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質疑応答10

【質問】

 上田氏が異安心かどうかは知りません。ただ、いくら俗諦門は、時代や環境によって説き方を変える必要があるからといっても、現時点で高森先生が二河白道をお説き下される場合は、原文解説の説き方は、されていない以上、高森先生の説かれるように、説くのが良いと思うのですが、この事をどうお考えでしょうか



【回答】

 まず、高森先生から何度もお聞きしたことは、「君たちは、親鸞学徒であって、高森学徒であってはならない」「私を悲しませたければ、高森学徒になれば良い」ということです。
 親鸞聖人が、二河白道の喩を教行信証のように書かれたのは、深い御心があってのことです。
 まずは、親鸞聖人の説かれた通りに教えるのが、本来あるべき姿と思います。三世十方を貫く教えなのですから。
 私は、高森先生を、「お聖教のお言葉通りに説かれる方」として、尊敬しています。
 それを、高森先生が、あえて変えてお話しされたのは、あくまで参詣者に合わせて対機説法されたものと拝察しております。
 高森先生が、二河白道の喩の御説法の内容を、文章で書かれたことはありません。
 これは、あくまで対機説法であることを、自覚されてのことだと拝察いたします。
 ですから、相手が変われば、親鸞聖人の原文通りに教えることも、当然ありうることだと思います。
 もし、高森先生が御説法で教えられた話し方以外、認められないなら、親鸞会では真宗聖典を拝読禁止にしなければなりません。
 お聖教を変えて話をされている部分は、他にもたくさんあるからです。

 もし、親鸞聖人の教えの通りに教えているのに、高森先生と教え方が違うということで非難されるようになってしまったら、それは高森教となってしまい、高森先生が最も悲しまれることになってしまいます。
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