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親鸞会教義の相対化・37

清森義行様


 今日は、清森問答をご覧に皆様や親鸞会関係者の皆様に、ぜひとも読んだ頂きたい一冊を紹介させていただきます。

渡辺一夫著『狂気について』(岩波文庫)

 暴力に対する嫌悪,人間の機械化に対する嫌悪,そして人間に対する愛を心に抱いて生きること・・―ユマニスムを生涯の思想とした著者(1901-75)の静かな祈願のことばは,読む者の胸に深い感動を呼び覚ます.真の知性の眼をもって人間性の根源を洞察するエッセイ・評論二十三篇を収録.
(本書の紹介文より)

 渡辺一夫先生は、フランスのルネサンス文化、特にフランソワ・ラブレーの研究で知られ、ノーベル文学書作家の大江健三郎先生の師匠であり、本書は、その渡辺先生の評論を集めた評論集です。

 本書のタイトルにもなっている評論「狂気について」において、渡辺先生は以下のように述べておられます。

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 我々は、「天使になろうとして豚になりかねない」存在であることを悟り、「狂気」なくしては生活できぬ存在であることを悟るべきかもしれません。

 このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気」を唯一の倫理にせよとかいう結論に達するべきものでは決してありますまい。

 むしろ逆で、豚になるかもしれないから、豚にならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、誰しもが持っている「狂気」を常に監視して生きねばならぬ、という結論は出てきてもよいと思います。

(中略)

「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。

「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。
真に偉大な事業は、「狂気」に捕らわれやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。

 やかましく言われるヒューマニズムというものの心核には、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。

 容易に陥りやすい「狂気」を避けねばなりませんし、他人を「狂気」に導くようなことも避けねばなりませぬ。

 平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが、行動の準則とならねばならぬわけです。

 そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。

 ただし、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に「病患」を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。
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 確かに、無関心は何も生み出しません。よく言われることですし、全くその通りだと思います。

しかし同時に、

 熱心になるあまり「狂気」に陥ってしまってないだろうか?
 自分の歩んでいる道は本当に間違っていないか?
 厳しい批判は、他者だけでなく、自分自身にもちゃんとなされているか?
 他を排斥するだけで、自分自身を省みていないのではないか?
 他者に対する配慮はなされているか?寛容の精神はそこにあるのか?

こういったことも、常に考えていかなければならないと思います。


 それから同じく本書に収録されている「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」で、渡辺先生は以下のように述べておられます。

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 過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開された現実を眺めてみても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。

 割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざる得ないようなことがあるであろう。これは認める。しかし、このような場合は、実に悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持ちは僕にはないのである。

 その上、不寛容に報いるに不寛容を以ってした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱し、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深いひだを残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は考えまいとしても考えざるを得ない。
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 そして、寛容さを保ちながら秩序を維持するために、渡辺先生は以下のように提言されています。

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 秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

 更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

 即ち、秩序を守ることを他人に強要する人々は、自分にとってもありがたい秩序であればこそ、正に、その改善と進展とを志さねばならぬはずである。寛容が、暴力らしいものを用いるかに見えるのは、右のような条件内においてのみであろう。

 しかし、この暴力らしいもの、即ち、自己修正を伴う他者への制裁は、果たして暴力と言えるであろうか?十字路の通行を円滑ならしめるための青信号赤信号は暴力ではないし、戸籍簿も配給も暴力ではない。人間の恣意を制限して、社会全体の調和と進行とを求めるものは、契約的正確を持つが故に、暴力らしい面が仮にあるとしても、暴力とは言えない。

 そして、我々がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずるのは、この契約の遵守を要求する個々の人間の無反省、傲慢あるいは機械性のためである。例えば、無闇やたらに法律を盾にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的なものを付加する人々と言ってもよい。

 こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あらゆる人々によって、日常茶飯事のうちに考えられていなければならぬことであろう。
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 そしてキリスト教の歴史において、神の名の下に不寛容な暴力が行使され、沢山の犠牲が出たこと、そしてその中にあって、寛容を貫き通した人々もいたことを述べ、

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「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」

「反対意見を強制的に抹殺しようとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を画一化することは、墓場における意見一致を勝ち取ることでしかない。しかも異なった意見をもつことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異なった意見を持ち得るかいなかにかかっている。」
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という二人のアメリカ人判事の言葉を引用し、以下のように結論付けておられます。

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 僕は、この二人のアメリカ人の名前を一度も聞いたことがなく、特に著書をたくさん残して、思想界に寄与している人物かどうかも知らない。僕にとって、この二人は、いわば「無名の人」の大群に属する。そして、このことは極めて僕を慰撫激励してくれる。即ち、寛容は数人の英雄や有名人よりも、多くの平凡で温良な市民の味方であることを再び感じるからである。

 そして、寛容は寛容によって護らるべきであり、決して不寛容によって護らるべきでないという気持ちを強められる。よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いと思わねばなるまい。

 その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。不寛容によって寛容を守る態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生き甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。

 だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。


 初めから結論がきまっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。

 歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機会にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少ない犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてもよいはずである。
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 人生に関して真面目で熱心で、日々を真剣に生きている人が、自分の枠組みを脅かす存在に対して、不寛容な姿勢を取った場合、その真面目さ、熱心さ、真剣さ故に大きな犠牲を生んでしまったというのは、宗教戦争や十字軍、近年では9.11のアメリカ同時多発テロ等、人類の歴史上、何度も繰り返された悲劇です。

 私達は、往々にして、春風のように自分に甘く、秋風のように他人に厳しくなりがちですが、こうした悲劇を二度と繰り返さないためにも、渡辺先生のこの精神から、大いに学んでいかなければならないと思います。

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COMMENTS

No title

こりゃなんですか?

(゜-゜)

薄っぺらいですね
まあ、宗教家はえてして思想偏重で現実認識をかきますから
しかたないとは思いますが、逆に過激なことをいわれても
困惑してしまいますからこのくらいがちょうどいいのかもしれませんね

No title

寛容という名の暴力にうつつをぬかしていられる人はいいですね。
やはり薄っぺらいと感じます。

宗教家は机の上で、守られた体制の中で平和を説いてればいいですよ。
宗教権威が偽りの現実への警鐘として利用する場合よりはましですから。
それ以上は期待してません。
せいぜい、私の周りに宗教家の声をとどけてくれるよう頑張ってください。

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