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親鸞会教義の相対化・40

清森義行様


続きです。


上巻p.93~】「救いは死後か、現在か」

>>>
「善恵房殿、それは、『若不生者不取正覚』の御文で明かです」
「親鸞殿、何か勘違いされておられぬか。その御文は、『若し生まれずば正覚を取らじ』と弥陀が誓われたお言葉です。一度死なねば生まれることはできませんから、それこそ、『死んだら助ける』の証ではありませんか」
勝ち誇ったように叫ぶ善恵房。
 しかしその時、すかさず聖人の言葉が四方を圧した。
「善恵房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。『若不生者』の生まれさせると誓われたのは、この肉体ではないのです。魂なのです。心なのです。暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く心を歓喜の泉に生まれさせると誓っておられるのです。人間でさえ、腹痛で苦しんでいる人に、『この世では止められるが死んだら治してやろう』という医者はありません。濁流に溺れて苦しんでいる人に、『今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやる』という人がありましょうか。まして況や、大慈大悲の阿弥陀仏が、『この世の苦悩はどうにもできぬ。苦しくても我慢しなさい。死んだら助けてやる』と誓われる道理がないじゃありませんか」
鋭い聖人の追求に善恵房すでに顔色なく、一言の返答もできなかった。これを、「体失不体失往生の諍論」という。
>>>

 チューリップ企画と田中さんの法論で話題の「体失不体失往生の諍論」の話題です。本書も、チューリップ企画のビデオと同内容であり、いずれも高森先生の『こんなことが知りたい』(2)pp.74-78「(21)親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか」から受け継いだ内容であると思われます。

>>>>
*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。
>>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われるAさんと場外乱闘をしていたBさんがまとめておられたことですが、高森先生の『こんなことが知りたい』、アニメ、そして本書は、共通して上記三点の批判を避けることはできません。

 ところで高森先生は、『会報』の時点では「不体失往生」の根拠として本願成就文をあげておられるようですね。

===苦笑さんが引用されたものを転載===

阿弥陀仏の本願(二)

本願のみでは、ハッキリしない点を本願成就の文の指南によって、順次、明らかにして来たが、本願成就の文とは何か、とよく聞かれるので、成就文のことについて、少し述べておこう。
阿弥陀佛の建立せられた四十八の願は、法蔵菩薩が未だ佛にならぬ因位(佛果を得る因種を造りつつある位)の時に発された願であるから、みなこれを因願と名づけるのである。しかるに、その後、法蔵菩薩がこの願によりて修行なされて佛果(阿弥陀佛)を諦得せられて、因願の結果を成就せられたのである。
この成就せられた事は、大無量寿経の下巻に説かれている通りである。それ故に、これらの文を因願に対して、成就の文と呼んでいるわけである。
だから四十八願の真意は、因願と成就とを互に照応して、始めてその深意を探り得るのである。
さて、本願だけでは不明であった第三の点、若不生者と誓われてある意味が、死ななければ助からんということか、今生で救われるのか判然としない。
若し生まれずんば……とあるところから、死後浄土へ行かねば、助からないようにもとれるが、佛願の実意は果してそうなのか、成就文ではこの点も極めて鮮明に「即得往生、住不退転」と的示し、「その名号をきいて信心歓喜の一念に、即ち往生を得て不退転に住する」と平生業成、現生不退転、不体失往生が明示せられてある。
死んだらお助けではないぞ、苦悩渦巻く現実を救わねば、正覚を取らんぞと誓いたまえる佛意を明らかにしている。
建仁元年二十九才のとき、信心歓喜の一念のたちどころに攝取不捨の大益を体感せられた親鸞聖人は現生正定聚の風光を「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かにして衆禍の波転ず」と嘆じ、ふたたび迷界に流転出来ない不退転の位に定まり、佛地を嗣ぐ等覚の弥勒と等しき身に救われた大自覚を『正信偈』には「成等覚」と述べられている。
弥勒とは、佛位を嗣ぐべき聖道の理想的人格である。しかも、若しその理想的人格に到達するとも、なお、佛果を開くには永遠の隔たりがある。しかるに、今や金剛の真心を獲得する者は、そのまま弥勒と同じ位に入るばかりでなく、弥勒に先立って、佛果にのぼるのだ。
これを『正像末和讃』には、
「五十六億七千萬、弥勒菩薩はとしをへん、まことの信心うる人は、この度さとりを開くべし」
「念佛往生の願により、等正覚に至る人、即ち弥勒に同じくて、大般涅槃をさとるべし」「真実信心うる故に、即ち定聚に入りぬれば、補処の弥勒に同じくて、無上覚をさとるなり」と説き、
「教行信証」信巻には、
「真に知んぬ弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし、念佛の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。故に便同というなり」と喝破なされている。
かくて法華経の便同弥勒の理想も、華厳経の諸仏同等の法悦も、この獲信の一念に諦得させ、ウラミと呪いの人生を光明の天地と転じさせずば、正覚を取らじと誓われているのが弥陀の若不生者の真意である。
にもかかわらず、この深妙の佛心を知らざる輩は、死後の華ふる浄土のみを夢みて、現実の救済の妙味を知らず、弥陀の本願を水泡にさせているのだ。
七百年以前に於いて、我が親鸞聖人が、小坂の善慧坊証空を向うにまわして、体失往生か、不体失往生かで、しのぎをけずられたのも、この願意が善慧坊には判らなかったからである。
この間の浄論は『口伝鈔』に述べられているが、或る時、親鸞聖人が「念佛往生の機は体失せずして往生を遂ぐ」といわれた。
これは「弥陀の本願はこの世で救うて下されるのだ」ということだ。
これを聞いた小坂の善慧坊証空という人が、
「体失してこそ往生は遂ぐれ」と真向から反対した。
いわゆる「いくら弥陀の本願が尊いといっても、此の世では救われない。死なねば助からんのだ」と聖人を攻撃したのだ。
その時、法然上人は次のように判定を下され、親鸞聖人に軍配をあげていられる。「善慧坊の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり、善信坊の体失せずして往生するよし申さるるは、念佛往生の機なればなり。如来の教法、元、無二なれども、正為衆生機不同なれば、我が根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念佛往生は佛の本願なり。諸行往生は本願に非ず。
念佛往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生、住不退転の道理を善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといえども、業事成辯すれば、体失せずして往生すといはるるか、本願の文明らかなり。かれを見るべし。
諸行往生の機は臨終を期し、来迎を待ち得ずしては、胎生辺地までも生まるべからず。
この故に穢体亡失する時ならでは、その期するところなきによりて、その旨を述ぶるか、第十九の願に見えたり。
勝劣の一段に於いては、念佛往生は本願なるについて偏く十方衆生にわたる。
諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。
本願念佛の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と殿最懸隔にあらずや」
身命終のみを知って、心命終を知らなかった小坂の善慧坊は、また身体の往生のみを知って、心の往生を知らなかったのだ。
死後の華ふる極楽のみを夢みて、現実の救いの妙味を諦得していなかったのだ。
聖人は如実の体験の心眼で経典を味賞しておられたから、若不生者も生き返ってくるのだ。
このように、成就文に立って本願をよめば、佛願の玄妙なることが明白に知らされ、我々の求道は、加速されるであろう。
故に覚如上人は『改邪鈔』の中に
「かの心行を獲得せんこと、念佛往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等の文をもって依憑とす。この外まだ聞かず」とまで言い切られ、第十八願は根本であるが、至極ではない。
願成就に立って、本願の真実を諦得せよと勧めていられる。

高森顕徹著『会報』巻2,28頁

===苦笑さんが引用されたものを転載===


 これでしたら、Bさんが挙げた三点の批判を受ける必要はなくなると思います。

「不体失往生」の根拠として本願成就文を挙げた上で、上記のような高森先生の本願文に対する「味わい」を述べるのであれば、非常に味わい深いものであり、納得のいくものとなったと思います。
 しかしその高森先生の「味わい」をドグマ化し、それがあたかも客観的事実であるかのように徹底してしまったことが、親鸞会の問題だったのではないかと思います。
「味わい」がドグマ化してしまうのは、典型的な硬直化現象であり、更に親鸞会は、その問題を指摘されても改めない「自己無謬視」にまで陷っておりますので、非常に問題は根深いのではないかと思います。

 これは友人が言っていたことですが、田中さんから指摘があった最初の段階で、山田さんが

「本願成就文を根拠にすべきでした、すみません。ただ、本願成就文の上から、十八願をこのように味わうこともできたと思います。けれども、これは明文上にない、個人の味わいに過ぎぬことですね。ご指摘いただいたことをしっかり受けとめ、本願成就文を根拠に、ますます現生からの救いの道に邁進したいと思います。」

というように対応しておられたら、田中さんもこれほど大きな問題にはしなかったでしょうし、私のような他宗の人間をあきれさせるようなことにもならなかったと思います。

 誠意のない対応や自浄作用の欠如から倒産に至った某高級料亭を反面教師にして、親鸞会がこれ以上の醜態を晒さないことを願います。


つづく
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COMMENTS

真実

親鸞会では、アニメ2部作ってる段階から想定済みですよ。
田中氏のような人が指摘してくることは。
遅すぎたぐらいです。
本願成就文といっても難しくなるから、本願文で弥陀の本願の御心を明らかにしたのが、第2部です。
そんなに騒ぎ立てることではないのです。
とにかく現在の救いを明らかにすることが最重要なのですから。

それより、真実の信心を得てない清森氏が、このようなブログを開設しているのは、ある意味問題がありますね。
間違った方向に人を導くということになりうるからです。
親鸞聖人のようなまともな善知識があらわれることを切に願うばかりです。


想定内?

だとしたら、何ゆえ、ここまで長引いていたんでしょう?
想定内のことでしたら、初期の段階で次のように答えるべきでしたね。

「ご指摘のとおりです。当社といたしましてはこのようなご指摘をいただくのは十分承知しておりました。本来であれば本願成就文を根拠にすべきです。ただ、本願成就文の上から、十八願をこのように味わうこともできると思います。また、本願成就文は一般の方にはなじみが薄く、難しくなってしまうと判断いたしました。ご指摘いただいたことをしっかり受けとめ、本願成就文を根拠に、ますます現生からの救いの道に邁進したいと思います。」

No title

> それより、真実の信心を得てない清森氏が、このようなブログを開設しているのは、
> ある意味問題がありますね。

真実の信心を獲ていればそれにこしたことはありませんが、
教えを正しく説くために最も大切なのは教学力です。
教学力というのは経典やお聖教を正しく読んで解釈する能力です。
経典やお聖教は獲信した人の自己満足のために説かれたものではなく、
未信の人に真実の信心を獲させるために説かれたはずです。
ですから、獲信の体験がなくても、正常な国語力があれば誰でも読めるはずです。
ただし、国語力といっても現代語でなく漢文・古文の文法力・読解力が必要です。
いわゆる仏教学者はきちんと漢文・古文の文法をマスターし、書かれていることに忠実に解釈します。

一方、親鸞会の場合、高森先生には獲信の体験があるという大前提(本当かどうかはともかく)
が根底にあり、体験に基づいた高森先生の解釈こそが絶対に正しいと盲信させられます。
そして、学者が間違いを指摘しても、「体験がないからそんな程度の読み方しかできないのだ」
と決め付け、見下し、指摘に対して聞く耳を持ちません。
それでいて「親鸞聖人の教えを絶対忠実に伝えている」と公言しています。
このような「体験至上主義」によって親鸞会教義がドグマに陥っているのだと思います。

無題

正直、清森氏のこのブログも自惚れからではと思います。
高森氏にしても、どうも信頼が崩れております。
上田氏や増井氏も頼りないしな・・・
私たちは、どうすればいいのですか?
心から信頼おける人じゃないとね。
ついつい疑いの目で見てしまいますから。

一向専念無量寿仏、これだけは忘れるでないぞ、ですね。
全く。ため息です。

阿弥陀様、なんとか信頼できる善知識を地球にお送りください。
苦しんでいる人は、ごまんとおります。
自信一杯、いったい誰の話を聞かせてあげればいいのですか?

阿弥陀さまも、酷だな~。
頼みますよ。
みんな、ぱっぱっと平等に救いとってやってくださいよ。
人間がかわいそうでなりません。あわれです。


No title

> 私たちは、どうすればいいのですか?

これは誰に対する質問ですか。もし清森氏に教えてほしいとお思いならば、

> 正直、清森氏のこのブログも自惚れからではと思います。

という発言は大変失礼だと思いますよ。教えを請う相手を「自惚れ」と決め付けているわけですから。

それはさておき、あなたの仰りたいことはよく分かりますし、私自身も同じことを悩んでいます。

結局、私達にとって拠り所となるのは、経典とお聖教だけです。善知識の教えといっても、それ以外の内容は有りえないはずです。(もしそれ以外の内容が有るのなら「珍しき法」を説いていることになり、善知識とは呼べません。)

私達が獲信するために必要な教えは全て釈尊が浄土三部経に説かれたはずです。釈尊が説かれなかったことを七高僧や親鸞聖人が説かれたはずがありません。ですから、もし浄土三部経の内容を全て完全に正しく理解できれば、それで必要十分であるはずです。しかし、私達が直接読んで正確に解釈することはまず不可能ですから、歴代の善知識や学者の助けを借りるしかありません。では、具体的に誰の助けを借りればよいかについては、最終的には、あなた自身が納得のいく人物を選ぶしかありません。

このブログは、真実を探求するためのフリーディスカッションの場であると私は認識しています。この場を借りて、いろんな人と大いに自由な議論を展開すればいいと思います。もちろんそれは真理に近づくための建設的なものでなければなりません。

とにかく、私はこの場を提供してくださっている清森氏に深く感謝しています。


感想

真実さんへ

>それより、真実の信心を得てない清森氏が、このようなブログを開設しているのは、 ある意味問題がありますね。

直接ご本人に最近になってからお尋ねになったのでしょうか?

上記のようなご意見をおっしゃるための資格としては、「真実」と名乗るところのあなた様が真実の信心を獲られているのかどうか表明するのが先ですよね?
その点はいかががなのでしょうか?

>間違った方向に人を導くということになりうるからです。

高森師が信心を獲ているかどうか?
それは賛否両論あるとおもいますが、たとえ真実の信心を獲られていると仮定しても、「高森師は間違った方向に人を導いてしまった」と私は現在確信していますし、私と同様の意見を持たれる方々はこのブログの開設後、増えていることは疑いないと考えます。
高森師が過去に説かれた内容と現在説かれている内容が異なっていることはすでにこのブログの随所で指摘されているわけですが、そのすべてについてどなたか言い訳できますか?

そして、「無信であれば人を獲信まで導くことは絶対に出来ない」という意見に対しては、念のため、東條英機氏を獲信まで導いた花山師が無信であったことは良く知られています、と反論しておきたいと思います。

親鸞会の本願寺に対するネットや顕正新聞での批判記事をみて、いつも苦笑を禁じえないのですが、いくら本願寺組織がが腐っていようと、親鸞会組織が腐っていることをまったく免責するものではありません。子供でもわかる理屈です。

会に対する批判者を常に誹謗し中傷してさえしておけば、会員はみな自分のところの会はやっぱり正しいな、と判断すると思うのでしたら、自分の会の会員を思考停止のバカと考えているのか?としか思われませんがいかがでしょうか。
また、本願寺のことを絶えず批判さえしておけば、自分の会の腐敗や堕落や欠点は免責されるとでも考えているのでしょうか?それはあまりにも考えが甘いですね。

匿名 さんへ

>阿弥陀様、なんとか信頼できる善知識を地球にお送りください。

善知識だのみ病、あるいは増井氏が言及されていたところの「信心決定病」の病人でいらっしゃるようにお見受けします。
くれぐれもお大事になさってください。といっても全然自覚ないんでしょうね。今のところは反発されるだけでしょうけど、いつかは自覚なき病に気がつかれることを念じております。

信心決定病とは?

おうさんへ

私は匿名さんの気持ちもよく分かる気がします。

ところで、信心決定病ってどんなことを言うんでしょうか?少し気になります。私も、信心決定病かもしれません・・・

お時間ある時にコメント頂ければ、幸いです。

信心決定病

第六章「救済の予定概念」P166

信心決定病
 いつか私は、信心決定病という言葉を使ったことがあります。これは、信心決定が、いかに大切かというご教化を受けて、これに感動した人のかかる病気です。一般的には、信仰を、観念や感情だけで受け止めている人が多いが、「それでは駄目だ。親の宝は子の宝。あくまで自分に頂くという体験が大切。聞いて聞いて、求めて求め抜くならば、必ず信心決定の境地がある」。そう聞かされて、信心決定こそが、唯一の目的だと、真剣(?)に、聞法求道する人のことを申します。それが、なぜ病気かというと、ご教化にまちがいはないし、体験も大切なのだが、コースを走りもしないで、一等賞のホウビに手を出しに行くから、間違ってくる。実際には、そんな体験なんか、できる自分ではなかったと体験させられるのが、信心決定。だから、「決定、決定」と言っとるのを、いっぺん、捨てねばならん。そして、いかに決定できぬ自分であるかという、罪悪観や無常観への方向転換が必要です。信心決定という力みを捨てぬかぎり、信心決定への道は遠い。この信心決定病というのが、つまり、一つの救済の予定概念というやつなんです。

悩み多き者様

返信が遅れて失礼しました。

「信心決定病」、あるいは「入信病」につきましては、すでに「念仏の雄叫び」さんが増井さんの著作から引用しておられますね。

私が善友ともいえる親切な方からかつて頂いたメールの一部から抜粋させてお示しさせていただきます。
____________________________

信心決定という宗教体験をするかしないかに一度とらわれてしまうと、だいたいにして一生もので、ある種の病のようなことになります。

法雷轍の稲垣ズイケン師(故人)が言われるところの「入信病」「一念病」、華光会の増井師が言われるところの「信心決定病」「救済の予定概念」という妄想の症状の一つですね。ただ、宗教体験を金科玉条のごとく変に強調する点で、増井師の説明には、私としては疑問と違和感が残りますけど、概ね真宗の持つ問題点をとらえてはいます。

深く省みれば、真面目であるがために真剣になって真宗にのめり込んでしまった人が迷い込んでしまいがちな点でもあるかと思われますので、少し長々と引用してみます。

稲垣師『入信について』より抜粋
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入信を誇る人は、信心を「取った」と云って、「取った」病にかかり、入信出来ないとなげいている人は「信心取りたい、取りたい」と思って、「取りたい」病にかかっておる。また「一念覚知」を骨張する人は、「自分が信心をいただいたのなら、その年月日位が分らぬと云った、ぼんやりとしたことがあるものか」と云って、同行をいじめるのである。それらの人は大悲の勅命、本願の生起本末を聞かないで、往生するためには、凡夫の方で何かして行かねばならぬと、心の底に思うてるのである。或は如来様は分らないで、自分の入信又は一念の覚知を欲しがっている人である。

よその花を見るべきではない。私一人のための如来様、私一人のための御本願、お浄土である。

入信したことをかえりみて過去に生きるのではない。また未来に入信の機会を待ち望んで、あせり苦しむのではない。只今念々ごとに如来様のやるせなき「よびごえ」がかかっておることをよろこぶのである。
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増井悟朗師 著『念仏の雄叫び』より抜粋
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(略)
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華光誌第43巻第3号巻頭言より抜粋
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……省略……。もし聞法を積むことが獲信のための宿善になると期待して聴聞しているのであれば、それは附仏法の外道でしかない。弥陀の本願は、直入の機をこそ正しくお目当てなのだ。二河譬に示されるように、水火二河の三定死の行者――必堕無間、絶体絶命、助かる手だての絶え果てたものにこそ、「なんじ一心正念にして、直ちに来れ! 我よく護らん!」の叫びが響くのである。
 聴聞だけでなく、勤行であれ財施であれ、あるいは説法伝道であろうと、すべてそれが宿善になると期待しているような求道では、真実は聞こえない。むしろ、自力作善のその心こそ、虚仮雑毒の善ときらわれる。その心こそ、弥陀成仏のこのかたは、十劫呼びづめ、立たせづめた仏敵、法敵の自力疑心の実体と知るべきである。
 また、信決定できないのは、罪悪観や無常観の見つめ方が足りぬからだとか、どうも真剣になれぬとか、「どうすればよいか?」などと問う人たちも、方法論のこねまわしである。ただ求め方の誤りや熱心さの不足が原因で決定信に至れないのだと思い込んでいる。その腹底では、徹底して聞き、疑い、計らい抜くならば、ついには自力疑心の破れるときがあると決めている。そこが大間違いなのだ。
 助かると思い込んでの求道では、無常観も罪悪観も演習でしかない。真剣にも命懸けにもなれるはずがない。即刻、畳の上の水練を止めよ! われら凡夫には、いかなる方法論もない。いずれの行も及びがたき地獄一定の身に驚きを立てるのだ! 後生は一大事、事は急を要するのである!
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華光誌第43巻第4号 『法に遇う』より
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 ところが、真剣な求道者の中には、この宿善のとり違いをしている人が多い。真剣に聞法していくことが宿善になると思い込んでいる。あるいは、法を伝えたり寄付したり、勤行したり法座を開いたりすることが宿善を積むことになって、それで獲信ができる。いや、もし現世に獲信できずとも、次の世の宿善になると思って一生懸命とりくんでなさる。真剣という意味では懈怠ではないが、驕慢と弊というべきでしょう。なぜなら、私どもは、法を謗る心はあっても、求道心はおろか宿善を積む心など全く持ち合わさぬ代物である。それが、あの手この手の御方便やお育てのおかげで、やっと法に向かわしていただけるようになったのです。これでは、親の並々ならぬ育ての大恩を思わぬ不孝者が、一人で成人したように大口をたたいているのと同じです。自分では、宿善のカケラも積めないわが身です。宿善をとやかく言うのは越権の極みであります。

 こう言うと、求道者の中に「読経したり、法座を開いたり、財施をするのは、五正行だと教えられた」という人がありました。しかし五正行には、二つの廃立があるのです。この二つの捨てものと拾いものの意味が大切なのです。五正行は、善導大師や法然上人が、浄土門の正しい実践法としてお示しになったのですが、まず一つの廃立は、雑行を捨てて正行に帰せさせようというお心から、五正行が説かれたということ。……中略……。この五つを「一心にもっぱら」つとめることが正行であり、これ以外の行(諸善・万行)を雑行といって、これを捨てなさいとおっしゃる。これが第一の廃立。
 第二の廃立とは、この五正行の中の前三と後一の行は、これを助業といって、これは専らにすべきではない。最も大事なのは四番目の称名正行で、これこそが正定業だというのです。正定業とは、正しく往生の定まる業因ということです。
法然上人はさらに、法蔵菩薩がこれこそ正しく凡夫往生の業ぞと選定下さったのだ――つまり法蔵さまが、この泥凡夫の仏になるには、これしかないとお定めになったのがこの専修念仏だと、こうおっしゃる。

 そこで親鸞聖人は、この正業・助業をごちゃまぜにするのを、念仏一行の専修に対して、雑修だと捨てておられる。もう一つ、たとえ専修念仏の人でも、現世祈りのためにするのを、これも雑修組に入れて、千中無一で助からぬぞとお叱りになっている。
 このように五正行とは、これらの廃立を示すためのご説法であって、いたずらに雑行や雑修にふりまわされていては、いくら熱心に求めても方角違いに走るだけであります。真剣に勤行し、ご法座を開き、人に説法し、がんばって寄付をしてはみても、そのことで助かっていこうとする下心があるかぎり――つまり宿善を期待しているのでは、これは自力のくわだて以外の何物でもない。だから助業をはげむなとか、雑行だと捨てられたり、雑修とけなされたりするのです。本願に相応しないことに力を入れているからダメなのです。「法に遇う」といって、間違った教え方をされ、間違った聞き方をしていては大変なことです。

 正しく「法に遇う」とは、自分が殺されることだと言いたい。たとえば、私は西本願寺の布教使で、華光会を主宰しています。しかし本願寺や華光会のために説法したり、自分の衣食のために法を説いているとしたらどうなるか。それこそ、私の話を聞いた人は、先に言った人のように迷っていくしかない。いや人じゃない。第一に自分が迷わねばならない。たとえ人が助かっても、自分が落ちては一大事です。そこに腹をすえているから、私は、自分一人にかかって下さった法に遇わせていただくのです。本山や華光会にぶら下がっていても助けてはもらえない。私一人にかかった仏や法に遇うこと、そのことが後生の一大事とふみだすことではありませんか。この立場は、自分を殺していると思う。だからこの立場に立つかぎり、勤行も法座を開いたのも寄付したのも、全部助かる種にはならぬと申し上げるのです。
そこに値打ちを認めるというのは、その腹底に「一生懸命にさえなれば、信心が決定できる。たとえ自力や計らいはダメだと言われようとも、計らって計らって計らいぬけば、ついに自力や計らいの破れるときがある。聞いて聞いて聞きぬいてゆけば、ついに聞き開けるときがある――」こう決め込んでいるものがありはせぬか。その聞けると決め込んでいるのが自力の親玉なんです。心底で、救われると決め込んだ上での求道だから、畳の上での水練でしかない。罪悪も無常も、それは自己や人生の事実なのに、それをとりつめていけば獲信できると決め込んでいる限り、罪悪も無常も知れるものではない。
 獲信のための一切の方法論の絶え果てた泥凡夫が自分なのです。自分には、どの方法も役立たず、どうにもこうにも救われるすべてがないと捨て切る。もともと法を聞き、求める心さえない自分であったと一切を捨てない限り、阿弥陀様の手出しなさるスキがないのです。法に遇うということは、自分が殺されることであります。

すると、こう言った人がありました。「私は、主人をたぶらかし、子供の教育費をけずり、生活費をきりつめてまで寄付を続けてきた。すべて獲信のための宿善になると聞かされたのです。後生のためには、すべてを投げ出せと教えられた。欲のためではない。後生の一大事と思って寄付もし求道もしてきたが、これでも信決定のためには役立たぬというのですか」と。即座に私は「役に立ちません」と答えると、声をあげて泣き出しなさった。「ああ、腹が立つ。うらめしい。訴えてでも取り返したい」と本音を出された。またある人は「10年間も毎月、家庭法座をしてきたが、これは宿善になりませんか」「なりません」でまた声あげて泣き出された。
しかし人事ではない。これはみなさんの心に聞いてほしいのです。「こうも熱心に聴聞を重ねているんだから、仏様はお慈悲な方だし、まさか見捨てはなさらんだろう」と、こんな心はありませんか。どれだけ参ってもダメ。どれだけ念仏してもダメ。いくら財産を積んでもダメなんです。私の中には、仏になれる種どころか地獄行きの業しかない。欲のかたまりです。おしまいには泣くしかない。
腹立てて取り返してやりたいと恨む心しかないのです。
ところがこんな私のために、仏様がどれほどのものを投げ込んで下さったか。どれほど泣いて下さったことか。そちらには目が向かないで自分の手柄にばかり目が向いているから、一つ違うとくやし泣きするのです。真剣な人ほどこうなるのです。私共のやることは、みな虚仮雑毒の善、毒入りなんだ。仏に成れるものが何一つない。こう気付かぬと、いつまでも方向転換ができないのです。

 こうまで言っているのに、「それでは自分の罪を見つめるだけでいいのですか」と。また「自分は無常観が感じられないが、無常をしっかり見つめると、驚きが立つのでしょうか」と次々に質問が出る。すべてみんなダメであります。なぜ「ああすればよいか」「こうすればよいか」と方法論的質問が出るのでしょうか。それは心底に「自分は助かるものなり」という大前提があるからです。「自分は絶対助からぬ、落ちるしかない」という死に身、落ち身で聞いていないからです。この助かるつもりの予定概念があるかぎり、どんなに落ちる助からぬと聞かされても、それは畳の上の水練でしかない。そうではない。無常は見つめても見つめんでも無常。思うも思わぬも妄念、造るも造らざるも罪体なのです。今まで10年20年と求めようとも、一切は獲信のために役立たない。その覚悟が大切です。そう聞いていくことこそが、まさしく「法に遇う」ていくことであります。
-------------------------------------

稲垣師の見解にしろ増井師の見解にしろ、親鸞会の問題点を指摘している話ではありませんか。

しかし、この「信心決定病」は何も親鸞会の真剣なガチンコ会員に限ったものではなく、真宗にありがちなことと思われます。

本派末寺の那須行英師も著書『大悲の親に遇う』の中でご自身が「信心病」にかかっていたことを告白しておられ、稲垣師の指南を仰いだ人です。

この「信心取りたい病」に罹って、気が付けば排他的狂信的な信者になってしまうのは、もちろん聞法者だけの責任とはいえません。高森師のように自己の宗教体験を全面に出して(これは「信心と云う頑迷な精神病」に罹った相とも見える)、聞法者に死後は地獄か浄土かと迫り、自分の掴んだ法を善とし、自分もその善の座に留まって、何の反省もなく、排他的勝他的な姿勢を聞法者に植えつけてしまうような説法、指導には大きな問題があります。
これもまた真宗の持つ必然的な問題点かと思われます。

西元宗助師(故人。京都府立大学教授)によれば、真宗の信者に陥り易い粗なるタイプがあるという。それは二つのタイプに分けることができ、一つは「不識型」、もう一つは「覚知型」と呼ばれておりました。そして、後者のほうが問題も深刻なことを体験的に述べておられ「自己陶酔と宗教的増長慢の魔界」と呼ばれておられました。

西元宗助『念仏者の人生論』
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………ともかくこの型の信仰は、当然のことながら、よくいえば前者に比して概して徹底味があり体験的で、それだけに信仰が溌剌として感激的である。しかし、その反面、ともすると独断的で主観的陶酔に陥り易く、その行動は勝他的伝道的であって、時によると狂信的様相をすら呈することもある。
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また本願寺派勧学である稲城選恵師も西元師と同様な指摘をされています。

稲城選恵著『浄土真宗の霊魂観 -往生の主体について-』
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 一般によく聞法者に誤解される如く、どうもはっきりなれないとか、信心がいただけないと云う不安定な型と、長い間の聴聞によって、もうどんなことがあっても、絶対に間違いないものと、堅固に思いこんでいる硬心型の一類がある。むしろ仏法を聞く態度から云えば前者の方が単純である。後者は信心と云う頑迷な精神病にかかったようなもので、極端に排他的な態度となったり、法悦境に自己陶酔する型となる。このような者の他人に対する態度は彼等の不信ばかりを裁かんとする批判型にもなる。そうして、これらの硬心型や、自己陶酔型、批判型のものは、日常生活の倫理性をややもすると欠く、全く横暴な生活をするものをよく見受ける。この場合、他者からその非をたしなめられると、彼等は異口同音に”凡夫”と云う極めて重宝な、弁明の言葉を知っている。この不倫性の要請として、真宗教義の生活倫理の必要を強調する。
 しかし、このような型に生起する因由はどこにあるのであろうか。それは勿論、「信心」と云うことの曲解であり、念仏そのもの、名号そのものの聞損の上にあると云えよう。
 いかに真宗教義を正確につかんで、有難く思っていても、自らの概念的領域の中にある限り、「信心」の世界とは別の世界に立っている。むしろかかる正確につかんだ概念化がすすむにつれて次第に「理想主義」化される。救いは観念としてのみ現存するので、現実の身の上には直接しない。「本願の嘉号を以て、己が善根とする」と云われる二十願的受けとり方は、確かに、名号そのものの絶対性には、何等の異義は存しないものであろう。しかしその名号を自らの自力心のとりことして、強固にとらえんとする態度、これこそ概念の場でうけとるうけとり方であろう。―名号が主体の側につかまれた瞬間、名号ならぬ名号となる。それ故、彼等の果の世界を疑城胎宮と云われる。
(中略)
 二元的場におき換えられると、浄土の存在や仏の存在の有無、随ってそれに伴う往生の主体等を問題とせざるを得ない。何故ならば、かかる場に於いては、浄土や仏、往生の主体を否定しては全く成立しないからである。この答は勿論、「信心」によってのみ与えられるであろう。それ故かかる立場に於いては信を強調する。「不合理なるが故に我信ず」と云える如く、二元的場に於ける信の対象は、逆に限りなく合理性を要求する。しかも是とも非とも決定的な答が与えられない。そこにパスカルの賭の如き決断が生まれる。
 二元的場におきかえられると、仏の存在の有無、浄土の実在、霊魂不滅の問題などが、常に客観的場に於いて問題とされる。これらのものにもし否定的な答を与えると、頑強にその実在の論証をあらゆる角度から弁明せんとする。既述のキリスト教に於ける神の実在の論証が何よりも証明している。
 このような立場に於ける信仰は絶対に間違ないと思いこむことにある。信ずることに力をいれるので狂信的傾向を有つのである。
 このような信仰を仏教では信心とは勿論云わない。中村博士も次の如く云われている。
(中村元著「東洋人の思惟方法」第一部一八九頁)

「仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代から prasada と云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。従ってちょうど prasada に相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。……」
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真宗の教義から生じる問題点はこれくらいにして、とにかく、今現在生きているかけがえのない一つの生命として、問題の原点に立ち返って考えてみませんか。
何があなたにとって人生の問題なのかという本質的なところ基本的なところから再出発、再構築することが大切なように思いますが、いかがでしょうか。
心のリストラとでも言いますか。
私の場合は、
・弱肉強食、食物連鎖システムということではすっきりしない心の闇はいかにして解決するのか?要は贖罪方法。
・家族の中でのポジショニング、社会の中でのポジショニングではなく、死がくれば不明になる、私という生命の存在のポジションはどうすれば確立するか?自と他の関係(縁)において成立しているアイデンティティを死地に確立することができるか。要は死の受容。
ということでした。

自己の生命の位置づけ、意義を人と合わせることはないですが、上記のことを解決した人は、言葉にしたときのいろんな相違はあったとしても、一味であると思っています。
____________________________

以上、引用終わります。
この方のおかげで、当時の私は立派な信心決定病にかかっていたことを自覚させられたというわけです。あらためてこの場をお借りして深く感謝申し上げたいと思います。

悩み多き者様のご参考になれば幸いです。

ありがとうございます!

念仏の雄叫びさん、おうさん、書き込み、本当に有難う御座います。
大変参考になりました。

私は元会員ですが、今まで本当に狭い世界にいたんだな~とつくづく感じます。

新たな犯罪の温床になったり、聞くに堪えない誹謗・中傷の吐き出し口になったりと、ネットは敬遠していましたが、このような書き込みを通して、真宗に対する多くの方の意見が聞けるのは大変ありがたいことだと思います。




おうさんは、どこで獲信された方ですか?

おうさんの文章を読ませていただきました。すごい・・・

おうさんは、どこで獲信された方ですか?

私も・・・ 様へ

残念ながら、引用部分は私の書いた文章ではありませんので、くれぐれも誤解なきように願います。

また、説明不足でどうもすみません。
私がかつていただいたメールの内容をこのたび公表させていただいた真意は、なかなか閲覧者の方々にはご理解いただけないのだと、自身の非力さを改めて痛感しております次第です。

稲垣師「よその花を見るべきではない。私一人のための如来様、私一人のための御本願、お浄土である。 」(一応お断りしておきますが私は必ずしも法雷轍に学ぶものではありません。)

おうさんへ

>私がかつていただいたメールの内容をこのたび公表させていただいた真意は、なかな>か閲覧者の方々にはご理解いただけないのだと、自身の非力さを改めて痛感しており>ます次第です。

おうさんの意図どおりか分かりませんが、きっと、

「信心というバナナばかりに目をとらわれていないで、「よその花を見るべきではない。私一人のための如来様、私一人のための御本願、お浄土である。 」という阿弥陀仏のお誓いを聞きなさい」

というようなことだと思いました。

しかし・・・

いくら本願を聞いても、自分の口から念仏が出てきても、この腹がナットクしないんです!腹のナットクなんぞどうでもいい、と捨てることが出来ない!

どう聞いても聞いても、本願を何度聞いても、自分の口からでる念仏を聞いても、

後生は不安です。



どこを求めればよいのか?

獲信者をまず求めることが先決だと思い、おうさんにお尋ねさせていただきました。

稲垣師や法雷轍というのは、はじめて聞きました。


廻心という転換点が抜けたら、十劫安心になるはず。

しかし、廻心(獲信)のみに目を奪われると、自分にかけた阿弥陀仏の願いが見えなくなる。

そこのところのジレンマをどうにかしたい、です。


おうさん、よければアドバイスお願いただけませんでしょうか。

私も・・・様へ

「私も・・・」様は大変熱心かつ真面目に求道されているかたでいらっしゃることはよくわかりました。

ただ、甚だ恐縮ですが、わたしごとき者にアドバイスを求められるのはお門違いと存じます。
決して卑下慢などではなく、私などに真摯な求道者の方に対してアドバイスできる力量も才覚もありませんので。

私のスタンスを説明することは、ネット上において、他でもすでに説明していることであって、必ずしも困難なことではありませんが、諸事情があり、私は自分の身分を明かすことにつながる情報提供は極力避けたいと考えています。
こういう説明では「私も・・・」様はおそらく納得いかないでしょうけど、上記事情を鑑みていただき、ご容赦いただければ幸いに思います。

>獲信者をまず求めることが先決だと思い、おうさんにお尋ねさせていただきました。

果たして、本当に「獲信者をまず求めることが先決」なのでしょうか?私は必ずしもそうは思いません。「就人立信」に偏った場合、他人の体験を鵜呑みにしてそのまま信じてしまうことにつながり、かなりのリスクを伴うと考えています。
ただ、自称獲信者を見つけられることは、決して困難なことではないと思いますよ。たとえば親鸞会の故郷ともいえる華光会に行かれたら獲信者は少しも珍しくないと思いますし、「私の白道」の作者であり獲信者でいらっしゃる元親鸞会講師さんのお話もおそらくきけるのではないでしょうか。また、清森さんや獲信者である上田さんがたのお話はネット上でもきけますが、すでにきかれましたか?
そして、彼らはみな、職業布教師を目指されたかたがたであり、落ちこぼれ元会員の私などよりはるかに適切なアドバイスがいただけると思います。(これは決して自分を卑下しているわけでもなく、誉め殺しの類ではなく、本気で申しておりますので念のため。)

さて、今回の問題点に関連して、これまでも何度かネット上で議論がありました。
この方のご分析などはなかなか鋭いと思いますが、いかが思われますか?

[334]Re:会長への質問に追加すべき.. ピグレット(元会員) SunOS(Mozilla) 2006/05/18(木)10:06

迷える凡夫さんへ

> 若し、ねこにゃ様が信心決定されておられるのでしたら、被害の家族の縁ある方を次第相承の善知識の身元にお連れ出来るはずですよね。

横から失礼します。もし 「次第相承の善知識の身元にお連れ」しても、その善知識依存体質になってしまうのであれば、そこには親鸞会の問題と同じことが起きるのではないでしょうか。
私は親鸞会の会員であっても、極度の指導者依存、組織依存になっていなければそれほど問題ではないと思っています。
今の親鸞会の問題は組織や指導者の存在なくしては会員の信仰が立ち行かなくなってしまう点にあるでしょう。
高森会長には次のような言葉があります。
> 金力にたつ者は、金力を、
> 権力にたつ人は、権力を、
> 名誉にたつ者は、名誉を失った時に倒れる。
> 信念にたつ人も、その信念揺らいだ時、また顛倒す。
> たとえ、釈尊、善導、法然さまが揺らごうとも、
> 心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる。

ここには、一見、釈迦が示した「自灯明、法灯明」があるように思うのですが、釈迦や親鸞に比べての大きな違いは、釈迦や親鸞が指導者としての「わたくし」を否定しているのに、会長にはその姿勢が欠けていることです。
親鸞会に依存し会長に依存している会員たちに「無碍人」になっていただきたい、と会長が本当に思っているなら、金や権力、名誉だけでなく、親鸞会もそして彼自身も、無常に倒れるものとして、取り上げるべきでしょう。熱心な会員ほど親鸞会依存、会長依存体質になってしまっている現状を見れば、取り上げて当然のことではないでしょうか。

親鸞会にたつ者は、親鸞会を失った時に倒れる。
私(高森会長)にたつ者は、私が倒れた時に倒れる。
たとえ、親鸞会や私が揺らごうとも、
心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる。

そこまで断言できてこそ、真の善知識ではなかろうか、と。
この会長を絶対服従の対象としている会の教導をみる限り、会長の文面からは会長の自己矛盾がうかがえるのです。

親鸞会では「心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる」には、親鸞会の指導を仰ぎ会長に服従していくしか道はないと教導しているから、親鸞会と会長は例外にするしかなく、倒れるものとして挙げることができなかったのではないのでしょうか。
親鸞会の指導を仰ぎ会長に服従していくしか道はないと教えていることは釈迦や親鸞の指し示したところとは合致しないように思います。

親鸞会に依存する会員は、親鸞会を離れた時に倒れ、苦悩します。だから如何に組織に問題があっても離れることが難しいし、突き放されるとしがみつこうとさえすることもあります。

迷える凡夫さんの勧めておられることが、同じ問題に当たらなければいいのですが。

親鸞会に依存している皆様、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせずにあれ、と。
http://homepage2.nifty.com/nonsect/logs/0009.html#334

>私は親鸞会の会員であっても、極度の指導者依存、組織依存になっていなければそれほど問題ではないと思っています。

とおっしゃっています。「私も・・・」様が会員のかたか元会員のかたかは存じませんが、上記の問題点に留意さえされていれば親鸞会で引き続ききいていかれても、華光会できかれても、上田さんがたのところできかれても、それほど問題はないと思いますが。

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