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親鸞会教義の相対化・44

清森義行様


『生活要領』<浄土真宗親鸞会顕真学院>(平成14年7月改訂版)を読み終えましたので、感想を送らせていただきます。

 今回も分量があるので、何回かに分けて送らせて頂きます。

※顕真学院について

顕真学院(浄土真宗親鸞会被害家族の会)
http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/school1.html
本当に顕真学院でいいんですか?(さよなら親鸞会)
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/02/post_06ac.html



<無上仏への礼拝>
○無上仏への礼拝と人への挨拶とのけじめをきちんとつけること。
○角度を見ただけで、無上仏か、人か分かるようにしなければならない。
○無上仏(絵像、木像も同じ)→深く、長く。
○人→浅く、短く。
○心の中で、無上仏と人との区別をハッキリ立てておくこと。
○けじめが大切。

無上仏・・70度ぐらい?
  人・・30度ぐらい?
★★★★★

>>>
初めに往生の行相を明すとは、善導和尚の意に依るに往生の行多しといえども、大に分ちて二と為す。一には正行、二には雑行なり。
初めに正行とは、これに付いて開合の二義有り。初めには開して五種とし、後には合して二種とす。初めの開して五種とすとは、一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
(中略)
第三に礼拝正行とは、専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」と言えるこれなり。
『選択集』二章
>>>

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏に対する礼拝は五種正行の中の一つの「礼拝正行」であり、人に対する礼拝は「礼拝正行」ではありませんから、阿弥陀仏に対する礼拝と、人に対する礼拝を「区別」するのは当然のことです。

 しかしそれ以上に、

>>>
次に合して二種とすとは、一には正業、二には助業なり。初めに正業とは、上の五種の中の第四の称名を以て正定の業とす。(中略)
次に助業とは、第四の口称を除いて外、読誦等の四種を以て助業とす。すなわち文に、「もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて助業とす」と云えるこれなり。
『選択集』二章
>>>

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏に対する礼拝が「助業」であり、あくまでも「称名念仏」に対する「助業」として重要であるということの区別を「ハッキリ立てておく」ことが大切です。

「称名念仏」は、阿弥陀仏の本願の行であり、「正定の業」ですから何かでもって「助」する必要はありません。

 しかし、法然上人が所謂「五番相対」で以下のようにまとめておられるように、

1)親疎対・・正行の者は阿弥陀仏に親しいが雑行の者は疎い
2)近遠対・・正行の者は阿弥陀仏に近いが雑行の者は遠い
3)有間・無間対・・正行の者は阿弥陀仏を常に憶念するが雑行の者はそうでない
4)廻向・不廻向対・・正行は廻向せずとも往生業となるが雑行はそうでない
5)純雑対・・正行は純粋に極楽往生のための行であるが雑行はそうでない

 阿弥陀仏に向かって礼拝することによって、阿弥陀仏に対して親しむことができ、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す環境作りになりますから、礼拝は「助業」として「正行」の一つに位置づけられるのです。

 言い換えるならば、念仏申すことの「助業」となってはじめて阿弥陀仏に対する礼拝が「礼拝正行」となるのであり、「正定の業」である念仏抜きの「無上仏への礼拝」は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土門の教えではありえません。

 角度云々のような「人から見て」ということを言うのも結構です。
 しかしその前に、阿弥陀仏に礼拝することを縁にして、阿弥陀仏に対してどれだけ親しみ、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことの環境作りである「助業」とすること。

 むしろそのことの方が、顕真学院で未来の親鸞会講師となる方に教えるべきことなのではないかと思います。



<御文章の拝読>

 御文章は、一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめること大切。
★★★★★

 これも上記に関係すると思います。『御文章』は阿弥陀仏の本願が説かれた浄土三部経を解釈した書物ですから、それを読むことは「読誦正行」に当たると思います。

「後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめる」ことより、遥かに「大切」なことがあることは言うまでもありません。

つづく
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COMMENTS

講師になるのは、自分が阿弥陀仏に救われるためなんですか?
講師になるのは、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの人に伝えるためだと聞いた事があります。
自分が助かりたいだけなら、進むのは間違っているとも。
その点から考えれば、御文章を後ろの人にしっかり聞こえるように読むのは間違いではないと思います。

相対化を書いてる人答えて下さい。

No title

元学院生の者です。
学院で会合があり「何のために講師部になるのか」と尋ねられました。

私は「親鸞聖人の教えを伝えるためです」と答えたところ、「わが身の後生の一大事のためだ!」と厳しく注意を受けました。

?さんは、学院に入学したことが無いのでしょう。




No title

 御文章は、一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように読むのは講師なら当然。

 しかし、それだけを考えて読むというのは勤行の意義から激しく逸脱していると思うのだが…

 教義的には読誦正行によって教えを知り、正しく観察することができる。仏のことを思わずに、後ろの人のことを考えて読んでいても勤行にならない。

私は学院長から聞きましたよ。
学院希望の人の集まりの時。

No title

>私は学院長から聞きましたよ。
>学院希望の人の集まりの時。

つまり対外的な姿と、実態が違うというわけだ。
親鸞会はこういうのが多いな。

とにかく後ろのことだけを考えて、仏のことを考えずに勤行している人間に、他人を導けるのだろうか…??

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