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質疑応答97

【質問】


 親鸞会では、私たちが人間界に生まれられるのは、光炎王光の働きと教えられます。根拠はあるのでしょうか。



【回答】

 経典上に根拠があるかどうかは、浄土宗僧侶の意見を紹介させて頂きます


        *         *         *


 ないと思います。あっても、ごくごく限られた範囲の文化にしか通容しないものではないかと思います。

 高森先生の場合、「不信=謗法=必墮無間」という思想が先行してますから、輪廻を繰り返す中で人間界に生まれる特別な根拠を、設定しないといけなくなるんです。

 たまため前世で善根を積んできたから、それが宿善になって人間界に生まれ、更に仏法に出会うことができた。
 だから、それを無駄にしないように仏道を求めていく。それだけのことです。


1)ある時には、人身の受け難き理を思いて、この度空しく止まん事を悲しめ。六道を巡るに、人身をうることは、梵天より糸を下して大海の底なる針の穴を通さんが如しといえり。

2)ある時は、会い難き仏法に会えり。この度、出離の業を得ずば、いつをか期すべきと思うべきなり。一度、悪道に出しぬれば、阿僧祇園劫をふれども、三宝の御名を聞かず。如何に、況や深く信ずる事をえんや。

3)ある時には、我が身の宿善を喜ぶべし。賢き卑しきも、人多しと言えども、仏法を信じ、浄土を願う者は希なり。信ずるまでこそかたからめ、謗り憎みて、悪道の因をのみ作る。しかるにこれを信じこれを貴びて、仏を頼み往生を志す。これ偏に宿善のしからしむるなり。ただ今生の励みに有らず、往生すべき期の至れるなりと、頼もしく喜ぶべし。
(「十二箇条問答」)

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天に仰ぎ地に臥(ふ)して悦ぶべし、この度彌陀の本願に、あうことを。行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩得を。

頼みても頼むべきは、乃至十念の詞(ことば)。信じても猶(なお)信ずべきは、必得往生の文なり。

『勅伝』巻二十一、「黒田の聖人へつかはす御文」(昭法全四九九頁)

(訳)
 天を仰いで地に伏して悦ぶべきである。幸いにしてこの度、阿弥陀仏の本願に巡り会えたことを。
 動いていても止まっていても座っていても寢ていても報いるべきである、かの阿弥陀仏から頂いた恩徳を。

 頼みにする中にもなお頼みにするのは、「すくなくとも十回の念仏で往生できる」という(第十八願の)言葉であり、信じる中にもなお信じるべきは、「念仏すれば必ず往生できる」という善導大師の一文である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いよいよ『一紙小消息』の結論部分です。

 ここでは、1)悦ぶべし2)報ずべし3)頼むべし4)信ずべし
の四つの「べし」が説かれています。


1)悦ぶべし

 本願を信じ念仏申した人は必ず救われるという阿弥陀仏の本願。これに出会えたことを悦ばなければなりません。

 この教えを説くために釈尊がこの世に現れたのであり、六方諸仏もまた、このことを証明するために存在しているのです。

 阿弥陀仏・釈尊・六方諸仏、全ての仏の慈悲に出会えたことを、悦ばなければなりません。


2)報ずべし

 仏の慈悲そのものである阿弥陀仏の本願に出会えたのですから、仏様に頂いた恩徳に報いなければなりません。

 ところで、この私逹が仏様に恩返しすることができることは何でしょう?
 自らの力で苦しみを乗り越えることができない私逹が、私達を救ってくださる仏様に何で恩返ししたらいいのでしょうか?

 私達にできることは、阿弥陀仏の本願、全ての仏様の慈悲を無駄にしないように、阿弥陀仏の本願によって救われることを信じ、日々怠ることなく念仏申して、極楽浄土に往生して、救われることしかないのです。

 私達を救ってくださる仏様の恩徳に、報いることができるのは、それだけなのです。


3)頼むべし

 もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじ」と。
『無量寿経』巻上

(訳)
 それは『無量寿経』の上巻に、以下のように書かれている。
「もし私が仏になった時に、十方の衆生が、心から信じて願い、私の国に生まれたいと望んで、わずか十回でも念仏して、もしも往生できなかったのならば、私は仏にならない。

「本願を信じ少なくとも十回念仏したものを、必ず救う」という阿弥陀仏の十八願の言葉を、心から頼むべきなのです。


4)信ずべし

 彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得と。

(訳)
 そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
(『往生礼讃』)

 そして、その阿弥陀仏の十八願と、本願成就文を根拠に、「阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人は、必ず往生を得られる」と説かれた善導大師の言葉を、疑うことなく心の底から信ずるべきなのです。



1)悦ぶこと2)報いること3)頼むこと4)信じること

 これをしなさい!

 これこそが、『一紙小消息』の結論なのです。
>>>>


 人間に生まれるのに、阿弥陀仏の光明が必要だというなら、釈尊が阿弥陀仏の本願をお説きになる以前に人間はいなかったことになりますし、もともと人間だった阿弥陀仏が、どうやって生まれてきたのか説明できなくなります。


        *         *         *

 以下、清森の意見です。

 私が、親鸞会で炎王光の働きで人間に生まれると教えている根拠は、以下の御文だと理解しておりました。


●「炎王光仏」というは、(乃至)三途黒闇の衆生も光照をこうぶり解脱をうるは、このひかりの益なり。(正信偈大意)


 しかし、改めて読んでみますと、人間に生まれることを「解脱」とは言いませんので、根拠としては不適当だと思います。

 他に何か根拠があるのかも知れませんが、私には分かりません。
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COMMENTS

長いけど。真面目ni

讃阿弥陀仏偈の
「仏光照耀すること最第一なり。
故に仏を又光炎王と号したてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。是の故に大応供を頂禮したてまつる。」

これを根拠に教えられていることと思います。

親鸞聖人は和讃に
「三塗の黒闇ひらくなり。」と教えられています。

「啓」については、サンスクリッドは分かりませんので、
字訓釈の真似事して、語源から考えると
(中略)
神の啓示をうることから、啓上、啓奉、啓白の意味になり、
のちに「ひらく」の意味に用い、啓蒙(人々の無知をきりひらき、
知識を与えること)のようにいうそうな。
そして、啓土(土地を開拓すること)啓発(導いて悟らせること)
などと使う字だと、白川静なんかは言っている。

光啓は、「光によって開かれる。(導かれる)」のような意味に解釈出来ます。

清森さんは、「解脱」ということで、
「根拠としては不適当だと思う」
と、解説しておられますが、そうとも、言い切れないのではないかとも思います。

正信偈大意では、
「超日月光仏というは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし。」

「この十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまうなり」
とか、

「あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあずかりたてまつるといえるこころなり。」

とありますから、阿弥陀如来の光明は、地獄・餓鬼・畜生を含む全ての衆生にかかっているのは明らかです。
地獄界の衆生が、三塗の黒闇光啓を蒙るという、光炎王光に照らされたら、どうなるかは、分かりません。

すべての人を往生させたいと願っておられる阿弥陀如来の光明が、地獄にまで、とどいているとしたら、それは、人間に生まれられる縁、働きになっているとは、言えないか、とは思います。


親鸞聖人でさえ、弥陀如来名号徳の中で、
「十二光のようおろおろかきしるして候なり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし」
と仰っていますので、これ以上は書きませんが。

ながながと書きましたが、高森先生もまったく根拠も無く教えられていることではなく、
そう味わうことも出来るという感じ、だとは思います。
その為か分かりませんが、2年前のくらいの正信偈の御説法では、光炎王光のお話は、かなり、さらっと一言程度で終わってしまいましたね。


ハッキリと、「光炎王光と申すは、衆生を人界に生じさせる仏光なり。」とか、
あればいいですが、そういうのは、浄土真宗のお聖教ではないと思います。
お言葉を拡大解釈するか、字のまま受け取るかの問題になりますな。

私なんかは、なんだかんだいっても阿弥陀如来のお力によってと思わずにはおれませんけどね。

No title

>「本願を信じ少なくとも十回念仏したものを、必ず救う」という阿弥陀仏の十八願の言葉を、心から頼むべきなのです。

本願を信じても10回念仏唱えないと救われないのか。
浄土真宗とかなり違う教えのようだな。

私もわかりません。

>正信偈大意では、
>「超日月光仏というは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。
>仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし。」

>「この十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまうなり」
>とか、

>「あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあずかりたてまつるといえるこころなり。」

>とありますから、阿弥陀如来の光明は、地獄・餓鬼・畜生を含む全ての衆生にかかっているのは明らかです。
>地獄界の衆生が、三塗の黒闇光啓を蒙るという、光炎王光に照らされたら、どうなるかは、分かりません。

私も分からないので、正信偈大意で聞かせていただきましょう。

「炎王光仏」といふは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるがゆゑなり。『大経』(下)に「猶如火王 焼滅一切 煩悩薪故」と説けるは、このひかりの徳を嘆ずるなり。火をもつて薪を焼くに、尽さずといふことなきがごとく、光明の智火をもつて煩悩の薪を焼くに、さらに滅せずといふことなし。三途黒闇の衆生も光照をかうぶり解脱を得るは、このひかりの益なり。

蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。
また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

分からないので「句面のごとく」との御親切。有り難いですね。

No title

>本願を信じても10回念仏唱えないと救われないのか。
>浄土真宗とかなり違う教えのようだな。

清森さんは浄土宗の教えを紹介しているだけで、浄土宗が正しいと言っているわけではないと思いますよ。

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