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親鸞会教義の相対化・39

清森義行様


続きです。

【上巻p.91~】往生について

「往生」には二通りの読み方がある。

(1)「生かされて往く」

 阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものもさわりとならぬ幸福に救われる体験を「往生」というのだ。「困る」という意味は微盡もない。

(2)「往って生まれる」

 この世で絶対の幸福に救われた人は、一息切れたら、必ず、浄土に往って仏に生まれられること。「極楽往生」である。

 しかし、いまだ阿弥陀仏の本願に救い摂られていない人の後生には、一大事があるから、死ぬことを「往生」というのは、大変な間違いである。

 まして、動物や機械にまで使うとは、笑止千万。仏語は語源にまでさかのぼって、正しく使わなければならいない。


★「仏語は語源にまでさかのぼって、正しく使わなければならいない」というのはその通りですが、そこまで言うならば、「往生」という言葉が本来どのような意味で使われていたのか、サンスクリット原典まで「さかのぼって」意味内容を確定すべきだと思います。

 残念ながら本書ではそれが行われていないので、代わりに私が「往生」という言葉を「語源にまでさかのぼって」みたいと思います。

 既に述べましたが、サンスクリット文の本願文は以下のようになっております。

>>>
 世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。

 ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。
>>>

 本来、「その仏国土(極楽)」に「生まれる」(upa-√pad)ことを、「往生」と言います。浄土教における術語を「語源にまでさかのぼって」考察するためには、かなり昔に出た本ですが、

1)藤田宏達『原始浄土思想の研究』(岩波書店)

が今でも最適な名著だと思います。極楽・阿弥陀仏・本願・念仏・往生・信・来迎等が、どんな経典にどのような用例で使われているかを、詳細に分析されていて、しかも、先行研究を海外の学者も含めて殆ど網羅しているので、とても勉強になります。

「往生」のサンスクリット及びその原義に関しては、
1)第6章実践に関する諸問題第1節往生思想とその源流pp.519-536
に述べられています。

藤田先生によると、極楽浄土への「往生」を表す言語は、

(1)ud-√pad・・起こる、生まれる
(2)upa-√pad・・達する、生まれる
(3)praty-A-√jan・・再生する、生まれる

の三つで、若干ニュアンスが違うんですが、どれも「生まれる」という意味です。

 また、極楽に「往生する」ときの「生まれる」というのは、人間や動物などが生まれる生まれ方とは全く異なったもので、「化生」(aupapAduka,upapAduka)と言うもので、これは、上の(2)に由来する言葉ですが、「四生」のうちの「胎生」(人・獣)「卵生」(鳥・魚)「湿生」(虫)の生まれ方とはまったく異なって、本来他に依存することなく忽然として生まれることで、初期経典では、天界の神々や地獄に属するものたちの生まれ方です。

 そして『無量寿経』にある所謂「疑心胎生」っていうのは、蓮華の「内奥(=胎)の住所」(garbhAvAsa)に生まれることを訳したもので、浄土に生まれたけれど、その身が蓮華の内部に閉じ込められている状態を表したもので、「四生」のうちの「胎生」とは、本来意味が違うそうです。

 これらから見ますと、江戸後期の浄土宗の僧侶の徳本上人が、

>>>
必ず必ず死ぬのじゃないぞよ。仏法は死ぬる法は教えはせぬ。
死なぬ法を教えるのじゃ。

「往生」という字は死ぬるという字には書きはせぬ。
「往(い)き生(う)まる」と書くぞよ。

この通りに心得て、精出して御念仏申さっしゃるがよい。
さっぱりと死ぬのじゃないぞよ。
極楽へ生まれるのじゃ。
(『勧誡聞書』)
>>>

と仰っている言葉の方が、「語源にまでさかのぼって」考えるのであれば、「往生」の解釈として適切だと思います。

 蛇足ですが、最新の高森先生の本では、

>*往生
>浄土へ往くこと。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.87

となっているようです。親鸞会の皆様は、「語源にまでさかのぼって」この解釈で統一すべきですね。

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COMMENTS

生かされて往く・往って生まれる

● 往生とは、往き生るると読むのですか、生かされ往くと読むのですか。

○ 解説
小坂の善慧房が「六字の名号には、勝易の二徳がある。これを称えさせて
いただけば、修行も戒行も勤めずとも、死んだら極楽往生をさせていただく
とは、なんと尊いことであろう」とおっしゃったとき、善信房聖人が「善慧房殿、死んで極楽に往生さしていただくのが、そんなに嬉しゅうございますか。私は生きている間に往生が決まったとは、なお嬉しゅうございます」
「善信房、何をおっしゃる、聖道門は此土入聖(このどでたすかる)といい、浄土門は彼土得証(かのどでたすかる)というのが据りではありませんか」「そのとおり、証(さとり)を開くのは死後でありますけれども、その約束の決定(きまる)することはこの土であります」「何をおっしゃる。往生とは、往き生るると書いてあるではありませんか、死ななくて往生ができますか」「あなたがそうお読みになりますから、死後になりますけれども、漢文だからどちらから読んでもよいでしょう。生かされ往くと読めば、現在生かされて(摂取不捨)お浄土に往くと読めば、現生不退(このよでたすかる)になるではありませんか。いま心の往生の決定しない者が、死後往生のできる筈がありません。それは仏力不思議で往生さしていただくのです。死んで仏力不思議で往生ができるくらいなら、生きている間に仏力不思議で信仰が徹底して、仏凡一体になって安心して往生さしていただけばよいではありませんか。身体が往生する身命終ではありますまい、迷いの絆が切れたときが往生が決定したのですから、心命終ではありませんか」「そんな馬鹿なことがあるものか」と第三回目の信仰上の騒動が持ち上がった。(第一回目は信行両座の論争、第二回目は信心一異の諍論)今度こそ善信房が負ければよいがと、三百八十余人は全部が善慧房の応援で、法然上人に判決を迫りました。「善慧房の言い分は」「はい、念仏には勝易の二徳がありますから、お師匠さまが一日に六万遍もお称えになって上品(じょうぼん)の往生をなさるなら、私は五万遍も称えて体失の後に、中品(ちゅうぼん)ぐらいの往生をさしていただきたいと思います」「結構です。善信房のご意見は」「私は法の鏡に照らされ抜いてみれば、称える力さえもない絶対の悪性を、無条件で摂取してくださった一刹那に往生が決まったので、その嬉しさから称えさしていただくのですから、念仏の多少によって往生が決まるのではありません。往生が決まった後は報謝の称名ですから、生命延びれば自然と多念
に及ぶのですから、信仰が徹底したとき、自力がつきて他力に行き上がったのですから身命終でなくて、心命終だと思います」「その通りです」と両方を認可されたので、大衆の中から、本当の本当はどちらですか、の声が出たので、法然上人は「善慧房の言い分は、一声でも多く称えようとする自力策励(じりきのはげみ)の気があるから、体失(身命終)しなければ確定(きまる)ができないが、善信房のは光明無量に照らされ抜いたとき、自力の機執が浄尽(つき)しているから、そのとき往生が決まったのだから不体失
(心命終)往生です」真に美事(みごと)な判決です。
 浄土真宗の親鸞聖人の流れを汲んでいると思っている道俗(ひとびと)のすべてが、小坂の善慧房の味方をしている浄土仮宗とは、情けないではありませんか。死んでお助けと思っているのは体失往生しか知らない、心命終の平成業成のあることを知らないのですよ。死なんで助かるものかと思っておられるのは、未熟な幼稚な信仰ですよ。成就文に「聞即信の一念に既得往生する」と書いてあるではありませんか。「この一念をもては娑婆のおはり臨終と思へ」と教えてあるではありませんか。「たのむ一念の時往生一定おん助け治定と存じ」と言ってあるではありませんか。『愚禿鈔』に「真実浄信心は内因なり、摂取不捨は外縁なり、本願を信受するは前念命終なり、すなはち正定聚のかずに入る。既得往生は後念即生なり、即時に必定に入る、また必定の菩薩と名づくるなり。他力金剛心なりと知るべし、すなわち弥勒菩薩におなじ」と書いてあっても、実地に求道がなく、体験がないのだから、
心命終していないのだから、文字だけ読んで、その境地に到達していないのだから、紙背に溢れている不思議の妙味が受得できていないのではありませんか。よい加減な程度に腰を掛けているのだから、仕方がありません。
 死んで五十二段の証果(さとり)は嘘ではないが、本当ではありませんよ。死なねば五十二段を超証(とべ)できないけれども、それは結果ですよ、原因は何か御承知ですか、信楽開発、仏智満入、仏凡一体が原因ですよ。『御文章』に「正定と滅度とは一益と心得べきか、又二益と心得べきか、正定聚は穢土の益なり、滅度は浄土にて得べき益なり、されば二益と心得べきなり」とありますが、原因の徹底していない者が、無上覚位の得らるる筈がありません。この世はどうもなれないが、死んだらお助け、死んだら弥陀同体の証(さと)り、あなたは言葉を覚えただけで、心の秘密の部屋の中では逆謗の屍が、高鼾をかいて昼寝をしていますよ。ただ感情だけが、この世はどうもなれないが、死にさえすれば往生は一定と話に調子を合わしているが、みな三悪道に舞い戻っているのですよ、そんな簡単な浮薄(うすっぺら)の信仰を浄土真宗と思っておれば、聖人さまはお泣きなさいますよ。

『方便より真実へ 浄土真宗』(P617~621) 大沼法龍(著) 


これも例によって例の如く、大沼法龍氏の著作からクスネてきただけです。

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