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質疑応答101

【質問】


質問です。

知人は「親鸞会が今日のように脱線したのは善導大師の
 
  『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』

を読み間違ったのが大きい」言っていました。

すなわち、善導大師は、

  「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」

と教えられたのが、親鸞会では、

(1)外には賢善精進の相を現じなさい
   (外面は猛烈な善をしなさい)

(2)そして内は虚仮を懐いてはいけません
   (内面はキチンとしなさい)

になってしまった、と言うのです。

たしかに漢文では、「得ざれ」は文全体にかかっていますので、

(1)、(2)に分けることは不可能だと思いますが、この知人

の言うことは正しいのでしょうか。

一般的な解釈はどのようになっているのか教えて下さい。

また、清森様はこのことについてどのようにお考えでしょうか。


以上よろしくお願いします。



【回答】


『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。

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COMMENTS

親鸞会からの反論は・・・

親鸞会のネット対策員の方は、華光会の体験談の不自然さを指摘するのみで、自称福徳会員さんの質問に答えることもできず、清森問答で指摘されている親鸞会の教義上の誤りにも反論できないのはなぜでしょうか。

華光会の体験談の不自然さを指摘したところで、三業で信心は判断できないのですから、推論を述べているに過ぎません。
ですから、華光会の誤りを指摘するなら、教義上の誤りを指摘しなければならないのですが、ほとんど全て体験談の批判ばかりですね。
教義上の指摘といえば、息子氏が答えたという「ハッキリする人もいればしない人もいる」という点のみのようですが、華光会の発行書籍にもそのように書いてあるのでしょうか?
華光会の発行書籍から引用して、教義上の誤りを指摘していけばよいのに、なぜ三業では判断できないはずの体験談をもって「自力の信心だ」と決めつけているだけなのでしょうか。

親鸞会には「いろいろ問題はあるけど、真実を教えているのは親鸞会のみだから。」という理由で会員を続けている人は少なくないはずです。私もそうでした。
そういう自負があるのなら、教義上の指摘や質問には答えるべきではないのでしょうか。

浄土宗の学者の方の指摘に対しても、教学的な反論があるのかと思っていましたが、何一つ反論できないのはなぜですか。

お経や法然上人、親鸞聖人のお言葉を根拠としての批判も、「親鸞会に対する批判は法謗罪だ!無間地獄に墜ちるぞ!」で済ませるのでしょうか。

指摘されれば反論もできない教義を会員に教えているのですか。

「不得外現~~」のお言葉に関するこの度の清森さんの指摘に対し、親鸞会からの反論を期待しています。

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「仏道のスタート」を「信後の世界」に(「不得外現賢善精進之相」の解釈)

そうそう! 煩雑になるから、前回のツッコミでは言わなかったんだけど、 チ●ーリップ企画以下の文は、親鸞聖人の言葉を、 明かにヘンテコ...
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