スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親鸞会教義の相対化・43

【下巻p.266~】法然上人の遺跡


 最後になりましたが、本書の「あとがき」に以下のように書かれています。

>>>
ご臨終の法然上人に、弟子が尋ねている。
「先徳には遺跡があります。上人には一つの寺もありません。どこを旧跡といたしましょうか」
「私の一生は、念仏の教えを伝えるためにあった。真実の仏法が説かれる所は、野でも山でも、みな私の遺跡である。日本中に、遺跡は充滿するだろう」
と法然上人は答えられている。
>>>

 実際に法然上人の言葉を見てみると、以下のようになっています。

>>>
法蓮房申さく、古来の先徳、皆その遺跡有り。然るに、今精舎一宇も、建立無し。御入滅の後、いずくも、もてか、御遺跡とすべきやと。

上人答え給はく、後を、一廟にしむれば、遺法普ねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。
故如何となれば、念仏の興業は、愚老一期の勧化成り。されば念仏を、修せん所は、貴賤を論ぜず、海人魚人が、とまや(わらぶきの家)までも、皆これ、予が遺跡なるべしとぞ、おおせられける。
『勅伝』巻三十七、「御遺跡の事につき法蓮房に示されける御詞」
(昭法全七二二頁)
>>>

 この法語は、法然上人亡き後、どこを遺跡と定めたらよいかと尋ねられた法蓮房信空上人に授けられたもので、お念仏を申す人のいる所は全てが遺跡であると、法然上人はお答えになっておられます。
 法然上人を御遺徳を偲ばせていただく、「思い出の場所」「遺跡」は、高森先生の教えを聞くことのできる親鸞会の正本堂ではなく、日本各地に点在する親鸞会の支部でもなく、社会問題となっているダミーサークルのある場所でもありません。 法然上人の教えのままに阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人がいる場所こそが、法然上人の「遺跡」です。

 富山に行き高森先生の教えを聞かなければ救われない教えであれば、三世十方の衆生を救うことはできません。
 法然上人の言葉を捏造した形で引用し、自分逹のドグマに権威付けをしようとする親鸞会のやり方は、できる限り法然上人の言葉を忠実に解釈しようと努力している私には許し難いものです。
 このような親鸞会のやり方に一番胸を痛めておられるのは、法然上人を誰よりも尊敬された親鸞聖人であることを肝に銘じるべきでしょう。

 本書はとても良くできた本であるとは思いますが、本書の所々に点在する親鸞会限定のドグマを排除して読まなければ、法然上人や親鸞聖人の教えから遠ざかってしまうことになると思います。


以上
スポンサーサイト

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。