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質疑応答105

【質問】


 清森さんや、一部の講師部の方々は、華光会について先生が語られたことは無いにも関わらず、なぜ華光会という存在を、知っていたのですか?



【回答】


 親鸞会は、昔は徹信会と言い、華光会の一部でした。華光会から分離独立した際に、名前が親鸞会に変わりました。

 ですから、古くからの会員さんは元華光会会員ですし、先生のお母様、東岸さん、西堀さんなど、親鸞会で妙好人と言われる方の多くは、華光会で救われておられます。

 当然ながら、長く講師部員をやっていれば、古い会員さんから華光会の情報も入ってきます。中には、高森先生初の御著書である「獲信の記録(華光会出版)」を、高森先生から直接いただいた方も知っています。

「獲信の記録」は、高森先生が、獲信された方の体験談をまとめたり、伊藤康善氏の座談会を記録し、編集したものなどを出版されたものです。「仏敵(伊藤康善著)」の宣伝も掲載されています。

「獲信の記録」には、獲信者の以下のような言葉が掲載されています。

●おらが獲信とも知らずに、自然に獲信致しまして…

●今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?


 また「仏敵」に、伊藤氏は以下のように書いています。(現在は2冊に分かれましたので、以下の文章は「我らの求道時代」という本に収録されています)。

●若しや自分の戴いたと思った信仰は嘘では無かったか知ら……あの同行達のやうな熱誠な態度や歓喜に溢れた落着いた念仏を思ふとき……信仰界に立つ先覚者が一度内心の革命あるや其後は旺盛な獅子奮迅の活動に入るのを見るとき……チラッと心をかすめた疑惑は再び私の信仰に対して鋭利なメスを振い始めた。


 高森先生は、獲信しても「本当に救われたのだろうか」という疑いを起こすと、理解されていたと思われます。そうでなければ、こんな本を出版したり、他人に勧めたりされるはずがありません。

 いくら体験が正しくても、教学力がなければ、自分の体験が「信心決定と言われている体験」と同じかどうか、判断できません。上記のような疑いが起きたとしても、異安心とは言えないと思います。

 しかし、このような体験談を、あえて読ませることは、疑心往生の異安心に陥らせる危険があると思います。疑情が晴れなければ、絶対に往生は出来ません。そこを間違えると大変なことになります。

 それが理由かどうか分かりませんが、高森先生は、ある時期から、過去の経歴、御著書や投稿文などを、隠すようになられたのではないでしょうか。

 私は、華光会におられたことも、「獲信の記録」を書かれたことも、隠すのではなく、納得のいく説明をされてこそ、私たちの求道の勝縁にもなったと思うのですが、逆に隠されたことによって、不審を招く結果となってしまったと思います。

 現代はインターネットの時代ですから、隠しようがありません。今からでも遅くありませんから、高森先生御自身が、過去について総括される必要があるのではないかと思います。

 そうしなければ、ますます不審が広がって、親鸞会で教えを聞かれる方が、ますます減ってしまうと思います。
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COMMENTS

No title

>●おらが獲信とも知らずに、自然に獲信致しまして…
>
>●今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?

 こんな本を出版していたんですか。
 高森氏は自ら異安心であることを証明してしまいましたね。

高森サンは異安心か

上にあるものやネットにあるものだけでは何とも言えぬ。
しかし『佛敵』の後日談、『善き知識を求めて』で華光創始者の伊藤さんも
似たことを言っており、

●今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。
だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。
これが獲信したというものであろうか?

こういう信心が華光流であることだけは確信をもって言える。

さて、「私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。
これが獲信したというものであろうか?」とある人が言った、
だからその人は異安心だと 100% 言えるのか。
限りなく怪しいが 100% 異安心とは言えない。

では、真宗の教えではどうなのか。
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)などとあり、獲信すれば大慶喜する。
大慶喜があって自覚がないわけがない、本人にさっぱり分からぬわけがない。
獲信の一念は、分秒では分からないが、味は分かるのだ。

念のため言うが、喜んだのが信ではない。まちがってはならぬ。

その大慶喜を、獲信なされた同行が、あまりの驚天動地の体験に
「私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。
これが獲信したというものであろうか?」と言うことはあるかもしれぬ。
だから 100% 異安心とは言えない。

このことからもわかるように、個々人の体験に依拠しすぎるのは危険。
真宗の教えに合うか合わぬかがモノサシ。


次に、高森サンの信仰にうつろう。
華光の人には分からないだろうが、高森師は著書だけでなくその法話も
要の部分はほとんど大沼師からのパクリ。
たとえなんかには高森師のオリジナルもあるが、
真仮の要はほとんど大沼師からのパクリだから
高森師は信心を自分の言葉では語れない人だった。

逆に、高森師が言い始めた教学はほとんど批判にさらされている。
「一切衆生必堕無間」、本尊論や宿善論、
伊藤師・大沼師の言ってないことばかりだ。

目が覚めてみれば、高森師に現れた三業にはおかしなものが多すぎる。

高森サンは演戯の非常に上手な役者さんだったのだと思います。
仮面が外れたときの顔は、近い人ほどよく知っているでしょう。

こういう意味で、高森サンの信心はほぼ 100% ニセモノ (ウソモノではなく)
だと思いますね。

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