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親鸞会教義の相対化・36

清森義行様



 今日は少し視点を変えて、文献学の話を書かせて頂きたいと思います。

 私は、この方法論を用いて親鸞会教義を相対化しております。清森さんや清森問答をご覧になっている皆様も、文献学を押さえていただくと、正しく親鸞聖人の教えを学ぶのにも有効なのではないかと思います。


【参考文献】湯山明「仏教文献学の方法試論」(『水野弘元博士米寿記念論集パーリ文化学の世界』)(1990)



§1.文献学とは

 歴史学とか、仏教学とか、あるいは哲学という個別のジャンルには、それを総括する学問体系があります。その学問体系の一つが「文献学」という学問です。

 文献学というのは、フィロロギー(philology)の訳です。
 フィロロギーというのは、ラテン語のフィロロギアという言葉からきており、学問体系としては「古典のより良き理解と保存を趣旨として、原典に基づいて民族ないし文化の特徴ならびに発展を研究する学問」です。

 この文献学は、それぞれの研究に客観性を与える一つの方法論です。ある文献を読んで、勝手に「こう思う」という「感想」では客観性がありません。きちんとした文献学という方法論を用いて、はじめてその客観性が認められます。

 法然上人も親鸞聖人も、この方法論を用いて「経典にこう書いてある」という「教証」の形で、自説に客観性を持たせて論証責任を果たしてこられました。だからその言葉が、単なる「我見」ではなく、仏の言葉という「事実」として受け取られるのであり、私達はその言葉を信じることができるのです。


§2.文献学の課題

 この文献学は「原典批判」と「原典解釈」の二つの性質をもっており、この二つが相互に関わりながら進められていきます。


§2.1.原典批判

 印刷技術の発達しなかった時代には、文献は写本によって伝承・流布されていました。したがって特定のテキストを研究するのには、まずその写本が集められます。諸写本の比較校合、それらの間の出入異同の確認の後に、原典批判の操作を行い、もっとも純度の高い形で伝承されたと思われるテキストの復元が行われます。その間に原典の破損、脱落が確認され、またその可能なかぎりの修復などの作業が営まれます。
 このような作業を行った結果得られたテキストが、いわゆる「高次批判」に委ねられ、はたして純度がなおどれほど高いか、後世の改変や増広の跡がないか、またそれは全体としての統一がとれているか否かなどの問題が問われ、さらに分析されることになります。
 こうした文献の文献の分析によって、原典がどのように成立したのかを明らかになり、また異本校合の結果とともに原典伝承の経緯、系統が明らかになります。


§2.2.原典解釈

 以上の原典批判と関わりながら、原典解釈が行われます。
 原典解釈には特定言語の文法の理解が必須となり、語義の明確な把握のために語源学が要請されます。ただし一語の意味は歴史的に変化するから、その歴史的・地理的変化を考慮した信憑性の高い辞書の編纂が必要となります。
 語のみならず文体も時代により、分野により、また個人によって異なってくるから、その諸特徴の研究は文体論となり、さらに文芸学が必要となります。さらに特定のテキストの研究にはそれが成立した歴史的・社会的環境の理解が必要となります。
 そして、神話、宗教、習俗、法制、歴史、哲学など、それを取り巻く文化の背景が考慮されなくてはなりません。文献学は原典解釈を通して古代文化の研究一般と近接することになります。


§3.思想先行型文献学

 湯山先生は、「文献学の落とし穴と」して、「宗学と訓詁註釈の学」「思想先行型文献学」「文献引用に終始する論文」「潔癖性型文献学」を挙げられていますが、特に親鸞会教義に密接に関係する「思想先行型文献学」について特に述べておきます。

 文献学の方法として、もっとも深刻な誤用例は、研究者自身の思想あるいは構想ともいうべきものが、予めか、あるいは作業の途中で出来上がってしまい、それに都合の良い文献だけを資料としてしまうことです。
 非常に多くの場合、彼らの思想(構想)は、論理的に堅固であり、さらに新鮮な原資料の助けに威を借りて説得力に富みます。
 従って、読者は騙されないまでも、彼らの理論を反証する資料が故意ではないにしても無視されているために、気づかずに迷路に連れ込まれ誤信してしまう事になります。
 あるすぐれた論があるとします。面白く同学の研究者をひきつけずはおきません。着眼点が素晴らしく洞察力に富んでいます。難解な原典が、豊富に引用されています。複雑な内容が、図式的に(あるいは図式を以て)明解に提示されています。他の学者の気が付かなかった蒙を啓いてくれます。
 しかし、よくよく考察してみると、著者が自己の思想を優れた表現力で示した論文ではあっても、何ら文献学的な実証をしていない。原典の批判的考究、精密な解釈的研究のように見えて、実は著者の哲学的試論、時には随筆とさえいえる「論文」と呼ぶほかないであったりします。注意深く読まないと、これを読者は「文献学」的な労作と思い込まされてしまいます。
 更に悪い例は、何ら論拠とする資料を挙げずに、あるいは何ら論拠とする資料の裏付けもないのに、「文献学」的方法を採って成ったごとき「論文」です。このような論文は、随筆的試論か試論風随筆というべきもので、文献学的所産とは言えません。


§4.高森先生にみられる「思想先行型文献学」

 私見ですが、高森先生の教学には、この「思想先行型文献学」に基づくものが多数存在します。今回は一つだけ例をあげてみたいと思います。


§4.1,蓮如上人『御文章』

 蓮如上人の『御文章』を読むと、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒めています。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)


 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)


 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)


 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)


 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)


 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
 ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)


§4.2,高森先生の解釈

 しかし、親鸞会教義では、そのことを蓮如上人の時代における方便と見て、それらの戒めに現代は拘束されるべきではないと主張されているようです。


『会報』vol.4「善知識」(22)

故に蓮如上人も、彼らの暴力を誘発することを防止し、門信徒の安全を守る為に、「当流安心の義(諸仏、菩薩、諸神を捨てて一向に弥陀一仏をたのむという教義)は内心に深くたくわえて、他宗他門の人に対しては沙汰すべからず」と掟まで定められ、神仏混淆の邪説に対して逆らわないで、「一切の諸神なんどをも我が信ぜぬまでなり。疎にすべからず」(二帖一通)とか「とりわき神を崇めねども、ただ弥陀一仏をたのむうちに皆こもれるが故に、別してたのまざれども信ずる謂のあるが故なり」(二帖三通)とか、「自餘の一切の仏、菩薩ならびに諸神等をも、わが信ぜぬばかりなり。あながちに是を軽しむべからず」(二帖二通)と『御文章』に仰せになっているが、これは断じて仏法の本義を述べられたものではなく、一時の方便として仰有ったものである。


『会報』vol.4「善知識」(23)

蓮如上人の教えられた掟というのは、時の政治権力による弾圧を防止して、真実の教をより効果的に宣布する為の方便として、また信者の人々の生活の安全を案じなされて、出来得る限り無用の争いをさける為に、国家制度を犯さず、人倫を破らないようにせよという、いわば真宗教徒の生活信条のようなものであるから、絶対不変の信心や安心とは全く性質を異にするものであることをよくよく知らねばならない。
(乃至)
 以上のような時代により人によって種々に作られ変更されてきたものが日本の神というものであるから、それに対する我々真宗教徒の考え方や態度も、またそれに応じて変更してゆかねばならない。故に、蓮如上人時代の神に対する掟は今日は通用しないばかりでなく、その真意を発揮しなければ顕正の障害にもなることを牢記しなければならない。




 しかし『御文章』には、そのような主張の根拠は見出すことはできません。したがって『御文章』を読む限り、蓮如上人はその時代における方便としてではなくて、どの時代にも通じる念仏者のあるべき態度として、お説きになっているとしか解釈することはできません。


§4.3,法然上人『七箇条起請文』、親鸞聖人『御消息』

 以上のように、蓮如上人が他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒めていることは明かであると思いますが、この解釈は法然上人や親鸞聖人の言葉からも裏付けることが可能です。

1)法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

 しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しません。


2)親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。


§5.終わりに

 以上、文献学と思想先行型文献学、さらに思想先行型文献学に基づく親鸞会教義の問題点について述べさせていただきました。

 最後に高森先生があらかじめ思想哲学を先に持っていて、その結論に都合のよい資料だけを取り出して出した構築した教義は、高森先生の思想哲学であって親鸞聖人の教義でも蓮如上人の教義でもありません。たとえ高森先生が親鸞聖人や蓮如上人の言葉を引用されていても、高森先生の思想が先行して構築された教義は、どこまでも高森先生の思想哲学です。

 親鸞聖人の教えを生き方の指針とされるのであれば、高森先生を通してではなく、あくまでも親鸞聖人の言葉に直參すべきだと思います。

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