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親鸞会教義の相対化・46

つづき


<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
 ※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。
★ ★ ★ ★ ★

>>>
問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇
猛ならず。
また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら、疎かにして明かし
暮らしそうらえば、かかる身なれば、いかにもこの三心具したりと
申すべきもなく。
されば、この度(たび)の往生をば思い絶えそうろうべ
きにや。

答えていわく、浄土を欣(ねが)えどもはげしからず、
念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきに
はあらず。
こころざしのなき者はゆるなるを嘆かず、はげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めば、おのずから発心すと申す事もあれば、漸漸(ぜんぜん)
に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する
事あり。
いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん
人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べ
きなり。
『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.p.444.
>>>

これは以前紹介したことがある法然上人の言葉です。

願生心や信心が弱いことを嘆くのは、信心を強く持たなければとい
う思いがあるからこそであって、その思いがなければ、嘆くことさ
えないのであるから、急がないときは、足の遅いことを全く気にな
らないようなものである。
だからこそ、信心が弱いと嘆いているのは、そこに信心を持とうと
いう気持ち、つまり信心の芽生えがあるからである。

法然上人はそう仰って、「念仏すれども心のゆるなる(弱
い)」自分自身を嘆いている方に、自分自身の信心の弱さを嘆
き、自分が往生できるかどうかを不安に思い、精一杯お念仏に励
み、信心決定のために精一杯努力するならば、必ず往生することは
できるので、往生を諦める必要がないと仰っています。

一方、「後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章」を禁止され、
自らの信心の弱さを嘆くを許されない人物が、阿弥陀仏の本願をた
のむことができるのでしょうか?私はそうは思えません。

私が下手な解説をするかわりに、浄土宗のお寺の生まれであり非常
に優れた仏教学者である、増谷文雄先生の『業と宿業』(講談
社現代新書)の結論部分を紹介したいと思います。

増谷先生は、

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いくら湯や茶を注ごうとしても、椀を覆(ふ)せて受け
ると注ぐべき道はない。湯や茶を充分に注ぎ入れようと欲せば、椀
を仰向けに受けねばならぬ。

たとい、いくど説法座下に列なるとも、心の椀をうつぶせたままな
らば、法水の入り充ちたまうときはない。
心の椀をうつぶせるとは、邪見・驕慢の心これである。心の椀を仰
向けるとは、わが身はわろき徒(いたず)らものとおも
いて、法の御手許を仰信するのじゃ。
>>>

という、明治時代の浄土真宗の説法者である七里恒順上人の言葉を
引用され、以下のように結論づけておられます。

>>>
 かの他力なるものは、まさに凡夫のはからいの外にある。
 それは仏智不思議、他力不思議として受けるのほかはない。
 だが、その他力がその不思議な力を発揮するためには、
 やはり、主体のがわにその姿勢がなくてはならない。
 心の椀を仰向けるのでなくては、法水を注ぎ入れることはできない。
 そして、ただ信心を要とすとは、その姿勢のなることにほかならない。

 たが、茶碗を仰向けることはいと易いことだが、
 心の椀を仰向けることはけっして容易ではない。
 そのためには、主体のがわに痛々しいほどの省察がなくてはならない。
 他人の愚かさに気づくことは容易であるが、
 自己の愚かさに気づくことは難しい。
 他人の罪ふかきことをいうはたやすくとも、
 自分こそ罪ふかい凡夫だと思い知ることは容易ではない。
 自己にはいつも甘いのが人間の弱さである。

 その弱さをおし切ってほんとうに心の椀を仰向けるためには、
 そこに峻厳な良心が物いい、仮借ない自己反省が果たされねばな
らない。
 「はづべし、はづべし、かなしむべし、かなしむべし」
 と語った法然の洪歎が、おそるべき真実さをもって迫ってくるの
はその時であり、
 「とても地獄は一定すみかぞかし」
 といい切った親鸞の言葉のおそろしさが、
 しみじみと味わえてくるのはその時である。
 すこしばかりの知識を重たげに担って、迷いさまよう自己のおろ
かさが、
 心の底から憤られてくるのもその時である。

 そして、その瞬間、かの他力は、あたかも真空を充填する空気の
ように、
 横ざまにいたってその不思議な力を行使するのである。
 親鸞がいうところの「横超」ということばは、
 そのようなきらめかしい内容を秘めているものと理解される。

 その時、その主体のうえにはどのような変化がもたらされるのか。
 それもすでに言ったように、彼のこの世における生活は、
 かならずしも、がらりと一変するわけではない。
 彼にはいぜんとして、思いのままならぬこの地上の生活が続くで
あろう。
 それにもかかわらず、彼のこの世に生きる生き方は、
 けっして以前のままではない。
 彼のこの世界をみる目はがらりと新しくなり、
 彼のこの世にいきる生活の意味もまたまったく新しいものとなる。
 けだし、これまでは地獄ゆきにきまっていた彼が、いまや一転して、
 いわゆる正定聚の位におかれ、
 やがて彼土にいたって仏の境地にいたる者となるからである。

 古きはすでに過ぎ去って、
「視よ、新しくなりたり」といいうる者となるからである。
 かくして新しく生まれ変わった彼は、
 もはや、いまわしい「業報を感ずること」もない者となる。
「宿業の切断」は、かくしてそこに実現されるのである。
>>>


つづく
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COMMENTS

限界がありますよ…

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。


聴聞のとき、私の回りはほとんど講師でしたが、皆さん、つらそうな険しい顔をしていました。そりゃー、無理な目標(ノルマ)を課せられて低賃金で将来の生活も不安定、何年たっても信心決定できない、次期会長がバカ息子となれば、つらい顔にもなるでしょう。

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