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親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか・3

(続き)

4.反論できない真宗本尊論


> 親鸞聖人も蓮如上人も名号しか御本尊として礼拝しておられず、私たちにも名号を御本尊とせよと教え勧められました。
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>
> 【高森顕徹著 親鸞会と本願寺の主張どちらがウソか p5】





宿善論争とは全く異なる展開を見せたのが、真宗本尊論です。



高森会長は「親鸞聖人も蓮如上人も名号のみを本尊とされた」とし、本願寺が木像を本尊としているのは誤りだと指摘したのですが、それに対して山田行雄氏が「現代の教学問題・真宗の本尊について」で高森会長の主張に反論しています。



その反論内容は多岐にわたっており、全てをここで取り上げることは出来ませんが、親鸞会にとってもっとも驚くべき内容は、蓮如上人が山科本願寺の阿弥陀堂にご安置した御本尊は、木像本尊であったという事実でしょう。





> 蓮如上人の本尊は、具体的には、蓮如上人が発願建立された山科本願寺の阿弥陀堂の本尊であろう。
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>
> 文明十五年八月二十八日のご文に、
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> 阿弥陀堂の仏壇(中略)いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を六月十五日にすえ奉りけり。
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> と述べられ、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は文明十四年六月十五日に「すえ奉」られたとある。平尾興栄氏も注意されたごとく、このすえ奉られた本尊が、形像本尊であったか名号本尊であったかは、「据える」とある表現からも推察されるが、実悟師の『山科御坊之事並其時代事』に阿弥陀堂の荘厳を記するに、
>
>
>
> 木像本尊 安阿作 如今。左方北太子絵像 讃如常蓮如御筆・六高僧御影。右南法然聖人一尊御影 讃如常蓮如御筆 両方共に三具足、燈台あり。
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> とあり、ここに木像本尊(安阿作)とある。明らかに蓮如聖人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実である。
>
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> 【山田行雄著 現代の教学問題・真宗の本尊について p100】





その他にも蓮如上人が形像本尊を下付されていた等の歴史的事実が述べられていますが、山科本願寺の阿弥陀堂に木像本尊を安置されていたという歴史的事実の持つ意味は比較にならないほどの大きな意味があります。



なぜなら、山科本願寺とは蓮如上人が晩年を過ごされたところであり、親鸞会で言えば現在の本部会館に匹敵するものだからです。





> 本願寺には親鸞聖人や蓮如上人よりも、信心も教学も深い人がいられるとみえて、何かとこざかしい自分の思考を入れて、最も重要な御本尊のことまで親鸞聖人や蓮如上人のなされたようにしようとはしていませんが、これが親鸞聖人に還れと教える者の態度でありましょうか。
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>
>
> 【高森顕徹著 こんなことが知りたい】
>
>
>
> あなたは、なぜ蓮如上人が、「絵像より名号」と言われたのか、その理由が納得できねば実行しないぞというお気持ちかもしれませんが、そんな理由はどうでもよろしいではありませんか。なぜなら、私たち、親鸞会会員は、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は、すべて、如来の金言として頂いております。そして、身命を賭して教えに順ずる者です。
>
> いちいち、親鸞聖人や蓮如上人のご教導に対して、その理由をききただし、自分が合点できなければ順わないという態度は、まことに愚かな、回り道でありましょう。
>
>
>
> 【同著】





親鸞会では自らの下付する名号本尊こそが、「正御本尊」であり、木像本尊や絵像本尊は「正しい真宗の本尊ではない」としています。しかし、もし親鸞会の主張が正しいのならば、蓮如上人のされたことは間違ったことになってしまいます。そして、親鸞会が何事も蓮如上人のなされたように行う団体であるならば、本部会館の御本尊もまた蓮如上人がなされたように「木像本尊」にすることを検討すべきでしょう。



すくなくとも、「親鸞聖人も蓮如上人も名号のみを本尊とされた」という自説は撤回しなければなりません。しかし高森会長はこの山科本願寺本尊の件には、未だ沈黙を守ったままです。本願寺に「責任のある回答を望む」と再三にわたって要求するならば、自分もまた責任のある回答をするべきではないでしょうか。



私は決して、親鸞会の主張が間違っていると言っているのではありません。真宗の本尊は名号本尊とすべきだという同会の教義は、一つの教義解釈として充分に受け入れられるものです。



だた、例えば紅楳氏が親鸞会の質問に対して回答を出しても「満足の行く回答とは言えない」と再三再四回答を要求するならば、自らも同じ態度を持って応ずるべきです。そして、間違ったところは間違っていたとして、素直に訂正するくらいの度量はないのかと思うのです。



5.論議する者の姿勢


> あなたのお近くのあるグループで、時折りそういう法論・論争をこととする方々のうわさを、私なども見聞しております。ひたむきで情熱的で向学心一途のお姿には打たれますし、時に鋭く、的を射た教団寺院の現況への歯に衣着せぬ批判論議は、一在家人として共感を覚えるのでありますが、ただ一点、我のみを是とし、他を非として、対立的攻撃的に論争し論破せずばやまじの、偏執的なあり方に、学的信仰的論議以前の、原人間の姿勢として、抵抗を覚えずにいられないのは、私一人の印象ではないのでないかと存じますが、あなたの場合にもその高姿勢を、私の如き一在家人ですら、ふっと感じるのです。これは念仏の基本的な実践の問題でございましょう。
>
>
>
> その念仏の教えという、原一点に帰りますとき、答えの得られぬ不満を相手方に責める前に、答えを得られぬ自らの問い方を、まずもって静かに、綿密に、深く、脚下照顧すべきではないだろうかと、私がそうした立場に立たされました場合、自らに言い聞かせてまいりたいと思います。あなたはいかがでしょうか。
>
>
>
> 念仏の一道は、他を責め、他を言い負かして自らを主張し、自らが高らかに勝ち誇る路ではなく、他のあり様を機縁に、自らを深く見据えて、常に低く敗北していく道でないかと存じますがいかがでしょうか。
>
>
>
> 【親鸞会発行 法戦第5集 p88】





これはNHK『こころの時代』に親鸞会が質問状を出した際、同番組の司会者から寄せられた手紙の一部です。



同書には個人の私信を無断でコピーして他の人に送付したことが書かれてあったり、ある浄土宗僧侶が「親鸞聖人映画製作委員会」に出した私信が、本人に無断で掲載されていたりします。



前述の「歪曲問題」にしてもそうですが、自らの満足する回答でなければ回答とは認めず、自らが絶対に正しく他は邪であり、邪を破るには何をしてもいい、何を言ってもいい、という姿勢が、高森会長をはじめ親鸞会に染みついているのではないでしょうか。





> いよいよ坊主どもも頭へきたか。
>
> 入院はどこの精神病院にされるのかなァ。
>
> お気の毒に。
>
>
>
> 【親鸞会発行 顕正一口メモA】





高森会長や親鸞会が本願寺を語るとき、そこにはこれでもかといった罵詈雑言に満ちあふれます。本願寺頭脳の浅知恵。無責任本願寺。批判のための批判、読むだけ時間のムダ。手間のかかる、やんちゃぶり…



親鸞会発行の書籍や機関誌は、いまだに執拗な本願寺批判と、対照的な高森会長への賛美の言葉で溢れかえっています。こうした親鸞会の姿を見て、日蓮正宗系のとある新宗教団体を想起する人は少なくありません。



親鸞会の人から見れば、高森顕徹氏は親鸞、蓮如両聖人以来の善知識であり、親鸞会は唯一絶対の真実を説く幸せな団体なのでしょう。しかしこうして高森氏の著書を読み込んでみると、高森氏に宗教者としての誇りや、気高さ、余裕といったものを少しも感じる事が出来ないのです。



残念ながらこれは決して私一人の個人的な思いではなく、私の知る多くの人が抱く共通の感情です。



そして、そういう指導者を戴く団体が、人々に本当の幸せの道を説けるとは、私にはどうしても思えないのです。

(終)
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