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親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・2

(続き)


3.「善のすすめはない」の正体

更に高森会長は、紅楳英顕氏の『派外からの異説について』にも、容赦ない非難を浴びせます。





> 「善さえ励めば獲信できる。これが親鸞会の主張だ」
>
> は、本願寺の悪辣な、中傷であることを証明し、「仏法は聴聞に極まる」のに、〝なぜ、諸善もすすめるか〟にも、答えてきた。
>
>
>
> それでも、必死の本願寺サン、大胆にも、こう、強弁なさる。
>
> 「真宗には、諸善を積まねばならないという説示はない」
>
> 真宗には善のすすめはない。善をすすめる親鸞会は間違い、と言い張るのだ。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p134】





その後に、紅楳氏の論文が引用され、本願寺の主張の根拠とされています。





> 「私が再三、もとめたところの『破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ』とある文証は、未だに何等示されていない。
>
> 私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである」(回答書(B) P・11)
>
>
>
> また、こうも、毒づく。
>
>
>
> 「逆に私の方から『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたいと求めたのが一昨年の六月二十一日であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである」(回答書(B) P・16)
>
>
>
> 破邪顕正も財施も、諸善だから、〝善をすすめた文証を示せ〟というわけだ。最後には、〝そんな文証などあろうはずがない〟と、断言までする始末。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p135】





回答書(B)とは、紅楳英顕著『派外からの異説について』のことです。



ここまで読まれた方なら、既におわかりでしょうが、紅楳氏の「『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい」が、高森会長によって、「破邪顕正も財施も、諸善だから、〝善をすすめた文証を示せ〟というわけだ」と、全く別の主張にすり替えられてしまっているのです。



たとえて言えば、「テニスや水泳をすることが大学合格のための勉強になる、という文証があれば、示してもらいたい」と言っているのを、「テニスも水泳もスポーツだから、スポーツをすすめた文証を示せ、というわけだ」と言っているようなものです。



紅楳氏はあくまでも、「獲信のための宿善」と再三明記しているのに、もっとも大事なその部分を完全に抜き取っているのです。高森会長ほどの人物が紅楳氏の意図するところを分からなかった筈はありません。紅楳氏の主張は高森会長にとって余程痛いところを突かれたのでしょう。



事実、高森会長は、





> 最後に、勧学寮頭監修による『現代の教学問題』の「宿善について」の、コピー全文を転載したのは、ほかでもない。
>
> 『回答書』に、こんなことを、いっているからだ。
>
>
>
> 「私が発表した論文も、全文のせてもらった方が、よく解って、よかったのではなかろうか。論文を部分的に引いて反論されたのでは、私の主張の内容が、読者に解りにくく、誤解を生ずる点もあろうと、思われるからである」
>
>
>
> 〝こんな苦情で、また、真実開顕に、背を向けられてはたまらない〟と、思ったからである。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p6】





と書いています。「私の発表した論文も、全文のせてもらった方が…」と言っているのは紅楳英顕氏です。ならば当然引用する「コピー全文」というのは紅楳氏の論文ということになるのでしょうが、巻末に転載された論文はなぜか灘本氏のものなのです。紅楳氏の論文をのせられない事情でもあったのでしょうか。



そのあせりは、このあとの高森会長の文章をみても明かです。





> 文証に、いかにご執心か、よく分かる。文証で、なんとか防ぎとめねば……の危機感も、ヒシヒシ感じとれる。
>
>
>
> かくて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。
>
>
>
> しかも、ここだけは、〝どうだ〟と言わんばかりに、自信に漲っている、かに見える。 どんなに、強そうにみえても、自力の自信は、所詮はもろいもの、証拠の一端を示しておこう。
>
>
>
> もし仮りに、イジワルがいて、〝修善を排斥された文証をあげよ〟とでも、反問したら、本願寺サン、どんな、文証をあげられる、とでもいうのだろうか。
>
>
>
> またしても、一撃でダウン。みっともないことに、なりはしないか。そんな文証こそ、絶対、ありっこないのだから。
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p137】





自分の主張に自信があるのなら、どうして紅楳氏の主張をわざわざ歪曲した上で、まるで読者に刷り込むように幾度も繰り返さなければならなかったのでしょうか。またなぜ、「アッと驚くタメゴロー」「外道よりもあさましい放言」と、常識ある人ならまず使わないような非礼な言葉を浴びせる必要があったのでしょうか。



さらに「修繕を排斥された文証をあげよ」に至っては、論点のすり替えも良いところで、もはや言葉も出ません。私はこうした主張や論点のすり替え、非礼な言葉を見る度に、「強い危機感」を抱いているのは本願寺ではなく、かえって高森会長ではないかと感じるのです。



その後も高森会長は、





> 「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
>
> 修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
>
>
>
> 【本願寺なぜ答えぬ p149】
>
>
>
> 「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、本願寺は胸張らるるけれども、
>
>
>
> 【同書 p158】
>
>
>
> 「善をすすめた文証などあろうはずがない」と、仏意をじゅうりんして、はばからないから、おそろしい。
>
>
>
> 【同書 p159】





と、徹底的に紅楳氏が、「善をすすめた文証などあろうはずがない」と主張したように繰り返しています。



ここまで巧妙に主張が歪曲され、繰り返されると、本当に紅楳氏がそのように言ったかのように思ってしまう人も少なくないでしょう。しかし何度も申し上げますが、紅楳氏は「善をすすめた文証などあろうはずがない」などと一言も主張してはいないのです。



そして「『破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい」に高森会長は以下の根拠を持って回答としています。





> 仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。
>
> すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。
>
>
>
> 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
>
>
>
> 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟
>
> というのである。
>
>
>
> 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。
>
>
>
> 【本願寺なぜこたえぬ p138】





これが紅楳氏の質問の答えになっているのかいないのか。ここまで読まれた読者なら説明の必要はないでしょう。しかし『本願寺なぜ答えぬ』だけを読んでいると、本当にこれが答えになっているかのように錯覚してしまうのですから、恐ろしいものです。



筆者は親鸞会とも本願寺とも関係のないある識者に、『本願寺なぜ答えぬ』を見せたことがあります。その感想は一言、「恥ずかしい本ですね」というものでした。私はそこまで言う事はないだろう、と思ったものです。



今こうして読み直してみると、ここまで露骨に相手の主張を歪曲し、終始本願寺への悪口を書き連ねていれば、「恥ずかしい本」と言われても仕方がないのではないでしょうか。





> その後、昨年、高森親鸞会は『本願寺の体質を問う』という本を出版し、大々的に宣伝し、また地方にも持ち歩いて頒布した。その書は、私も一読したが、失礼ながら、的確な文証を示しての反論ではなく、私の主張を歪曲したり、悪口雑言を並べたりしているものである。
>
>
>
> 【紅楳英顕著 派外からの異説について p3】
>
>
>
> 聞法を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明かである。
>
>
>
> 【同書 p18】
>
>
>
> 「死なねば助からぬ」とか「念仏さえ称えておればよい」とか「念仏はみな同じものだ」などと、本願寺の誰が説き、どこに書いているのだろうか。書物や話の一部分だけとらえて、悪意に解釈するのならば、あるいはそのようにとれるところがあるかも知れないが、それは、あまりに片寄った見方であって、故意に曲解して本願寺を非難しているとしかいいようがない。
>
>
>
> 【同書 p21】





高森会長が『本願寺なぜ答えぬ』の前に出した本が、『本願寺の体質を問う』です。ここでは取り上げませんでしたが、虚心坦懐になって熟読すれば、高森会長の論議の仕方が一貫して変わらないことに読者は気づかれることでしょう。もし本当に自説に自信があるのなら、高森会長ほどの人物なら、こんな浅ましい事をしなくても十二分に反論はできるはずです。



現在紅楳氏をはじめとする本願寺派の僧侶は、「親鸞会は教義解釈の異なる別団体」として、『本願寺なぜ答えぬ』以降の反論はしていません。これを親鸞会は「これで本願寺を完膚無きまでに論破した」としていますが、これだけ相手の主張を曲解して「論破」したつもりになっていれば、「呆れて見放されただけ」と言われても、仕方がないのではないでしょうか。



そして、いくらうまく言葉を置き換えて「善のすすめ」と言ったところで、会内ではひたすら破邪顕正と財施ばかりが推進され、いま思うと親鸞会の「善のすすめ」とは、人集めと金集めにすぎなかったのではないかと思う人すら、少なくはないのです。


(続く)

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