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質疑応答95

【質問】


 除名の真相を見直していて思ったのですが、

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(渡部弘宣部長)
「自然の理にあひかなわば、仏恩をも知り、
        また師の恩をも知るべきなり」 である。
 このお言葉が、アニメではどう描かれているだろうか。
「弥陀の大慈悲に救い摂られれば、広大なご恩を知らされ、信楽房も、
やがて、己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」
  というセリフがそれである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 この翻訳、以前から違和感がありました。

 聖人の、「自然の理にあひかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなり」 

 「自然の理にあひかなわば」は、願力自然、弥陀の本願にすくい取られたならばということで違和感はありません。

 「仏恩も知り、また師の恩をも知るべきなり」なのですが、この「知るべき」の「べし」は、受け身・自発・可能・尊敬のうち、訳せる可能性があるのは、「自発」と「可能」ですが、「自発」が自然だと思います。

 すなわち、最初この原文を拝読したときは、「弥陀のご恩も知らされ、師匠の恩も知らされるであろう」、すなわち、「だから、今は追わなくてよい。本尊も取り返さなくてよい。いずれ分かる日が来るからいいのだ。」という慈悲の御心だと思ったのですが、高森先生の訳では、「信楽房も、やがて、己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」という聖人の怒りが全面に出ているお言葉になっています。

 つまり、高森先生の翻訳ですと、聖人は、信楽房に対する温情のお言葉を述べられていながら、最後に怒りのお言葉で締めらているということになり、最初は「信楽房の仏縁を念じる」と仰りながら、最後は「あの野郎め。こんちくしょうが。」というお言葉で終わっているというように思います。
 ですので、いまだに違和感があります。

 「己の罪の恐ろしさをも、自覚することになろうぞ」という翻訳は一般的なのでしょうか。

 それとも慈悲と智恵は表裏一体ということで、高森先生が作られたオリジナルの翻訳なのでしょうか。



【回答】


 結論から言いますと、このような翻訳は、他にはありません。

 これは歎異抄第6章の内容ですが、要約すれば、阿弥陀仏のお導きで救われるのだから、私が導いているのではない、というお言葉です。

 師匠から離れるのも、阿弥陀仏のお導きであり、救われるのに必要な御方便だということです。

 師匠から離れるのが大罪だ、という表現からは、「自分が導いている」という匂いを感じてしまいます。

 高森先生が、どういう御心で変えられたのかは、分かりませんが、もし、そのような驕りのような気持ちがあったとしても、お互い煩悩に迷惑している身ですから、仕方のないことだと思います。

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歎異抄第六章

歎異抄第六章
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。
自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云々]。

歎異抄の著者は、親鸞聖人が誰に対し何について怒ったと、書いているのか。
この観点で読み返してみますと、
「師をそむき御名号・御聖教を返さずに離れていくこと」ではなく
・わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり
・弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
からも「わが弟子、ひとの弟子といふ相論」をしている御自身のお弟子達に対して親鸞聖人は怒っていると聞こえます。

もちろん信楽房に対する怒りを感じ取ることは各自の自由ではありますが、第六章の趣旨とは思えません。

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