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親鸞会教義の相対化・42

清森義行様

つづきです。

【下巻p.149~】他力

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「他力」というと、「他人のふんどしで相撲をとる」ことのように考え、力のない人間が力のある人間に助けを求める依存心だと思っている人が多い。新聞なども堂々と「他力本願ではいけない。自力更生でなければならぬ」と書きたてている。
では、他力とは一体どんな意味なのか。親鸞聖人が『教行信証』に明示されているように、阿弥陀仏の本願力のみを他力というのである。他力の語源は仏教なのだから、仏教の意味にしたがわなければならない。他力の他は阿弥陀仏のことに限るのである。
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ここまでの解説は素晴らしいと思います。全くその通りです。

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では阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。親鸞聖人は『和讚』に、「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を滿てたまう」力であると鮮明に教えられている。
阿弥陀仏の本願力とは、我我の暗い心(苦悩のたえない心)を打ち破って日本晴れの大安心にするお力であり、衆生の一切の志願を滿たして大満足心で生きぬけるようにしてくださるお力である。
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ただし、この部分には賛成できません。

無礙光如来の名号とかの光明智相とは
無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ
『高祖和讚』曇鸞讚

とあるように、「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ」
働きがあるのは、「無礙光如来の名号」と「かの光明智相」です。

『高祖和讚』から引用するのであれば、むしろ、

本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし
『高祖和讚』天親讚

天親論主は一心に無礙光に帰命す
本願力に乘ずれば報土にいたるとのべたまう
『高祖和讚』天親讚

煩惱具足と信知して本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて法性常楽証せしむ
『高祖和讚』善導讚

などを引用すべきだと思います。「本願力」と書かれているのですから当然ですね。


その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。
(『無量寿経』巻下東方偈)

と釈尊が述べ、

我が力にて生死を離れ亊励み難くして、偏に他力の弥陀の本願を憑(たの)むなり。
『要義問答』(昭法全六一九頁)

(訳)
自分の力で輪廻を離れようとすることが難しいから、ひとえに他力である阿弥陀仏の本願を頼りにするのである。

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏の本願を信じるものを極楽浄土に往生させ、輪廻を離れさせるのが、「他力」(=阿弥陀仏の本願力)の「仏教の意味」です。

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もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
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 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われる方と場外乱闘をしていたCさんが仰った言葉ですが、非常に的を得ていると思います。
 本書の「他力」の解釈は、チューリップ企画の山田さんと同じ誤りを犯しています。



つづく
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