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投稿を紹介いたします。

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新聞にこのような記事がありました。親鸞会も同じではないかと思いました。



『社長より 現場をよく知る アルバイト』
 第一生命の今年度サラリーマン川柳コンクールでベスト10入りした一句は、経営状態の悪い管内企業のトップを端的に表す。
「環境変化に敏感な現場の意見を吸い上げられない。過去の成功体験を引きずり、状況分析もお粗末。イエスマンだけを周囲に置き、悪い情報は入らない。裸の王様だ」。地元金融機関関係者は、生き残れない企業の特徴について口をそろえる。……

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光晴局長の赤ちゃん中絶の真偽について。

2ちゃんねるで以下の書きこみを見ました。本当でしょうか?
詳しい方、おられますでしょうか。


【タイヤキの礼はまだか】浄土真宗親鸞会【小人物】  より引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>>光晴が若いときに滋賀の会員さんを孕ませて、中絶させた。
>滋賀の古い会員さんならば知っている人は多いですよ。


>これだけはやったらダメでしょう?

>みんな知ってるの?
>というか、なんで話題に出ないの?
>不倫どころじゃないじゃん。

>中絶させたって・・・殺したわけでしょ?人間を。
>その子の後生の一大事はどうなるの?
>せっかく人間に生まれられるチャンスを、法を説くものが殺して、千載一遇の迷いから抜>けるチャンスを、
>法を説くものがツブしたってことになるよ?

>いくらなんでもウソでしょ・・・?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり。


滋賀会館でのその事件の風聞

「滋賀 堕胎 親鸞会」または「滋賀 中絶 親鸞会」でgoogle検索かけるといろいろと出てくるよ。

昔から滋賀会館でのその事件の風聞はあった。

今となっては被害に遭った本人が名乗り出ない限りは立証は無理でしょ?
火のないところに煙はたたない、と思うけど。

当たり前

『社長より 現場をよく知る アルバイト』
よほど小さい会社でもない限り、アルバイトのほうが現場を知っているのは当然でしょう。

まあ、意図していることは、えてして、アリバイとの方が現場を良く知っているがゆえに会社の行く末を社長より良く知っているということでしょうね。

親鸞会の行く末は退会者が良く知っていますね。

三願転入についてのまとめの感想2

元のコメント部分が相当したに行ってしまったので、
こちらにコメントを致します。

三願転入について2(自称福徳会員さんのまとめの感想) - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080603/1212490271

真宗に於ける善の勧めと行った場合は、善の勧め=信心決定なんです。
浄土真宗に、善の勧めはあるのか?という疑問は
浄土真宗に、信心決定のすすめはあるのか?ということになるんです。

全文はブログに書いておきましたので、ご縁があればご覧下さい

山も山さんへ

ありがとうございます。

あなたのご意見は、結局、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉はないし、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」という思いで善をするのも勧めるのも間違いということでよろしいんですよね。したがって、「高森氏のが家を売って、財施し、アパートに住め」というのは別にそれをすることにより、今生において早く救われるからそうしなさいといっているわけではないんですよね。
高森氏の専任講師への「君たちは19願の入り口にも入っていない」というのはどういう意図での発言なのでしょうね。専任講師に何をせよ・どうせよという意図なのでしょうか?


「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

そういえば

高森氏の言葉通り、実際に家を売って財施した人はいるんでしょうか?
富山に移住するためとか、転勤になった等という理由は無しで、あくまで財施するためだけで、です。

おそらくいないと思います。
それじゃあ、言葉じりを使って、相手をあれこれ非難している人と同じになっちゃいますよ。

No title

「家を売って、財施し、アパートに住め」というのは、たまたまちょっとオーバーな表現をしただけだとも解釈できますが、いずれにしても強烈に財施を勧めているのは事実です。

「家を売って、財施し、アパートに住め」という発言ばかりにとらわれるのはいかがなものかと私も思いますが、強烈に財施を勧めているという事実の象徴として引き合いに出すだけなら別にかまわないと思います。

私が知っている限り…

実際に家を売って、財施し、アパートに住んだ人は知りませんが、資産を切り売りしていって、トータルで家1軒分を超えた人を一人知っています(面識があります)。
資産を売ってはいませんが、トータルで家1軒分を超えた人を二人知っています(面識があります)。

いずれにしても高森氏が「家を売って、財施し、アパートに住め」といっているのは事実であるのでそれを引き合いに出すのはまったく問題ないでしょう。

付け加えるとするならば…

仮定の話ですが、もしも、富山に移住のため家を売って、そのお金を財施し、富山で借家住まいの方がおられれば、例として除外する必要はないと思います。

それから、専任講師は一部の甘い汁を吸っている幹部を除けば持ち家を持つのは不可能でしょう(相続を除く)。あれだけの労働を世間の仕事で行っていれば、普通は家1軒くらいは建つでしょう。Lost Oppotunityの考えをするならば、ほとんどの専任講師は実質的に家を売って、財施することに相当すると思います(親鸞会が適切に浄財を使っていると仮定し…)。

質問の取り消し

貴殿のプログの最新ではないページに『結論から言いますと「善を行うことで早く救われる」という教えは真宗に有りません』とありましたので、上記の質問は私にとって不要となりましたのでお答えいただかなくてよろしいです。その代わりといっては何ですが、次の質問にお答えください。

『「善の勧め」と言った場合の「善」は信心決定です』とありますが、私は今までそのように聞かせていただいたことは一度もないと思います。そのように書かれたご著書はありますか?

また、おそらく以下のサイトは親鸞会が「なぜ答えぬ」をまとめたものだと思いますが、このサイトを見る限り、「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはある」と親鸞会が主張しているところの善は十九願の諸善や定散二善のことに読めます。『「善の勧め」と言った場合の「善」は信心決定です』とはとても読めません。この点はいかが思われるでしょうか?

http://kazoku.sub.jp/hongwanji/index.htm

貴殿のプログのサイトでは書き込みをするための認証が期限切れとなってしまい書き込めません。したがって、こちらに書かせていただきました。あしからず。

自称福徳会員さんへ

質問の件了解いたしました。
仕事の都合で今コメントを読みました。
携帯では書きにくいので、明日の夜9時ごろまでにはお書きします。
よろしくお願いします

山も山sanへ

よろしくお願いします。それから、退会したので名前に元をつけることにしました。「自称」がついているのでどちらでもいいのですが、第3者の読まれた方が私が会員であると勘違いするのを避けるためです。

さて、関連した質問をもう一つです。

『「善の勧め」と言った場合の「善」は信心決定です』ということになると「なぜ答えぬ」の論点は『親鸞聖人のみ教えに「信心決定」の勧めがあるかないか』ということに言い換えることができるのではないでしょうか?『親鸞聖人のみ教えに「信心決定」の勧めがあるかないか』という点について親鸞会と本願寺で論争をしているとは思えないのですが…。

この点につきましてもご解説、よろしくお願いします。

元自称福徳会員さんへ

コメントで、3つお尋ねを頂きました。

最初のコメントについての、お答えを書きました。
「「財施や破邪顕正を行うことで早く救われるというのは間違い」=「財施や破邪顕正をしないほうがよい」
ということではないことを、最初に書いておきます。」
以下全文はこちらです。

私たちがする財施や破邪顕正が、救いと関係ないと言っているだけです。
2008-06-05 - 安心問答

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080605

3つとも書こうと思いましたが、最初の一つが思ったより長くなってしまい、時間の都合であとの二つは明日以降必ず書かせて頂きます。
申し訳ございませんでした。

No title

山も山さま


 ブログ、拝見させて頂きました。高森教学の間違いを明らかに指摘して頂き、ありがとうございます。
 親鸞会では、親鸞聖人の勧められた善を「財施」「破邪顕正」と履き違えております。その間違いを明らかに破って頂きました。

>私たちがする財施や破邪顕正が、救いと関係ないと言っているだけです。

 親鸞会では、「財施」「破邪顕正」を救いと関係あると思って励んでいる人ばかりです。以下の高森会長の言葉を信じ切っています。知り合いの会員にも貴殿のサイトを紹介して、高森教学の間違いを知って頂きたいと思います。
 どうもありがとうございました。

***「本願寺なぜ答えぬ」より***
>無論、獲信と修した善が無関係ならば、喜ぶはずがありません。
>明らかに獲信と修善は関係があったから喜ぶのです。
>しかも、悪い関係ならば、喜ぶはずはないのですから、当然、善い関係でなければなりません。
>獲信と善い関係にある修善をすすめることを、なぜ、間違いとされるのか。

追加質問

山も山さん、

丁寧かつ紳士的なご回答、ありがとうございます。大方、貴殿のご意見に同意しますが、大きく2点、同意できない点があります。微妙かつ重要な内容かと思いますのでひとつずつ片付けていければ幸いです。ですので、残りの2つについてはこれらの問題が片付いてからにしましょう。

まずは次の点です。

以下、貴殿が引用された御文章は貴殿のご意見を述べられるための根拠とされるのは蓮如上人が書かれた意図とは異なると思いますので、この部分の引用は不適切かと思います。私の解釈の誤りをご指摘していただくか、「後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか」を、再度、別の表現でご教示いただけましたら幸いです。
-------------------------------------------------------------------------------------
では後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか、蓮如上人のお言葉で言いますと。

「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章)」

自力が妨げになると聞かされても、どうしたら捨てられるだろうかと、求めるのが「いかなる功徳・善根をも修し」です。当然この中には、財施も破邪顕正も念仏も信前の聞法も入ります。
-------------------------------------------------------------------------------------

貴殿が引用された前後を含めて記載します。
「夫当時世上の体たらくいつのころにか落居すへきともおほえはんへらさる風情なり。しかるあひた諸国往来の通路にいたるまてもたやすからさる時分なれは、仏法世法につけても千万迷惑のおりふしなり。これによりてあるひは霊仏霊社参詣の諸人もなし。 これにつけても人間は老少不定ときくときは、いそきいかなる功徳善根をも修しいかなる菩提涅槃をもねかふへきことなり。 しかるにいまの世も末法濁乱とはいひなからこゝに阿弥陀如来の他力本願はいまの時節はいよ~不可思議にさかりなり。」

私の解釈は以下のとおりです。

「この頃は世が乱れ、霊験あらたかな寺社に参詣する人は稀である。人間は老少不定と教えていただいたなら、急いでいかなる功徳善根(聖道仏教の修行を含む)をも修して、いかなる菩提涅槃(自力の覚り・諸仏の浄土往生を含む。もちろん、弥陀の浄土往生や化土往生を含む)をも願うべきである。けれども、今の世は末法濁乱の時機とはいいながら阿弥陀如来の他力本願は今の時節にはいよ~不可思議に盛んなのである。(だから阿弥陀如来の他力本願を求めるべきなのである。)」

私の解釈では貴殿の引用された御文章の箇所は18願の救いを求めて自力が妨げになっている人にではなく、むしろ未だ浄土門に入っていない人に対しておっしゃられたお言葉ということになります。
一向専念 無量寿佛が真宗の教えであるにもかかわらず、なぜ、蓮如上人は一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれたのでしょうか?以下の理由が考えられます。どちらか一方ということではなく、両方の理由からだと思います。

1. 当時、比叡等の聖道仏教からの弾圧が激しく、真宗の道俗が生命の危険にさらされていたため、弾圧を和らげるためのスタンス。
2. 「浄土門の教えは宿善深厚の人しか聞くことができない教えであり、そうでない人にいくら聞かせても納得させることはできない。聖道仏教では凡夫は救われない教えではあるが、外道に走ったり、欲にまみれた生活をするよりはましである。彼らにとっては浄土門に入るには今生ではまずは聖道仏教を求めることが必要なのであろう。」という御心。

しかしながら、一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれた上で、阿弥陀如来の他力本願を求めるべきことを書かれて、目釘を打っておられます。

私は今生で弥陀に救われるためには親鸞会を辞めて別の道を選んだほうが良いと判断し、退会しました。しかし、現時点において、必ずしも、他の人に退会を勧めるわけではありません(実際、ご縁のあった会員さんに一人として勧めていません)。また、諸善をすることを否定するものでもありません。それは上記の2の理由に似た気持ちがあるからです。

追加質問-2

山も山さん、

2008-06-05のご回答に対する同意できない点の2つ目です。同意できないと言うより、確認したい点、と言うほうが適切かもしれません。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「19願の入り口にも云々」という発言は、教えから言えば
「これだけ善いことしておれば、早く救われるだろう」という気持ちで、善をしている人は、弥陀の救いから言えば,まだ軌道に乗っていないのです。
真剣に救いをもとめて「発菩提心」という心がおこされた人は、いわゆる「後生に驚きのたった人です」
「仏法に明日はない」と我が身の無常に驚いた人が
「これだけ善いことしているのだから、早く救われうだろう」などと、悠長なことを言っておれるでしょうか。
「今が後生」となったなら、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題となって悩みます。
そうなった時に、邪魔になり、見えてくるのは「雑行雑修自力の心」です。
「後生に驚きのたった人」には、必ずこの心が問題になり、どうしたらどうしたらと考えずにおれなくなります。
そんな人が19願の行者であって(あくまで救われて振り返ればで、そのときには「俺もやっと19願」などと自覚できませんし、そんな悠長なものではないのです)、そういう意味において、そんな人がいないと言われたのだと言うことでしょう。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

以下は、貴殿の述べておられる部分に関する私の理解です。「部分に関する」ということですので貴殿の言葉そのままを解釈しているわけではありません。加えているところ、削っているところがあります。私の理解に間違いがないか教えてください。

------------------------------------------------------------
19願は臨終現前の願と言われるようにあくまで救いは臨終来迎です。したがって、『狭義の19願の行者にとって「今が後生となったならどうしよう」、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題になってくる』とは思いません。また、諸行往生といわれるように、諸善を行って救われるという願ですので「雑行雑修自力の心」が見えてくるとか、ましてや邪魔になってくるものではありません。
「雑行雑修自力の心」が見えて邪魔になってくるのはそのまま救うと言う18願の救いを求めるからです。佛願の生起本末を聞き、「悪しかできず、一息切れたら後生。自分のやる善は少しも間に合わない」と頭では理解できても、「それではどうしたら『雑行雑修自力の心』が廃るのか?」「『財施や破邪顕正をすれば早く救われるのでないか』という思いが離れきれない」と問題となってきます。このような人を広義の19願の行者と言えるでしょう。ただし、これはあくまで救われて振り返った時に、あのときは19願にいたなと知らされる。

さて、私の考えでは、広義の19願の行者にとって、「財施や破邪顕正をすれば早く『雑行雑修自力の心』が廃る・早く救われる」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。また、「財施や破邪顕正をすることにより、『雑行雑修自力の心』が見えてきて、邪魔になってくるとだろう」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。そのようなことをすれば、むしろ、今生で救われるために弊害になる(次の生での宿善になるかもしれませんが…)。なぜなら、善をやること自体に心の目が奪われ、『雑行雑修自力の心』をみることに、目がいかないからである。ただし、因果の通りを知らされている仏法者が善を行うことは当然であり、善を行うことを否定するものではない。

なお、狭義の19願の行者とはまことの善を行い、臨終来迎を求めている者、広義の19願の行者は正しい求道過程の真宗の信者と言えるでしょう。

元自称福徳会員さんへ

回答を書く予定でしたが時間がとれず、現時点では難しい状況です

明日明後日は降誕会に行っておりますので、月曜の夜までにはお返事いたします

こちらの都合で申し訳ございません

了解しました。
よろしくお願いします。

浄土他流と真宗の教義理解の差

横レスになりますが、元自称福徳会員さんのご意見を興味深く読ませていただきました。

広義の十九願の行者=正しい求道過程の真宗の信者であり、「ただし、これはあくまで救われて振り返った時に、あのときは19願にいたなと知らされる」というご意見については同意的考えをもっています。

ただし、私は狭義の十九願の行者=浄土宗の信者とは必ずしも思っておりません。
親鸞会における浄土宗とは、「体失不体失往生の諍論 で親鸞聖人に敗れた善恵房証空の伝えた流派」のような理解をしている人が多いのかもしれませんが、その理解は必ずしも正しくないと考えています。

議論がわき道にそれるので詳しくは申しませんが、親鸞会会員・元会員のかたがたは浄土宗の教義や真宗との差異について勉強されるのも視野を広めるために参考になると思いますね。
そもそも覚如上人が様々な浄土他流の師匠がたに学ばれてきたことは周知のことですし。

浄土宗といっても鎮西派と西山派とでは教義理解に相当違いがあります。また、親鸞聖人も尊敬されていた隆寛律師の長楽寺義、あるいは長西の九品寺義、幸西の一念義などいろいろあります。
幸西の一念義などは、「凡夫の信心が仏智の一念に合致すれば決定往生疑いなく、一念の他に更に多念を必要としない」という理解とされていますし、同じ一念義の行空は十戒毀犯の業を勧めた罪を興福寺に問われ、やむなく破門されたようです。このあたりは一念義の内包する問題点として、親鸞会の問題点を論考するにあたって参考になるかもしれません。行空破門の件は、親鸞会の「ダミーサークル問題」や身分詐称、信心詐称問題、大幹部が堂々と不倫をして恥じない神経など造悪無碍・本願ぼこり的な面と重なる点があって興味深いと思います。
また、隆寛律師の長楽寺義などは二十願的理解のようにに思われますし、祖師の「定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する 」というご教導と関連するように思われます。

そもそも親鸞会が理解する善恵房証空の教えと「西山派の教義」とは乖離があるようです。定散諸善の行を必ずしも否定せず、観経を重用するというのが西山派であり、私見では親鸞会において、信前の人において「信仰が進む」とか、「求道が進む」として財施や法施することを強く勧め、「すべての人が必ず通らなくてはならない」という《方便》の理解から観経顕説を重視しているように見受けられるなど、西山派の教えは現在の親鸞会で指導されていることに似た点があるようにも思われますがいかがでしょうか。
(私は「宿善」については常に信後→信前へのベクトルでのみ考えるべきであるという考えをもっています)

また、親鸞会の会員さんなどは信じがたいと思われるでしょうけど、善恵房証空と親鸞聖人は実は非常に仲が良かった、とか、親鸞聖人が聖覚法印の著作とされる「唯信抄」を入手されたルートは善恵房証空からである、とかいう説もあります。

浄土他流と真宗の教義理解の差はいろいろあり、阿弥陀仏観などもそうですが、祖師における「無戒名字の比丘」という自覚が浄土宗においては必ずしも濃厚ではないと考えられます。

長文失礼しました。

おうさんへ

ご指摘ありがとうございました。
確かに、私自身が浄土宗の教義に全く暗いわけですので、不適切だったと思います。

以下に訂正します。
狭義の十九願の行者=まことの善を行い、臨終来迎を求めている者。

なお、十九願の願意を明らかにされたといわれる観無量寿経において、イダイケは釈尊に、来世で救われる方法を尋ねており、今生で救われる教えは請うていません。しかしながら、結果として今生において18願まで導かれています。つまり、最初に18願を説かずに、狭義の19願の行者となることを勧める説き方もあるということでしょう。

何を言いたいかと言うと、『多くの親鸞会会員(講師を含め)が思っていると思われる「19願は18願に導くための方便で、臨終来迎を求めるのは間違い。善をするのは18願の世界に近づくため」と言うような19願の捕らえ方は間違い。多くの親鸞会会員は狭義でも広義でも19願の行者とはいえない』、と言うことです。

そういう意味で、高森先生が講師に向かって「君たちは19願の入り口にも入っていない」とおっしゃられたのはある意味、的を射たお言葉なのかもしれません。

山も山さんへ

「私の解釈では貴殿の引用された御文章の箇所は18願の救いを求めて自力が妨げになっている人にではなく、むしろ未だ浄土門に入っていない人に対しておっしゃられたお言葉」と思う理由を述べたいと思います。もしかすると、この点で意見の相違があるかもしれませんので…。再度、前後の分も含めて再掲載します。(引用先のデータベースが旧仮名遣いになっているため、そのまま掲載します)。

「夫当時世上の体たらくいつのころにか落居すへきともおほえはんへらさる風情なり。しかるあひた諸国往来の通路にいたるまてもたやすからさる時分なれは、仏法世法につけても千万迷惑のおりふしなり。これによりてあるひは霊仏霊社参詣の諸人もなし。 これにつけても人間は老少不定ときくときは、いそきいかなる功徳善根をも修しいかなる菩提涅槃をもねかふへきことなり。 しかるにいまの世も末法濁乱とはいひなからこゝに阿弥陀如来の他力本願はいまの時節はいよ~不可思議にさかりなり。」

・「霊仏霊社参詣」と諸仏や権仮の神への参詣について述べてられていること。
・「いかなる菩提涅槃」には自力の覚り・諸仏の浄土往生が含まれると考えられること。
・「いかなる菩提涅槃」の因となる「功徳善根」には諸仏や権仮の神へつかえる五雑行が含まれると考えられること。
・貴殿の引用されたの箇所は阿弥陀如来の本願の言及の前に述べられていること。

以上です。

なお、追加質問の2番目の19願の行者の定義を修正しています(追加質問の2番目に修正を反映済み)。

元自称福徳会員さんへ、質問1の回答

遅くなりました。
一つ回答文をかいてみました。

御文章4帖目3通(当時世上)の解釈について(元自称福徳会員さんのコメントより) - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080609/1213009392

もう一つは、また後日お書きします。

元自称福徳会員さんへ

拙意見に対してきく耳をもっていただき有難うございます。

>確かに、私自身が浄土宗の教義に全く暗いわけですので、不適切だったと思います。

いえいえ、私も決して浄土宗の教義に明るいというわけではないので。あくまでも一意見としてご参考にしていただければ幸いです。

十九願の行者を広義、狭義に分類され、各々についてのご見解をおっしゃっておられますが概ね同意いたしております。
「無宿善の機」の定義についてはただいま検討中です。
少なくとも聞法を始めているかたは「無宿善の機」といえないと思いますし、私が主張していたところの、「宿善」は必ず信後→信前へのベクトルという前提のもとで議論されるべき、という見解は多少修正を迫られるべきなのかもしれません。

ただ、私見ですが宿善は「弥陀による照育」と考えていますので、布教者の立場ならまだしも、信前において自分に宿善があるかどうかについて思案したり宿善を積もうというように教えることは不毛であるように考えています。

>そういう意味で、高森先生が講師に向かって「君たちは19願の入り口にも入っていない」とおっしゃられたのはある意味、的を射たお言葉なのかもしれません。

ついホンネが出たのかもしれませんね。

おうさんへ

RE:少なくとも聞法を始めているかたは「無宿善の機」といえないと思います

同意します。聞法している方には更に善を勧めるのではなく、自分の心にある自力を見つめ、どうしたら廃るのかを悩み・苦しむことが必要だと思います。財施・顕正の目標が達成できないと悩み・苦しむ必要はありません。

>そういう意味で、…というのは皮肉を込めて言いました。と言うのも高森先生の意図は「君たち、まだまだ善がたらないぞ」と言うことだと思うからです。なので「そういう意味で、」をつけました。

これからも、よろしくお願いします。

山も山さんへ

たびたびのご丁寧なご回答、ありがとうございました。
しつこいようで恐縮なのですが、ここは大事な点と思いますので、追加の質問をお許しください。

貴殿の「ご文章の当該箇所がご自身のこと」と味わわれることは大変、尊いことと思います。しかしながら、蓮如上人がどのような御心で書かれたかを客観的に見ていくことも大切かと思います。

まず、「ご文章すべてがご門徒の皆さんに書かれたもの、親鸞聖人の教えを聞いている人に向けて書かれたもの、弥陀の救いを求めている人に書かれたもの」と言うことには同意します。それに加えて、これから聞こうとしている方も含まれると思います。

さた、書かれた相手は以上のとおりですが、ご文章の中にはそうでない人のことも書かれています。以下に1例をあげます。他にあるかどうかは調べていませんので不明です。

聖道諸宗の学者達もあなかちに念仏者をは謗すへからすとみえたり(1-4)

また、以下の部分は、あまり、ご縁が深くなく、今まで聖道門にいた人、弥陀の救いを聞き始めた方を対象に書かれているように受け取られます。

夫諸宗のこゝろまち~にしていつれも釈迦一代の説教なれはまことにこれ殊勝の法なり。もとも如説にこれを修行せんひとは成仏得道すへきことさらにうたかひなし。 しかるに末代このころの衆生は機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。こゝに弥陀如来の他力本願といふは…。(3-2)

以上のことから、「ご文章すべてがご門徒の皆さんに書かれたもの、…」だからと言って、論点となっているご文章の箇所(「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。」)が、必ずしも、貴殿のように仏縁深い方に対し書かれたものではない可能性は否定できないと思います。

また、『事実、「当時世上」の御文章は、上述の部分の最後からは、早く一念の信心を決定せよと書かれています。』とおっしゃられていますが、そのこととも矛盾しません。と言うのは前にも書きましたが、当該箇所の後に「しかるにいまの世も末法濁乱とはいひなからこゝに阿弥陀如来の他力本願はいまの時節はいよ~不可思議にさかりなり。」と弥陀の救いを勧めているわけですので、ちゃんとつながります。

さて、「いかなる菩提・涅槃を願う」についてですが、親鸞聖人・蓮如上人が「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」と解釈したところがあるでしょうか?私は『「菩提・涅槃」というのは覚り(正定衆を含む)や浄土のことのみを言う』と認識しています。

また、蓮如上人は「願う事なり」とか「願うものなり」とは書かれずに、「願うべき事なり」、つまり、願いなさい、とおっしゃっています。貴殿の解釈の「いかなる善根功徳をも修し」と「いかなる菩提・涅槃を願う」をつなげると蓮如上人はここで『「弥陀の救いにつながると自分で思うものを、ひたすら求め」「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」を願いなさい、起こしなさい。』とおっしゃったことになるのではないのでしょうか?まるで化城の安心を勧めているようなことにならないのでしょうか?

とりとめもなく、長くなり、すみませんが、以上の2点につきまして、時間のあるときでよろしいのでお答えいただけましたら幸いです。

なお、王舎城の悲劇で、釈尊が韋提希夫人に定善・散善を勧められていることについて、18願の今現在の救いを頭だけでも知らず、来世での極楽往生を願った韋提希に定善・散善を勧められたことについては全く、疑問がありません。

ところで、『「19願で、その行いで助かる」と高森先生が説かれた』とそこまで聞き間違えている方は少なくとも頭の上の理解では、あっても少ないと思います。「善をすれば早く救われる、その根拠が19願」と言う風に思っている方がほとんどだと思います。

ご丁寧なご対応、重ね重ね、御礼申し上げます。こんなことを言っては不謹慎かもしれませんが、貴殿のような方が親鸞会のネット対策員でしたら、ここまで親鸞会がネット上で叩かれることもなかったと思います。「貴殿を打ち負かしてやろう」と言う気持ちはさらさらありません。貴殿とのやり取りで本当の親鸞聖人のみ教えを理解したいのです。残念ながら、親鸞会在籍中はこのような深いやり取りをするご縁はありませんでした。

元自称福徳会員さんへ

重ねてコメントを頂き有り難うございました。

お尋ねの点について、必ずしも御門徒のこと対象に書かれていないところもあるのではないかというご指摘ですが、記述として、「聖道の学者」に向けて書かれたものも確かにあります。

そういう点では、ご指摘の通りと思います。
(続きの全文は、こちらです)
2008-06-09 - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080609

山も山さんへ

お忙しいところ、ありがとうございました。
正直、納得できないところもありますが、法論をしているわけではありませんので、とりあえず、保留と言うことでいかがでしょうか?
まずは、全体のご回答を頂き、必要に応じて、再度質問させていただくと言うことで…。

よろしくお願いします。

追伸:貴殿は法友とこのような信心の沙汰を行われているのでしょうか?

元自称福徳会員さんへ

了解しました。またあらためて、すでに出ている質問について書いていきます。

追伸の件については、またこちらに書いてみましたのでご覧下さい。
信心の沙汰について思ったこと(元自称福徳会員さんのコメントより) - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080611/1213176911

元自称福徳会員さんへ

2つめの質問(確認)について
書いてみました。

19願の行者について(元自称福徳会員さんのコメントより) - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080612/1213275382

よろしくお願いいたします。

山も山さんへ

お忙しいところ、ありがとうございました。
ご回答いただいた内容につきまして、熟慮した上で意見を述べさせていただきたいと思います。
それから、信心の沙汰の実行についてもご回答いただいていたのですね。見落としていました。
これからもよろしくお願いします。

山も山さんへ-2008-06-12のご回答について

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19願は、何の為に建てられた願なのか。ということから言えば、19願の願意は、18願の世界に出させる為以外にありません。

目的が大事という話は、高森先生のご法話を聞かれた方ならいつも聞かれていると思います。タクシーに乗る時にもまず目的地が最初にくるなどなど。

阿弥陀仏が48願を建てられた御心は、あくまで18願であり、18願の世界に出させてみせる、救ってみせるというお約束です。

ですから、19願単独で、「これは諸善をしたら助けるという願だから」という見方はしておりません。
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以上、コメントについて私の意見です。

19願の願意は18願の世界に出させる為の方便であると言うのはお互い、共通の認識だと思います。ですので、方便と言うことを考えて見ましょう。
たとえば、重病で大手術をしなければいけない人がいたとしましょう。しかも死ぬか生きるかの大手術です。しかしながら、このことを言っては患者は気落ちして体力が低下し、ますます手術の成功率が落ちてしまいます。けれども再発防止のための生活を送ってもらうため、最終的には病名を伝える必要があります。そこで、患者に、「たいした病気でないし、簡単な手術で終わる。手術さえ終われば、普通の健康体に戻れる」とまずは説明し、手術終了後に、実はあれは方便で、実際は重い病気で今後も再発防止のための生活上の注意事項があると説明するのは受け入れられるでしょう。
それを手術前に患者に「たいした病気でないし、簡単な手術で終わる。手術さえ終われば、普通の健康体に戻れる。でもこれは本当のことを言ってあなたの体力を落とさないための方便ですよ」と伝えたならばどうなるでしょうか?方便を方便と教えるのは方便が不要になったとき・邪魔になったときと考えます。

ですので、19願の諸善を勧めるのであれば19願で説かれている往生をするためと教えるべきでしょう。また、釈尊は聖道門の諸経を説かれるとき、「これは方便で、浄土門に誘引するための方便ですよ?」と説かれたでしょうか?19願の願意を明らかにされたと言われる観無量寿経において来世での極楽往生を願っているイダイケに向かって、「これから説くことは今救われる18願に入れるための方便だよ」と言われているでしょうか?そのような導き方で本気で取り組もうとする人が現れるでしょうか?
親鸞聖人は三願転入のご文に「久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の心を離れて」とあるように聖人が救われた後に振り返って見られると、19願におられたときには19願の諸善を行い、19願で説かれている往生を願っていたとおしゃられています。
つまり、19願を引き合いに出し、善を勧める・求めるのであればあくまで目的は19願で説かれている往生を勧める・求める必要があると思います。しかし、これでは真宗になりません。
また、親鸞会のように(高森先生がそのようにご指導されているかどうかは別として、多くの支部長や会員さんがそのように理解されておられると私が感じているように)「19願は方便であると知った上で、18願の救いを求めて財施や破邪顕正を行う・勧める」のは真宗の教えでもなければ19願の教えでもないと思います。19願の入り口にも入っていないのは至極当然かもしれません。(機会があれば親鸞会を組織論の立場から述べてみたいと思います)

私自身は18願の救いを求める気持ちが出てきたと自覚していますので、19願を引き合いに出し、善を勧められる・求める必要はなくなったと思います。過去世において19願の諸善を行い、19願で説かれている往生を願っていたのでしょう(うぬぼれと批判を受けるかも知れませんが…)。それよりも聴聞ができないときは信心の沙汰がより重要です。信心の沙汰は「私の白道」・11(最終回)の冒頭部分に書かれている内容になると思います。

だからと言って、私は善をしないとか・する必要がなくなったと言っているのではありません。行った善が間に合わないと言葉の上からでも知らさているにもかかわらず、行った善を当て力にする心が離れきれないのが広義の19願の行者と言えるでしょう。

またもやとりとめもないコメントになってしまいすみません。

追伸↑

他の方がコメントされていましたので私も試してみました。コメントを開くと画像内が「AGE EXPIRE」(おそらく全文はIMAGE EXPIRED)となります。それを無視して「投稿」ボタンを押すと新たに画像内に文字列が表示されることがわかりました。その文字列を入力すれば問題なく、投稿できました。
よって以降は直接山も山さんのプログに書き込もうと思います。

元自称福徳会員さんへ

当方のブログにコメント頂き有り難うございました。

また、エントリーを書きましたので、よろしくおねがいします。

方便とはどういうものかについて(元自称福徳会員さんのコメントより) - 安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615/1213533162

山も山さんへ-2008-06-15のご回答について

ご回答ありがとうございました。

貴殿のプログに直接、コメントさせていただきましたのでよろしくお願いします。

当てにならんのよね

清森氏やブログに投稿するその他の人って、凡人ということで全幅の信頼が寄せれないところがあります。
残念ですが、それが事実です。
大沼氏は、どえらい方であったことは、凡人の私でも分かります。

弥陀の本願、真実は、頭では分かりました。

私は、一人でも求める覚悟はあるのですが、問題は、家族です。

どのように導いてあげればいいのか・・・

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