じられず、機に従い、諸善万行を行うことがあるとすれば、往生浄土の方便の善にならないこともないので否定するものではありませんよ、ということではないでしょうか?
ちび丸氏の見解を求む。それからこれから出かけるので、相対化に対するコメントは向こうに着いてからにします。

分かりにくいのでちょっと解説

RE: 聖人は「久しく万行諸善の仮門」におられたと書かれていますが、これは比叡の山の20年どころのことをおっしゃったのではないと思いますし、そもそも弥陀の本願を求めていたわけではありませんので、この時期を19願に含めるのかは疑問です。また「双樹林下の心」すなわち、体失往生しようと思っていた、ということです。ということは20願・18願に進むために諸善をしていたわけではありません。

「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」というのは「永い間体失往生をしようと思って、万行諸善を行ってきたが、結果として20願に入った」ということであり(これも救われて振り返って分かること)、「20願・18願に進もうと思って諸善をしていた」というのではない、ということです。万行諸善と双樹林下往生=体失往生はセットになっているものであり、20願・18願に進むために万行諸善をしなさい、と教えるのは違うように思います。

No title

> 「往生浄土の方便の 善とならぬは  なかりけり」=「ならないこともない」と回りくどい言い方をされています。

二重否定だから肯定よりも意味が弱いという解釈のようですが、私は逆だと思います。
「ならないものは(一つも)ない」ということですから、単に「なる」というよりも強い表現だと思います。

ちび丸氏よ

なぜに答えぬ?

ついでなので「横レスですが、ちょっと。」氏のコメントについても意見を求めます。


「横レスですが、ちょっと。」さん、

なかなかやりますね。貴殿にコメントするのはちび丸氏のコメントの後にいたします。別に時間稼ぎをしているわけではありません。本日中にちび丸氏のコメントがない場合、明日はアニメ解説なので明日もないかもしれません。月曜日も待ってちび丸氏のコメントがない場合、遅くとも火曜日中には回答いたします。

おうさん、自称福徳会員さん、ありがとうございます。

おうさん、自称福徳会員さん、ありがとうございます。
長年の疑問だったところですので、意見交換ができて嬉しいです。
親鸞会で聞いても、ちび丸さんの回答を丁寧語にしただけのような回答しか得られませんでしたので・・・。

(おうさん)
>しかし、それは、信心獲得して佛智によって
>知らされることであって、少なくとも後生に驚
>いた信前のものに対して十九願の法門の
>実践を勧められる教えは浄土真宗には含ま
>れていない、と私自身は考えています。

 浄土真宗の信者となるのは、信一念を突破したときだと理解しております。
 つまり、私なんかは聖人のみ教えを尊敬していますが、心根は聖道門の信者であり、浄土仮宗の信者であると思います。それに対して、親鸞聖人は、聖道門を捨てよ、浄土仮宗を捨てよ、浄土真宗を信じよと教え勧められたと思います。

 私も10年以上、高森先生から聞かせて頂きました。
 善ができぬ者、断善根の衆生、一生造悪全てそのとおりであり、弥陀の本願によらねば助からない。全てそのとおりだと思います。
 しかしながら、頭の中はもう何年も前に18願の世界に転入しているのに、なぜか救われません。
 それは要するに、心底では聖道門・浄土仮宗を信じているからだと思います。
 だから、浄土真宗は、善によって救われるのだという教えがないのは当然だと思います。

 18願の願意を聞いて、18願の救いを求めるのは、自分が一生造悪の者であるという自覚がある人だけであり、そうでない人は18願の願意を聞いても、「自分は19願・20願で救われるんだから、18願なんか要らない」とはねつけている。
 「そう思うのだったら19願20願大いにやってみなさい」と勧めるのは別に問題ないと思うのですが・・・。

(おうさん)
>そのような人に対して勧められるのは、
>あくまで「他力の念仏を称えること、
>そのために佛願の生起本末を聞かせて
>いただく聞法」であり、その結果称える
>信前の念仏は獲信までは結果的に十九願、
>または二十願の念仏になってしまうことでしょう。

 18願の願意の聞法により、自然と19願・20願の道を進むというのが理解できないところです。
 一生造悪の衆生を聞即信の一念で救うという本願ですから、そのような本願を聞いて、なぜ諸善万行や称名念仏を勧められた19願・20願を通ることができるのでしょうか。

 つまり、「18願のみで救われるの人もいるのであり、全ての人が三願転入するとは限らない」ということなら「18願の説法のみでよいのだ」ということも論理一貫していると思います。あとは、「全ての人が三願転入するのか、それとも三願転入しない人もいるのか」という問題です。

 しかし、元講師の方が仰るような「全ての人は三願転入する」ということと、「18願のみ聞いていればよい」ということが矛盾しているように思うのです。

(おうさん)
>法然上人のご法座をたまたま聞いて獲信したという、
>元盗賊の耳四郎、あるいは東條英機氏を正しい信心
>の持ち主と親鸞会は認めていると私は認識しています。
>さて、速やかに獲信した彼らがいつ菩提心を起し、
>定善・散善のさまざまな善根功徳を修することを教える
>十九願の法門を実践したというのでしょうか?

 このへんも「三願転入しない人もいる」ということなら、別によいと思うのです。
 ただ、「全ての人が三願転入する」ということと、「18願のみの聞法でよいのだ」ということが矛盾しているように思うところです。

 ちなみに親鸞会では確か過去世で善を励んでいた人だということだったような気がします(はっきり覚えておりませんが)。こういう説明なら一応説明はつくのかなあとも思います。

(自称福徳会員さん)
>20願・18願に進むために万行諸善をしなさい、
>と教えるのは違うように思います。

 仰るとおりだと思います。善を勧めるなら、「善ができたら化土往生できるのだから一生懸命やりなさい」と勧めるべきだと思います。
 「善ができない」と言いながら、「善を実践しないと善ができないことが知らさない」と言うから聞いている方が混乱するのだと思います。
 たとえこれが真実であるとしても、これを聞いた方は「じゃあ善ができないことを知らされるために、まずは善を頑張ろう。できないことが分かったらいいんですよね。」となるのでまずいのではないかと思います。

 つまり、三願転入を説くなら、大沼法龍師のように「化土往生できる人もいる」と勧めるべきだと思いますが、高森先生の教えられ方は、華光会と大沼師の折衷的な説き方になっているので、聞いてる方が混乱するのではないかと思います。

 以上が親鸞会で聞いてきた三願転入の私の今の理解です。
 ご意見頂戴できれば幸甚です。

あくまで私見です

NNN さん

RE:「全ての人が三願転入する」ということと、「18願のみの聞法でよいのだ」ということが矛盾しているように思うところです。

「18願のみの聞法でよい」と思います。48願のうち十方衆生とお約束されている願は三願だけですが、私たちが救われるために必要でない願はひとつとしてありません。しかしながら、高森先生がご説法されるのは三願と第17願程度ではないでしょうか?少なくとも「48願すべてを聞かなければ救われないということではない」ことには同意いただけますよね。十方衆生は過去世も含めかならず三願を通って救われます。そのためには三願は必要ですが、必ずしも19願、20願を聞く必要はなく、18願を聞けば機に従い、19願、20願の心が出てくるのだと思います。手元に真宗聖典を持ち合わせていなくて正確に示すことができずに申し訳ありませんが、「教えなくとも念仏するようになる」という意味の和讃があります(内容からして浄土和讃だと思います)。ここで言う念仏は明らかに自力の念仏のことをおっしゃっていることと解釈できます。

「横レスですが、ちょっと。」さん、

三願転入は核心をついた内容のようでちび丸氏が逃げているようなのでお答えします。

RE:『> 「往生浄土の方便の 善とならぬは  なかりけり」=「ならないこともない」と回りくどい言い方をされています。

二重否定だから肯定よりも意味が弱いという解釈のようですが、私は逆だと思います。
「ならないものは(一つも)ない」ということですから、単に「なる」というよりも強い表現だと思います。 』

「なかなかやりますね。」と書いたのは貴殿が巧みな書き換えをしているからです。紳士的な文面ですのでなおさらだまされて(ちょっと言葉がきつくてすみません)しまいました。正直、5分くらい考えてしまいました。もっともこの書き換えは悪意(故意)で行ったのではなく、たまたまやられたのだと理解しております。

「ならないものは(一つも)ない」と「ことごとく」に相当する(一つも)という言葉をここに入れたために強くなる印象を受けてしまいます。貴殿の言葉を以下に書き換えさせていただきます。こちらのほうが原文(和讃)に近いので異存はないと思います。
「ことごとくならないものはない」(二重否定)
「ことごとくなる」(単純肯定)
さて、どちらか強く感じられますか?単純肯定より強いのは反語で「ことごとくならないことがあろうか」という表現になります。
以下に例を出します。(あくまで創作であり事実とは限りません)
ちび丸氏は複数の者からなるが、ことごとく不倫局長の側近でないことがあろうか?(反語)
ちび丸氏は複数の者からなるが、ことごとく不倫局長の側近である(肯定)
ちび丸氏は複数の者からなるが、ことごとく不倫局長の側近でないことはない(二重否定)
ご納得いただけましたか?

なお、不倫局長のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x
以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

長文となり、もう疲れましたので相対化については明日書き込みを行うことにします。

不正確な表現なので修正

「十方衆生は過去世も含めかならず三願を通って救われます。そのためには三願は必要ですが、…」

「阿弥陀仏は十方衆生を救うために三願を立てられたので、十方衆生は過去世も含めかならず三願を通って救われます。しかし、…」

(因果関係が逆に表現してしまいました)


不倫局長の例文の件、下品ですみません。しかしながら、不倫局長の不利となること(といっても事実なのであるが)、側近であるちび丸氏はあわてて出てきますので…。

No title

金剛の真心に暗き哀れさ

(1)本願寺に同居する十劫安心と三業安心

「こんな説法、いくら聞いても信心決定できない」
「信心を獲るコツがある」
 獲信を急ぐ親鸞学徒に、こう言って近づいてくる者がいる。土蔵秘事とそれに類するものである。
「うちの会には獲信した者が多い」と吹聴して、純真な求道者を集めていると聞いて、京都に本拠地をおく浄土真宗本願寺布教使の華光会を訪ねてみた。

◆京都の本拠地へ潜入◆

 八月五日(平成十年)、京都はうだるような暑さ。五年前にも訪れたが、会館の規模は変わらぬものの、建て替えられ、四階ほどのビルになっていた。
 団体名の下に、中心人物の家族名がズラリと並んでいる。私邸も兼ねているようだ。ピアノ教室、書道教室、会場提供の看板まで掲げてある。幼稚園や駐車場経営に奔走する世間の寺院と大差はない。
 玄関の扉は閉ざされていたが、インターホンで呼び出すと、主人の息子がTシャツ姿で現れた。グループのナンバー2に当たるらしい。
「少し、お話を聞かせてもらいたいのですが」
「あいにく、今日は、二件、先約がありますので……」
「その人と一緒に聞かせてもらっても、いいのですが……」
「いや、個人的にお話ししなければなりませんので、そういうわけにもいきません」
「二件ともですか」
「そうです」
 一人でも多くの人に伝えねばならぬのが、親鸞聖人のみ教えのはず。わざわざ訪ねてきた者にすら、一向に伝えようとしない閉鎖性にガッカリ。
「では、館内を見せてもらえませんか」
「それくらいなら、どうぞ。あいにく、昨日、子供の行事があって、ちらかったままですが……」
 通された二階の広間は、四、五十畳ほど。たしか五年前訪ねた時も、この程度の広さだった。改築したのは、どうも参詣者のためでなく、単に居住者のためだったようである。ほかの部屋は、みな書道やピアノの教室。廊下には、子供たちの書いた習字が展示されていた。

◆華光会の信心は人それぞれ!?◆

 一通り見た後、息子氏に問うた。
「こちらの雑誌に、『獲信した時はよく分からなかったが、後からじわじわ知らされてきた』とありますが、信心獲得とは、そんなものですか」
 息子氏曰く、
「そういう人もあります。ハッキリする人もある。人それぞれ違うんです。業は一人一人違うのですから……。私はもう準備しなければなりませんので、これで」
 こう言い残して、息子氏は姿を消したが、どうも信心同異の諍論も知らないらしい。
「信心のかわると申すは自力の信にとりての事也。すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり」(御伝鈔)
"信心が異なるのは、自力の信心だからである。各自の知恵や学問、経験、才能で造りあげたのが、自力の信心。知恵や学問などは千差万別だから、それらで造りあげた信心は、みな異なってくるのである"
 法然上人は、
「この法然と異なる信心の者は、浄土へは往けないぞ。後生の一大事、よくよく心得よ」
と、戒めておられる。
「一人一人信心は違う」と言うだけでも、他力の信心と懸け離れた噴飯物とよく分かる。

◆華光会に「獲信」者の多いワケ

 かつて実際に、彼らの言う「獲信」場面を見た人の体験談を紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
 それは、夜、薄暗い講堂に車座のグループがいくつか、散在する形で始まった。
「後生が苦になって、聞いても聞いても獲信できない」という人が真ん中に座り、グループの者が取り巻く。
 そして、周り中から、「こんな悪いこと、してないか」「こんな恐ろしいこと、思ってないか」「これでも分からんのか」「今晩死んだらどうする」などと、罪悪と無常を責め立てる。感極まって「ワーッ」と泣き出すまで追い詰めてゆく。
 誰しも意地や我慢で、多少のことでは泣かないが、長時間、身に覚えのある罪悪を並べたてられては、たまらない。「悪うございました。私が悪うございました」と、這いずり回って懺悔する者もいる。すると、みんなが寄ってたかって、「よかったね。よかったね」とともに念仏しながら喜ぶ。本人も獲信した気になり、泣いて念仏称えて喜ぶ。
 中には機関銃のような念仏して踊り狂う者もある。それらを見ていて、「私にもお聞かせください」と輪の中へ飛び込んで、信心を獲ようとする。そして、同じように泣いたり喜んだりすると、みな獲信したと喜ぶ。
 見ている人は感情的にマネをしようと一心になる。こんなことで、一晩に何人もが「獲信」することになる。
     *  *  *  *  *  *
 まさに、人工信心花ざかりであったという。

◆「それでよい」と言われて獲信したつもり◆

 華光会の出版物にある彼らの「獲信」の記録を見てみよう。
     *  *  *  *  *  *
 ある日、呼び出された私は五人の同行に囲まれ、膝詰めで厳しく問い詰められました。
「お念仏申すしかない!」
「腹の底から称えなさい」
 私の念仏は、やがて嗚咽の念仏となり、さらに全身をゆるがす号泣の念仏となってゆきました。すると、その場のみなさんは、「よかった、よかった」と言ってくれたのですが、奴凧の竹ヒゴを抜かれたようにフニャフニャになった私にはどうしてこの状態がよかったのやら、分かりませんでした。後からジワジワと分かってくるようになりました。
     *  *  *  *  *  *
 このような程度の「獲信」の体験談が、うんざりするほど並べられている。中にはこんなものもある。
     *  *  *  *  *  *
"当流には捨て物と拾い物がある。これが分からねば百座千座の聴聞も何の役にも立たぬ"と書いてある本を読んで私の信仰は崩れた。"捨て物と拾い物"が分からない。これでは落ちてゆかねばならぬ。これまで信じ切り、頼りにし切っていた仏教も何の助けにもならず、真っ暗な底へ落ちてゆくばかり。どうしようもない。ここで私は、落ちるという体験をしたわけであります。真っ暗な古井戸の底へ落ち込んでゆくような体験と、そのままに身を任せている安堵感とが、一枚になった喜びが心の中に込み上げてきました。体中の血がナムアミダブツナムアミダブツとわき立っていました。
     *  *  *  *  *  *
 これは、獲信者が少ないと本会を批判している幹部メンバー氏の「獲信」体験の告白である。
「こんな体験なら、今まで何度もあったよ」
 これを読んだ法友が笑った。なるほどこれなら、獲信者が多いというのも頷ける。だが、真実信心に昏きことの哀れさと恐ろしさが知らされるだけである。
「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(親鸞聖人・教行信証真仏土巻)
 親鸞学徒は、この聖人のご悲嘆を風化させてよいはずがない。

◆真仮を知らぬ定散自力の信心◆

 彼らのおもな特徴をあげておこう。
(1)「信心を早く獲させるコツがある」と広言し、個人教誨しかしない。
(2)求道者が感情の興奮によって泣いたり喜んだり踊ったり、激しく念仏したりすると、獲信したように言う。
(3)獲信したと思っている周囲の者も、こぞって「めでたい。めでたい」「よかった。よかった」と言うので、本人も獲信したつもりになる。
(4)そして、「我こそ信心を獲たり」「あんたらはまだ獲信できんのか」と平然と言う。
(5)本当に弥陀の本願に救われた人なら、より聞法せずにおれなくなるものだが、彼らは助かった後は、もう聞く必要はないとして、聞法する気がない。
(6)大衆の前で説法しない。
(7)当然だが、堂々とした布教活動はまったく見られない。

 信心を獲るコツがあるなら、「みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」の親鸞聖人や蓮如上人がそのコツとやらを教えられてないはずがない。
 真実信心は、他人から決めてもらう信心ではない。阿弥陀如来から直接賜る大信心である。周りの人から「よかったね」「めでたい」「それでよいのだ」などと言われて、やっと、これで獲信したのかと喜ぶような信心ではないのだ。
 親鸞聖人は、救い摂られた驚きと慶びをこう告白なされている。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
(親鸞聖人・教行信証総序)
"ああー、多生にも値い難い弥陀の本願に、今、値えた。億劫にも獲難い真実の浄信を今、獲たり。どんな宿縁あってのことか、親鸞、慶ばずにおれない"
 二十年や三十年で獲られる信心なら、「億劫にも獲◎し」と言われるはずがない。
 親鸞学徒は、これら定散自力の信心をぶち破り、聖人が身命を賭して開顕してゆかれた、真実の信心を、全身全霊、明らかにしなければならない。

(2)出版物に氾濫する"獲信"の文字 その実態は……

「千万の化城がある」と言われるように、真実の信心までには、獲信した「つもり」に陥る落とし穴が無数に存在する。
 ところが、そんな自力の信心を真実信心と思わせ、大衆を惑わしている本願寺布教使の肩書をもつグループがある。続いて、彼らの獲信の体験の実態を紹介しよう。

「うちの会には獲信した者が多い」と嘯く、某本願寺布教使グループ(本拠地・京都)の出版物が、多数手に入った。開いて見ると、「獲信」体験談のオンパレードだ。

◆裸で躍ったのが獲信 M氏の"銭湯"安心◆

 まずは、先生と呼ばれる一人、M氏の、銭湯で信心を獲たと語る体験である。
     *  *  *  *  *  *
「またお念仏を、利用したのではないか」と思った時、ひらめきが来た。「あわれ! 念仏しようとした心は私の心ではないぞ!念仏申さんと思い立つ心や。弥陀廻向の心や。それを自分が念仏しようとしたと思うとった。仏さまはここにおったんや! それを何と愚かなことを!」と目を覚まさせてもらった。銭湯が、歓喜鑽仰の場に変わった。あがって体をふいていたら、言いようのない喜びがわいてきて足の踏み場もなく、ピョンピョンと小躍りしたり、天高く合掌したりせずにおれなかった。
     *  *  *  *  *  *
 感情の興奮によって泣いたり喜んだり踊ったり、激しく念仏したりすると、こぞって「獲信したんだ」「よかったね」「めでたい」と言われる現場を、M氏自身、見てきたのだろう。「裸で躍るくらいの喜びだもの。これが信心獲得に違いない」と思い込んでしまったらしい。
 こんな程度の喜びなら、親鸞学徒は、毎週でも味わっている。事実、大学時代に真実知らされた筆者も、嬉しくて念仏が止まず、思わず知らずキャンパスを『正信偈』を口ずさみながら、スキップしていた記憶がある。
「嬉しくて嬉しくて、仕方ないのです。これが信心決定でしょうか」と尋ねる筆者に、先輩はやさしく、「他人に聞かねば、分からぬような信心ではありませんよ」と教えてくれた。もし、あの時、「そうだよ。それでいいんだよ。よかったね」とでも言われていたら、完全に「人工信心」に、はまっていただろう。善き師、善き法友に恵まれたことを喜ばずにおれない。
 喜んだとか、踊ったなどという我々の三業と、信心とは関係ないのだが、このグループでは、M氏のような「つもり安心」の輩が「先生」と呼ばれているのである。そんな「先生」の体験記を読んで感心している者は、またもや、人工信心に陥ってゆく。

◆「自分の信心はダメなのでは……」 それでも獲信したつもり◆

     *  *  *  *  *  *
 M先生の体験記を開き、読んでゆくと妙に引っ掛かるところがあり、そこを何度も繰り返し読みました。自分は何を頑張っているんだろう。M先生みたいに裸で躍ればいいじゃないか。南無阿弥陀仏が出ないと言うけど、今まで、たとえ口先だけとは言いながら、称えてきた南無阿弥陀仏はどうなんだ。それはお前が称えた南無阿弥陀仏か。そこまで自問自答した時、魂の奥底にズシン!と響きました。その体験が何であったか、直後はまったく分かりませんでした。それからも、有り難い気持ちがなくなると、焦りまくり、「自分の信心は駄目なんじゃないだろうか」と思い悩みました。友人から「自分の中から、いいものが出てくるわけがないじゃないの」とアドバイスを受けたりしました。
     *  *  *  *  *  *
 彼らには、親鸞聖人の教えられた真実の信心が、まったく教え知らされていないことが分かる。
「真心徹到するひとは
 金剛心なりければ
 三品の懺悔するひとと
 ひとしと宗師はのたまえり」(親鸞聖人・高僧和讃)
 真実信心の人は金剛心になると言われている。
「如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を金剛心という」(後世物語聞書)
 どれほどの人から、いかなる非難を受けようと、微動だにせぬのが他力金剛の信心だ。それなのに「自分の信心は間違っているのでは……」と不安になるのは、金剛心どころか、定散自力のコンニャク信心に他ならない。
 M氏の迷った体験が、さらに迷いの衆生を生んでいるのだ。まさに、「一盲衆盲を引いて以て火坑に堕つる」(仏蔵経)の惨状である。

◆明信仏智とはどんなこと◆

 華光会の機関誌に度々登場しているTさんの体験はこうだ。
     *  *  *  *  *  *
 その時は、まだ「分かった」という感じではなかったのですが、何か、この「分からへん」というのが肩の辺りにドンと乗っかっていたのが、スウッとなくなったような感じがしました。「はっきり分かった。頂いたなあ」という感じはなかったし、号泣念仏ということもなかったのですが、大嫌いだったお念仏を称えるのにも力が入らずにすむようになりました。
     *  *  *  *  *  *
「ハッキリ分かった感じはなかった」というが、地獄行きの泥凡夫が、極楽往き間違いない身に救い摂られる明信仏智の体験を知らない。
「命のうちに不審もとくとく霽れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」(御文章)
 ツユチリほどの疑心があっても、と蓮如上人が戒めておられる通りだ。救われた大自覚がなければ、明信仏智とはいわれない。

◆消極的退嬰的自力の信心(華光会)◆

 しかし、真仮の水際のたたぬTさんを、彼らは「獲信の人」と大々的に宣伝し、機関誌に担当のコーナーを持たせたことまである。
 Tさんのコーナーをのぞいてみると……。
     *  *  *  *  *  *
 幸いにも、真実の教えである浄土真宗に出会い、お念仏を頂く身にさせていただきました。にもかかわらず、いざ、人にお勧めするとなると、いろいろと悩みも多いのです。「うさんくさく思われないか」とか、「友情が壊れないか」との懸念から、ためらいがちになり、結局「まあいいか」となってしまうのです。
     *  *  *  *  *  *
 自力信の、消極的退嬰的化石の見本のような告白である。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪に伏し、剣で迫る弁円に、御同朋と諭された祖師聖人の、慈悲のかけらも見られぬ。無法な弾圧にも敢然と立ち向かわれ、身命を賭して一向専念を叫び抜かれた逞しさの片鱗も、感じられぬ。
「弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり」(親鸞聖人・浄土和讃)
「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」(親鸞聖人・正像末和讃)
 三業の善悪で信心は計れないが、信心は必ず三業に現れる。真実の信心を獲た人には、常に仏恩報ずる念いがあると、親鸞聖人は仰有っている。聖人のご一生を見れば、それはあまりにも明らかだ。
「十方にひとしくひろむべし」
と親鸞聖人は不惜身命、進まれたが、彼らは十方どころか一方にも伝えようとしない。
 誌面を埋め尽くす、こんな程度の体験談を読まされている者は、似た体験をすると、「これが獲信か」と思い、周囲からも「それでいい」と認められて安心し、獲信した「つもり」になってゆく。
 浄土真宗の獅子身中の虫とは、まさに、彼らのことだ。

 自力の信心はピンからキリまである

 ここで、ある親鸞学徒の体験を紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
 二十八のときでした。隣家に、四国の布教使・Nさんが来ていると聞き、夜、母と一緒に訪ねました。他に四、五人来ていて、壁には地獄の掛軸と、骨と皮の仏の掛軸とが掛けてありました。
 Nさんは地獄の掛軸を指し、
「お前たちは毎日悪いことばかりやっているから、死んだら地獄へ堕ちるのだ」
と一時間ほど話をしました。反省してみると、なるほど善いことはない、悪いことばかりです。だんだん恐ろしくなり、家へは帰らずに聞こうと決心しました。
 ちょうど二日目の夜中、Nさんが大きな声で、
「この中に仏を粗末にして、神信心している者がいるだろう。そんな者は臨終にろくな死に方をしないぞ」
と言いました。それは自分だと思ったとたん、目の前が真っ暗になり、業魂がさかとんぼで地獄へ堕ちてゆくのを見ました。それは墨のような黒さでした。自分一人で苦しんでいます。
 すると、Nさんが、
「立て立て」
と言い、四、五人の同行が、私をお内仏の前まで連れて行って、
「今、お前は救われた。喜べ、喜べ」
と言ったそうです。その時私は意識がなく、覚えがないのですが、何回も言っていたそうです。
 すると、ようやくその声がはるか遠い所からのように私に聞こえてきたのでした。気がついた時、目の前に阿弥陀さまがにっこり笑っておられる姿を見て、仏にすがりました。お内仏の阿弥陀さまでした。そのとき私の心に大きな喜びがわき起こってきました。
 あんな喜びは生まれて初めてです。嬉しくてかなわん、と叫び続け、さっそく、家へ帰り、寝ている家内に、
「仏法聞け、仏法聞け」
と叫び、阿弥陀さまに参って、また隣家へ行きますと、
「お前は救われたのだから帰りなさい」
と仰有るが、嬉しくて帰れません。
 とうとう夜が明け、朝一番に寺に行き、住職に、
「仏法聞いてください」
と叫び、道行く村人にも、
「仏法聞いてください」
と叫び続けました。村の者は気が狂ったのだと私の顔を見ました。確かに、自分ながら変わり果てたのに驚きました。
 二日ほどは仕事も手につかず、嬉しくてたまりません。しばらくして、Nさんは四国に帰ってゆきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんな体験談を聞くと、彼らは獲信したに違いないと思うだろうが、この話には、続きがある。
     *  *  *  *  *  *
 それから仏法が聞きたくなり、お寺参りをしました。ところが、「死んだら助けてくださるから、念仏喜びなさい」との話ばかり。真実を聞かせてくださる方はないかと思っていると、ある人が、
「あんた、仏法を喜んでいると聞いたが、今、宇賀野の寺へ若い布教使さんが来ておられる。分かりやすく話してくださるから、あんたも参らんか」
と言うので、さっそく、母と一緒に自転車で宇賀野の寺へと走りました。
 寺は大勢の人で座る場所もないくらいです。なるほど若い方でしたが、黒板を使って話される一席を聞き、この方だ、と心が叫びました。それが、高森先生との出会いでした。それから続けて、高森先生より真実の仏法を聞かせていただくようになりました。

◆崩れた自力の信心◆

 ある時、『観無量寿経』の韋提希夫人の獲信の話を聞かせていただきました。
 釈尊は、獄中で苦しむ韋提希夫人に説法されました。が、最後、
「善知識の仕事はこれまで。これからは弥陀の仕事である」
と釈尊は姿を消され、阿弥陀仏にバトンタッチなされたと言われた時、
「あれ、おかしいな」
と思いました。そして、私の信心はダメだと気づいたのです。
"Nさんは「今救われたのだ。喜べ」と言ったが、それは阿弥陀仏の御声でなかった。親鸞聖人は、「信心決定すると韋提希夫人と等しい世界に出る」と教えられるが、私の体験には、合わない所がある"
 後生が急に心配になり、その夜は一睡もできず、明朝、高森先生に、今まで喜んできた話を、一部始終聞いていただきました。私の信心が人工信心だったことが、明らかに知らされました。
 聖人が「難の中の難、これに過ぎたるは無し」と仰有る通りの極難信と知らされます。
     *  *  *  *  *  *
 他人に言わずにおれぬほど喜んでいても、人工的に造られた信心は、必ず崩れるのだ。
 
 親鸞学徒の聖使命

「定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し」(親鸞聖人・教行信証信巻)
 祖師聖人は「金剛の真信」を開顕されるため、法友三百八十余人と争われ、我が子さえも切り捨てられて、真実一路、突き進まれた。
 ひたすら聖人のみ跡を慕う我ら親鸞学徒もまた、いかなる非難攻撃にも屈せず、あらゆる人工信心を徹底的に打ち破り、阿弥陀如来から直に賜る他力の大信心を、全身火の玉となって、開顕しなければならない。

(3)頭がいい加減だから皆狂う「つもり」信心グループの悲劇

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」(正信偈)
 阿弥陀仏の本願海に帰入しなければ、十方衆生は金輪際救われない。
 そんな我らを無上仏は、無類のご念力で、功徳の大宝海へと導いてくださっている。
 邪教邪宗の者も例外ではない。つもり人工信心の誤りに気づき、本会とご縁を結んだ人から、そのあきれ果てた実態が記された資料が多数もたらされた。

 昭和五十年代から平成十年まで、彼らの機関誌は、どの年を開いても、「獲信」の体験談で埋め尽くされている。

◆巻頭飾る「会費未納者安心」◆

 まず目についたのは、華光会のナンバー2・M氏の「誌上法話」である。中で語られている「獲信」体験談を抜粋しよう。
     *  *  *  *  *  *
 Bさんは、法座の会計係で、会費を徴収したが、どう計算しても一人分足りない。自分が引き受けた以上は責任があるので、自腹を切られた。そして帰宅して家計簿をつけてみたら、「出してないのは私だった」とがく然とされたそうです。自分のことは棚に上げて、他人ばかりを疑っていた。本当に我ながら、ホトホト愛想が尽きる。情けない自分だと、台所に立ち尽くして、涙があふれてきたそうです。その時、「ああ! こんな私に愛想を尽かさず、寄り添ってくださるお方がおられた!」と気づかれた。
     *  *  *  *  *  *
 これが獲信だと仰有る。
「会費未納者安心」とでも言おうか。「こんな程度の体験なら、くさるほどある」と思われた読者も多かろう。
 しかし、これが彼らの「法話」であり、こんな体験が獲信なのだと、堂々と巻頭を飾っているのだ。誌上で紹介されたBさんは、いよいよ「これでよかったのだ」と安心し、読者もまた、「なるほど、こんな体験が獲信か」と納得してゆく。

◆「先生」によいと言われて翌朝ようやく安心◆

 本人の目前で認定されれば、なおさらだ。
 Hさんは、それらしき「体験」をしたが安心できず、「先生」に認定を受けて、確信するようになったという。以下はHさんの体験談だ。
     *  *  *  *  *  *
 ご示談に入るのを待って、早速先生に(私がした体験を)お話ししました。先生は、私の顔をジーッと見て、「それが、如来さまのご回向にあうということです」と、はっきり申されました。しかし私の心は、「エエ? これがご回向さま? これが信心?」と納得できません。私には、心中がもっとはっきりして、法悦が表現できるものと思っていたのです。「先生、私には、何かまだよく分かりませんが……」と申しましたら、先生は、「いや、このままでよろしい。これから後に、だんだん分かってきますから」と言ってくれました。「ハイ」とお返事はしたものの、よく分からないままお別れしました。翌朝、しみじみ実感されてきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんなのを彼らは獲信だと思っているのだ。
「獲信」した時も不安なら、「先生」に「このままでよい」と言われてもなお、よく分からなかったとある。が、他力信心は、そんな曖昧な体験ではない。
「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり」(御伝鈔)
 親鸞聖人の獲信は、こう記される通りの、明らかな体験であり、ご著書はすべて救われた歓喜に満ち満ちている。
 蓮如上人も『御文章』に、
「他力の信心ということをば今既に獲たり―乃至―今こそ明かに知られたり」
と仰有っている。
 ハッキリしなければ安心できない。兎の毛、羊の毛の先にある塵ほどの疑心があっても救われたとは言えぬから、親鸞聖人は、『教行信証』に九回も、
「疑蓋(疑心)雑ること無し」
と書かれているのだ。
 Hさんのような「これがご回向さま?」「これが信心?」などという疑心のある他力信心など絶対にないのだ。
 また、真実信心は、時間がたってから、じわじわと知らされてくる体験でもない。
「夫れ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。一念とは、是れ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(親鸞聖人・教行信証信巻)
 真実の信心には、一念がある。一念とは疑い晴れて大満足に開発したひとおもいを言い、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、今まで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ渡った一念、驚天動地の一刹那をいう。
 聖人は、
「極速円融の真詮」
とも仰有っている。長い間かかって少しずつ諦得する信心なら極速とはいわれない。聞即信の一念の早業で、微塵の不足もなく大満足させられるから円融の真詮といわれるのである。
 曇鸞大師は、
「譬えば千歳の闇室に、光若し暫く至れば、即便ち明朗なるが如し。闇豈室に在ること千載にして去らずと言うことを得ん耶」(浄土論註)
と教えられた。千年前から闇に閉ざされていた部屋も光がさし込んだ瞬間に、闇が晴れるように、阿弥陀仏の不可思議の願力に摂取されるのは、一瞬のことなのだ。
 真実の信心は、Hさんのように他人に「それでよい」と言われて初めて安心し、翌朝ようやく実感するような信心ではないのである。

◆「つもり」獲信のマネに一生懸命◆

 彼らは、獲信した「つもり」信者のマネをして、自分も「獲信」しようと一心になる。T氏はその経緯をこう語る。
     *  *  *  *  *  *
 M先生が、Kさんに言われた言葉を思い出しました。それは、Kさんが、信心がハッキリしなくて泣いて、泣きつかれた後、ボーッとしている時のM先生の言葉でした。
「自分を投げ出すんよ」
「投げ出すには、どうすればいいんですか」
「そのままでいいんよ。そのまま、何も考えなくていいんよ。そっちの方が楽ちんやろ」
「はい、楽です」
「それでいいんよ。その楽なままでいいんよ」
と。
 その言葉を思い出すと、とても楽な気持ちになりました。フト仏壇を見ました。すると仏壇の色紙の「ありがとう」の文字が、目に飛び込んできました。それが、阿弥陀さまの言葉に感じられたので、「万歳、万歳、ばんざーい」と跳び上がって喜びました。
     *  *  *  *  *  *
 これがまた獲信だと彼らは信じている。
 T氏も、T氏がマネをしたKさんも、自力の計らいを捨てたつもりだが、「何も考えない」ように「計らって」いることに気づいていない。
「何も考えない」のは他力ではなく、「無力」である。が、こんな自称「獲信の人」のマネをして、「これでいい」と思い込み、安易な気休め信心が増えてゆく。

◆「マネでもよい」◆

 自称獲信者どころか、阿弥陀仏のマネをさせられた人まである。O氏の体験は、こうだ。
     *  *  *  *  *  *
「こっちに座って、阿弥陀さまの気持ちを言ってみなさいよ」
 M先生は言った。そんなことで阿弥陀さまのお心が私に分かるのか、どうしてこんな芝居じみたことをさせられるのかと、席を動かないでいた。
「さあ、お願いだから、マネでもよいからやってみて、Oさん」
 もう一度先生に優しく促されると、馬鹿馬鹿しく思いながらも、みんなの手前立ち上がらないわけにはいかなかった。
「ここに座って、向かいの人に言うつもりで、阿弥陀さまの気持ちを考えてみて」
「哀れやなあ。いつまでぐずぐずと、何をしているのや」
 胸の奥から熱くなる思いが込み上げてくると、涙とともに言葉が飛び出してきた。
「まだ何か、言われてない?」
 M先生の声が遠く聞こえた。
「はよ来い。はよ来い」
と、口をついて出てきた。しかし同時に、熱い感動を冷やすような冷静な調子で、「そんなものは、一時の感情だよ……」と、ささやく心があった。すると、熱い感動が急速に冷めてゆくのが分かる。今の興奮が嘘のように、白々とした気持ちになってくる。言葉が続かなくなった。
「もう、駄目です、先生」
「Oさん、今の言葉が、阿弥陀さまですよ。あんたが自分で自分を"哀れやなあ"と、言えますか?」
 席に戻られた先生が笑顔で話された。
「えっ、今のが阿弥陀さま?」
 意外な先生の言葉に驚くとともに、私にも阿弥陀さまが付いておられたんだと、何とも言えないうれしさが満ちてきた。
     *  *  *  *  *  *
 こんなので、また獲信。
「一時の感情ではないか」と本願を疑っているのは未信の証拠だ。感情にだまされてはならぬというO氏も、「先生」に認定されれば、「そうなのか……」と感情の迷心に腰掛けてしまう。当然の帰結だ。

◆頭狂えば尻尾まで狂う◆

 最後に、華光会のトップ・増井悟朗氏の「獲信」体験が、「誌上対談」の形で掲載されていたので、紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
増井氏「仏書が唯一の聞法だったのですが、ある書物を読んでいた時です。序文に、著者のお嬢さんの看病記が出ている。念仏しながら法悦の中で死んでいきなさった。わが身に引き寄せて、私は一生懸命読んだんです。どこで、どう読んだ時に、どうなったかは覚えがないんですが、心の転換が起こってきたんです」
聞き手「その内容をぜひ聞きたいのでございますが」
増井「やらずともよいことを、一生懸命力を入れておった。すでに、大きな力が働いてくださっておったんだということですね。その後、伊藤先生を訪ねました。自分で有り難くなっておるだけなので、伊藤先生にお会いして、真偽を確かめていただきたい。そこで誤っておればご指摘も頂こうという目的でした。先生は、非常に喜んでくださいました」
      *  *  *  *  *  *
 増井氏自身も、「獲信」を他人に「真偽を確かめてもらって」やっと安心するという「つもり」信心であったのだ。華光会メンバーも、同じような体験ができると、皆に「よかったね」「それでいいのだ」と称讃されて安心してしまうから、とても十八願他力の世界までは進めない。
「知識は針のごとく、同行は糸のごとし」
 知識の針が曲がれば、同行の糸も曲がらざるを得ない。知識の針がいい加減なところで止まれば同行の糸も徹底はできないのである。それどころか、「信なき悪知識に順えば地獄へ堕つるなり」で、彼らの後生には、必堕無間の一大事が待っているのだ。
 頭狂えば尻尾まで狂う。悪知識の恐ろしさが知らされるばかりである。

◆正しい信心を開顕◆

「真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(親鸞聖人・高僧和讃)
 かかる邪信・偽信・仮信を破り、正信心を開顕できるのは、真仮の水際をハッキリ知らされた、我ら親鸞学徒の外にない。
 本当の親鸞聖人のみ教え徹底一つに、全身全霊、突き進まねばならない。

(4)『正信偈』読みの『正信偈』知らず 真仮の分際知らず

「早く獲信できる」
「信心頂いた人がたくさんいる」
 これが人工信心の輩の言い種である。
 他力真実信心といかに懸け離れているか、華光会の機関誌に満載される体験談を通じて、さらに明らかにしよう。

◆「ワーッと泣いた」のが獲信◆

 母子ともに「獲信」したと語るE子さんの体験を、まず、紹介する。
     *  *  *  *  *  *
 増井先生は母の言葉を受けて、
「そこまでお育てを頂けるとは、大変なことです。一歩前へ踏み出しなさい」
と言われました。とたんに母は、ワーッと泣き伏してしまいました。それが大きなお念仏に変わってしまったのです。横にいた私は、こんなことってあるのかと、ポカンとした気持ちで、ただ呆然としておりました。
     *  *  *  *  *  *
 母親はこれで獲信した、と彼らは言う。E子さんもそれを信じ、母のようになろうと、以後、一生懸命になってゆく。体験記はこう続く。
     *  *  *  *  *  *
 どうなったかは分からないのですが、台所で夕食の準備をしながら、涙がポロポロこぼれました。私の記憶にあるのはここまでで、後はどんな思いで夕食を食べたのやら、何も覚えていないんです。二、三日はポカンとして、大きな穴が開いたようでした。何をどう案じていいのか、心配していいのかさっぱり分からず、一大事と言われようが、後生と言われようが、もう私の中には何もなくなってしまったんです。でも、自分にだまされてはいかん、一大事、一大事と胸に手を当てても、何も出てきませんでした。あまりの苦しさに、記憶喪失になってしまったんだろうか。どうしよう、どうしようとも思ってみました。そんな日が、一日一日過ぎてゆくうちに、喜びがシミジミわいてきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんな経験で、また「獲信」したと、顔写真入りで掲載されている。他力の信心は、そんな「さっぱり分からない」ものでもなければ、いつとはなしに「シミジミと喜びがわいてきた」というボケたものでもない。
 親鸞聖人が、
「噫、弘誓の強縁は多生にも値がたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若し也此の廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復曠劫を逕歴せん。誠なる哉や、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮すること莫れ」(教行信証総序)
と仰有っているように……。多生にも値われぬことに今値うた、億劫にも獲難いものを今獲たり。本願まことであったと驚きあがる不可称不可説不可思議の体験なのだ。
 覚如上人で言うならば、
「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持鈔)
「覚如は、阿弥陀仏の不可思議の名号宝珠を体得して、絶対の幸福に救い摂られたことを喜んでいる」と仰有っている。
「他力の信心ということをば今既に獲たり―乃至―今こそ明かに知られたり」(御文章)
は、蓮如上人のお言葉である。
 これら歴代の善知識方と平等一味の他力金剛の信心は、鮮明な、驚きたつ一念の信心なのだ。
 かかる他力廻向の真実の信心を知らされていない不幸な者たちは、「機関誌に載っているんだから、あんな体験すればいいのだろう」と、上述のようなものを他力真実信心だと盲信して、一心になってゆく。

◆初めて告白する六年前の「獲信」◆

 Sさんは、「沈黙を破って」と題して投稿している。「獲信」してから、告白までに、六年も要したという。
     *  *  *  *  *  *
 私は獲信した日、日記にこう記した。
「何だか、力尽きた感じ。力尽きるっていうほど、何もしていないのに……。でも、もう頑張る気持ちがなくなった。お念仏する気もないし、求め抜くという気もなくなった。なんか、力が抜けた。何頑張っているのっていう感じ。
 そんな中にも、いろんな気持ちがある。たとえば、そんなとこで、落ち着いてしもうたらあかんとか……。でも、今は、苦しくなってきたら、苦しくなってきた時のこと、なんて、変に力がなくなってしまった。捨てるというのは、こういうことか!と一つ一つ気がついたりする。
 私が思っているだけで、実は違うかも知れないけど。それでも、今はそれしかない。心は、何だか、何もなくなってしまったみたいで……。顔はほころんでくるし。
 今は何だか、これでいいと思う。なんまんだぶつ」
 この日が過ぎても、M先生に聞いていただこう、と話さなかったのはなぜか。
「これで良しと思ってしまっているのは、もう求めるのに、くたびれた我が心の仕業かもしれない」
 そういう思いが、頭をもたげたからである。そんな思いが、私を六年間も黙らせてしまった。
     *  *  *  *  *  *
 こんな情けない求道の敗残者の愚痴話を「獲信」の体験だなどと、ヌケヌケと誌面を飾っているのだ。
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(親鸞聖人・高僧和讃)
 祖師聖人は、疑情という、阿弥陀仏の本願を疑う心一つが迷いの根元だと、ハッキリご教示になっている。
「私が思っているだけで、実は違うかも知れないけど」と、Sさんが言っているのは、明らかに本願疑惑心であり、真実信心決定した人には、金輪際、出る心ではないのだ。

◆疑情と煩悩の区別がつかぬ◆

 H氏は、こう記している。
     *  *  *  *  *  *
 後から後から打ち寄せる波のごとく、お念仏が続きました。涙し、合掌し、お念仏し、ほほえみました。
 しかし、日ごろ煩悩に明け暮れるこの身に、そう有頂天の喜びが続くわけもありませんでした。
 さらに一年余りが過ぎると、かつての喜びなどまったくなくなってしまいました。
 すると、「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」と、疑いの心が胸をかすめるのでした。この疑いの心は、その後もしばしば、貪欲のちまたに身を投じている度毎に、私の心をよぎりました。煩悩の雲霧に覆われ通しの毎日では、ともすれば如来のお救いを疑うような心なのです。それが私の自性なのでしょう。
     *  *  *  *  *  *
 H氏の体験談は五回にもわたって連載されている。これこそ、「獲信体験」の手本と言わんばかり。
 H氏が、「煩悩の雲霧に覆われ通しの毎日」と書いているのは、『正信偈』の次の部分を思い浮かべてのことだろう。
「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(親鸞聖人・正信偈)
(已に能く無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり、譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明かにして闇無きが如し)
 親鸞聖人は、ここで、信心獲得の前後で、変わる心と変わらぬ心とを教えられているのだ。
「已に能く無明の闇を破す」
とあるのは、「阿弥陀仏の光明によって、無明の闇(疑情)が破れて無くなった」ということ。
 信心決定すると破れる心(無くなる心)は、無明の闇(疑情)であると言われている。無明の闇(疑情)とは、阿弥陀仏の救いを疑う心だ。
「ひょっとしたら、まだ信心決定していないのではなかろうか」
「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」
などの心は、みな無明の闇であり、疑情というのだ。
 H氏は、まさに疑情と無明の闇に閉ざされている自己を告白しているのである。
 信後無くならぬ心を、聖人は、
「貪愛・瞋憎の雲霧」
といい、「貪」は貪欲(欲)、「愛」は愛欲、「瞋」は瞋恚(怒り)、「憎」は憎しみ(愚痴)で、百八の煩悩の中でも、貪欲、瞋恚、愚痴をもって煩悩を表し、それらを雲や霧にたとえて、真実信心を獲得しても無くならないと、仰有っているのである。
「譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明かにして闇無きが如し」
 太陽が出ていれば、雲や霧がどんなにあっても、その下に闇は一切ないように、真実信心を獲得している人には、煩悩の雲霧はいくらあってもH氏のような無明の闇(疑情)は一切無くなるのだと教えられているのである。
 信前信後で、無くなるものと、無くならぬものを、ハッキリ区別して教えられたのが、『正信偈』の、このお言葉なのだ。

◆『正信偈』は読んでいても……◆

 H氏のような、「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」の心は、まさしく疑情で、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(親鸞聖人・正信偈)
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す)
私たちが過去、現在、未来にわたって迷い苦しまなければならぬのは、この疑情一つによるのだと、聖人は朝夕教導されていることなのである。
 だから、阿弥陀仏の本願を疑う心ほど恐ろしい罪はないのだ。
 他力の信心の得否は、実に、この疑情一つが晴れたかどうかで判定される。いわゆる信疑決判である。
『正信偈』を読みながら、H氏は、真仮を知らざるによって、「獲信したつもり」になっているのだが、それを獲信と容認し、正そうとしない者たちも、同じ程度だということが分かる。
 親鸞聖人は、
「真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし」
と仰有っている。
 真仮の分際を、常に鮮明にご教導いただいている親鸞学徒は、喜びすぎることはない。
 このような気休め信心をぶち破り、水際だった真実信心を、力の限り、開顕してゆかねばならない。
 真実知らされた親鸞学徒にしかできぬ、それは、最高無上の聖使命なのである。

「悲しきかなや」↑の文書を、なぜ華光会にたたきつけずに、コソコソと内部で回し読みしているんですか?


「悲しきかなや」↑の文書を、なぜ華光会にたたきつけずに、コソコソと内部で回し読みしているんですか?

本願寺が内部で親鸞会批判の文書を読んでいたのと同じ構造です。




また、「一念」とは「時刻の極速」であり、「凡夫には自覚できないほど短い時間」と教えていただきました。

であれば、上のコソコソ文書の、華光会の体験談も矛盾なく読めます。


むしろ親鸞会で発行されていた人の
「欄干がキラキラと光って、本願力をハッキリ分からせてもらいました」という文章こそ、明らかに明らかにおかしい。




また「親鸞会教義の相対化・34」の「ちび丸さん、またやらかしちゃった・・」さんの

>でも、獲信についてよく知らないあんたらは
>「ハッキリする、ぐらつかない信心」=「個人の感覚としてハッキリして、ぐらつかないも>のがある」
>と勘違いしてるだろう?
>御文章などをよく読めば分かるが、
>「個人の感覚としてハッキリして、ぐらつかないものがある」
>というのは、凡夫の感覚ではなく、修行で悟りを開いた人(仏や菩薩方)の感覚になって>しまう。
>むしろ、
>「感覚も気持ちもぐらつくが、救われることがハッキリしていることをいつでも確認できる>(信の憶念ができる)」
>というのがより正確な獲信者の特徴だよ。
>「獲信の記録」の体験も、一応この範囲内なんだ。

という文章に説得力を感じます。

これならば、獲信の形においては、高森先生が書いた「獲信の記録」の体験も、おかしいものではない。



またコソコソ文書の

>H氏のような、「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」の心は、まさしく疑情で、

ここもおかしい。



というのも、清森さんも

> 迷雲が疑情でないのは明らかですが、悪疑とあるので、疑煩悩としか解釈できないと思います。
> そもそも、疑情は、三業にかかるものではないので、私達の心で「思う」ものではありません。
>つまり、「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない、ということです。
>「本当に救われたのだろうか?」と思った瞬間に崩れてしまうような信心なら、金剛の信心とは言えません。「本当に救われたのだろうか?」という心が起きてさえ、崩れない信心を、どのように崩すことができるでしょうか?


とおっしゃっておられ、非常に納得できます。


したがって、「これが獲信か」パンフレットは、冷静に読むと、とてもおかしな内容の内部コソコソ文書だと思います。

No title

ついに親鸞会は某本願寺布教使グループ(本拠地・京都)が華光会と認めたということでしょうな?正式に出版してもらいたいものですわ。はっきり名前を書いて華光会から苦情が来ないか見ものですな。捨て身の作戦に出てきたということは親鸞会も相当追い詰められたということですわ。

ちなみにいかが華光会のリンクじゃ。小冊子の内容は捏造の可能性があるので自身で確かめたほうがよかろう?
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/top_menu/menu.htm

「伊藤先生の言葉」「親指のふし -法話集第1集-」なんぞお勧めですな。伊藤師、増井師の教えられたことが分かりますぞ。親鸞会の小冊子に書かれている内容と大違いですな。

NNNさんへ

>長年の疑問だったところですので、意見交換ができて嬉しいです。

いいえ、こちらこそ。「意見交換」はなかなかいい表現ですね。

>浄土真宗の信者となるのは、信一念を突破したときだと理解しております。

そうですね。
逆にいえば、信一念を突破していない人間は真宗信者とはいえないということになるといえます。
しかし、他力信心の信受を目指して聞法をしている人は末燈鈔で述べられているところの「他力のなかの自力のひとびと」といえるのでと思います。 実際には、菩提心を起して諸々の功徳を修し、来迎往生を目指す十九願の法門の如実修行をしているわけではないのですが、結果的には性根が十九願の行人と同じであり、臨終までにはなんとかなる、という来迎往生を待っている状態と同等と祖師はみなされたのではないかと思います。
親鸞会でいえば、「会長先生のおっしゃるとおり一生懸命求めていれば臨終には観音菩薩の説法が聞けるに違いない」という信心も来迎往生を待っている状態とほとんど同様と考えられます。


>親鸞聖人は、聖道門を捨てよ、浄土仮宗を捨てよ、浄土真宗を信じよと教え勧められたと思います。

その通りだと思います。親鸞会では実質的に観経往生が勧められているように思います。いわゆる三重廃立ですが質疑応答87で教えられていますように必ずしも真宗において広く認められている概念ではありませんがおそらく選択本願念仏集の捨閉閣抛の教えの影響を受けているのでしょう。その場合も捨閉閣抛を勧められている対機はあくまでも「無常に驚いた人」「速やかに生死を離れんと欲する者」です。まだ名号を受け取る機が熟していない人には勧められず、ひたすら南無阿弥陀仏の六字の意味を聞法して「道をききひらく」ことが勧められ、ついには南無阿弥陀仏の六字の意味を身をもってよく心得ることが信心決定の相ということが出来ると思います。
ちなみに「宿善」についても、親鸞会で(最近では強調されないようですが)かつて強調されたように「信前において宿前を積む」という教え方はすべきでなく、必ず救われた信後から信前に向かうベクトルにおいて使用すべきであると考えられます。

>それは要するに、心底では聖道門・浄土仮宗を信じているからだと思います。 だから、浄土真宗は、善によって救われるのだという教えがないのは当然だと思います。

浄土真宗は善を勧めていると思います。ただし、至極の「清浄の善」であるところの名号を受け取ることが勧められるべきです。真宗の根本には「末法になると戒すら存在しなくなる」という危機感が根底にあるので諸善万行はすでに往生行としては意味を為さなくなると考えられます。

>18願の願意を聞いて、18願の救いを求めるのは、自分が一生造悪の者であるという自覚がある人だけであり、そうでない人は18願の願意を聞いても、「自分は19願・20願で救われるんだから、18願なんか要らない」とはねつけている。 「そう思うのだったら19願20願大いにやってみなさい」と勧めるのは別に問題ないと思うのですが・・・。

私見では信前の人に20願を勧めるのは果遂の誓いがある故に教えとしては間違っていないと思います。しかし、19願大いにやってみなさい、と教えるのは浄土教の仏教といえるとは思いますがそれが真宗で勧められるところの化風とは思いません。19願の世界にどっぷりと浸って自力に執してその世界から抜け出せなくなる危険性があるからです。あくまでも、19願の本来の対機は聖道門の方々であり、彼らを誘因するために方便化身土巻が説かれたのだと思います。

>18願の願意の聞法により、自然と19願・20願の道を進むというのが理解できないところです。
 一生造悪の衆生を聞即信の一念で救うという本願ですから、そのような本願を聞いて、なぜ諸善万行や称名念仏を勧められた19願・20願を通ることができるのでしょうか。

といいますか、自力しかないものが18願の願意の聞法により称える念仏が結果的に19願・20願の念仏になってしまう、ということです。私は「三願転入」は親鸞会で教えられているように「三願転入の教え」とは思わず、祖師の信仰歴の回顧、のように味わっておりますので過度に「三願転入」に固執すること自体が理解できません。法然上人や蓮如上人が大々的に「三願転入」しなさいと教えられていますか?そのようには説かれていません。


>「18願のみで救われるの人もいるのであり、全ての人が三願転入するとは限らない」ということなら「18願の説法のみでよいのだ」ということも論理一貫していると思います。あとは、「全ての人が三願転入するのか、それとも三願転入しない人もいるのか」という問題です。

「凡夫直入」「愚鈍往き易き捷径」という語もあります。耳四郎や東條さんはどうなんでしょうね。私にはわかりません。「全ての人が三願転入するのか、それとも三願転入しない人もいるのか」については過去世も含めて「全ての人が三願転入する」のだと思います。

>元講師の方が仰るような「全ての人は三願転入する」ということと、「18願のみ聞いていればよい」ということが矛盾しているように思うのです。

なぜ矛盾しているのかよくわかりません。救われようとして十九願を実践することは祖師は勧めておられないとおもいます。「18願のみ聞いていればよい」は少々語弊がありますね。佛願の生起本末を聞くということですね。


>このへんも「三願転入しない人もいる」ということなら、別によいと思うのです。 ただ、「全ての人が三願転入する」ということと、「18願のみの聞法でよいのだ」ということが矛盾しているように思うところです。

「全ての人が三願転入する」というのは信後でないとわかりえない結果論であり、信前のものが過度に心配すべき事柄とはおもえません。そういえば、最近の親鸞会では以前のようには「宿善を積む」という表現をしなくなったとか。結構なことです。

>ちなみに親鸞会では確か過去世で善を励んでいた人だということだったような気がします(はっきり覚えておりませんが)。こういう説明なら一応説明はつくのかなあとも思います。

大経にもありますね。
「驕慢と蔽と懈怠は もってこの法を信じ難し 宿世に諸仏を見しもの かくのごときの教を楽聴せん。」
ちなみに無量清浄平等覚経では下記のように出ています。
「宿世のとき仏を見たてまつるもの このみて世尊の教えを聴聞せん」
過去世におそらく聖道門、そして十九願の教えをを実践してきたのではないでしょうか。
(長文失礼しました)

No title

自称福徳会員さんへ

私も論理学や文法についての議論が好きなのですが、その議論を続けることで、あなたとちび丸との本筋の議論を遮ることは私の本意ではありませんので、これ以上のコメントは差し控えさせて頂きます。(私の言った内容も一応は理解して頂けたようですし、表現の強弱の問題はあまり本質ではないと思いますので…。)

修正

以下、私の勘違いでした。ネットで調べたところそのようなことを教えている和讃はありませんでした。申し訳ありません。

手元に真宗聖典を持ち合わせていなくて正確に示すことができずに申し訳ありませんが、「教えなくとも念仏するようになる」という意味の和讃があります(内容からして浄土和讃だと思います)。ここで言う念仏は明らかに自力の念仏のことをおっしゃっていることと解釈できます。

自称福徳会員 さんへ横レスです

>「教えなくとも念仏するようになる」という意味の和讃

定散自力の称名は果遂の誓に帰してこそ教えざれども自然に真如の門に転入する

のご和讃ですね。

「信心正因 称名報恩」のタテマエからすれば、真宗における念仏は他力に限りますが、
「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」
と顕浄土方便化身土文類 にありますので、未信の濁世の道俗に勧められるところの念仏はまず真門の念仏ということになります。そのうえで、

仏智うたがうつみふかし この心おもひしるならば くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし

信心をいただこうと、計らうこと(疑情)をくゆる心が原動力となり、果遂の誓いゆえに十八願に転入すると理解しております。

おう さんへ

ありがとうございます。
確かに、ご提示いただいた和讃の一片が頭の片隅にあり、「教えなくとも念仏するようになる」と書いたのですが、ネットで調べてみて全文を拝読し、違うように思いました。この和讃の大意は字ずらからすると「定散自力の称名を称えている人は20願に進んでこそ、教えなくとも弥陀の願力により弘願門に転入する」という意味に取ります。ただし、この解釈では「自力の念仏さえ称えていればやがで弥陀の願力により救われる」ということになりかねず、真宗の教えではないことになるのではないかと、正直、自信が持てません。真如の門が真門のことであれば、「念仏が19願の万行随一から教えなくとも20願の万行超過にすすむ」と取れてすっきりするのですが…。ここはちび丸先生にでも聞いてみましょうか?

三願転入

私なりにまとめてみました。

・十方衆生はすべて三願転入する。しかしながら、それは過去世を含み、必ずしも今生で19願からはじめなくてはならないというものではない。
・救われて求道を振り返ったときに始めて三願転入の過去が知らされる。
・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。
・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」というのは間違い。
・三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。諸善を勧めるのであれば体失往生を目的にして諸善を勧めるということになる。しかしこれは真宗の教えではない。ただし、体失往生を目的にして諸善を行うと、結果として20願に進むことになる。だからといって、20願・18願に進むために善をせよと勧めるのは間違い。
・真宗において「仏法は諸善に極まる」、「仏法は念仏に極まる」という言葉はない。真宗の教えは「仏法は聴聞に極まる」であり、「佛願の生起本末」を聞くことである。
・上記のことを勘案すると専任講師が何十年もまじめに求めていても一人も救われていないと思われるのは求め方が間違っている可能性が考えられる。
・上記は善をすることを否定するものではない。

ちび丸氏が食いつくよう、餌をまいておきます。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x
以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

自称福徳会員さんへ2

まとめてくださってありがとうございます。特に異論はありません。

再度私の立場を確認しておきますが、私はかなり前ですが、親鸞会に何年か所属したことがある脱会会員で、華光会には一度もききにいったことがなく、故に華光会に属していません。

真宗とはつくづくラディカルな教えであると思います。衆生往生の方便、手段は全て南無阿弥陀仏の他力なわけです。法はすでに成就しており、「今現在説法」なのですが、機のサイドが受け取らないだけです。

法然上人と同様に生涯不犯の清僧を貫き、かつては法然上人を尊敬し、まじめな修行者であった明恵高弁が、「自力行を廃することを教える法然上人は佛敵である」と攻撃してくるのも尤もな話と思っています。
選択本願念仏集は、法然上人のなかでも、宿善深重の人々しか書写が許されず、しかも「庶幾はくは 一たび 高覧を経て後に、壁の底に埋みて 、窓の前に遺すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。」と記されていることも所以があると思われます。

浄土真宗は、あくまでも聖道修行についていけない末世の衆生であるところの我が身であることの自覚に立脚しています。聖道門の仏教も仏説で教えは正しいのですから私たちはこれを決して誹謗してはなりません。自ずと「善く自ら己が能を思慮せよ。知るべし。」 という説き方になるといえるでしょう。

さて、前置きが長くなりました。

>真如の門が真門のことであれば

失礼ながら、私はこの解釈をいままで一度も目にしたことがありませんが親鸞会では真如の門=真門と教えられているのでしょうか?
私の手元にある法蔵館「真宗辞典」には以下のように出ています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シンニョノモン「真如門」 真如の理をさとる入り口の意で、他力信心の教をいふ。この教は衆生をして浄土に往生せしめ、真如の理をさとらしめる門なる故、かくいふ。浄土和讃に「定散自力の・・(以下略)」とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「他力信心の教」とは十八願のことです。
「真如門」=真門と教えられている文献や根拠などございましたらご教示願えれば幸いです。

親鸞会で教えられるタームにも時々レトリックがありますね。

たとえば、十九願は要門ですが、親鸞会では要門の「要」は、必要の「要」のように説きますね(もし違っていましたらご教示ください)。これは真宗相伝の説ではないと考えられます。
親鸞会では、「廃されるための自力」と知りながら、自力善の実践を勧められています。これは本気で此土入聖を目指していた比叡山時代の祖師の体験とは異なっています。
また、三願転入の御文には「先ず19願に入りそれを通って18願に入れ」とはないことにも注目すべきでしょう。【「久しく」万行・諸善の仮門を出でて、 永く双樹林下の往生を離る】、ですね。

「要」は、観無量寿経において

そのとき阿難、すなはち座より起ち、前みて仏にまうしてまうさく、
「世尊、まさにいかんがこの経を名づくべき。この法の要をば、まさにいかんが受持すべき」と。

における「要」から名づけられているというのが通説です。 これを受けて釈尊は、

「汝、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」

と、いままで説かれた定散二善の「要門の法門」を捨てられ、弥陀の名号法のみを 付属されました。ですから、要は「かなめ」という意味はあっても、「必要」という意味にはとれないのは明らかです。 要門とは定散二善の教えです。

また、祖師が教行信証の化身土巻に引用された善導大師のご文ですが、

「まず要行をもと めて真門に入れ」(般舟讃)

とあります。この「要行」においても、「一代諸教の要行(かなめの行)である、念仏の一道」という解釈が通説と思います。このご文における「要」も、「必要」という意味にはなりませんし、ましてや要行=要門の義ではありません。

以上、要門の「要」における親鸞会説のレトリックについて申させていただきました。
善知識がたの御勧化はすべて要門から「出る」ことのお勧めばかりであって、要門に「入る」ことのお勧めを見たことがありません。

自称福徳会員さんへ3

ちび丸さんによる予想される反論のひとつはこれですね。

「方便をもって真実をあらわす廃立の義よくよく知るべし」(御一代記聞書)

しかし、この後には「弥陀、釈迦、善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」とあります。またしても親鸞会がよく用いる断章取義です。

真宗における用法として、方便には「権仮方便」と「善巧方便」の二義あります。

権仮方便は「真実の法に入らせるために仮に設けた暫有還廃の法門」というような義で、真宗においては「聖道諸機浄土定散」をいいます。
真実の法門に導けば不要になり廃されるものです。

一方の善巧方便は、衆生の機根に応じて教え説かれる義です。「方便法身」も善巧方便です。

「釈迦弥陀は慈悲の父母種々に善巧方便しわれらが無上の信心を発起せしめたまいけり(高僧和讚)

親鸞会ではこの二義を(確信犯的に?)混同していると考えられます。

念仏成仏 これ真宗 万行諸善 これ仮門 権実真仮を わかずして 自然の浄土を えぞしらぬ (浄土和讃)

「権実真仮を わかずして 」は、万行諸善の教えは、自力にとらわれた人たちのための仮の法門であって、この真実と方便を弁別することが肝要であるということではないでしょうか。ここに、「方便を必ず通って」という論理はありません。
しかるに、親鸞会では、権仮方便を衆生が浄土往生するために「必ず通らなければならない道」と勘違いしているようです。聖道門は権仮方便ですが親鸞会の論理ではまず聖道門から入っても許されることになってしまいます。そもそも親鸞会では浄土往生のために六度万行を勧めていますが、六度万行は聖道門の教えなんですけどね。
祖師が浄土往生のために六度万行を勧められている文証はありません。

このあたりの意図的(?)誤解釈に関連し、親鸞会においては「善知識高森会長の使われるご方便は佛智に裏付けられたものであって未信の我々には思いもよらない」という思考停止を生じ、偽装勧誘、嘘つき勧誘における批判精神を奪わせ、むしろその正当化に向かって造悪無碍や本願ぼこり的行動に向かわせる元凶ではないか、と危惧するのは私だけなのでしょうか。

おうさんへ

コメントありがとうございます。返信が遅くなり、すみません。

記憶にある範囲ですが、そもそもこの和讃を親鸞会のご説法・書籍で出てきたことはないと思います。前にも書きましたが、私は真如の門=弘願門と解釈しています。ただそうするとこの和讃の意味が「自力の念仏をしていればやがて他力に入れる」という意味になるようでいまいち納得できないのです。私的には合成の誤謬が起こっているというところでしょうか。なお、私は教学力があるわけではありませんので…。旧の教学テキストを学んだことと、もう10年以上前に真宗聖典を2-3回読んだくらいです。ちび丸氏の足元にも及ばないでしょう。ですからちび丸氏が正しい教学に基づき意見を主張すれば歯が立たないと思います。

いつの間にかこのサイトのアンチの親玉みたいになっていますが、私はアンチではありません。親鸞会に対し、恨み等はありませんし、貶めようという気持ちもありません。ちび丸氏の論破が目的ではなく本当の親鸞聖人の教えが知りたいのです。ですから私の主張がことごとく破られても、納得できるのであればかまいません。ただ、アンチ布教局長ではあります。彼には絶対、時期会長になってもらいたいとは思いませんし、今のような地位にもいてほしくありません。彼のせいで以下に多くの人が苦しみ、ご縁を遠ざけ、親鸞会を非難する人を生み出したか計り知れません。アンチ布教局長であるので側近のちび丸氏にとってはアンチ親鸞会と映るかもしれません。

ちび丸氏よ三願転入について答えてくれ

なかなかレスくれないので、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

疑問点をもう一つ

おうさん、自称福徳会員さん、重ねてありがとうございます。
自称福徳会員さんのまとめられ方であれば、私も異論はありません。

ただそうすると、今生で全ての人に「19願からはじめよ」と説くのがおかしいのと同様に、全ての人に「18願のみの聞法でよいのだ」と説くのはまたおかしいということになるのではないでしょうか。

あくまで要門から出よと説かれたのは、要門にいる人に対してであり、諸善を実行する重要性すら理解していない人に、「要門から出よ」とは言われないはずです。
イダイケ夫人に対してまず善を勧め、その後に弥陀の本願を説かれたことが、まず要門に導き、そして要門から出ることを教えられたということだと思います。

一切経の大半は修善の勧めであり、それはやはり「要門に入れ」という教えであると思います。

要門に入っていない人に対し、「善では助からないのだ」と言うと、「どうせ善はできないんだから善をする必要はないのだ」となり、これは釈尊や親鸞聖人の本意には相応していないと思います。

「18願のみでよいのだ」という説に対する私の根本的な疑問点はこの点です。

つまり、「善ができないのだから、善ができない者を救うと誓われた弥陀の本願によらねば助からない」と説くことにより、それを聞いた人が、19願で勧められる諸善や20願で勧められる自力称名の念仏を実行しようという気持ちになるはずがないと思うのです。
ですから、「18願のみを説けばよい」ということと、「全ての人が三願転入する」ということが矛盾しているように思うのです。

諸善に励んだ結果、自らの限界を知らされた人でなければ、18願による救いを求めようという気持ちにすらならないはずであり、そうでない人が18願による救いを求めているとすれば、観念の遊戯か「善するのが面倒臭い。18願で助かるのなら悪したってそれでいいわ」という本願ぼこりに陥っている人ではないかと思います。

つまり、仏教は対機説法ですから、聞く人の機に応じて、19願の諸善を勧めなければならない人もいれば、直ちに18願の救いを説かねばならない人もいるというのが私の理解です。

ただ私のこの理解だと、おうさんご指摘の
>19願の世界にどっぷりと浸って自力に執して
>その世界から抜け出せなくなる危険性があるからです。
という点はごもっともだと思います。
今の私の理解では私は一生19願の世界から抜け出せないのではないかという思いもあります。
善ができないことを知らされるというのも程度問題ですし、これをどの程度まで深めれば18願の世界を聞けばよいのかも分かりません。深めたからといって18願の信一念とは別世界ですので、論理的につながっていかないような気もします。
この点は高森先生からお聞きしてきた三願転入に対する疑問点です。

私の理解は以上のとおりで、華光会の説く「18願のみでよい」という説にも疑問がありますし、高森先生からお聞きしてきた三願転入に対してもすっきりしない部分はあります。ただ、「全ての人は三願転入する」ということであれば、高森先生からお聞きしてきた三願転入の方が私としては説得力があると思っております。

「機に応じて、華光会の説き方をすればよい人もあれば、高森先生のような説き方をすればよい人もある」という結論になるんでしょうかね・・・。

このあたりもご意見お聞かせ頂ければ幸いです。

こういうのを「信心の沙汰」というんですよね。会員時代は全くできなかったことですので、本当に嬉しくなります。このような場を提供して下さった清森さんにも感謝いたします。

引き続きお付き合い願えれば幸いです。自称福徳会員さんやその他の現会員の方からも是非ご意見お聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

ちび丸さんは高森先生の顔に泥を塗るだけですので、もう書き込みやめてほしいと思います。むしろ親鸞会の信用を失墜させるのがちび丸さんの目的なのではないかとすら思えてきますが・・・。

>偽装勧誘、嘘つき勧誘における批判精神を奪わせ、
>むしろその正当化に向かって造悪無碍や本願ぼこり
>的行動に向かわせる元凶ではないか

 この問題のもとは私は別ではないかと思います。
 嘘つきの正当化は「組織防衛」が第一になっているからだと思います。
 会員時代から疑問だったのですが、顕正新聞に、「親鸞会を謗るのは法謗罪だ」という書かれていることが何度かありました。なぜ団体を謗ることが法謗罪になるのかは非常に疑問です。
 親鸞会の教えていることが親鸞聖人のみ教えに合致しているとして、その教えていることを誹謗するなら「法謗罪だ」というのは分かります。
 しかし、親鸞会の嘘つき体質を批判され、それに対して「親鸞会を謗るのは法謗罪だ」というのはおかしいです。批判対象は親鸞会の嘘つき体質であって、親鸞聖人のみ教えではないからです。批判している人が、法を謗っているわけではありません。
 むしろ親鸞会は、親鸞聖人のお名前を冠する団体でありながら、「嘘つき」という批判を受け、聖人の顔に泥を塗ったことを反省しなければならないはずです。
 それを開き直って、逆ギレし、「親鸞会を謗る者は無間地獄に墜ちるぞ!」などと言うのは、「これが仏法者の態度なのだろうか」と疑問でした。

 親鸞会でいうところの善は、破邪顕正や財施が主ですが、破邪顕正も「法を守る」ということを拡大解釈し、「親鸞会を守る」ことになってしまっており、「親鸞会を守るためには悪もOK」となっていますが、この体質がおかしいのだと思います。
 お釈迦様は悪を戒めておられます。お釈迦様は、「妄語」を十悪の一つと教えられているということは、親鸞会で教えていただいたことです。
 つまり、「嘘をついて親鸞会を守る」ということは、「お釈迦様の教えを破って、親鸞会を守る」ということであり、「法を破って、親鸞会を守る」ということですから、仏法に反しています。でも、なぜか親鸞会ではそれが善だと教えられており、ネット対策員の方も「元会員」と称して嘘の書き込みをしたりするわけです。
 また、財施にしても、「親鸞会に対する財施」ばかりが勧められます。宿泊施設や弁当屋を造るお金があるのなら、ミャンマーで被災し、当面の生活にも困窮している人たちに優先して財を施すという精神があってもよいのではないかと思います。また、苦労して財施した結果が、布教局長の不倫費用に使われているのでは、話になりません。
 
 親鸞会に対する批判はお釈迦様のみ教えに反する活動から出ているものであり、そういう点は反省し、改めればよいことだと思います。
 ネットでは親鸞会に対する悪口ばかりが目立ちますが、私は親鸞会に出会えたことを感謝しております。確かに失ったものもありますが、得たものもたくさんあります。
 私は組織防衛に固執する体質、そこから発生する様々ないざこざに嫌気がさし、やめてしまいましたが、親鸞会がどうなろうと親鸞聖人のみ教えが伝わればそれでよいはずです。
 新入生の頃、「全国の寺で親鸞聖人のみ教えが説かれるようになったら親鸞会は解散だ」と高森先生が仰っているとお聞きしていました。今もこの精神は失っていないのでしょうか。親鸞会という組織を守ることに必死になっている幹部の方をみると、どうもそう思えない部分があります。
 もし親鸞会がお釈迦様・親鸞聖人の精神にそぐわない団体ならこのまま衰滅するでしょうし、衰滅すればいいことです。精神に合致した団体なら再度会員が増えることでしょう。
 是々非々で改善されることを願ってやみません。

NNNさんへ回答

親鸞会の組織上・財施に関する問題点は同意です。いままでのコメントのとおりです。

さて、おうさんのコメントを読み、「18願のみを説けばよい」という表現は語弊があることに気づきましたので、「佛願の生起本末」に変更しています。佛願の生起は私たちの無常の姿であり、罪悪深重の姿です。
華光会の書籍を取り寄せて読んでいるのですが「18願のみでよいのだ」という教義ではなく、無常観」・「罪悪観」に重きを置いているようです。『「無常観」・「罪悪観」を深めるために19願が必要』という説き方ではないということです。「罪悪観」についていえば「諸善をやってできない己であることを知らされなさい」というのではなく、「日常生活そのままが悪のつくり通しであることに気づきなさい」という説き方のようです。
また、『「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない』という表現にも注目してください。すべての人とはいっていません。
最初のイダイケには「佛願の生起本末」を聞く聞法心はなかったでしょう。機によっては聖道仏教を説かなければならない人もいるでしょう。19願、20願を説く必要のある人もいるでしょう。
「佛願の生起本末」を聞く聞法心がおきるかどうかは宿善まかせですから「どんな人に対しても聖道諸経が不要だとか19願・20願が不要だ、説く必要がない」といっているわけではありません。
少なくとも専任講師の方のように求道心の強い方々に対して「19願の入り口にも入っていない(だからもっと諸善に勤めよ)」と説くのはどうかと思います。

自称福徳会員さんへ4

>コメントありがとうございます。返信が遅くなり、すみません。

いいえ、どういたしまして。こちらこそ、今のところは一応なんとか普通にお返事できていますが、今後は仕事の都合もあり、すぐにお返事することが難しくなるかもしれませんことをあらかじめご容赦願います。

>「自力の念仏をしていればやがて他力に入れる」という意味になるようでいまいち納得できないのです。

真門の念仏、万行超過の念仏を称えている人は、他力回向を受けることができなければ真門の方便法にとどまるといえます。十八願の生起本末を聞かせていただいている人ならば、単に「自力の念仏をしていればやがて他力に入れる」とはいえないと思いますが。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。(乃至)彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無礙の大信心海に帰せしめんと欲す。(顕浄土方便化身土文類)

経家とはご存知でしょうけど、釈尊のことですね。
釈尊が「一切諸行の少善を嫌貶」され「自利の一心を励まして難思の往生を勧む」という表現に注目すべきでしょう。
釈尊が念仏以外の諸善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退けられ、善本・徳本の真門を説き示して、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思の往生を勧めておられるということです。なお、親鸞会では自力と他力を、あたかも水と油のように、絶対にお互いに相容れないもののように説明されているように思いますが(ちがっていましたらご教示ください)「他力のなかの自力」という表現がありますように必ずしも他力は自力と対立する概念ではなく、自力を包みこみ、かつ自力を超える「如来の本願力」を示すと理解しています。

そして、方便化身土巻で三願転入が述べられている箇所の直前のご文ですが、

悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。
(顕浄土方便化身土文類)

とあります。二十願の行人に対する厳しい教戒があります。

総合しますと、「(二十願の)自力の念仏をしていればやがて他力に入れる」という表現では所謂「飴とムチ」の喩えでいえば、アメの部分しか説明されていないように思います。

二十願の十八願の生起本末をきいた結果、大信心に入ろうとするものの、結果的に「まことに教は頓にして根は漸機なり」で、自力定散の機は、多善根功徳に励もうとし、自力に執着する漸機です。
つまり、機の失がある故に大信海に入れません。それゆえ、万行超過の念仏を称えている人に対して、そのままその信心に座り続けないように教戒されていると私は解します。これがムチの部分ですね。他にも 『正像末和讃』の誡疑讃において、とくに真門の行者に対し、仏智疑惑による化土にとどまるということを何度も戒められています。

所詮は二十願の法門は報土往生ではなくて、化土往生を勧めている教えに過ぎないのでその世界にとどまっていてはならない、と解するのが真宗の理解でしょう。

>答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。(顕浄土方便化身土文類)

化土往生を勧めている教えは一応は浄土教であり、仏教であるとみなされますが、浄土真宗というには片手落ちではないと思います。しかし、「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」と教えられていますので、真宗では真門を通ることは少なくとも勧められています。(少なくともという表現を用いたのは真門を通らずに十八願に直入する機が存在するかどうかは私は存じないからです)

>ですからちび丸氏が正しい教学に基づき意見を主張すれば歯が立たないと思います。

ちび丸氏を擁護するシンパのかたはあまり見かけませんので、ちび丸氏はこのご発言によって大いに勇気付けられることでしょう。

>私はアンチではありません。

ちなみに私は「親鸞会もっとよくなってくれ」という思いで書いているのでアンチというよりはむしろ親鸞会シンパと思っているのですが。私も親鸞会に対し、恨み等はありません。冷静に教義議論できる場を与えてくれた清森氏にも感謝しています。
これまでは、頭から相手を小馬鹿にして見下したり、「不勉強で話にならない」のような議論のしかたが親鸞会の論者には多すぎであり、これはむしろ読むものに対しては自信のなさとか、都合が悪いから逃亡を図っているようにしか写らず逆効果であるように思っています。

おうさんへ

それでは、お互い仕事がある身なので、今後、返信が遅くなっても、堅苦しい挨拶は省略しましょう。

詳しく解説いただいて、ありがとうございます。念のためですが、私は「自力の念仏をしていればやがて他力に入れる」というのが真宗の教えであるとは思っていません。ただ、以下の和讃が字面からするとそのように取れるのではないかと疑問に思っているということです。字面も生かした上で正しい真宗の解釈ができれば教えてください。

定散自力の称名は果遂の誓に帰してこそ教えざれども自然に真如の門に転入する

RE:
「親鸞会もっとよくなってくれ」という思いで書いているのでアンチというよりはむしろ親鸞会シンパと思っているのですが。私も親鸞会に対し、恨み等はありません。冷静に教義議論できる場を与えてくれた清森氏にも感謝しています。

優良企業は顧客からのクレームを真摯に受け止め、むしろビジネスチャンスにしています。また、私の会社では定期的に匿名で社員の意識調査をしています。その中にはTOP Managementに対する評価もあります。組織は批判を受け、それを真摯に受け止めていかないと現状維持さえ難しいと思います。組織は肥大化・堕落化のバイアスが常に働くからです。

RE:
これまでは、頭から相手を小馬鹿にして見下したり、「不勉強で話にならない」のような議論のしかたが親鸞会の論者には多すぎであり、これはむしろ読むものに対しては自信のなさとか、都合が悪いから逃亡を図っているようにしか写らず逆効果であるように思っています。

おそらく、「無条件で親鸞会の教えが正しい」というのが会員の鉄則ですので、「なぜ?」と自分の中で咀嚼していないので違った意見を言われると反論できないのでしょうね。進化論は米国では日本と比べ物にならないくらい深い議論がされています。それは、キリスト教信者が進化論に対しそれなりの理論を持って反論しているからです。
批判を含めいろいろと議論をしていくことで理解は深まると思います。

というわけで、私の意見に誤りがありましたら遠慮なく、批判してください。逆に貴殿の意見に同意できないものに対しては提示させていただきたいと思います。

これはちび丸氏に対しても同様のスタンスで望みたいと思います。


それにしても、ちび丸氏の反応がないですね。講師の行事があるんですかね。

NNNさんへ

NNN さんへ2

>ただそうすると、今生で全ての人に「19願からはじめよ」と説くのがおかしいのと同様に、全ての人に「18願のみの聞法でよいのだ」と説くのはまたおかしいということになるのではないでしょうか。

おっしゃることは理解できます。仏教は対機説法ですし、機に応じて法を説くべきであるというご趣旨ですね。

さて、浄土真宗で勧められているのは「他力の念仏を称えなさい」ただこれだけです。他力の念仏とは何ぞや?という方には十八願の生起本末が説かれるべきです。その上で、それを教えられた人が称えはじめた念仏に十九、二十、十八願があると祖師は教えられたということです。

>あくまで要門から出よと説かれたのは、要門にいる人に対してであり、諸善を実行する重要性すら理解していない人に、「要門から出よ」とは言われないはずです。

浄土真宗が説かれた背景には祖師が「愚禿」と名乗られた典拠とされる下記の『末法燈明記』のご文を抜きにすることはできません。「諸善を実行する重要性」については浄土真宗の大前提からすでにはずれているのです。これが、法然上人をはじめとして浄土宗、真宗が旧仏教から弾圧を受けた一因といえると思います。

>しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、何の戒を破せんに由ってか破戒あらんや。破戒なおなし、いかにいわんや持戒をや。・・・ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰が信ずべきや・・・像季末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし、何をか「毀法」と名づけん。戒として破すべきなし、誰をか「破戒」と名づけん。・・・次に像法千年の中に、初めの五百年には、持戒ようやく減じ、破戒ようやく増せん。戒行ありといえども、証果なし。

証果があるからこそ修行を勧めるのが仏教の基本です。

>一切経の大半は修善の勧めであり、それはやはり「要門に入れ」という教えであると思います。

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらえて(あわれみて)
正雑二行方便し ひとえに専修をすすめしむ

こしらえて=誘引です。私釈:「釈迦は人々を浄土門に誘引し、教え導くために要門の方便の教えを説かれた。そして、定善・散善に励む自力の人々をあわれまれ、正行雑行の二行を分けて教えられた。その本意はひたすら専修(他力)念仏を勧めることであった。」

>イダイケ夫人に対してまず善を勧め、その後に弥陀の本願を説かれたことが、まず要門に導き、そして要門から出ることを教えられたということだと思います。

「まず要門に導き」に関しては、浄土教のカテゴリー内の教えではあるとおもいますが、浄土真宗の教えとしては納得できません。それでは凡夫直入、「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径」の教説が否定されませんか?そもそもあなたは至心に発願されて来迎引接を願っておられるのでしょうか?至心に発願されていなければ、文字通り「19願の入り口にも入っていない」といえると思いますが。

定散諸機格別の 自力の三心ひるがえし
如来利他の信心に 通入せんとねがうべし(浄土和讃)

現在要門にとどまっている機はそこを抜けなさいと教戒されています。

>要門に入っていない人に対し、「善では助からないのだ」と言うと、「どうせ善はできないんだから善をする必要はないのだ」となり、これは釈尊や親鸞聖人の本意には相応していないと思います。
>「18願のみでよいのだ」という説に対する私の根本的な疑問点はこの点です。

「18願のみでよいのだ」というご表現は語弊があると思います。
繰り返して申していますが十八願の生起本末ですね。病人があるから医者が現れるという喩えを高森先生はよく使用されます。自身が難病の病人であることの自覚が、かならずしも、善の実行なしでは絶対に得られないとは私は思いません。

>「善ができないのだから、善ができない者を救うと誓われた弥陀の本願によらねば助からない」と説くことにより、それを聞いた人が、19願で勧められる諸善や20願で勧められる自力称名の念仏を実行しようという気持ちになるはずがないと思うのです。

十八願の生起本末をきく聴聞によって念仏を称えようという気持ちが起こってきます。信前においては、結果的に19願、20願の自力念仏になってしまいます。

>「18願のみを説けばよい」ということと、「全ての人が三願転入する」ということが矛盾しているように思うのです。

宿世に諸仏を見しもの かくのごときの教を楽聴せん。(大無量寿経 下巻)

NNNさんがもしも過去世を認めるのでしたら、一概に矛盾しているとはいえないと思います。

>諸善に励んだ結果、自らの限界を知らされた人でなければ、18願による救いを求めようという気持ちにすらならないはずであり、そうでない人が18願による救いを求めているとすれば、観念の遊戯か「善するのが面倒臭い。18願で助かるのなら悪したってそれでいいわ」という本願ぼこりに陥っている人ではないかと思います。

あなたは妙好人は獲信者であると認めますか?妙好人の伝記を読まれたことはありますか?妙好人は諸善の実践に励み、善ができないと知らされて獲信したのでしょうか?

>つまり、仏教は対機説法ですから、聞く人の機に応じて、19願の諸善を勧めなければならない人もいれば、直ちに18願の救いを説かねばならない人もいるというのが私の理解です。

それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。 (『親鸞聖人御消息』)

と教えられていますので、「聞く人の機に応じて、19願の諸善を勧めなければならない人もいれば、直ちに18願の救いを説かねばならない人もいる」というお説は正しいと思います。
私見では19願の諸善を勧められるべき機とは、聖道門から浄土門に誘引されてきた方です。長年親鸞会で聞法してこられたかたは19願ではなく、20願、18願が説かれるべきではないでしょうか。

>今の私の理解では私は一生19願の世界から抜け出せないのではないかという思いもあります。

そういう思いを大切になされることを望みます。

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。
(顕浄土方便化身土文類)

常没の凡愚は定善どころか散善についても、たと千年実践しても証果を獲るのは無理、とおっしゃっています。しかし、実践できる機についてはそれを止めることはできません。「今の時の道俗、己が分を思量せよ。」ということになると思います。

>善ができないことを知らされるというのも程度問題ですし、これをどの程度まで深めれば18願の世界を聞けばよいのかも分かりません。深めたからといって18願の信一念とは別世界ですので、論理的につながっていかないような気もします。

親鸞会で教えられている善が財施と法施に傾きすぎているのもまた大いに疑問です。親鸞会で往生行として勧められている六度万行の実践自体は本来は難行苦行の聖道門ですので「聖道の諸教は行証久しく廃れ」ており、時機を逸しているわけです。親鸞会はおそらく大沼教学の影響でしょうけど、布施=親切、持戒=言行一致 忍辱=忍耐などといって、 本来は出世間善であるところの六度万行を世間善のレベルまで落として教えていますが、これもどうかと思っています。般若の智慧に基づいていない善はもとより善とはいえないわけですが。

>「機に応じて、華光会の説き方をすればよい人もあれば、高森先生のような説き方をすればよい人もある」という結論になるんでしょうかね・・・。

高森先生のような説き方が浄土真宗のカテゴリー内であるかどうかについては清森問答でも検証されている最中ですので今回は私のコメントについては控えたいと思います。

>この問題のもとは私は別ではないかと思います。
>嘘つきの正当化は「組織防衛」が第一になっているからだと思います。

組織防衛も結構ですが、それ以前に真宗を名乗るのですから良識のある仏法者でなくてはいけませんよね。私見では、倫理道徳心よりも高みに位置するのが宗教心なわけですから。
親鸞会は、「真実は親鸞会にしかない」「善知識には無条件服従するのが当然」「高森会長以外に真実を説ききる善知識はおられない」という発想があり、しかも、「真実を説く有難い団体である親鸞会の前には誰もがひれ伏すべきだ」「真実を伝えるためには多少の偽装や嘘も方便だ」のような発想があるように思います。
これらを改善しなければカルト扱いされる事になると思います。

>親鸞会でいうところの善は、破邪顕正や財施が主ですが、破邪顕正も「法を守る」ということを拡大解釈し、「親鸞会を守る」ことになってしまっており、「親鸞会を守るためには悪もOK」となっていますが、この体質がおかしいのだと思います。

同感ですね。

>私は親鸞会に出会えたことを感謝しております。

親鸞会体験への感謝といえば、私もそうですし、「私の白道」を連載しておられる元講師さんもそのようです。しかし、現会員や元会員で苦悩にあえいでいる人や目的喪失している方、あるいは被害意識をもっているご家族のかたなどは決して少なくないと思います。親鸞会はそういう方々の存在にもっと目を向けられることを望みます。

自称福徳会員さんへ5

自称福徳会員さんへ5

>ただ、以下の和讃が字面からするとそのように取れるのではないかと疑問に思っているということです。字面も生かした上で正しい真宗の解釈ができれば教えてください。

私はとても「正しい真宗の解釈」教えられるような立場でもありません、ここはあくまでも意見交換の場と認識しています。
あくまでも、私の理解ということで、愚見を述べさせていただきます。

>逆に貴殿の意見に同意できないものに対しては提示させていただきたいと思います。

反論を含めてご意見などありましたら歓迎しますのでご忌憚なくお願いします。

>定散自力の称名は果遂の誓に帰してこそ教えざれども自然に真如の門に転入する

このご和讃の左註に、
「自力の心にて名号を称えたるをば、つひに果たし遂げむと誓ひ給ふなり」とあります。

また、このご和讃は大経における下記のご教導に対応すると理解しています。

仏、弥勒に告げたまわく、『この諸の衆生も、またまたかくの如し。 仏智を疑惑するを以って、彼の宮殿に生まれ、形罰は、乃ち一念の悪事に至るまで、有ることは無けれども、ただ五百歳の中に三宝に見えず、供養して諸の善本を修めることを得ざるなり。 これを以って苦と為し、余の楽有りといえども、なお彼の処を楽しまず。もし、この衆生、その本の罪を識りて、深く自ら悔い責め、彼の処を離れんことを求むれば、即ち意の如くなることを得て、往きて無量寿仏の所に詣で、恭敬し供養して、また遍く無量無数の諸の如来の所に至り、諸の功徳を修むることを得ん。』(下巻)

それゆえ、祖師は下記のように説かれたのでしょう。

しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。(顕浄土方便化身土文類)

それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。(顕浄土方便化身土文類)

また、要門は仮令の誓いであって証果が不確実であるのに対し、真門は不果遂者と誓われつつ勧められています。

以上を踏まえ、私なら、以下のように解釈します。

「定散の自力の念仏行も、自身の”佛智疑う罪深し”という罪障に気づく機縁となり、果遂の誓いの願力に乗せられる時、教えられなくても本願力によって自力心が破られ、弘願念仏に移り入り、常念仏の衆生の仲間入りする時が必ずある。」

ただし、あくまでも浄土真宗の教えは「信心正因 称名報恩」であって称名は信心の相続相と理解すべきであり、祖師は「他力の念仏」を勧めておられるわけです。

弥陀経往生というは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号をえらびて万善諸行の少善をさしおく。しかりといえども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず、如来の尊号をおのれが善根として、みずから浄土に回向して、果遂のちかいをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称・不可説・不可思議の大悲の誓願をうたがう。そのつみ、ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあいだ、自在なることあたわず、三宝をみたてまつらず、つかえたてまつることなしと、如来はときたまえり。しかれども、如来の尊号を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆえに難思往生ともうすなり。不可思議の誓願、疑惑するつみによりて、難思議往生とはもうさずとしるべきなり。(浄土三経往生文類)

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる (正像末和讃)

と、自力の称念に執しないように他所では懇ろに釘を打っておられるように思います。

No title

あわれあわれ、存命のうちに、千万の化城を突破して、まことの信心決定あれかし。

No title

親鸞聖人の教えに善の勧めは、あるのか、ないのか。
以下のサイトを熟読してください。
http://kazoku.sub.jp/hongwanji/index.htm
http://www.geocities.jp/shinran0826/index.htm

親鸞聖人の教えに善の勧めは、あるのか、ないのか

善の勧めはあります。

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・2も読んでね。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-123.html


ちび丸氏の代役ですか?以下について回答、お願いします。

三願転入
私なりにまとめてみました。

・十方衆生はすべて三願転入する。しかしながら、それは過去世を含み、必ずしも今生で19願からはじめなくてはならないというものではない。
・救われて求道を振り返ったときに始めて三願転入の過去が知らされる。
・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。
・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」というのは間違い。
・三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。諸善を勧めるのであれば体失往生を目的にして諸善を勧めるということになる。しかしこれは真宗の教えではない。ただし、体失往生を目的にして諸善を行うと、結果として20願に進むことになる。だからといって、20願・18願に進むために善をせよと勧めるのは間違い。
・真宗において「仏法は諸善に極まる」、「仏法は念仏に極まる」という言葉はない。真宗の教えは「仏法は聴聞に極まる」であり、「佛願の生起本末」を聞くことである。
・上記のことを勘案すると専任講師が何十年もまじめに求めていても一人も救われていないと思われるのは求め方が間違っている可能性が考えられる。
・上記は善をすることを否定するものではない。

ちび丸氏が食いつくよう、餌をまいておきます。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x
以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

おうさんへ

ご回答ありがとうございます。
親鸞会内部でで動きがあったようです。しばらく親鸞会からの反応を待とうと思います。

「あわれあわれ」も「悲しきかなや」も、ホネがなくなってきたな・・・

「あわれあわれ」も「悲しきかなや」も、もう負け犬の遠吠えだけになってる感じだな・・・元気ないねえ。

>親鸞会内部でで動きがあったようです。

む。なんだろう?気になる。

訂正と補足

>浄土真宗が説かれた背景には祖師が「愚禿」と名乗られた典拠とされる下記の『末法燈明記』のご文を抜きにすることはできません。

ここは正しくないことを書いてしまいましたことに気がつきましたので謹んで訂正させていただきます。

『末法燈明記』は伝教大師最澄の作とされています。(現在では疑問視されていますが)

また、伝教大師最澄が比叡山に入山したときの願文が

「愚中極愚、狂中極狂、塵禿有情、底下最澄」
です。

祖師が法然上人とともに流罪に列せられ、僧籍を奪われて非僧非俗となったときに、この願文に触発されて「愚禿」を姓にされたことは疑いないと思われます。

ゆえに、祖師が「愚禿」と名乗られた典拠とされるのは伝教大師最澄の作とされた『末法燈明記』ではなく、伝教大師最澄の願文です。
謹んで訂正させていただきます。

また、祖師が過去世に聖道門または十九願を実践されてきた根拠としては下記のご和讃があげられると思います。

三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり
(正像末和讃)

このご和讃においても、「宿善」のベクトルは現在→過去になっていることに着目すべきだと思います。

悲しきかなやさんへ

ご紹介いただいたサイトの一部を読んでみましたが、早速ながらいくつか突っ込ませていただきます。

>法然上人は『和語灯録』に、「頓機の者は少なく、漸機の者多し」と、仰せられている。

以前「清森問答」でも話題になっていたように記憶していますが、違うかもしれません。いずれにせよ、この部分の正確な典拠を念のため、『和語灯録』から原文のままお示しいただきたいと思います。

また、

>もし、宿善は過去世のことで、今生ではどうしようもないものならば、我々の救済の可否は、生まれた時、すでに決定していることになる。これではまさに、仏教の排斥する宿作外道である。宿善薄く生まれた者は、どうもがいても宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。未来永劫、救われないことになる。

この部分は、「だから今生で宿善を厚くしなくてはならない。早く救われるために宿善を積むべきだ」説に展開されていくわけですが、もし親鸞会でこういう指導が行われているとすれば、そういうご理解はどうかとおもいますけどね。

頓機、漸機についてはあくまでも救われたあとでの結果論に過ぎないといえるのではないでしょうか。

衆生を二種類に分別し、「あなたの場合もどうみても頓機ではなく、漸機と思うでしょう?では宿善を積んで厚くしていかなくてはなりませんね。それでは、聴聞をしましょう。聴聞していないときにも宿善を積まなくてはなりません。そのためには布施が良いです。法施としての勧誘活動や功徳が大きい財施をしっかりしていきましょう」と指導するというのはどうかと思いますが。

この理屈ならば、「聴聞していないときには念仏三昧」を勧められるほうがよほど宿善が厚くなるといえるのではないでしょうか?

現会員さんは、「私は聴聞していないときに、念仏三昧に励みたいと思います。念仏三昧と六度万行の実践はどちらが宿善が厚くなりますか?」と担当講師(支部長)にお尋ねになってみたらいかがでしょうか?

衆生を頓機、漸機の二種類に分別し、頓機の方を特別扱いすることは、阿弥陀如来の広大なお慈悲に対する謗法発言ではないか?とみるのは私だけなのでしょうか?

また、関連して、親鸞会では「宿善は待つにあらず、求むるものなり」というようにきかせていただいた記憶があるのですが、これは高森会長のオリジナル説なのでしょうか?
悲しきかなやさんへ、あるいは他の方でもどなたかご存知のかた、教えてください。

しつこいですか?

つっこみどころがまた出てきたので書き込ませていただきます。
親鸞会の公式サイトから。

>他力の信心を獲ると、火にさわったようにハッキリするものであるということをまずご承知ください。

この根拠のひとつとして、親鸞会ではおなじみの『御文章』からの根拠が挙げられています。

>蓮如上人も『御文章』に「他力の信心ということをば今すでに獲たり。-乃至-今こそ明らかに知られたり」とおっしゃっていられることは周知のとおりです。

しかし、原文をみてみましょう。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。
(五帖目 十二通)

これは「自分の力でおこす信心ではなく、まったく阿弥陀如来から与えられたものである」ということがハッキリした、という表明に過ぎないのであって、「他力の信心を獲ると、火にさわったようにハッキリするものである」という説を主張する根拠としては弱いと思いますが、いかがでしょうか。

(ちなみに私は論理展開を問題にしているのであって、「他力信心体験がハッキリするものではない」と主張しているのではありません。念のため)

PS清森問答ですでに既出でしたらご容赦ください。

親鸞会ネット対策委員様

悲しきかなや氏はちび丸氏の後任とお見受けしました。確かにちび丸氏はOwn Goalが多すぎましたので…。世間ごとでは「担当者を首にしたのでこれでご勘弁を…」ということもありますが、仏法ではそのように行きませんのでよろしくお願いします。誠実にお答えいただけないとコッソリこのサイトをご覧の会員さんからも愛想をつかされるでしょう。
以下の質問に明確にお答えいただけませんと、「親鸞会のやっていることは人集め、金集め」のそしりを免れないでしょう。私はそのようなことがないものと切に願います。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
2.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。
3.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

一応、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

M晴の異常な言動に、周囲の講師の不審や不満が一気に爆発し、もう会長がお願いしなければ、収集がつかなかったのだろう。結局、M晴への不審や不満を、会長の鶴の一声でもみ消してしまったのだから、これは問題解決ではなく、ごまかしに過ぎないだろう。


以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

No title

金剛の真心に暗き哀れさ

(1)本願寺に同居する十劫安心と三業安心

「こんな説法、いくら聞いても信心決定できない」
「信心を獲るコツがある」
 獲信を急ぐ親鸞学徒に、こう言って近づいてくる者がいる。土蔵秘事とそれに類するものである。
「うちの会には獲信した者が多い」と吹聴して、純真な求道者を集めていると聞いて、京都に本拠地をおく浄土真宗本願寺布教使の華光会を訪ねてみた。

◆京都の本拠地へ潜入◆

 八月五日(平成十年)、京都はうだるような暑さ。五年前にも訪れたが、会館の規模は変わらぬものの、建て替えられ、四階ほどのビルになっていた。
 団体名の下に、中心人物の家族名がズラリと並んでいる。私邸も兼ねているようだ。ピアノ教室、書道教室、会場提供の看板まで掲げてある。幼稚園や駐車場経営に奔走する世間の寺院と大差はない。
 玄関の扉は閉ざされていたが、インターホンで呼び出すと、主人の息子がTシャツ姿で現れた。グループのナンバー2に当たるらしい。
「少し、お話を聞かせてもらいたいのですが」
「あいにく、今日は、二件、先約がありますので……」
「その人と一緒に聞かせてもらっても、いいのですが……」
「いや、個人的にお話ししなければなりませんので、そういうわけにもいきません」
「二件ともですか」
「そうです」
 一人でも多くの人に伝えねばならぬのが、親鸞聖人のみ教えのはず。わざわざ訪ねてきた者にすら、一向に伝えようとしない閉鎖性にガッカリ。
「では、館内を見せてもらえませんか」
「それくらいなら、どうぞ。あいにく、昨日、子供の行事があって、ちらかったままですが……」
 通された二階の広間は、四、五十畳ほど。たしか五年前訪ねた時も、この程度の広さだった。改築したのは、どうも参詣者のためでなく、単に居住者のためだったようである。ほかの部屋は、みな書道やピアノの教室。廊下には、子供たちの書いた習字が展示されていた。

◆華光会の信心は人それぞれ!?◆

 一通り見た後、息子氏に問うた。
「こちらの雑誌に、『獲信した時はよく分からなかったが、後からじわじわ知らされてきた』とありますが、信心獲得とは、そんなものですか」
 息子氏曰く、
「そういう人もあります。ハッキリする人もある。人それぞれ違うんです。業は一人一人違うのですから……。私はもう準備しなければなりませんので、これで」
 こう言い残して、息子氏は姿を消したが、どうも信心同異の諍論も知らないらしい。
「信心のかわると申すは自力の信にとりての事也。すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり」(御伝鈔)
"信心が異なるのは、自力の信心だからである。各自の知恵や学問、経験、才能で造りあげたのが、自力の信心。知恵や学問などは千差万別だから、それらで造りあげた信心は、みな異なってくるのである"
 法然上人は、
「この法然と異なる信心の者は、浄土へは往けないぞ。後生の一大事、よくよく心得よ」
と、戒めておられる。
「一人一人信心は違う」と言うだけでも、他力の信心と懸け離れた噴飯物とよく分かる。

◆華光会に「獲信」者の多いワケ

 かつて実際に、彼らの言う「獲信」場面を見た人の体験談を紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
 それは、夜、薄暗い講堂に車座のグループがいくつか、散在する形で始まった。
「後生が苦になって、聞いても聞いても獲信できない」という人が真ん中に座り、グループの者が取り巻く。
 そして、周り中から、「こんな悪いこと、してないか」「こんな恐ろしいこと、思ってないか」「これでも分からんのか」「今晩死んだらどうする」などと、罪悪と無常を責め立てる。感極まって「ワーッ」と泣き出すまで追い詰めてゆく。
 誰しも意地や我慢で、多少のことでは泣かないが、長時間、身に覚えのある罪悪を並べたてられては、たまらない。「悪うございました。私が悪うございました」と、這いずり回って懺悔する者もいる。すると、みんなが寄ってたかって、「よかったね。よかったね」とともに念仏しながら喜ぶ。本人も獲信した気になり、泣いて念仏称えて喜ぶ。
 中には機関銃のような念仏して踊り狂う者もある。それらを見ていて、「私にもお聞かせください」と輪の中へ飛び込んで、信心を獲ようとする。そして、同じように泣いたり喜んだりすると、みな獲信したと喜ぶ。
 見ている人は感情的にマネをしようと一心になる。こんなことで、一晩に何人もが「獲信」することになる。
     *  *  *  *  *  *
 まさに、人工信心花ざかりであったという。

◆「それでよい」と言われて獲信したつもり◆

 華光会の出版物にある彼らの「獲信」の記録を見てみよう。
     *  *  *  *  *  *
 ある日、呼び出された私は五人の同行に囲まれ、膝詰めで厳しく問い詰められました。
「お念仏申すしかない!」
「腹の底から称えなさい」
 私の念仏は、やがて嗚咽の念仏となり、さらに全身をゆるがす号泣の念仏となってゆきました。すると、その場のみなさんは、「よかった、よかった」と言ってくれたのですが、奴凧の竹ヒゴを抜かれたようにフニャフニャになった私にはどうしてこの状態がよかったのやら、分かりませんでした。後からジワジワと分かってくるようになりました。
     *  *  *  *  *  *
 このような程度の「獲信」の体験談が、うんざりするほど並べられている。中にはこんなものもある。
     *  *  *  *  *  *
"当流には捨て物と拾い物がある。これが分からねば百座千座の聴聞も何の役にも立たぬ"と書いてある本を読んで私の信仰は崩れた。"捨て物と拾い物"が分からない。これでは落ちてゆかねばならぬ。これまで信じ切り、頼りにし切っていた仏教も何の助けにもならず、真っ暗な底へ落ちてゆくばかり。どうしようもない。ここで私は、落ちるという体験をしたわけであります。真っ暗な古井戸の底へ落ち込んでゆくような体験と、そのままに身を任せている安堵感とが、一枚になった喜びが心の中に込み上げてきました。体中の血がナムアミダブツナムアミダブツとわき立っていました。
     *  *  *  *  *  *
 これは、獲信者が少ないと本会を批判している幹部メンバー氏の「獲信」体験の告白である。
「こんな体験なら、今まで何度もあったよ」
 これを読んだ法友が笑った。なるほどこれなら、獲信者が多いというのも頷ける。だが、真実信心に昏きことの哀れさと恐ろしさが知らされるだけである。
「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(親鸞聖人・教行信証真仏土巻)
 親鸞学徒は、この聖人のご悲嘆を風化させてよいはずがない。

◆真仮を知らぬ定散自力の信心◆

 彼らのおもな特徴をあげておこう。
(1)「信心を早く獲させるコツがある」と広言し、個人教誨しかしない。
(2)求道者が感情の興奮によって泣いたり喜んだり踊ったり、激しく念仏したりすると、獲信したように言う。
(3)獲信したと思っている周囲の者も、こぞって「めでたい。めでたい」「よかった。よかった」と言うので、本人も獲信したつもりになる。
(4)そして、「我こそ信心を獲たり」「あんたらはまだ獲信できんのか」と平然と言う。
(5)本当に弥陀の本願に救われた人なら、より聞法せずにおれなくなるものだが、彼らは助かった後は、もう聞く必要はないとして、聞法する気がない。
(6)大衆の前で説法しない。
(7)当然だが、堂々とした布教活動はまったく見られない。

 信心を獲るコツがあるなら、「みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」の親鸞聖人や蓮如上人がそのコツとやらを教えられてないはずがない。
 真実信心は、他人から決めてもらう信心ではない。阿弥陀如来から直接賜る大信心である。周りの人から「よかったね」「めでたい」「それでよいのだ」などと言われて、やっと、これで獲信したのかと喜ぶような信心ではないのだ。
 親鸞聖人は、救い摂られた驚きと慶びをこう告白なされている。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
(親鸞聖人・教行信証総序)
"ああー、多生にも値い難い弥陀の本願に、今、値えた。億劫にも獲難い真実の浄信を今、獲たり。どんな宿縁あってのことか、親鸞、慶ばずにおれない"
 二十年や三十年で獲られる信心なら、「億劫にも獲◎し」と言われるはずがない。
 親鸞学徒は、これら定散自力の信心をぶち破り、聖人が身命を賭して開顕してゆかれた、真実の信心を、全身全霊、明らかにしなければならない。

(2)出版物に氾濫する"獲信"の文字 その実態は……

「千万の化城がある」と言われるように、真実の信心までには、獲信した「つもり」に陥る落とし穴が無数に存在する。
 ところが、そんな自力の信心を真実信心と思わせ、大衆を惑わしている本願寺布教使の肩書をもつグループがある。続いて、彼らの獲信の体験の実態を紹介しよう。

「うちの会には獲信した者が多い」と嘯く、某本願寺布教使グループ(本拠地・京都)の出版物が、多数手に入った。開いて見ると、「獲信」体験談のオンパレードだ。

◆裸で躍ったのが獲信 M氏の"銭湯"安心◆

 まずは、先生と呼ばれる一人、M氏の、銭湯で信心を獲たと語る体験である。
     *  *  *  *  *  *
「またお念仏を、利用したのではないか」と思った時、ひらめきが来た。「あわれ! 念仏しようとした心は私の心ではないぞ!念仏申さんと思い立つ心や。弥陀廻向の心や。それを自分が念仏しようとしたと思うとった。仏さまはここにおったんや! それを何と愚かなことを!」と目を覚まさせてもらった。銭湯が、歓喜鑽仰の場に変わった。あがって体をふいていたら、言いようのない喜びがわいてきて足の踏み場もなく、ピョンピョンと小躍りしたり、天高く合掌したりせずにおれなかった。
     *  *  *  *  *  *
 感情の興奮によって泣いたり喜んだり踊ったり、激しく念仏したりすると、こぞって「獲信したんだ」「よかったね」「めでたい」と言われる現場を、M氏自身、見てきたのだろう。「裸で躍るくらいの喜びだもの。これが信心獲得に違いない」と思い込んでしまったらしい。
 こんな程度の喜びなら、親鸞学徒は、毎週でも味わっている。事実、大学時代に真実知らされた筆者も、嬉しくて念仏が止まず、思わず知らずキャンパスを『正信偈』を口ずさみながら、スキップしていた記憶がある。
「嬉しくて嬉しくて、仕方ないのです。これが信心決定でしょうか」と尋ねる筆者に、先輩はやさしく、「他人に聞かねば、分からぬような信心ではありませんよ」と教えてくれた。もし、あの時、「そうだよ。それでいいんだよ。よかったね」とでも言われていたら、完全に「人工信心」に、はまっていただろう。善き師、善き法友に恵まれたことを喜ばずにおれない。
 喜んだとか、踊ったなどという我々の三業と、信心とは関係ないのだが、このグループでは、M氏のような「つもり安心」の輩が「先生」と呼ばれているのである。そんな「先生」の体験記を読んで感心している者は、またもや、人工信心に陥ってゆく。

◆「自分の信心はダメなのでは……」 それでも獲信したつもり◆

     *  *  *  *  *  *
 M先生の体験記を開き、読んでゆくと妙に引っ掛かるところがあり、そこを何度も繰り返し読みました。自分は何を頑張っているんだろう。M先生みたいに裸で躍ればいいじゃないか。南無阿弥陀仏が出ないと言うけど、今まで、たとえ口先だけとは言いながら、称えてきた南無阿弥陀仏はどうなんだ。それはお前が称えた南無阿弥陀仏か。そこまで自問自答した時、魂の奥底にズシン!と響きました。その体験が何であったか、直後はまったく分かりませんでした。それからも、有り難い気持ちがなくなると、焦りまくり、「自分の信心は駄目なんじゃないだろうか」と思い悩みました。友人から「自分の中から、いいものが出てくるわけがないじゃないの」とアドバイスを受けたりしました。
     *  *  *  *  *  *
 彼らには、親鸞聖人の教えられた真実の信心が、まったく教え知らされていないことが分かる。
「真心徹到するひとは
 金剛心なりければ
 三品の懺悔するひとと
 ひとしと宗師はのたまえり」(親鸞聖人・高僧和讃)
 真実信心の人は金剛心になると言われている。
「如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を金剛心という」(後世物語聞書)
 どれほどの人から、いかなる非難を受けようと、微動だにせぬのが他力金剛の信心だ。それなのに「自分の信心は間違っているのでは……」と不安になるのは、金剛心どころか、定散自力のコンニャク信心に他ならない。
 M氏の迷った体験が、さらに迷いの衆生を生んでいるのだ。まさに、「一盲衆盲を引いて以て火坑に堕つる」(仏蔵経)の惨状である。

◆明信仏智とはどんなこと◆

 華光会の機関誌に度々登場しているTさんの体験はこうだ。
     *  *  *  *  *  *
 その時は、まだ「分かった」という感じではなかったのですが、何か、この「分からへん」というのが肩の辺りにドンと乗っかっていたのが、スウッとなくなったような感じがしました。「はっきり分かった。頂いたなあ」という感じはなかったし、号泣念仏ということもなかったのですが、大嫌いだったお念仏を称えるのにも力が入らずにすむようになりました。
     *  *  *  *  *  *
「ハッキリ分かった感じはなかった」というが、地獄行きの泥凡夫が、極楽往き間違いない身に救い摂られる明信仏智の体験を知らない。
「命のうちに不審もとくとく霽れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」(御文章)
 ツユチリほどの疑心があっても、と蓮如上人が戒めておられる通りだ。救われた大自覚がなければ、明信仏智とはいわれない。

◆消極的退嬰的自力の信心(華光会)◆

 しかし、真仮の水際のたたぬTさんを、彼らは「獲信の人」と大々的に宣伝し、機関誌に担当のコーナーを持たせたことまである。
 Tさんのコーナーをのぞいてみると……。
     *  *  *  *  *  *
 幸いにも、真実の教えである浄土真宗に出会い、お念仏を頂く身にさせていただきました。にもかかわらず、いざ、人にお勧めするとなると、いろいろと悩みも多いのです。「うさんくさく思われないか」とか、「友情が壊れないか」との懸念から、ためらいがちになり、結局「まあいいか」となってしまうのです。
     *  *  *  *  *  *
 自力信の、消極的退嬰的化石の見本のような告白である。
 日野左衛門の門前で、石を枕に雪に伏し、剣で迫る弁円に、御同朋と諭された祖師聖人の、慈悲のかけらも見られぬ。無法な弾圧にも敢然と立ち向かわれ、身命を賭して一向専念を叫び抜かれた逞しさの片鱗も、感じられぬ。
「弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり」(親鸞聖人・浄土和讃)
「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」(親鸞聖人・正像末和讃)
 三業の善悪で信心は計れないが、信心は必ず三業に現れる。真実の信心を獲た人には、常に仏恩報ずる念いがあると、親鸞聖人は仰有っている。聖人のご一生を見れば、それはあまりにも明らかだ。
「十方にひとしくひろむべし」
と親鸞聖人は不惜身命、進まれたが、彼らは十方どころか一方にも伝えようとしない。
 誌面を埋め尽くす、こんな程度の体験談を読まされている者は、似た体験をすると、「これが獲信か」と思い、周囲からも「それでいい」と認められて安心し、獲信した「つもり」になってゆく。
 浄土真宗の獅子身中の虫とは、まさに、彼らのことだ。

 自力の信心はピンからキリまである

 ここで、ある親鸞学徒の体験を紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
 二十八のときでした。隣家に、四国の布教使・Nさんが来ていると聞き、夜、母と一緒に訪ねました。他に四、五人来ていて、壁には地獄の掛軸と、骨と皮の仏の掛軸とが掛けてありました。
 Nさんは地獄の掛軸を指し、
「お前たちは毎日悪いことばかりやっているから、死んだら地獄へ堕ちるのだ」
と一時間ほど話をしました。反省してみると、なるほど善いことはない、悪いことばかりです。だんだん恐ろしくなり、家へは帰らずに聞こうと決心しました。
 ちょうど二日目の夜中、Nさんが大きな声で、
「この中に仏を粗末にして、神信心している者がいるだろう。そんな者は臨終にろくな死に方をしないぞ」
と言いました。それは自分だと思ったとたん、目の前が真っ暗になり、業魂がさかとんぼで地獄へ堕ちてゆくのを見ました。それは墨のような黒さでした。自分一人で苦しんでいます。
 すると、Nさんが、
「立て立て」
と言い、四、五人の同行が、私をお内仏の前まで連れて行って、
「今、お前は救われた。喜べ、喜べ」
と言ったそうです。その時私は意識がなく、覚えがないのですが、何回も言っていたそうです。
 すると、ようやくその声がはるか遠い所からのように私に聞こえてきたのでした。気がついた時、目の前に阿弥陀さまがにっこり笑っておられる姿を見て、仏にすがりました。お内仏の阿弥陀さまでした。そのとき私の心に大きな喜びがわき起こってきました。
 あんな喜びは生まれて初めてです。嬉しくてかなわん、と叫び続け、さっそく、家へ帰り、寝ている家内に、
「仏法聞け、仏法聞け」
と叫び、阿弥陀さまに参って、また隣家へ行きますと、
「お前は救われたのだから帰りなさい」
と仰有るが、嬉しくて帰れません。
 とうとう夜が明け、朝一番に寺に行き、住職に、
「仏法聞いてください」
と叫び、道行く村人にも、
「仏法聞いてください」
と叫び続けました。村の者は気が狂ったのだと私の顔を見ました。確かに、自分ながら変わり果てたのに驚きました。
 二日ほどは仕事も手につかず、嬉しくてたまりません。しばらくして、Nさんは四国に帰ってゆきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんな体験談を聞くと、彼らは獲信したに違いないと思うだろうが、この話には、続きがある。
     *  *  *  *  *  *
 それから仏法が聞きたくなり、お寺参りをしました。ところが、「死んだら助けてくださるから、念仏喜びなさい」との話ばかり。真実を聞かせてくださる方はないかと思っていると、ある人が、
「あんた、仏法を喜んでいると聞いたが、今、宇賀野の寺へ若い布教使さんが来ておられる。分かりやすく話してくださるから、あんたも参らんか」
と言うので、さっそく、母と一緒に自転車で宇賀野の寺へと走りました。
 寺は大勢の人で座る場所もないくらいです。なるほど若い方でしたが、黒板を使って話される一席を聞き、この方だ、と心が叫びました。それが、高森先生との出会いでした。それから続けて、高森先生より真実の仏法を聞かせていただくようになりました。

◆崩れた自力の信心◆

 ある時、『観無量寿経』の韋提希夫人の獲信の話を聞かせていただきました。
 釈尊は、獄中で苦しむ韋提希夫人に説法されました。が、最後、
「善知識の仕事はこれまで。これからは弥陀の仕事である」
と釈尊は姿を消され、阿弥陀仏にバトンタッチなされたと言われた時、
「あれ、おかしいな」
と思いました。そして、私の信心はダメだと気づいたのです。
"Nさんは「今救われたのだ。喜べ」と言ったが、それは阿弥陀仏の御声でなかった。親鸞聖人は、「信心決定すると韋提希夫人と等しい世界に出る」と教えられるが、私の体験には、合わない所がある"
 後生が急に心配になり、その夜は一睡もできず、明朝、高森先生に、今まで喜んできた話を、一部始終聞いていただきました。私の信心が人工信心だったことが、明らかに知らされました。
 聖人が「難の中の難、これに過ぎたるは無し」と仰有る通りの極難信と知らされます。
     *  *  *  *  *  *
 他人に言わずにおれぬほど喜んでいても、人工的に造られた信心は、必ず崩れるのだ。
 
 親鸞学徒の聖使命

「定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し」(親鸞聖人・教行信証信巻)
 祖師聖人は「金剛の真信」を開顕されるため、法友三百八十余人と争われ、我が子さえも切り捨てられて、真実一路、突き進まれた。
 ひたすら聖人のみ跡を慕う我ら親鸞学徒もまた、いかなる非難攻撃にも屈せず、あらゆる人工信心を徹底的に打ち破り、阿弥陀如来から直に賜る他力の大信心を、全身火の玉となって、開顕しなければならない。

(3)頭がいい加減だから皆狂う「つもり」信心グループの悲劇

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」(正信偈)
 阿弥陀仏の本願海に帰入しなければ、十方衆生は金輪際救われない。
 そんな我らを無上仏は、無類のご念力で、功徳の大宝海へと導いてくださっている。
 邪教邪宗の者も例外ではない。つもり人工信心の誤りに気づき、本会とご縁を結んだ人から、そのあきれ果てた実態が記された資料が多数もたらされた。

 昭和五十年代から平成十年まで、彼らの機関誌は、どの年を開いても、「獲信」の体験談で埋め尽くされている。

◆巻頭飾る「会費未納者安心」◆

 まず目についたのは、華光会のナンバー2・M氏の「誌上法話」である。中で語られている「獲信」体験談を抜粋しよう。
     *  *  *  *  *  *
 Bさんは、法座の会計係で、会費を徴収したが、どう計算しても一人分足りない。自分が引き受けた以上は責任があるので、自腹を切られた。そして帰宅して家計簿をつけてみたら、「出してないのは私だった」とがく然とされたそうです。自分のことは棚に上げて、他人ばかりを疑っていた。本当に我ながら、ホトホト愛想が尽きる。情けない自分だと、台所に立ち尽くして、涙があふれてきたそうです。その時、「ああ! こんな私に愛想を尽かさず、寄り添ってくださるお方がおられた!」と気づかれた。
     *  *  *  *  *  *
 これが獲信だと仰有る。
「会費未納者安心」とでも言おうか。「こんな程度の体験なら、くさるほどある」と思われた読者も多かろう。
 しかし、これが彼らの「法話」であり、こんな体験が獲信なのだと、堂々と巻頭を飾っているのだ。誌上で紹介されたBさんは、いよいよ「これでよかったのだ」と安心し、読者もまた、「なるほど、こんな体験が獲信か」と納得してゆく。

◆「先生」によいと言われて翌朝ようやく安心◆

 本人の目前で認定されれば、なおさらだ。
 Hさんは、それらしき「体験」をしたが安心できず、「先生」に認定を受けて、確信するようになったという。以下はHさんの体験談だ。
     *  *  *  *  *  *
 ご示談に入るのを待って、早速先生に(私がした体験を)お話ししました。先生は、私の顔をジーッと見て、「それが、如来さまのご回向にあうということです」と、はっきり申されました。しかし私の心は、「エエ? これがご回向さま? これが信心?」と納得できません。私には、心中がもっとはっきりして、法悦が表現できるものと思っていたのです。「先生、私には、何かまだよく分かりませんが……」と申しましたら、先生は、「いや、このままでよろしい。これから後に、だんだん分かってきますから」と言ってくれました。「ハイ」とお返事はしたものの、よく分からないままお別れしました。翌朝、しみじみ実感されてきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんなのを彼らは獲信だと思っているのだ。
「獲信」した時も不安なら、「先生」に「このままでよい」と言われてもなお、よく分からなかったとある。が、他力信心は、そんな曖昧な体験ではない。
「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり」(御伝鈔)
 親鸞聖人の獲信は、こう記される通りの、明らかな体験であり、ご著書はすべて救われた歓喜に満ち満ちている。
 蓮如上人も『御文章』に、
「他力の信心ということをば今既に獲たり―乃至―今こそ明かに知られたり」
と仰有っている。
 ハッキリしなければ安心できない。兎の毛、羊の毛の先にある塵ほどの疑心があっても救われたとは言えぬから、親鸞聖人は、『教行信証』に九回も、
「疑蓋(疑心)雑ること無し」
と書かれているのだ。
 Hさんのような「これがご回向さま?」「これが信心?」などという疑心のある他力信心など絶対にないのだ。
 また、真実信心は、時間がたってから、じわじわと知らされてくる体験でもない。
「夫れ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。一念とは、是れ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(親鸞聖人・教行信証信巻)
 真実の信心には、一念がある。一念とは疑い晴れて大満足に開発したひとおもいを言い、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、今まで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ渡った一念、驚天動地の一刹那をいう。
 聖人は、
「極速円融の真詮」
とも仰有っている。長い間かかって少しずつ諦得する信心なら極速とはいわれない。聞即信の一念の早業で、微塵の不足もなく大満足させられるから円融の真詮といわれるのである。
 曇鸞大師は、
「譬えば千歳の闇室に、光若し暫く至れば、即便ち明朗なるが如し。闇豈室に在ること千載にして去らずと言うことを得ん耶」(浄土論註)
と教えられた。千年前から闇に閉ざされていた部屋も光がさし込んだ瞬間に、闇が晴れるように、阿弥陀仏の不可思議の願力に摂取されるのは、一瞬のことなのだ。
 真実の信心は、Hさんのように他人に「それでよい」と言われて初めて安心し、翌朝ようやく実感するような信心ではないのである。

◆「つもり」獲信のマネに一生懸命◆

 彼らは、獲信した「つもり」信者のマネをして、自分も「獲信」しようと一心になる。T氏はその経緯をこう語る。
     *  *  *  *  *  *
 M先生が、Kさんに言われた言葉を思い出しました。それは、Kさんが、信心がハッキリしなくて泣いて、泣きつかれた後、ボーッとしている時のM先生の言葉でした。
「自分を投げ出すんよ」
「投げ出すには、どうすればいいんですか」
「そのままでいいんよ。そのまま、何も考えなくていいんよ。そっちの方が楽ちんやろ」
「はい、楽です」
「それでいいんよ。その楽なままでいいんよ」
と。
 その言葉を思い出すと、とても楽な気持ちになりました。フト仏壇を見ました。すると仏壇の色紙の「ありがとう」の文字が、目に飛び込んできました。それが、阿弥陀さまの言葉に感じられたので、「万歳、万歳、ばんざーい」と跳び上がって喜びました。
     *  *  *  *  *  *
 これがまた獲信だと彼らは信じている。
 T氏も、T氏がマネをしたKさんも、自力の計らいを捨てたつもりだが、「何も考えない」ように「計らって」いることに気づいていない。
「何も考えない」のは他力ではなく、「無力」である。が、こんな自称「獲信の人」のマネをして、「これでいい」と思い込み、安易な気休め信心が増えてゆく。

◆「マネでもよい」◆

 自称獲信者どころか、阿弥陀仏のマネをさせられた人まである。O氏の体験は、こうだ。
     *  *  *  *  *  *
「こっちに座って、阿弥陀さまの気持ちを言ってみなさいよ」
 M先生は言った。そんなことで阿弥陀さまのお心が私に分かるのか、どうしてこんな芝居じみたことをさせられるのかと、席を動かないでいた。
「さあ、お願いだから、マネでもよいからやってみて、Oさん」
 もう一度先生に優しく促されると、馬鹿馬鹿しく思いながらも、みんなの手前立ち上がらないわけにはいかなかった。
「ここに座って、向かいの人に言うつもりで、阿弥陀さまの気持ちを考えてみて」
「哀れやなあ。いつまでぐずぐずと、何をしているのや」
 胸の奥から熱くなる思いが込み上げてくると、涙とともに言葉が飛び出してきた。
「まだ何か、言われてない?」
 M先生の声が遠く聞こえた。
「はよ来い。はよ来い」
と、口をついて出てきた。しかし同時に、熱い感動を冷やすような冷静な調子で、「そんなものは、一時の感情だよ……」と、ささやく心があった。すると、熱い感動が急速に冷めてゆくのが分かる。今の興奮が嘘のように、白々とした気持ちになってくる。言葉が続かなくなった。
「もう、駄目です、先生」
「Oさん、今の言葉が、阿弥陀さまですよ。あんたが自分で自分を"哀れやなあ"と、言えますか?」
 席に戻られた先生が笑顔で話された。
「えっ、今のが阿弥陀さま?」
 意外な先生の言葉に驚くとともに、私にも阿弥陀さまが付いておられたんだと、何とも言えないうれしさが満ちてきた。
     *  *  *  *  *  *
 こんなので、また獲信。
「一時の感情ではないか」と本願を疑っているのは未信の証拠だ。感情にだまされてはならぬというO氏も、「先生」に認定されれば、「そうなのか……」と感情の迷心に腰掛けてしまう。当然の帰結だ。

◆頭狂えば尻尾まで狂う◆

 最後に、華光会のトップ・増井悟朗氏の「獲信」体験が、「誌上対談」の形で掲載されていたので、紹介しよう。
     *  *  *  *  *  *
増井氏「仏書が唯一の聞法だったのですが、ある書物を読んでいた時です。序文に、著者のお嬢さんの看病記が出ている。念仏しながら法悦の中で死んでいきなさった。わが身に引き寄せて、私は一生懸命読んだんです。どこで、どう読んだ時に、どうなったかは覚えがないんですが、心の転換が起こってきたんです」
聞き手「その内容をぜひ聞きたいのでございますが」
増井「やらずともよいことを、一生懸命力を入れておった。すでに、大きな力が働いてくださっておったんだということですね。その後、伊藤先生を訪ねました。自分で有り難くなっておるだけなので、伊藤先生にお会いして、真偽を確かめていただきたい。そこで誤っておればご指摘も頂こうという目的でした。先生は、非常に喜んでくださいました」
      *  *  *  *  *  *
 増井氏自身も、「獲信」を他人に「真偽を確かめてもらって」やっと安心するという「つもり」信心であったのだ。華光会メンバーも、同じような体験ができると、皆に「よかったね」「それでいいのだ」と称讃されて安心してしまうから、とても十八願他力の世界までは進めない。
「知識は針のごとく、同行は糸のごとし」
 知識の針が曲がれば、同行の糸も曲がらざるを得ない。知識の針がいい加減なところで止まれば同行の糸も徹底はできないのである。それどころか、「信なき悪知識に順えば地獄へ堕つるなり」で、彼らの後生には、必堕無間の一大事が待っているのだ。
 頭狂えば尻尾まで狂う。悪知識の恐ろしさが知らされるばかりである。

◆正しい信心を開顕◆

「真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし 流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(親鸞聖人・高僧和讃)
 かかる邪信・偽信・仮信を破り、正信心を開顕できるのは、真仮の水際をハッキリ知らされた、我ら親鸞学徒の外にない。
 本当の親鸞聖人のみ教え徹底一つに、全身全霊、突き進まねばならない。

(4)『正信偈』読みの『正信偈』知らず 真仮の分際知らず

「早く獲信できる」
「信心頂いた人がたくさんいる」
 これが人工信心の輩の言い種である。
 他力真実信心といかに懸け離れているか、華光会の機関誌に満載される体験談を通じて、さらに明らかにしよう。

◆「ワーッと泣いた」のが獲信◆

 母子ともに「獲信」したと語るE子さんの体験を、まず、紹介する。
     *  *  *  *  *  *
 増井先生は母の言葉を受けて、
「そこまでお育てを頂けるとは、大変なことです。一歩前へ踏み出しなさい」
と言われました。とたんに母は、ワーッと泣き伏してしまいました。それが大きなお念仏に変わってしまったのです。横にいた私は、こんなことってあるのかと、ポカンとした気持ちで、ただ呆然としておりました。
     *  *  *  *  *  *
 母親はこれで獲信した、と彼らは言う。E子さんもそれを信じ、母のようになろうと、以後、一生懸命になってゆく。体験記はこう続く。
     *  *  *  *  *  *
 どうなったかは分からないのですが、台所で夕食の準備をしながら、涙がポロポロこぼれました。私の記憶にあるのはここまでで、後はどんな思いで夕食を食べたのやら、何も覚えていないんです。二、三日はポカンとして、大きな穴が開いたようでした。何をどう案じていいのか、心配していいのかさっぱり分からず、一大事と言われようが、後生と言われようが、もう私の中には何もなくなってしまったんです。でも、自分にだまされてはいかん、一大事、一大事と胸に手を当てても、何も出てきませんでした。あまりの苦しさに、記憶喪失になってしまったんだろうか。どうしよう、どうしようとも思ってみました。そんな日が、一日一日過ぎてゆくうちに、喜びがシミジミわいてきました。
     *  *  *  *  *  *
 こんな経験で、また「獲信」したと、顔写真入りで掲載されている。他力の信心は、そんな「さっぱり分からない」ものでもなければ、いつとはなしに「シミジミと喜びがわいてきた」というボケたものでもない。
 親鸞聖人が、
「噫、弘誓の強縁は多生にも値がたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若し也此の廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復曠劫を逕歴せん。誠なる哉や、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮すること莫れ」(教行信証総序)
と仰有っているように……。多生にも値われぬことに今値うた、億劫にも獲難いものを今獲たり。本願まことであったと驚きあがる不可称不可説不可思議の体験なのだ。
 覚如上人で言うならば、
「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持鈔)
「覚如は、阿弥陀仏の不可思議の名号宝珠を体得して、絶対の幸福に救い摂られたことを喜んでいる」と仰有っている。
「他力の信心ということをば今既に獲たり―乃至―今こそ明かに知られたり」(御文章)
は、蓮如上人のお言葉である。
 これら歴代の善知識方と平等一味の他力金剛の信心は、鮮明な、驚きたつ一念の信心なのだ。
 かかる他力廻向の真実の信心を知らされていない不幸な者たちは、「機関誌に載っているんだから、あんな体験すればいいのだろう」と、上述のようなものを他力真実信心だと盲信して、一心になってゆく。

◆初めて告白する六年前の「獲信」◆

 Sさんは、「沈黙を破って」と題して投稿している。「獲信」してから、告白までに、六年も要したという。
     *  *  *  *  *  *
 私は獲信した日、日記にこう記した。
「何だか、力尽きた感じ。力尽きるっていうほど、何もしていないのに……。でも、もう頑張る気持ちがなくなった。お念仏する気もないし、求め抜くという気もなくなった。なんか、力が抜けた。何頑張っているのっていう感じ。
 そんな中にも、いろんな気持ちがある。たとえば、そんなとこで、落ち着いてしもうたらあかんとか……。でも、今は、苦しくなってきたら、苦しくなってきた時のこと、なんて、変に力がなくなってしまった。捨てるというのは、こういうことか!と一つ一つ気がついたりする。
 私が思っているだけで、実は違うかも知れないけど。それでも、今はそれしかない。心は、何だか、何もなくなってしまったみたいで……。顔はほころんでくるし。
 今は何だか、これでいいと思う。なんまんだぶつ」
 この日が過ぎても、M先生に聞いていただこう、と話さなかったのはなぜか。
「これで良しと思ってしまっているのは、もう求めるのに、くたびれた我が心の仕業かもしれない」
 そういう思いが、頭をもたげたからである。そんな思いが、私を六年間も黙らせてしまった。
     *  *  *  *  *  *
 こんな情けない求道の敗残者の愚痴話を「獲信」の体験だなどと、ヌケヌケと誌面を飾っているのだ。
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(親鸞聖人・高僧和讃)
 祖師聖人は、疑情という、阿弥陀仏の本願を疑う心一つが迷いの根元だと、ハッキリご教示になっている。
「私が思っているだけで、実は違うかも知れないけど」と、Sさんが言っているのは、明らかに本願疑惑心であり、真実信心決定した人には、金輪際、出る心ではないのだ。

◆疑情と煩悩の区別がつかぬ◆

 H氏は、こう記している。
     *  *  *  *  *  *
 後から後から打ち寄せる波のごとく、お念仏が続きました。涙し、合掌し、お念仏し、ほほえみました。
 しかし、日ごろ煩悩に明け暮れるこの身に、そう有頂天の喜びが続くわけもありませんでした。
 さらに一年余りが過ぎると、かつての喜びなどまったくなくなってしまいました。
 すると、「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」と、疑いの心が胸をかすめるのでした。この疑いの心は、その後もしばしば、貪欲のちまたに身を投じている度毎に、私の心をよぎりました。煩悩の雲霧に覆われ通しの毎日では、ともすれば如来のお救いを疑うような心なのです。それが私の自性なのでしょう。
     *  *  *  *  *  *
 H氏の体験談は五回にもわたって連載されている。これこそ、「獲信体験」の手本と言わんばかり。
 H氏が、「煩悩の雲霧に覆われ通しの毎日」と書いているのは、『正信偈』の次の部分を思い浮かべてのことだろう。
「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(親鸞聖人・正信偈)
(已に能く無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり、譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明かにして闇無きが如し)
 親鸞聖人は、ここで、信心獲得の前後で、変わる心と変わらぬ心とを教えられているのだ。
「已に能く無明の闇を破す」
とあるのは、「阿弥陀仏の光明によって、無明の闇(疑情)が破れて無くなった」ということ。
 信心決定すると破れる心(無くなる心)は、無明の闇(疑情)であると言われている。無明の闇(疑情)とは、阿弥陀仏の救いを疑う心だ。
「ひょっとしたら、まだ信心決定していないのではなかろうか」
「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」
などの心は、みな無明の闇であり、疑情というのだ。
 H氏は、まさに疑情と無明の闇に閉ざされている自己を告白しているのである。
 信後無くならぬ心を、聖人は、
「貪愛・瞋憎の雲霧」
といい、「貪」は貪欲(欲)、「愛」は愛欲、「瞋」は瞋恚(怒り)、「憎」は憎しみ(愚痴)で、百八の煩悩の中でも、貪欲、瞋恚、愚痴をもって煩悩を表し、それらを雲や霧にたとえて、真実信心を獲得しても無くならないと、仰有っているのである。
「譬えば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明かにして闇無きが如し」
 太陽が出ていれば、雲や霧がどんなにあっても、その下に闇は一切ないように、真実信心を獲得している人には、煩悩の雲霧はいくらあってもH氏のような無明の闇(疑情)は一切無くなるのだと教えられているのである。
 信前信後で、無くなるものと、無くならぬものを、ハッキリ区別して教えられたのが、『正信偈』の、このお言葉なのだ。

◆『正信偈』は読んでいても……◆

 H氏のような、「あれで良かったのだろうか。私は本当に救われたのだろうか」の心は、まさしく疑情で、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(親鸞聖人・正信偈)
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す)
私たちが過去、現在、未来にわたって迷い苦しまなければならぬのは、この疑情一つによるのだと、聖人は朝夕教導されていることなのである。
 だから、阿弥陀仏の本願を疑う心ほど恐ろしい罪はないのだ。
 他力の信心の得否は、実に、この疑情一つが晴れたかどうかで判定される。いわゆる信疑決判である。
『正信偈』を読みながら、H氏は、真仮を知らざるによって、「獲信したつもり」になっているのだが、それを獲信と容認し、正そうとしない者たちも、同じ程度だということが分かる。
 親鸞聖人は、
「真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし」
と仰有っている。
 真仮の分際を、常に鮮明にご教導いただいている親鸞学徒は、喜びすぎることはない。
 このような気休め信心をぶち破り、水際だった真実信心を、力の限り、開顕してゆかねばならない。
 真実知らされた親鸞学徒にしかできぬ、それは、最高無上の聖使命なのである。

No title

親鸞会ネット対策委員様
何度でもどうぞ 氏はちび丸氏の後任とお見受けしました。確かにちび丸氏はOwn Goalが多すぎましたので…。世間ごとでは「担当者を首にしたのでこれでご勘弁を…」ということもありますが、仏法ではそのように行きませんのでよろしくお願いします。誠実にお答えいただけないとコッソリこのサイトをご覧の会員さんからも愛想をつかされるでしょう。
以下の質問に明確にお答えいただけませんと、「親鸞会のやっていることは人集め、金集め」のそしりを免れないでしょう。私はそのようなことがないものと切に願います。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
2.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。
3.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

一応、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

M晴の異常な言動に、周囲の講師の不審や不満が一気に爆発し、もう会長がお願いしなければ、収集がつかなかったのだろう。結局、M晴への不審や不満を、会長の鶴の一声でもみ消してしまったのだから、これは問題解決ではなく、ごまかしに過ぎないだろう。


以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

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> 何度でもどうぞ

こんなふうに何度でもコピペすればするほど、やっぱり親鸞会会員というのは高森のオウムにすぎんのね、という世のひとの印象がますます固まっていく。こんなことくらいわからないほど追い詰められているのでしょうか?頭あるんだったら、よーく考えてみたら?本尊論の件といい、ちょっと頭わるすぎ、みんな失笑してるよwww

「何度でもどうぞ 」は疑煩悩を疑情と間違えて華光会を非難しとる。恥ずかしいミスすんなよ。

「何度でもどうぞ 」は疑煩悩を疑情と間違えて華光会を非難しとる。
恥ずかしいミスすんなよ。

以下引用。
―――――――――――――――
>http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-2.html
>>>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
>>
>> 迷雲が疑情でないのは明らかですが、悪疑とあるので、疑煩悩としか解釈できないと>思います。

>> そもそも、疑情は、三業にかかるものではないので、私達の心で「思う」ものではありません。

>>つまり、「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない、ということです。

>>「本当に救われたのだろうか?」と思った瞬間に崩れてしまうような信心なら、金剛の信心とは言えません。「本当に救われたのだろうか?」という心が起きてさえ、崩れない信心を、どのように崩すことができるでしょうか?


華光会の疑煩悩をとらえて「あれは疑情だ!だから未信だ!」と言ってるのは、致命的な間違いだよ。

三業で真実信心いただいてるかどうかを判定できないのと同じく、三業で「あれは未信だ!」という判定はできないんだよ。
T森先生だって「信後にもどんな心も起こる」とおっしゃってるぜw

また、華光会のこと以外の、あやしい話を間に挿入してるのもあざといねえ。

「何度でもどうぞ 」じゃ役不足だ。
もうちっとホネのあるやつ出て来い。

おうさん・自称福徳会員さんへ

昨日は疲れて早く寝てしまい、1日書き込まなかっただけで書き込みがかなり増えてしまいました。毎日書かないといけませんね(笑)。
簡単にご返信かたがたコメントさせていただきます。

三願転入については了解です。
全然離れているように思っていましたが、私の理解とそれほど離れていないということが分かりました。あとは元講師の方の続きの記事を待ちたいと思います。

高森先生から18願他力の救いを10年以上聞かせて頂きましたが、いまだ他力が分かりません(高森先生は諸善の勧めばかりを力説されているわけではありません)。
しかし、19願を実行したところで、直ちに20願・18願に直結しなさそうということもこの度のやりとりの中で分かりました。
念仏を一生懸命称えたこともありますが、何も起こりませんでした。
五里霧中・暗中模索の心情ですが、これを機にまた聞法していきたいと思います。


>組織防衛も結構ですが、それ以前に真宗を名乗るのですから
>良識のある仏法者でなくてはいけませんよね。

 全く同感です。
 お恥ずかしい限りですが、会員時代は批判対象をやりこめるのが正義だと勘違いしておりました。これがいかに聖人のお顔に泥を塗る行為であったのか、会員をやめてからはじめて自覚できました。
 ちび丸さんの嫌悪感を感じさせる書き込みは、良い反面教師になりました。仏法者としてのあるまじき言動を明らかに見せていただきました。
 自分もあのようだったのかと思うと、自分に対する嫌悪感もしきりです。情けない限りです。

>現会員や元会員で苦悩にあえいでいる人や
>目的喪失している方、あるいは被害意識を
>もっているご家族のかたなどは決して少なく
>ないと思います。親鸞会はそういう方々の
>存在にもっと目を向けられることを望みます。

 お言葉を返すようですが、ご家族の問題については会員時代から私は心を痛めておりました。現会員でも同様の心情を持っている人は少なくないと思います。
 しかしやはり「組織防衛」が先だってしまい、親鸞会の問題点の指摘に対しても「親鸞会で幸せになった人もいる」という思考停止的・脊髄反射的反応をみせてしまうのだと思います。
 最近はネットで親鸞会のことを調べ、様々な批判にされされていることを知って、親鸞会から離れさせようとする親御さんが相当数いるように思います。
 これも「組織防衛のために嘘が必要」「親鸞会を守るためなら悪もOK」などという仏法に反する活動が招いた結果と思います。
 その結果、親族の方は親鸞会に対して不信感ばかりが満載となり、親鸞会の良さを実感している現会員と喧嘩状態になってしまうのだと思います。
 「真実を求めていれば反対はおきる」などという簡単な一言で済ませずに、一人でも多くの人が聖人のみ教えにふれることができるよう、原因分析と改善を進めていただきたいと願っています。

 簡単のつもりが長くなりました。
 長文失礼いたしました。

No title

親鸞会ネット対策委員様

なかなか質問にお答えいただけませんがなぜなのでしょうか?
以下の質問に明確にお答えいただけませんと、「親鸞会のやっていることは人集め、金集め」のそしりを免れないでしょう。さらに集めたお金で、「布教局長が高級車を乗り回し、不倫をしていたのはやはり事実であったのか」と従順な会員さんまでもが思うようになるでしょう。私はそのようなことがないものと切に願います。 なお、三願転入のご文について質問を追加しました。質問2は一文を追加し、質問の意図を明確にしました。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

2.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

3.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

一応、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏(前任の親鸞会ネット対策委員様)も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

わかってるよ。というより当時この件にかかわっていた人はわかっていたよ
だからみなで会長に直訴した。M晴問題は不倫ではなく、善知識継承不可能
な人格、程度の低さ、自己顕示欲、色欲、財欲におぼれ組織を悪用・私物化
ということにあったわけ。しかし、会長の鶴の一声ですべて清算された。


以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

今日、17番目に入られた方は7777人目をGetです。記念品は布教局長の愛車ですので当選者は名乗り出てください。なお、商品の発送は当選者の発表にて代えさせていただきます。

No title

>なお、商品の発送は当選者の発表にて代えさせていただきます。

おいおい、そっでぁ、名前さらされるだけで、なぁーんも貰えんがで、ねーがけ。

みんな、気ぃ付けられや。

追加質問

親鸞会ネット対策委員様

なかなか質問にお答えいただけませんがなぜなのでしょうか?
以下の質問に明確にお答えいただけませんと、「親鸞会のやっていることは人集め、金集め」のそしりを免れないでしょう。さらに集めたお金で、「布教局長が高級車を乗り回し、不倫をしていたのはやはり事実であったのか」と従順な会員さんまでもが思うようになるでしょう。私はそのようなことがないものと切に願います。 追加で質問をいたしますのでそれについてもお答えください。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

2.「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」の蓮如上人のお言葉について
親鸞会では『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない。だからこのお言葉が「蓮如上人が善を勧めたお言葉である」』と教えています。『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない』までは同意します。しかしながら、これは善を勧めたお言葉ではなく、『「信心ひとつで助かる」と聞かされても、それでも出てくる「善で助かろうとする心」を捨てよ』ということではないでしょうか?「新たに持ってから捨てなさい」ということではなく、「すでに持っていることに気づいてそれを捨てなさい」という御心と思いますがいかがでしょうか?

3.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

4.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

一応、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏(前任の親鸞会ネット対策委員様)も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

わかってるよ。というより当時この件にかかわっていた人はわかっていたよ。
だからみなで会長に直訴した。M晴問題は不倫ではなく、善知識継承不可能
な人格、程度の低さ、自己顕示欲、色欲、財欲におぼれ組織を悪用・私物化
ということにあったわけ。しかし、会長の鶴の一声ですべて清算された。


以前、M野講師がものすごい降格処分を受け、なぜだろうと疑問に思っていたのですが(まさか、ご本人には聞けませんし)、なぞが解けました。

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