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質疑応答115

【質問】


私は親鸞会にいたときは、親鸞聖人の教えのみが真実で、
他のものは全て邪教だと思っていました。
しかし、親鸞会を脱会して、他宗教、他宗派の方と交流するうちに、
そうした考えがかなり変わってきました。
もちろん、おかしな新宗教やカルトは論外ですが、
長い歴史の中で多くの人に信仰されて来た宗教は、
それぞれに深い教えや救いの道があり、
表面だけを見て邪教と決め付けることは出来ないと、思うようになりました。

清森先生は、今でも親鸞聖人の教え以外は「邪教」であるとお考えなのでしょうか。
お考えをお聞かせ頂ければと思います。、
宜しく御願いします。



【回答】


 私は、正しい宗教とは、真理を教えたものだと思います。

 ですから、真理を指して「神」と呼んでいるのであれば、その神を信じる宗教を邪教だとは思いません。

 しかし、その「神」を信じない者を見下したり、人間の手で罰したりするのを正当化するような教えであれば、やはり邪教だと思います。

 この「神」を「仏」に置き換えても同じです。

 つまり、「キリスト教」を信じているのか、「仏教」を信じているのか、ということではなく、その人がどんな信念に基づいて行動しているかで判断すべきだと思います。

 何か苦しいことがあった時に、他人を恨み、呪って、自らを反省できないような人は、仏教徒を自称していても邪教徒だと思います。

 逆に、この世の道理をよく知り、自利利他の道を歩んでいるのであれば、どんな宗教に属していたとしても、邪教徒ではないと思います。

 真理というものは、三世十方を貫くのですから、どこかの宗教が独占しているものではありません。

「○○○のみが真実で、他のものは全て邪教だ」という考え方は、真理の本質が判っていない、邪教の発想だと思います。

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COMMENTS

No title

清森さん、とうとう、行くところまで逝ってしまったようです。

>>「○○○のみが真実で、他のものは全て邪教だ」という考え方は、真理の本質が判っていない、邪教の発想だと思います。

では、釈尊が、

「一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く」(涅槃経)

と仏教以外の全ての宗教を批判されているのも、
キヨモリさんに言わせれば、

「真理の本質が判っていない、邪教の発想」

なのでしょうか。

また、親鸞聖人が、

「九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます」(正像末和讃)
「ただ仏教のみが真実で、他のものは全て邪教だ」

と断定し、仏教以外の宗教を、

「外教邪偽の異執」(教行信証)

と教誡されていることも、清盛さんは、

「真理の本質が判っていない、邪教の発想」

と非難するのでしょうか。

親鸞学徒は、親鸞聖人が、
「仏教のみが真実で、他のものは全て邪教」
と仰っているお言葉に順います。

清盛さんは、
「神道でも、キリスト教でも、本人がいいと思うものを、何でも信じておればいいんだ」
と、言われます。

そんな清盛さんが、釈迦や親鸞聖人のお言葉を引用して、
なにを明らかにしようとされているのか。

仏教を誹謗し、親鸞聖人を非難なさっている人が、一体、
親鸞会の教義の、何を正そうとなさっておられるのですか?

これが、仏教を何十年と学ばれた方の発言とは、驚きです。
要するに、「なんにも分かってなかってない」のです。

『教学聖典』をあれこれ批判していますが、上記の、

「一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く」(涅槃経)
「九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます」(正像末和讃)

いずれも、その『教学聖典』にある御文です。

雑多な知識を断片的に切り取ることはできても、この短い御文でさえ、
意味が全く理解できていない。
いつになったら、自覚されるのでしょう。

秋葉原の無差別通り魔事件の容疑者は、携帯サイトに殺人予告をしながら、
「誰かに止めて欲しいと思っていた」
と供述したそうですが、清盛さんにも、その異常な暴走をとめてくれる
誰かが必要なのではないでしょうか。

「神道でもいい」「キリスト教でも救われる」という清盛さんの信仰、
これは根本的な問題です。

このような信仰の人に、「浄土真宗の教義安心」を尋ねている人たちの哀れさ。
でも、「釈迦や親鸞聖人より、清盛さんのように寛大な人が好き」なんかといって、
落ち着いてしまうのかも知れませんね、残念ですが。

私はこれまでの清森門答は、さすが清森さんと思って読んでいました。
親鸞会で教えられる親鸞聖人の教えを、相対的に考えてみる必要がある。
そうしなければ、どこにも心が定まらないから、結局後悔すると思って読んでいました。
清森さんが除名になったのも、なぜか?と疑いがありました。
ところが、今回の内容を読み、除名になって当然と思わざるえません。
仏も神も同じ?天地を創造した神といった概念を一切否定されたのがお釈迦様。
これに異論のある人は余程変わった方でしょう。
神=真理を指しているもの、とありましたがそのような宗教があれば、提示して頂きたく思います。
その人の信念とか、この世の道理とか言われてはいますが、曖昧な表現ですね。
私は、清森さんが言われているような人は、あくまで邪教を信じているけれど、人格的には尊敬されるような立派な人と表現するべきだと思います。

No title

親鸞会教義の相対化・5(質疑応答46)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-47.html

>>>
最後に他宗教に対する態度も、
もう少し考え直していかなければならないと思います。

特に、キリスト教を「因果がない」という理由で批判するのは、
全く的外れだと思っています。


キリスト教と仏教では、人間の倫理を支えるものが異なっています。
仏教にでは、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」
が人間の倫理を支えていますが、
キリスト教においては、創造主である神の、
絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えていて、

いずれも、現在の努力が未来に影響することを保障するものであり、
未来をより良くするため、現在に努力することの根拠となるものであって、
これでもって、人間の倫理を支えているのですから、

キリスト教を、所謂「六師外道」の道徳否定論者のように決め付けるというのは、
全くもって的外れな批判と言うしかないと思います。


私は、退廃的で、造悪無碍な浄土門こそ、
これ以上ないほどの「外道」だと思っています。

キリスト教のように「神の律法」という倫理を支えるものもない状態で、
「念仏申したら何をしてもいいんだ!」と本願ぼこりに陥って、
造悪無碍になってしまった浄土門の人よりも、

私は、神の律法を守り、誠実に生きるきちんとしたキリスト者の方が、
人間として尊敬できるし、その信仰を否定する理由は、私には見出せません。


よく、キリスト教の「処女懐胎説」をもって、
キリスト教を批判したつもりになっている人がいたりしますが、

「お釈迦様が右脇から生まれた」とか、「誕生時に七歩歩いた」とか、
そういった伝承をそのまま伝えている仏典だって、
それを信じる我々には常識であっても、他宗教の方からしたら、
突拍子もないものであると思います。

「お釈迦様が右脇から生まれた」というのは、リグヴェーダから取材したもので、
「誕生時に七歩歩いた」というのは、当時の通過儀礼と言われていますが、

キリスト教でも最近は、こういった聖書の表現は、
深層意識に根ざした象徴的次元を持つ言語表現であるということで、
この「処女」という意味を生物学的・生理学的にとらずに、
「イエスは、確かに我々と同じ人間だけど、同時に神性を持っている。
 という意味で、普通の人間とは違う」
という信仰上の思いを、この「処女」という言葉で表現しているという、
「非神話化」的解釈を提唱するブルトマンのような学者もおられます。

「右」が古来インドで清浄と考えられたことと、

かれらが原人を切り刻んだときに、幾つかの部分に分割したのであるか?
彼の口は何になったのか?彼の両腕、両腿、両足は何と名づけられたのか?
彼の口はバラモンであってた。彼の両腕は王族・クシャトリアとされた。
彼の両腿はヴァイシャとされた。彼の両足からシュードラが生まれた。
(リグヴェーダ X,90,11-12)

というリグヴェーダの記述から、
お釈迦様がクシャトリア出身であることを強調するために、
「お釈迦様が右脇から生まれた」という伝承を仏典もしているのですから、
もっと謙虚になって、キリスト教を批判すべきではないと思っています。

現在の学会で最古の仏教聖典として承認されている、
『スッタニパータ』には、

 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
 これらに依存して他の説を蔑視し、
 自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、
 驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
 みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、
 ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
 他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
 かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
 さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
 一切の哲学的断定を捨てたならば、
 人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
 ―かれらはすべて他人からの非難を招く。
 また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
 平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
 とわたしは説く。
 この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
 論争をしてはならない。(896)

とあって、きちんとした知識もないまま、
偏見でもって他宗教を貶めたりすることは、
大いに戒められていることですので、
私は他宗教であっても、無責任な批判は絶対にしてはいけないと思います。

No title

ほれみたことかと、会員さんと思わしき人が見事に喰いついているのがほほえましい限りですが、私はここで言われている清森さんと同意見です。

親鸞会でしか宗教というものを知らない人が、親鸞会の教えを真実と盲信して、田の宗教の何たるかを知らず、「外教邪偽の異執」という言葉ばかりを振り回して邪教狩りに熱心なのは、会にいたときに良く見てきました。

自分が信ずる教えが最上だと思いたいがゆえに、断片的な知識で他宗教を非難し、自らの信仰を唯一絶対だと思いこみ、他を見下す。

こうした親鸞会の会員の姿こそ、まさしく釈尊が忌み嫌われた、「外教邪偽の異執」と呼ぶにふさわしいものだと私は思います。

釈尊の言葉を以下にはっておきます。よく読んでおいてください。

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。反対者を「愚者」であると見なすとともに、自己を「真理に達した人」であるという。かれはみずから自分を「真理に達した人」であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものである。

ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

No title

一番上のコメントされた方、清森さんのいわんとしていることをよく理解できてないように思います。


単純脳で考えているから、柔軟に物事をとらえることができなくなってしまったようです。


清森さんはネーミングにこだわってるのではなくて、真実にこだわってるわけでしょ。
そこだけ言いたいだけなんだから、神という言葉に過剰反応して永延と既存の教義についての間違いを指摘するなんてことは文脈が読めてない証拠です。


国語の勉強からやり直すべきだと思います。

No title

清森さんが幅広い視野で親●会ドグマを超越した、
素晴らしい記事だと思いましたが、
動脈硬化した親●会の人には通じませんね~。

本質的なことがわかっている清森さんだからこれが言えたのにね~。

絶対に変わることのない普遍的なものと、
文化や環境に応じて変化する部分とは明確に区別せなダメですよね。

No title

>清盛さんは、
>「神道でも、キリスト教でも、本人がいいと思うものを、何でも信じておればいいんだ」
>と、言われます。


こんなこと、清森さんはどこにも書いていませんが…
この人、日本語理解できないようですね。

真理を神と呼ぶなら、その神を信じるのは邪教ではない。
当たり前のことです。

キリスト教が真理だとは、どこにも清森さんは仰っていません。

天地創造には関与していない神、真理を神と呼んでいる宗教があれば、提示して下さい。
残念ながら私は知りません。
まず、清森さんの意見が正しいかどうかの前に、上記のような前提がなければなりません。

No title

私も清森さんの意見に同感です。親鸞会の人は、言葉に捕らわれすぎ。
清森さんの主張をネジ曲げて外道を肯定しているかのように非難している会員らしき人がいるけど、清森さんは外道は肯定していないよ。
普通に読んだら理解できると思うけど。
釈尊は九十六種の他宗教の内、1つは道理に反しないと判断され、外道から除かれたので九十五種になった。釈尊も他宗教を全面否定せず、道理に反しないものを認められた。
清森さんの意見は釈尊の教えとも矛盾しないと思います。
清森さんが邪教じゃないと言われたのは真理を信じているなら、という条件つき。日本語読めない会員がいるようだけど。

No title

>天地創造には関与していない神、真理を神と呼んでいる宗教があれば、提示して下さい。
>残念ながら私は知りません。

 どうなんですかね。
 清森氏の意見には賛成だが、このような宗教があるかどうかは知らない。
 だけど、清森氏は、『真理を指して「神」と呼んでいるのであれば』と書いているので、そのような宗教があるとは断定していない。
 そういう宗教があれば、という仮定の話。

 少なくとも、そのような宗教の存在の可能性が否定できない以上は、このような意見は肯定されるべきだと思う。

 つまり、キリスト教は全て真理に反しており、真理を神と呼んでいる人は一人も存在しない、ということが証明されない限り、キリスト教を信じているからといって外道と断定することは出来ない。そういうことだと思う。

No title

この清森さんのお考えは、
親鸞聖人の教えに根拠があるのかな?

真理はどんな意味で使っているのか?
また、親鸞聖人は何を真理と言われているのだろう?

親鸞聖人は、
論語や道教についての立場は如何だったか?

あれは会員だ、会員でないとか、いちいちこだわる人いるけど、
そんなことは関係ないんだよ。

そもそも、質問をこう治すべきだろう

私は親鸞会にいたときは、親鸞会の教えのみが真実で、
他のものは全て邪教だと思っていました。
しかし、親鸞会を脱会して、他宗教、他宗派の方と交流するうちに、
そうした考えがかなり変わってきました。
もちろん、親鸞会は新宗教でカルトですが、
長い歴史の中で多くの人に信仰されて来た宗教は、
それぞれに深い教えや救いの道があり、
表面だけを見て邪教と決め付けることは出来ないと、思うようになりました。

清森先生は、今でも親鸞会の教え以外は「邪教」であるとお考えなのでしょうか。
お考えをお聞かせ頂ければと思います。、
宜しく御願いします。

清森氏の言う真理とは

清森氏の言ってるのはこういうことだよ。

【回答】
私は、正しい宗教とは、真理を教えたものだと思います。
ですから、真理を指して「龍神」と呼んでいるのであれば、
その龍神サマに救われたと言う上田サンの信心も異安心だとは思いません。

アハハハハ、笑えるね。イタイ連中だ。

No title

> 龍神サマに救われたと言う上田サン

冷やかし半分で誰かが勝手に流したデマを、事実かどうかも確認せずに、
ことあるごとに、やたらと引き合いに出す連中がいるが、
もういいかげんにしたらどうだろう。うんざりだ。
上田氏を何としてでも貶め、それと比較することによって、
親鸞会がマトモな団体であるかのように思わせようという意図が見え見えです。
そういうことをすればするほど、親鸞会が悪業に満ちた団体(まさに外道・邪教)であることを自ら証明するだけなのに、分からないのだろうか。

No title

「阿弥陀仏の光明は十方を遍く照らしている」という教えによれば、
その光明はこの地球上の全ての人に降り注がれているはずです。
ですから、その教えが、私達が聞いているのとは全く違った言語・違った表現方法で、この地球上のどこかで説かれている可能性を否定できるでしょうか?
用語の定義など表面的なことがたとえ違っても、本質的に阿弥陀仏の本願と同じ教えが説かれている可能性を否定できないはずなのに、今聞いている教え以外を(内容を調べもせずに)全部邪教だと決め付けることはできないというのが清森氏の主張でしょう。これは極めて筋の通った見解であり、阿弥陀仏の本願の本質を見抜いた清森氏ならではの達見であると私は拝します。

まあ、阿弥陀仏の光明が富山県射水市にしか降り注いでいないと思っている人には絶対に理解できない発想でしょうね。

皆さん?

いろんな意見が飛び交ってます。
疑問ですが、キリスト教の信者が、神を全知全能で天地を創造したと思っていない場合は、その信者はキリスト教信者でしょうか?

キリスト教では、神は全知全能で天地を創造したとハッキリ言っているはずです。

キリスト教の根幹に関わる神の定義を間違えてたら、それはキリスト教ではありませんよね?
日本神道でもヒンズー教でもどんな宗教でも同じだと思います。

その宗教が明確に神=真理と教えいて、因果の道理のような論理的な納得出来る教えがあれば、邪教ではないと言えるかもしれませんね。

私は清森さんの文章は、その信者が「人間的にどうか」を言われているのに、それを邪教かどうかと間違えて認識し説明されていると思います。

どの宗教を信じるかと、その人の人間性は全く別ですよね。

No title

マザーテレサのような人は、利他行を一生涯実践した人であり、仏法精神に満ちあふれています。形式上はクリスチャンでしたが、本質的には「仏法者」であったと言えるでしょう。一方、仏法者を自称しながら、私利私欲のために大衆を苦悩のドン底に陥れているどこかの親子は本質的に外道の者でしょう。

また、『原因と結果の法則』という本にはキリスト教の用語が出てきますが、説かれている内容は仏教の因果の道理にそっくりです。

このような事実も参考にしてはどうでしょう。

No title

あくまで、仏教的な観点から
キリスト教のよいものは認め、悪いものは廃すという見方ですね。
義によりて語によらざるというところですか。
仏教者からすれば、立派な見解だと思います。
清森さんもこういう観点からの発言だと思います。

しかし、あくまで、仏教的な真理から他宗教を評価していることは
注意しておいた方がいいかもしれませんね。
キリスト教徒が不愉快に感じている可能性も考慮にいれるべきと言うことです。
不愉快に感じているなら、この人は邪教だと考えるのもやはり邪教への入り口かも
しれません。ここらへんの線引きは人間には絶対正しいという判断は下せません。

私は、邪教という線引きをあくまで教義として大事にし、
その上で、お互いの共存を模索したいと思っています。
あくまで自分のアイデンティティとして大事にしつつ、極端な教義おしつけや
ドグマチズムに陥らず、ときには判断を保留にすることも大事だと思います。

確信犯

読んだ第一印象は、「清森さん、舌足らずの説明で、これは相当批判がくるぞ。ちょっと、やっちゃたかも知れない」、と思いました。清森さんの意図していることはおそらく、忘草族さんの述べられているようなことと思いました。
しかしながら、よくよく、考えてみると、わざとやったのでは?とも思います。というのも、今までの掲載内容で親鸞会の教義と違う点・会の問題点指摘も多々ありましたが、今まで批判らしい批判は「私の白道」に対してのみで、そのほかはほとんどなかったように記憶しています。
今回の件で、今まで掲載されてきた親鸞会の教義と違う点・親鸞会の問題点の指摘に批判・反論がなかったことより、間接的に質疑応答・親鸞会教義の相対化・投稿に親鸞会は反論できないと言うことが証明されたのではないでしょうか?それから批判のあった「私の白道」についてはちび丸氏が逃げ出したことよりすでに親鸞会が反論できないと言うことが証明されていると思います。(今後についても反論がなければ同様)

1点付け加えるとすれば「仏教徒を自称して、口ではいくら立派なことをいっていてもそんなことをやっている人は邪教徒ですよ」とおっしゃりたかったのではないでしょうか?

そんなことをやっている人の例(実在するかどうかは「総じてもって存知せざるなり」):
1.仏教徒からの浄財でセクハラまがいの不倫をし、高級車を乗り回す。指摘されても反省をしない。それどころか、親の七光でしかない権力をかさにきて逆に粛清をする。
2.1のような馬鹿息子を切るどころか、馬鹿息子の愚行を助長または黙認する馬鹿な親。宗教法人をを自分の財産のように考え、トップにするにはふさわしくない馬鹿息子に禅譲しようとしている。それにより多くの信者が離れていくこと・残った信者が苦しむことを気にかけない。


No title

真実というものは、そういうものだと私も思います。
形は仏教徒であっても、心は仏教徒ではない人もいれば、形はキリスト教徒であっても
心は仏教徒である人もいるのだと思います。
若い頃に読んだナルニア国物語の「最後の戦い」にもこのような思想が書かれてありました。
ナルニア国の王アスランの信者だといっても邪な考えを持つ者は、アスランの姿を見ることはできず、
邪教の神タシの信者であっても、正しい考えを持つ者は、アスランの姿を見ることができるというものです。
親鸞会にだけ真実があると長い間、思ってきましたが、
真実は、世界中に広く満ちているのだと教えていただきました。

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