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親鸞会教義の相対化・38

清森義行様


山崎豊著『親鸞聖人の旅』(上巻)(下巻)(とどろき出版社)を読み終えましたので、感想を送らせて頂きます。

今回も分量が多いので数回に分けさせて頂きます。

最初にこの本はとても良い本だと思います。親鸞聖人の生涯に沿った形で親鸞聖人の遺跡が紹介されており、非常に興味深く読み進めることができますし、実際に現地調査を行って、はじめてわかるような貴重な資料も紹介されており、とても面白かったです。
また、現地に伝わる一見突拍子もない伝説に関しても、単なる迷心として切り捨てるのではなく、当時の文化背景や親鸞聖人の思想を背景に、積極的に意味づけを行い、親鸞聖人の持つ魅力を、より一層引き出しているところにも非常に好感が持てました。
山崎氏の文章も丁寧で読みやすく、写真も豊富で、教義面に関してもかなり踏み込んで解説されており、とても良い本だと思います。

ただし、以下の二点があるために、本書を読む際には注意が必要だと思います。

一、せっかくこれだけの地道なフィールドワークを行い、沢山の資料を集めて作成したにも関わらず、資料よりも親鸞会独自の教義を優先して、資料を教義にあわせて読み替えている部分があること。

二、本書においても、「現在の仏教教団は腐敗している!」という親鸞会のプロパガンダを主張するため、取材に訪れた寺院に対する批判をいちいち掲載しており、そのために記事の格調高さや、学術的な客観性がかえって損なわれて感じられること。

この二点にだけ気をつけて読めば、本書は親鸞聖人に関する入門書・親鸞聖人の遺跡のガイドブックとして、最良のものの一つになると思います。

それでは以下に、親鸞会独自の教義が流入されている部分を指摘したいと思います。


【上巻p.66~】「後生の一大事」=「必墮無間」
親鸞聖人が、六角堂に百日間もこもられた目的は、「後世を祈る」ためであったと記されている。「後世を祈る」とは、「後生の一大事の解決の道を求めて」ということである。
「後生の一大事」とは、死後、無間地獄へ墮ちて、八万劫という長期間、苦しみ続けなければならぬ大事件をいう。釈尊は経典に「必墮無間」、すべての人間は、一息切れたら必ず無間地獄に墮つる、と説かれている。

★改めて「後生の一大事」=「必墮無間」というのは、高森先生に限らず、高森先生の影響を受けている方に共通する文化なんだと思いました。これが親鸞会という特殊な組織でしか通容しない「文化」であることは、既に私や清森さんによって証明済みです。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-91.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-92.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-93.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

一点追記しておくと、最新の高森先生の本では「後生の一大亊」の定義が異なっていますね。

>*生死の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.53、P.163、P.225

>*後生の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>同書、P.221

この定義であれば、問題はないと思います。誰かに誤りを指摘されることによって、正式に高森先生が自らの誤りを訂正されたのであれば、自浄作用が働いているということで、とても良いことであると思います。
そうではなく、「後生の一大亊」という重要な術語の意味が、一般向けの出版物と会員向けの出版物で異なるというのであれば、非常に悪質な二枚舌であり、卑劣なダブルスタンダードであると思います。


【上巻p.73~】法然上人の獲信
「釈尊が、この世におでましになったのは、阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。この法然も、弥陀の本願によって、救われたのです。
十三歳で出家してより二十七年間、比叡での難行・苦行も京都・奈良で学んだ華厳・法相の学問も、この法然の後生の一大事の解決にはなりませんでした。
泣く泣く山を下りました。黒谷で、七千余巻の、釈尊の説かれた経典を、ひもとくこと五回。法然のような者でも、助かる道がなかろうかと探し求めました。
そしてついに、私一人を助けんがための阿弥陀仏のご念力が屆いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い取られたのです。
その不思議、その驚き尊さは、心も言葉もたえはてて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く阿弥陀仏の本願を聞き開いて下さい。いかなる智者も愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるのです。よくよく聞いてください。」

★本書では、これが法然上人の説法で、これを聴聞された親鸞聖人が「このお方こそ、真実の菩薩、善知識だ」と「確信されたに違いない」そうです。

しかし、法然上人の伝記には以下のようにあります。

>>>
上人聖道諸宗の教門にあきらかなりしかば、法相三論の碩徳、面々にその義解を感じ、天台華厳の明匠、一々にかの宏才をほむ。しかれどもなほ出離の道にわづらひて、身心やすからず、順次解脱の要路をしらんために、一切経を、ひらき見たまふこと五返なり。一代の教迹につきて、つらつら思惟したまふに、かれもかたく、これもかたし。しかるに惠心の往生要集、もはら善導和尚の釈義をもて指南とせり。これにつきてひらき見給に、かの釈には、乱想の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に、生ずべきむねを判じて、凡夫の出離を、たやすくすゝめられたり。蔵経披覧のたびに、これをうかゞふといへども、とりわき見給こと三返、つゐに一心専念彌陀名号行住坐臥不問時節久近念々不捨者是名正定之業順彼佛願故の文にいたりて、末世の凡夫、彌陀の名号を称せば、かの仏の願に乗じて、たしかに往生を、うべかりけりといふ、ことはりを、おもひさだめ給ぬ。これによりて、承安五年の春、生年四十三、たちどころに餘行をすてゝ、一向に念佛に帰し給ひにけり。
『四十八巻伝』巻6
>>>

「私一人を助けんがための阿弥陀仏のご念力が屆いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い取られたのです。」という、いかにも親鸞会で語られそうな体験ではなく、善導大師の『観経疏』の「一心専念」の文によって、法然上人は「たちどころに餘行をすてゝ、一向に念佛に帰し給ひにけり」です。

なお、脊髄反射のようなコメントが予想されますので、あらかじめお断りしておきますが、この記述は『四十八巻伝』という鎮西派の系統の伝記のみならず、源智上人系の『醍醐本』、更には覚如上人が著した『古徳伝』にも一致しており、特定の文化に限定されておらず客観性があると言えます。

本書に書かれた法然上人のエピソードだけが、親鸞会文化にのみ限定されたものです。



つづく
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COMMENTS

「後生の一大亊」の定義

>一点追記しておくと、最新の高森先生の本では「後生の一大亊」の定義が異なっていますね。

>>*生死の一大事
>>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.53、P.163、P.225

>>*後生の一大事
>>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>>同書、P.221

かつて暗誦するまで熟読したことがありますので、今でもよく覚えていますが、『こんなことが知りたい1』に出ていた後生の一大事の定義である「一切衆生 必堕無間」とは明白に違っているように思われます。

私の記憶している限り、これまでは後生(生死)の一大事の定義として、「永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事」というように高森会長が話されたこともなければ、親鸞会または関連会社が発行する書籍において述べられたことも無かったはずです。

剽窃疑惑が話題になっている『白道燃ゆ』『会報』に引き続き、『こんなことが知りたい1』も絶版・廃刊になるのでしょうか。

一応

>親鸞会または関連会社が発行する書籍において述べられたことも無かったはずです

数年前の追悼法要、及び講師試験には、
信前の後生の一大事とは何か、
信後の後生の一大事とは何か、問題に出たと思います。

また、正定聚平成9年7月号26ページに、顕真昭和56年1月・2月・3月号からとして、後生の一大事とは?との項目があります。
信前の後生の一大事と、信後の後生の一大事についてのっていますので、
誰かから借りて読まれるといいかと思います。
清森さんは、お持ちだと思います。

まあ、それだけです。

こさんへ

こさん、詳しく情報提供ありがとうございます。

高森会長における「後生の一大事」の定義についての認識が変化したのは昭和56年頃からであった、というように理解しました。

後生の一大事に2義あることについてはもともと華光会でもいわれていたことはよく知られています。
要するに高森会長は「後生の一大事=一切衆生 必堕無間」という独自の定義で突っ走ることに対して限界を感じられ、定義づけにおいて「先祖がえり」をした、というように認識しています。

少なくとも昭和56年以前、親鸞会においては「こんなことが知りたい1」にありましたように、後生の一大事において2義あることは認められなかった、と私は認識していますが、異論があるかたはどなたかいらっしゃいますか?

もうひとつ

「永久に苦患に沈む」

この説は仏教教理的には疑問を感じますが、いかがでしょうか?

仏教において輪廻思想を前提とする立場と、必ずしも前提としない立場がありますが、親鸞会においては「後生の一大事」を説きますので輪廻思想を前提とする立場のように認識しております。
さて、佛覚を覚って解脱した場合(真宗で言えば大般涅槃を超証した場合)、「永遠の楽果を得る」という表現は必ずしも問題ないように思われます。
ただし、輪廻思想を前提とする立場の場合、成住壊空の思想を認めるのが通常であり、その場合、「永久に苦患に沈む」という表現は不適切ではないかと思われますがいかがでしょうか。

また、輪廻を認める立場の仏教では人間界や天上界を認めているわけですが、「永久に苦患に沈む」という表現からは、今後は人間界や天上界に生まれることすらもありえなくなる、というように受け取られてもやむをえないように思われますがいかがでしょうか。

問題は「苦患」の定義づけにあるように思われます。

「苦患」とは一切衆生 必堕無間」を意味するのか、あるいは「人生は苦なり」におけるような「苦」とか四苦八苦における苦などのような「苦」を指すかによって「永久に苦患に沈む」の受け取られ方は非常に異なると考えられますが、高森師によるところの「苦患」は現在の親鸞会においてはどのように定義されているのでしょうか?
どなたかご存知のかた、教えてください。

ちなみにネットの国語辞書「大辞林」では
仏語。地獄におちて受ける苦しみ。転じて、一般に苦しみや悩み。苦悩。
と曖昧な意味になっていました。

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